CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
« 2010年07月 | Main | 2010年09月»
プロフィール

大野修一(日本財団)さんの画像
大野修一(日本財団)
プロフィール
ブログ
<< 2010年08月 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
ブログ内の検索は
  こちらから ▼
Google 
カテゴリ
最新記事

コメント

トラックバック
犬山城 (01/18)
月別
リンク集
http://blog.canpan.info/ohno/index1_0.rdf
http://blog.canpan.info/ohno/index2_0.xml
渋滞対策の切り札は首都ジャカルタの遷都? [2010年08月31日(Tue)]
8月31日(火曜日)
早朝4時、スマトラ島のパレンバンへハンセン病施設の視察に出かける会長一行を見送った。
こちらのマスコミには、一昨日の日曜日に突如400年ぶりに噴火したと言うシナブン火山のことが大きく出ている。昨日早朝にはさらに大きな噴火があったという。地元では2万9000人もの人が避難。国内線の飛行機の運航にも大きな影響が出ているとか。
シナブン火山のあるのは北スマトラ。大きな島でパレンバンとは数百キロは離れているとは言え、会長らの乗った飛行機の運航に差し支えなければ良いがと心配。
朝8時、ASEAN事務局のラジャさんがホテルにやって来てくれ、朝食を取りながら、二人で打合せ。障害者公共政策大学院や、ASEANと共同で行う障害者フォーラム、伝統医療会議、ASEANオーケストラのことなど。
         
                       <噴煙を噴くシナブン火山>

ラジャさんとの打合せを終えて直ぐ、私は慌てて、ホテルの車に乗り込む。昨日行ったばかりのインドネシア大学のドゥポック・キャンパスに再び向かわねばならない。約束の時間は11時。昨日のような白バイの先導も無く、ホテルの車で行くので1時間半は見ておいたほうが良いと言われたので、9時半前に出発することにしたもの。
高速道路を避けたのが幸いしたのか、車は比較的順調に進み、インドネシア大学に定刻より20分ほど早く到着。建物の入り口に、インドネシア手話辞書作成事業の責任者のウマル教授が待っていてくれた。
ラマダンなので昼間は水も絶っているとウマル教授。昨晩、笹川会長が会ったASEANのスリン事務局長もそうだが、オーストラリアの大学院で学んだと言う知識人の彼もモハメッドの教えを守っているのだ。そこで彼に合わせて私も飲み物の誘いを断り、早速、インドネシアの手話研究の現状を聞いてみる。
聾者の言語である手話を巡る問題は極めて複雑だ。インドネシアでも従来は聴覚障害者の教育は専ら健聴者によって担われ、教育の現場では手話ではなく、口話法と言われる読唇術と発声法の習得を中心とする教育が行われて来ており、手話の研究は殆ど進んでいないそうだ。

      
            <インドネシア大学の手話事業の責任者ウマル教授>

ウマル教授は、こうした中で、2年前からインドネシア聾者協会を通じて、聾者を週一回大学に招き、彼らを先生にした手話講座を開設。今では50人もの学生が聴講する言語学科でも一番人気のあるコースになっているという。こうした中で、香港中文大学で日本財団の支援を受けてアジア各国の手話辞書作り事業を進めている唐教授らのアプローチを受け、今年からインドネシア大学の言語学専攻の学生を香港に留学させ、一足先に香港入りして唐教授の下で手話言語学を学んでいる聾者の学生たちと、一緒にインドネシア手話の文法分析と手話語彙の収集に当たらせることになった。
ウマル教授の手話問題に対する深い理解と共感に驚き、なぜ、インドネシア諸語を専攻する通常の言語学者である彼が、手話の言語学に興味を持ったのか聞いてみると、彼にはおじさんとおばさんに聴覚障害者がいることがわかった。道理で手話問題や聾者の置かれた教育環境に対する深い理解を持っている訳だ。このような若手ながら素晴らしい学者がバックにいてインドネシア手話の辞書作り事業が始まったことを知り非常に安心した。
インドネシア大学からの帰途、暫くは電車の線路に沿った道が続く。大学の最寄り駅はインドネシア大学の学生と思しき若者で溢れていた。大学と市内を結ぶ交通機関としてはこの電車が一番速いのだとか。日本のODAで作られた通勤路線だ。そのため、この電車には日本の中古車両が使われているのだそうだが、ここでは暑さのせいか電車はドアーを全開にして走る。危険だと思うなかれ、ラッシュ時には屋根の上も乗客で一杯だ。運転間隔は結構短く頻繁にすれ違う。途上国としてはジャカルタは例外的に電車が活用されていると言えそうだ。


