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大野修一(日本財団)
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早朝の成田に到着 (私の旅の工夫4) [2010年09月30日(Thu)]
9月30日(木曜日)

                    <おまけ(1)プレアビヒア遺跡の写真>

早朝の成田に到着。東南アジア各地からの夜行便は飛行時間が短く、睡眠時間は余り取れないが、ハノイからの便は最悪。しかも、今日はなぜか予定よりも40分も早い到着。
成田エクスプレスもまだないので、箱崎ターミナル行きのバスに乗る。バスの中で今回の出張を振り返ってみた。思えば、今回の出張ほど、最初から最後まで波乱万丈だった出張はなかった。長い本当に疲れる旅だった。ただ、出張の成果と言う意味では、最後には何とか収まった。


                    <おまけ(2)プレアビヒア遺跡の写真>

さて、私の旅の工夫について、一言。今回のように、財布を忘れることを想定してのことではないが、私は重要なものは出来るだけ二つ持つようにしている。二重にすることで一つをなくしたり、壊れたり、電気が切れても大丈夫なようにしているのだ。
財布については、いつもは二つだが、ブラジルなど危険な場所に行くときは、さらにもう一つダミーも持参、強盗に襲われた時はこちらを差し上げるようにしている。ダミーと言っても、若干のキャッシュとクレジットカードも入っている。これは現地の人に教わった護身術。


                    <おまけ(3)プレアビヒア遺跡の写真>

その他、スーツケースの鍵、老眼鏡、髭剃り(充電式と予備は電池式)、日程表も念のため予備を忍ばせている。パスポートはコピーを自分の写真と一緒に、別のところに保管。
また、電池、カメラのメモリーカード、USBメモリー、ボールペン、名刺なども予備のものを忍ばせている。


                     <おまけ(4)コッケイの遺跡の写真>



                     <おまけ(5)コッケイの遺跡の写真>

06時15分 成田着
09時 日本財団到着
急遽、予定を繰り上げて帰国へ [2010年09月29日(Wed)]
9月29日(水曜日)

                    <ホテルの正面にも千年祭の横断幕>
   
朝ホテルの食堂で朝食を取りながらASEAN事務局長特別顧問のラジャさんと作戦会議。その後、一緒に、ASEANオーケストラコンサートの件で、障害者団体関係での招待客リスト作りで協力依頼しているハノイILC(独立生活運動)センターへ。代表のホンハさんと招待リストの準備状況について確認。

                    <ホテルの近くの路地裏の朝市(1)>

一旦、ホテルに戻り、ホーチミンの国立音楽院から外務省との会議のために駆けつけてくれたビエット君と二人の副院長と打合せ。
11時過ぎに、文化省のティン国際局長がやって来る。ホテル内の開店前のレストランに移動。少し遅れて、外務省文化局長のチャウさんが参加。二人とも、若手の補佐官を帯同。招待客の取り扱いと、プログラムパンフレットの表記や言葉遣いについて協議。両省のキーマンが揃ったので協議ははかどる。望むらくはもう少し早くこの会議を開くことが出来ておれば、、、。
打合せが一段落したので食事をしていると、日本財団秘書室から電話。急用なので、帰国を出来るだけ早めるようにとの指示。明日の朝の便での帰国予定を、今日の深夜発の夜行便に急遽切り替えることに。今から今夜の便の席が取れるものか心配だったが、幸い、夜行便の席が取れた。


                    <ホテルの近くの路地裏の朝市(2)>

飛行機の出発が深夜11時半なので、今日予定していたスケジュールは総て断念することなく、総てこなすことが出来る。
そこで、午後は、当初の予定通り、日本大使館へ挨拶。その後は日経新聞ハノイ支局にお邪魔。夕方は、昨日行き違いになった、ペプシコの広報担当ナムさんと会い、ラジャさんと三人でホテル脇の野外レストランで食事を一緒にする。
PRの専門家であるナムさんからは、音楽祭の中で上映する予定のビデオの件で貴重なアドバイスをもらう。これで、やっと何とかなりそう。帰国後、連絡を取り合うことに。
午後9時、ホテルをチェックアウトして、空港に夜11時半発の夜行便にて帰国の途に。


