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大野修一(日本財団)
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久し振りのパリにショック [2011年10月31日(Mon)]
10月31日(月曜日)
朝になったと思い目を覚ますが、現地では深夜の2時半。そのまま、余り寝付けぬままに、うとうとしただけで朝を迎える。レストランが開くのを待って飛び込んだところ、早速、フランス式の「冷たい応対」の洗礼を受ける。
そう言えば、昔、学生時代初めてパリに来たときも、同じ経験を味わい、人種差別意識に基づくものかと思ったことを思い出す。フランス語が出来ないことが冷たい仕打ちの原因かと思い、一生懸命、フランス語の学習に励んだのだが、多少、フランス語が出来るようになった後も、彼らの冷たい応対振りには大した変化は見られなかった。当時、留学や観光に来ていた外国人の間で囁かれていたジョークは、「パリは素晴らしいところだが、そのパリを、もっと、ずっと素晴らしくする方法が一つある。フランス人がいなくなることだ」、というものだった。
その後、時代は変わり、フランスでも英語がかなり通じるようになったとは感じるが、外国人に対する、つっけんどんな応対には余り変化はない様だ。尤も、彼らが殊更に意地悪な訳ではなく、単に、外国人が珍しくないだけなのだろうとは思うのだが。いずれにせよ、いつも、微笑みが返って来るアジアの国が懐かしい。

                 <素晴らしいデザインの駅構内だが、、、>

朝食を取った後、夕方4時過ぎのマリ行きの飛行機まで、かなりの時間がある。空港内を探検しているうちに、ホテルの直ぐ前からエスカレーターで繋がるフランス国鉄のとてもモダンでお洒落な駅に迷い込む。そうだ、この電車でパリの市内まで往復してみよう、と思いつく。
しかし、鉄道切符を買うのに一苦労。自動販売機はコインかカードのみ。しかも、そのうちの一台は故障中。結局、10分以上行列に並んで対面式の売り場で切符を買うはめに。おまけに、4台しかない改札自動ゲートも、その内の2台が壊れていた。
電車の中に入ってもっと驚いた。座席も壁も落書きがしてある。強化プラスティックの窓さえも引っかき傷だらけ。車窓から見える景色も、壁と言う壁、いや屋根さえも、平たいものは、およそ可能な限り何でもペンキで落書きがしてある。

                  <車内は座席も壁も落書きだらけ>

パリ市内の中心、レアル駅に着いて、駅周辺を歩いてみたが、駅構内も薄汚く汚れ、ごみが目立つ。アル中か、浮浪者の仕業だろう、あちこちが小便臭い。おまけに、プラットフォームで電車を待っていると、ベビーバギーを押していた若い女性からお金をせびられた。
そう言えば、数年前に休暇で行ったイタリアなど他の国でも多かれ少なかれ、似た様な経験をした覚えがある。フランスだけのことではなく、欧州、いや先進国に共通の現象だろうか。
しかし、幸いなことに、日本はそこまで荒んでいない。いや、日本だけではなく、アジアの国々では、北京、シンガポール、バンコクどこも、地下鉄だけでなく、公共物は清潔だ。帰り道の電車の中で、秋色深まる美しい木々に囲まれた郊外の景色を見ながら考えた。美しいデザインの電車、明るくモダンな駅舎にも拘わらず、それらを総て台無しにするすさんだ醜い所業、このコントラストは一体何に由来するものなのだろうか。

                      <窓の外も落書きだらけ>

昼過ぎに空港に戻り、ホテルをチェックアウト。搭乗手続きをしようとして、エールフランスが乗務員ストの最中であったことを知った。えっ。これから乗ろうとしているマリ行きの飛行機はエールフランス便なのだ。ぎょっとして、出発便の案内板を見ると幸い私が乗るバマコ行きは予定通りの出発だった。
機内に座って開いたFinacial Timesの紙面は、ギリシアに始まった経済危機に関連する記事で埋まっていた。この危機が、今後、イタリアや、スペインのみならず、フランスなど各地に飛び火することを極めて強い調子で警告する危機感に溢れた記事ばかり。
もしも、その不安が正しいとすると、今回、パリ市内への電車での短い往復で垣間見た荒れすさんだ都市の姿は、今後、もっと一層深刻化しヨーロッパ全域に広がって行くのだろうか。
しかし、5時間ほどのフライトでマリの首都バマコに着くころには、暗い気分は薄くなっていた。外は既に暗くなっていたが、昼間の熱気が残る外気と、原色をふんだんに取り込んだ衣装に身を包んだ人々に、アフリカ土の持つ生きるエネルギーを感じた。
バマコのホテルに入るとベッドの上に蚊帳が吊ってある。普通は予め殺虫剤が撒いてあるのだが、そうではないらしい。シャワーを浴びようとして洗面所に蚊が飛んでいるのに気付く。先進国の快適さはここには無いが、その分、不健全な荒みもここには不在なのだった。

