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大野修一(日本財団)
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バンコク空港には日本の被災者への支援を呼びかける募金箱 [2011年03月31日(Thu)]
3月31日(木曜日)
大地震に続く、原子炉問題や、比較的大きな余震が頻発するなかで不安顔の家人を残し、今年に入って4回目の出張。
今回は、先ず、カンボジアに行き、プノンペンで伝統医療学校の理事会に出席し、その後、バンコクでのASEAN障害者公共政策大学院の設立調印式に参加。最後は帰途、マニラに立ち寄り、国連平和大学の入学オリエンテーションで日本財団の説明をする、ことなど一週間の行程。
その他、この機会に合わせるかたちで、バンコクではASEANオーケストラに関する打合せを、指揮者の福村さんや、音楽プロデューサーのケン・タンさんらと行う予定。また、マニラではWHOの西大洋州事務局で伝統医療関連事業につき打合せを行う。
今回の出張の一番の目的は、4月4日のASEAN障害者公共政策大学院の調印式。もともと、日本財団の笹川会長自身が出向き、署名する予定で準備を進めていたものだが、笹川会長が東日本大震災の緊急支援のために、直前なって、急遽キャンセル。私が、その代理として挨拶、調印文書に署名することになったのだ。
 

        <プノンペン行きはバンコク空港経由で>
     
いつもは、成田までJRの成田エクスプレスを利用するのだが、今回は、先月の地震の影響で不通のため、京成電車のスカイライナーで空港へ。
成田からは先ずバンコク行きの便に乗る。バンコクでプノンペン行きの航空機に乗り継ぎ、そのままプノンペンへ行く。飛行機の遅れにより当初予定の3時間よりは少し短くなったとはいえ、バンコク空港では十分な乗り継ぎ時間がある。空港内でメールチェックをしたりして過ごす。ふと気がつくと、空港内のあちこちに、日本の被災者への支援を呼びかける募金箱が置かれている。
これまでに、動物愛護とか、自国内の水害などの被害者などへの募金が行われているのは見たことがあるが、外国の被害者へ、それも遠く離れた先進国日本への募金とは、、、。ちょっと感激。

                   <日本の被災者への支援を呼びかける募金箱>

                           <募金箱はこちらにも>

プノンペン空港への到着は、夜の7時半。ところが、空港の外に出てみるといつも迎えに出てくれるはずのソルヤさんの姿が見られない。暫くして息を切らしながら現れた彼に事情を聞くと、火事による交通渋滞とか。
市内のホテルに到着したのは8時半過ぎ。一日先回りしてプノンペン入りしていた日本財団の職員、中嶋君が、ESCの松島さんやCaTMOの高田さんと待ち受けていた。
部屋には入らず、そのまま、ロビーのカフェで明日の理事会などについて打合せ。松島さんの祖父母の家が震災による津波で流されお二人とも行方不明になっていると聞かされる。こんな身近にも大震災の被害者がいたのだ。
10時頃に解散、部屋に入る。眠いはずだ、日本とカンボジアには2時間の時差がある。日本時間ではもう深夜0時だ。
 
  
10時50分 成田発
15時25分 バンコク着
18時15分 バンコク発
19時25分 プノンペン着
20時半 ESC松島さん、CaTMO高田さん
帰国 ベトナムの顔5題 [2011年03月17日(Thu)]
3月17日(木曜日)

10日間の出張が終わった。香港経由で羽田へ。
それなりの成果はあった。いつもなら、疲れてはいても安堵感と達成感とで、明るい気持で帰国するのだが、今回ばかりはそんな気分は全くない。機内で読む新聞も、週刊誌も気持を重くするばかり。
それは兎も角、今回の旅の最後にベトナムの中央高地で撮影した写真を掲載することにしよう。

<ベトナムの顔@ 歌を歌ってくれたエデ族の男の子 >

<ベトナムの顔A エデ族の女の子 小学校の授業中> 


<ベトナムの顔B ニンホアの町のベトナム式炭火焼屋のお婆さん>

   
<ベトナムの顔C ドレイサップ村で会ったハンセン病の元患者>


<ベトナムの顔D 元患者の家で飼われていた子犬たち>


8時 ホテル出発
10時40分 ハノイ発
13時30分 香港着
15時45分 香港発
20時25分 羽田着
ハノイの国立師範学校付属聾学校で授業参観 [2011年03月16日(Wed)]
3月16日(水曜日)
              <手話法による聾学校が開設された国立師範学校>

