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大野修一(日本財団)
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帰国---私の旅の工夫(7) [2011年02月19日(Sat)]
2月19日(土曜日)
このあとスリランカに向かう中嶋君と分かれ、私は早朝の便で帰国した。
今回、中嶋君は私の説得に折れて(?)プノンペンの地元のテーラーでサファリスーツを仕立てることになった。
これは、上衣が半袖で、その下にはワイシャツもネクタイも不要、という東南アジアの気候には極めて相応しいスーツである。スーツというだけあって上下一体であるが、何とオーダーメードのコストが22ドル。
この「スーツ」はもともとはアフリカの狩猟などのために欧米人が開発したもののようだが、東南アジア一帯で広くフォーマルな衣装に準じるものとして使われていたもののようだ。


<半袖で涼しいサファリスーツ>
私が始めてこのスーツを知ったのはカンボジアに駐在していた商社マンの先輩から。「大臣クラスと会うときもこれで失礼になることは無い」とのことで、彼の行きつけの店に案内してもらったのだった。確かに、初めてフンセン首相と彼のオフィスで会った時、フンセン首相自身も同じサファリスーツ姿であった。
その後、フンセン首相を始め、カンボジアでは大臣クラスは背広姿が一般的になったようだが、今でも公務員の多くはサファリスーツ姿が少なくない。上衣が長袖のバージョンもある。
カンボジアほどではないが、アジアの他の国でも、サファリスーツ姿の人を見かける。ベトナム、シンガポール、タイ、スリランカ、等々。これらの国の警察官のユニフォームもそうだ。


                                          <背広姿に変身も可能>

私は、それ以来、東南アジアでは極力半袖のサファリスーツをフォーマルスーツ代わりに愛用している。ただ、難点は、東南アジアでは会議室など室内が冷房でがんがんに冷やされえいることが多く、風邪を引きそうになることだろうか。地球環境上は冷房を緩めサファリスーツを活用することではないかと思うのだが、、、。
また、警察官のみならず、ホテルでは従業員やガードマンなどの制服になっていたりするので、間違えられることもあるので御用心。
私の工夫は、このサファリスーツと共布の生地で背広の上衣を作っておくこと。そうすると、二種類の上衣をスーツケースに忍ばせておけば必要に応じて、サファリスーツ姿でも背広姿にでも変身が可能だ。ズボン一本分の荷物も節約できる。これが、私の旅の工夫(7)だ。

                 <サファリスーツを仕立てる中嶋君>

6時 ホテル出発
8時30分 シンガポール発
16時20分 成田着

ジャカルタでの一日 [2011年02月18日(Fri)]
2月18日(金曜日)
朝7時、チェックアウトを済ませ、荷物を持って出迎えの車に乗り込む。ジャカルタ郊外のジャカルタ義肢装具士学校(JSPO)で理事会が始まった。司会はカンボジアトラストのインドネシア代表で前オックスフォード大学教授のピーター・ケアリーさん。インドネシア側代表は保健省のギアトノ次官補。彼は、自分自身事故か何かで一時、車椅子状態であったとかで、この事業には最初から大変な理解者であり推進者である。

             <インドネシア義肢装具士学校(JSPO)理事会>

理事会の後、中庭に出て、建物の改修を記念する表示板の除幕式を行った。この学校は、元々は日本政府の公的資金援助を受けて出来た看護婦養成校のために建てられた建物。その後、使われぬまま放置されていたのを保健省から譲り受け、内外装を改修して使っている。今回保健省から正式な移管を受けたのを機会に除幕式となったもの。

               <改修の終了を記念する表示板の除幕式>

除幕式の後、引き続き報告会が行われたが、私と中嶋君は途中で退席。わざわざ、迎えに来てくれたASEAN事務局の伝統医療事業責任者のジンタニさんと一緒に迎えの車に乗り込む。
午後からはインドネシア政府保健省でのASEAN伝統医療会議の打合せ。その前に、保健省の近くのショッピングモールでインドネシア料理で、昼食を取ることにした。
ショッピングモールの中に入ってびっくり。ピンクの花飾りはてっきりインドネシアにも多い華僑の人たちのための旧正月を祝うものかと思っていたら、何とHappy Valentineと書かれているではないか。
そう言えば、今回プノンペンでもホテルの従業員の若い女性が今日はバレンタインデー云々、と話しているのを小耳に挟み、そうか今日は14日かと感心した記憶がある。


