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大野修一(日本財団)
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障害者公共政策大学院(IDPP)のオンライン授業を「参観」 [2011年11月30日(Wed)]
11月30日(水)
昨晩、中国から帰ったばかりだが、引き続き、今日から米国出張。今年の7月開校したばかりの障害者公共政策大学院(IDPP)の件で、アメリカン大学のデリック教授を交えて、国立聾工科大学(NTID)のデカロ教授らと打合せをするためだ。
暖かかった南寧へは比較的軽装で済んだが、今度の行き先はニューヨーク州の北の端にあるロチェスター。寒さに備えてコートやセーターと手袋、マフラーが必要だ。
朝早く起きて、慌しく荷物を入れ替えていると、テレビが、アメリカン航空経営破綻のニュースを伝えた。えーっ。私がこれからシカゴで乗り継ぐ予定の便は、正にアメリカン航空便。果たして、破産しても飛行機の運行に影響はないのだろうか。不安な気持ちで、成田エクスプレスに乗り込む。車内で、液晶ディスプレイの案内板に、アメリカン航空便の定刻運行が掲示されているのを見付けて、少し安心する。
<アメリカン航空破綻を報じるN'EX車内の液晶ディスプレイ>

成田を11時に出発した日航機は、12時間若のフライトの後、定刻にシカゴに到着。日付変更線を越えたので、シカゴへの到着時間は、同じ日の早朝7時。外の気温は3度だが、快晴、青空が広がる。アメリカン航空のカウンターは、まるで何事もなかったように平静。
4時間の乗り継ぎで、ロチェスター行きに乗り込む。ローカル線だけあって、70人乗りの小型機。ブラジル製のエンブラエル機か。
シカゴを飛び立つと直ぐに視界の下は雪野原になった。
<シカゴ上空から見ると下界は雪模様>

1時間ほどの短いフライトでロチェスターに着いてみると、雪は積もっていなかったものの、あられがぱらついていた。空港にはNTID(国立聾工科大学)の前学長のデカロ博士が待っていてくれた。彼が運転して来たのはピックアップトラック。何と彼の趣味は、鹿狩りでそのための愛車なのだとか。彼とはもう10年もの付き合いだが、鹿狩りが趣味だとは知らなかった。
助手席に座って空港直ぐ近くのホテルへ。荷物を置いただけで、直ぐに、NTID(国立聾工科大学)へ向かう。
暫く、彼のオフィスで雑談をしていると、夕方5時少し前になって、アメリカン大学のデリック教授らが到着。IDPP担当の助手のコンスエロさんら4人のスタッフを連れて、ワシントンから8時間かけて車を運転してきたのだ。
<ロチェスター空港に着くとあられ交じりの冷たい雨が降っていた>

IDPPの聾学生の教育環境の改善策などについて話し合うための会議は明日一杯かけて開催されることになっているが、今日はこれから、デリック教授によるIDPPのオンライン授業が、NTIDの会議室を借りて行こなわれるというので、私とデカロさんは、見学させてもらうことに。
インターネット上で大半の授業を行うIDPPは、教師はどこからでも授業をすることが可能であるが、これまでは、基本的にワシントン特別区にあるアメリカン大学のキャンパスで行われてきた。それは、今年の夏に始まった第一学期の授業が、修士号を供与する同大の公共政策の授業として実施されてきたためだ。
今回は、初の試みとして、出張先のNTIDから行おうというもの。これまで、IDPPの「授業参観」をしてみたいと思いながら都合が合わず叶わなかった私にとっては絶好のチャンス。
<IDPPのためのオンライン授業をするデリック教授>

ものの30分ほどで、準備が完了し、5時半きっかりにオンライン授業が始まった。私と、NTIDのデカロ教授は、授業を行うデリック教授の邪魔にならないよう、敢えて教室とは別の部屋のコンピューターをセットしてもらい、そこから「授業参観」することに。
コンピューターの画面はいくつかに分割されており、大半を占める一番大きなスペースには、授業中の黒板に相当する教材を表示する画面。
一方、左側は幾つかの画面に分割されており、一番上の小さな窓には、質問のための挙手や、拍手するためのボタンや、賛成、反対の意思表示をするためのボタンが並ぶ。その下には、出席している学生の名前を示す画面。
そして、その下にはビデオスクリーン。今は、手話通訳の姿を映し出しているが、拡大したり、必要に応じて数を増やすことも出来る。その直ぐ下にはチャットのためのウインドウ。そして、一番下には、先生や生徒が喋る内容を同時に字幕で現すスペース。手話通訳はワシントン、字幕作成者はカリフォルニアからの参加だそうだ。
<遠隔授業のコンピューター画面>

