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第2回ASEAN伝統医療会議始まる [2010年10月31日(Sun)]
10月31日(日曜日)

                <第2回ASEAN伝統医療会議の看板>

今回の出張のメインイベントの一つがASEANオーケストラであったのには違いがないのだが、ASEAN関連のもう一つのイベントが今日から始まるASEAN伝統医療会議である。これは、昨年8月にバンコクで第一回を我々の提案に基づきタイ保健省と相談しながら企画したもの。その会議に参加したベトナム保健省の代表団から2010年は、ベトナム政府が担当するのでハノイで開催してもらえないか、という話がASEAN事務局にあった。
明らかに、ASEANの議長国がタイからベトナムに移ることを意識しての提案であった。そのために、保健副大臣と会議をすることになり、ASEAN事務局のラジャさんと私がハノイに出向いたのが昨年11月。その時に、ASEANコンサートの企画も生まれたのだが、、、。


             <ベトナム政府からは保健大臣に加えて副首相も出席>

朝8時半、第2回ASEAN伝統医療会議が始まった。ベトナム政府からは保健大臣に加えて副首相も出席。ASEAN事務局長のスリンさんも来てくれた。彼と会うのは3日連続。副首相、保健大臣、笹川会長のスピーチの後、スリンさんが登場。何と熱のこもった大演説を30分。
各国代表らの記念写真の後、ようやく、会議が始まった。ハンセン病施設に向かう笹川会長一行を見送り、私と伝統医療担当の中嶋君はそのまま残る。
伝統医療会議にはASEANメンバー10か国に加えて、日本と中国が参加。出席者は総勢200人とか。各国の代表が順番に現状を報告する。
いずれの国にもそれぞれにインドや中国に由来するものをベースに独自の要素を加えたそれぞれの伝統薬、医療法が存在し、特に、医療過疎の僻地に住む人々や貧しい階層に今も利用されている。しかし、政府がその可能性に気が付きうまく活用しているのは、まだ、ミャンマーやベトナムなど一部にとどまっているようだ。
登壇してスピーチするのは、各国保健省の伝統医療を担当するセクションの人たちなので、口々に訴えるのは、伝統医療にはこのような優れた点がありもっと活用したいのだが政府の予算割り当ては十分ではないと言うこと。


            <伝統医療会議各国代表らは記念写真>

そうしたなかで、ミャンマーやタイ、ラオスなどの政府代表の口からは、日本財団の伝統医療の分野における支援を高く評価するという発言が相次ぐ。冒頭の副首相やスリンさんのスピーチといい、各国代表の報告といい、日本財団の名前が何回出てきたことだろう。シンガポールやマレーシアなど日本財団とはまだ関係のない国の代表団は大いに白けたかも、と心配になった。
昼食のテーブルでは、ベトナム保健省のシュイエン副大臣から隣の席に座るよう招かれる。副大臣からは、日本財団に是非、ベトナムでもモンゴル式の置き薬事業をやりたいので、支援してもらえないだろうか、との言葉があった。


             <伝統医療会議には12カ国から約200人が参加>

午後からは、特別に1時間半の一こまが日本財団が各地で支援している置き薬事業に関するプレゼンテーションに当てられた。まず、冒頭に、私が原型となったモンゴルでの事業について説明した後、ミャンマー保健省のマウン伝統医療局長とタイ保健省のパタラポン課長が、日本財団と協力して両国それぞれのやり方で実施中の置き薬事業に関して説明。
「それぞれのやり方」というのも、タイではモンゴル方式を殆どそのままに、家庭用常備薬としての薬箱の配置をタイ全土4地域、12箇所のモデル地区で行っているのに対し、ミャンマーでは、全県で1県当たり500箇所の医療過疎地で、各村に一箱ずつ配布、利用代金の回収についても必ずしも後払いにこだわらない極めて柔軟な方式を採用しているからである。
いずれも、利用者やこの事業に従事しているボランティアらにアンケートを実施。その結果を取りまとめたものを披露した。それによると、両国とも、利用者の評判は上々で対象から外れた地域からの実施要請が相次ぐなど、それぞれに大変うまく行っているようだ。タイでは、このような状況を踏まえて、実験規模を現在の1400世帯から、年内に1万世帯に拡大する方針であるという。


         <ミャンマー代表による置き薬事業に関するプレゼン>

第一日目の会議を終えたところで、伝統医療担当の中嶋君を誘って、会場の外のベトナム料理店で、CATMO(カンボジア伝統医療機構)の高田さんと打合せを兼ねた夕食。
その後、ホテルに戻りハンセン病施設訪問から戻ってきた笹川会長らと合流。私は、アフリカ出張が控えているので、会長らと一緒に今夜の夜行便で日本に帰らなくてはならない。中嶋君には伝統医療会議の最終日まで残ってもらうこととし、後を託す。 
     

          
8時 ホテル出発
8時半 ASEAN伝統医療会議
18時半 カンボジア伝統医療機構高田さん
23時55分 ハノイ発
翌1日)6時45分 成田着
一転、優雅なハロン湾の休日 [2010年10月30日(Sat)]
10月30日(土曜日)
今日は、ホーチミンへ日帰りする日。目的地はドンナイ省ビエンホア市。ドンナイ師範学校で実施中の中高等聾学校の卒業式に出席するため。ハノイで昨日スタートした聾学校のモデルになった学校である。
8時発の飛行機に乗るため、朝5時に起きてバスで全員一緒に6時にホテルを出発。ところが空港に着いてみると、様子が変だ。空港のチェックインカウンターが異常にすいている。それもその筈、我々が乗るはずの便だけではなく、ベトナム航空機の全便が飛ばない状況。原因はコンピューター故障とのこと。
慌てて他の航空会社に当たってみるが、8人もの席が簡単に取れるはずもない。また、故障がいつ回復するか分からない以上、たとえ無理して行ってみても、確実に今日中にハノイに帰ってこれる保証はない。
明日は、朝からハノイでASEAN伝統医療会議。会長はスリン事務局長らとスピーチをすることになっているし、私もプレゼンテーションの予定。こちらに穴を明けるわけには行かない。
幸い一人分だけ別の航空会社の便で席が取れることになったので、元々、今日からホーチミンに数日滞在する予定にしていた聾教育担当の日本財団職員、高橋さんに一人行ってもらうことにし、我々はホーチミン行きを断念し、ホテルに引き揚げることに。