             <ジャカルタの電車はドアを開けたままで走る>

それにしても、ジャカルタの交通渋滞は深刻である。地下鉄やモノレールの建設計画が随分前から取りざたされてはいるが、一向に実現する気配はない。誰のアイデアか、市内の目抜き通りには、道路の中央分離帯の両側のレーンを少し周囲より高くし、そこをTransJakartaとわき腹に書かれた急行バスの専用レーンとしている。
ただでさえ一杯の道路が一レーン分狭くなる訳ではあるが、地下鉄やモノレールよりは財政負担は少なく、短期間で整備できるのでなかなかのアイデアだ。しかし、狙い通りの成果が上がっているわけではなさそうだ。というのも、このレーンではバス以外の車両の通行は禁止されているのだが、ラッシュアワー時には、そこを走る不届きな一般車両が少なくないからだ。
機内で読んだ英字紙「ジャカルタポスト」の、ジャカルタの渋滞についての記事を思い出した。それに拠れば、近年、ジャカルタの遷都論が取り沙汰されているのだそうだ。
ジャカルタの人口は既に959万人に達しており、住宅や交通システムなど都市としてのインフラの許容能力をはるかにオーバーしてしまっている。ジャカルタ特別州知事はつい最近、レバラン(ラマダン明けのお祭り)で地方に帰省する人たちに、地元の家族や友人をジャカルタに呼び寄せないようとのアピールを発令したほど。
しかも、ジャカルタには地震や、洪水などの天災もある。この解決策の切り札として首都遷都論が浮上しているのだそうだ。お手本は、ヤンゴンからジャングルを切り開いた新都市ネピドーに首都を移したミャンマー。ただ、問題はコスト。移転費用は数10億ドルはくだらないと考えられており、短時日で出来ると言う可能性は低そうだが、、、。


               <道路中央の特設レーンを走る急行バス>

午後4時、ホテルの会議室にインドネシアのNISVAボランティアー、全7人の皆さんが、集まってくれた。市野さん、岡田さんのお二人はいずれも品質管理の専門家、ボゴールとチカランというところで現地メーカー相手に今年から頑張っていただいている。チビトンでバスのメンテナンスを指導されている小沼さん(日野自動車OB)、チカランで金型の指導をされている臼井(サンライズ工業(株)OB)のお二人には昨年6月以来の再会。
山木ご夫妻にはこれから、スマトラ島のメダンに赴任して日本語を教えていただく予定だ。栗橋さんは、現地でNISVAがお世話になっている在インドネシア日系人の組織「福祉友の会」で広報担当。日本財団のロゴ入りの中古の福祉車両の現地輸入でも活躍いただいている。「福祉友の会」事務局からも代表のヘル・サントソさん、マリコさん、そして、NISVAコーディネーターの谷川さんが駆けつけてくれたので総勢10人の方々と懇談。
そこへ、パレンバンでのハンセン病施設視察から日帰りで戻ってきたばかりの笹川会長が現れ皆さんにご挨拶。空港からの道路が混んでいたため間に合わないものと殆ど諦めかけていたのでこれはラッキーであった。
皆さんと急いで記念撮影をして笹川会長一行は日本大使館へ塩尻大使との面談のために出発。私は、一足先にシンガポールへ向かうべく一人ホテルタクシーで空港へ。