授業が始まったのに、参加している生徒の数が足りない。アメリカン大学の学生らしき名前が7,8人並んでいるが、肝心のIDPPの生徒は二人だけ。フィリピンとベトナムからの参加だ。IDPPの一期生は10人いるというのに、どうしたことだろうと、気を揉んでいると、数分遅れて、一人二人と遅刻して参加。最終的にはIDPPの学生の出席は6人になった。
授業が終わってから、デリック教授に今日の出席率が低い理由について質問してみた。すると、いつもは、もっと多いが、今回はリサーチの課題と進め方といった話が中心の授業であったので、必ずしも同時参加の必要がないと判断したのではないか、とのこと。
IDPPの授業は総て、記録され、時間の都合が合わず、同時参加できない場合、後日、録画内容をダウンロードすることも出来るので、働いている学生には重宝されている。


11時00分 成田発
07時45分 シカゴ着
11時40分 シカゴ発
14時20分 ロチェスター着
15時半 NTID訪問
17時 デリック教授一向到着
17時半 IDPP授業を見学
19時 夕食会
日本へ「一時帰国」 [2011年11月29日(Tue)]
11月29日(火)
キャッサバ会議第2日目の今日は、現場視察の日。元々は、私自身も、マスコミ関係者を案内して現場に行こうと考えていたのだが、急遽、IDPP(障害者公共政策大学院)事業の件で、米国のロチェスターに行くことになった。関係者の全員の都合がつくタイミングが12月1日しかない、ということから逆算すると、今日中に、南寧を発たなくてはならない。
そこで、私一人、朝8時にホテルを出て、田副所長が手配してくれた車で、空港へ向かうことになった。

                <良く整備された空港への高速道路>

空港までの途中、高速道路の分離帯に巨大な小鼓型のオブジェを発見。車に同乗してくれた、研究所の女性職員に尋ねると、少数民族である壮(チュアン)族の伝統楽器である由。
壮族は元々はタイ系の少数民族。南寧市の人口は650万人だが、市内の人口の6割弱を壮族が占める。広西壮族自治区の他にも周辺の省に居住地があり、総勢1800万人と中国最大の少数民族といわれる。(自治区と呼ばれているが中国では少数民族地域を民族自治と言う建前からこのように呼んでいるだけで、実質は省と同じである)
しかし、彼女によると、壮族は、今では漢族との間で融合がかなり進んでしまって漢族と区別が付かないのだそうだ。本来は独自の言語を持ち、その言語は漢語とは異なり、むしろ今のタイ語に近いもののようだ喋れる人は少なくなっているのだそうだ。
彼女自身は、広東省出身の漢族だそうだが、顔つきは浅黒く、小柄で明らかに漢族とは違う。そもそも、広東語は、中国語とタイ語などの南方系の言葉が交じり合って生まれたもの、という学説もあることを思い出した。今日の中華民族の根幹を占める漢族というのも、元々は華中に住んでいた比較的少数の民族に過ぎず、今のように広大な地域を占める漢民族になったのは、周辺にいた少数民族を吸収した結果に過ぎない、という趣旨の説だった。

                <深圳航空という見慣れない機体だったが>


旅行代理店が手配してくれた北京行きの飛行機は、深圳航空という聞きなれない航空会社のものだった。果たして、ちゃんとした飛行機会社なのか、乗客が少ないと、簡単にキャンセルしてしまう今はやりのバジェットエアラインではないのかと、心配したが、杞憂であった。
スチュワーデスは英語こそ余りうまくはなかったが、その分、初々しいサービスで微笑ましい。おまけに美人ぞろいで言うことなし。しかし、浮かれた気分で北京に着いてみると、外の気温は零度。慌てて、セーターを着込む。明日は、ロチェスターだ。ニューヨーク州の北の端、オンタリオ湖岸の町。今頃は、さぞかし気温が下がっていることだろう。気を引き締めて行かねば。


