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大野修一(日本財団)
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帰国 私の旅の工夫(6) [2011年01月21日(Fri)]
1月21日(金曜日)
今日で長かった二週間の出張も終わった。今回は、3カ国の殆どで予想外の寒さに襲われ、久しぶりに旅先で風邪をひきそうになった。幸い風邪が悪化し寝込むようなことは無くて済んだが、常備薬のおかげかもしれない。
そこで「私の旅の工夫(6)」は私の常備薬について。 
こういう時の私の秘密兵器は、プロポリススプレーと葛根湯の錠剤、それとガラナの粉末の3点セットである。久し振りに今回は、これらをフルセットで動員することになったが、いつもは、症状に応じてどれか、ひとつか二つを服用する。
プロポリススプレーはのどの痛みを感じた時に、葛根湯錠剤は風邪気味かなと感じたら、ガラナ粉末は疲労困憊という時の特効薬である。考えてみるとどれも伝統医薬である。
以下、今回の出張中にスリランカで撮った写真の中から紹介しきれなかったものを、脈絡なく紹介しよう。


@ スリランカの食べ物「ホッパー」
インド系の料理にはなぜか麺類はない(と思う。確かインド人にもそう言われたことがある)ところが、スリランカにはString Hopperという米で造ったソーメン状の食べ物があり、朝食などでは定番だ。しかし、スープに浮かせるのではなく、ご飯と同じようにカレーの添えとなっている。

                <String Hopperという米で造った「ソーメン」>

A 日本語の看板
日本びいきのスリランカには、日本語を使った店の名前や商品の名前をよく見かける。これは、MIYOKO。といってもバーの名前ではない。建設機械を扱う輸入商社の名前のようだ。

              <日本語に由来する名前の看板を多く見かける>

B 日本製の中古車
日本の宅急便会社がスリランカにまで進出しているのではない。日本と同じ左側通行である上、日本車に対する信頼の高いスリランカには、日本製の中古車をみかけることが多いが、敢えて日本語の表記を残していることが少なくない。カッコいいと思われているようだ。そのため、時には、車体を塗りなおした後、見よう見まねで日本語の文字を勝手に付けたりすることも。今回は、全くさかさまに文字をつけて走っている車を見つけたがシャッターチャンスを逃してしまった。

                <日本語の表記を残したままの中古車が多い>

C 3つの言語で書かれた道路標識
四半世紀以上続いたスリランカの内戦の一因が、多数派のシンハリ人によるタミル人に対する言語の押し付けにあったというのが定説だが、今は、道路標識はスリランカ全土でこの看板のようにシンハリ語(最上段)とタミル語(中段)、英語の3つの言語で書かれている。

                      <3つの言語で書かれた道路標識>

D タミル人の子供たち
キリノッチの学校で出会った子供たち。全員がヒンズー教徒だ。

                   <キリノッチの学校で出会った子供たち>

               
6時 ホテル出発
8時15分 バンコク発
16時05分 成田着

マヒドン大学とIDPP設置協力で基本合意 [2011年01月20日(Thu)]
1月20日(木曜日)

            <広大なサラヤキャンパスにあるマヒドン大学本部>

朝8時、マヒドン大学の学生食堂にタイ国歌が流れた。朝食を取っていた学生たちは立ち上がり直立不動。APCD所長の二ノ宮さんに教えられて我々も慌てて不動の体勢を取る。タイでは毎日の習慣だとは知っていたが、実際に遭遇したのはなぜか初めて。
我々一行は総勢5人。昨日、ワシントンからバンコク入りしたアメリカン大学のデリック・コグバーン教授、ASEAN事務局長特別顧問のラジャさん、二ノ宮さんと彼のスタッフでこの障害者大学院担当の堀内佳美さんと私。これから、マヒドン大学幹部との打ち合わせに臨む前に朝食を取ろうと学生食堂を訪れたのである。


               <ピヤサコール学長らマヒドン大学最高幹部と会議>

マヒドン大学は、チュラロンコン大学やタマサート大学に比べると日本での知名度こそ劣るが、タイでは極めて格式の高い名門校である。マヒドンという名前は現国王の父君であるマヒドン公に由来する。マヒドン公はアメリカで近代医学を修めて帰国したのだが、若くして夭折。
タイ政府は、彼をタイの医学近代化のシンボルとして、最も古いシルラート医学校をマヒドン大学と改名し総合大学に昇格させたという訳だ。そのような経緯から、マヒドン大学の中心は今も医学部で、二つの医学部が設けられている。そのうちの一つシルラート医学部に付属する病院には、タイ王室専用の棟が設けられており、病気療養中の現プミボン国王は今もその病棟に住んでおられる。この病院は、ある調査機関による病院の国際ランキングでは日本も含む全アジアの病院中最高のランクとされているほど。現学長のピヤサコール教授は、シルラート医学部の前学部長で国王の医師団長を務めたという人物である。我々日本財団の支援によりマヒドン大学に設置したシリントン義肢装具士学校の理事会にはいつも出席していただくなど懇意にしている。


             <情報学部のジャレンスリ学部長(女性)を挟んで>

今回は、今年の9月の開校を目指して準備中のASEAN IDPP(障害者公共政策大学院)のパートナー校にマヒドン大学が名乗りを上げたため、本準備プロジェクトの責任者であるアメリカン大学のコグバーン教授に当大学の最高幹部にプロジェクトに関するプレゼンテーションをやってもらうともに、大学としての意思を確認するための会合。
30分以上にわたるコグバーン教授の説明をじっと聞いていたピヤサコール学長は「この素晴らしい構想を支持する。是非、一緒にやりましょう」と意志表明。その後、我々は大学院担当のバンチョン学部長らと協議を続け大枠での合意に達した。その後は、情報学部のジャレンスリ学部長の案内で学内を見学させてもらった。