                <誰もいない空港のチェックインカウンター>

ホテルに向かうバスの中で、折角の好天の土曜日なので、ただ、ホテルに戻るのももったいないと、急遽、世界遺産の観光名所であるハロン湾に行くことに決定。ベトナムには恐らく50回近く来ているはずの私もハロン湾行きは初めて。
我々は、海外出張中は、週末でも普段は移動か仕事に費やすことが多く、殆ど観光をする時間はない。しかし、今回は偶然降って湧いたように訪れた空白の丸一日。たまには、観光をしても罰が当たることはないだろう。
ハロン湾へは、片道、約4時間ほどの距離だった。着いてみると週末のせいもあってか、かなりの観光客で船着場は大混雑。バスの運転手さんの手配で一隻の観光船に乗り込む。
空は青空、爽やかな気候。船は凪いだ海面を滑るように進む。美しい島影を見ていると、これまでのごたごたなど仕事のことはすっかり忘れて本当にリラックスした気分。久々に、命の洗濯をした一日でした。天の配剤に感謝。高橋さんごめん。


                     <美しいハロン湾(その1)>


                     <美しいハロン湾(その2)>


                     <美しいハロン湾(その3)>


                     <美しいハロン湾(その4)>


6時 ホテル出発
7時 空港到着
8時半 空港出発
12時 ハロン着
12時半 ハロン湾見学
16時半 ハロン発
20時 ホテル帰着
福村芳一指揮ASEAN交響楽団が各国首脳の前で演奏 [2010年10月29日(Fri)]
10月29日(金曜日)
朝、ホテルの朝食の席に、聾教育プログラムの責任者、ウッドワード博士と奥さんのホアさんが現れる。一緒に、我々のバンに乗り込み、国立師範学校へ。今日は、ベトナム政府教育省の正式なプログラムとして、初めて全面的に手話を使った教育法による聴覚障害者のための中高等教育が始まるのだ。
これまでベトナムでは、聾教育としては、日本同様に口話法と呼ばれる読唇術と発声訓練を中心にした教育が行われてきた。手話に頼っていては社会で暮らしていけないという、健聴者の「善意」の発想による教育方針であった。しかし、この方法では聾者は授業を理解することは困難である。
特に、ベトナム語のように声調が重要な役割を果たす言語においては、唇の形だけで言葉を判断することは不可能に近い。そのため、我々が南部ベトナムのドンナイ省でウッドワード教授の指導に基づく手話を用いた授業法による中高等聾学校を開設するまでは、ベトナム全土で中学校課程を習得した聾者は存在していなかったのである。
ベトナムでは中学校、高等学校では終了と同時に国家統一試験が行われ、これに合格しないと修了資格は与えられない。ドンナイの聾学校では、この統一試験に臨んだ最初の中学課程修了生約10人の中からドンナイ省全体約1000人の受験生のうちで席次5番という好成績をとるものが現れた。その2年後には、何とこの聾学校の卒業生が全省でトップの成績を収めた。
そこで、私はウッドワード教授を誘ってハノイの教育省と障害者行政のための組織である全国障害者問題調整委員会(NCCD)にこの成果を報告に行った。2006年2月のことである。教育省の責任者はショックを受け、直ちに副大臣をトップとする視察団をドンナイに派遣することを決定。日本財団は、彼らを米国の聾教育のメッカであるギャローデット大学と国立聾理工科学院(NTID)への視察に招待するなどの働きかけを行った。
その結果、ベトナム政府教育省は手話法による聾教育の有効性をようやく認識し、ドンナイと同様の中高等聾学校の開設を決め、日本財団に対し支援を要請してきたのである。先方は一度に、北部と中部でそれぞれ一校づつの開設を望んだが、我々はウッドワード教授と相談の結果、先ずは、ハノイでの一校のみを開設することとし、それの準備をしてきたのである。こうして、5年越しの働きかけが漸く、日の目を見ることになったわけだ。
しかし、政府の意向がはっきりした後も、ここに至るまでには大変な紆余曲折があった。現場レベルの無理解と無責任から生真面目なウッドワード教授を怒らせてしまい、何度も、構想は崩壊の瀬戸際に追い詰められた。日本財団の障害者問題の責任者の石井君の粘り強い説得がなければきっとまとめることは無理だったろう。
今日の式典には、驚いたことに教育省の副大臣が出席した。教育省のトップにまで認知された事業ということになると、これからは、我々の立場はかなり有利になるだろう。文部官僚はこの事業をどうしても成功させねばならなくなった訳で、今後、無理難題を言って来た場合は、我々は手を引くと言って迫ることが出来るだろう。