08時 ホテル出発
09時50分 南寧発
12時45分 北京着
16時40分 北京発
21時00分 羽田着

第9回アジア地域キャッサバ会議 [2011年11月28日(Mon)]
11月28日(月)
朝7時過ぎ、朝食の前に、飛行機の延着で昨晩打合せが出来なかったCIAT出向中の日本財団職員、間遠さんと、日本財団の担当者の田中さんの3人で打合せ。
朝食の後は、ホテルと同じ敷地内の別棟にある会議室で、広西壮族自治区政府の陳章良副主席ら自治区政府幹部と懇談。
陳副主席は中国の政府要人としては珍しく、英語を流暢に話す。それもその筈で、米国のワシントン大学で学び、農業博士号を取得している。専門は遺伝子組み換え。キャッサバの遺伝子操作もやったことがあるという。副主席になる前は北京の農業大学の学長だったという農業のプロだった。
彼は懇談会の後の開会式でも、広西壮族自治区におけるキャッサバの重要性を力説、今回の会議に対する自治区政府としての期待を熱く語った。開会式の会場には、英語の通訳が待機していたのだが、彼は冒頭から通訳による翻訳を制止し、自ら中国語と英語の二ヶ国語で熱弁をふるった。
それによると、広西省内の現在のキャッサバ生産能力は需要の半分に過ぎないが、キャッサバに対する需要は今後更に増大が見込まれているという。特に、バイオエタノールについては、現在の生産量は20万トンに過ぎないが、100万トンに増産する計画である。中国政府の人材の層の厚さを感じさせられた瞬間だった。

             <開会式で挨拶する自治区政府の陳副主席>


開会式に引き続き、第9回アジア地域キャッサバ会議が始まった。参加者は全部で160人ほど。前回のラオスでの会議はそれまでで最高の120人だったが、今回はそれから更に大幅に増えたことになる。政府関係者や、大学関係などの研究者に交じって、日本やシンガポール、ミャンマー、インドネシアなど民間企業からの参加者もいた。キャッサバの経済的価値が、広く認識されるようになってきたことが伺われる。
各国からの報告にも、キャッサバの経済的側面が大きくクローズアップされるものが多かった。例えば、東南アジアで最も急成長したベトナムの場合、過去10年間で同国のキャッサバの作付面積、面積あたりの生産性は、倍増し、生産高は4倍以上になったが、現在、バイオ燃料に加工する大型プラントが3基、建設中で、これらが完成すると、現在の生産量の3分の一、輸出量の2分の一をこれらの工場だけで消費してしまうことになる、という驚くべきもの。

                <キャッサバ会議が始まった>

私は、これらの報告を聞きながら、ひとり、感慨に耽っていた。今回の会議の冒頭の挨拶でも触れたのだが、日本財団がそれまで10年間にわたり、CIATとタイと中国、インドネシアで行ってきたキャッサバ事業を、ラオスとカンボジアにまで拡大することを決めたのは、2003年だった。その頃、キャッサバは中国やベトナムではブームになりつつあったのだが、そのことはラオスでは余り知られておらず事業の開始に先立ち、ラオス農業省に副大臣を表敬した際、副大臣はキャッサバの事業には気乗り薄で、どうせなら、キャッシュクロップ(換金作物)をやってもらえないかと言われた。
私は、彼に対し、日本財団の事業は政府の行うODA(公的開発援助)とは異なり、ラオス経済の底上げを狙ってのものではなく、貧困県で飢えに苦しんでいる零細農民の生活環境改善が目標であること、その点では、キャッサバは極めて効果的な作物であると確信していること、などを説明した。
その5年後、ラオスで開かれたキャッサバ会議で再会した事務次官は、開会式の挨拶の中で、「キャッサバは政府の農業の4大基本目標、即ち、食糧自給の推進、商業生産の拡大、焼畑農業からの離脱、森林保護に則した作物であり、ラオスにおいては、キャッサバは作付面積で第5位、収穫量で第4位という重要な作物である」と述べた。その頃には、漸く、ラオスでも、中国やベトナム、タイなどからのバイヤーがキャッサバを求めて出没するようになり、原油価格の高騰やそれに続く穀物価格の急騰により、キャッサバが極めて収益性の高い作物であると認識されるに至っていたのである。
その後、エネルギー価格が急落し一時、キャッサバ熱は沈静化したかに見えたが、今回の会議の盛況振りから見ても、再び、注目が集まっていることは間違いない。
しかし、私は、複雑な心境だった。キャッサバが国際企業や投機家の熱い視線を集めるまでに成長し、その価格がエネルギー価格などと連動して、大きく乱高下するようになってくると、我々の支援をこのまま続けることが果たして正しいことなのだろうか、、、。