                    <ホテルの近くの路地裏の朝市(3)>

8時 ASEANラジャさん
9時 ILC訪問
10時半 ホーチミン音楽院Vietさん
11時15分 外務省Chau局長、文化省Tinh局長 
14時 日本大使館
16時 日経新聞岩本支局長
18時半 PEPSI Vietnam広報担当Nam Caoさん
21時 ホテル出発
23時30分 ハノイ発
ハノイの街は遷都千年祭一色 [2010年09月28日(Tue)]
9月28日(火曜日)
バンコクでのんびりした時間を過ごしやって来たハノイであったが、ハノイでは又とんでもない事件が待ち構えていた。
明け方、激しい雨の音で目が覚めた。もう少し眠って起きてみると、雨はやんでいた。
パソコンのメールをチェック。すると、今日の午前10時に会うことになっていたPEPSI-Vietnamのナムさんから急用が出来たので予定を変更してほしい、とのメッセージ。そこで、これは明日の夜に変更することに。
さらに、ホーチミン音楽院のビエットさんからは、ベトナム政府との会合は5時からに変更になったとの連絡。ところが、後で気が付くのだが、実はこれは私の勘違い。私はこの変更を、明日の11時15分から予定されていたベトナム外務省との打合せのことと勘違いしたのだが、これはベトナム文化省との間でいつの間にか設定されていた本日の会議のことだったのだ。そのため、後で混乱が生じることになる。


                       <ハノイの街は千年祭一色(1)>

午前の予定はなくなったと思い私は、ゆっくりホテルのレストランで朝食を取った。部屋に帰って、再びメールボックスを覗くと今度は別の事業で大変なことが起きていた。
IDPP(障害者公共政策大学院)の仕事の分担をめぐり、ある人物から抗議の文書が関係者全員に発信されていたのだ。原因は、コミュニケーションの行き違い。英語で、しかも、直接話せない環境では起きがちの事態なのだが。ことは急を要す。幸い、お昼のハイさんとの約束まで、少し時間がある。必死の思いで文面を慎重に考えて、釈明のメールを宛先になった全員と、もう一通は本人に宛てて書き上げて送信。


                        <ハノイの街は千年祭一色(2)>

VNAHのハイさんやAEFAの谷川さんとの約束は、正午にホテルロビー。5分ばかり遅れてロビーに駆け下りる。ハイさんの友人で障害者のフイさんも加わりホテルの近くの大衆食堂で私の好物のブンチャーで昼食。
食事の後、フイさんと障害者事業について意見交換した後、彼らと別れ、日本商工会や、国際交流基金を訪問、ASEANオーケストラの件で挨拶と協力の依頼をして回る。
ハノイの街は、間近に迫ったハノイ遷都千年祭の幟やポスター、横断幕で溢れていた。私たちの泊まるホテルの正面にも大きな立て看板。
お祭りのピークは、来月の10日。つまり、(20)10年の10月10日ということで、1000という数字との連想を考えたもののようだ。


                      <ハノイの街は千年祭一色(3)>

夕方、出掛けようとしてメールをチェックすると、ビエットさんから、今度は「今日の文化省との会議の時間は更に繰り下がり5時半に変更とのメッセージ。ここに至り私はやっと自分の勘違いに気付く。今からではこの会議には間に合わない。第一、これからもう出掛けないといけない別の約束がある。彼には、お詫びのメールを打って、マスコミ関係者との食事に出掛けた。

                      <ハノイの街は千年祭一色(4)>

食事中、2本の電話。一本は、ビエットさんの上司、フオンさんからの電話。欠席を詫びて切る。すると、今度は、ナムさんを紹介してくれたブン君から電話。ナムさんが約束どおり、ホテルのロビーで私を待っているが、こないので連絡してきたと言う。これは、明日との連絡をナムさんが今日と勘違いしたためのもの。
兎も角、混乱に混乱を重ねた一日だった。


                      <ハノイの街は千年祭一色(5)>


12時 VNAH所長ハイさん
13時 VietSoftware副社長フイさん
14時 日本商工会小倉事務局長
16時 国際交流基金 吉川所長 
18時 ASEANラジャさん
18時半 共同通信 三宅支局長 NHK山田支局長
ARC堀内さんらと昼食 [2010年09月27日(Mon)]
9月27日(月曜日)      