     <NISVAボランティアー関係者の皆さんが忙しい中を勢揃いしてくれた>

8時 ASEAN事務局ラジャさん
9時半 ホテル出発
11時 インドネシア大学言語学部ウマル教授
16時 NISVAインドネシア関係者面談
17時 ホテル出発
20時半 ジャカルタ発
23時 シンガポール着
スジャニンシー保健大臣と面談 [2010年08月30日(Mon)]
8月30日(月曜日)
朝8時、昨日のバスでハンセン病の会議の会場に向かう。笹川会長はWHO(世界保健機関)からハンセン病撲滅親善大使として任命されており、世界各国を駆け回っている。今朝も、インドネシア保健省主催の「ハンセン病撲滅のための全国アライアンス会議」に、WHO親善大使としてのスピーチをすることになっている。WHOを代表する公的な立場であるため、保健省が我々の車を護衛するよう警察に要請。そのため、ものものしく白バイの先導で会場に向かうことに。
ただ、ジャカルタの町は朝のラッシュアワーの最中。道路は無数のオートバイと車でごった返している。白バイと我々が乗ったバスの間に、一般車両が我勝ちに割り込んでくる。折角の警察の先導にもかかわらず、思ったほどはスムースに走れない。


                     <白バイの誘導がついたが、、、>

バスの最前列に座ってその様子を観察するうちにあることに思い至った。当初、インドネシア保健省は、笹川会長には黒塗りの車を用意していたのだが、会長は特別待遇が嫌いで、いつものように乗用車を断って、みんなと一緒のバスにしてしまった。ごく普通の貸し切りバスである。白バイのサイレンに一旦道を譲った一般車両も、まさか、誘導しようとしているのが普通のバスだと思わないので、白バイによる誘導車両はないものと考え、白バイの後ろに割り込んでくるのではなかろうか。
会場となるホテルに着くと、控えの別室に案内される。暫く待つうちにスジャニンシー保健大臣が登場。WHOの代表者らと、笹川会長とでハンセン病対策についての意見交換。その後、私も加えてもらい、日本財団の義肢装具士養成支援事業のことや、伝統医療支援事業について大臣に説明する。伝統医療については大臣からインドネシア固有のジャムゥと呼ばれる伝統医薬品を研究するラボラトリを開設したことなど、伝統医療の活用について大変前向きの発言があった。


                  <ハンセン病会議の前に保健大臣と会談>

会長と大臣の対談が弾んだためか、定刻より少し遅れて「ハンセン病撲滅のための全国アライアンス会議」が始まった。ハンセン病は究極の特効薬MDTが1980年代に発明されて、急激に世界から駆逐されていった。WHOの定義によれば、伝染病の一年あたりの新患数が人口1万人に1人以下に納まれば、その国ではその伝染病を制圧したとされる。全くのゼロに成った訳ではないが、そのレベル以下であればコントロールできたと考えるのだ。
この定義に従えば、1985年時点では世界で122カ国がハンセン病の「未制圧国」と分類されていた。その後、日本財団がこの特効薬を開発したスイスの製薬メーカーから全量を買い取り、すべてをWHOを通じて無償で患者に配布するという画期的な取り組みを始めると、ハンセン病の制圧が急ピッチに進み、未制圧国の数は、1990年には89カ国、2000年には11カ国と激減し、何と2010年では、僅か2カ国(ブラジルと東チモール)を残すのみとなった。
インドネシアでも2000年に制圧国に仲間入り。ただ、上記のような定義に従った「制圧」であって、ゼロになった訳ではない。人口2.2億人というインドネシアでは激減したとは言え、毎年2万人近い患者が発見されている。しかし、医療体制がしっかりしていれば早めに薬を処方できるので、後遺症の問題は起こらない。
問題は、ハンセン病そのものは完治したにもかかわらず顔や手足などに皮膚の変形が残ったために、差別を受け、社会復帰の道を閉ざされている「回復者の人権問題」なのである。そのため、日本財団はインドネシアのハンセン病回復者のための全国組織作りとその活動を支援する事業を行っている。