                  <ベッドの上に蚊帳が吊ってあった>

16時10分 パリ発
20時55分 バマコ着
アフリカ行きの前にパリで一泊 [2011年10月30日(Sun)]
10月30日(日曜日)
                        <パリ空港近郊の秋景色>

慌しかった10月も、これが最後の出張。目的地はアフリカのマリ。それに、帰途のジュネーブでの仕事も加わったので、11日間の長い出張となった。幸い、比較的ゆったりした日程。おまけに行程の関係で、行きと帰りにパリで3泊を過ごすことになった。本当に久し振りに、秋のパリを少し味わうことが出来そうだ。
ただ、荷造りは大変だ。アフリカ用の夏服に加えて、フランス、スイス用に冬服もあった方が良さそう。また、アフリカで活躍するスタッフへのお土産のためのスペースも必要だ。そこで、今回は久し振りに最大サイズのスーツケースを持参することにした。但し、パリからバマコへの往復の際は、大きいスーツケースはパリのホテルに預けてしまい、マリへは持ち歩かないつもり。アフリカへは、機内持ち込みだけにする方がずっと安心だ。

             <機内で読みふけった本「飢える大陸 アフリカ」>

パリまでは、12時間のフライト。機内ではつい最近出たばかりのアフリカの農業に関する本、「飢える大陸 アフリカ」を読んだ。著者は米国の有力経済紙「Wall Street Journal」の二人の記者。アフリカの飢餓問題の根底に先進諸国の農業保護政策が横たわっていることを、緻密なデータ分析と、丹念なインタビューによって、鋭く抉り出した告発の書だ。
この本の中に、国際機関のアフリカに対する農業支援策がその時々の超大国の政策の変化に振り回されて動く中で、地味ながらこつこつと着実に続けられた、民間による農業支援事業として、繰り返し出て来る「笹川アフリカ協会によるSG2000」こそが、日本財団が過去25年に亘ってアフリカで実施してきた農業支援事業のことだ。マリで行われる、その25周年記念式典への参加が、今回の私の出張の主たる目的。

               <パリ・シャルルドゴール国際空港に着いた>

11時に成田を発って、12時間のフライトでパリに到着したのは同じ日の午後4時前。マリの首都、バマコ行きの出発までの時間が足らないので、乗り換えは無理。今夜は、航空会社が取ってくれた空港内にあるホテルで一泊する他ない。空港内の売店でサンドイッチとビールを買い、ホテルの部屋に持ち込んで一人の夕食。夜というには、かなり早い時間だったが、飛行機の中では余り眠っていなかったので、食事もそこそこに、そのまま就寝。

11時05分 成田発
15時50分 パリ着
帰国 洪水の危機と生きるバンコク市民 [2011年10月27日(Thu)]
10月27日(木曜日)
いつも通り早朝の便で帰国。
真っ暗な中をバンコクの街を走る車の中で考えた。タイで生じている事態は深刻で大規模なものではあるが、人々は予想外に楽観的で、いつもどおりの生活を続けているようだ。日本の水害とは違って、一気に生じて大きな衝撃を与えるものではなく、ゆっくりと進むので、人々の方も、いわば水との間で、間合いを見ながら、進んだり引いたりの駆け引きをしているように思える。
政府は、月末までを臨時休日にし、田舎に実家があったり親戚がいる人はバンコクを脱出するよう奨励しているようだが、田舎に親戚がない人や、あっても、その日暮らしで蓄えがない人は帰るわけには行かない。バンコクに残って、日銭稼ぎに精を出しているということだろうか。
バンコクの街は道路こそ空いているが、人々は、パニックにならず、用心はしながらも、いつもとかわらぬ生活をおくっている様に思えた。
以下に、この間に私が撮った写真で洪水と共にたくましく生きるバンコク市民の様子を紹介することにしよう。