                <会議には160人が参加>


*日本財団がキャッサバ事業を始めた経緯について、私は2005年10月20日付けのこのブログで以下のように書いた。
「日本財団とCIATのキャッサバでのお付き合いは12年前に遡ります。当時、CIATはタイで、キャッサバの新種の導入と栽培技術の指導で大きな成果を挙げていました。それをベースに、インドネシア、ベトナム、中国南部(雲南省、海南島省)への拡張を計画し、日本財団に資金助成を要請したのです。
キャッサバはCIATの本部がある南米原産の植物で、後にアフリカやインドに広がり、今ではこの二つの地域では食料作物として主要な地位を占めるに至っています。しかし、米の生産が盛んな東南アジアではこれまで、余り重視されていませんでした。その一つの理由は、主に食用として活用されるキャッサバの根に、青酸性の毒素が含まれており、正しい処理をしないと生命の危険さえあるためではなかったでしょうか。
ところが、キャッサバは乾燥に強く、痩せた土地でも育つ上、その根は極めて良質な澱粉の原料となります。澱粉の原料はポテトやとうもろこしなど種類が多く、世界には極めて多様な製造プロセスがあります。しかし、キャッサバは他の原料と比べて、低コストで生産出来るのです。現在、世界最大のキャッサバの輸出国はタイで、タイで栽培されているキャッサバの品種はほぼ100%、CIATが品種改良に協力したものだそうです。
澱粉は、糊として、繊維産業や製紙業に使われるだけでなく、澱粉を加工すると、アルコール、グルタミンソーダからビタミンCまで多種多様のものに生まれ変わります。最近では、原油価格の高騰に伴い、ガソリンに混ぜてバイオガソリンとして使われるようにもなっています。そのため、キャッサバ澱粉の市況は高騰し、今年の価格は昨年の約2倍になっているそうです。
12年前に日本財団の助成を受けて、CIATがベトナムでのキャッサバ指導に乗り出したとき、ベトナム政府は余り興味を示さなかったそうです。政府の関心は何よりも、米(コメ)に向けられていたのです。しかし、今では、ベトナム政府はキャッサバを三大主要作物として位置づけて、キャッサバの増産に力を入れています。
ベトナムの場合、キャッサバの生産量のうち、澱粉に加工されるのは約半分で残りの半分は豚などの家畜の飼料に向けられています。キャッサバの葉っぱはキャッサバの根以上に毒性が強く、これまで殆ど利用されることが無かったのですが、天日で干したり、サイロで発酵させると、比較的簡単に毒素を取り除けることがわかってきました。実は、キャッサバの葉っぱには、極めて高度な蛋白質が含まれています。家畜用の牧草の蛋白質含有割合は良くて15%程度とされるのに対し、キャッサバの葉っぱの場合は25%。これを上回るのは大豆の40%くらいだそうです。ところが、大豆は栽培に当たって大量の肥料を必要とするなどのため、生産コストが極めて高くなります。キャッサバの根にキャッサバの葉っぱを混ぜると理想的な飼料が低コストで出来上がる、という訳です。
日本財団のキャッサバ栽培支援プロジェクトの主たるターゲットは、僻地の貧困農民です。ベトナムや中国南部などと同様に、ラオスやカンボジアでも、東南アジアの山間僻地では、どこも農民は貧しく、肥料を買うことが出来ません。そこで、肥料分を得るためには、焼畑農法に頼らざるをえません。しかし、キャッサバを活用して飼料を作り、家畜を飼い、その糞を使って堆肥を作ることで、多くの場合、10年もすると、焼畑に頼らなくて済むようになるそうです。
我々は、ベトナムなどでの成功により、10年目でこのプロジェクトを打ち切ることにしました。各国の政府が乗り出してきたからです。そこで、今度は、隣接のこの地域で行うこととし、昨年からラオス、今年の初めからカンボジアで、貧困農民を対象に、新たにキャッサバ栽培指導のプロジェクトを始めたと言うわけです。今は、カンボジアでは、第一段階として、その土に適した品種の選別を調べているところです。その意味で、この大農家の協力は大きな力になることでしょう。」
(2009年02月のブログでは、キャッサバの生産により変貌するベトナムの農村の様子をレポートしている)
                <会場となった西園ホテル 広大な敷地に建物が点在>

7時 CIAT間遠さん
8時 朝食
8時半 省政府副主席表敬
9時 アジア地域キャッサバ会議開会式
10時 第9回アジア地域キャッサバ会議
12時半 昼食
14時 ハウラー博士
15時半 CIAT間遠さん
18時 CIATハーシー博士、トーベ博士
18時半 夕食会
広西壮族自治区の南寧へ [2011年11月27日(Sun)]
11月27日(日)
北京から帰ったばかりだが、再び、中国へ。今回の出張の目的はキャッサバ。アジア地域を中心に各国の専門家を集めてキャッサバに関する課題を話し合う国際会議を3年前のラオスに引き続き日本財団の財政支援により開くことになり、ドナーを代表してのスピーチを求められたもの。
日本財団が20年近くに亘り東南アジアで行って来た唯一の農業事業がキャッサバに関わるもので、改良品種の作付け指導を農民の意思を尊重する独自のアプローチによって行っている。
開始当時、キャッサバは、アジアでは主食である米の不作に備える補完的な作物に過ぎず、換金性もないことから軽視されていた。こうしたなかで、日本財団は、キャッサバが、山間僻地などの貧しい農民の現金収入源になる可能性に着目し、国際熱帯農業センター(CIAT)と組んで、地道な取り組みを続けて来た。
今ではキャッサバは、バイオ燃料の原料としての役割なども加わり、極めて重要な作物として各国政府からも大いに注目を集めるに至っている。