                      <ハンセン病会議が始まった>

会長のスピーチが終わると我々は、再び、白バイ先導のバスでジャカルタ南部チランダックにあるジャカルタ義肢装具士養成学校(JSPO)に向かった。JSPOはインドネシア保健省、日本財団と、カンボジアやスリランカなどでの同様の養成校事業で我々とパートナシップを組む英国のNGO「カンボジアトラスト」の三者による共同事業である。インドネシアでは初めてのISPO(国際義肢装具士協会)の資格認定校で、理論教育と実習による3年間の教育課程に43人のインドネシア人学生が学んでいる。
この学校の最も若い教員の一人が日本人の森本哲平さんだ。彼は、兵庫県明石市出身の29歳。神戸医療福祉専門学校三田校で、義肢装具を学び、オーストラリアのラトロープ大学に3年間の留学の後、2006年7月から同校義肢装具士科専任教員を務めた。2009年5月の開校と同時に、JSPO(ジャカルタ義肢装具士養成学校)に赴任してくれている。


                          <JSPOでの記念撮影>

彼の出身の神戸医療福祉専門学校三田校の校長先生が、日本の義肢装具士界の第一人者で80歳を越した今も現役の澤村博士だ。日本で分離手術を受けて話題になったベトナムのシャム双生児、ベトちゃんドクちゃんの義足を手掛けたのも澤村博士だ。澤村さんはJSPOの国際諮問委員でもある。(この辺りのことは、2010年3月2日付けの私のブログにも書いたので繰り返すのはよそう。http://blog.canpan.info/ohno/daily/201003/02)
一行は、森本さんや、カンボジアトラストのインドネシア代表で前オックスフォード大学教授ののピーター・ケアリーさんらにJSPOの構内を隅々まで案内され、学生たちの実習の様子を見学。最後に、全員で記念撮影をして引き揚げた。本当は、学生たちと一緒に校内で昼食をとることを企画しようとしたのだがラマダン中のため絶食中の学生も多いことを考慮し断念。一行は回教徒以外の学校の事務や講師たちも交えて、次の目的地であるインドネシア大学への道すがら小さな食堂で昼食をとった。

    
                    <インドネシア大学でのSylff式典>

ジャカルタの南郊ドゥポックにあるインドネシア大学に着いたのは3時前。公園のように美しく広大な敷地に、ジャワの伝統的な建築様式を模したものかエキゾチックな建物が散在する素晴らしいキャンパスだ。インドネシアの東大といわれる最も権威のある大学だ。
日本財団は1990年、ここに100万ドルの奨学基金を設置。笹川ヤングリーダー奨学基金(Sylff)と言われるこの一連の奨学金事業が始まったのは1987年米国の有名大学院フレチャースクールが第一号。以来、これまでに44カ国69の有力大学/大学院に基金を設置してきている。世界中でこの奨学金を授与された学生の総数は1万3000人以上に達する。
インドネシア大学では、法学、経済、社会学などの分野の修士課程、博士課程の学生178名がこの奨学金の対象となっている。今回は、ソマントリ学長ら大学幹部が出席して、Sylff設置20周年を記念して式典と講演会を開いたもの。
夜は、笹川会長はASEANスリン事務局長と面談。私も同席。忙しい一日であった。



8時 ホテル出発
8時45分 笹川会長保健大臣面談
9時半 ハンセン病会議
11時半 JSPO訪問
15時 インドネシア大学訪問
15時15分 SYLFF20周年記念式典 
18時 ホテル帰着
19時 笹川会長ASEANスリン事務局長面談
ジャカルタの街は、独立65周年とラマダンで賑やか [2010年08月29日(Sun)]
8月29日(日曜日)
朝食を二ノ宮さんと一緒に取った後、雨の中を一台のタクシーで空港へ。ジャカルタ行きの飛行機のターミナルは2番、バンコクへ戻る二ノ宮さんは別のターミナル。出発時間が早い二ノ宮さんを先に送って、私は2番ターミナルへ。
いつも感心させられるのだがシンガポールでの飛行機の利用は、空港へのアクセスはおよそ渋滞とは無縁、パスポートコントロールもいつもスムーズ。街も空港も非常に機能的に出来ているので安心だ。その背景には将来も見据えた長期的な展望に立つ優れた政策と、清潔で汚職とは無縁な官僚による厳しい管理が背景にあるのは周知の事実。シンガポールの優れた公共政策を学ぼうと世界中から入学希望者がリークアンユー公共政策大学院に殺到する所以である。
ただ、シンガポール空港の出発案内の掲示板には、いつもひやりとさせられる。というのも、極端に「せっかち」なのだ、「Boarding(搭乗中)」と掲示される時間が異常に短く、すぐに「Gate Closing (ゲートが閉まります)」に切り替わるのだ。実際は、その次にさらに「Final Call(最後のお客様を案内中です)」という段階があるので、ゲートが実際に閉まるまでには、「Gate Closing」からかなりの時間がかかるのだが。
こうやって、乗客を早め早めにゲートに誘導しようとしているのだろうが、出発時間までまだ30分もあるというのに、「Gate Closing」を見ると焦ってしまう。