今回の出張の最初の目的地、ハノイに戻って来た。相変わらず寒い。朝の気温は10度を下回った模様。Vietnam Newsによれば、ハノイ北部の観光地、Sapaでは7年ぶりの雪が降ったとか。Sapaは高度2000メートルの高地なので雪が降らないわけではないが、今朝は海抜1600メートルのドンバン高原でも観測史上初めての雪が降ったとか。ベトナム北部は異常寒波に襲われている由。
VNAHのハイ所長と一緒に国立師範学校へ。寒々しい会議室での聾学校に関するミーティングには、南部ドンナイ省ビエンホアでの手話法による聾学校事業の責任者であるウッドワード教授がホア夫人を伴って参加してくれた。教育省からは責任者のトゥアン部長、師範学校のレ校長、ハン特殊教育学部長ら。寒いので、みんなコートなど防寒具をつけたまま。


                  <聾学校に関するミーティング>
会議は、冒頭にトゥアン部長からの、大災害に遭った日本へのお見舞いの言葉で始まった。昨年来生じた様々な問題について熱心に議論が続いた。結局、終わったのは12時半近く。たっぷり3時間以上にわたった。
その後、全員で昼食をとったあと、トゥアン部長、レ校長を除く我々は聾学校の授業を参観。聾学校一期生である第6学年(中学1年生)の物理と英語の授業を見学した。
このクラスの生徒数は9名。学力と手話の能力をウッドワード教授らがテストし、その結果を踏まえて、11人に入学許可を与えたが、うち2名が辞退、その後は9人で授業を続けている。


                         <手話による物理の授業を見学>

物理の先生は若い女の先生だが、早くも手話をマスターし、力の入った授業を見せてくれた。「彼女が手話のレベルは一番」とウッドワード教授も満足げ。
ついで、別の教師による英語の授業。生徒達の英語の読み書き能力は予想以上。英語を始めてまだ一年目というのが信じられないほど。どうやら、ベトナムではベトナム語自体がアルファベット表記である上、主語、動詞と続く統辞法も英語に少し近いので、アルファベットから学ばないといけない日本人と比べると、初心者にとって、最初のハードルは低いのかもしれない。


           <予想以上にハイレベルの英語の授業>
その後、石井君と一緒に、一旦ホテルに戻り、VNAHのカバントラン代表、ハノイ事務所長のハイさんと新しいプロジェクトの構想につき意見交換。
その後、夕方6時からは教育副大臣のヒエン博士ら教育省幹部らと夕食。ここでもヒエン副大臣からのお見舞いの言葉で始まった。
ベトナム政府が表明した対日支援の金額が少なく大変申し訳ないが、ベトナム人は、大災害にも拘わらず社会秩序を保ち、助け合いながら懸命に努力している日本人の勇気と冷静さに敬服している、と。

                <夕食を終えて教育副大臣らと>

8時15分 ホテル出発
9時 国立師範学校打合せ
13時15分 聾学級授業参観
16時半 VNAH打合せ
18時 教育副大臣との夕食会
チャオプラヤー川をシルラート病院までボートで遡る [2011年03月15日(Tue)]
3月15日(火曜日)
                <タイの新聞も原発見直しと報道>
福島の原発事故の処理が予想以上に長引く中で、世界中の目が原子力発電の安全性の問題に注がれ始めている。タイの英字紙The Nationも、一面の見出しは原発のこと。アビシット首相はタイの原子力政策の見直しに言及したとか。地球温暖化に対する切り札であるとして、先進国に加えて新興国でも原子力発電所の建設計画が目白押しである。
現在、世界中で442もの原子炉が稼働中という。それに加えて建設中のものが65、この他、計画が進んでいたものが155。今回の事故を踏まえて、今後、これらの計画が見直しを迫られること必至であろう。


                         <サトーンの船着場から出発>
さて、私は今朝はマヒドン大学の医学部に開設された義肢装具士学校(SSPO)のニサラット校長と面談するため、チャオプラヤー川の向こう岸にあるシルラート・キャンパスに行かねばならない。これまでは、SSPOのスタッフのタニットさんが彼の車で送り迎えしてくれていたのだが、前回からは渋滞に巻き込まれることもなく車よりずっと確実な水上バスを利用することになった。
ただ、先方はタイ語の分からない私一人では心配、と思ったらしく、いつものタニットさんを私が船に乗り込むサトーンの船着場まで迎えに寄こしてくれた。
前回田澤先生に船の見分け方を教わっていた私としては、少々不満であったのだが、結局、タニットさんが来てくれたことは大正解であった。というのも、時間帯の違いから今回は、前回利用した「黄色い旗」の快速船ではなく、「水色の旗」の特急船「ツーリストボート」を利用することになったため。彼がいなければ、この便利な船を見逃し、長時間、快速船を待つことになったかもしれない。