            <バンコク@ 防水のための土嚢の上に乗ってATMを操作>

            <バンコクA コンクリートの防水壁にステップまで用意し準備万端>

            <バンコクB 足元に水がひたひた迫る中で昼寝をする人も>

            <バンコクC 一個5バーツ(13円)の寿司の屋台が賑わっていた>

            <バンコクD 色鮮やかで寿司の種類も多く何やら美味しそう>

5時45分 ホテル出発
8時10分 バンコク発
16時25分 成田着
洪水の危機が迫る中、意外にバンコク市民は平静 [2011年10月26日(Wed)]
10月26日(水曜日)
APCD(アジア太平洋障害者発展センター)の二ノ宮所長に連絡を取り、今日のアポを確認。その結果、出来るだけ早く済ませたほうが良いとい判断で、午後2時からの予定を、12時からに繰り上げ。意外なことに洪水が迫りつつあるにも拘わらず、センター内のカフェテリアは営業中だということで、昼食を取りながら会議をする。
カンボジアトラストのカーソンさん、CIAT出向中の日本財団職員間遠さんと連絡を取り、APCD最寄り駅である、スカイトレイン(BTS)の戦勝記念塔駅で待ち合わせ、一緒にAPCDへ。

                     <戦勝記念塔の前の通りもがらがら>

APCDでは、何と、二ノ宮さん、佐野さんら日本人幹部に加えて、エンさん、トムさんらタイ人スタッフまで我々を待ち構えてくれた。皆、多かれ少なかれ洪水の危険と戦っている最中。例えば、所長の二ノ宮さんの場合は、今日の午前中までかかって御自宅の1階から濡れては困る物を2階に上げる作業を終えたばかりというし、佐野さんの場合は、一旦避難したものの、避難先が浸水し、再度の避難準備中というではないか。間遠さんも、今は避難の準備中。そんな最中にも拘わらず、我々のために時間を作ってくれたのには感激する以上に恐縮。
貴重な時間を無駄にしてはならない。早速、食事をしながら、7人でIBプロジェクトの今後の進め方について打合せ。お陰で、2時間ほどかけて、基本的な考え方を摺りあわせると共に、当座やるべきことを含めて、今後に向けての課題をはっきりさせることが出来、有意義な会議が出来たと思う。
その後、タイ人スタッフ、カーソン、間遠さんと別れて、二ノ宮さんと佐野さんとの三人でIDPP(障害者公共政策大学院)の事業について協議。
二ノ宮さん、佐野さん、こんな大変な時に貴重なお時間を頂戴し、申し訳ありませんでした。

               <ビニールシートですっぽり守られた傷痍軍人会館>

APCDからの帰途、BTSシーロム線に乗ってそのままチャオプラヤー川の波止場まで行ってみた。チャオプラヤー川は川岸ぎりぎり一杯まで幅を広げ、悠々と流れていた。川の水面は既に、川岸の道路を上回っている。そのため、船着場と待合室のある陸地の境が全く分らなくなってしまっている。
川の水の市内への進出を防止するため、川岸と道路との間には幾重にも土嚢が積んであるのだが、隙間が塞がれているわけでもないので、ちょろちょろとではあるが水がコンスタントに流れ出しており、周辺の道路はもう水浸しだ。

                     <チャオプラヤー川の波止場の前も水浸し>

シャム湾が大潮を迎えるこの週末にはチャオプラヤー川は、上流からゆっくりと移動してくる大量の水を加えて水位がさらに上昇する見通しだという。そうなると、このような土嚢に依存する防御策で持ちこたえることが出来るのだろうか。
しかし、傍観者としての私の不安をよそに、波止場からの水が浸水して出来た大きな水溜りでは子供たちがはしゃいでいた。何かと近づいてみると、小さなカニを捕っているのであった。と言っても、日本人の子供がする単なる遊びとしてのカニ捕りではあるまい。きっと、これは今晩のおかずにするか、売ってお金にするカニであろう。
波止場の近くにある役所のものと見られる建物のまわりは土嚢が積んであったが、内部にまで水がかなり入りこんで水浸し状態になっている。もう諦めたのか、ガードマンらしき人たちが土嚢の上に座って世間話しに興じていた。
                 <ガードマンも土嚢の上に座って小休止>