                <せっかちなシンガポール空港の出発案内>

ジャカルタ空港は、シンガポールのチャンギ空港とは好対照だ。ジャワの伝統的な建築様式を取り入れたものと見えて、緑の多いなかなか洒落た設計で、最近多い無機質で機能的なだけの建築物ではないところが私はとても気に入っているのだが、問題は、着いてから出るまでに大変時間がかかること(更に市内への移動にも時間がかかるのだが)。到着時ビザの手続きカウンターや入国審査ゲートで時間がかかることが少なくない。今回は事前に日本でビザを手に入れてきていたので、大丈夫かと思っていたが、果たして入国審査で長蛇の列。結局、45分以上かかってしまった。待ち合わせをしている英国のNGO「カンボジアトラスト」のカーソンさんと何度もメールで連絡を取り合う。
空港の直ぐ近くのホテルで、カーソンさんと会い二時間ほど打合せ。「カンボジアトラスト」は、日本財団が東南アジアで展開する義肢装具士養成事業のパートナーだ。カーソンさんは、自身も義肢装具士だが、今は本部の渉外関係の常務理事。
明日に予定している、笹川会長と保健大臣との会議や、ジャカルタ義肢装具士学校訪問の段取りに加えて、カンボジア、スリランカ、タイでの義肢装具士学校の運営について意見を交換。また、10月に予定しているフィリピンでの新しい義肢装具士学校の設立についても打合せ。調印式にはアキノ新大統領にも立ち会ってもらえることになりそうだ。
カーソンさんとの打合せを終えて私は一旦、空港に戻る。16時45分、日本からの直行便で到着した笹川会長一行と合流、バスでホテルに向かう。


                     <空港の入国審査は長蛇の列>

回教国のインドネシアはラマダンの真っ最中。加えて、今月17日はインドネシア独立記念日、しかも今年は65周年というので町中で65と言う数字と、インドネシア国旗の色である紅白2色をモチーフにしたさまざまな飾りつけが目に付く。
ジャカルタ国際空港の正式名称「スカルノ・ハッタ空港」は、インドネシア独立の二人の英雄、初代大統領となったスカルノと彼を支えて初代副大統領となったモハメド・ハッタに由来する。二人を始め、インドネシアの独立運動を指導したのは宗主国であったオランダへの留学生たちであった。植民地当時の知識人の共通言語はオランダ語であった。オランダ領東インドと呼ばれた当時、インドネシアには300の民族と742の言語があったと言われる。スカルノはジャワ出身、ハッタはスマトラ出身でありそれぞれの民族語では意思疎通をはかることが出来ない。このうち、ジャワ語を話す人口が全体の4割を占めこの地域の最も有力な言語であった。