       <今回利用した特急船「ツーリストボート」>
 SSPOの校長室でニサラットさんが待っていてくれた。たっぷりと二時間にわたって、前回の理事会の際にドラマチックなかたちで表面化した諸問題の、処理と解決策に就いて話し合うことが出来た。最初は打ち沈んでいたニサラットさんであったが、最後は明るい晴れ晴れとした表情で私を見送ってくれた。昼食に誘ってくれたが、今朝、急に連絡が入ったASEAN事務局長特別顧問のラジャさんと会わねばならないのでお断りし、船着き場へ。
帰りも特急船「ツーリストボート」。ツーリストボートというだけあって、朝来た時よりぐっと外国人観光客が多くなっていた。
片道料金は25バーツと割安。再び、タニットさんに切符を買ってもらうが、帰り道は分かっているのでと、彼の同行の申し出を断り、一人で船に乗る。


 
                      <チャオプラヤー川から川岸を臨む>
ホテルに戻り、部屋の荷物をまとめるなどチェックアウトの準備をしてフロントに降りていくと、ASEAN事務局のラジャさんが待っていてくれた。彼はベトナムからバンコクに着いたばかり。今回も2週間以上旅を続けているが、自宅のあるシンガポールに帰るのはまだ数日後になりそうという。
昼食を取りながら、カンボジアの焼き物プロジェクトや、ASEANオーケストラなど懸案事項について打ち合わせ。
これから再び、ハノイに向かわねばならない。午後3時にホテルをチェックアウトすると、顔なじみの従業員から「さっき日本の震災への募金を済ませたところです。タイ人はみんな日本を応援しています」と言われ、ジーンとなる。今までさんざん日本人には助けてもらった。今度は自分たちの番、とばかりにアジアのあちこちで日本への募金運動が始まっているのだ。情けは人のためならず。ということか。本当に有難い限りである。


           <サトーンの船着き場で昼寝をする犬と人>
ハノイへ向かう機内で読んだタイの英字紙Bangkok Postによれば、福島の原発事故への対策として、フランス大使館を始め、東京から本国人スタッフを避難させ始めた国や外資系企業が出ているとか。シンガポール政府はすし店用の鮮魚など日本から輸入される食品類に対する放射能検査を開始したとのこと。フィリピンでは雨が日本から飛来した放射能物質に汚染されて危険とのデマが飛び、ある私立大学は休校に踏み切ったとか。
日本を脱出するわけにもいかない大多数の日本人はどんなに不安な日々を過ごしていることだろう。政府、東電には福島原発の処理を急ぎ、一日も早く無害化を実現してもらいたいものだ。
ハノイのホテルにチェックイン後、日本から到着していた日本財団の石井グループ長と合流。今回の会議の重要性に鑑みて、震災の直後にも拘らず駆け付けてくれたのだ。日本の様子を聞いたあと、明日の会議に向けて打ち合わせ。


8時50分 ホテル出発                
10時 マヒドン大学ニサラット教授と打合せ 
13時 ASEAN事務局長ラジャ特別顧問
15時 ホテル出発
17時35分 バンコク発
19時20分 ハノイ着
21時 石井グループ長打合せ
APCD財団理事会に参加 [2011年03月14日(Mon)]
3月14日(月曜日)
今朝もテレビの前で、地震のニュースを追う。今や各国の報道陣の関心は津波の爪痕から、原子炉の問題にシフトしつつあるようだ。なぜこんなに手間取っているんだろう。万一、このまま、原子炉の抑え込みに失敗するような事態にでもなれば、チェルノブイリ以来の悪夢が現実になってしまう。

..................................................<タイのテレビも原発問題に関心>
朝、王宮近くにあるAPCD(アジア大平洋障害者センター)へ。朝の今の時間、道路は渋滞なので、今日もスカイトレインを利用。最寄の「戦勝記念塔駅」まで行き、APCDのビルまで15分ほど歩く。
APCD理事会が始まったが、暫くはAPCDの事業報告と、決算報告。その後、今後の計画の中で、デリック教授が改めてスクリーンを使ってIDPP構想をプレゼンテーション。APCD財団理事からは賛同するとの意見表明がなされ、あっさり計画通り承認された。


