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大野修一(日本財団)
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帰国 おまけの子供写真5葉 [2010年11月27日(Sat)]
11月27日(土曜日)
早朝、ホテルを出て、帰国便に乗る。機内で、今回の出張で撮ったたくさんの写真をチェック。その中で、ここまでのブログでは紹介出来なかった可愛い子供たちの写真のみ5葉を紹介することにしよう。最初の一枚のみが、焼き物プロジェクトの現場。あとの4枚はすべて、プレアビヒアで撮ったもの。恐らくは兵士の子供たちであろう。父親と同じ迷彩服を着た子供たちが多かった。

                          <子供の情景@>


                          <子供の情景A>


                          <子供の情景B>


                          <子供の情景C>


                          <子供の情景D>

5時45分 ホテル出発
8時15分 バンコク発
16時05分 成田着
ヘンサムリン国会議長と面談 [2010年11月26日(Fri)]
11月26日(金曜日)

                  <終始先導してくれた憲兵隊のパトカー>

朝7時半、チュンブンロン元社会基金総裁がやって来た。彼とは4年半ぶりの再会。彼とは、2005年の秋にタイとの国境に近いバッタンバン省などの僻地を一週間近くかけて回った間柄だ。
ESCの山田さんに現在の勤務先を調べてもらって、昨日のカクテルパーティーに招待していたのだが、パーティーがキャンセルになったのを残念がって、今日にでも会いたいと連絡をもらったのだ。そこで、朝食にご招待したというわけ。彼は、今はフンセン首相顧問で地雷除去と犠牲者支援組織(CMAA)の事務局長とのこと。
色々話がはずむ中で、彼の持つ煉瓦製造設備をクメール焼き復活プロジェクトで利用させてもらえるかも知れない、という話になった。誠に、人的ネットワークは大切だ。彼にも小ぶりの焼き物の壺を進呈。再会を約して別れる。


                  <クメールスタイルが美しい国会議事堂>

今日は、カンボジアでの活動の最終日。相変わらず仰々しい車列を連ねてクメールスタイルの建物が美しい国会議事堂へ向かう。笹川会長がヘンサムリン国会議長と面談するためだ。
国軍の護衛官の厳格な時間管理のおかげで今日も、約束の時間より早く議事堂に到着したので国会議長の秘書官長の部屋で待機。部屋のテレビには来年の国家予算を巡る国会内の論戦が中継されていた。しっかり、野党が政府の予算に注文を付けている姿に、カンボジアが言論の自由を認める民主主義国家であることを再認識。
約束の時間きっかりに、ヘンサムリン国会議長が8人ほどの国会議員を従えて登場。予算国会の進行は副議長に委ねて来てくれたのだとか。恐縮。


               <ヘンサムリン国会議長と面談する笹川会長>

一旦ホテルに戻り、笹川会長のプノンペンタイムズのインタビューに同席。数日前会ったロスダンクリー氏が社主を務める、カンボジアデイリーと並ぶもう一つの地元の英字新聞である。
インタビューの後は、パトカー先導で日本大使館に黒木大使を訪問。昼食をごちそうになる。
ホテルに戻り、チェックアウト。空港へ向かう途中、首都圏を管轄する事実上の「近衛師団」とも言える第70師団へ、師団長のマオ将軍を訪ねる。今回のプレアビヒア行きを始めとする我々一行の一切の滞在中の警護と憲兵隊パトカーによる先導を指示してくれた司令官である。


                     <近衛師団にマオ将軍を表敬する>

第70師団を出て、空港に向かう。また、来た時と同様に貴賓室に案内される。出発時間が来たからと案内されて行った場所は別の飛行機の出発ゲート。やむなく、一般の待合室でバンコク行きの便を待つという事態になったのはご愛敬。
終始、我々に同行して警護してくれたソペアック少佐とソッキーナ少佐ら二人の将校にも別れを告げて機内へ。
バンコクでは、会長一行は、日本へのトランジットにもかかわらず、バンコク市内のあるホテルに。タイのローカルテレビ局「Nation Channel」のキャスターを兼ねる花形記者のカビさんのインタビューを受けるためだ。
インタビューの後、成田行きの深夜便に乗るため空港へ急ぐ一行と別れた私は、カビさんと二人でホテル内の日本料理店で夕食。深夜便が苦手の私はいつものように早朝便に乗るため市内のホテルで一泊するのだ。お陰で、彼の洞察力のある時事評論と、該博な知識に裏打ちされた楽しい話を独占する贅沢を味わったのだった。
 
