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大野修一(日本財団)
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帰国へ 私の旅の工夫(10) [2011年08月24日(Wed)]
8月24日(水曜日)
10日間の出張を終えて帰国。
いつもの、シンガポール成田便。特に書くこともないので、古都ミャウーとその近郊で撮った写真の中から、これまでに紹介しきれなかったものを、まとめて以下に掲げることにしよう。

           <ラカイン族の信仰の中心マハームニを祀ったマハームニ寺>

最初の一枚は、ラカイン族の信仰の中心マハームニ仏が祀ってあるマハームニ寺院の外観。ビルマ族が自慢するマンダレーのマハームニ寺院の規模とは較ぶべくもないが(と言っても私自身行ったことはないが)、なかなか美しい建物ではなかろうか。
                   <古都ミャウーの朝のシルエット>

次は、ミャウーで泊まった、瀟洒なホテルの前の通りで早朝に撮った写真。ミャンマーでは、女性は、水をくんだ後の水瓶、行商するために魚の入った金だらい、等などなんでも頭に物を載せて運ぶ。 
                    <屋根の上て勉強する子供>

もう一つは、やはり、古都ミャウーで撮った子供の写真。どこかで、子供がお経を読み上げる声がする、お寺の小僧さんが修行中か、と思ったら、ホテルの隣の民家の屋根で、子供たちが勉強中だった。部屋の中は暑かったようだ。ミャンマーでの勉強スタイルは、お経のように、教科書をひたすら声をあげて読み上げ、丸暗記してしまうというもの。日本でも昔、寺小屋などでも行われていた方式だ。
                  <ミャウーではシルクの寝袋が役立った>

最後に、「私の旅の工夫(10)」として、今回の旅で初めて使い、便利だと思ったベトナム製寝袋の写真を2枚。寝袋とは言っても、日本で一般的な防寒を兼ねた綿入りのタイプではなく、袋形のシーツのようなもの。素材はシルクと言われたが本物かどうかは大いに疑問。というのも、ハノイで買った時の値段が、確か数百円程度という代物。
それは兎も角、薄くて軽いので持ち運びに便利なうえ、今回のように、毛布にシーツがなかったり、蚊の心配がある時には便利。

                   <たたむとご覧の通りコンパクト>

     
5時15分 ホテル出発
8時10分 シンガポール発
16時25分 成田着
シンガポールでミャンマー情勢について意見交換 [2011年08月23日(Tue)]
8月23日(火曜日)
プノンペンから帰国のルートを、今回はいつものバンコク経由ではなく、シンガポール経由にして、いくつかの面談を予定。
早朝、リークアンユー公共政策大学院(LKYSPP)のトゥミネス学院長補佐と面談。障害者公共政策大学院大学(IDPP)のパートナー校拡充計画の進め方や、今後の、日本財団とIDPPとの間の、提携関係強化のためのアイデアにつき意見交換。
午後は、ASEAN事務局長特別顧問のラジャさんと久しぶりに会って、さまざまな提携事業の進捗状況の確認や、今後の進め方につき意見交換。さらに、彼も関心を持っているミャンマー情勢について議論。
新政権が矢継ぎ早に打ち出している様々な政策をどのように評価すべきかにつき、かなり密度の高い議論が出来た。情報通のラジャ顧問であるが、ヤンゴンとシトゥエをつなぐ鉄道の建設が始まり、一部区間では開通している、と伝えるとびっくりしていた。
今日は彼も私も時間に余裕があったので、長い時間をかけて率直な意見交換を行うことが出来た。

                <シトウェ近郊で既に一部運行が始まった鉄道@>
  
                <シトウェ近郊で既に一部運行が始まった鉄道A>
  
                 <シトウェ近郊で既に一部運行が始まった鉄道B>  
 


   
8時 リークアンユー公共政策大学院トゥミネス学部長補佐
15時半 ASEAN事務局ラジャ特別顧問
救急車両引渡し式にフンセン首相の息子フンマネット将軍登場 [2011年08月22日(Mon)]
8月22日(月曜日) 
                  <空軍基地内で行われた救急車両引渡し式>

今日は朝8時、日本財団が寄贈した救急車両の引渡し式に出席するためホテルを出た。目的地は、プノンペンのポチョントン国際空港にほど近い空軍基地。カンボジアの救急支援を所管する国家テロ防止委員会の会議場が空軍基地内にあるからだ。
空はすっかり晴れわたり、絶好の祝賀会日和、基地のゲートを抜けると正面の大きな建物の前に、救急車や消防車などさまざまな車両が並んでいた。塗装が真新しく新車に見えるが、これらが、日本財団が寄贈した中古車両であった。

                  <真新しい塗装に塗り替えられた中古車両>

日本財団は、1994年度より全国の社会福祉関係団体に訪問入浴車、車いす対応車、送迎車などの福祉車両の配備を始め、これまでに約30,000台が全国に配備されている。
最近では、これらのうち、毎年、数十台の車両が廃車処理されるようになっているが、この中には、まだ、中古車両として十分使用できるものが多数含まれている。また、福祉車両には、リフト付き車いす対応車など、特殊な機能を備えたものが多く、発展途上国では入手が困難であったり、あっても大変高価で手が出にくいなど、価値が高い。特に、これら特殊車両は救急車や病院の患者輸送用に改造されると、大変有益な役割を果たすことが出来る。
そこで、日本財団は、数年前から、これらの車両をち中古車として、海外に寄贈する事業を始めた。これまでに、南米のペルーに144台、スリランカに12台、インドネシアに17台を送り出した。
  