...........................................................................................<APCD財団理事会でIDPPをプレゼンするデリック教授>
その後、デリック教授は堀内さんや吉田君とマヒドン大学へ。私はAPCDに残り、ニノミヤさんと佐野さんと検討中の新しいプログラム「Inclusive Business」について意見交換。
その後、再び、ホテルに戻るためBTS(スカイトレイン)に乗る。BTSには駅構内と各車両の車内に日本の山手線などと同様サイズの液晶テレビが据え付けてあり、案内放送やコマーシャルが流れているのだが、コマーシャルの間に今回の日本の地震に対するお見舞いのメッセージがタイ語と日本語、英語の3ヶ国語で流れているのを発見。そこには、「今回の東北地方太平洋沖地震と津波でたくさんの方々が被害にあわれました。日本の皆様に心よりお見舞い申し上げます」とあった。バンコク交通局の粋な心配りであった。


.................................................<BTS駅構内テレビ画面のお見舞いメッセージ>
午後4時、つい最近、タイを代表する英字紙「The Nation」をやめたばかりの有名ジャーナリスト、カビさんを囲んでIDPPの調印式に向けての広報戦略会議を行った。自身が一時は半身不随で回復が絶望視されるという稀有な経験をして以来、障害者のために親身になって支援してくれるカビさんだが、今回も、調印式の日程と重なる形で既に決まっていた海外出張をキャンセルして、調印式当日の記者会見を手伝ってくれることになった。
また、さらに、何と、マルチタレントのカビさんがキャスターを務めるテレビで特集番組を作ってもらうことになり、シンガポールにテレビクルーが出向き、盲人留学生のジョニさんやユーウエンさんをインタビューしてもらうことが決まった。持つべきものは有能な支援者である。


                        <カビさんを囲んで打合せ>

                       
8時20分 ホテル出発
9時半 APCD理事会
12時半 昼食
13時 APCD打合せ
16時 カビさんとの打合せ
18時半 IDPP関係者夕食会
APCD財団トップと夕食 [2011年03月13日(Sun)]
3月13日(日曜日)

.......................................................<震災の被害は益々拡大>
今日も早く目覚め、早朝からテレビの前で、日本のニュースを追う。原子炉の問題が解決しないまま深刻化しているのが気になる。タイの新聞も原発事故を一面で報道。
これまで日本の原発関係者は原子力発電所は絶対に安全だと言い続けてきた。いかなる大地震でも原子炉の損傷には至らない5重の安全策が取られているから、というのが説明であった。しかし、予想外の規模とは言え、あっさりと津波で水を被ったことで、非常用電源が使えなくなるとは。
今回の事故により世界規模での原発見直し論が生じるのは避けられまい。今回の地震は日本史上最大規模の「東北関東大震災」として歴史に刻み込まれるのだろうが、世界史的には災害の規模、死者の数以上に、世界のエネルギー問題に与えた影響で記憶されることになるのではなかろうか。


............................................................................................................<原発事故に関心が集まる>

12時、共同通信の沢井支局長と朝日新聞の古田記者と同時に会い、IDPP(障害者公共政策大学院大学)設立への準備状況と、4月4日にマヒドン大学で予定している調印式のことを説明。このIDPPは、世界初のユニークな取り組みであることを力説して、当日の取材を依頼。
その後、一旦ホテルの部屋に戻り、再び、テレビの画面を追う。各国のテレビが一様に称賛していたのは、未曾有の災害にも関わらず冷静さを失わない日本人の態度。確かに、これまで大規模地震の後は多くの国で略奪や暴行など治安上の問題が生じた。そうでなくとも、人々は、口々に不満を漏らしたり怒りを爆発させていた。日本はカオスの中にあるが不思議なほど静かなカオスである。


......................................................<各国のテレビニュースも称賛>
夕方、重い腰を上げて、夕食会の会場となっているホテルへ。道路の混雑に巻き込まれるタクシーを避け、スカイトレインで最寄り駅まで行き、徒歩でホテルに到着。時間前であったが、タニン元首相や、テート元外務大臣らAPCD財団のトップは既に全員集まってくれていた。
車の手配ミスから、アメリカン大学のデリック教授は未着。彼を待つ間の話題は、専ら日本の地震と原子炉の事故の件。ニノミヤさんが気を揉むうち、デリック教授が遅れて到着。ようやく、APCD財団重鎮との夕食会が始まった。
ここで、デリックさんからIDPP構想の中身についての事実上の説明がなされ、それに対するAPCD財団重鎮からの積極的な賛意が示された。明日の理事会での承認はもう得られたのも同然だ。