        
              <バンコクでタイのテレビインタビューを受ける笹川会長>


7時半 チュンブンロン元社会基金総裁
8時半 ホテル出発
9時 ヘンサムリン国会議長
10時 プノンペンタイムズ・インタビュー
12時 黒木駐カンボジア日本大使公邸
13時半 ホテル出発 
14時 第50師団師団長 マオ将軍
15時40分 プノンペン発
16時50分 バンコク着
18時半 NationChannelTV笹川会長インタビュー
20時半 前TheNation編集副主幹カビさん
ボートレース事故の犠牲者を悼む「服喪の日」 [2010年11月25日(Thu)]
11月25日(木曜日)
今回の出張に同行した日本財団の二人の若手職員の田中さんと中嶋君は、直前のマレーシアでの日程変更などで、準備段階からして大変だったのだが、現地でも今回は特に変更が多く、現地関係者との調整や連絡にてんてこ舞いだった。というのも、今週の月曜日22日に起きた恒例のボートレースで、見物客が将棋倒しに遭って多数亡くなった悲惨な事故によって、我々のカンボジアでの日程も様々な影響を受けざるを得なかったためである。
特に今日は、カンボジア政府が、事故の犠牲者を悼む「服喪の日」と定めたため、予定していた行事を実施できるかどうかが懸念された。幸い、義肢装具士学校の新校舎竣工式と、国立伝統医療学校の入学式という二つの式典は、カンボジア政府の関係省庁の理解もあり、恒例の伝統舞踊が中止になっただけで、ほぼ予定どおり挙行されることになった。
ただ、新校舎竣工式では、主賓のメンサムアン副首相に対し、日本財団から犠牲者のための3万ドルの支援金を贈呈することになり、そのための、シンボリックな目録のようなものが必要となり、昨晩、プレアビヒアから帰った後、田中、中嶋の二人が中心になって、金色の額入りの「目録」を苦労して作ってくれたのだ。
こうして、準備万端整えて、7時20分、再び、憲兵隊のパトロールカーに先導されてホテルを出発した。市内のあちこちに、半旗が掲げられているのを目撃した。


               <ボートレース事故の犠牲者を悼む半旗>

メンサムアン副首相、イトゥサムヘン社会福祉大臣も到着し、8時過ぎに、カンボジア義肢装具士学校(CSPO)新校舎竣工式が始まった。運営主体の英国のNGO「カンボジアトラスト」の常務理事のカーソンさんがスピーチで述べたのは、CSPOの1994年の創設以来の経緯であった。
当初の目的は内戦やその後の地雷事故などで手足を失ったカンボジア人を救済するために、国内のカンボジア人自身を国際レベルの義肢装具士に育てようというもので、カンボジア国内の需要を満たした時点で学校は解散する予定であった。
ところが、その目標がほぼ達成された90年代末になって、カンボジアだけでなく、東南アジアの他の国でもハイレベルの義足を作ることのできる技術者のニーズが多いことが判明し、CSPOはカンボジア以外の国からの留学生を中心とした義肢装具技術者の養成校に衣替えすることになった。
こうして、これまでに、CSPOは19の国から154名の留学生を受け入れてきた。今現在も、北朝鮮を含む9カ国から34名の学生が学んでいるのである。誠に、カンボジアでは唯一の留学生の方が自国民より多いという極めてユニークな学校になっている。


             <テープカットをするメンサムアン副首相(撮影:富永夏子)>


一方、日本財団はカンボジアトラストなどと組んで、東南アジアの他の国での義肢装具師養成校の設立に乗り出し、これまでに、タイ、スリランカ、インドネシアで実現させ、来春には、フィリピンでの学校が開校する見通しである。
現在、アジアの義肢装具師学校は他には、パキスタンやベトナムなど数校しかなく、日本財団が支援する、この地域唯一の国際資格一級認定であるバンコクのマヒドン大学のSSPO校を中心とする、5つの技師装具士養成校群がアジアのネットワークの事実上の中心となっている。
式典の後、カンボジア人の若き女性の校長、シサリーさんが新校舎に副首相以下の来賓を案内した。彼女自身がこの学校の初期の卒業生である。4700平米の広大な敷地に建つしゃれたデザインの2600平米の平屋の建物は内装も美しく、丁寧な仕事ぶりが伺える。施工管理してくれた丸紅の内藤さんも嬉しそうだ。
数年前に、日本財団の資金援助を受けて建てられたABC(カンボジア盲人協会)の本部ビルを見た、カンボジアトラストの当時のカンボジア代表で現在はスリランカ代表になったメアリースコットさんが、私にABCのビルを建てた業者を紹介してほしい、と言ってきたことから再び丸紅の内藤さんにお願いすることになったもの。私も鼻高々であったことは言うまでもない。