              <日本国内で3万台 日本財団ロゴマーク付き福祉車両>

今回は、カンボジアよりの要請にこたえる形で25台を送付した。カンボジア政府は、昨年11月のボートレースの際に起きた悲惨な事故をきっかけに、国内の救急支援体制の整備を急いでいる。これらの車両は、プノンペン市内の消防本部や主要病院などに、救急車、交通事故初動対応車、消防司令車などとして、配置される予定。
今回、カンボジアの救急支援を所管する国家テロ防止委員会がこれら車両の引き渡し式を行うに当たり、車両の改造などの技術面のサポートを含め、現地との総合調整を行ってくれた日本のNGO、サイドバイサイド・インターナショナル(SBS)や、福祉車両の輸送に協力してくれたMOL(大阪商船三井船舶)とともに、日本財団の出席を求められたので、私が代表して出席、スピーチを行った。
引き渡し式には、担当のオムイェンチエン上級大臣の他、国家テロ防止委員会の責任者であるフンマネット将軍も姿を見せた。彼は、フンセン首相の長男、この春、33歳にして少将に昇格したばかり。米国のウエストポイント士官学校卒で、有能な軍人と言われている。フンセン首相の有力な後継者と見られている。

                     <フンマネット将軍が車両を視察>

式典の後、カンボジア盲人協会に行き、ブンマオ事務局長らと10月のチャリティーコンサートの打ち合わせ。それを終えると、急いでホテルに戻り、荷物を積んで空港へ向かった。夜のフライトでシンガポールへ移動。

8時 ホテル出発
9時 救急車両引渡し式
13時 カンボジア盲人協会ブンマオ事務局長
18時10分 プノンペン発
21時10分 シンガポール着
悲しい知らせが届いていた [2011年08月21日(Sun)]
8月21日(日曜日)
早く床についたのだが、夜中、何度も目を覚ました。体温が上がり、関節の痛みがひどくなって、眠りを妨げられただけでなく、激しい下痢で繰り返しトイレに行くことになったため。
手持ちの下痢止めを、規定量以上飲んだにもかかわらず全く効かない。幸い、今日は日曜日。昼過ぎまでは予定がない。朝食も昼食も摂らず寝ていることが出来る。
それにしても、こんなひどい風邪をひくとは、と考えて、ふとこれは、デング熱の症状なのでは、と心配になった。そして、時間は明け方の4時過ぎだったが、ソルヤ君の娘さんのことを思い出し、携帯電話のメールボックスを覗いてみる気になった。
すると、そこには、何と、ソルヤ君からのメッセージが入っているではないか。胸騒ぎを感じながらメールを開いてみると「娘はたった今亡くなりました。これから、カンボジアに帰ります」とあるではないか。発信時間を見ると、昨夜9時とある。しまった。結局、昨日、松島さんに預けた2回目のカンパは間に合わなかったのだ。
お葬式は私がカンボジアにいる間に行われるのだろうか。それにしても、彼をどんな言葉で慰めたら良いのだろうか、と思うと眠れなかった。夜が開けたら一番に電話してみよう。
明け方、トイレに行ったときには下痢の症状に改善の様子はみられなかったが、熱の方は下がり始めていた。しめた、これなら何とかなりそうだ。
朝7時になるのを待って、ソルヤ君に電話する、が誰も出ない。そこで、メールに切り替え、お悔やみの言葉と、明日まで私はプノンペンにいること、昨晩、治療費としてのお金をKizunaに預けたことなどを告げる。暫くすると、彼から携帯メールで返事が届く。
お礼の言葉と共に、自責の言葉が綴られていた。「娘を救うことが出来ませんでした」と。
出来るだけのことはやったんだから、自分を責めないようにと彼を慰めるとともに、「これから、彼の自宅にお悔やみに行きたい」とメールすると、直ぐに、「今は、プノンペンではなく、妻の実家のあるタケオに来ている」と返事。どうやら、そちらで、お葬式をするようだ。
私は「こちらで、今日の午後から用があり、明日も予定があり、午後にはシンガポールに向かうので、申し訳ないが、タケオに行く事は出来ないが、お金はプノンペンに帰ってきたときに受け取って欲しい」とメールを送った。
一連のやり取りの後、再びベッドに入つた。熱が下がったこともあり、今度は、12時ころまで眠る。目を覚まして、ミネラルウオーターを飲みシャワーを浴びると、すっきりした。いつも持ち歩いている飴玉をなめて、エネルギーを補給。
朝、昼2食を抜いたまま、午後2時からは、ホテルのロビーで10月に予定しているチャリティーコンサートの件で資金集め担当のチップさんやプログラム作りを依頼しているカンボジアで出されている唯一の日本語カンボジア語英語併用のユニークなフリーペーパーNyoNyum(http://www.fujisan.co.jp/magazine/1281691971/)編集長の木村さんと打合せ。プログラムの表紙デザインをNyoNyumの表紙も担当している人気画家のStefさんに依頼してみることに。(http://www.happypainting.net/)
その他、関係者の皆さんと、色々元気の出る話をしているうちに、体の調子が回復してきていることに気づく。夕食は普通に、ビールを飲みながらドイツソーセージをぱくつく。我ながら、回復の早さに驚く。昨日からの体調不良の原因は一体何だったんだろう。

                <NyoNyumの表紙はいつも人気画家Stefさんの絵>

14時 チップさんらとチャリティーコンサート打合せ
17時 CJS山崎社長
19時 焼き物事業関係者と夕食
バンコクで途中下車 エアポートレイルリンクで市内往復 [2011年08月20日(Sat)]
8月20日(土曜日)
昨夜からの雨も止んだ。朝8時、ニュント博士の車でホテルを出発、空港へ向かう。9時50分発のタイ国際航空機でバンコク経由、プノンペンへ行かねばならない。
スーツケースはプノンペンまでスルーの手続き。しかし、私はバンコクで農業事業のパートナーCIAT(国際熱帯農業センター)のティン博士と会う約束があるので、途中下車の予定。
ヤンゴン空港の待合室で読んだミャンマー政府系の英字紙には、昨日の首都ネピドーにおけるスーチーさんとテインスエ大統領の会見の様子が写真付きで掲載されていた。ふと、新大統領の矢継ぎ早の新政策が、軍部の保守派を刺激しないのか、気になった。
 