夜は、共同通信の記者お二人と夕食。沢井バンコク支局長と今回の洪水取材のためにマニラから応援に駆けつけた三井マニラ支局長だ。現場取材から三井さんが戻るのを待って、遅めの夕食となった。残念ながら、日本から着任したばかりの本間さん、帰任直前で足止めを食った植田さんのお二人の女性記者は、支局で待機中とのことでご一緒出来なかった。
私は、チャオプラヤー川などで見たタイ人のたくましさ、水害に対する予想外の平常心について話した。現場でも、拍子抜けするほど、人々はパニックにもならず、意外に元気で、陽気とさえ言える表情で水害に対処している由。
このまま、バンコクの水害が深刻なものに進展することなく、乗り切ってくれればと切に思う。
                     <洪水の中でカニをとっていた子供たち>

12時 APCD-IB打合せ
14時 APCD-IDPP打合せ
20時 共同通信沢井バンコク支局長、三井マニラ支局長 
急遽、洪水の迫るバンコク行きを決定 [2011年10月25日(Tue)]
10月25日(火曜日)
この出張に日本を出た時点では、バンコク行きは断念していたのだが、急遽、当初の予定通り、バンコクに行くことになった。
その理由は、自分でインターネットで予約した、バンコクのホテルが確定予約の優遇料金のものであったため、キャンセル出来なかったこと、私が誘ったカンボジアトラストのカーソンさんも、飛行機の切符が変更できないものであるために、バンコクに予定通り行くと聞かされたこと、など幾つもの理由が重なったためであるが、何より、バンコクで行う予定の、障害者がビジネスに主体的に参加するよう支援するための企画を検討する「Inclusive Business」のブレーンストーミング会議の今後の方向性を、このタイミングで主催者であるAPCDの二ノ宮所長らと、確認しておきたかったことにある。
ただ、その背景には、バンコクの洪水状況が一時、心配されたほどには深刻化していないのではないか、という私の読みがあった。尤も、これは主に、ホテルの予約キャンセル交渉の過程で聞いた、ホテル側のマネージャーの楽観的な状況判断に大いに影響された甘い読みであったことを現地に行って知ることになるのだが。
                       <マニラ空港のバンコク行きゲートは満員>

マニラの空港のバンコク行きゲートは何事もないように搭乗を待つ乗客で混み合っていた。何だやっぱり、みんなバンコクに行くんじゃないか、と安心した気分になった私だったが、機内でスチュワーデスが配るタイへの入国審査用フォームを隣の乗客が、「乗り継ぎなので要らない」と断っているのに気が付いて、急に不安になった。
バンコク上空は厚い雲に覆われていたが、そらからみる地上の様子には特段変わったところは見られない。飛行場に着陸してみると天気は晴れ、空港内は何事もないように人々が溢れていた。ホテルには高架鉄道で行こうと決意していたのだが、拍子抜けして、いつものように空港リムジンを予約。
                      <バンコク上空の厚い雲>

高速道路を走る車窓からも、特に変わった様子は見られない。自分の車の水没を恐れて住民が我勝ちに高速道路の路肩に車を違法駐車し、あちこちで渋滞が発生している、という報道もあったが。捜して、漸くそれらしき車が止められている場所もあったが、あっというまにそこを通り過ぎてしまうと、他には異常が見当たらない。強いて言えば、普段より車が若干少ないことか。
何だ、極端なケースをまるで総てであるかのように報じるいつものマスコミ報道に乗せられたのか、と思っているうちに高速道路を降りて市内の一般道路に入る。どこにも水は見当たらないが、オフィスの建物や商店の前に土嚢が積まれている。さすがに、浸水の事態に備えてバンコク市民も真剣に対応しているのだと気付く。
                     <ホテルの正面玄関は厳重警備>

ホテルに着いてみると、いつも使っている正面玄関に沢山の土嚢が積まれ、閉鎖されているではないか。これまで見た中で一番厳重な警戒態勢だ。電話でキャンセルする必要はないと言っていた楽観論とどう整合するのだ、と苦笑い。
チェックインして、ホテルの裏手にある商店街やスーパーに行ってみた。すると、商店の前にはどこも土嚢が積んである。中には、コンクリートで急ごしらえの防水壁を設けたところまである。ただ、うすいブロック一枚の厚さで、これでは水圧に耐えられないのではないか、と心配になる。
                       <土嚢で防衛する商店街>