                         <ウルトラマンの看板が、、、>

昨晩早々に眠りに着いたので、早めに目が覚める。書類の整理、メールチェックをして、出発のための荷物のパッキングをしていると二ノ宮さんから電話。プーンピット博士が既に見えているので、予定を繰り上げて来れないかとの連絡。
少し時間を早めて出発するが、慣れない道順にタクシーの運転手が迷ってしまい、結局、APCDに着いたのは、殆ど、当初の時間。


                                <APCDの本部ビル>
 
APCD財団の副会長のプーンピット博士とお会いするのは初めて。今回の面談を二ノ宮所長がアレンジしてくれたのは、IDPP(障害者公共政策大学院)構想についてお話したところ、大変興味を持たれ、博士とは関係が深いマヒドン大学との提携の仲介の労を取って頂けるとの話になったため。
プーンピットさんは、障害者のための学士課程であるラチャスダカレッジの設立に拘わった当事者であり、長年にわたってマヒドン大学で枢要な地位にあったことから、内部事情にも精通しているのだ。
ただ、日本財団はマヒドン大学のピヤサコール学長とは、義肢装具士養成学校の件でいつもお世話になっている間柄。先だっての、IDPP設立に向けた準備会合にもラチャスダカレッジのピンパ学部長を派遣して頂いている。そのような事情を説明した上で、今後の、IDPPとのパートナー校提携の実現に向けて協力してもらえることになった。


               <APCDの本部ビルの前で堀内さんと二ノ宮さん>

プーンピット博士との面談を終えて、現在APCDでIDPP(障害者大学院)の仕事を手伝ってもらっているARCの堀内さん(http://blog.canpan.info/arc-yoshimi/category_3/)も加えて、二ノ宮さんと3人で昼食に。ARC(どこでも本読み隊)の堀内さんの活動の現況について聞きながらピザ、スパゲッティの楽しい昼食。
昼食の後、ホテルに戻りチェックアウト。夕方、6時前のハノイ便に乗り込む。出発する飛行機の窓から外を見るとそとは今日も雨。何年ぶりかの雨に祟られた北京から始まった今回の長期出張だが、このところは、雨をうまくかわすパターンになった。ようやく、いつものペースを取り戻しつつあるのを感じる。ベトナムでのASEANオーケストラの話がうまく行くといいんだが、、、。
夜8時前、ハノイに到着。夜のハノイの気温は28度。国内便で中部山岳地帯での学校建設事業の現場から戻ったばかりの、VNAHのハノイ所長ハイさん、AEFAの谷川理事長と落ち合い(http://www.nippon-aefa.org/)、VNAHの車でホテルに送ってもらう。今回の出張の直前に「娘と家内が交通事故に会って病院に担ぎ込まれた」との電話があったVNAHのカバントラン代表の様子を聞く。ハイさんにもその後何の連絡もないし、こちらからのメールにも返事がない、とのこと。


                    <ハノイ空港の千年祭パネル>

10時 ホテル出発
11時 APCD副会長Poonpit博士
12時 ARC堀内さん
15時 ホテル出発
17時50分 バンコク発
19時40分 ハノイ着
20時 VNAHハイ所長
バンコクの日曜日 一人でのんびり [2010年09月26日(Sun)]
9月26日(日曜日)
今日は日曜日。今日の予定はお昼までない。ゆっくりと朝寝してから、メールチェック。
正午、元青年海外協力隊隊員でUNVを経て今は国連人口基金(UNFPA)のバンコクオフィス勤務の瀬畑さんと食事。

午後は、パソコンに向かって少し仕事を片付ける。
夜は、久し振りに一人だけの食事。外の屋台で作るタイ式焼き飯とビールを買ってきて、ホテルの部屋で食事。シャワーを浴びて汗を流し、パンツ一丁だが誰に気兼ねすることもない。一番リラックスする時間。
外で俄かに雷鳴、大粒の雨が降り出す。こんな時間が一番好きだ。カーテンを全開にして、窓の外の稲妻を見ながら9時半に寝てしまう。


                     <こんな空なのに夕方にはスコールが>

12時 UNFPA瀬畑さん
ニョニュムのショップへ [2010年09月25日(Sat)]
9月25日(土曜日)