           <義肢装具士学校新校舎に副首相を案内するシサリー校長(右端)>

メンサムアン副首相、イトゥサムヘン社会福祉大臣と笹川会長の懇談会の後、我々は一旦、ホテルに戻り昼食の後、今度は国立伝統医療学校の上級コースの開始式に参列すべく、別のホテルに向かった。今回も、憲兵隊の先導である。
昨年の設立以来2年目を迎える国立伝統医療学校に今回、入学するのはすでにカンボジア各地で活躍する現職の伝統医療師の内でも上級者である50人。すでに、4か月先行して中級コースをスタートさせていたもう50人の伝統医療師共々、これから6ヶ月間の研修を受けることになる。
今回の式典には、昨年の卒業生約50人も顔をそろえていた、日本財団が派遣しているアドバイザーの高田さん(http://blog.canpan.info/acupuncture/)らの指導により、彼らを中心に、カンボジア伝統医療師協会を発足させるのだ。この学校が、カンボジアの伝統医学の復興の中核になっていくものと期待したい。


                <国立伝統医療学校の入学式>

オウクモナ副大臣と笹川会長の挨拶を終えて、保健省に移動。世界保健機関(WHO)のカンボジア駐在代表やマムブンヘン保健大臣と笹川会長の面談に私も同席。退席する際には、マムブンヘン保健大臣に「幻のクメール焼き復興プロジェクト」の窯で焼きあがった壺を進呈。
今朝の、義肢装具士学校での式典でも同様に、副首相や、社会福祉大臣にも贈呈し、先ほどは保健副大臣にも差し上げたばかり。クメール語の通訳で本プロジェクトの責任者でもある山崎さんは笹川会長の通訳に加えて、自らも本事業の説明に大童。大臣たちが、この焼き物に興味を持って、製品を来客への贈答品などに使ってもらいたいものだ。


               <マムブンヘン保健大臣にも焼き物を進呈>

保健大臣との面談の後は、カンボジア盲人協会(ABC)へ、ブンマオ事務局長を訪問。笹川会長直々の来訪と激励に自らも盲人のブンマオ会長は感激したことだろう。
もともと、今日の午後5時からは、日本財団グループの事業の受益者だったり、今もパートナーだったりする人々を招いてのカクテルパーティーが予定し、ブンマオ事務局長も招待していたのだが、カンボジア政府が本日を、事故の犠牲者を悼む「服喪の日」と定めたために急遽取りやめることになったことから、こちらから訪問することにしたもの。
カクテルパーティーが予定通り、実施できておれば、子財団の笹川平和財団が日本に招致した国会議員たち30名など、全部で100名近い参加者が相互のネットワークを構築できたのではないかと考えると、やむをえない状況とはいえ、大変残念なことであった。代わりに、一部の日本人関係者だけで日本料理店でひっそり、懇親会をもった。


7時20分 ホテル出発
8時 義肢装具士学校新校舎竣工式
9時半 Men Sam An副首相面談
12時 昼食
13時 国立伝統医療学校開始式
14時半 WHOカンボジア代表面談
15時 保健大臣Dr. Mam Bun Heng面談
15時半 カンボジア盲人協会ブンマオ事務局長
18時 日本人関係者夕食会

空軍ヘリでプレアビヒアへ [2010年11月24日(Wed)]
11月24日(水曜日)
ホテルの厚意で、本来は6時からしか開かないレストランを、我々のために5時半から開けてもらう。早めの朝食を済ませたところへ、ブンサンボ官房副長官や教育省の次官らカンボジア政府の幹部も合流。昨晩一緒だった日経の高橋支局長やテレビ朝日の西支局長に、朝日新聞の古田記者、読売新聞の若山支局長、共同通信の植田記者らも加わり20人以上の大部隊だ。
6時20分にホテルを出発。昨夜と同様に憲兵隊のパトロールカーが先導してくれたこともあり、予定の7時より15分ほど前に、ヘリポートに着いてしまう。そのまま、待っていた大型ヘリに乗り込み出発。近衛師団から派遣されたソペアック少佐と女性秘書官のソッキーナ少佐ら二人の将校も一緒だ。
25人乗りと聞いていたのだが、座席があるのは10人分ほど。あとは、床に座るしかない。機種名を後から尋ねたところ、MI17というソ連製。カンボジア空軍所有のものだ。国軍の厚意で今回は燃料代も無料。


               <MI17というソ連製の25人乗りヘリで移動>

出発まで空けてあった丸窓はさすがに、飛び立って間もなく閉められてしまったが、左前方の入り口は大きく開いたまま。パラシュート部隊などの降下用に開けっ放しの構造だったのかも。
兎も角、お陰で風が入り涼しいのは良いが、耳を聾する爆音で機内では話すこともままならない。皆ほとんど押し黙ったまま二時間近く飛び続けたあと、ヘリは見る見る高度を下げて山の麓の草むらに着陸。プレアビヒアだった。
ただ、ヘリコプターなら遺跡を上空から見ることが出来るのではないかと期待していた記者さんたちはがっかり。しかし、パイロットに理由を聞いてびっくり。タイ側から見えるような形で飛行すると砲撃を受ける危険があるためだったとのこと。現実に、ヘリコプターを狙った攻撃があったのだとか。