                  <大統領と並んで写真に納まったスーチーさん>

バンコクに着いた、夕方には空港に再び戻って来ないといけないので、今回は勝手知ったるエアポートレイルリンクで往復。そのために、ティン博士との面談場所にはエアポートレイルリンクの終点、パヤタイ駅近くのホテルを指定しておいたのだ。
農業専門家ティン博士はミャンマー人。土曜日なのに出て来てくれた彼のため、今回、ミャンマーで仕入れてきた加工食品をお土産に手渡したところ、とても喜んでくれた。
話してみると、何と彼の父親はラカイン族。出身地もラカイン。本人は30年以上行っていないと懐かしそう。現地で撮った写真を見せてあげると、食い入るように眺めていた。彼が大声をあげて笑ったのは、私のカメラに映っていたラカイン料理の数々。
ラカインの話に話が弾んだが、肝心の仕事の話もしないといけない。CIATとの事業を巡る懸案事項について意見交換。
ただ、話しているうちに体が冷えているのに気が付いた。クーラーの効き過ぎだろうか。東南アジアはどこも、クーラーはガンガン利かせるのが普通だ。省エネの日本式空調を少し教えてあげたいほど。
そうこうするうちに、悪寒がしてきた。このままでは風邪を引いてしまうと思い、ティンさんにお願いして、ホテルの外に出て温まりながら(?)立ち話を続けた。
  
                       <ラカイン料理 その@>


                       <ラカイン料理 そのA>


                     <ラカイン料理 そのB>

2時間ほど話し合った後、エアポートレイルリンクで空港に戻り、プノンペン行き飛行機に乗り込む。カンボジアとの和解促進を掲げるインラック政権になったせいか、バンコク・プノンペン間の飛行機には少し、乗客が戻りつつあるように見えた。
プノンペンに着き、ヤンゴンから直送したスーツケースを受け取り、空港の外に出る。が、そこには、いつも、独特のお辞儀姿で迎えてくれるいつもの運転手、ソルヤ君の姿はなかった。まだ、デング熱に罹ったまま人事不省に陥った彼の3歳の愛娘に付き添って、ホーチミンの病院にいるのだ。
ソルヤ君に代わって、空港に出迎えてくれたのはラジオによる教育放送などを実施してくれているNGO、Kizunaの松島さんと彼が契約する運転手だった。松島さんに治療費の一部にと、ソルヤ君へのお金を預ける。
ホテルには伝統医療の専門家、高田さんの姿が見えた。折角なので、お茶でも飲みましょうか、と一旦は誘ってはみたものの、どうやら本当に風邪を引いてしまったらしく、だるくてしようがない。しかも、体の関節まで痛み始めたので、申し訳なかったが、そのまま、彼らと別れ、自分の部屋に直行、寝てしまうことにしたのだった。


8時 ホテル出発                
9時50分 ヤンゴン発
11時45分 バンコク着
13時 CIATティン博士
18時15分 バンコク発 
19時25分 プノンペン着
ラカインはマラリア汚染地域 [2011年08月19日(Fri)]
8月19日(金曜日)
                  <モスクが見えるシトウェの町並み>  

朝目を覚ますと朝焼け、今日は快晴だ。
昨日の夕方、ホテルにチェックインした際、部屋の鍵を受け取って、いざ、自分の部屋に行こうとして、エレベーターがないことに気が付いた。
しかも、1階は英国式にground floorと表記。ならば、2階がfirst floorかと思いきや、restaurant floorと書いてある。何と、first floorは3階にあった。私の部屋は、third floorなので実際は5階ということになる。階下へ降りるのは兎も角、登るのは一仕事だった。
しかし、小ぶりだが、清潔感のあるホテルだった。部屋は狭いが、シャワーからはちゃんとお湯が出る。市内目抜き通りに面した私の部屋は、5階にあるだけあって、その分、見晴らしは良い。シトウェの町並みが見透せる。直ぐ前に、立派なモスクが見えた。
宿の外に出てみると、昨日の黒塗りの高級車が待っていた。今日も、アウンチョウミン保健大臣の公用車を使わせてくれるのだという。大臣の厚意に甘えて、公用車で市内視察を行った。
最初に行ってみたのは、昨日の州政府首相との面談の席で話題になった小学校。昨年のサイクロンで大きな被害が出たという。十分な修理がなされないままで粗末な校舎が放置されていた。
学校への途中、道がわからなくなり、小さな診療所の前で、道を聞いたところ、チャンタル博士と名乗る院長自らが現れた。ニュント博士の友人の弟だった。診療所の前庭には大勢の患者が順番を待って屯していた。よく見ると、診療所の看板にはマラリア専門と書かれているではないか。院長先生に、「マラリア患者が多いのですか」と尋ねると、「勿論、ここは汚染地域ですから」との答え。出発前に聞いたニュント博士の「大丈夫」は、私を安心させるためのものだったのか。

                     <マラリア専門医と書かれた看板>

シトウェからバングラデッシュへはとても近い。さらに北へ遡ると、インドのインパールに行き着く。太平洋戦争の末期、日本軍が10万人以上とも言われる多数の餓死者や病死者、戦死者を出したインパール作戦の戦場となった場所である。当時、シトウェはアキャブと呼ばれた港湾、空港を持つ軍事上の重要拠点であった。一時期、日本軍が占領しており、アキャブ空港には、戦争映画などで有名な加藤隼戦闘隊が駐屯していたのである。
市内の寺院に日本軍人の石碑があるというので行ってみた。すると、僧院を持つ立派な寺院の仏塔の脇に、まだ比較的新しい顕彰碑が立っていた。そこには、「祖国の名誉の為、この地に散った英霊よ安らかに」との文字が彫られていた。厳しい戦いから生還した戦友たちがこの地を再訪した際に建てたものであった。
顕彰碑を見た後、ふと思い立って、現在のシトウェ港を見に行ってみた。国際貨物が陸揚げされるらしく、保税地域がありゲートが設けられている。幸い、黒塗りの公用車である上、保健大臣の運転手が事情を説明してくれたらしく、車のまま入ることが許された。
国際港とはいえ、クレーンなどの設備ひとつない貧弱な港だった。直ぐ先の海上で浚渫のような作業を行っている様子が見えたので、尋ねると、インドの財閥、タタ・グループによる港湾の改修作業が始まっている、との答えだった。
現在、シトウェ沖合いには海底ガス田が発見されており、中国により中国雲南省の昆明と結ぶパイプラインの建設が始まっているという。ミャウーへの途中で見た建設中の鉄道も、ヤンゴンとシトウェを結ぶ路線ではあるが、将来は、さらに、中国やバングラデッシュまで延伸するという構想もあるようだ。ここは、昔も今も、中国とインドという巨大な勢力に挟まれた難しい地域なのである。