夕食に備えて食品類を買っておこうか、とスーパーの中に入って驚いた。食品だけではなく、日用品の棚もすかすかになっているではないか。
良く見ると、飲用水の類は、ソーダ水まで含めて全く見当らない。ロック用の袋詰め氷が入っている冷凍庫も空っぽだ。ビールも残っているのは瓶入りばかり。缶ビールは殆どない。
いつもがらがらの薬局にはなぜか客が溢れていた。ショウケースの薬も少なくなっているようだ。隣のコンビニ「セブンイレブン」に行ってみた。スーパー同様、商品棚はすかすか。お弁当の棚には何一つ残っていない。スナック類さえ殆ど残っていない。買い物をしている人々に、切羽詰った様子が微塵も見られないのが不思議なくらい。少し、不安になってきた。
                     <スーパーの棚は空っぽ>

マニラから応援に来ている共同通信の三井支局長によれば、国内線専門のドンムアン空港は閉鎖されたのだという。
結局、夕食はホテルの部屋でルームサービスを頼むことにした。一瞬、食料がない、と断られるのではないかという不安が頭をよぎったが、杞憂であった。勢い込んで、サラダと焼きそばなど三品も頼んでしまったら一人では食べきれないほどだった。
食事をしながらテレビを点けるが、NHKは勿論、なぜか、CNNやBBCもタイの洪水は素通り、天気予報のところで御座なりのように触れるだけ。そこで、言葉は分らないながらも、現地のチャンネルに。
当然ながら、タイのテレビは、洪水のニュースで持ちきり。水がバンコク北部のアユタヤから南下し、バンコク北郊のランシットやドンムアンにまで押し寄せた様子が生々しい画面と一緒に写される。
伝統医学事業でお世話になったスパチャイさんのいるランシット大学は、大丈夫だろうか。ドンムアンの女性の地位向上協会は大丈夫だろうかとテレビを見ながら呟いていた。
そうこうするうちうに、インラック首相が深刻な様子で声明文を読み上げる様子が画面に映った。どうやら、首相府からの中継映像のようだ。今のタイミングでバンコクにのこのこやって来たのは、とんでもない判断ミスだったかも、と心配になる。



10時 ホテル出発
13時05分 マニラ発
15時20分 バンコク着
国連平和大学6期生の応募者が急増 [2011年10月24日(Mon)]
10月24日(月曜日)
朝、7時。フィリピン義肢装具士学校からの迎えの車に一人、乗り込む。元々は、明日25日に、尾形理事長を迎えて、義肢装具士学校の新校舎の落成式を行う手筈になっていたのだが、数週間前にフィリッピンを襲った超大型台風のために完成が遅れたため、直前になって中止の連絡。
ところが、落成式に併せて行うことになっていた義肢装具士学校の国際諮問委員会だけは行うのだと言う。何時行うのか二転三転した結果、この会議は私が、明日、バンコクに行く予定だったために本日の午前に行うことになった。一方、今日の午後から行われる予定の国連平和大学が、急に当初の予定にはなかった、賓客のための昼食会を行うと言い出した。そこで、尾形理事長には平和大学の昼食会の方に出てもらうこととし、私は、こちらの義肢装具士学校国際諮問委員会に参加することにしたもの。

               <建設途上のフィリピン義肢装具士学校校舎>

この事業の現地パートナーであるUERM(University of East, Ramon Magsaysay)に行って見ると、国際諮問委員会の単なる初顔合わせかと思っていた会議は、大きな講堂を使い、ディビノグラシア学長はおろか、ロブレード内務長官まで来る大袈裟な「開校式」に仕立ててあってびっくり。フィリピン初の国際基準に基づいた義肢装具士学校に寄せる、大学、政府、医療関係者らの熱意と期待の大きさが感じられた。
会場には昨年の調印式直前に大学キャンパス内でのテロ事件に巻き込まれて両足を失い、一躍、フィリピン中の同情を集めた女子法学生のライッサ・ローレルさんの姿も見えた。彼女は、日本財団によって、この学校の講師陣によって作られた義足をプレゼントされることになった。
久し振りに会ったライッサさんは、杖も使わず階段を自由に上れるまでになっていた。IDPP(障害者公共政策大学院)の話をすると身を乗り出してきた。