              <何とインドネシアでもバレンタインデー>

昼食後、直ぐ近くの保健省へ。ASEAN事務局長特別顧問のラジャさんも合流して会議が始まった。
ASEAN事務局と協力して今年はインドネシア政府が主催でASEAN伝統医療会議を行うことが確認された。置き薬事業にも関心があるようだった。
会議を終えて皆で記念撮影。インドネシアでは、最近、公務員は毎週金曜日は民族衣装のバテックを着て執務しようという通達が出たとかで、女性も男性もバティック姿。私も、バティック風の長袖シャツで便乗。常夏の東南アジアでは背広ネクタイ姿はこっけいだ。


               <インドネシア保健省での会議を終えて>

記念写真を終えて、今夜はシンガポールの自宅に戻るというラジャさんと一緒に空港へ。シンガポール到着は夜遅い11時。いつも空いている空港出口のタクシー乗り場は珍しく長蛇の列。
そこで中嶋君と私はラジャさんと別れ空港と市内を結ぶ地下鉄を利用することに。しかし、空港地下駅に着いてみると、市内までの電車は終了したとのアナウンス。それでも強引にプラットフォームにいた電車に乗り込むが、郊外の途中駅が終点。
結局、二人で道路に出てタクシーを拾うことに。ホテルに着いたのは夜中1時過ぎ。疲れた。


7時 ホテル出発
8時半 JSPO理事会
9時半 除幕式
11時 ASEAN事務局ジンタニさん
14時 インドネシア保健省会議
20時20分 ジャカルタ発
22時55分 シンガポール着           
ジャカルタへ移動途中、シンガポールに立ち寄る [2011年02月17日(Thu)]
2月17日(木曜日)

                  <プノンペン空港は憩いの場所?>

ESC顧問の森さんらと朝食を取った後、日本財団の担当者の中嶋君と二人で空港に向かう。カンボジアでの仕事を終えたので、今日は最後の目的地ジャカルタに向かうのだ。ジャカルタでも明日は日本財団が支援する義肢装具士学校(JSPO)の理事会が開かれるのだ。ついでに、インドネシア政府保健省で今年のASEAN伝統医療会議の打合せをすることになっている。
ただ、ジャカルタ行きの便がシンガポール経由であるのを利用してシンガポールでもう一つ仕事をすることにした。今後、ASEANオーケストラを手伝ってもらう予定のシンガポール在住の音楽家ケンタンさんとの面談だ。
面談の場所は、これまで外から見るだけで中に入ることの無かったカジノビルであるMarina Bay Sands。その中の日本料理店で食事を取りながらケンさんと今後のASEANオーケストラの進め方について意見交換。


               <シンガポールに着いた カジノビルが見える>

明日は、その日の内にジャカルタからシンガポールに戻り、二人ともシンガポールで一泊することになっているので、シンガポールで泊まる予定のホテルに大きな荷物を置き、一泊分だけの荷物を持ってジャカルタへ。遅い時間にも拘らず義肢装具士学校を技術面でサポートする国際NGOカンボジアトラストのカーソン理事が出迎えてくれた。市内までのタクシーの中で、パソコンを開いて熱心に明日の理事会について説明してくれたが、私は睡魔に襲われて朦朧としていた。Sorry, Carson.

9時 ESC森顧問
10時 ホテル出発
12時20分 プノンペン発
15時20分 シンガポール着
17時 ケンタン氏打合せ
21時50分 シンガポール発
22時35分 ジャカルタ着
23時 カンボジアトラスト・カーソン常務理事
二つの理事会に出席 [2011年02月16日(Wed)]
2月16日(水曜日)

           <カンボジアの子供たち@ 物憂げにハンモックに揺られる>

今日は理事会二つ。午前中は中学校の教員養成奨学金とラジオ放送による英語教育を実施中のESC-Kizunaの理事会。午後には、プノンペンでの伝統医療学校を運営するカンボジア伝統医療機構(CaTMO)の理事会。双方に、当方がお願いして、前駐カンボジア日本大使の篠原さん、官房副長官のブンサンボ氏に就任していただいている。そのため、二つの理事会はこのところ同じタイミングで開催してもらっている。
朝早く、CaTMOの高田アドバイザーにホテルに来てもらい、午後の理事会に向けて相談。その後、ブンサンボ官房副長官に迎えに来てもらい、車中でESC-Kizunaの理事会の人事に関する打合せ。