               <4輪駆動車で500メートルの落差の急坂を登る>

ここからは、4輪駆動のランドクルーザータイプの車に乗り換え、待ち構えていた国軍の兵士や、警察官らに先導され、陸路で500メートルの落差の急坂を登る。前回9月に来たときと同じ道だが、大雨のせいか、ところどころ大きく崩れており、クレーンやショベルカーなど大型の重機を使っての修理が行われていた。
頂上に着き、一帯に広がるアンコール時代のヒンズー寺院跡を見、タイ側との衝突の最前線の様子を視察して山を下る。
前回9月に下見したときと同様、兵士は女房子供を従えての展開で、緊張した様子はない。特に子供たちは屈託がない。私は専らそのような子供たちの姿を写真に取っていた。


               <プレアビヒア遺跡を視察する一行>

記者さんたちに遺跡警備の軍隊の装備などを取材してもらったりしたため、予想以上に時間がかかり、予定時間を30分ほど遅れてプレアビヒア遺跡を跡にした。山の麓から再びヘリに乗り、今度は30分の短いフライトでロルエト村の空き地に着陸。ヘリコプターの巻き上げる砂埃に驚いて牛が逃げ出す姿が見える。
ここでも大勢の兵士が我々を出迎え、憲兵隊のパトカーの先導でチェアンムック中学校に向かう。20分ほどの道。ここは、ラジオによる英語教育放送事業(http://blog.canpan.info/ohno/archive/755)の現場である。
校長先生以下の教員と、生徒たちが整列して拍手で我々を迎えてくれた。先ずは、教員室で父兄も交えての歓迎会。双方のスピーチの後、隣の教室でラジオ放送を使った英語授業の様子を見学。


                   <チェアンムック中学校を訪問する>

中学校の視察の後、近くの食堂で昼食。再び、待たせていたヘリに乗り、今度はコンポンチュナンにあるクメール焼き復活事業(http://cafekhmer.at.webry.info/)の現場へ一行を案内。ここで、教育省の幹部と、日経と朝日新聞の記者さんたちはヘリでそのままプノンペンに行ってもらい、我々はクメール焼き復活事業を視察して、ここからは車でプノンペンに戻ることに。
ヘリの着陸地点に我々を出迎えてくれたこの地域を管轄する軍司令官や県副知事も加わり現場のオンドルセイ村へ向かう。彼らも出来上がった作品を手にして、その出来栄えに大変感心した様子。
笹川会長らはこの村の近くにいるハンセン病の元患者を訪ねるというので、私は焼き物事業の取材を続ける記者さんと一緒に暫く村に残ることに。


                  <軍司令官や県副知事も見学>

帰りは、ハンセン病患者訪問から帰る会長一行と合流し、NyoNyumショップの焼き物ショウルームへ、一行を案内。パトカー先導の物々しい行列でホテルに戻ったのは7時頃だった。

5時半 朝食
6時20分 ホテル出発
6時45分 プノンペンヘリポート発
8時半 プレアビヒア着
9時 プレアビヒア寺院視察
11時 プレアビヒア発
11時半 ロールエット村着
12時 チェアンムック中学校訪問
12時半 昼食
13時半 ロールエット村発
15時 コンポンチュナン着 
15時15分 クメール焼き事業現場
18時 NyoNyumショップ、焼き物ショウルーム訪問
19時半 夕食
シリントーン義肢装具士学校新校舎開設式典 [2010年11月23日(Tue)]
11月23日(水曜日)

               <シリントーン義肢装具士学校新校舎の入り口>

朝8時半、シリントーン義肢装具士学校事業で技術顧問を務めて頂いている義肢装具の専門家の田澤博士と一緒にタクシーでマヒドン大学シルラート医学校義肢装具学部シリントーン義肢装具士学校の新校舎へ。
今日ここでは、工事中の新校舎のお披露目式典が行われる。第1級の実習設備を備えた新校舎の建設は、国際義肢装具士資格一級校認定の際の条件であった。本来は今年の初めには完成しているはずのものであったが、諸般の事情から大幅に遅れ、今は来年初頭の完成を目指して工事が進んでいる。
そのため、今年の5月に、15人のタイ人学生に、10人の国際コース第1期生を加えて始まったばかりの国際義肢装具士資格一級の授業は旧来の教室で行われている。


             <新校舎の表示板の前で記念写真を取る学生たち>

今回は、笹川会長の訪問を前提に、完成間近の新校舎のお披露目と、日本財団とマヒドン大学シルラート医学校との友好を謳ったプレートの除幕式が予定されていた。しかしながら、マレーシア国王からの笹川会長に対する勲章授与の話が飛び込んできたため、会長は予定より長くマレーシアに滞在しなくてはならなくなり、結局、タイでの予定はキャンセル、カンボジアに直行することになったため、私が会長の挨拶を代読することになった。
今日の式典には、最高責任者のピヤサコール学長や、シルラート医学部長で国王の主治医でもあるテラワート教授などの大学幹部に加えて、この事業が始まった当初の責任者である国立リハビリテーションセンターの所長であったパタリヤ博士のような懐かしい顔ぶれや、最近まで校長を務めたカモンティップ准教授ら、大勢の人が集まっていてくれた。
カンボジアトラストのスリランカ代表のメアリースコットさんの姿もあったが、彼女からカンボジアのボートレース会場で昨日300人以上の人が亡くなる大きな事故があったこと、カーソンさんが、新校舎の落成式典が予定通り行われるかどうかを調査中であること、を耳打ちされる