                      <女性中心のニョニュムの編集部>

昨晩はシェムレアップのホテルに宿泊。今朝は早々に、プノンペンに戻る。
今日の午後はバンコクに向かわねばならないが、午前の空き時間を利用して、クメール焼き復活プロジェクトの作品を試験販売しているニョニュム・ショップに担当の田中さんと一緒に顔を出す。
「ニョニュム」というのはクメール語で微笑み。クメール語の通訳で社長の山崎さんと、朝日新聞OBの編集長木村さんの女性コンビが発行しているミニコミ誌の名前だ。今年が発刊10周年とか。継続は力なりとはいうが、それを実現するとは凄いパワーである。
素敵な編集部オフィスを覗いて皆さんにご挨拶した後、二階のニョニュム・ショップへ。前回来た時と比べて、広く、一層きれいになった。焼き物プロジェクトの作品も益々充実して来て、山崎社長もご機嫌。


                      <新装成ったニョニュム・ショップ>

すこし、お土産を仕入れてホテルに取って返し、CatMO(カンボジア伝統医療学校)顧問の鍼灸師、高田さんと昼食を取りながら今後の調査方針などを相談。
食事を終えて、ソルヤ君の車で空港へ。途中、フンセン首相官邸ビルの前を通る。威圧感を与えるほどの広壮なビル。発展を続けるカンボジアの象徴だ。暫く続いていた工事もいよいよ追い込み。11月の終わりに、笹川会長らと次回来るときにはここでフンセン首相と会えるのかも、と期待が膨らむ。


                     <首相官邸の工事もいよいよ追い込み>


6時半 ホテル出発
8時15分 シェムレアップ発
9時05分 プノンペン着
10時半 ニョニュム ショップ訪問
12時 CatMO顧問高田さん
13時 ホテル出発
15時30分 プノンペン発 
16時40分 バンコク着
18時半 APCD二ノ宮所長夫妻
ラジオ教育放送事業対象校を訪問 [2010年09月24日(Fri)]
9月24日(金曜日)−−−続き−−−

                  <チェンモク中学 校長先生が迎えてくれた>

プレアビヒア寺院遺跡見学を終えて、本来の目的地であるラジオ放送事業の対象校に急ぐ。昼食は車の中、パンで済ます。
午後3時、漸く目的地、チェンモク中学に到着。校長先生が迎えてくれる。一年から三年まで、各学年1クラスずつ。合計3クラスに生徒が全部で119人ということだが、今はまだ夏休みの休暇中。生徒たちの姿はなかった。その代り、10人余りの父兄たちが集まってくれていた。


              <先生に加えて父兄の代表たちも集まってくれた>

先生は校長を含めて7人。学区は近隣3カ村に広がるという。今回のラジオによる英語放送は一年生だけが対象となるのだが、父兄からはその他の学年も対象にしてもらえないのかとの質問。果ては、真顔で自分たちも英語の勉強をしたいと言い出す。何故、英語に関心があるのかと聞くと、英語が出来れば良い仕事に就けるから、と言う答えが返ってきた。しかし、家にラジオがある人は、と尋ねると手を挙げたのは半分くらいしかいない。そもそも、学区内にある3つの村にはどこにも電気が来ていないという。勿論、この中学校にも電気はない。

                   <カメラを向けるとはにかむ子供たち>

ESC-Kizunaの松島君が持参したのは、この学校にも配布予定のバッテリー駆動のラジカセ。これで生徒たちは10月からラジオ放送を聞いて勉強するのだ。肝心の電波が届いているのか、受信状態をチェック。幸い、教室内にちゃんとラジオ電波が届いていることが確認できた。
この学校の英語担当教師のダム・ワンディさんは2008年に我々の奨学金を受けて国立教員養成校を卒業したあと、プノンペンの大学に進学し卒業したという優秀な人物。道理で、彼の英語のレベルは大変高い。これまで私が会ったカンボジアの中学校の英語の先生ではこんなに英語の良く出来る先生に会ったことがない。あなたにはラジオ放送は要らないのじゃないかと冗談を言ったら、真顔でとんでもないと言う。彼は、最近、自分のお父さんを強盗に殺されたばかり。森さんによると、その悲しみを打ち消すかのように、このラジオ英語教育放送にのめり込んでいるのだそうだ。


                         <こちらは昔使っていた校舎>

教室に入り話し合いを始めたとたん降り始めたスコールもあがった。我々もそろそろ、シェムレアップの町に戻らねばならない。カンボジアの道路は、最近ようやく舗装されたところが増えたとはいえ、街灯は全くない。そのため、車の運転手は夜間のドライブを嫌がり、明るいうちに目的地に着きたがる。
そのため、道草はご法度だったのだが、森田さんのアイデアで、学校からの帰り道1時半くらいのところにあるコッケイという遺跡にだけ特別の小休止。しかし、車を降りてみると、ここも、信じられないほどの素晴らしい遺跡であった。アンコールワット、プレアビヒアだけではない。カンボジアは誠に凄い国である。