     <国立師範学校での聾教育開始式 手話で国歌を歌う学生たち>

昼食の後、保健省のマイ博士の案内で、国立伝統医療大学と伝統医療中央病院へ。国立伝統医科大学はベトナムが誇る伝統医学専門の大学。2005年に、それまでの短期大学を6年制の大学に昇格させて出来たもの。教授陣は419人。学生総数は修士課程、博士課程も合わせると3827人という大規模なもの。これまでの卒業生は1万5000人以上という。
授業中の教室を覗くと、100人くらいの大きなクラスで若い男女が熱心に学んでいた。ベトナムの伝統医学は中国伝統医学の影響が強い。中国の大学との人事交流も進んでいるようであった。一通り学内の見学を終えて外に出ようとすると、1階のホールでは大勢の学生が体操服で気功の練習をしていた。これも授業の一環だとか。
次いで、中央伝統医学病院を訪問。ここは、1957年の創立。1988年にはWHOの伝統医学協力センターにも認定されている。製薬部門も含む25の部局を持ち、職員総数は374名。入院患者のためのベッド数は470床。外来患者は一日当たり700人から800人。ベトナムは中国同様、伝統医学と近代医学の連携に力を入れているのが特徴。経済水準の低さから常日頃、ミャンマーやラオス、カンボジアと合わせてASEANの落ちこぼれ4カ国(CLMV)と言われるベトナムにとって、伝統医学は、クラシック音楽同様に、自慢できる数少ない分野の一つなのである。
                  
                    <国立伝統医科大学の立派な校舎>

夕方6時、ASEAN事務局長特別顧問のラジャさんも一緒にギャラディナー(公式晩餐会)の会場である国立国際会議場へ。しかし、ここでは厳しく入場を制限されており我々のメンバーではラジャさんを入れて5人しか入れない。中嶋、高橋、横内の3人を残し会場に入る。
入り口のところで、外務省文化局長のチャウさんと会ったので、オーケストラの出演のタイミングについて確認。各国首脳が席に着いたところで、ズン首相が乾杯の挨拶、その直後がオーケストラの出番だという。
実は、我々が提案したASEANオーケストラは後で決まった企画。それまでに決まっていた民族音楽を中心にした構成に割り込む形で入り込んだもの。そのために、その企画を請け負っていた総合プロデューサーが臍を曲げてしまい、ことあるごとに意地悪をするもののようだ。オーケストラの出演のタイミングもその一つ。最後まで、彼はオーケストラの出番を各国首脳が来るずっと前に設定したがっていたのだ。
                
              <サミットの公式ディナーへの招待状>

ギャラディナーの会場には大きな広間に10人ほど座れる丸テーブル席が50個ほど。正面のステージに向いて各国首脳が座る席が一列に並ぶ。ステージの上にはオーケストラ用の譜面立てが椅子と一緒に並べられていた。丸テーブルの各席には我々のASEANオーケストラのプログラムが配布されていた。これも、外務省との協議で配布することを決めていたものだが、総合プロデューサーが抵抗していたもの。一方、民族音楽のほうのパンフレットのようなものは何もない。
始まるまでまだ少し時間があったので、舞台裏に回ってみると、福村さんが憮然として座っていた。オーケストラの団員のために手配されていたはずの食事も用意されていない。しかも、出番を待つまでの控え室もないというのだ。私は、出演のタイミングについては文化局長と確認したこと、我々の公演プログラムも、各席に配布されていることなどを伝えて彼を宥める。


                <ギャラディナーは国立国際会議場で>

予定時間を15分ほど遅れて、漸く、各国首脳がぞろぞろと入ってきた。我々のテーブルの直ぐ脇を通り過ぎる。笹川会長は旧知の首脳の何人かと挨拶を交わす。カンボジアのフンセン首相らASEAN首脳に混じって、日本の菅総理、中国の温家宝首相や、パンキムウン国連事務総長の顔も見える。
全員が席に着いたところで、ベトナムのズン首相の挨拶と乾杯。それが終わると間もなく、福村さんが登場し、オーケストラの演奏が始まった。昨晩のオペラハウスでの演奏会でも、26日のホーチミンでのコンサートでも最初に演奏した曲、ブラームスの大学祝典序曲である。
会場は予想外に静か。皆、華麗な音楽にじっと耳を傾ける。すると、そこへ、米国のクリントン国務長官が一人慌しく入ってきた。空港から遅れて駆けつけたということのようだ。各国首脳と順番に挨拶。
クリントン長官が自分の席について間もなく、オーケストラの短い演奏は終わった。クリントン長官の耳には届かなかったも知れないが、ディナー会場からは盛んな拍手。
私とラジャさんはディナーを途中で抜け出し、オーケストラメンバーの打ち上げ会に参加。
色んなメンバーが口々にお礼を言ってくれる。その中に、ブルネイからの唯一の参加者、20歳のティモシー・チュア君とお母さんの姿があった。ブルネイからの参加者探しにはとりわけ苦労したので、私も彼と話が出来たことがとてもうれしかった。チュア君もお母さんも今回の参加をとても喜んでくれた。是非、また会いましょう。
他の参加者からも、来年も是非やりたいとの声が上がった。


          <ASEAN交響楽団の演奏に耳を傾ける各国の元首たち>

8時15分 ホテル出発
9時 国立師範学校でのベトナム北部地区高等聾教育開始式
12時 ウッドワード博士昼食
13時半 中央伝統医科大学
中央伝統医学病院訪問
18時 ホテル出発
20時 ギャラディナーコンサート
22時 打ち上げ会
国立オペラハウスでのASEANコンサートついに始まる [2010年10月28日(Thu)]
10月28日(木曜日)
今日は、ASEANサミットの開始日。不思議なことに、天気は一転して素晴らしい秋晴れ。最高のサミット日和りだ。
今朝は、笹川会長らを案内して、昨年から新たに始めた重度障害者の自立生活を障害者自身が支援する事業の根拠地「ハノイ自立生活センター」へ。
ここは2年前の2008年10月に、代表のホンハさんらと一緒に、私自身が物件の下見に来た場所。日本製の車椅子搬入用のリフトつき車両もメーカーに特別に頼み込んだりしたので、私にとっても思い入れのある事業だが、笹川会長の現場訪問は初めて。
笹川会長は、ホンハ代表ら障害当事者と懇談会。そのあと、地元記者との記者会見に臨む。ホンハさんによるパワーポイントを使っての詳しい説明のあと、記者さんと質疑応答。予想外に活発な質問が続く。残念ながら、会長は次のスケジュールが迫っていたので、途中で退席。私は日本財団の聾唖事業担当の高橋さんと二人残り、記者からの質問に答える。