               <情報学部の素晴らしい校舎から中庭を望む>

学内見学を終えて、キャンパス内のとてもおしゃれなレストランで昼食を取った。ベトナム行きを始めこの一週間近く行動を共にしていたASEAN事務局のラジャさんとは、これでお別れ。
我々は、コグバーン教授、二ノ宮さん、堀内さんとAPCD(アジア大洋州障害者発展センター)の事務所に行き、予算面での打ち合わせを続けた。
この間、英語の得意な堀内佳美さんは視覚障害者用の音声ガイダンス付きのパソコンを駆使して会議の様子をメモしてくれた。今回、コグバーン教授のタイ訪問に当たっては、ホテルの手配、航空運賃の払い戻しなど一切の事務は堀内さんが仕切ってくれ、毎日のコグバーン教授のホテルへの送迎、会議の場所への案内も彼女が仕切ってくれたのである。前回のシンガポール出張時は、全盲の彼女が一人で帰って来たのだという。
彼女に秘訣を尋ねると、「私は人間性善説です。自分自身の経験で、殆どの人が親切で善良であることを知っています」という答えが返って来た。障害者を深く知る専門家である二ノ宮所長は、「障害者でも最小限の配慮さえすればどんな仕事でも任せられますよ」、と微笑んだ。堀内さんは二ノ宮さんご自慢の部下なのである。


                <庭園の中のおしゃれな学内レストラン>

予算の打ち合わせの後、夕食で集まることにして散会した。私は一旦ホテルに戻り、用事を済ませ交通渋滞もあって約束の時間に10分以上遅れて、指定されたレストランに集合。今夜の深夜便で米国へ帰国するコグバーン教授は、堀内さんに付き添ってもらってホテルに戻り、荷物を持ってレストランにやって来た。堀内さんはタイ語も堪能なので車の運転手など英語を解さない人との交渉役にはうってつけ。コグバーン教授も彼女にすっかり依存しているようだ。
堀内さんが視覚障害者であることに気が付いたレストランのウエイトレス達は誰も皆とても親切だった。驚いたのは、会計の時、私が堀内さんを指し、「この人、タイ語上手でしょうと」と言ったら、彼女らは一瞬きょとん。堀内さんのタイ語が余り上手なので、さんざん喋っていながら、今の今まで彼女はタイ人だと信じて疑わなかったというのだ。堀内佳美さん、頭が良いだけでなく、努力の人でもある。
夕食を終えて、コグバーン教授は堀内さんと一緒に空港へ。私は遅れて合流したテレビ朝日の西支局長の車でホテルに送ってもらった。


6時45分 ホテル出発
8時半 マヒドン大学ピヤサコール学長
10時 情報学部訪問
13時 昼食
14時半 APCDで協議
19時 テレビ朝日 西支局長
今年のベトナムの干支は猫 [2011年01月19日(Wed)]
1月19日(水曜日)
今回、ホーチミンで泊まったのは初めてのホテル。部屋に入ってみると、大通りを隔てて目の前は大きな公園だ。私は心配であった。いっそ、部屋を変えてもらおうかとおもったほど。
というのも、ハノイでは、夜も開けやらぬ早朝なんと5時前から、目の前の湖を囲む遊歩道の小さなスペースで、大きな音楽と掛け声とともにエアロビクスが繰り広げられ、その騒音に悩まされたためである。
翌朝、ホテルのフロントにいったい何事だったのかと尋ねてみたが、「ああ、体操をしているんです」の一言。そう言えば、ベトナムに限らず、東南アジアの各国では、お祭りや結婚式は勿論、お寺の祭礼などでも巨大なスピーカーを持ち込んで大音響を流すことが多い。


                <公園で早朝から体操をする人々>

町中の車のクラクションや、ショッピングビルでのBGMなど、一般に、騒音に対する許容度合いがかなり大きいようなのだ。しかし、今回のホテルは幸いそのような問題はなし。早朝の公園では、テニスやジョギング、ダンスをする人があちこちにいたが音楽はなく、時間まで熟睡することが出来た。
朝8時、ホテルの前からラジャさんとタクシーに乗り込む。タンソンニュット国際空港へ。バンコクに移動するためだ。道中、町のあちこちにまじかに近づいたテト(旧暦によるベトナム正月)の飾りつけ。いつにも増して町中に色彩が氾濫している。
 

             <ロッテリアもテト(ベトナム正月)の飾りつけ>

そう言えば、今年はウサギ年だが、なぜかベトナムは違う。何と「猫年」なのである。一般に、アジアには広く十二支の習慣が広がっているが、対象となる動物には微妙な違いがある。日本でのイノシシは中国やベトナムではイノシシになるし、牛はベトナムでは水牛になるくらいは理解できる。しかし、ウサギが猫になる理由はよくわからない。
子供のころ、十二支に猫が入っていない理由を説明するお伽話を聞かされた。確か、神様に動物たちを集めるよう言われたネズミがいたずらし、猫に約束の日をわざと偽って教えたため、猫はその集まりに参加できず干支に選ばれなかった。そのため、ネズミを見ると猫はいつも追いかけるようになった、というものだ。
ホテルをチェックアウトするとき、従業員にベトナムだけウサギではなく猫だけど知ってる、と尋ねた。「知ってる。だけどなぜなのかは知らない」との答えが返ってきた。
 