............................................................................................................ <タニン元首相から記念品を受け取るデリック教授>

12時 共同通信沢井支局長 朝日新聞古田記者
18時 APCD財団主催夕食会
大地震のニュースでもちきり [2011年03月12日(Sat)]
3月12日(土曜日)

                      <現地の新聞2紙を拡げる>

浅い眠りから夜明け前に目覚める。真っ先に、テレビをつける。地震と津波による被害は当初報じられたものより、さらに大きくなっているようだ。部屋に届いた地元の新聞も、一面すべてを使って日本の被災を伝えていた。
昨日と同様、ホテルの部屋からは何故かパソコンが繋がらないので1階のビジネスセンターへ行き、メールチェック。
世界のあちこちからお見舞いのメッセージが届いていた。30分ほど掛けて返事。そして、部屋に戻り、その後もチェックアウトぎりぎりまで、テレビのニュースに噛り付いて過ごす。仕事をしようと持ってきた書類もあるのだが、目を通す気分になれない。


          <シンガポールのタクシーにも韓国車が増えた>

午後2時、チェックアウトし、タクシーで空港へ。私を日本人と知って、インド系と見られる運転手との会話が始まった。「日本人はえらい。こんな大きな災害に遭ったのに冷静だ。被災地でもしっかり秩序が保たれている。大したもんだ」「そうですか、有難うございます」と言っているうちに彼はヒートアップ。
「日本人の観光客を乗せることもあるが、日本の女の子は品が良い。その点、韓国人は女の子も傲慢だ。会社の方針で今はこうやって韓国の車を運転させられているが、俺は本当は日本車のファンなんだ」と話は脱線。
そう言われて見ると、このタクシーは韓国のヒュンダイ製。確かにシンガポールでも近年、韓国車が増えた。以前はタクシーは日本車が多かったが、いつの間にか韓国車が増えた。観光客でも日本人が減り、代わって韓国人が増えているのかも。韓国企業の躍進ぶりから見れば不思議ではない。
「日本人ならきっと乗り越えるさ」と励まされてタクシーを降りる。



シンガポール空港でバンコク行きにチェックイン。係員からは全日空の成田行きが欠航になったことを知らされる。待合室では大勢の乗客が日本の地震のニュースを伝えるテレビ画面を息を潜めるようにして眺めていた。あちこちで交わされる色んな言葉の会話の中に「ツナミ」という日本語由来の言葉が飛び交っていた。                     <シンガポール空港待合室のテレビ>

バンコクのホテルでも再びテレビに齧りつく。震災の被害推計は時間を追う毎に益々拡大しているようだ。

14時 ホテル出発
16時00分 シンガポール発
17時25分 バンコク着
日本で大地震発生す [2011年03月11日(Fri)]
3月11日(金曜日)
いつものホテルに泊まっているのだが、何故か、今回に限って、自分の部屋からは何故かパソコンが繋がらない。仕方なく、ビジネスセンターへ行き、メールチェック。
その後、9時にホテルからタクシーに乗り、シンガポール国立大学リークアンユー公共政策大学院へ向かう。シンガポールではタクシーの運転手と会話を交わすことが多い。運転手に何故か話好きの人が多いからか、それとも、運転手でもみんな英語を解するか。
それにしても、今朝の運転手の話は、凄かった。彼は私が明日はバンコクに移動すると知ると、懐かしそうに、自分がタイに住んでいたときの話を始めた。そして、それは警察の指名手配を逃れるためだった、というのだ。「実は、若気の至りで、ギャングの抗争で人殺しをしてしまってね、、、」返事の言葉に詰まってしまった私に、彼は続けた。「勿論今はギャングとは足を洗って、堅気だよ。真面目な、タクシー運転手、という訳さ」