                  <南寧は人口650万人の大都会>

今回の会議の場所は中国南部の南寧。広西壮族自治区の首都である。南寧や広西といっても一般には馴染みの無い地名だが、奇観で有名な桂林は広西にあり、南寧からは400キロ。広西壮族自治区はベトナムと国境を接し、ベトナムとの国境の町として有名な友誼関までは南寧から180キロ。
亜熱帯に属する広西壮族自治区は気候が温暖で、中国のキャッサバ生産の中心地である。省都の南寧では、一年中で一番寒い1月でも、平均の最低気温は10度という。熱帯性の植物であるキャッサバの生産地は中国では、広西壮族自治区の他は、広東省、海南省、など最南端の地域に限られる。中でも広西は、中国全土のキャッサバ生産量の6割を占める最大の生産地だ。
北京から南寧までは、国内線の飛行機で3時間。東京から、北京までの所要時間と左程違わない。南寧の飛行場に着いた。外の気温は25度。生暖かい。

                     <ホテルの玄関に咲く熱帯の花ブーゲンビリア>

ホテルに着くと、木薯研究所の田(ティエン)博士が懐かしそうに迎えてくれた。彼と会うのは、3年前にラオスで行われた前回のキャッサバ会議以来だが、それまでも、何度かキャッサバ関連の行事で顔を合わせている仲だ。
彼が副所長を務める広西壮族自治区(省)政府所属の木薯研究所はもともとは、今回の会議の主催者である亜熱帯作物研究所の下部機関であったが最近、独立の研究機関になった。親組織である亜熱帯作物研究所は設立1952年と古く、スタッフの数も300人と言う大きな組織だが、数年前にそのキャッサバ部門を広西壮族自治区木薯研究所として独立させて、中国唯一のキャッサバの専門研究機関としたのだ。木薯(ムーシュ)とは中国語でキャッサバのこと。

           <広西壮族自治区木薯研究所(キャッサバ研究所作成のパンフレットより)>

木薯研究所がくれたパンフレットには自治区政府の副主席で明日の開会式の主賓である陳章良博士が、試験栽培の現場を視察する様子を写した写真が大きく掲載されていた。自治区政府がキャッサバ生産に注力している様子が伺われる。
            <キャッサバ栽培の現場を視察する自治区副主席(同上)>

             
09時40分 羽田発
12時50分 北京着
15時00分 北京発
18時40分 南寧着
北京で奨学金事業のOB、OGに会う [2011年11月14日(Mon)]
11月14日(月)
                  <今日も青空が拡がる 文字通り「北京の秋天」だ>

今回の出張は一泊だけの駆け足の出張で、今日はもう帰国するのだが、お昼の時間を利用して、笹川日中友好基金の于展さんの手配により、北京大学周辺の大学で教鞭をとっている人たちとの懇親会が設営されていた。日本財団が北京大学国際関係学院を通じて支援している奨学金プログラムのOB/OGたちである。
今年で16年目を迎えるこの事業で日本財団の奨学金を得て、早稲田や東大などの日本の大学に留学した人たちは、累計で既に160人を超えている。卒業生の進路は大学教授になった人や、研究者、政府の役人、マスコミ関係者、から民間企業まで様々だが、北京大学の于鉄軍さんのように大学の教員や研究者になった人が一番多い。幸い、彼らは平日の昼間でも授業のない限り、比較的自由に時間が使えるので、こうした集まりには比較的、好都合だという。今回は6人が都合を付けて集まってくれた。
各大学で活躍しているOB/OG達と、久しぶりに顔を合わせ、近況を聞く機会は貴重であり、私は都合が付く限り、持つようにしている。今日は、たまたま、郷里、四川省の重慶大学で活躍するOGであるPさんの誕生日だというので、皆で電話を掛けお祝いを言うことも出来た。彼らは卒業後も、日本財団奨学生独自の同窓会を組織し、毎年、新年会を行うなど交友を保ってくれているというのも嬉しい限りだ。
懇親会を終えて、午後4時北京発のフライトで于展さんと一緒に帰国。