                <ベトナムでは今年の干支は猫 (現地紙より)>

午後0時前、バンコクに無事到着。ラジャさんと空港タクシーに相乗りをして、彼のホテルを先に回ったので私のホテルに着いたのは1時半。ロビーで義肢装具のエキスパート、田澤博士とばったり。2時からの約束の筈だったのだが、間違って1時半からと伝わっていたようだ、、、。
部屋に荷物を置くと、取って返し田澤先生に合流する。次いで、2時前にAPCD所長の二ノ宮さん。2時過ぎに米国から駆け付けてくれたデリック教授がAPCDスタッフの堀内佳美さんに連れられてやって来た。最後に、少し遅れてラジャさん。
このメンバーでIDPP(障害者大学院)とマヒドン大学とのパートナーシップ設立に関するうちあわせ。明日には、マヒドン大学でピヤサコール学長以下、最高幹部との協議が控えているのだ。


                 <IDPPの相談に集まったメンバー>

7時 朝食                
8時 ホテル出発
10時20分 ホーチミン発
11時45分 バンコク着
14時 IDPP打ち合わせ
18時半 日経新聞高橋支局長
ハノイより16度も暖かいホーチミン [2011年01月18日(Tue)]
1月18日(火曜日)
ベトナムは南北に長い。ハノイからホーチミン市まではジェット機でも2時間かかる。ホーチミンの空港に到着して改めてそのことを実感させられた。機内で読んだ英字紙に拠ると、今日の予報では、ハノイが最低気温10度、最高気温が14度止まりであるのに対し、ここホーチミンの今日の最低気温は19度、最高気温は何と30度。最高気温の温度差が16度もあるのだ。ハノイから着ていたダウンジャケットを飛行機の機内でバッグに仕舞い込む。

                <16度もハノイより暖かいホーチミン>

ホーチミン空港に着いてみると、確かに、ハノイとは打って変わり空気が生ぬるく暖かい。ハノイの寒さで縮こまっていた身体をほぐすため、伸びをして空気を吸い込んでみると排気ガスの臭いがする。だが、それでもハノイの冷たい空気と較べると、ホーチミンの空気はやさしく包み込んでくれるようで好ましく感じられる。
ホテルに向かうタクシーの中で暑くてたまらなくなり、長袖のシャツを半袖に着替えた。久し振りの「熱帯アジア」を実感する。
ホテルにチェックインして直ぐに、ラジャさんと国立ホーチミン音楽院差し回しの車に乗り込む。


          <日本の援助で出来た国立ホーチミン音楽院のコンサートホール>

院長室でフオンさんが、10月のASEANシンフォニーオーケストラの記録DVDを用意して待っていてくれた。先ずは、オーケストラの成功を祝いあってから、今後のプロモーションの計画を協議。今年のASEANサミット主催国インドネシア政府を始め、色々スポンサーを募る予定なので、プロモーション用の映像が必要だ。
フオンさんにもらった編集済みのDVDだけでは足りないので、編集前の生の記録映像をもらうことに。フオンさんは今後も全面的に協力すると約束してくれた。
また、この時、フオンさんが準備してくれていた資料によると、オーケストラについて報道してくれた新聞雑誌の記事は40本にも及んだ。また、国立テレビでも10分間に渡るドキュメンタリーが放映されたとのことでその映像も入手することが出来た。


           <ASEANオーケストラのDVDについて説明するフオン院長>

音楽院を後にし、ホテルに戻ると私の友人、ブン君からのメッセージが入っていた。会長補佐のドゥイさんと一緒にホテルの近くの喫茶店で待っているという。以前はベトナムで最も発行部数の多いトイチェ紙の花形記者であったブン君だが、今はビジネスコンサルタントに転じ、飛び回っている。彼の会社の会長は元ペプシコ社のアジア地区代表だったという人で、以前から紹介したいと言われていたのだ。
今回、ASEANシンフォニーオーケストラを再結成するに当たり、スポンサーを募ることになり、ペプシコにも打診してみようと言うことになったのだ。生憎、その会長は、我々と入れ替わりに昨日丁度ハノイに出張に出たばかり。帰任は明日の午後では今回は会うことが出来ない。しかし、会長補佐のドゥイさんの判断では非常に有望とのことで、関連資料を届けた上で、後日改めて会見の日程を調整することになった。


                    <夕闇の迫るホーチミン市内>

8時半 朝食                
10時 ホテル出発
13時00分 ハノイ発
15時00分 ホーチミン着
16時半 国立ホーチミン音楽院フオン院長
18時 Global Integration トラン部長
寒さでホテルの窓ガラスが結露 [2011年01月17日(Mon)]
1月17日(月曜日)
ハノイ1日目の朝、寒さで目を覚ます。何とホテルの窓ガラスが結露しているではないか。東南アジアでは、外が蒸し暑いので、クーラーの効いた室内と接する窓ガラスの外側が結露することは珍しくないのだが、日本の冬場のように、窓の内側が結露するのは初めての経験。今の気温は10度前後といったところだろうか。
いつも、この季節にハノイに来ては寒さに震えるので、今度こそは長袖を中心に準備してきたのだが、正直言って、これ程の寒さとは想定外。昨夜、空港で見た着膨れした人々は、決して大袈裟ではなかったのだ。
新聞によれば、少数民族文化で知られる北部の観光の町サパでは何と気温は1度にまで下がったと言う。この寒波で牛や水牛などの家畜が8000頭も凍死したそうだ。


           <ここが東南アジアとは思えないほど皆着込んでいる>

ラジャさんと私をホテルにまで迎えに来てくれた、ベトナム保健省の伝統医療専門家、マイ博士と一緒に保健省へ。彼女はダウンのロングコートで完全武装。
ベトナムでは早朝の気温が10度を下回ると小学校は休校になるという決まりがあり、今日はそれが発動されたのだとか。これでも先週の6度からみればまだましなのだそうだが。
保健省では、伝統医療局長のハイン博士や、WHO(世界保健機関)ベトナム事務所の専門家らが参加して会議が始まった。伝統医療局がWHOと協力して作成した、置き薬事業プロジェクトの計画書案を基に三者で協議。
国際局次長のミンチャウさんが通訳してくれる。歯切れの良い通訳で大変ありがたいのだが、逐次通訳なので時間が普段の倍かかる。
会議を続けているうちに10時半を過ぎてしまった。11時からの文化省国際局長との約束がある。