                       <旧日本軍戦死者の顕彰碑>

海を見ながら私は、ロヒンギャーの人々の悲劇を思い出していた。
ラカイン州、特に、ここシトウェのある北部は、ミャンマーの中でも特にイスラム教徒が多い地域だ。その中心は、この国がビルマとして独立する以前から、インド、バングラデッシュ、ミャンマーの間を自由に移動して暮らしていたロヒンギャー族と呼ばれる人々だ。
彼らの多くは、ミャンマー国内に居住しているものの、政府からは自国民としてみなされていない無国籍の民である。仏教徒のビルマ族やラカイン族とは、これまで、何度か衝突を起こしてきた。太平洋戦争中は英連邦側に付き、日本軍と対立、多数の死者を出したという歴史もある。数年前には生活苦から海路で脱出しようとして、タイの沖合いでタイの国境警備船に、つかまったあと、海上に放置され、多数の死者を出している。
市内視察の後、ヤンゴンに戻るべく、シトウェ空港に着いてみると、何と、アウンチョウミン保健大臣が見送りに来てくれていた。大臣自ら、空港のVIPルームに案内してくれる。ところが、鍵が掛かっていて、、、入れない。誰かが係員を呼びに行き、ようやく、入ることが出来た。中は、熱気でむっとしていた。天井灯をつけて、すべての窓を開いてゆく。クーラーはないのだ。ここでも、蚊が飛んでくるので私は気が気ではなかったが、ニュント博士も保健大臣も悠然と昔話(?)に花を咲かせていた。

                      <シトウェ空港のVIPルームで>

帰りのエア・マンダレー便はヤンゴン直行ではなく、ラカイン州南部の美しいシーリゾート、タンドゥエにワンストップ。ヤンゴンには2時間かけて午後3時に到着。2日ぶりのヤンゴンが大変な大都会に見えた。
午後5時、マッコム社ハウ社長とヤンゴン大学の学部長ら4人とホテルで面談。16日にヤンゴンで会った際、顔の広い彼に、IDPP(障害者公共政策大学院大学)の件で、ヤンゴン大学のさる学部長への紹介を依頼しておいたところ、早速、面談をセットしておいてくれたものだ。
小一時間ほど相談、アドバイスを受けて彼らと別れた後、ふと思い立って、ミャンマーの地図を買おうとして、外に出て見ると土砂降りの雨。確かに、ミャンマーはまだまだ雨季の真っただ中だったようだ。ラカイン行きが何とか完遂できたのが奇跡に思えてくる。
夜は、6月に引き続き、国連平和大学OBらと夕食。マスコミや、NGOで働いている若者たちだ。開口一番、今日、ネピドーでアウンサンスーチーさんがテインセイン大統領と会ったことを告げられる。前回は、新政府の方針転換にまだ半信半疑だった彼らも、今は、新政権の舵取りの変化に疑いは持っていないようだった。「政府から、我々、NGOも色々意見を求められたり、頼まれたりするんで忙しくて大変」とこぼすのも楽しげであった。
やはり、ミャンマー新政権は本気で動こうとしているのだ。これからの変化が楽しみだ。
 
                     <雨に煙るヤンゴン市内>

7時半 朝食
8時 ホテル出発                
9時 サイクロンで被災した小学校視察
9時半 日本軍兵士顕彰碑視察
10時 シトウェ港視察
11時 昼食
12時55分 シトウェ発
14時05分 タンドゥエ着
14時20分 タンドゥエ発 
15時00分 ヤンゴン着
17時 マッコム社ハウ社長  
18時半 国連平和大学卒業生らと夕食

ラカイン王朝最後の首都ミャウー [2011年08月18日(Thu)]
8月18日(木曜日)
                  <小さいが洒落たホテルだった>

明け方、大雨の音で目を覚ます。南国のスコールそのもの、激しい雨脚である。やれやれ。これでは、昨日何とか切り抜けた泥濘の坂道はもう通れないのでは、と心配になる。
しかし、7時に朝食を摂りに外に出てみると、雨は殆どやんでいた。明るくなったホテルの周りを改めて見回してみると、なかなか小洒落たホテルだった。ホテルの前の通りは、行きかう人も多く、賑やか。これがこの町一番の目抜き通りなのだとか。しかし、この通りの横には澄んだ小川が流れ、そこで朝市で買ったばかりの野菜を洗う人もいるほどの長閑さ。
麺料理と野生のバナナ、野生のランブータンで軽く朝食を取った後、ホテルの直ぐ近くに広がる15世紀の王宮跡を見物に出掛けた。王宮の建物は残っておらず、苔むした石組みが残るのみ。原っぱでは、牛追いの少年に連れられた牛たちがのんびり草を食んでいた。まさに「つわもの共の夢の跡」である。

                     <朝の道を行きかう人々>

ミャウー王宮跡地を歩いた後は、シッタウン寺院を訪れた。寺院の地下に、両側に仏像が並ぶ通路が、迷路のように幾重にも張り巡らされており、その数、なんと8万4千。それが、ラカイン語で八万という数字を表すシッタウンという名前の由来なのだそうだ。
西暦1535年創建というこの寺の本来の名前は、ランアウンゼヤ=勝利寺院。それは、インドのベンガル地方との戦いに勝利したことを記念して建てられたことに由来するとか。
時間がなかったので、車を降りて内部まで見学できたのはここだけだったが、この小さな町の至るところに、大小さまざまな寺院や仏塔が立ち並ぶ様は壮観。道路やホテルなどインフラが整備されさえすれば、世界文化遺産登録間違いなし。