                  <今年はインドネシア共和国独立65周年>

しかし、インドネシア独立運動の指導者たちは、新生インドネシアの共通語をジャワ語にすることなく、当時、マラッカ海峡を中心に広い範囲で交易のための商業語として用いられていたムラユ語を採用、これをインドネシア語と名付けた。このことは、多民族国家インドネシアの統一国家としての独立という観点からは極めて賢明な選択であったと思う。その反対を行って国内に亀裂と反目を生み出した事例は多い。(マレーシアもムラユ語を国語に採用、マレーシア語と名付けた)
交易語(lingua franca)というのは、多様な話し手に共有される中で、様々な語彙を取り込む一方で文法的には単純化、簡素化していくことが多い。インドネシア語も同様で、世界でも最も習得しやすい言語の一つだとされている。これに対し、ジャワ語は複雑な敬語体系をもつ難解な言語である。ジャカルタはジャワの中心都市であるにもかかわらず、他地方からの流入人口も少なくないこともあって、今日では、ジャカルタ市民の間で使われるのはジャワ語ではなく、専らインドネシア語だと言われる。
空港に我々を迎えにきてくれたバスのガイドのスハルモさんが、ジャワ出身だというので聞いてみた。彼の奥さんはジャカルタ育ちでジャワ語はあまり得意でない。そのため、家庭内の言葉はインドネシア語だそうだ。彼の実家に行くと、ジャワ語になるのだが、彼の両親はインドネシア語は不自由なので、ジャワ語が出来ない子供たちとの意思疎通が難しいのだとか。近い将来はインドネシアを母国語とする人口がインドネシアの中核を占めることになるのだろうか。


                     <ホテルのロビーはラマダン飾り>

ホテルについてみると、ロビーにはイスラム教のシンボルカラーである緑を基調にしたラマダンの飾り付けが賑やか。日本では、ラマダンというと、極めて禁欲的で厳粛な宗教行事と考え勝ちだが、反面ではお祭り的な側面もあるようだ。
昼間こそ絶食を強いられるが、一旦、日が暮れると、普段以上に豪華な夕食が待っている。ラマダン期間中のインドネシア人の食料品支出は、普段の時期を上回るのだそうだ。また、レバランと呼ばれるラマダン明けの日(今年は9月10日)は、新調した服を着て親族が集まり、お祝いを交わしながらご馳走を食べるのが慣わし。まさに、お正月の雰囲気だ。


              <空港のベンチで昼寝 ラマダンで空腹のため?>


10時 ホテル出発
12時40分 シンガポール発
13時15分 ジャカルタ着
14時15分 「カンボジアトラスト」カーソンさん
16時45分 会長一行到着 
ラマダン中のインドネシアに出張 [2010年08月28日(Sat)]
8月28日(土曜日)
今回は4泊5日の短い出張。目的地は、インドネシアとシンガポール。ハンセン病などでの笹川会長の出張にあわせたものだが、私は一行とは完全には同一行動は取らず、義肢装具士学校やASEAN事務局、インドネシア大学の手話研究事業関係者との会合など独自のものも予定している。
また、私のみ往復ともシンガポール経由とし、往路にはバンコクから出てきてもらったAPCDの二ノ宮所長と、シンガポール国立大学のリークアンユー公共政策大学院などとの提携で設立準備中のIDPP(障害者公共政策大学院)の件で打合せの予定を入れることにした。


                       <シンガポールは曇り空>

飛行機は定刻通り、シンガポールに到着。空港からタクシーに乗りホテルに着くと、二ノ宮さんがホテルのロビーで待っていてくれた。早速、喫茶店で2人で打合せ。プロジェクトマネージャーに就任してくれる予定のアメリカン大学国際関係学院准教授のデリックさんと交わす契約書の中身を検討、予算の是非をチェック。また、前回のリークアンユー公共政策大学院での協議を踏まえて、"White Paper"と呼んでいるIDPP設立趣意書の追加執筆をお願いしているNTID(米国聾理工科学院)の院長のデカロさんとの分担をどうするかを議論。

                       <明日はインドネシア大学>

11時05分 成田発 
17時20分 シンガポール着
18時半 APCD二ノ宮さん
聾者のためのセミナー「Deaf Dialogue 2」 [2010年08月21日(Sat)]
8月21日(土曜日)
朝8時15分、ホテルのロビーに参加者全員が集合。参加者10ヶ国(カンボジア、インドネシア、マレーシア、モンゴル、フィリピン、スリランカ、タイ、ベトナム、中国、日本)から16名、それに加えて手話通訳が12名ほど、それに5人の講師、香港中文大学関係者らサポーターが約10名。合計30名余りのメンバーが二台のバスに分乗して大学へ。
普通なら賑やかで騒がしい筈の車内は静か、その代わり、忙しく手話をする手が、腕が動く。昨年の12月以来の会合なので、久し振りに会う仲間との再会を楽しんでいる参加者も多いようだ。