                  <北京大学国際関係学院奨学生OB/OGとの懇親会>

7時半 国際交流基金北京事務所杉田所長
10時半 ホテル出発
12時 北京大学国際関係学院奨学生OB/OGとの懇親会
13時半 出発
15時55分 北京発
20時15分 羽田着
久しぶりに北京へ [2011年11月13日(Sun)]
11月13日(日)

久しぶりの北京出張。昨年までは年に2,3回のペースで北京に行っていたのだが、今年に入って足が遠のいていた。今回の出張の目的は、日本財団が16年前から継続してきた北京大学の国際関係学院に対する支援事業に関する打ち合わせ。多忙な王学院長の都合と私のスケジュールを摺り合せたところ、今日の午後となった。そんな訳で日曜日なのだが、これから北京大学で会議の予定。
羽田発の飛行機で、北京へ飛ぶ。途中、富士山がきれいに見えた。


                   <富士山を眼下に見ながら飛ぶ>

北京空港に着いてみると、普段は、出迎えなどなく自分で勝手に目的の場所に向かうのが普通なのだが、今回は、一足先に北京入りしていた笹川日中友好基金室長の于展(ユジャン)さんと一緒に、北京大学の于鉄軍准教授もわざわざ迎えに来てくれていた。一旦、ホテルにチェックインして簡単に着替えて、再び、3人で北京大学の車に乗り込む。北京は、今年は冬の訪れが遅れているのだそうで、道路並木にはまだ葉っぱが一杯付いていた。黄金色の並木が美しい。日曜の所為か、道路は空いている。車は予定時間より大幅に早く、北京大学の広大なキャンパス内の国際関係学院ビルに到着。

                 <大通りの並木は今が紅葉のピーク>

時間つぶしに于鉄軍教授の部屋で雑談。于鉄軍さんは、防衛問題を中心に日米関係を専門とする気鋭の研究者。彼自身がこの事業による奨学金授与の第一期生であり、今は、北京大学側の窓口的な役割も果たしてくれている。私とは既に10年近い付き合いだ。
部屋の中は暖房もなく寒いので、皆、コートを着たままで雑談。日曜日の所為かと思ったら、北京市の地域暖房の開始時期は、平年は11月15日からなのだとか。


              <于鉄軍教授の部屋は日米両語の本で埋まっていた>

学院の応接に場所を移し、4時からは、王院長、範副院長を交えて会議。国際関係学院に対する支援事業の将来の方向性、取扱の基本方針などに関して突っ込んだ話し合いをすることが出来た。
午後6時からは、近くのレストランに行き夕食会。以前から王院長にご紹介しようと考えていた朝日新聞の前編集長で今年から精華大学の客員教授を務めている西村さんにも来ていただいて、非常に有意義な意見交換の場となった。


09時25分 羽田発
12時35分 北京着
15時 ホテル出発
16時 北京大学国際関係学院での会議
18時 夕食会
帰国 私の旅の工夫(13) [2011年11月09日(Wed)]
11月9日(水曜日)
時差のあるところへの出張に際し、いつも、私が実行していることは、飛行機に乗り組むと同時に、時計を到着地の時間に合わせ、同時に、自分の生活時間もその時点で、到着地のサイクルにあわせてしまうこと。
今回も、パリを8日の夕方飛び立つと同時に、現地時間の6時を示していた時計を、8時間進め、日本時間である深夜の2時にして、睡眠薬を飲んで、寝てしまった。そして、目を覚ましたのは、8時間後。日本時間の朝10時。そこからは、成田への到着まで、本を読んだり、映画を見たりして極力眠らないで過ごした。そして、その4時間後に無事、成田に到着。 

ところで、今回、「私の旅の工夫(13)」としてご披露するのは、スーツケースの中の荷物が行きと帰りで大きく増減するような場合に、便利な、ダンボール箱の利用法について。今回も行きは、アフリカで働く日本人スタッフ等に嵩の張る日本食品をもって行ったのだが、帰りはそれが無くなったので、スーツケースにかなりの隙間が生じ、そのままでは、スーツケースの中のものががさごそと動いてしまう。それを避ける一つの工夫が、折り畳める段ボール箱の活用だ。私は、普段この大小2種類を、平たく畳んでスーツケースに入れている。
更に、俗に「プチプチ」と言われる包装資材シートも、真空式の圧縮袋(100円ショップで売っている)で圧縮して小さくして常時携帯しており、必要に応じて取り出し、スーツケースに出来た隙間に詰め込んだりして使っている。
逆に、出張中に瀬戸物のような割れ物を貰ったり、買ったりした時には、この「プチプチ」で包んで段ボール箱に入れると万全だ。
    <これは私が持ち歩いているバンボール箱の小型の方 畳むとこのようにペッタンコだが、、、>