          <日本財団とマヒドン大学の友好を謳ったプレートの除幕式>

笹川会長の不在をみんな残念がっていたが、私は、2001年に始まったこの学校が、漸く、夢の目標であった国際義肢装具士資格一級認定校となり、すべて英語による授業が行われる国際コースを開設したことに感慨ひとしおであった。
アジア各地には現在5つほどの国際義肢装具士資格二級校があるが、教員になるための資格である国際義肢装具士資格一級を供与できる学校は、これまで、オーストラリアのメルボーンにあるラトローブ大学しかなかった。これからは、ここバンコクで学ぶことが出来る。日本財団が支援する、カンボジア、スリランカやジャカルタ、また、来年開校予定のフィリピンなどの各地の義肢装具士学校の卒業生も、ここで、追加の授業を受ければ、教員になる道が開かれる。
来年のマニラでの学校の開設によって、日本財団のアジアでの義肢装具士ネットワークはここマヒドン大学を頂点として完成することになるのだ。


           <ピヤサコール学長らと記念撮影に収まるスタッフたち>

式典を終えると、お祝いの昼食会を失礼して、私はホテルに急いで戻った。
タイ保健省の伝統医学局の医療マッサージ専門官のプラポートさんに会うためだ。
テーマは、タイ政府が認定する医療マッサージの国家資格を視覚障害者にも与えるようにするための仕組みを日本の技術支援で作り上げること。そして、それを手本とした制度がマレーシアやベトナム、カンボジアなどの周辺国でも出来て行くよう働きかけを行うこと。
協議の結果、双方の考えが一致し、そのための予算化を図り、具体的にはバンコクでの研修を準備することでまとまった。
プラポートさんらと別れ、急いで荷物をまとめ、空港に急いだ。待合室で笹川平和財団の関理事長と合流、同じフライトでプノンペンへ。
プノンペン空港では、笹川会長を出迎えに来ていたカンボジア国軍近衛師団の副司令官らに貴賓室に招き入れられる。
笹川会長ら一行は、テレビ朝日の西支局長や日経新聞の高橋支局長らと一緒に30分遅れのバンコクからの別便でプノンペンに到着。


          <プノンペン空港の貴賓室に笹川会長を出迎えた国軍幹部たち>

プノンペンのホテルまでは、ものものしくも何と憲兵隊のパトカー先導で、国軍差し回しのセダンに乗せてもらうことに。実は、この過剰なまでの警護が笹川会長一行の滞在中ずっと行われることになっていたのだった。
ホテルに着いた笹川会長を待ち構えていたのは、会長懇意のプノンペンタイムス社主、ロス・ダンクリー氏。早速、ホテルのラウンジで面談。


8時半 ホテル出発
10時 シリントーン義肢装具士学校新校舎開設式典
13時 保健省伝統医療関係者と昼食
15時 ホテル出発
18時00分 バンコク発
19時10分 プノンペン着
21時 プノンペンタイムス社主ロスダンクリー氏面談

置き薬の対象世帯を1400世帯から1万世帯に拡大 [2010年11月22日(Mon)]
11月22日(月曜日)

               <チェンセン地区のボランティアたちと>

朝8時半にホテルを出て車で北へ走ること一時間。チェンセン地区というところにある置き薬事業の現場に到着。ここは、国境の町、「ここからラオスまでは4キロ、ミャンマーへは11キロ」
今年2月にも訪れたお寺には、対象の村で働くヘルスボランティアら約60人が集まってくれていた。記憶のある顔もちらほら。前回同様、近隣で最高位というお坊さんの姿も見える。
そして、お坊さんのスピーチのあと、各村の住民代表やヘルスボランティアが交代で挨拶。置き薬のお陰で、安価で安心できる薬がいつも簡単に手に入るようになったのでこれまでのように一々病院に行かずと済むようになった、と感謝の言葉が続く。
ヘルスボランティアというのは、タイ独特の制度で、全国に100万人のボランティアが文字通り無給で保健衛生関連の活動に従事しているという。我々が3年前に始めた伝統医薬品の置き薬事業でも、薬の代金の回収と補充を担当するのはこれらボランティアたちである。