       
               <ハノイILセンターでの記者会見>

記者会見を終えて、急いで次の予定である昼食会の場所に向かおうとして交通渋滞に巻き込まれた。大勢の警察官が交通整理に並ぶ中を、サミットに参加する要人を運ぶと見られる黒塗りの車列がパトカーに先導されて何台も続く。いよいよ、ASEANサミットが始まるのだ。
中華レストランで、ハノイ国立大学奨学生OB(SYLFフェロー)や、国連平和大学OBのゴックさんらと、笹川会長を囲んでの昼食会のあと。ベトナム国営放送局(VTV)へ。
ベトナムTVの英語放送である4チャンネルの人気番組「Talk Vietnam」が日本財団の活動をテーマに取り上げることになり、笹川会長とのインタビューを収録するというのだ。放送局に行ってみると、何と米国籍のベトナム人で我々の長年にわたる事業パートナーであるカバントランさんの姿が。
彼はつい一ヶ月前に、大変な交通事故で奥さんとお嬢さんが重傷を負ったばかり。奥さんはほぼ回復したと言うが、頭部を負傷したというお嬢さんは今も寝たきりの状態が続いていると言う。この放送をアレンジしてくれたのは彼なのだが、今回の収録に立ち会うためにベトナムに来るとというので、くれぐれも、来ない様に強く申し入れていたので本当にびっくり。


               <対談番組「Talk Vietnam」のスタジオ>

無事収録を終えて一旦ホテルに戻り、着替えてからASEANオーケストラのコンサートに向かう。オペラハウスの近くのホテル内のレストランでカバントランさんを交えて夕食。平静さを装って入るものの、彼が時折見せる呆けた表情がとても気になる。
食事を終えて、オーケストラ会場となったオペラハウスに向かう。ライトアップされたオペラハウスはフランス植民地時代に建てられたという由緒ある建物。ASEANオーケストラの公演の場としてはやはりここが一番だ。
しかし、福村さんによれば、音響効果という点ではホーチミン音楽院のコンサートホールの方がずっと良いのだそうだ。ハノイのオペラハウスも座席総数は590ほどと狭いのだが、ホーチミンのコンサートホールはもっと狭く400席。しかし、こちらは、日本政府の国際援助で最近建てたものだけに最新の音響技術が反映されているということのようだ。


                    <オペラハウスの華麗な建物>

中に入ってみると、目の前に、今朝会ったばかりのハノイ自立生活センターのメンバーで重度障害者のグオックさんが車椅子のままで座っていた。今回は、障害者の人たちにも音楽を楽しんでもらおうと、招待したのだ。
ただ、文化省には事前に申し入れていたのに、彼らの席を確保するのに最後まで苦労させられた。しかも、席数が削られただけでなく、車椅子の彼らに割り当てられたのが3階の桟敷席。リフトの設備がないオペラハウスでは1階でないと無理なのは明らか。その点は事前に強調しておいたにも拘らずである。
最終的には何とか1階に彼らの席を確保することが出来たが、それは日本財団の担当者である横内さんの交渉力によるもの。
会場を見回してみると、空席がそれも中央部に目立つ。恐らくはベトナム政府高官に割り当てたものの、クラシックには興味がなく来なかったのではないだろうか。在ハノイの日本人からの入場希望者が予想外に多く、割り当ての増加を要請したにもかかわらず、文化省からは既に招待券はなくなった、と言われていただけにこの様子には腹が立つ。


                   <VIP席には空席もあったが、、、>

コンサートが始まった。出し物はホーチミンと同じ。残念だったのは、武田杏奈さんの演奏で盛り上がった空気を、ビデオと司会のやりとりが長すぎて冷やしてしまったこと。
しかし、その直後のベトナム人のマイン君の力強いピアノ演奏で再び会場は盛り上がり、後半の「新世界」も素晴らしく、アンコールの2曲を終えるとスタンディングオベーションになった。
その中をステージからの福村さんの呼びかけに応じ、文化大臣とASEAN事務局長のスリンさん、日本財団の笹川会長が壇上に上り、花束を受け取る。スリンさんは当初はサミットの会議のために間に合わないだろうと言われていたものだが、無理をして駆けつけてくれたようだ。


                    <コンサートは大成功>

8時20分 ホテル出発
9時 ハノイ自立生活運動センター
10時 記者会見
11時半 SYLFF奨学生との昼食会
14時 ベトナムテレビ会長インタビュー
18時半 カバントランさんらと夕食
20時 ASEANコンサート
ハノイでオーケストラの準備 [2010年10月27日(Wed)]
10月27日(水曜日)

                <靄がかかりどんよりしたハノイの空>

今日はハノイへの移動日。オーケストラ団員と一緒に昼前の便に乗り込む。
皆、昨日の成功に気を良くしてか、明るい表情だ。
機内の新聞を読むと今日のハノイの気温は最高最低ともホーチミンに比べると5度も低い予想。漸くハノイに秋が訪れたのかも知れないと期待する。
しかし、ハノイに着いてみると、空気は少し涼しくはなったものの、生憎の曇り空。サミット開始を明日に控えながら、爽やかな秋晴れとは行かないようだ。この時期の本来の気候を当てにサミットを企画した政府関係者はがっかりしていることだろう。
それでも、ハノイ市内はサミットを迎える準備が整ったようだ。街中には千年祭を祝う幟に混じって、サミット代表団を歓迎する大看板や幟があちこちに並ぶ。