                  <16世紀に建てられたミャウーの寺院>

ミャウーからの帰途、チャウトーという町の郊外にある古都ダニャワディー遺跡に立ち寄った。ミャウーより遥かに古いラカイン族の王朝と言われるダニャワディーは、ラカイン族の伝承によれば、紀元前3300年にまで遡るとされるが、考古学的調査からは西暦4世紀から6世紀の都市と推定されているという。
ここには、ラカイン族の仏教信仰の中心ともいえるマハムニ仏を祀るマハムニ寺がある。
ビルマ族のニュント博士の話では、マハームニ仏は仏陀自身が制作に関わったとされる誠に霊験あらたかな仏像なのだが、ここに祀られている仏像は、何と偽物なのだそうだ。もともとは、ここに置かれていたものを、ビルマ族の王様が戦利品として、マンダレーに持ち去ったのだとか。
しかし、ラカイン族はマンダレーの大伽藍に安置されているマハムニ仏を本物とは認めていないと言うからややこしい。シトウェのホテルで手に入れたラカイン族とみられる学者が書いた歴史書の英訳本によれば、ラカイン側の説明は以下の通り。
「仏陀がインドで悟りを開き仏教の普及を始めた頃、ラカイン州を治めていたサンダトゥリヤ王は、仏陀をミャウーへ招いた。仏陀は弟子500人を伴い空中を飛んで来訪(紀元前554年)、それ以来ミャウーの人々の多くは仏教徒になったと言われる。仏陀は帰還に際し、王の懇願を受けて、自分にそっくりの像を作って与えた。これがマハムニ仏像の謂れである。
しかし、ビルマ族のボダウパヤ王が1789年にミャウーを攻略した際、マハムニ仏を運び出した。ところが、船で運んでいる途中で、川に落としてしまった。それを引き上げることが出来なかったために、代わりにマハムニ仏に似た仏像を見つけ、マンダレーに運んだのである」
ならば、ここにあるマハムニ仏は?どうも、よく判らないのだが、ラカイン族とビルマ族のライバル意識を良く示すエピソードと言えそうだ。

                  <チャウトーのマハムニ仏に祈る人々>

シトウェに戻り、真っ先に、国立シトウェ伝統医療専門病院へ。昨日、空港に出迎えてくれたラカイン州政府の伝統医療監督官らが揃って待っていてくれた。病院の内部を見学させてもらう。男女別に分かれた病棟に行き、15人ほどの入院患者にもインタビュー。
次いで、ラカイン州政府庁舎へ。アウンチョウミン保健大臣に会う。そして、フラマウンティン・ラカイン州政府首相と面談。12月に予定している置き薬配布事業開始記念式典、と配布事業そのものについて、州政府の協力を要請、快諾を得る。
非常に友好的な雰囲気の中で、州首相らと懇談していると、ちくっ。あっ、蚊に噛まれた。州首相の応接室に蚊が飛びこんでくるとは。どうも油断していたようだ。会談を終えて廊下に出ると直ぐに、虫除けスプレーを擦り込むが手遅れ。
政府宿舎を出ると、我々が乗ってきたミニバンではなく、黒塗りのセダンに案内される。戸惑っていると、この車がアウンチョウミン保健大臣の公用車で、大臣の厚意でこの車でホテルまで送ってくれるのだという。
夕食は、ティンニュント博士の知り合いの経営するレストランへ。あちこちから、博士の顔を見て、声が掛かる。ニュント博士は、若い頃、7年間もの間、シトウェの国立病院に派遣されていたのだとか。病院勤務の傍ら、個人でも市内にクリニックを開設していた由。シトゥエを去ったのは、1991年。そして、この間20年もの間、シトウェを再訪する機会がなく、今回が20年ぶり訪問だとか。