               <国際諮問委員会の初会合で挨拶するUERM学長>

諮問委員会の会合を終えて、一旦、ホテルに戻り、私は日本から持参したバロン・タガログに着替えた。パイナップルの繊維で出来たフィリピンの正装である。
昼食会から戻ったばかりの尾形理事長や、国連平和大学の国際諮問委員である広中和歌子元環境庁長官と一緒に、アテネオデマニラ大学に向かった。国連平和大学とフィリピンの名門アテネオデマニラ大学の二つのキャンパスを用いた平和学の修士号コースは、今年で5年目を迎えるに至った。今日卒業式を迎えるのは、昨年4月に入学した第4期の28人の卒業生。うち、日本人が9名。女性が18人、男性が10人の女性上位の若者たちである。
                  <国連平和大学第4期の卒業生たち>

コスタリカにある本校から駆けつけてくれたマレスカ学長によると最近締め切ったばかりの第6期生の出願状況は、例年通り30人の募集に対して、オンラインでの申し込みが、昨年の約300人の倍以上の750人。うち、最終的に出願書類を提出したのは400名(昨年は120名)だという。ついに、私が設立以来密かに目標としてきた競争倍率10倍を超えたのだ。ただ、30人のうち、15人程度の枠を用意しているにも拘わらず、日本人の応募状況は昨年比数倍になったとは言えまだ低い。授業料の全額免除のみならず、渡航費や生活費まで面倒を見るという破格のコースなので日本人の競争率も10倍になっても不思議ではないように思えるのだが。
                     <壇上で卒業証書を受け取る>


7時 ホテル出発
8時 PSPO IABミーティング
10時半 PSPOブランチ
14時半 ホテル出発
15時 歓迎レセプション
16時半 国連平和大学卒業式
19時 記念夕食会
また、また、マニラ [2011年10月23日(Sun)]
10月23日(日曜日)
何と、今年5回目のマニラ行き。今回の目的は、例年今の時期に行われる国連平和大学の卒業式と。それに併せるかたちで日程をセットしてもらっていた義肢装具士学校の開校式、の筈であった。マニラまで一緒の日本財団の尾形理事長は、その後、マニラの北方、車で6時間ほどのスワル市に向かいNISVA(日本技能ボランテイア海外派遣協会)の事業現場の視察の予定だが、私は、その後、Inclusive Businessのブレーンストーミング会議の第3弾として行われる、rural business 即ち、農業や家畜生産など途上国の障害者が住む地方の農業地帯の環境に即したビジネス分野に絞った会議に出席するためバンコクでに向かうとになっていた。
ところが、バンコクは7月後半以来の大雨のために予定されていた会議は中止。そのため、私は、マニラの後は、理事長と一緒にスワル市に向かうことも考えたが、今回の出張から帰国後直ぐにアフリカ行きの長い出張が控えていることを考慮し、マニラだけで帰国する2泊3日の単純往復の短い出張にしたのだった。
夕方出発の遅い便でマニラへ。到着は現地時間の夜の10時。ホテルにチェックインしたのは11時をまわった深夜だった。ホテルのレセプションカウンターで、アテネオデマニラ大学で国連平和大学の事業を担当してくれているナビル君と会い、少し言葉を交わす。別の便でマニラに向かった理事長は一足先に無事到着した由。


18時35分 成田発
22時10分 マニラ着
帰国 私の旅の工夫(12) [2011年10月19日(Wed)]
10月19日(水)
今回はアメリカから初めて羽田到着便を利用。到着予定時間は5時だったが、偏西風の関係か、到着が早まり実際の到着は4時40分。もともと、羽田では朝一番の到着便だそうだが、それにしても早い。自宅が羽田と同じ大田区内であることもあって、タクシーで自宅に着いたのは5時半。皆寝ていた家族を起こしての帰還となった。
さて、「私の旅の工夫」今回は、私が出張時にいつも持ち歩いているキーホルダーについて。それには、スーツケースなどのキーと並んで3つの小型アイテムが付いている。超小型のはさみと、2ギガの超小型USBメモリーと小型のLEDフラッシュライト。
                      <いつも持ち歩いているキーホルダー>