             <ASEANサミットを告げる幟が並ぶが、、、>

旧市内にあるオペラハウス近くの小さなホテルに宿を取る団員たちと別れ、私とラジャさんはニッコーホテルにチェックイン。日本政府とミャンマー政府の代表団用の指定宿となっているそうで、ホテルのあちこちにIDカードをつけた関係者の姿が見える。
ホテルの前にはサミット参加各国の旗が並ぶ。ふと見ると、見慣れないASEANというナンバープレートをつけた黒塗りの乗用車が何台も駐車している。ホテルの従業員に聞いてみると、今回のサミットのために新たに導入したサミットの各国代表団の送迎専用の車両のようだ。サミットにかけるベトナム政府の意気込みが伝わってくるようだ。
午後、オペラハウスでの演奏を明日に控え、オーケストラ演奏中に上映する予定のビデオ準備のための打合せを予定していたが、これはラジャさんらに任せることとし、私は福村さんと一緒に日本大使館へ。大使公邸で谷崎大使にご挨拶。


               <ニッコーホテルの前には各国の旗が並ぶ>

ホテルに戻るタクシーへラジャさんから電話。この期に及んで、新たな問題が発生。公演中に上演予定のビデオの内容と司会者の台詞を文化省が検閲すると言うのだ。
元々これは、公演中のステージにグランドピアノを出し入れしないといけないが、オペラハウスは場所が窮屈なため搬入に時間がかかると言うので、そのための場つなぎをどうするかというアイデアから生まれたもの。
時間が足らなくなり、私自身が急遽、シンガポールに出かけてまでして、ラジャさんと一緒に練り上げてきたもの。今頃になって文化省は何をしようというのか。余りにもばかばかしくなり、至急打合せに来るようにという文化省からの指示は無視して、福村さんとホテルのロビーで一杯やることに。
夜半、笹川会長らが東京から到着。


                   <ASEANオーケストラ公演のちらし>

6時 ホテル出発
11時 ホーチミン発
13時 ハノイ着
16時半 谷崎駐ベトナム日本大使表敬
18時半 福村さん打合せ
第1回ASEANオーケストラ・コンサートは大成功 [2010年10月26日(Tue)]
10月26日(火曜日)
リハーサルを見にラジャさんと一緒に、ホーチミン音楽院コンサートホールへ。正面玄関の外壁にはオーケストラの公演を告げる横断幕。史上初のASEANオーケストラへの期待が掛かる。
最終リハーサルが始まった。福村さんは、93年にフジテレビで放映されたドキュメンタリー「ウオッチミー」の姿そのままの厳しい指導。しかし、団員たちは予想外に和気藹々。比較的短期間の合同練習ながらハーモニー作りがうまく行っているのか、自信と余裕のようなものさえ感じられる。とても良い雰囲気だ。
誰もいない筈の観客席を振り返ると、リハーサルを見つめる大勢の若者たち。聞いてみると音楽院の学生たちだった、ここは、音楽院(Conservatory)と呼ばれているが、実質は国立ホーチミン音楽大学。学士コースに加えて修士課程、博士課程まであるという。教員数約300、ピアノ科、声楽科、作曲科など9つの学科があるのだそうだ。学生総数は1600名


              <いよいよ本番 入り口には女学生が並ぶ>

一旦ホテルに戻り、ラジャさんと二人で喫茶店で、色々日本財団との提携事業の話などをしているうちに、コンサートの時間が近づいていた。慌ててタクシーを拾い再び音楽院付属コンサートホールへ。ホールの正面入り口には真っ白なアオザイに身を包んだ若い女性たちが並ぶ。音楽院の女子学生たちだ。観客たちもいつもより改まった出で立ちで集まってきた。
ラジャさんと私が最前列の中央に陣取って間もなく、ついにコンサートが始まった。と言っても、ここは社会主義国。重要な行事は、お偉方の挨拶と、花束がつきもの。ここでも、共産党の幹部らを壇上に上げての花束贈呈から始まった。福村さんによれば、海外ではそんなことはしない、と言っても、「ここはベトナムだ、ベトナムのやり方がある」と反論が帰ってくるという。


                 <コンサートも花束贈呈で始まった>

コンサートはブラームスの華麗な「大学祝典序曲」で始まった。次いで、最年少メンバー18歳の武田杏奈さんのバイオリンでサラサーテ「カルメン幻想曲」。これはヴァイオリンの名手サラサーテが、ビゼーの歌劇「カルメン」から主だった曲を抜粋し、ヴァイオリン曲にまとめた作品だとか。技術的には難しそうな曲だが、杏奈さんは力演。彼女の演奏で華やいだあとは、ベトナム人の若手ピアニストのマイン君との競演で、ウェーバー「コンツェルトシュトゥック ヘ短調」。23歳とは思えない落ち着いた迫力ある演奏に会場は大いに盛り上がる。20分の休憩の後は、ドボルザーク「交響曲第9番 新世界より」。思えば私の少年時代のクラシックとの最初の邂逅はこの曲だった。感激に浸っているうちに演奏は終了。素晴らしい演奏に満員の聴衆は惜しみない拍手を送る。

                <武田杏奈さんのバイオリン演奏>

何と、アンコールは二曲。ハチャトリアンの「組曲 仮面舞踏会」より「ワルツ」でストリングスの華麗な舞を聴かせたあと、最後の締めは賑やかなマーチ「旧友行進曲」。聴衆も一緒になって拍手。聴衆が心から今夜の演奏を楽しんでくれたことが伝わってくる。大成功であった。
演奏の最中に携帯電話が鳴り、演奏が途中でストップしてしまうと言うハプニングがあったが、演奏会は大盛況のうちに終了。400席のところに人が溢れ、入りきれなかった人たちが大勢詰め掛けたため、急遽、立ち見を認めることに。フオン院長によれば、これは音楽院コンサートホール始まって以来の前代未聞の出来事だとか。