               <シッタウン寺の地下には2万体もの仏像が並んでいた>

6時半 起床
7時 朝食
8時 宮城跡、仏教寺院見学
9時 出発
12時 昼食
15時 シトウェ伝統医療専門病院訪問
15時45分 ラカイン州政府庁舎訪問(アウンチョウミン保健大臣)
16時 フラマウンティン・ラカイン州政府首相  
19時 夕食会
シトウェ行きのエアマンダレー機は、5時間遅れ [2011年08月17日(Wed)]
8月17日(水曜日)
今朝は、5時起床。雨は降っていないが、外は、少々曇っているせいか普段にも増して暗いように思える。暗い中を、ティンニュント博士の車で、6時前にホテルを出発。
交通量の少ない薄暗い車道を、何人もの人が我が物顔に歩いている。中には、ジョギングしている人もいるので、これは健康のための運動ということのようだ。ミャンマーの食事は油濃いせいか、お金持ちには太った人が多い。欧米ならジョギングする人が多いのだが、ここでは圧倒的に、歩いている人が多い。「激しいジョギングは却って心臓に悪いからね」と博士。
30分ほどで、ヤンゴン空港に着いてみると、シトウェ行きのフライトは朝7時30分の出発だというのに、何か様子がおかしい。何と、飛行機の出発時間が変わり、3時間遅れの10時40分発になっているのだという。
「そんな連絡は全くなかった。昨日の午後、旅行代理店に運行スケジュールに変更がないことを確認したのに」と、日頃は温厚なティンニュント博士も立腹して抗議するが埒が明かない。空港内のレストランで朝食を振舞う、との申し出を断り、街中のレストランで時間をつぶすことに。
彼によると、昨日、博士の保健省時代の後輩でこのほど、ラカイン州の保健大臣に就任したアウンチョウミン氏が、出張でヤンゴンに来たからと博士を尋ねて来たのだそうだ。
「色々話し合ったあと、明日10時40分発のエア・マンダレー便でシトウェに帰ると言うんだ。エアマンダレーがシトウェ行きを、同じ日に二便も出しているのかと不思議に思ったんだ。それで、代理店に確認したのに、『出発は予定通り』の一点張りだった。エアマンダレーにしたから安心だと思っていたのに」と、済まながる博士をなだめて市内のミャンマー料理のレストランへ。
ミャンマー名物の麺料理、モヒンガーを食べていると、突然、外が暗くなり、猛烈なスコール。ラカインの天気が心配になる。暫くすると、雨が小止みになったので、今度は博士の自宅へ行き、ラカインについてのレクチャーを受ける。ティンニュント博士は、若い頃、7年間もの間、シトウェの国立病院に派遣されていたのだとか。
ラカイン州に住む民族はアラカンとも呼ばれるラカイン族。ラカイン族は、長らく、インド、バングラデッシュにまで及ぶ独立王国を維持し、ミャンマー中央部のビルマ族と対立してきた。ラカインの伝承によればその起源は古く、紀元前3000年以上にまで遡る。
ラカイン族は、ミャンマーでは少数民族の一つに数えられている。しかし、民族的には、ビルマ族に近く、古代ビルマ語の流れを汲むラカイン語を話す。宗教はビルマ族と同じ小乗仏教である。
ビルマ族は、彼らを優秀だが、傲岸不遜な人々として認識しているようだ。博士によると、ビルマ族の間では、アラカンという言葉が英語で「傲慢な」という意味のarrogantの語源になった、という説まであるという。
博士に気になることを聞いてみた。ラカインには自然のままのジャングルが多いと聞く。蚊が媒介する病気であるマラリアやデング熱の問題はないのだろうか。博士の答えは、デングはどこにでもあるが、マラリアについては、今回宿泊するシトウェやミャウーのような市部では、一応、その心配はない、とのこと。
私の周りでは、今年に入って、デング熱にかかる人がなぜか多い。一番かわいそうなのは、プノンペンで過去10年近く私の運転手を務めてくれているソルヤ君の3歳になる女の子だ。一ヶ月ほど前にデング熱に罹ったあと、こん睡状態に陥り、心配したソルヤ君は、彼女をホーチミン市の病院に担ぎ込んだが、意識が戻らない状態が今も続いているのだ。
ニュント博士に回復の見通しについて聞いてみた。それによれば、そのような症状からは脳に機能障害が生じていると判断される。幼児では、生還の可能性は低く、仮に意識が戻ったとしても、重篤な脳障害が残ることになるだろう、とのこと。およそ想像した通りとは言え、今も必死に看病を続けている筈のソルヤ君のことを考えると気の毒で堪らなかった。

              <スーチー女史のカラー写真が現地紙に>

結局、シトウェ行きのエア・マンダレー機は、5時間遅れの12時半になって、やっとヤンゴン空港を出発。搭乗直前に、待合室でラカイン州保健大臣のアウンチョウミン博士と一緒になる。州政府とは言え、大臣ならお供が一緒と思い込んでいたので、一人で書類かばんをもって現れた大臣をみてびっくり。
飛行機は70人乗りターボプロップ機のATR72だった。機内でティン博士が黙って差し出した現地の新聞を見て驚いた。何とアウン・チー社会福祉大臣と並んだスー・チー女史のカラー写真が出ていたのだ。
国の平和や安定、民主主義の進展などに向けて「双方が協力していく」との共同声明を出した。スー・チーさんと政府側との会談は昨年11月の自宅軟禁解除以降、2回目。先月25日と同様、今回も社会福祉相と会ったようだ。例の、障害者行政に理解のある人徳者の大臣である。政府とスーチーさんの間での共同声明は、今年3月まで続いた軍事政権時代を含めて初めて、という。

                     <シトウェ空港に着いた>

結局、ラカイン州の州都であるシトウェに着いたのは、1時45分。当初の予定より5時間も遅くなったにも拘わらず、ラカイン州政府の伝統医療関係者が6人も出迎えてくれた。
ヤンゴン空港を出発するときにはパスポートをチェックされず、自由化がここまで進んだのかと思ったのだが、ここシトウェ空港では、相変わらず、外国人はパスポートの提示を求められた。係官が、一人ひとりの名前を移動許可リスト上の名前と突き合わせていた。
空港の近くにある国立シトウェ伝統医療病院に案内される予定だったのだが、時間がないので病院訪問は明日に延期され、挨拶もそこそこに、8人乗りの中古の日本車に乗せられラカイン王朝の古都、ミャウーへ向け出発。
ラカイン族が打ち立てた諸王朝の中でも最も有名なのがミャウー王朝で、15世紀に建国され、18世紀にビルマ族に滅ぼされるまで350年以上にわたって続いた。当時の栄華を思わせる寺院、王宮の遺構が今でもミャウー周辺に残っているという。
車は、辛うじて舗装されたといえる程度の道を、一路、ミャウーへ進む。シトゥエ・ミャウー間は、直線なら60キロ程度と、大したことはない距離なのだが、デルタ地域には、橋が余り架かっていないので、河口に沿って大回りすることになる。そのため、陸路は全160キロ、しかも、悪路なので5、6時間の行程だという。何とか日没までにミャウーに着きたい、と運転手はほぼノンストップで頑張る。
このミニバンは傑作だった。バックや右左折の都度、女性の声で「バックします」、「右に曲がります」というのだ。しかも、日本語で。日本から運ばれた中古車を、そのまま使っているのだ。
幸い、気温は29度、空は曇ってはいるものの、昨日までの雨は上がったので、今日なら、ミャウーまで陸路での通行は可能だという。途中、一時、小雨が降り始めたり、前日までの雨によって、生まれた巨大な泥濘にひやひやさせられる場面もあったが、夜7時半、暗闇の中を、無事ミャウーに到着。シトウェからは、優に、5時間半の悪路の旅であった。