                <保健省の前もお正月の飾りつけ>

そこで11時前、一旦、保健省での協議を打ち切り、タクシーで文化省へ急ぐ。10分遅れて到着した我々をティン国際局長が迎えてくれた。ASEANシンフォニー・オーケストラの今後の進め方について協議。序でに、ベトナム共産党の新体制での文化省人事について質問する。文化大臣は留任したのでトップ人事は5月の新内閣組成まで動きなしとのこと。
文化省での協議を終えてホテルに戻る。間もなく、ホテルにPepsiCoのナム・カオさんがやって来る。彼とは昨年10月のASEANオーケストラ・コンサートの準備を手伝ってもらって以来。昼食を取りながら、今後の展開について色々アドバイスをもらう。
夕方、再び保健省へ出向く。会議室の中も暖房はなくとても寒い。ふと気が付くと、ベトナム政府側は伝統医療局長以下、皆コートを着たままだ。WHO(世界保健機関)ベトナム事務所の専門家は都合がつかず不在だが、午前の会議の続きを行う。漸くプロジェクトの進め方で合意、明日、保健省の責任でWHOに伝え同意を取り付けることに。
夜は、ラジャさんを交えて共同通信三宅支局長と夕食。共産党大会の取材でバンコク支局から応援に駆けつけた植田記者も一緒だった。


             <タクシーの料金メーターを覆う不正防止のケース>

9時 ベトナム保健省
11時 ベトナム文化省ティン国際局長
13時 PepsiCo ナムカオさん
17時 ベトナム保健省 
19時 共同通信三宅支局長
エアポートリンクかエアポートレールリンクか [2011年01月16日(Sun)]
1月16日(日曜日)
今日は日曜日。ラジャさんとハノイへ移動する。ただその後、再びバンコクに戻ってくる予定なので、スリランカに行ったときと同じように、持っていく荷物とバンコクに残すのと、二つに分ける。ハノイの冬は南国と思えないほど寒いことがあり、いつも失敗しているので、今回はちょっと大袈裟かと思ったが、日本から持参したダウンのコートを入れるなど、しっかり寒さ対策をすることに。
午後1時、ホテルの外に出てみると、涼しく爽やかな気候。暑くもなく寒くも無くとても気持ちが良い。20度くらい。半袖では肌寒いほど。
荷物が少ないので、今日もエアポートリンクを利用。14日にエクスプレスには懲りたので、今回は迷わずパヤタイ駅から、シティーラインを使うことに。


                 <ここではエアポートリンクと表示>

パヤタイ駅で不思議なことに気が付いた。駅構内の案内板に「エアポートリンク」と表示されていたのである。「エアポートリンク」ではなく、「エアポートレールリンク」ではないのかと、別の掲示を見るとこちらではやはり「エアポートレールリンク」とある。はて、どちらが正しいのか。
また、ノンストップの急行は駅の案内板などでは必ず、EXPRESS LINEと掲示されているが、実際の急行電車の脇腹に大きく書かれている文字はEXPRESSとだけ。これに対し、各駅停車の場合は、案内板も車体にもCITY LINEと書かれているのだ。
日本のような几帳面な国ではおよそ考えられない不統一さだが、おおらかなタイでは誰も問題にしないのだろう。


                 <急行列車の車体にはEXPRESSとだけ>

何しろこの電車、3年前くらいから何度も開通の予定が発表されたりしながら、何度も何度も延期され、漸く昨年8月に開通することになったもの。不思議なのはその路線。ノンストップの急行と、各駅停車があるのだが、各駅停車が全8駅をカバーしているのに対し、なぜか急行は各停の終点の2駅手前が終点。しかも、急行の終点駅では、各駅停車に乗り換えて終点まで行く乗客を全く想定していない作りになっているのだ。つまり、急行利用客は、途中まで、しかも、地下鉄への乗り換えも不便極まりない構造という不思議さ。これはもう、謎とした言いようがない。

               <エアポートレールリンクの不思議な路線構造>

ハノイに到着。機内のアナウンスによるとハノイの現在の気温は15度。外に出てみると、バンコクと打って変わって、半袖の人は皆無。それどころか、厚手のコートとマフラーなどを着込んでいる人も多い。寒いことは寒いが、そこまでの厚着はちょっと大袈裟かな、、、。
ハノイ市内には赤い横断幕や幟が多い。そうだ、ベトナム人の最大のお祭り、テトが近づいているのだ。ベトナム人は正月を中国と同じく旧暦で祝う。今年は2月3日が旧暦の正月元旦。
よく見ると新年の飾りつけだけではない。共産党大会を祝う幟や看板が並ぶ。今年は5年に一度のベトナム共産党の党大会。丁度、今月12日から19日までの一週間がその会期。共産党書記長や国家主席、首相などのトップ人事が決められるのだ。


                <今年は、5年に一度の党大会の年>

ホテルに着いてみると、ロビーには大きな新年の飾り付け。大きな本物の金柑の鉢植えがいくつも並ぶ。
金柑は中国では金貨に似ているとして、財宝を意味する縁起物。ベトナムでも同じ習慣があるのか、それともこのホテルのオーナーが華人なのかは不明。
私はよくこのホテルを利用するのだが、今回は、いつも以上の賑わい。共産党の党大会の参加者らしき人の姿も見られる。党大会のために全国から360万人の党員の代表1377人がハノイに集まっているという。
夜、シャワーを浴びて寝る段になって、部屋の中がすっかり冷え込んでいるのに気が付いた。外の気温がぐんぐん下がっているようだ。
部屋のエアコンを入れて暖めようとするがさっぱり効かない。スイッチにはHOTとCOOLの切り替えボタンが付いているのだが、暖房機能は働かないようだ。やむなく、布団を被って寝てしまう。