                 <リークアンユー公共政策大学院のビル>

リークアンユー公共政策大学院に着いてみると、ワシントンからやってきたデリック・コグバーン教授や、バンコクのAPCDの所長のニノミヤさんとアシスタントの堀内さん、日本財団の担当者、吉田君と手話通訳のお二人が待ち構えていた。早速、リークアンユー大学院副院長室の会議室で打ち合わせが始まった。
デリック教授から昨年8月の会議以降の進展につき報告。半年ほどの間にプロジェクト実現に向けて非常に大きな進展があり、沢山の作業が積み上げられた。トゥミネス院長補佐が一番驚いたのはアメリカン大学の修士号が付与されることになった、というニュースだった。普通なら3年はかかるところをデリックさん達は半年でやり遂げたのだ。
そして、4月4日にバンコクのマヒドン大学で行う調印式には、リークアンユー公共政策大学院を代表して、トゥミネス博士が出てくれることになった。



                          <障害者公共政策大学院について打合せ>
トゥミネス院長補佐との会議のあと、私はインドネシアからの盲人留学生、ジョニさんとの打ち合わせがあるというニノミヤさんたちを残し、面会の約束を取り付けてあった国立図書館のジョンソンさんと会うために、ホテルに戻った。
彼は、この春からシンガポール国立大学の南アジア研究センターの副所長に就任することになった。今後、可能な分野で日本財団との連携を深めたい、とのこと。
ジョンソンさんと昼食の後、部屋に戻って何気なくテレビをつけた私に、びっくり仰天する大地震のニュースが襲いかかった。
慌てて、東京に電話しようとするのだが、国際電話回線に通話者が殺到したためであろう、何べんやっても繋がらない。漸く、自宅とつながり家族全員の無事を確認。間もなく、東京の日本財団から中嶋君の電話が入る。全員無事とのこと。取り敢えずは一安心だ。
ただ、テレビは、NHKのヘリコプターが上空から生中継で流す恐ろしい津波が荒れ狂う様子を流している。どれもこれが今、日本で本当に起きているとは信じられない衝撃的な光景だ。私はテレビから目を離すこともできず、そのまま、夕方の約束の時間ぎりぎりまでテレビに噛り付いていた。


                <マリーナベイサンズ屋上からの眺め>
約束の時間が近づいたので、後ろ髪を惹かれる思いでテレビの前を離れ、今シンガポール中で話題のカジノのあるマリーナベイサンズのホテルへ。食事の前にこの新しいビルの屋上のスカイテラスへ登って見た。目の前には素晴らしい眺めが広がっていた。
開店したばかりの日本料理店での鉄板焼きの食事は美味しく、参加者の評判も上々であった。しかし、日本で発生した地震のことを皆気にかけていた。尤も、それが未曾有の大惨事であると知ったのはもっと後になってからのことである。
食事の後、デリック教授の音頭で、もう一度、今度は夜景を見るべくビルの屋上に登った。眼下に広がる景色は昼間以上に美しかったが、今、この瞬間に日本で起きている惨事を考えると、心から楽しむ気分にはなれなかった


                    <夜景も大変美しかったが、、、>

ホテルに戻り、再び、テレビを点ける。NHKは勿論、CNNやBBC、ドイツやフランス、地元シンガポールのテレビ局までどのチャンネルでも、日本のニュース一色であった。
地震直後に発生した巨大な津波が町を押し流し、建物を飲み込む様子が生々しく写し出される。目の前に広がる悪夢のような光景に、涙が止まらない。
私は、深夜晩くになって漸くテレビを消してベッドに横になったが、胸が息苦しく、頭も重く、なかなか寝付くことが出来なかった。


9時半 シンガポール国立大学リークアンユー公共政策大学院
13時 Johnson Paul氏
18時 関係者夕食会
ニャチャンは、ベトナム屈指のビーチリゾート [2011年03月10日(Thu)]
3月10日(木曜日)
                            <海浜リゾート都市ニャチャンの朝>
今日は、ホーチミン市経由でシンガポールに移動する日。朝食を一緒に取った後、陸路でプレイクに行くというカバントランさんと分かれる。
ホーチミン行きの飛行機まで時間があったので、タクシーの運転手に頼んで市内を一回り。ニャチャンは、ベトナム屈指のビーチリゾート。元々は、フランス領インドシナ時代に、フランス人用のリゾートとして開発されたのだとか。
白砂のビーチが約5キロに渡って続く。近年は、洒落たカフェやレストランも次々とオープンしている。最近では、外資企業による観光開発も漸く盛んになり、私の泊まったホテルの近くでも、外資系の大手チェーンによる高層ホテルの建設が進んでいた。