               <250人もの村人が集まった>

そこから今度は、一旦チェンライ市内に戻り、空港の傍を通り抜けて走ること一時間余り。バンファムサムパンという村に到着。ここは、これから始まる第二フェーズの対象地。第一フェーズで使われた畳表のような自然素材で作られていた置き薬箱は一回り小さいプラスティックの容器に変わり、内容も10種類の医薬品に減らされていた。タイ伝統医学や薬草について記された2冊の小冊子が含まれていることは今まで通り。この村では全住民350世帯が対象になるとのことであったが、今日はその内、250世帯ほどが会場に集まっており、バンコクから駆けつけたタイ保健省のお役人に我々も加わって置き薬キットの配布式が行われた。

                <一人ひとりに置き薬箱を手渡す>

今年の夏に終わった第一フェーズでは、タイ全土から北部(チェンライ県)、東北部(サワナケット県)、中央部(スパンブリ県)、南部(スラタニ県)それぞれ一県を選び、それぞれから、医療機関まで10キロ未満の近隣地、10キロ以上30キロ未満の準近隣地、30キロ以上の遠隔地の3つの地区を選び、合計12地区のそれぞれから約100世帯を選んで伝統医薬品20品目の入った置き薬キットを配布し、利用頻度や満足度などを調べる実験を行ってきた。

           <一回り小さくなったプラスティックの置き薬箱>

その結果、参加世帯の96%が満足し、医療機関へ出向く頻度も20%から40%も減少すると言う実験結果が得られたため、保健省は第二フェーズの実施を決定、日本財団に対し、人材教育などの面での引き続いての支援を要請してきた。第二フェーズでは、4つの県12の対象地区を一挙に100地区に増やすと共に、対象世帯を1400世帯から1万世帯にすることになっている。
また、今回初めて聞いたところによると、タイ保健省は、さらにその後、対象となる県を新たに10県加えて合計14県にする方針を決定。来年から、これら10県でヘルスボランティアに対する講習会を開始するなど第3フェーズに向けた準備作業に入る、という。


               <大事そうに置き薬箱を抱えた村人たち>


8時半 ホテル出発
9時半 置き薬現場訪問(チェンセン)
12時半 第二次置き薬配布式典(バンファムサムパン村)
13時半 関係者との昼食会 
15時45分 チェンライ発
17時05分 バンコク着
19時 NHK大橋記者、ASEAN ラジャ特別顧問
チェンライへ エアポートリンクに乗ってみた [2010年11月21日(Sun)]
11月21日(日曜日)

               <エアポートリンクの空港駅は安全柵付き>

今日は、タイ北部の町、チェンライに行かねばならない。スワナプーム空港まで8月下旬に開通したばかりのエアポートリンクに乗ってみることにした。数年前から開通が噂されながらもなかなか開通しなかったいわくつきの空港市内直結電車だ。
ホテルの前からBTS(スカイトレイン)と呼ばれる高架軌道を走る電車でパヤタイ駅まで行き、エアポートリンクに乗り換えた。乗り換えは専用通路で数分ととても便利。
エアポートリンクには、空港と市内中心部、MRT(地下鉄)ペッチャブリー駅近くにあるマッカサン駅を15分で結ぶExpress(急行)と、マッカサン駅の二つ先のパヤタイ駅まで25分かけて行くCity Line(普通列車)の二つがある。City Lineの運賃はたったの15バーツ、日本円にすれば40円ほど。これに対しExpressは100バーツ。値段の差が余りにも大きいこともあり、今回はCity Lineを利用することに。
運転間隔は15分ということだが、私がプラットフォームに上がると丁度折り返しの電車が到着したところ。数分後には発車。車内はBTS・MRTとそっくり。それもその筈、同じドイツのシーメンス社製なのだとか。
途中、6つの各駅に止まっていくのだが、車体の横に大きくExpressと書いた急行には一回追い抜かれただけ。25分あまりでスワナプーム空港の地下に設けられた終着駅に到着。


             <チェンライラジャパット大学伝統医療学部>

空港で、タイ保健省伝統医療研究所のプラモート所長、ASEAN事務局長特別顧問のラジャさんと合流。チェンライへは1時間ほどの短い空の旅。
チェンライ空港には、一足先にチェンライ入りしていた日本財団の担当者、中嶋君や、タイ保健省のドゥアアンターさんら、旧知の面々が迎えに来てくれていた。
空港から最初に向かったのは、車で20分ほどのところにあるチェンライ・ラジャパット大学。日曜日に拘わらず、タオ学部長が出迎えてくれた。
チェンライ・ラジャパット大学は、37年前に師範学校として設立、77年に大学に昇格、その後、総合大学化を進め、今では社会学部、経営学部、工学部など8学部、学生数約2万人、教職員数800名というチェンライ最大の公立大学だ。
ラジャパットという名前のつく大学は、タイ全土に40以上あるがこれらは、国王の認定を受けた師範学校をルーツにもつ公立大学群だそうだ。