             <帰りに立ち寄ったコッケイの巨大遺跡 人が豆粒のように見える>

5時 ホテル出発
6時50分 プノンペン発
7時40分 シェムレアップ着
12時 プレアビヒア寺院遺跡
15時 ラジオ教育放送事業対象校訪問
19時 ホテル帰着
プレアビヒアの遺跡にカンボジア側から登る [2010年09月24日(Fri)]
9月24日(金曜日) 

    <プレアビヒアの山頂から谷間を覗き込む兵士 足元には500メートルの絶壁>

朝5時、プノンペンのホテルを出発し、空港に向かう。ラジオ事業を担当するNGOであるESC-Kizunaの松島さん、現地スタッフのヘアンさん、彼らを指導して来た森さん、日本財団の担当の田中さんも一緒、総勢5人のパーティーだ。国内線で一時間弱、カンボジア第二の町、シェムリアップに向かう。
ここは、12世紀の大遺跡アンコールワットのある町だが、今回の我々の目的は違う。車で更に数時間かかるプレアビヒア州にある中学校にむかうのだ。10月中旬に始まるラジオによる教育放送の現場を事前に視察するため。
次いでに、タイとの軍事衝突にまで発展したことで、俄かに国際的な注目を集めることになった、プレアビヒアの遺跡を視察する予定。シェムレアップの町で、今回の旅を案内して頂けるアジア開発銀行前局長の森田さんと合流。森田さんはプレアビヒアの環境保全に奔走しておられ、プノンペン政府からの信任も篤い。今回は、プレアビヒア庁のスタッフを伴っての登場。


                 <エアコンを止め窓を開けて険しい山道を登る>

道程の関係で、最初に、プレアビヒアの遺跡に向かう。3時間近く平坦な道を進むと、前方に大きな山塊が見えてきた。この山のてっぺんにプレアビヒアの遺跡があるのだ。タイとの紛争が勃発するまでは知る人ぞ知るこの大遺跡へは、タイ側から行くのが普通だった。と言うのは、カンボジア側は高低差500メートルの断崖になっており、カンボジア側には12世紀ころの参道跡があるにはあるのだが、車の通れる道はなかったからだ。
しかし、今は違う。軍事衝突を受けてカンボジア軍が急ごしらえでカンボジア側からの登攀ルートを作り上げたのだ。
山の麓からいきなり、信じられないほどの急な坂道が始まった。余りにも急なので、このルートに馴れた運転手しか運転が許されていないと言うのも頷ける。我々の乗った4輪駆動のレクサスは、馬力を確保するためエアコンを止めて窓を開けて、必死の形相で登る。


                     <遺跡の至る所には丸腰の兵士の姿が>

500メートルの高低差を一気に登ると突然、遺跡群が現れた。観光客らしき姿は見えない。遺跡のあちこちに兵士がいる。が武器は携帯しておらず、緊張感は全く感じられない。子供が多い。男の子はなぜか兵士と同じ迷彩服。あちこちにホームレスのようなテント。兵士は家族帯同で来ているのだ。兵士の妻か、テントの外では調理している女性も。兵隊の数こそ多いがここは平和そのもの。

                   <子供サイズの迷彩服を着た子供も多い>

森田さんによると、谷のすぐ向こう側はタイ領なのだとか。確かに、目と鼻の先にタイ国旗を掲げたお寺のような建物が見える。しかし、タイ側には兵士の姿は見えなかった。遺跡の間の草地には、あちこちに土嚢積み上げて作ったトーチカがある。その中心には機関銃か機関砲とみられる兵器がカバーをかけておかれている。
人里離れた山頂に佇む素晴らしい古代遺跡、所在無げにたむろする夥しい兵士たち、しかし武器も持たず家族帯同のテント生活、、、。まことに不思議な光景であった。