              <カンボジアの子供たちA やし砂糖作り>

朝11時、ESC-Kizunaの理事会が始まった。昨年10月に始まったばかりのラジオを使った中学校用英語教育についての現状報告。予想以上に好評。顧問の森さんや松島さんらの献身的な努力のお陰だ。
ESCの理事たちとの昼食会には福村さんらにも加わってもらいASEANコンサート計画をアピール。その後、福村さんと齊藤さんを案内して、カンボジア盲人協会(ABC)へ。ブンマオ事務局長に会い、カンボジアでのASEANオーケストラによるチャリティーコンサートにつき相談。
それを終えて、保健省へ。カンボジア伝統医療機構(CaTMO)の理事会が始まる。こちらはESC-Kizunaとは逆に様々な問題が山積しており、話はまとまらなかった。3月末までに、仕切り直しを行うことに。


           <カンボジア伝統医療機構(CaTMO)理事会は難航>

CaTMO理事会の後は、カンボジアの地雷被害対策を総括する政府機関CMAAのチュンブンロン事務局長と夕食を囲む。バッタンバン州で地雷除去に取り組んでこられた自衛隊出身の高山さんも一緒だ。
チュンブンロンさんは、日本財団が約10年前にカンボジアの地方で行った100校の小学校建設事業のパートナー社会基金の総裁だった人。今は、大臣級のポストであるCMAA事務局長に就き、フンセン首相顧問の肩書きも持っている。所謂、政府高官の筈だが、そんな素振りは少しも見せない。苦労人で情熱家、私とは「ブラザー」と呼び合う中だ。焼き物事業に関心があるというので責任者の山崎さんも同席してもらった。福村さん、齊藤さんも加わり賑やかな宴席となった。


             <カンボジアの子供たちB 仲良くテレビ鑑賞>

8時 CaTMO高田さん
10時半 ブンサンボ官房副長官
11時 ESC理事会 
13時 ESC昼食会 
14時半 カンボジア盲人協会ブンマオ事務局長
16時 CaTMO理事会 
18時 CMAAチュンブンロン事務局長
オンドーンルセイ村の焼き物プロジェクトを視察 [2011年02月15日(Tue)]
2月15日(火曜日)

                  <カンボジア政府文化省ビルで>

中嶋君やESC森顧問らと朝食の後、別のホテルに泊まっていた指揮者の福村さん、マネージャーの齊藤さんと合流し、文化省へ。ASEANオーケストラの打合せに国際局長室へ。しかし、セン・ソト国際局長は別の会議が長引いているとのことで、パナサストラ大学の芸術学部長のサムアンサム教授らと打合せ。
私と、中嶋君は途中で会議を中座し、ホテルに戻る。その後、私は、ASEAN関係のセミナーで別のホテルに滞在中のASEAN事務局のラジャ特別顧問をピックアップ。コンポンチュナン州で進行中の焼き物プロジェクトの現場に案内するためだ。
途中、ある街の地元のレストランで昼食を食べようとすると、様々な種類の食べ物を担いだ婦人たちが入ってきて、我々に盛んに売り込む。季節の果物や、青い蓮の実などの定番品に加えて、何故か、すっぽんの丸焼きと生の卵。どうやら精力剤らしい。


              <おばさんたちが様々な食材を売り込みに>

我々は彼女らの商品を色々覗き込んだり質問したりはしたが、何も買わなかったが、めげるでもなく、がっかりした様子でもなく、入ってきたときと同様に微笑を浮かべたまま売り子のおばさんたちは静かに去って行った。
結局コンポンチュナンに着いたのは2時半過ぎ。町の入り口で焼き物専門家の北村さんと合流し、プロジェクトの現場であるオンドーンルセイ村へ先導してもらう。
村に着いてみると、リーダーのパウさんを始め数人の女性が集まり轆轤を回したり、生乾きの器に模様を刻む作業などをしていた。登り窯には、素焼きのための火が入っていた。
このプロジェクトも二年目を迎え、釉薬をつけた陶器作りが段々軌道に乗りつつある。製品はプロジェクトの責任者の山崎さんが運営するカンボジア産品の展示ショップで、一個、数ドルから20ドルくらいの値段を付けられて試験販売されている。最近では、月間の売り上げが600ドルくらいになるという。