                 <大学内の伝統医薬製造実習室にて>

チェンライ・ラジャパット大学には4つの学科、2つの修士コースを持つ伝統医療学部がある。学生総数は450人。今回、ここを訪れることにしたのは、10月末に日本財団の後援でハノイで行われた第二回ASEAN伝統医療会議で、ここの学部長でタイ伝統医学を研究する文化人類学者のタオ博士と知り合い、招待を受けたため。
タイ全土には現在、25の大学と6つの短大に伝統医療学部があるが、正式に認定を受けているものは13校のみ。このうち、マヒドン大学など8校にあるのは近代医学と融合した応用タイ伝統医学(Applied Thai Traditional Medicine)。これに対し、チェンライ・ラジャパット大学など5校の伝統医療学部で教えているのは純粋タイ伝統医学(Thai Traditional Medicine Original-type)。
タオ学部長によれば純粋タイ伝統医学の分野ではチェンライ・ラジャパット大学が先駆けなのだそうで、タイでの置き薬事業の実行委員長のスパチャイ博士が副学長を務めるRangsit大学が2番目なのだそうだ。
チェンライ・ラジャパット大学の伝統医療学部は、年々入学希望者が増えており、伝統医療学部の今年の新入生は120人。卒業生はタイ伝統医療の治療師や薬剤師、マッサージ師、助産師など4つの国家資格を持ち、国立、省立などの公立病院、民間の製薬企業などで活躍している由。大学内の伝統医薬製造実習室では、日曜日にもかかわらず製薬実習が行われていた。


                  <カトンとコムローイを売る屋台>

大学を後にして、郊外のホテルへ。チェックインを済ませて直ぐにみんなと夕食に出掛ける。お寺には日本のお盆のときの釣灯篭にも似た紙製の飾りもの吊るされている。また、道路際には、なにやら飾り物を売る屋台が並んでいる。
今夜は偶然にも、11月の満月の夜。ソンクランと並ぶタイの二大伝統行事、ロイカトンの日。我々のいるチェンライはその名所の一つなのだとか。そこで、食事の後、皆でロイカトンが行われていると言う川岸まで出掛けてみた。
特設のステージでは若い女性が歌を歌い、その音が巨大なスピーカーによって大音響で流れる中、既に、大勢の人が繰り出していた。カトンやコムローイを売る屋台だけではなく、様々な食べ物やおもちゃを売る夜店が並んでいる。
ロイカトンでは、川に線香とろうそくを乗せた、バナナの葉で作った飾り物(カトン)を川に流す他、コムローイと呼ばれる紙で作った熱気球を空に放つ。精霊を慰めるとか、一年間の罪を流すと言うような意味があるそうな。
我々も、カトン流しとコムローイ飛ばしに挑戦してみた。
カトン流しは兎も角、コムローイ飛ばしは意外と大変だった。折りたたんで円盤のようになっている気球を広げ、その真中に吊り下げてある燃料に火をつけた後も、十分に気球の中の空気を暖めておかないと気球は上昇してくれない。腕が少し痺れるとともに、内部の空気が熱くなって火傷しそうになって初めて、手を放すことが出来た。
それにしても、火のついたままの灯篭や熱気球など、日本じゃ消防署が許さないのでは、、、。


                      <コムローイを空に放つ>


12時 ホテル出発
13時40分 バンコク発
15時 チェンライ着
15時半 チェンライラジャパット大学伝統医療学部訪問
18時 伝統医療関係者との夕食会
19時半 ロイカトン見学
一歩もホテルの外に出ないで一日が終わる [2010年11月20日(Sat)]
11月20日(土曜日)
今日は、土曜日だが、4人の人に私の滞在するホテルに来てもらって打合せ。
最初のお客さんは、仏教者の国際会議でバンコク滞在中だったスリランカのセワランカ財団のハルシャ会長。
ラジャパクサ大統領や、その弟で経済開発大臣のバジル・ラジャパクサ氏と親しいハルシャさんとは、日本財団のスリランカでの来年以降の支援事業について打合せ。結局、来年一月にも私がスリランカに出向くことになった。
その後、12時にはバンコクに本部があるアジア太平洋障害者発展センター(APCD)の二ノ宮所長と、障害者公共政策大学院(IDPP)の件で打合せ。12月早々には、この事業のプログラムディレクターのデリック・コグバーン教授がIDPPの法的登記の件でタイに出張して来るが、その訪問先の一つであるマヒドン大学でのアポ取りについて協議。私が、23日の義肢装具士学校の件でピヤサコール学長と会うので、その際に、伝言しておく内容で合意。
夕方6時には、国際熱帯農業研究センター(CIAT)に出向中の間遠さんと、CIATと日本財団が進めているアジアでのキャッサバ事業の来年度の事業方針について摺りあわせ。その後、UNFPAの瀬畑さんも交えて夕食。
結局、一歩もホテルの外に出ないで一日が終わった。