       <糊もテープも使わずにあっという間にこのように組み立てることが出来る>


     <スーツケースに入れるとこのように隙間が埋まるのでがさごそする心配が無い 中身は空>



14時05分 成田着
マリという国からもらったもの [2011年11月08日(Tue)]
11月8日(火曜日)
朝10時、ホテルを出てジュネーブ空港へ。12時00分発のパリ行き飛行機に乗り込む。成田行きの飛行機の出発まで、5時間ほどの時間を使って、空港の待合室で今回の出張分のブログ書き。パリでの滞在中に書き出したものに書き加える。
今回のマリでの式典に際して、日本財団の担当者が準備した資料の中に、今年の8月9日付けの産経ニュースの次のような記事が入っていたことを思い出した。
「アフリカ西部マリでは政府が3千万CFAフラン(約600万円)を寄付したが、4月、南部の村民が日本の支援でつくられた橋の引き渡し式の際、突然、10万CFAフランを手渡し、出席した日本の川田正博大使を驚かせた。質素な生活を送る村民には大金だ。
村民は村にいくつかしかないテレビを共同でみて、日本の被害を知った。「自国の復旧を差し置いて日本は支援の約束を果たした」。村民の目にはそう映った。橋は被災地の復興も祈って”KIBOH BASHI(希望橋)”と名付けられた」
これは、今回の東日本大震災に際し、世界中の特に貧しい国々から寄せられた支援に纏わる心温まるエピソードを集めた記事の一部分である。


        <25周年記念式典が行われたマディナ村の広場のいこいの大木>

今回の式典でも、我々の農業支援に対するマリの人々からの素朴な感謝の挨拶の中に、「はるばる遠い日本から我々のためにやってきてくれた日本の友人に感謝します」と言う言葉が何度も使われていたことを思い出す。
我々は、決して感謝してもらいたいために支援をしてきたわけではない。ましてや、マリのような貧しい国の人々から逆に支援を受ける立場になることなど、これまで想像すらしていなかったわけだが、こうして震災という大きな災厄に見舞われてみて初めて、我々がこれまでしてきたことに対し、世界中で日本人に対する感謝の心を密かに持ち続ける人たちがいてくれたことに気付かされたのだ。


        <25周年記念式典の進行を興味津々で見つめるマディナ村の子供たち>

今回のマリへの旅で私の目を楽しませてくれたのは、美しい声で朝の到来を知らせてくれた様々な野鳥たちの姿だった。特に、ホテルの部屋の窓の直ぐそばにまで、いつも色んな鳥が来てくれた。その総てに対し、タイミングよくシャッターが切れたわけではないので一部に過ぎないが、以下にそのうちの3枚をまとめて示すことにしよう。

                 <マリの野鳥(1) 外の木の枝に止まって鳴いていた小鳥>

<マリの野鳥(2) 窓の直ぐそばまで来ていた鳥 頭部は鳩に似るが色鮮やか 尾羽の模様が異なる>

                 <マリの野鳥(3) 白鷺に似た鳥もいた>


10時 ホテル出発
12時00分 ジュネーブ発
13時10分 パリ着
18時05分 パリ発
WHO本部で伝統医療事業の打合せ [2011年11月07日(Mon)]
11月7日(月曜日)
朝8時半、ホテルをチェックアウトして、パリ・リヨン駅へ。9時09分発のTGVに乗るためだ。リヨン駅はいくつかあるパリの主要ターミナルの一つ、スイスや南仏方面への列車の出発駅だ。日本の駅との違いは、総ての長距離列車はここが起点になっていること。そのため、プラットフォームには何本もの番線があり、列車は出発の数十分前から待機している。それなのに、乗客に発車番線が知らされるのは出発の20分前になってから。それより早く着いた乗客は、列車の案内板の前に屯し、自分が乗る予定の列車の発車番線欄に数字やアルファベットが点灯するまで忍耐強く待つほかない。