                    <轆轤を回す参加者たち>

ついでに、プロジェクト現場のお隣の家を案内してもらう。この家でも、この村の殆どの家と同じように素焼きの壷つくりが生業。
北村さんによれば、我々のプロジェクトが軌道に乗るにつれて、興味をもったらしく時々は釉薬を使う本格的な焼き物作りの様子を見物に来たりしているというが、彼らはプロジェクトには参加していない。
この家では奥さんが一人、轆轤を使わない伝統的な製法で作っていた。我々がその様子を覗き込んだり、写真を撮っても嫌がる風でもはにかむ訳でもなく、微笑を湛えたまま自然体で作業を続行。大きな壷を手際よく作っていく。しかし、これ程の大きな壷でも素焼きでは1個の値段はせいぜい50セント。材料の粘土はただではなく、専門の土堀人から買うわないといけないし、素焼きの火のための薪代もかかるので彼女の手元には一体いくら残るのだろうか。
彼女の隣では、まだ小学生くらいの男の子が、なにやら火の上の大鍋をかき回している。椰子(やし)砂糖を作っているのだそうだ。彼の父親が早朝、砂糖椰子の高い木に登りてっぺんから集めてきた蜜が材料なのだそうだ。


                    <オンドーンルセイ村の家屋>

オンドーンルセイ村での視察を終え、同じ道をプノンペンに戻った。丁度、コンポンチュナンの郊外で、若い女性たちを荷台に満載したトラックが何台も何台もすれ違う。衣料品工場の女工さんたちを自宅に運ぶトラックなのであった。
いつか、近い将来、我々のプロジェクトで生まれた陶器作りがコンポンチュナンの人々に伝承され、素朴な素焼きの焼き物が、地元で取れる釉薬で覆われた陶器に生まれ変わる日が来れば、彼女たちも、自宅で工賃の高い陶器作りに励むようになるのかも知れない。


                   <家路に向かう女性労働者たち>

8時半 ホテル出発                
9時 文化省国際局 サムアンサム教授と打合せ 
12時 ホテル出発
12時半 ASEAN事務局長特別顧問ラジャさんピックアップ
14時半 コンポンチュナン焼き物プロジェクト視察
17時半 ニョニュムショップ訪問
19時 文化省セン・ソト国際局長らと夕食
シルラートまでチャオプラヤー川の水上バスで往復 [2011年02月14日(Mon)]
2月14日(月曜日)

            <チャオプラヤー(メナム)川を下る水上バス>

今日は、マヒドン大学で実施中の義肢装具士学校(シルラート医学部シリントーン義肢装具士学校)の理事会の日。いつもは、大学のスタッフに車でホテルまで迎えに来てもらっているのだが、今回は陸路ではなく、チャオプラヤー川の水上バス(船)を利用してみることに。
学校のあるマヒドン大学シルラート医学部キャンパスはチャオプラヤー川の向こう岸にあるため、大回りして橋を渡るよりも、水上バスで往復する方がずっと時間の節約になる筈なのだが、これまで船の乗り方が分からず躊躇していた。今回は、この事業の技術顧問をお願いしている田澤博士が、今日の会議の事前協議のためにホテルまで来ていただけるというので、御厚意に甘えて、案内役をお願いすることにした。


                  <サットーンの波止場 ここから水上バスに乗る>

朝6時、バンコク滞在中のスリランカのNGOセワランカ財団のハルシャ会長が重要な相談があるからというので、ホテルで朝食を取りながら面談。その後、田澤博士と日本財団の担当者の中嶋君と三人でホテルの前からBTS(スカイトレイン)に乗り、タクシン橋で下車。ここからはサットーンと言う名の船着場までは指呼の間。船を待つ間、田澤先生から水上バスのシステムについてミニ・レクチャーを受ける。
程なくすると、教えてもらったとおり黄色い旗をつけた急行船が到着。乗り込んでみると、船の中は、通勤客らしき地元の人たちだけでなく観光客らしき外国人もいて結構込み合っていた。
船が進むに連れ、段々と空いてきたと思う間もなく、見慣れたシルラート病院のビル群の目の前の波止場に到着。丁度、30分ほどの船旅。確かに、渋滞の市内を車で移動するのに比べるととっても早くらくちん。今度からは絶対船旅だ