            <至る所に設置されたトーチカ だが機関銃にはカバーが>



市内の至る所にある英語学校 [2010年09月23日(Thu)]
9月23日(木曜日)
朝9時、別のホテルへ。日本財団グループの笹川平和財団の関理事長の紹介で、カンボジア国軍司令官の補佐官ソペアック少佐と来月の笹川会長一行訪問時のプレアビヒア行きの件で打合せ。ラジオ放送教育の現場を視察するためだが、関理事長がフンセン首相の経済顧問を務める関係で、カンボジア空軍の15人乗りもしくは25人乗りのヘリを提供してもらえることに。陸路では5,6時間以上掛かるのでこれでスケジュール作りがずっとやりやすくなった。

                   <立派なクメール焼きの壷も二束三文>

一旦、ホテルに戻り、森さんを誘ってロシアンマーケットの裏手の骨董品屋街へ。クメール焼きの骨董を見るため。ある店で立派な壷を破格の値段で見つける。余りにも安いので初めは偽物を疑うが、どう見てもこれは本物。このあと、バンコク、ハノイに行かねばならないので私は購入を断念。結局、森さんが買うことに。
12,3世紀のクメール焼きの本物が、カンボジアではその価値がまだ正当に認識されておらず信じられないほどの値段で売られている。ある店では、本物が偽物と同じ値段で売られていたこともあった。値段の違いは大きさだけ。また、前回私が購入した壷には、真新しいタバコの吸殻が何本も押し込んであった。骨董店では、灰皿として使われていたもののようだ。


                <社会福祉省の建物も新らしくなったばかり>

ホテルに戻り、CIAT(国際熱帯農業センター)のアジア事務所に出向中の日本財団職員の間遠さんと打合せ。その後、義肢装具士学校を運営する英国のNGO「カンボジアトラスト」のマイク・スコット代表と社会福祉省へ。大臣と会い来月の新校舎落成式の日取りを相談。先方は12月の国際障害者デーを希望していたが、笹川会長ら日本財団代表団の日程に合わせて11月末に繰り上げてもらうことで合意。
帰り道、スコットさんの自宅に立ち寄り、お茶とウイスキーをご馳走になりながら
雑談。

                 <市内の至る所にある英語学校(その1)>

昨日、開始式を行ったラジオによる英語教育放送は10月19日から、3つの県の15の中学校で始まる予定。もともとは、教育環境の良くない僻地の学校のために考えたプログラム。そこで、我々とは奨学金プログラムで懇意にしている国立教員養成学校が対象にしている5つの僻地州のなかから、プレアビヒア州、スタントレン州を選びそれに首都のプノンペン特別市を加え、各州5校づつ計15校、1500人の生徒を対象にしたもの。

              <市内の至る所にある英語学校(その2)>

昨日のスピーチでも述べたように、ラジオによる教育放送の有効性を検証するのがこの事業の本来の狙い。従って、英語だけで終わるつもりはないが、英語を最初のテーマに選んだのは、カンボジアでは英語学習が今、大変なブームになっているため。街中には英語学校が溢れている。私の運転手のソルヤ君も3歳になったばかりの女の子を英語学校に通わせたほど。
ブームと言っても、まだまだ生活に余裕のあるわけでもないカンボジア人が、こぞって英語を学ぼうとするのは、単なる憧れなどではない。その背景には切実な理由がある。英語が出来るか出来ないかでカンボジアでは就業のチャンス、収入に大きな差が出るためだ。一説にはカンボジアでのサラリーマンのなかで一番高い給料が得られるのは、外資系民間企業、次いで国際機関、そして国際NGOと言われる。ここまでは総て英語が不可欠の職場ばかり。その後に、カンボジアの民間企業、最後が公務員だ。ここでも英語が出来るか出来ないかで出世のチャンスは大きく変わる

              
              <市内の至る所にある英語学校(その3)>


9時 国軍ソペアック少佐
11時 骨董品店巡り
12時 CIAT間遠さん
15時 社会福祉大臣
16時 カンボジアトラスト代表スコットさん
19時 CJS社長山崎さん
ラジオ教育放送事業開始式 大いに盛り上がる [2010年09月22日(Wed)]
9月22日(水曜日)