                     <開発計画が進むが、、、>
数年前には国際的なミス・コンテストの会場になるなど、市政府も国際観光都市を目指して、ビーチ沿いの道もきれいに舗装するなど開発を進めている。だが、昨年、ある米国系の調査会社がそのようなムードに水をさす調査結果を発表し、話題になった。
それは、東南アジア各国の代表的なビーチリゾートを比較するというもので、ベトナムからはニャチャンだけが選ばれた。そこまでは良いのだが、そこで発表されたランキング結果によると、市政府自慢のニャチャンは何と、アジアの各リゾート中、最下位となったのだ。
社会主義国特有の硬直的なサービスや、国際的水準にはまだまだ遠いホテルなどの設備が低い評価となったのが原因らしい。自慢の鼻をへし折られた市政府が大変なショックを受けたのは言うまでもない。


                       <カムラン湾は軍事上の要衝>

実は、ニャチャンには、白砂のビーチリゾートとは対照的なもう一つの顔がある。ニャチャンの町の南、40分ほどのところにある飛行場の直ぐ南に広がるのはベトナム戦争時代、米国の海軍基地で有名なカムラン湾。
ベトナム戦争終結後、最近までロシアに貸与されロシア海軍の基地となっていたのだが、天然の良港とされ、今ではフィリピンのスービック基地を失った米国が虎視眈々と狙っているのだとか。
タクシーの運転手に頼んで、空港に行く前に、カムラン湾に立ち寄ってもらった。歩哨の写真を取って、ニャチャンの飛行場に向かう。気が付けばこの飛行場の正式名称は、カムラン国際空港だった。
                   <ニャチャン空港の正式名はカムラン国際空港>
             
何と、ベトナム政府には首都をハノイからここニャチャンに移すという構想があるのだそうだ。ハノイは冬は厳しく寒く、夏はまた蒸し暑く過ごしにくい場所だが、ニャチャンは一年中温暖で風光明媚、南北に長いベトナムの中央部というよりは南部にあるが、何かと対立する二大都市ハノイとノーチミン市ではなく第三の都市という考えもわからないではない。
しかし、それ以上に、この構想の裏には、ベトナム政府の国防上の配慮があるのだとか。近年、ベトナム沖の南沙諸島にまで触手を伸ばして来ている中国に対する警戒である。ハノイは中国との国境に近すぎる、というのだ。ニャチャンなら防衛拠点カムラン湾に近い、ということなのだそうだ。
飛行場に入ってみると、滑走路にはウラジオストックエアーと表示された飛行機が停まっていた。ロシア人観光客を運んできたチャーター機だろうか。



14時 ホテル出発
15時55分 ニャチャン発
16時50分 ホーチミン着
19時50分 ホーチミン発
22時50分 シンガポール着










.                            .<ロシア人観光客を運んできたチャーター機?>
バンメトートはベトナムのコーヒー生産の中心地 [2011年03月09日(Wed)]
3月9日(水曜日)
ハノイから同行してくれているカバントランさんと一緒に、ダクラク省の省都バンメトートに向かう。彼が主宰する国際NGO「HealthEd」が日本のNGO「AEFA」と組んで実施中の学校建設支援事業の対象校の一つ、ティントゥオン小学校はバンメトートの郊外にある。
ニャチャンから目的地までは凡そ220キロとのことだが、今回は現地で宿泊せず、今日のうちにニャチャンに帰ってくる予定だ。ダクラク省までは車で、片道4、5時間かかるということなので、今朝は朝食も取らずホテルを朝7時に出発、海岸沿いに国道一号線を北上する。
40キロほどで、高原地帯へ向かう国道26号線との分岐点、ニンホアの町に到着。フォーの朝食で腹ごしらえし、26号線を西へ向かう。たちまち険しい山道になる。比較的最近、山の斜面を強引に切り開いて道路の拡張を行ったらしく、道幅こそ余裕はあるが、路面には山から落ちてきた大小さまざまな岩がころがっている。帰りは、暗くならないうちにここを通り抜けねば危険だ。