                  <ベトナム正月、テトが近づいている>


13時 ホテル出発
17時35分 バンコク発
19時20分 ハノイ着
20時 ベトナム保健省マイ博士
ASEANシンフォニーオーケストラの作戦会議 [2011年01月15日(Sat)]
1月15日(土曜日)
今日は土曜日。今日の予定は、午後2時からのASEANシンフォニーオーケストラの打合せまで何も無い。そこで午前中はブログを書いたり、現地の新聞に目を通したりして過ごす。
現地新聞のトップニュースはカンボジアとの国境紛争。年末にタイとカンボジアの国境で国会議員ら7人のタイ人が逮捕されるという事件が起き、アビシット政府は右派からは、カンボジアとの交渉に弱腰との批判を受けている。
もう一つのニュースは、イスラム教徒と仏教徒との対立を背景にした流血が続くタイ南部で、学校の先生が再びテロの標的になったという事件。過去7年の死者は138人。今回は、算数担当の教師がオートバイで帰宅途中、銃を持ったバイクの二人乗りに狙撃され死亡したという。アビシット首相は大変だ。
お昼は今日も近所の屋台で買ったもので済ます。外に買出しに出て、面白い屋台を発見。錠前を売る屋台がなぜか同時にタイ式チマキを売っていた。


            <錠前を売る屋台の親父がタイ式チマキも売る>

午後2時からは、昨年10月末のASEANサミットの際の演奏で大活躍の指揮者の福村さんに日本から来ていただいて、ASEAN事務局のラジャさんと、今年の再演に向けた打合せ。
夕方、CIAT出向中の間遠さん、共同通信の沢井支局長、福村さんと4人でホテル裏の日本料理屋で夕食。二年前に入れたままになっていた焼酎のボトルがまだキープされていたままになっていたのに感激。
食事の後、BTSトンロー駅そばにある「まりこ」という店へ行くことに。福村さんからずっと誘われていた店。まりこさんと言う年配の女性が一人で切り盛りしているスナックのような居酒屋のような店、、、。

        
           <スナックのような居酒屋のような店「まりこ」>

まりこさんの本名は武山真理子。お年は恐らく78歳?。日劇ミュージックホール出身の元ダンサー(芸名京峰マリ)。「生まれは戦争中の台湾。戦後日本に引き揚げ、銀座の日劇ミュージックホールを経て、ベトナム戦争中のサイゴンで踊ったあと、香港、マレーシア、シンガポール、台湾、インドネシア。最後に行きついたのがタイ」という。
バンコクでは、人に頼まれクラブのママに。一時は、店が大きくなり、大勢のホステスも雇っていたときもあったというが、その後はスクンビットでのタイ料理店経営を経て、92年から居酒屋を始めた。宮崎学が彼女の半生を描いた「マリコ Take off!」という本もある。また、サイゴン時代の物語は、鳳蘭主演の舞台「ソング・オブ・サイゴン」になった。
戦後の東南アジア各地を渡り歩いた人生は苦労の連続だったようだが、御本人は「幸せな人生だったわよ」と呟いた。おっとりとして品の良い、不思議な老婦人であった。


          <真理子さんの波乱万丈の半生を描いた本「マリコ Take off!」>

14時 ASEANオーケストラ打合せ  
18時半 共同通信沢井支局長
エアポートレールリンクと地下鉄を乗り継ぐ [2011年01月14日(Fri)]
1月14日(金曜日)
このままシンガポール経由で帰国する梅村君と別れ、バンコク行きの夜行便に乗り込むべく出発ゲートへ。すると、真夜中であるにも拘わらず、多くの乗客でごった返している。今回の3日間ほどのスリランカ滞在中は、話ばかりで殆ど見かけなかった中国人旅行者であった。
確認してみると、このスリランカ航空888便の最終目的地は北京、バンコクは経由地に過ぎないのだった。
スリランカとタイの間には1時間半という中途半端な時差がある。私の乗った便の出発時間1時25分は、バンコク時間では夜中の3時、まさに丑三つ時。フライト時間は3時間ほどなのでバンコクへの到着は明け方6時過ぎとなった。


                  <スワンナプーム駅地下に設けられたARL始発駅>

今日は11時半にフジテレビの江藤支局長、2時からは女性の地位向上協会訪問、7時からはNHKの大橋記者らと予定が入っているので、ひとまず市内のホテルにチェックインし少し休んでおくことにする。
ホテルへは、3日前に利用したばかりの空港直通電車(エアポートレールリンク)を初めて空港駅から利用することに。これまで2回利用したエアポートレールリンク(ARL)だが、2回とも市内から空港へのルート。
エアポートリンクには2種類のタイプがあって、BTS(スカイトレイン)のパヤタイ駅まで各駅停車のシティラインと、なぜかパヤタイ駅の2つ手前にあるマッカサン駅までしか行かない、ノンストップのエクスプレスがある。料金も、各駅停車のシティラインが45バーツであるのに対し、ノンストップのエクスプレスは区間が2駅分短いにもかかわらず150バーツ(約400円)もする。どれほど便利さに違いがあるのか確認すべく、今回は敢えてエクスプレスに乗ってみた。
空港駅ではお金の支払いは無し。到着駅で支払うという面白いシステム。時間は6時半と早朝のためか、プラットホームはがらがら。私を含めて3人ほどしか乗客の姿は見えない。
時刻表らしきものはないが、電光掲示板にMRT(地下鉄)のように「次の列車は何分後」式の表示に1分後とある。ただ、これは出発時間ではなく、到着時間を示すものだったようだ。確かに、間もなく、電車がプラットホームに滑り込んできたので乗り込む。