              
8時半 セワランカ財団ハルシャ会長
12時 APCD二ノ宮所長
18時 CIAT間遠さん
19時 UNFPA瀬畑さん
バンコクへ、今年19回目の出張 [2010年11月19日(Fri)]
11月19日(金曜日)
今年19回目の出張先はタイとカンボジア。朝7時に家を出て、電車に乗る。気温は7度。長かった夏も終わり、急速に秋が深まりつつある。寒い時期に暑い場所へ行くときは服装に気を使う。今回は、ダウンのジャケットの下にジャンパー。その下は夏の軽装。成田空港へ向かう列車の窓からスカイツリーが見えた。

               <スカイツリーが見えた>

今回のタイとカンボジア行きは、元々、笹川会長が20日のAPI会議出席のためマレーシアに行くのに合わせて、日本財団の支援先であるプノンペンの義肢装具士学校の新校舎の落成式と、伝統医療学校の入学式への参列を計画したもの。また先般、開始式典を行ったばかりの、カンボジアの僻地の中学校を対象とする、ラジオによる教育放送の現場視察も組み込むことにしてプレアビヒア行きを計画した。タイとの国境紛争となっている遺跡のある地域である。
ただ、丁度その時期には、カンボジアでは国民的行事であるボートレース(http://blog.canpan.info/ohno/archive/332)が行われることが判明したため、カンボジア行きを数日後ろにずらし、真ん中に、チェンライでの置き薬事業の現場視察と、バンコクでの義肢装具士学校の新校舎訪問を挿入することにした。私は、別件で一足先にタイに飛び、マレーシアからタイ入りする会長一行とは、明後日バンコクで合流し一緒に北部の都市チェンライに行くことになっていた。
ところが、出発直前になってマレーシア国王から笹川会長に対する勲章授与の話が飛び込んできた。会長一行は予定より一日半長くマレーシアに滞在しなくてはならなくなり、結局、タイでの予定を総てキャンセルし、マレーシアからカンボジアに直行することになった。その為、チェンライとバンコクでは、私が会長の代わりを務めなくてはならなくなった。


           <Truly ASEAN というロゴを付けたエアアジア機>

バンコク空港に着陸。外の気温は31度。タラップを降りて連絡バスに乗る。ふと、Truly ASEAN というロゴを付けたエアアジア機に気がついた。エアアジアは、マレーシアを拠点とするアジア最大手の格安航空(LCC)会社だが、キャッチフレーズは「最早、マレーシアの航空会社ではなく、ASEANの航空会社」。
残念ながら、誘ってもらったにもかかわらず、私は行けなかったのだが、昨年8月8日のASEANデイでは、ASEANのスリン事務局長らを乗せて、、ジャカルタで朝食、クアラルンプルで昼食、バンコクで夕食を、というキャンペーン飛行をしたという機体ではなかろうか。

10時55分 成田発
16時05分 バンコク着
18時半 丸紅バンコク支店内藤副支店長
19時 フジテレビ江藤支局長
フランクフルト経由で帰国(私の旅の工夫 5)  [2010年11月06日(Sat)]
11月6日(土曜日)
フランクフルトで乗り継ぎまでの時間を使って、このブログを仕上げる。
今回は「私の旅の工夫(その5)」として、腕時計について一言。
私は、アジアに行く場合は単純なアナログ式の腕時計を持参、その都度、一時間とか二時間、時針を動かしているのだが、アジア以外の遠方に行くときは、アナログとデジタルの二重表示の腕時計を使っている。ただ、いつも不思議に思うのは、市場に出回っている二重表示の腕時計の場合、私の知る限り、どれもデジタル表示の部分は、スイッチ一つであちこちの時間に切り替えることが出来るのだが、アナログの針表示の部分はそのまま。即ち、アナログ表示は日本時間を表して置く、という使い方が想定されているようだ。
しかし、これは逆のほうが便利なのではなかろうか、即ち、アナログは通常12時間表記なので、日本から遠く離れたところで例えば、針が12時を指していたとして、その時、とっさに、日本時間が昼の12時なのか、夜の12時なのか判断しにくいこともあるのでは。むしろ、デジタル表示の部分で日本時間を表示し、アナログの方は現地時間とする方が合理的ではないだろうか。
実は、私の使い方はまさにそれである。難点は、私の持つデジタルアナログ二重表示の腕時計は、上記のようなメカニズムになっているため、デジタルの切り替えは簡単だが、アナログの部分は一々自分で調整する必要があるのでちょっとしたひと手間。誰か、私の考えるように、逆の組み合わせで二重表示の時計を作ってくれないものだろうか。


<私の旅の工夫(その5) 時計はデジタルと文字盤のダブル表示が便利だが、、、>
 
            <エチオピア点景@ シバの女王の末裔?女学生たち>


                <エチオピア点景A 道端の果物屋さん>

 
<エチオピア点景B 道端の靴磨き>

            
<エチオピア点景C 上空から見たアジスアベバ>


5時05分 フランクフルト着
20時25分 フランクフルト発
(翌7日)15時55分 成田着

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