                       <道路際にはコーヒーの樹が白い花をつけていた>
山道を抜けると、車はなだらかな高原地帯に入った。ダクラク省だ。道路際に、何やら白い花を一杯つけた潅木の林が続く。コーヒーの花だ、という。この辺りは、ベトナムのコーヒー生産の中心地なのだそうだ。
ベトナム戦争中、バンメトートには南ベトナム軍の重要な基地がおかれており、北ベトナム軍との間の熾烈な攻防戦で知られているが、もともとは、フランス植民地時代以来のコーヒー生産地。近年、ベトナム産コーヒーの品質は改良され、ベトナムはブラジルに次ぐ、世界第二位のコーヒー輸出国に躍り出ている。
コーヒーブームはこの辺りの経済改善に大きく貢献しつつあるようだが、もともと、カンボジアと国境を接するこの地域は「セントラルハイランド(中央高地)」と呼ばれるベトナムでも開発の最も遅れた場所だ。少数民族が多く住み、一般に、外国人の立ち入りは規制されている。ハノイ在住の日本のマスコミ関係者からも、マスコミの取材許可がなかなか下りない、と聞いている。
カバントランさんによれば、特に最近は、中東情勢もあり神経質になっているのだそうだ。当然、今回の我々の入域も予め当局の許可が取ってあるとのことだったのだが、、、。
携帯電話で何やら連絡を取っていた、カバントランさんが、突然焦り出す。入域許可を得ていた筈なのに、地元当局の担当者に連絡が届いていない、というのだ。あちこちに電話を掛け捲って漸く、バンメトートの教育部と連絡がつき、手配が間に合った、と聞き一安心。


               <エデ族の学校 ティントゥオン小学校>
ニャチャンを出発して4時間半。車は思った以上にこざっぱりした町に入った。ダクラク省の省都バンメトートだ。幹線道路に沿って、何やら、沢山の幟や看板が並べられている。カバントランさんによると、これらは総て数日後に始まるコーヒー祭りを知らせるものだとか。
今年でまだ3回目だというが、年々、規模が大きくなり今年は国内のみならず海外からの招待者も入れて数千人が参加する一大イベントなのだという。そのためにバンメトートへは、航空機の臨時便まで飛ぶという。その煽りで、近隣の飛行場では定期便が欠航になるという事態が生じているのだとか。
はて、入域許可が必要なセントラルハイランドと、コーヒーフェスティバルは両立しそうにないように思えるが、この時期だけは規制の対象外ということなのだろうか。


                <子供たちがエデ族の踊りを披露してくれた>

バンメトートのレストランで昼食。省政府のお役人二人が加わる。食事を終えて、全員一緒に車で45分ほど離れたチョンアナ郡ドレイサップ村へ。二人は我々の監視役ということのようだ。
ここのティントゥオン小学校は、HealthEdが日本財団の資金で3年前に建てかえたもの。1年生から5年生まで5学年、生徒総数324人の殆どが少数民族エデ族だ。
彼らの母国語はエデ語だが、小学校に入学する前の2年間の幼稚園生活を通じて標準ベトナム語を身につける、という。
AEFAのアレンジにより神奈川県の保土ヶ谷中学校と姉妹校提携をしている。職員室には日本の子供たちから送られた書道や絵入りのポスターなどが飾ってあった。


                               <授業を受ける子供たち>
ドレイサップ村の人口は約9000人。村を構成する9つの地区のうち、4つが少数民族エデ族の地区。うち、二つの地区はハンセン病のコロニー。昔、フランス人宣教師が、近隣地区からハンセン病患者を集めて、クリニックと一緒に開設したものだとか。この小学校の子供たちの親は総てこれらのハンセン病の元患者なのだそうだ。
ティントゥオン小学校の視察を終え、子供たちの両親が住む村を訪ねた。65歳だというある村人は、35年前にここから40キロ離れた村からこのクリニックに連れて来られたのだ、という。もう何年も前にハンセン病は完治してクリニックを出たが、ここに住み着いている。「何故って、ここではみんなハンセン病の元患者なので、白い目で見られることが余り無いから」なのだそうだ。

村人と話したりしてすっかり遅くなってしまった。間もなく4時になろうとしている。
 

暗くなるまでに山道を通り抜けて、ニャチャンに戻らねばならない。運転手も車を飛ばす。高度差は900メートルという山道に差し掛かったときにはとっぷり日は暮れてしまっていた。冷や冷やしながら下り坂を走り、国道一号線との合流点で遅めの夕食。ニャチャンのホテルに戻ったのは、夜の9時過ぎ。
              <教室には靴を脱いで、、、>

7時 ホテル出発                
8時 朝食
11時半 ダクラク省政府教育部関係者 
14時 ティントゥオン小学校訪問
15時半 ドレイサップ村訪問
19時 夕食  
21時 ホテル帰着
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