               <朝の水上バスの乗客は勤め人たちと外人ツーリスト>

ここシルラート病院は、タイ国内だけではなくアジアでもトップクラスの病院として知られる大変権威のある病院だ。ここには現在も、体調の優れないプミボン国王が入院中だが、ここの医学部長が国王の主治医を勤めるなど、タイ王室とは特別の関係にある。また、この病院にルーツを持つマヒドン大学もその名は現国王の父君に由来するという、タイでは知らない人のいない名門大学だ。
マヒドン大学シルラート医学部こそが、日本財団が2001年から始めた義肢装具士養成校の設置先である。この学校を、義肢装具士養成校の教員資格である国際資格一級の認定校にし、日本財団がカンボジア、スリランカ、インドネシアなどの周辺国で支援する二級校からの生徒を受け入れてもらうのが設立当初からの夢であった。そして、昨年ついに、国際義肢装具士協会の審査の末、暫定の認定であるとは言え、一級校に認定された。
今回の会議では、暫定の資格を永続的なものにするための課題とその対応策が話し合われた。


                  <シルラート病院は国王が入院中>

会議が終わると直ぐ、私は田澤さん、中嶋君と分かれ、船着場に取って戻し再び水上バスで今度は逆ルートをたどりホテルに戻った。APCD(アジア大平洋身体障害者センター)のニノミヤ所長と障害者公共政策大学院(IDPP)の打合せの時間が迫っていたためだ。引き続き、ニノミヤさんと一緒にタイの英字紙ThaNationの職を辞したばかりの有名ジャーナリストのカビさんとIDPPの広報戦略について打合せ。
彼は一昨年、私たちがAPCDと一緒に主催した盲人の若者のセミナーで講師を務めてくれて間もなく、急性髄膜炎に由来する半身麻痺になった。だれもが彼の回復は難しいと悲観的になっていたのではなかろうか。ところが何と、数ヶ月間の闘病生活の後、奇跡が生じた。彼は劇的に回復し、今では殆どつえも突かず歩き回れるようになった。そして、それまで以上に熱心な障害者問題のサポーターになって我々の仕事を手伝ってくれている。
ニノミヤさんが、本日のTheNationの紙面には、1ページ全体を使ってカビさん執筆によるプレアビヒア紛争に関する大きな解説記事が出ていると教えてくれた。カビさんに、「退社したのでは」と尋ねると、「引き続き、解説記事を書くことにしている。日本では考えられないかもしれないが、タイという国では何でもありなんでね」とにやり。


                <本日付TheNation紙面のカビさんの記事>

カビさんとの面談を終えると、慌てて部屋に戻り、まとめてあった荷物を取ってホテルをチェックアウト。夕方のラッシュが始まる前にスワンナプーム国際空港へ急がねばならない。これからプノンペンへ移動するのだ。
プノンペンの空港に着くとCaTMOの高田アドバイザーらが迎えに来てくれていた。車の中で明後日の理事会に向けた打合せ。ホテルに着いて、ESC顧問の森さんらと打合せ。


6時 セワランカ財団ハルシャ会長
7時半 田澤博士
9時 SSPO理事会
12時 APCD所長ニノミヤさん
14時 カビさん
15時 ホテル出発
18時25分 バンコク発
19時40分 プノンペン着
21時 ESC森顧問
ヤンゴンからバンコクへ [2011年02月13日(Sun)]
2月13日(日曜日)
朝9時、昨夕食事で一緒になったばかりの保健省の前の伝統医療局長ティンニュント博士にホテルに来てもらい、来年から始まる置き薬事業の第二フェーズについて意見交換。彼はアウンミン現局長とは今も頻繁に連絡を取り合う仲。昨日のネピドーでの現局長との合意内容を報告し、今後の取り組みに付きアドバイスをもらう。
これまで、この伝統医薬品を用いた置き薬事業については現保健大臣のチョウミン博士の熱心なサポートの下で進められてきたが、今度の新体制移行に伴い、彼の引退が予定されている。しかし、新任の大臣は既に決まっているようで、間もなく発表されるとのこと。幸い、新大臣はアウンミン伝統医療局長の大の親友だとか。西洋医だが、伝統医療にも大変理解があり、日本財団との事業にも大変深い関心を示してくれている由。これなら日本財団の事業の先行きも安心だ。