                  <パリ・リヨン駅の案内板で出発番線をチェック>

私が乗るTGVは定刻を数分遅れて発車。その後、3時間ほどノンストップで走り、スイス国境との近く山中の小さな駅で停まっただけで、スイスへ。国境検問は全くなし。
少しづつ、遅れが大きくなって行って、ジュネーブ中央駅には定刻の12時14分を15分以上遅れての到着。一応、車内放送で「遅れての到着」とはアナウンスするが、日本のようなお詫びの言葉はなく、放送する車掌の声に恐縮した様子は全くなし。
ジュネーブ中央駅は、パリの駅とは比べ物にならないほどこじんまりとした駅。さすがにずっと清潔感のある使いやすい駅だ。私は、駅のタクシー乗り場で車を拾い、WHO本部の近くにあるホテルへ急行。

                  <TGVに乗ってジュネーブへ>

午後2時には、WHOの伝統医療課を訪問する約束になっている。ホテルにチェックインして、すぐに着替えてコンシエルジュに道順を尋ねると、徒歩でも行けるルートがあるという。そこで、もらった地図を片手に飛び出した。バス通りを横切って、教えられたとおりに脇道に分け入ると、そこは、黄色く色づいた葉の美しい木々が鬱蒼と並ぶ小道だった。美しい野鳥が飛び交い、森の中を歩いているようだ。金色の落ち葉を踏んで10分も歩くと、WHOの前のバス通りに出た。
                  <森を歩くようなWHO本部への近道>

WHO本部に着くと約束の時間を5分ほど過ぎていた。丸山さんに玄関のセキュリティーポイントまで迎えに来てもらい、一緒に、伝統医療課長の張さんの部屋へ。彼とは、課長に就任する前に数回会っているが、課長になってからは初めて。
お互いに、最近の伝統医療事業と取り組み状況の報告と、今後の方針、予定案件の準備状況などに就いて意見交換。特に、来年の9月にモンゴルで予定しているWHOと日本財団共催の伝統医療の応用に関する国際会議と、第4回目となるASEAN伝統医療会議の内容や、招待客などについて細かく打ち合わせ。そうこうしていると、あっというまに3時間もの時間が過ぎようとしていた。

                  <WHO本部ビル前の並木 紅葉が美しい>

帰りは、バスと徒歩でホテルに戻り、着替えて少し休んだ後、7時からは丸山さんと一緒にホテルの裏手のショッピングモールの中にある中華料理店で夕食。このモール内のメガネ屋さんのショーウインドーでもキティちゃんを発見。
                  <ここもキティちゃんだらけ ジュネーブのモールで>

8時 ホテル出発
9時09分 パリ・リヨン駅発
12時14分 ジュネーブ中央駅着
14時 WHO伝統医療課訪問
19時 夕食
パリで見つけた日本 [2011年11月06日(Sun)]
11月6日(日曜日)
日曜日のパリ。今日も、SAA関係者と一緒に、市内のレストランで昼食。相手は、残務処理のため一日遅れでマリを発ち、パリに立ち寄った宮本常務理事と担当の横山さんのお二人。
他には、仕事もないので残った時間は優雅にパリの町をタウンウオッチング。観光シーズンは少し外れているのではないかと思うのだが、市内中心部には観光客が群れていた。日本や米国と違い、ヨーロッパ、なかでもフランスは、日曜日は殆どの商店がお休み。デパートも、ブティックも、スーパーさえも。開いているのはレストランと美術館ばかり。
タウンウオッチングの途中で、パリの中に「日本」に関するものがとても増えていることに気が付いたので写真を撮ってみた。と言っても、30年前にパリに住んでいたことのある私の目で印象に残ったものに過ぎないが、、、。

先ず、日本発のキャラクターの「キティちゃん」。東南アジアでは大変な人気で、ミッキーマウスのように海賊版が堂々と売られているのだが、ここパリでもこんなに人気とは知らなかった。小さな子供のTシャツの図柄にも。

                  <ブティックのウインドーで見つけたキティちゃん>

パリ中心部の地下鉄のいくつかの駅ではユニクロの大きな看板。ここでは、寒い時に体を温める効果のある特殊繊維を使った「ヒートテック」の宣伝。誇らしげにJapan Technologyとなぜか英語の文字が踊る。こんな表現を見るのは久しぶり。ちょっとこそばゆい思い。
                  <地下鉄の駅には大きなユニクロのポスター>

フランスでも寿司が流行っていた。これはスーパーのテイクアウト売場で見つけたすしのパック。
                  <スーパーの売場で見つけた寿司パック>

寿司は、特別のエスニックフードではなく、フランス人が普通に食べる料理になりつつあるようだ。フランス料理店そのままの門構えの寿司レストランを見つけた。
                  <フランス料理店のような門構えの寿司レストラン>

これはおまけ。とても可愛い子だったので、思わず写真をぱちり。
                  <昼食時のレストランで出会った子供>


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