                <空港駅の電光掲示板は「次の列車は何分後」の表示>

電車はBTS(スカイトレイン)と同じくドイツのジーメンス製。但し、急行の車内は各駅停車のCityLineがBTSと同じ横向きベンチであるのに対し、進行方向と直角に二人ずつ座席が並ぶ形式。旅行客用の荷物置き場も設置されており、確かに空港直通列車としての配慮が感じられる。
制服を着た清掃員が乗り込み、車内を清掃する。日本のターミナル駅でも見かける光景だ。6時45分、発車を知らせる電子音が鳴ったと思う間もなく、特段のアナウンスも無いままに、電車は出発。結局、乗客は全部で3-4人のまま。
空港駅を出発した車は、間もなく地下から高架上に出てスピードを加速、途中4つの駅をノンストップで走り、約15分ほどで終点のマッカサンに到着した。各駅停車のシティラインでは二つ先のパヤタイ駅まで25分ほど掛かるので、確かに速いことは速い。
  

                    <二人ずつ座席が並ぶEXPRESS車内>

しかし、ここからがいけなかった。二つ先のパヤタイ駅まで行く各駅停車に乗り換えるには、一旦改札を出て、切符を買い直し、別のプラットホームへエレベーターで再び昇る必要がある。なぜ、同じプラットホームの向かい側で各駅停車に連絡するようにしなかったのか、理解に苦しむ。
そこで、スカイトレインに乗り換えるのは断念し、地下鉄乗り換えルートの方を試してみることに。エレベーターで一階まで降りて料金を払って外に出る。
驚いたことに、朝早いためか、タクシー乗り場は車も人もおらずからっぽ。バイクタクシーが数台、人待ち顔にたむろするのみ。
地下鉄ペチャブリー駅までは徒歩5分ほど。とは言え、車の通る道を信号待ちして越えたり、歩道と車道の落差を何度も超えたりしなくてはならず、大型のスーツケースの場合、それを持って歩くのは困難だ。
しかも、地下鉄の改札の前にはセキュリティーのチェックポイントがあり、バッグなどでは荷物の中を開いて見せねばならない。私の場合、今回は小型のキャリング・ケースのみの旅で、検査は比較的簡単に済んだので助かったが、これが大型のスーツケースだったら大変だったろう。
今回、急行(Express)ルートを試してみての結論は、手ぶらのバックパッカーならいざ知らず、大きな荷物を持つ旅行客には不便極まりない、ということ。私は、今後は各駅停車でパヤタイ駅でスカイトレインを使うルートを使うことにしよう。


                <地下鉄ペチャブリー駅までは5分歩く>

ホテルにチェックインし、一休みした後、市内中心部のホテルのレストランでフジテレビの江藤支局長と昼食。その後、女性の地位向上協会(APSW)差し回しの車で、旧空港であるドンムアン空港の近くにある本部で、ペンスリ理事長以下の幹部と懇談。ここは、随分昔、日本財団の支援で建てられたトレーニングセンターであるSasakawa Women's Education and Training Center が置かれている。今後は、これまでのようなタイ国内を対象にした事業ではなく、東南アジアの周辺国も巻き込むような事業を共同で創出して行くことで合意。

               <日本財団の支援で建てられたトレーニングセンター>

01時25分 コロンボ発
06時05分 バンコク着              
11時半 フジテレビ江藤支局長
14時 女性の地位向上協会(APSW)訪問
18時半 NHKバンコク支局大橋記者 
タミル反政府派LTTEの旧首都キリノッチへ [2011年01月13日(Thu)]
1月13日(木曜日)

                  <まだ地雷処理が終了していない場所も残る>

睡眠薬が効いたのか、久し振りに熟睡。朝起きると、体調はすっかり回復していた。
今日はこれから、更に90キロ北上して、スリランカ本島最北の都市、キリノッチを目指す。朝8時、車に乗り込み出発する。走り出して間もなく雨が降り始めた。気温は15度くらいか、肌寒い。これ程の低気温は私にとって、スリランカでは初めて。それもその筈、この日は、コロンボの最低気温は16度、61年ぶりの低気温を記録した、と後で知らされた。
まだ、至るところに政府軍による検問所が設けられているが、昨年と較べると兵士の数も減り、検問所での兵士の表情にも緊張感はあまり感じられない。


                  <今もあちこちに検問所があるにはあるが、、、>

我々の乗った車は、雨の中を2時間余り走った後、キリノッチの町についた。休戦協定が有効だった当時は、LTTE(「タミルイーラム解放の虎」=反政府タミル人組織)の首都が置かれていたところだ。私にとってはキリノッチ行きは3回目。7年前、SLSPO(義肢装具士学校)を開設するに当たって、LTTE側の了解と協力を取り付けるべくハルシャさんの紹介を受けて訪れたのが最初。2回目は昨年、会長とスリランカ軍用機でジャフナに行き、その後、陸路で南下してコロンボに戻る途中立ち寄った。
車はキリノッチの町を通り抜け、程なくして、大きな学校の校門の前で停まった。車から降りてみると、雨は止んでいる。ここは、キリノッチで2番目に大きな小中一貫校パランタン・マハ・ビジャラヤ校だという。
校門の中に入ってみると、草葺や、板でできた急ごしらえの屋根を乗せただけの校舎で子供たちが勉強していた。勿論窓も無く、内部は外から丸見えである。