                <コンサートホールは満員の聴衆>

社会主義国ベトナムの内部事情で、普通、コンサートではありえない冒頭のスピーチと花束贈呈があった上、終わってからも大勢の人から握手を求められたり、それやこれやで、ふと気が付くと10時半過ぎになっていた。
ラジャさんと舞台裏を覗きに行ってみると、団員たちが高揚した気分で、記念写真を取り合っていた。
我々は、福村さんを初めとする幹部の人たちと、近くの日本式居酒屋での打ち上げに参加。成功裏にやり遂げたと言う充実感を皆感じている。うまい酒だった。ただ、まだ、これから天王山、ハノイでのコンサートが残っている。残念ながら時間があまり遅くならない内に切り上げてホテルに戻る。


                   <深夜の打ち上げパーティー>


8時 ラジャさん打合せ
9時半 ホテル出発
10時 最終リハーサル
20時 第1回ASEANオーケストラ・コンサート
記者会見は地元記者だけ [2010年10月25日(Mon)]
10月25日(月曜日)

               <記者会見には40人近い記者が集まった>

ホーチミンから駆けつけた国立ホーチミン音楽院のフオン院長と打合せを済ませ、一緒に文化省へ向かう。ASEANオーケストラの記者会見だ。フオンさんによれば、ホーチミンでは数日前に南部の記者を中心に記者会見を済ませたとのこと。
会場となった会議室に入ってみると30人を上の記者が詰めかけていた。テレビカメラも3台。正直言って、これほど来るとは予想外。文化省の国際局長の挨拶の後、フオン院長がこれまでの経緯や、公演の予定日程などを説明。私も一言挨拶。その後、質疑応答になった。
私のこれまでの経験では、社会主義国ではベトナムに限らず、新聞記者は通常、政府機関などから配布された資料をそのまま記事にするだけ。記者会見を開いても質問が出ないことも珍しくないが、今日は、活発な質問が飛び出し、ASEANオーケストラに対する関心の高さが伺われた。
びっくりしている私にフオンさんが囁く、「ホーチミン市での記者会見の結果、南の新聞などで沢山記事になっているのでそれを読んだ北の記者たちがライバル意識を燃やしているのよ」ただ、残念だったのは日本を含め海外のメディアが誰一人いなかったこと。主催者である文化省の念頭には外国メディアはなかったようだ。
確かに、フオンさんの言うように、南での記者会見に基づいたと思われる報道が既に多く出ている。試しに、インターネットで「ASEANシンフォニー2010」をベトナム語で検索すると、ヒット数は28万。ASEANオーケストラは我々が思う以上に、ベトナム国内では注目を集めているようだ。


                  <ホーチミン市内の目抜き通り>

記者会見を済ませて一旦ホテルに戻り、チェックアウト。午後1時半、ホテルからタクシーでフオン院長と一緒にホーチミンへ。
ベトナム国内にはフオンさんのホーチミン市音楽院の他、あと二つ国立音楽院がある。最大なのがハノイにある国立音楽院。フエの音楽院は一年前に出来たばかり。そのため、今回のASEANオーケストラのベトナム人団員の中心は、ハノイとホーチミンの国立音楽院付属オーケストラのメンバー。
しかし、両者の間には予想以上のライバル意識があるようだ。待遇はやはりハノイのほうがワンランク上。しかも、ハノイがホーチミンに来ることはあってもその逆はなく、ホーチミンの音楽院オーケストラの団員がハノイで集団で演奏するのは今回が初めてなのだとか。
また、今回は福村さんがホーチミン音楽院付属オーケストラで活躍中ということからホーチミン音楽院が中心となってASEANオーケストラを結成することになった。しかも、第一回の公演はホーチミンで行われることになったのだが、ホーチミン音楽院のメンバーは、「こんなことは初めて。ハノイの人間を南に呼びつけたのは気持ちがいい」と言い出す始末なのだとか。ベトナム戦争終結から35年が経ったが、南北の間の対立の図式は完全には消えていないようだ。
ホテルにチェックイン。そこで、今朝、ホーチミン入りしていたASEAN事務局長特別顧問のラジャさんと合流。指揮者の福村さん、マネージャーの齊藤さんらと一緒に夕食。プログラム小冊子作りの顛末など齊藤さんの苦労話をつまみに盛り上がる。
しかし、福村さんによれば音楽の仕上がりは上々とか。明日はいよいよ、本番だ。


        <第1回公演の舞台はホーチミン音楽院コンサートホール>

9時 Huong院長との打合せ
9時45分 ホテル出発
10時 記者会見
10時45分 文化省国際局長打合せ
13時半 ホテル出発
15時30分 ハノイ発
17時35分 ホーチミン着
19時 夕食打合せ 
ついにASEANオーケストラ本番へ [2010年10月24日(Sun)]
10月24日(日曜日)
ついに、その日がやってきた。史上初めてASEANメンバーのすべての国、10カ国の国民で結成された80人編成の本格的なオーケストラが、ASEANサミットの公式行事としてデビューするのだ。昨年暮れからその実現に向けて奔走してきたのは指揮者の福村芳一さんだが、私自身もそのお手伝いをさせてもらう形で、若干の準備にかかわってきた立場なので、まことに感慨深いものがある。
今年はベトナムがASEANの議長国。一年ごとにメンバーが回り持ちでなる議長国がASEANサミットを開催する習わしだ。このサミットの参加者は本来ならば、ASEANメンバーの10カ国だけで良い筈だが、次第に参加希望国が膨らみ、今では第二日は日中韓やインドなどが加わり10+6。おまけに米ロがオブザーバー参加。来年からは正式に10+8になるそうだ。そんな訳で、このASEANオーケストラは18カ国首脳の前での初披露となる予定だ。
折しも、ベトナムの歴史では丁度1000年前の西暦1010年は、時の皇帝リコンウアンが現在のハノイの地に昇竜(タンロン)と名付けた首都を遷都した記念すべき年。ベトナム政府は、1000年祭を10月10日に行うことにした。10月10日は、2010年の10の字と合わせると、10、10、10とゼロが3つ重なる大変珍しい日。月末からのASEANサミットと併せ、ハノイは道路を清掃し、記念の文字の入った花壇を作り、道路には横断幕や幟を立てたりと、お祭り騒ぎである。
ハノイでは10月が気候的には一年中で一番良い時期、と聞いていた。しかし、ハノイに着いてみると、今日は残念ながら靄がかかりどんよりした空。結構蒸し暑い。お世辞にも爽やかな秋とは程遠い。果たして、ASEANオーケストラはうまく行くのだろうか。