                     <日本名のついた美容院@>

ティンニュント博士と入れ替わりに、ミャンマー外務省OBのエルウインさんがやって来た。元ASEAN局長ということもあり、彼には昨年のベトナムでのASEANオーケストラの団員探しを手伝ってもらったので、改めてコンサートの様子を報告するとともに、今後の方針について説明。昨年秋のコンサートのプログラムを持参し、手渡したがことのほか喜んでくれた。
そして、彼はその場でヤンゴンでのオーディションの結果選ばれてASEANオーケストラに参加した二人のミャンマー人の若者に電話をして呼び出した。うち、バイオリンのペピョー君は都合がつかず、電話でだけの話になったが、ビオラ奏者のジャスパー君は突然の誘いにもかかわらずホテルに駆けつけてくれた


                     <日本名のついた美容院A>

昼食を、シャン州で学校建設を担当するNGOセイダナーの白木さんと和田さんとホテル内の日本料理店で済ませたあと、旧知のシンガポール人のビジネスマン、ホウさんと会って色々情報交換。
彼から聞いた話や、保健省のお役人から聞いた話、などなどを総合すると、アウンサンスーチーらのグループがボイコットした今回の選挙は、海外のメディアからは、まやかしであると批判されているようだが、当事者のミャンマー人の間では、「重要な第一歩である」として予想外に積極的な評価を受けているということのようだ。勿論、庶民の間には、スーチー信奉者も多く、将来への慎重な見方も少なくないようだが、新大統領への個人的な人気もあるようで、一般的には予想外に明るい空気を感じた。
ホウさんに彼の車で空港に送ってもらい、バンコク行きの飛行機に乗り込む。


                      <街が明るくなった?>



                      <お金持ちの邸宅@>



                      <お金持ちの邸宅A>


9時 ティンニュント博士
10時半 エルウインさん
12時 セイダナー白木さん
16時 ホウさん
19時40分 ヤンゴン発
21時35分 バンコク着
首都ネピドーへ飛行機で日帰り [2011年02月12日(Sat)]
2月12日(土曜日)      
朝5時、約束どおりトゥンミンエイ院長が迎えに来てくれた。真っ暗な街をヤンゴン空港へ。5時半という時間にもかかわらず、国内線ターミナルは既に活気付いていた。
今の気温は18度くらいか。この時季は昼の最高気温も25度余り。暑さが緩和する今は、ミャンマーでは観光シーズンだ。ツーリストらしき白人の姿もちらほら。待つこと暫し、院長たちが窓口で手続きをしてくれたお陰で、私はすんなりと搭乗券を手にすることが出来た。
彼らと別れ、ターミナル内部へ。しかし相変わらず、そこにはゲート番号はおろか一切の掲示ボードもなく、唐突にアナウンスと共に、滑走路への扉が開くという国際線とはちょっと異質の世界だ。
そもそも、搭乗券には、搭乗予定時刻もゲート番号の表示も無く、ただ、飛行機の便番号と手書きの座席番号が書かれているのみ。
しかし、一年前にはなかった英語のアナウンスと、飛行機までの空港バスが導入されていたのは、大きな進歩だ。ただ、ビルマ語と英語が切れ間無く続くアナウンスは聞き取りづらいことこの上も無い。「ネピドー」という言葉に立ち上がり、係員に何度も念押しして空港バスに乗り込む。


               <国内線待合室には外国人ツーリストも>

案内された飛行機はオランダのフォッカー社製の85人乗りのF28。驚いたことに、機内は全くの満席。白人の観光客や、どう見ても、政治都市ネピドーとは無縁にみえる地元客が大勢乗り込んでいる。はて、ネピドーはまだ外国人観光客や、ミャンマー人とは言え一般の市民には開放されていない筈だったが、、、。
果たして、ネピドで降りたのは前の座席に固まって座っていたお役人らしき10数人のみ。あとで政府関係者に尋ねた所によると、ミャンマー人には、原則、訪問のための許可は不要になったそうだが、まだ外国人観光客には開放されていない由。