              <草葺の屋根の仮設校舎で学ぶ子供たち>

この学校の庭に設けられたテントの中で、学校関係者、事業を請け負った現地NGOセワランカ財団、政府軍関係者らが参列して、日本財団による学校修復事業の記念式典が行われた。私自身を含む来賓によるスピーチ、伝統衣装に身を包んだ在校生によるダンスや、国旗掲揚などの後、ヒンズー僧と仏教僧による宗教儀式が恭しく取り行われた。
ところがこれで式典は終了と思っていたら、廊下の一角に呼ばれた。円く開いた穴の傍に香炉や花、蝋燭などが置かれ、ヒンズー教の僧侶が私を手招きしている。どうやら、コップにコンクリを掬って穴の中に入れるよう、ということのようだ。私が終わると、別の人も同じように、スコップでコンクリを掬う。なるほど、これはヒンズー式の「地鎮祭」なのかと、様子を眺めていると、ハルシャさんがやってきた。
再び降り出した雨で、道路の状況が心配だ。念のため、早めに出発したほうが良い、とアドバイスされる。


                <こちらはヒンズー僧による「地鎮祭」>

スリランカ最北の半島にあるタミルの最大都市ジャフナとコロンボの東にある古都キャンディを結ぶ幹線、国道A9をひたすら南下する。ジャフナ発キャンディ行きなどとの表示を付けた長距離路線バスとすれ違ったり、追い抜いたりする。これまでは見たことの無い北部から南部へ縦断する長距離路線だ。内戦終結で可能になったもののようだ。
途中、食事休憩や、ネゴンボの町で、水産事業の参考にするためスーパーの海産物コーナーを覗いたりしながら、8時間余りかけて漸くコロンボ国際空港に到着。
私の乗るバンコク便の出発時間は夜中の1時25分、シンガポール経由で帰国する日本財団の担当者、梅村君の飛行機もほぼ同じ夜中の出発だが、二人とも早めにチェックインし、空港内に入る。ラクシさんらこの二日間同行してくれたセワランカ財団のお二人とはここでお別れだ。



飛行機を待つ間、空港のラウンジでチェックしたネットニュースによると、スリランカの洪水の被害は更に拡大し、死者は23人。被災者はついに100万人を突破した由。
また、北部のカロヤ川では水位が通常より5.5メートルも上昇したという。
そして何と、この川の近くの木のてっぺんの枝に身を挟まれたまま死亡している象が発見されたというニュースがその写真付きで流されていた。
洪水の被害は野生動物にも及んでいたようだ。






         <野生の象も水害の犠牲に>



6時 セワランカ財団バブーニヤ支部出発
8時半 キリノッチ 学校建設事業開始式典
12時15分 セワランカ財団バブーニヤ支部で昼食
12時45分 セワランカ財団バブーニヤ支部出発
17時半 休憩
18時半 ネゴンボ市内スーパー見学
19時半 夕食
21時 空港到着
バブーニヤへ7時間の旅 [2011年01月12日(Wed)]
1月12日(水曜日)
前夜はなぜか寝つきが悪く、殆ど眠らないうちに目覚ましが鳴る。
朝5時半。まだ外は暗い中を梅村君、ラクシ副会長と3人でセワランカ財団の車に乗り込み出発。途中、朝食の場所でウデニさんも合流、4人になる。
今日の目的地は北部の旧タミル支配地区にあるバブーニヤ。内戦終結後、タミル避難民を収容するための大規模なキャンプが設置されていたところだ。日本財団は、避難民の中に多数見られた四肢切断者に義手や義足を処方するための臨時診療所の設置を、スリランカ政府から要請され決定したのだった。
ところが、その後、欧米の批判を受けて、スリランカ政府は国内避難民の帰還作業を急いだために、臨時診療所の必要性はなくなってしまった。そこで、日本財団は事業を担当する国際NGOカンボジアトラストと協議の結果、臨時診療所ではなく、バブーニヤとトリンコマレの二箇所の中央病院内に恒久の義肢専門クリニックを開設することを決定。昨年、11月に第一弾としてバブーニヤのクリニックが開設されたのだ。
今回は、その現場を初めて訪問することにしたもの。


               <あちこちで冠水した道路に遭遇するも通行は可能>

シンハリ地区最北の古都、仏教遺跡で有名なアヌラーダプラが近づくにつれ洪水の被害が目立つようになる。あちこちで道路の一部が冠水しているが、幸い通れないほどではない。むしろ、一段高く作られた道路の周辺での被害が大きいようだ。完全に水没した田畑や、水に漬かった民家が点在する。
よく見ると、足元のみ水に漬かっているように見える、やしの木やバナナの木の幹や枝にも、高さ2メートルくらいまで乾いた泥がついている。ピーク時にはその辺りまで泥水に漬かっていたのであろう。木の前の民家の住民はどこかにでも避難したままなのか、人の気配がしなかった。
さらに北上し、バブーニヤに向かう。標識などの表示にタミル文字が目立つようになった。仏教寺院の代わりに、ヒンズー教寺院も多くなる。タミル人地区に入ったのだ。


              <水が退いた後も人の気配がしない民家>

11時45分、セワランカ財団バブーニヤ支部に到着。コロンボを出発して、途中、朝食に45分費やしたので、250キロの移動にかかった時間が5時間半ということになる。
今夜はここのゲストハウスに泊めてもらうのだ。宿舎として割り当てられた室に自分の荷物を置き、一休みして昼食をとることにする。身体の調子が悪い。寝不足で長時間、車の冷房に当たったために、どうやら風邪を本格化させてしまったらしい。
身体の節々が痛む。こんなところで風邪をひいている訳には行かないと、慌てて手持ちの風邪薬を飲み、ベッドに潜り込もうとして気が付いた。ここでは、ベッドには掛け布団も毛布も準備されてはいないのだ。しかも、シャワーは冷水のみ。どうしよう。昼食の時にウデニさんに相談、夜は、特別に毛布とバケツに湯をもらうことに。
今日の午後は、バブーニヤ中央病院の義足クリニックの視察と、近隣2箇所の小学校校舎の修復予定地訪問のスケジュールが入っている。抵抗力の衰えているときの病院訪問は避けたほうが無難なのだが、クリニックは昨日、メアリーさんから佐々木さんが我々の訪問に備えて一足先に入ってくれている、と聞いたばかり。キャンセルする訳には行かない。そこで、学校訪問だけ、一箇所に減らしてもらうことにした。 