                <ハノイは、爽やかな秋とは程遠い蒸し暑さ>

ハノイでのASEANサミットにあわせてASEANオーケストラを結成し、コンサートを開くというアイデアは昨年の11月の何気ない会話から始まった。国立ホーチミン市音楽院付属オーケストラの音楽監督を務める福村さんの呼びかけで、定例コンサートの前の晩に今回の発起人となった4人がたまたま集まったのが出発点だが、その席で、ASEANオーケストラというアイデアを出したのは確か私だったと思う。ただ、アイデアを出しただけで、後は人任せに出来ると思っていた。ところが、おっとどっこい。事はそれほど簡単ではなかったのである。次々生じるハプニングが福村さんたちを翻弄したのみか、ここ数ヶ月ほどの間は、私までもが、この準備に関わることに。
オーケストラの公演は、当初は中部の都市、ダナンでも計画していたが中止。26日にホーチミン市で、次いでハノイで開催されるASEANサミットの公式プログラムとして2回にわたり行うことにした。即ち、28日には国立オペラ座で、サミットに出席する各国のファーストレディーたちに対する、所謂「ご夫人用プログラム」として約2時間の演奏。さらに、翌29日には、東アジアサミットの公式晩餐会ギャラディナーの冒頭の15分間のショートパフォーマンスの予定である。

     <何とか出来上がったASEANオーケストラコンサートのパンフレット>

まこと、ここに至るまでには様々な曲折があった。
第一の問題は、我々のもう一人のパートナーでホーチミン音楽院院長のフオンさんが民間人でそれも南ベトナム出身であったことが大きいようだ。ベトナムは人ぞ知る北優位の官僚国家なので、南の人間が北の人間を動かすことは難しい。そもそも、中央官僚は地方の人間には冷淡なのである。もう一つの問題は、ベトナム政府内でのヒエラルキーかも知れない。我々が最初にアプローチしていた文化省と、サミットを仕切る立場の外務省との力関係にあったのではなかろうか。
それやこれやで、決まった筈のものが決まっていなかったり、いつまでも決まらなかったり、簡単に反故にされたりで、文字通り右往左往させられた。早い話が、ハノイでの公演がいつなのか、どこでやるのかすら二転三転したのだ。今でも完全にはっきりしたとは言い切れない状況だ。
また、プログラムの小冊子もそうだ。原稿がいつまでも決まらないために、当初予定していた日系の広告代理店は降板。急遽、代役を立てたものの、いろんなことが決まらないために、原稿の確定、修正は遅れに遅れ、最終的に印刷が出来たのは、本当にぎりぎり。それも、訂正されたはずの最終稿が訂正前のものが使われていたり、公演中に使う予定のビデオやその際に使われる台詞の脚本は数日前になってもまだ作成中、といった始末。
また、約束したはずの音楽家が家庭内の事情で来れなくなったり、上司が許可しないと言い出したり、決まっていたはずのリハーサルの場所が取れなくなったり、およそ日本なら考えられないような様々な問題が直前の今も噴出、福村さんは大変だ。


                       <コンサートのプログラム>

チケットについても、最初、文化省との合意では日本財団は50枚もらえることになっていた。ところが、突然、外務省から300枚弱の処理を頼まれ大慌て。そこで、ハノイ在住日本企業関係者などを含む300人分の招待客リストを作っていたら、今度は、外務省、文化省との三者協議の場ではそれが白紙に戻された。結局、日本人を中心に我々には150枚ほどの割り当てになったが、最終的にはそれでは何十枚も足らない状況になり、文化省に割り当て数の増加を掛け合う始末。チケットが足らなくなり奪い合いになるというのは、うれしい悲鳴だが、余りクラシックには関心が薄いのではないかと思われる政府関係者にも有力者だからと、面子を潰さぬためだけの理由で渡された様子。その結果、あちこちから足らない、何とかならないか、と言われて担当者は悲鳴。
勿論、一番苦労されたのは、音楽監督として総てを仕切った指揮者の福村さんと、裏方として彼を支えたマネージャーの齊藤さんだ。さらに、もう一人、ASEAN事務局長の特別顧問のラジャさんも大活躍。スリン事務局長のバックアップを早々に取り付けただけでなく、問題が生じる度に、スリン博士の直筆のレターを切り札に使ったのである。
まだまだ、安心は禁物だが、ここまで来れたことを思うと感慨深いものがある。


            <スリンASEAN事務局長もメッセージを寄せてくれた>

17時50分 成田発
21時35分 ハノイ着
義肢装具士学校の波紋は日本にまで及ぶ [2010年10月20日(Wed)]
10月20日(水曜日)
今朝の新聞によれば超大型の台風「ジュアン」はルソン島北部で死者10名の犠牲者を出したが、マニラ首都圏には大きな被害をもたらす事もなくフィリピン西方の海上に通り過ぎたようだ。とは言え、我々にとっては大被害。当初予定していたシニアボランティア事業の現場視察にスワル市に行く予定は取り消し、ほぼ、確実と言われていたアキノ大統領との会見も諦めざるをなくなった。
しかし、そのお陰で出来た時間を有効に使い、義肢装具士学校を広くフィリピン中にアピールすることが出来た。早朝に、ホテルの部屋のインターネットでライッサさんの名前と笹川会長の名前で検索をしてみると、1500ものサイトがヒット。冒頭は、一昨日放送された現地テレビニュースの映像。ライッサさんを見舞った笹川会長が彼女に義足を誕生日プレゼントした、というニュースに大勢の人が賛意を示していた。