             <がらがらのネピド市内の道路に何故か信号機>

ネピドー空港には保健省職員で日本留学組のミンミンタンさんが迎えに来てくれていた。私が会う予定のアウンミン伝統医療局長は土曜日にもかかわらず、保健省の執務室で私を待ってくれているという。
今日2月12日は「ユニオンデー」。ミャンマーが連邦国家として一つの国になることについて、各民族が合意文書に調印した(1947年)ことを記念する大変重要な祝日なのだ。そのための記念行事が首都ネピドーを初め国内各地で行われる。
アウンミン局長は朝の式典に参列した後、夕方からは別の行事に出る予定でそれまでの時間を私のために割いてくれるというのだ。


             <新国会議事堂はギネスも認める世界最大規模>

アウンミン博士は1年前に伝統医療局長に就任する前は、マンダレーの伝統医療大学の学長。英語が堪能で誠実な人柄。日本財団がミャンマーで実施中の置き薬方式による伝統医薬品配布事業は、日本財団の笹川会長の話に感化された現保健大臣のチョウミン博士の指示で前局長のティンニュント博士が始めたものだが、前局長から引き継いだアウンミン新局長もこの事業の価値を高く評価し、全力を挙げて取り組んでくれている。我々にとっては、これ以上の人はないと思えるほどの信頼できるパートナーだ。
アウンミン博士とは、昨年10月にハノイで行われたASEAN伝統医療会議で会って以来だが、ハノイでは二人で話しあう時間がなく、今度、改めてゆっくり時間を取り、この事業の今後について相談しようと言うのがその時からの約束。3年前に始まったこの事業の第一フェーズは今年で終了する。来年からどのような考え方と規模で継続するのかが課題であった。
幸か不幸か、今日は休日で他のスタッフも不在だったので、二人だけでたっぷり2時間半ほど話し合うことが出来た。私の今回のネピドー訪問は日帰り。帰りの飛行機は12時出発の一便のみ。これを逃すとヤンゴン行きの便はない。慌てて、空港に送ってもらう途中、ニュータウンの中のカフェテリアでミンミンタンさんも加えて三人で軽食を取りそのまま飛行場へ。ネピドー空港の小さなターミナルの向こうでは巨大な国際線ターミナルの建設が進行中であった。


                <建設中のネピドー国際線ターミナル>

午後1時過ぎ、ヤンゴンに戻る。昨夜以来、少々寝不足だったのでホテルで暫く休息を取った後、夕方、再びトゥンミンエイ院長に迎えに来てもらい、インレー湖畔のとてもお洒落なレストランへ。保健省OBで前伝統医療局長のティンニュント博士が待ってくれていた。夕闇が迫る湖を眺めながらミャンマービールで乾杯。
最近開店したばかりというこのレストランは、美しい景色が楽しめるインレー湖畔というロケーションに加えて、子供たちも楽しめる大型の野外遊具や野外コンサートのステージなども併設したアミューズメントパークのような作りが売り物。連日大盛況なのだそうだがそれも頷ける。場内はうきうきとしたヤンゴン市民の明るい表情で溢れていた。


                   <インレー湖畔の洒落たレストラン>

5時 ホテル出発
7時10分 ヤンゴン発
8時 ネピドー着
8時半 保健省アウンミン伝統医療局長
11時 昼食
12時 ネピドー発
12時50分 ヤンゴン着
18時 ティンニュント博士
バンコクで乗り継ぎヤンゴンへ一人旅 [2011年02月11日(Fri)]
2月11日(金曜日)
今年2回目の出張は、ミャンマー、タイ、カンボジア、シンガポールとインドネシアへ9日間の旅。今回の出張のきっかけは、18日にジャカルタでの義肢装具士学校(JSPO)の理事会が開かれることになっていたこと。そこで、これに併せるかたちで、14日のバンコクでの義肢装具士学校(SSPO)の理事会の開催が決まり、次いで、16日にはプノンペンでの伝統医療学校を運営するカンボジア伝統医療機構(CaTMO)の理事会が決まり、最後に、同じ日に中学校の教員養成奨学金とラジオ放送による英語教育を実施中のESC-Kizunaの理事会を開催してもらうことにした。
さらに、ならばと、少し欲張って直前にミャンマーに足を伸ばし、現地で進行中の伝統医療事業についての打合せを行うことにしたほか、昨年ベトナムで成功裏に実現したASEANオーケストラの継続に向けた諸業務や、インドネシアでのASEAN伝統医療会議の打合せなどを盛り込んだことから、出張に要する期間は少し長くなり、会合や協議など満載の日程になった。
  