              <バブーニヤ中央病院に開設された義肢クリニック>

バブーニヤ総合病院で佐々木さんに説明を聞く。ここの義肢クリニックは準備段階では日本人の義肢装具のスペシャリスト佐々木さんが責任者を務めてくれていたのだが、彼は今はコロンボにある義肢装具士養成校(SLSPO)の教務主任に移動し、代わって所長になったアイルランド人の専門家のサポート役に就任。その下で、SLSPOの2人のタミル人卒業生とカンボジアのCCSPOからの2人が義肢装具士として働き、それを、4人のテクニシャンが支える、という体制。2ヶ月前に開設されたばかりだが、既に、97人もの患者が、自分の身体に合わせた義手義足が出来上がるのを待っているという。患者の大半が内戦による犠牲者だそうだ。
元々、日本財団が7年前SLSPOの開設を支援したのは、当時、実現したばかりの停戦を恒常的なものにする一助にと考えたからで、多数派のシンハリ人だけではなく、タミル人にも門戸を開いた教育機関として発足させることを支援の絶対条件とした経緯がある。それだけに、昨年SLSPOを卒業したばかりのタミル人2人が早速、自分たちの出身地で活躍してくれる、というのはとても嬉しいことであった。
さらに嬉しい再会があった。この病院の院長のサティアモルティ博士である。タミール人の彼は、内戦終結のぎりぎりまで、この地で診療活動を続け、一時は、反政府メンバーと間違えられて制圧した政府軍に拘束されたというのだが、その後、誤解も解け、むしろ、身の危険も顧みず、医療を行ったということで英雄と評価され、この中央病院の院長に抜擢されたのだそうだ。佐々木さんが言うには、彼は私を知っていて、今回会えるのを楽しみにしているというではないか。
聞いてみると、彼はSLSPOの最初の理事会のメンバーであった。私が、無理やり頼んで、スリランカ保健省に認めてもらった、タミル側を代表する立場の理事だったのだ。その後、停戦が失効し、内戦が悪化する中で、彼はSLSPOの理事会に参加することも出来なくなり、音信不通のままになっていたのだが、、、。改めて御礼を言われ、私は彼との再会を喜んだのであった。


                <マライヤディトハクラム小学校跡地>

バブーニヤ中央病院を後にして、車で走ること約40分、マライヤディトハクラムという村にある小学校跡地を訪問した。「跡地」というのは、ここに残っていたのはコンクリートの塀の一部と数本の柱だけ、周りは草ぼうぼうで全くの廃墟となっていたからだ。この学校は元々は1880年に創立というから130年の歴史を持つ。この廃墟になった校舎は内戦勃発前の1970年に建てられたものだが、1990年に破壊されたままだという。
我々が来るのを知って村人が集まっていた。全員タミル系だ。手作りのお菓子とジュースで歓迎してくれる。村人たちが口々に言う。自分も、父親も、おじいさんもこの学校で学んだ。内戦前は450世帯もあった村も、内戦の結果、2002年の停戦当時には135世帯にまで落ち込み、今は、僅か25世帯になってしまった。
戻ってきた人も、学校がなくなってしまったために、子供を5キロも離れた村の学校に通わせている始末。学校がないため疎開したまま、村に帰れないという人も大勢いる。もし、この学校が再建されたら、きっと沢山の人が戻ってくる。村が再建できる筈だ。
セワランカの担当者が、日本財団の支援が決まったので、新学期の始まる5月にも校舎の再建が完成するだろう、というと、村人たちは喜んだ。
申し訳ないと思ったが、体調が優れないのでもう一校予定していた視察を取りやめ、セワランカ財団バブーニヤ支部に戻ることに。車に乗る直前に、訪問を予定していた先の校長がオートバイに乗って現れた。お詫びを言う私に校長先生からはお礼の言葉。


                <野生の孔雀に遭遇 吉兆だ>

帰り道、路上に大きな糞。ウデニさんが野生の象の糞だと教えてくれる。さらに行くと、我々の眼の前を野生の孔雀。この辺りは誠に野生の動物の宝庫だ。
ちなみに、スリランカでは孔雀は吉兆なのだそうだ。何か良いことがあるのだろうか。
セワランカ財団のゲストハウスに戻る。、夕食の前に、少しでも身体を休めようとして、いつもの風邪薬に加えて強壮剤のガラナ粉末など手持ちの薬を総動員して横になるが眠つけない。
ゲストハウスのプールサイドでの夕食は、佐々木さんがクリニックのタミル人義肢装具士と一緒に来てくれたほか、バブーニヤ方面軍司令官や米国人の援助関係者 南アフリカ出身のホテル・レストラン・オーナーなど大勢の人たちと一緒。セワランカ財団ハルシャ会長の多彩な人脈にはいつも感心させられる。セワランカにしては珍しくビールが振舞われたので、飲んでいるうちに風邪はどこかへ行ってしまったように思えてくる。
今夜は早めに、特別にもらったお湯で身体を拭いて、借りた毛布に包まって、睡眠薬を飲んで就寝だ。

 
5時半 ホテル出発
6時45分 朝食
12時45分 セワランカ財団バブーニヤ支部
13時半 バブーニヤ総合病院義肢装具クリニック訪問
15時半 マライヤディトハクラム小学校訪問 
17時半 夕食
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