                    <フィリピン義肢装具士学校調印式>

来年6月開校予定のフィリピン義肢装具士学校の生徒募集は3月頃の予定で、まだ、募集要項さえ出来ていないと言うのに、マニラのコラソンアキノ飛行場で帰国便を待っていた間にカーソンさんから届いたメッセージによれば、既に入学に関していくつも問い合わせが寄せられていると言う。
帰国便は整備上の問題で1時間ほど出発が遅れたものの、無事帰国。その後、財団に立ち寄ったところ、留守番部隊からは、「フィリピンから東京の日本財団事務局に、義足に関する問い合わせがなぜか突然いくつも来ているが、何があったのか」と尋ねられて苦笑い。
4月のライッサさんの誕生日には今回断念したスワル行きと併せて再度フィリピンに行くことになりそうだ。


6時 ホテル出発
10時 マニラ発
15時20分 成田着
アキノ大統領の表敬は中止 [2010年10月19日(Tue)]
10月19日(火曜日)

                      <台風の被害を伝える地元新聞>

本来の計画では、今日は午前9時からアキノ大統領を表敬する予定だったが、中止との連絡が入る。理由は不明だが、台風対策の為か。昨日、大統領は総ての予定をキャンセルしたと聞かされる。
テレビ報道によると、被害はルソン島北部に集中し死者も出たようだが幸い首都のマニラは殆ど無傷。今日の義肢装具士学校の調印式は予定通り行われるとのこと。アキノ大統領の表敬に同席する予定だったロブレード内務長官が調印式に来てくれるという。


                 <ロブレード内務長官と面談する笹川会長>

朝10時半、ホテルを出発しイースト大学マグサイサイキャンパスの調印式会場へ。控え室で、笹川会長はロブレード内務長官と面談。彼はアキノ政権発足と同時に内務長官に就任したばかりだが、それまではマニラの南、370キロにあるビコールの中核都市ナガ市の市長として市政の浄化と効率化に活躍した有名人。地方自治での実績と知名度を買われてアキノ政権入りした彼は、ブンドック博士のお兄さん。彼女から義肢装具士学校設立の背景や経緯を聞いているため、非常に有意義な事業と高く評価してくれる。     

                    <調印式には大勢の人が集まった>

キャンパス内に設けられた調印式の会場に案内されてびっくり。元々は、身内だけ30人程度のもの、と聞いていたのだが、、、。小ぶりの会場だが、既に集まった人々でごった返していた。120人はいるだろうか。テレビカメラも数台。
高齢なので来られないかも知れないと聞いていた、イースト大学の評議会議長でフィリピン航空会長のルシオ・タン氏も来てくれた様だ。彼は、フィリピンでも最も有力な華僑と言われている。イースト大学の学長ら幹部も顔を揃えた。前回紹介された元商工大臣の姿も見える。ライッサさんのお父さんも見えた。
色んな人から、テレビでライッサさんのお見舞いの様子を見たよ。義足をプレゼントしてくれるんだってね有難う、と言われる。やはり、ライッサ効果がかなり影響しているようだ。ここでも、式典の後はマスコミとのインタビュー。


                  <式典の後はマスコミとのインタビュー>

フィリピン整形外科学会長を務めていたブンドックさんらの推定によると、フィリピンでの義足の潜在需要は約220万人。その通りだとすると、600人以上の義肢装具士が必要となる計算だが、現在は義肢装具士と言える人はフィリピンには65人しかいないという。しかも、その内、医学教育も含む3年以上の正規教育を受けて、ISPO(国際義肢装具士学会)認定の国際資格を持っている人は5人のみ。残りの60人は極めて短期の研修を受けただけで自己流でやっている人ばかりだという。5人の有資格者は全員、日本財団がカンボジアで支援するCSPO(カンボジア義肢装具士学校)の卒業生だ。
ブンドック博士らの専門家が訴えてきたように、フィリピンが、きちんとした教育を受けた義肢装具士を多数必要としていることは明確だが、一般の人々には義肢装具士の国際資格と言ってもぴんと来る筈もなく、これまでの準備段階では、ブンドックさんらは大変苦労してきたようだ。しかし、ライッサさんの悲劇のお陰で、義肢装具士という職業のことや、我々が準備中のこの学校のことが一夜にしてフィリピン中に知れ渡ることになったようだ


              <国連平和大学の卒業式でスピーチする広中さん>

調印式の後は、アテネオデマニラ大学へ。国連平和大学のアジアキャンパスである。5年前に我々の提案で始まった国際平和学の修士コース、APIデュアルキャンパスプログラムの3期生の卒業式に参列するため。今年の卒業生は30名、うち、12人が日本人だ。
本校のしきたりに則りガウンに房つきの帽子をかぶり講堂へ。今回のゲストスピーカーは広中さん。「いきなり自分の希望通りにいかずとも、小さく現実的に始める柔軟性を持て。しかし、初心は忘れるな」という、ご自身の米国留学時代の思い出に始まり、家庭の主婦を経て、有力政治家に転身した経験を踏まえたメッセージは今回の卒業生たちに感銘を与えたようだ。


10時半 ホテル出発
11時半 ロブレード内務長官表敬
12時 義肢装具士学校調印式
16時 国連平和大学卒業式
20時半 夕食会
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