         <ヤンゴンのシンボル、シェダゴンパゴダが夜空に輝く>

出張の途中で、日本財団の担当者と合流したり、ASEANコンサートの件では、指揮者の福村さんたちと行動を共にしたりする予定だが、ミャンマーまでは私の一人旅となった。
出発時の東京は凍える寒さであったが、バンコクの気温は32度と真夏。いつものように、飛行機に乗って間もなく、ダウンジャケットなど防寒具は折りたたんでバッグの中に仕舞い込む。
バンコクで1時間半ほど待って、ミャンマー行きのタイ国際航空機に乗り継ぐ、機内で見たタイの英字紙TheNationのトップは、カンボジアとの国境に立つプレアビヒアでの交戦のこと。昨年11月に現地を訪問した際に出会った兵士や彼らの子供たちのことを思い出す。あの時は、全くののんびりムードだったのだが、、、。

         <独自資金によって建てられた近代的なヤンゴン新空港ビル>

ほぼ定刻にヤンゴン空港に降り立った私を国立ヤンゴン伝統医療病院のトゥンミンエイ院長らが出迎えてくれた。伝統衣装のロンジーと呼ばれるスカート姿だが、これが今もミャンマーでは公務員の制服である。日本を含む西側諸国の経済制裁が続く中、ミャンマー政府の独自資金によって建てられたという近代的な空港とのコントラストが面白い。

         <ロンジー姿のトゥンミンエイ博士らが迎えてくれた>

保健省の車で、市内のホテルへ移動する。昨年の5月以来のヤンゴンだが、たかだか9ヶ月くらいの間に、街が小奇麗になった気がする。その理由をトゥンミンエイ院長らに尋ねるが、「さあ、そうでしょうか」とつれない。自問自答して、私なりの答えに気が付いた。そうだ、市内を走る車が新しくなったからではないか。これまでは、ミャンマーの街には恐ろしいほどポンコツの中古車で溢れていたのだが、今は、おんぼろの中古車も走ってはいるものの、いわゆる「新古車」も増え、中には新車らしきものさえ見える。はて、以前は、新車の輸入は原則禁止と聞いていたのだが、、、。院長によれば、確かに半年ほど前に新車輸入規制が緩和されたのだとか、、、。

                  <ホテルは中国正月の飾りつけ>

ホテルに着いてみると、正月を祝うデコレーションでとても華やか。そうか、このホテルは華僑資本によるもの。旧暦の正月は一週間前に始まったばかりだ。
ミャンマーではつい最近、新大統領が選出されたばかり。微々たるペースではあるがミャンマーなりの「民主化」プロセスが始まったことで、今後は一層、街が明るくなるのだろうか。

              <街が明るくなったのは車がきれいになったから?>

ホテルにチェックインの後、翌日のネピドー行きの打合せ。日本では買えないので代わって購入してもらっていたヤンゴン-ネピドー間の飛行機のチケットを受け取る。チケット代は45ドル。高速道路が開通したので車で行くことも出来るが4時間以上かかる。今回は日帰りなので飛行機にした次第。
その飛行機の出発時間は早朝の7時10分。ミャンマーの決まりでは国内線でも、出発の二時間前までのチェックインが求められている。噂によれば、軍人や公務員の利用が優先されるので、遅くにチェックインすると、座席が無くなってしまうのだそうだ。
だが、トゥンミンエイ院長は「心配ない、5時にホテルに迎えに来るから」と言い残して帰っていった。


10時50分 成田発
16時05分 バンコク着
17時55分 バンコク発
18時40分 ヤンゴン着
19時半 保健省トゥンミンエイ博士

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