                      <泥濘の道に緊張する>

夕食は、もう時間が遅く、適当なレストランは開いていないということで、ホテルの調理人に作ってもらうことに。ラカイン料理が良いか、中華かと聞かれたので、勿論、ラカイン料理を注文する。
準備が出来るまで待って欲しい、というので、何時ころ出来るかと尋ねると、8時という。しかし、ニュント博士は、小声で「8時半と考えておいたほうが良い」と私に囁いた。
確かに、料理が完成して、食卓に呼ばれたのは、8時40分頃だった。ラカイン料理というが、ミャンマー料理との違いは余り良く分からなかった。やはり、油で肉や魚を野菜と炒めたり、煮込んだりしたものが数種類、大皿に盛られて、食卓に並ぶ。
何故こんなに準備に時間がかかったのか、その訳が分かった。沢山の品数の料理を、全部作り終えてから呼んでくれたのだ。料理を順番に作って出すのではなく、総て作り終えてからテーブルに並べて食べるのがミャンマーのやり方のようだ。
ヤンゴンで食べる料理も、大体同じやりかたで、料理もスープも、熱々ではなく、生ぬるく冷めてしまっているのを食べるのだが、これも、熱い国ならではの合理的な習慣かも、とひとり納得。

                  <伝統医学関係者とミーティング>

食事を食べ終わると9時過ぎになっていた。さあ、後は寝るだけ、と思っていると、地元の伝統医学治療師たちを説明に呼んであるという。夕方から待っていてくれたのかも知れない。夜の9時半から、伝統医学のミーティングが始まる。
置き薬事業の開始を年末に控えて、地元で開業中の伝統医学治療師たちが、置き薬の配布を自分たちの生業への脅威と看做しているのではないか、と心配していたのだが、どうも杞憂だったようだ。集まった4人の治療師全員が、むしろ、伝統薬に対し、政府のお墨付きが得られるとして、歓迎してくれた。長老格の老治療師が手伝うから何でも言ってくれ、と言って胸を張ったのが印象に残った。
ミーティングを終えて、ホテルの部屋に戻ってみると、ドアの外には火の点いた蚊取り線香が置いてあり、部屋の中は殺虫剤が撒かれたらしく、薬剤の臭いがした。大きな音がする割りには効きが悪いが、一応、クーラーも動いており、安心して、シャワーを浴びると、お湯ではなく水だった。
ベッドの上は、むき出しの毛布が置いてあるだけでシーツがなかったので、昨年、ベトナムで手に入れた薄いシルク(本物?)の寝袋を取り出し、シーツ代わりにベッドに敷き、その中に入って寝る。さらさらして殊の外、気持ちが良い。
眠り始めた時には、クーラーが動いていたのだが、床について暫くすると停電、クーラーは止まり、外の明かりも真っ暗になってしまった。一向に、電気が来る様子がない。幸い、それほど暑くはないのでそのまま眠ってしまう。

                 <ミャウーに行く途中の農家はどれも粗末な作り>


5時45分 ホテル出発
12時30分 ヤンゴン発
13時45分 シトウェ着
19時半 ミャウー到着
20時40分 夕食
21時半 伝統医療治療師との懇談会
ミャンマー自立生活運動本部訪問 [2011年08月16日(Tue)]
8月16日(火曜日)
朝9時、前保健省伝統医療局長ティンニュント博士がホテルに来てくれて、明日からの予定を確認。
目的地はラカイン州首都のシトウェと古都ミャウー。シトウェはヤンゴンの北西560キロ、飛行機では1時間ちょっとの行程だ。かつては、ヤンゴンからは船で行くか、空路で行くかしかなかったが、近年になって陸路も通じており、直通バスが走っているのだそうだ。しかし、ラカイン州は3000メートル級の山を持つアラカン山脈によって、ビルマ中央部と分断されており、陸路では時間が掛かりすぎる。
複数の航空会社がヤンゴン・ラカイン便を運行しているが、博士によれば、明日はエア・マンダレーにした。一番運行が確実だからだという。
ティンニュント博士は、数週間前に出た、政府系英字紙のNew Light of Myanmarを持ってきてくれた。それによると新副大統領が、新政権の保健政策に関する施政方針演説を行い、その中で、日本財団が支援して進行中の置き薬事業にわざわざ言及。政権トップが海外の民間財団と実施中の個別プロジェクトに触れるのは極めて異例だ。テインセイン大統領自身が直接、保健大臣にこの事業の継続拡大を指示したのだそうだ。
新保健大臣が置き薬事業を高く評価してくれているとは前回訪問時に聞いていたが、大統領にまで評価されているとは。これで、我々の仕事は今後、益々やりやすくなりそうだ。
ここへ来て、新政権はスーチーさんとの和解のような政治的な変革だけでなく、民生面でもまた、様々な新方針、改革を打ち出しており、経済改革にも取り組んでいるようだ。ミャンマー政府は15日付けで、従来10%であった、米、豆、ゴムなど主要7品目の輸出税をゼロにすると発表。
  
         <置き薬に触れた副大統領演説を報じる政府系英字紙>

ニュント博士との打合せの後、ホテルの向かいに建つ、ヤンゴンきっての高層ビル「サクラタワー」の中にある、盲人マッサージクリニック「Genky」を訪問。経営者の西垣さんにお話を伺う。
西垣さんとは数年前にバンコクの盲人マッサージ研修会場でお会いして以来だが、私が今回、西垣さんのお話を聞いてみたいと思ったのは、カンボジアの盲人クリニック「Seeing Hands」の経営強化にヒントになるお話しが聞きたかったため。
彼は元々は経営コンサルタント。2009年4月、チャイナタウンに「Genky」1号店を開業。2年のうちに2店舗で21人の盲人マッサージ師を雇用するまでになった。
何と、ここでは、一般のマッサージクリニックが一時間5-6,000チャット(5-600円)であるところを、7,000チャット(700円)と、むしろ割高に料金を設定。にも拘らず、ミャンマー人を中心とする顧客で繁盛している。西垣さんによれば、マッサージの出来る盲人さえいれば、もっと店舗を増やせるという
。 
  