このうち、私にとって、一番使用頻度が高いのは超小型のはさみ。特に、最近は機内に通常のサイズのはさみの持ち込みが禁止されているので、食品の入ったビニール袋を開ける時などに苦労させられることが多いと思うが、これを手に入れて以来、困ることはない。また、ビニール紐など、ちょっとしたものを切ったりするときに重宝することが多い。
また、写真にはないが、自分の親指の爪を少し長めに伸ばしており、こちらは、小型ナイフの代わりになるようなる。ドリンク類の入ったビンのシールを剥がす時などに重宝する。
                    <一番使用頻度が高いのは超小型のはさみ>

はさみに次いで活用するチャンスが多いのは、LEDフラッシュライト。途上国では突然停電することが少なくない。また、足元の暗い中を歩くときにも、これがいつもポケットに入っているので安心だ。
              <停電のときにも、これがポケットに入っているので安心>

超小型USBメモリーは突然、データを交換するような時に有効。
いずれにしろ、これらのアイテムはポケットにいつも入れておいても超小型なので嵩張らないのがポイントだ。
                    <USBメモリー 超小型ながら2GB>

04時40分 羽田着
今回の出張最後のフライトは羽田行き [2011年10月18日(Tue)]
10月18日(火)
ロサンゼルスに飛び、ここで羽田行きに乗り換える。ロサンゼルスでの乗り継ぎ時間が6時間もあり、帰国便の搭乗手続きのためのチェックインカウンターがまだ開いていなかったので、私は空港内の食堂フロアへ。軽めの夕食を求めて、日本食のカフェテリアに陣取り、カウンターが開くのを待った。
日本食はアメリカではすっかり市民権を得ているが、日系人口の多い西海岸の中でもロサンゼルスはリトルトーキョーもある日系人の中心都市。そのせいか、この空港内のカフェテリアでは日本食メニューの多彩さに驚かされた。ビーフボウルと呼ばれる牛丼も「すき焼きボウル」からローストチキンやポークも乗った「ミックス・ボウル」など数種類、寿司はもっと多彩で、握りセットから様々な巻物(ロール)まで10種類近くあったろうか。もっと驚いたのが日本のビールが複数のブランドが置いてあるだけでなく、客の米国人がごく自然に「キリン」、「アサヒ」などと銘柄指定をしていたこと。
注文した寿司セットをお盆に載せて、席について食べ始めた私の隣では、白人の家族連れがうどんに舌鼓を打っていた。深夜1時、私の今回の出張の最後の飛行機が羽田に向けて飛び立った。


00時50分 ロサンゼルス発
NTIDデカロ教授と落合ってIDPPの打合せ [2011年10月17日(Mon)]
10月17日(月) 
サンパウロを夜10時過ぎに飛び立った飛行機は、真っ暗な空を10時間飛び続け、明け方、アトランタに到着。私は、空港に隣接したホテルにチェックイン、一休みして、NTID(国立聾理工学院)の前院長、デカロ教授と落合った。NTIDはニューヨーク州北部の町、ロチェスターにあるのだが、彼は出張でアトランタに来ているということで、南米からの帰国の途中、ここで打合せをすることにしたもの。
打合せのテーマは、IDPP(障害者大学院大学)とP-CEN(中等教育における聾教育支援事業)の二つの事業。特に、IDPPについては、13日にワシントンで、IDPPの責任者を務めてもらっているアメリカン大学のデリック教授とじっくり話し合った、諸問題とそれに対する今後の解決策に関する議論について詳しく報告。
これに対し、デカロさんからは基本的に同意するとの返事が得られた。IDPP構想を協力して作り上げた最初からのメンバーとして、その成功には責任を持っており、協力することが自分の責任である、との力強い言葉。その上、幾つかについては、更なる提案をくれた。
そのひとつは、年内にロチェスターにデリック教授、私と3人で集まり、今後に向けた意思統一を図ろうと言うもの。日本に帰国後、私からデリック教授に連絡し、具体的な日取りを決めることになった。
諸問題の解決に一応の目処がついたので、私は気が軽くなった。これから、友人と会うというデカロさんと別れ、ホテルの部屋でシャワーを浴び、着替えをして再び空港へ。
アトランタからは、ロサンゼルスまで5時間のフライト。ここで、羽田行きの便に乗り換えるのだ。アトランタとロサンゼルスの間には3時間の時差があるので到着時の現地時間は2時間後の夕方6時半。


05時55分 アトランタ着
12時 NTIDデカロ教授打合せ 
16時25分 アトランタ発
18時28分 ロサンゼルス着
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