                        <上空から見たプノンペン>

早朝、まだ暗い中を空港に向かい朝一番のプノンペン行き飛行機に乗り込む。定刻の9時にプノンペン到着。涼しい。
いつものソルヤ君の車に乗り込み、ホテルへ。前日からプノンペン入りしていた日本財団職員の田中さんと合流。チェックインして直ぐに、同じホテルで開かれているラジオによる英語教育放送のための研修会場へ急ぐ。対象校15校の先生たち28人が集まり、ラジオ教育放送をどのように英語教育の現場で生かすかを学ぶため昨日から二日掛りの研修に参加してくれているのだ。指導しているのは国立教員養成学校のソクサパット先生ら。カンボジアの中学生たちのためにテキストを作ってくれたBBC英国本部のディレクター、アバデーンさんとは初対面。挨拶し、お礼を言う。


                     <ラジオ教育放送参加教員研修>

お昼は同じくホテルの会議室で僻地の中学校の先生の卵たちに奨学金を支給するために日本財団が現地に設立したNGO、「ESC-Kizuna」の理事会に出席。ラジオ教育放送事業もこのNGOに担当してもらうことになっている。
ESCの理事会を無事終えて、3時からやはり同じホテルの大広間でラジオ放送事業の開始式典が始まった。私は教育大臣の前にスピーチ。
最前列にBBCのカンボジア代表のハミルトンさんが座っているのを見て、彼との思い出を急遽スピーチに付け加えることにした。思えば、このラジオ放送によるカンボジアの僻地の教育支援事業を思いついたのは3年前。BBCのプノンペンオフィスにひとり出向いて、初対面のハミルトンさんに構想を打ち明け、彼の賛同を得たのだった。
その間に、BBCの代表は3回交代、教育大臣もフンシンペック党のコルペンさんから今のイムセティさんに変わった。幸い、ハミルトンさんが再びBBCのカンボジア代表に返り咲き、イムセティ教育大臣も、ローテクと見られがちのラジオを活用した教育支援システムに理解を示し、省を挙げての協力を約束してくれたことで、この事業は日の目を見ることが出来たのだった。


         <ラジオ教育放送事業開始式はお祝いのダンスで始まった>

スピーチの中で、私はラジオ放送にかける我々の期待について述べた。
「ラジオなんて時代遅れと思われるかもしれないが、電気が来ていないカンボジアの僻地のみならず、活用の余地は大きいと考える。例えば、日本ではNHKのラジオ第二放送は朝の6時から真夜中まで毎日18時間の放送を行っているが、定時のニュース以外は総て教育放送。その種類は、語学だけではなく、歴史、文学から数学や音楽、果ては体育まで50種類もの番組があり、学生のみならず、通勤時のサラリーマンまでがラジオの教育番組のリスナーである」と紹介した。
さらに、「我々の夢は、この事業の有効性が立証され、当初の3県、15校だけではなく全国に広がること。更には、日本のように、英語以外の分野にも放送が広がること。そして、最終的にはカンボジア以外の途上国でもラジオ教育放送が広がることなのだ」と述べて壇上を降りた。

           <教育大臣がレセプションの最後まで付き合ってくれた>

私の後にスピーチに立った教育大臣の挨拶は、通り一遍の挨拶ではなく大変熱の篭ったものであった。事実、大臣は何度も原稿を読み上げるのを中断し、時には英語で自分の言葉で彼の思いを私たちの方に向かって語りかけた。終わった後、大臣は私に何度も、「話が長くなってしまって申し訳ない」と言ったが、我々は大感激。
しかも、式典の後の夕食会では、大臣以下、副大臣、事務次官ら教育省幹部が総出で私たちに文字通り最後の最後まで、他の招待客があらかた帰った後まで付き合ってくれた。
BBCのハミルトンさんが私の席に来て小声で言った。「大臣は普通はスピーチだけで帰ってしまうもの。今回のように、食事会まで含めて最後まで付き合ってくれたなんて初めて。教育行政のトップがここまで支援してくれるなら、この事業の成功は間違いない」と。
民間主導の小さなパイロット事業であるにもかかわらず、ここまで教育省を挙げてその気にさせたのは、我々のアドバイザーとして、松島さんら若い現地スタッフを指導しながら精緻な実行プランを纏め上げた森祐次さんの卓越した能力のお陰。身内のことなので私は挨拶のスピーチでは触れなかったが、感謝感謝。


                  <ラジオ教育放送事業開始式の横断幕>


5時15分 ホテル出発
7時50分 バンコク発
9時05分 プノンペン着
10時半 ラジオ教育放送参加教員会議
12時 ESC絆理事会
15時 ラジオ教育放送事業開始式
17時 レセプション
19時 メイ官房副長官
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