                   <清潔感の漂う店内>

成功の秘訣は、日本のイメージを前面に打ち出すなど、経営のプロの目で、しっかりとした営業戦略を立てて実行したことにありそうだ。カンボジアの盲人クリニックの経営を診断してアドバイスを頂けないものかと、厚かましいお願いをしてみたところ、何と、「良いですよ」との返事。近々、カンボジアに行っていただくことになった。
ここでも、新政権の政策が大きく変わりつつあることを示すエピソードを聞くことになった。社会福祉省は新大臣自らが盲人支援に積極的で、今年に入って、西垣さんたちも協力して、盲人用に医療マッサージの国家資格を与える制度作りが始まったのだとか。何と、我々がタイをモデルにカンボジアなどで、これからやろうとしていることを、新政権が既に実行中という訳だ。
 
 
            <店の名前も日本語 日本式を強く打ち出して成功>

ホテルに戻り、学校建設を担当するNGO「セイダナー」の和田さんと昼食をとったあと、住所だけを便りに、ダウンタウンにあるミャンマー自立生活運動本部へ。ここは、バンコクのAPCD(アジア太平洋障害者センター)に紹介してもらった、若い障害者たちが障害分野の違いを超えて結集、今年5月に旗揚げしたばかりの組織だ。
道に迷って少々約束の時間に遅れてしまった私を心配して、ユタトゥさんが道路まで出迎えてくれた。
代表者のアウンコミンさん、ナイリンソウさんら7人の若者たちが、私を待っていてくれた。アウンコミンさんは盲人、ナイリンソウさんは肢体障害者だ。聾のエイティンザートゥンさんも含め、メンバーの中心は日本の企業、ダスキンの奨学金を得て、日本に留学、障害者福祉を学んだ人たちだ。そのため、アウンコミンさんを初め、日本語が出来る人が多く、今日の話し合いは、日本語を中心に、ところどころ英語を挟むという形で進んだ。

  
            <道路まで出迎えてくれたユタトゥさんは努力の人>

私を迎えてくれたユさんは隻手だった。日本語を流暢に話すので、てっきり彼女もダスキン組かと思ったらそうではなかった。日本に留学したことはなく、日本語学校で勉強しただけ、とはにかんだ。植物学修士号を持つ。
ここでも、社会福祉大臣の評判は上々であった。旧政権では認められていなかった障害者団体連合会が、新政権で認められたという。
ユさんに限らず、メンバー全員が非常に知的で、意欲に燃えた大変気持ちの良い若者たちだった。清清しい思いで、彼らと別れて外に出てみると、夕方の空には不気味な曇り空が広がっていた。
明日の天気はどうだろう。最大の懸念は現地の空模様。ニュント博士によれば、大丈夫だというのだが。本当に、晴れれば良いのだが、、、。

  
                 <不気味な曇り空が広がる>  

9時 前保健省伝統医療局長ティンニュント博士
10時 盲人マッサージクリニックGenky訪問
12時 セイダナー和田さん
14時 ミャンマー自立生活運動本部訪問
18時 マッコム社ハウ社長  
ヤンゴン空港の放射能検査は廃止 [2011年08月15日(Mon)]
8月15日(月曜日)
今年、3回目のミャンマー行き。前回6月の出張で保健省と基本合意した、笹川会長を団長とする代表団の本年末のミャンマー訪問に関する打合せが目的。
ラカイン州で、伝統医薬品の配布事業の式典を行う予定になっている。そのため今回は、ラカイン州の州都シトウェに行き、州政府と打合せをすることになっている。その帰途、カンボジアとシンガポールに立ち寄り、今後の新規事業についての打合せも行う予定。
ミャンマーの西の端、バングラデッシュとの国境地帯にあるラカイン州は、ミャンマーの中でも発展の遅れた地域。特に、雨季には道路がぬかるんで車での移動が困難になり、場所によっては陸の孤島になる、という。そこで、前保健省伝統医療局長ティンニュント博士のアドバイスに従い、例年なら、雨季明けしている筈というこのタイミングでの出張としたのだが、、、。出発前に、入手した情報によれば、最近、現地では、大雨が降って道路事情は最悪だとか。こうなると、「晴れ男」といわれる自分の運を信じる他ない。

  
            <スーチーさんの政治活動再開を報じるタイの新聞>

ヤンゴン行きのタイ国際航空の機内で読んだタイの英字紙のトップ記事は、タクシン元首相の入国を日本政府が許可したというニュース。数ページ進むと、ミャンマーのニュース。それによると、スーチーさんがヤンゴン郊外のバゴーで、解放後初めて政治活動を行ったとか。ミャンマー新政権の変化は急ピッチに進んでいるようだ。しかし、バゴー行きのきっかけは現地の洪水のお見舞いだったとか。
今日の東京の気温は33度、バンコクは32度、ヤンゴンに近づくにつれ厚い雲が現れ、ヤンゴンに着くと雨が降っていた。
ヤンゴン空港には、いつものように国立ヤンゴン伝統医療病院院長のトゥンミンエイ博士が迎えに来てくれていた。前回の入国時とは違って、空港での日本からの入国者に対する放射能検査はもう無くなっていた。そのため、入国手続きは簡単、スムースに進んだ。


              <ヤンゴン空港ではトゥン博士が迎えてくれた>

空港ビルの外に出て、待っていた車を見て驚いた。何と、赤色回転灯が付いた救急車。しかも、中に乗ってみると、外見以上に内面は大変なおんぼろ車だった。ドアはがたがた、シートもぼろぼろだ。「すみません、乗用車が準備できなくて」とトゥン博士。
日本財団がミャンマー保健省との間で進めている、救急車用に日本財団マークの付いた介護車両の中古車を寄付する話をすると大喜び。ひょっとすると、保健省が救急車不足をアピールするため、わざと、今回、私をおんぼろ救急車に乗せたのかも、というのは冗談だが。
お天気の見通しをトゥン博士に聞いてみる。彼によると、2日前に大雨が降り、ミャンマー各地で洪水騒ぎ。そのお陰で気温が下がり、今日のヤンゴンの最高気温は29度以下だったとか。それじゃ、ラカインの天気は、と聞くが、「よく判らないが、雨季はまだ終わっていないのでは」との答え。

  
              <迎えの救急車 外見はまだましだが、、、>

10時50分 成田発
15時25分 バンコク着
17時50分 バンコク発
18時45分 ヤンゴン着
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