                <10カ国の手話通訳がプレゼンテーションを通訳>

香港中文大学の馬蹄形の小振りの階段教室を会場に、Deaf Dialogue2 が始まった。香港手話、アメリカ手話、日本手話、ケニア手話、スリランカ手話、ネパール手話、フィリピン手話、カンボジア手話等々、参加者や講師それぞれの手話通訳が一斉に手や腕を動かし始める様子はある種、壮観だ。
手話通訳は、通訳する相手の聾者とは離れてても良いが、視野を十分確保する必要がある。そこで今回の会場のように馬蹄状の会談教室が好都合だ。それぞれの聾者と向かい合うように通訳が座り英語を手話に、手話を英語にしていくのだ。
今回の通訳は皆、現地の手話を解するだけでなく、英語を理解する、という人たち。会議の共通自然語である英語を聞きながら、各国の手話に通訳して行く。日本では日本語と日本手話の間の通訳が出来る人は少なくないが、英語と日本手話の直接通訳が出来る人は3,4人しかいないと言われる。今回はそのうちのお二人に来ていただいた。交代で通訳をするのだ。
しかし、今回の参加者のうち、インドネシアとモンゴルに関しては、英語が出来る手話通訳は調達できず、モンゴルのエンフバイヤルさんはアメリカ手話で発表。インドネシアの参加者たちの場合は、香港留学中の学生が香港手話で発表。それを香港人の通訳が英語に通訳、そして、それを他の国の手話通訳が一斉にそれぞれの手話に直す、という複雑な仕組み。
今回とは違って、英語の出来る手話通訳がいない場合に聴覚障害者が国際会議をやるのは大変だ。その場合は、各国語とそれを英語にする通常の通訳プロセスが手話通訳のプロセスに加わるのでとんでも無いことになってしまう。


                        <Deaf Dialogue 質疑応答の様子>

私の挨拶の後、皆で記念写真。すると、ウッドワードさんが話があると言う。ハノイでの高等教育事業の準備委員会がベトナム政府側委員の無理解でうまく言っていない、という。彼の話に耳を傾けているうちに、各国からの参加者の報告が始まる。
しかし、暫くすると、吉田君が私を突く。飛行場に行く時間が迫っている。私は午後の飛行機で帰国せねばならないのだ。
車で送りましょうという唐教授のお誘いを断り、ひとりで最寄のMTRの「大学駅」から電車に乗る。ホテルのある沙田(シャーティン)までは二駅、こっちのほうが早い筈。
九広鉄路と呼ばれていたこの電車に乗るのは久し振りだ。窓口で乗車券を買う。


                              <MTR「大学駅」にて>

ホテルに戻り、朝から何も食べていないので昼食を取ろうかとも考えたが、チェックアウトすると時間がない。直ぐにタクシーに乗り込み空港へ。
タクシーに乗って面白い事を発見。運転手の隣、「助手席」と言われる部分が広く取ってある。これは助手席に二人で座るための配慮。そうすると、このタクシーは5人乗りか。その時、私の車の左側を追い越して行った、トランクが閉まりきらないほどの荷物を詰め込んだタクシー。その後部左側に「5人用」とのステッカーがあるのに気がついた。
良く見るとどのタクシーにも貼ってあった。これぞ、香港人的合理主義だ。


                     <香港のタクシーは5人乗り 荷物もその分多くなる?>

空港の待合室に置いてあった「香港ポスト」にオクトパスカードに関する記事を見つけた。オクトパスカードと言うのはMTRなどの乗車券として使われるカード。磁気カードではなく、日本のSUICAと同じ非接触式のICチップを埋め込んだカードだ。漢字では「八達通」と書く。四文字熟語の「四通八達」から取ったもの。ソニーが開発した技術だが、香港での実用化が先行。日本より4年早い97年に電車とバスとフェリーなどで導入された。それまで香港のバスは釣銭は出さない制度で車内で乗客同士が助け合う姿が見られたものだが、オクトパスカードなら釣り銭が要らないだけでなく、クレジット機能により残高不足でも対応してくれる便利さ。たちまち普及し、今ではコンビニやスーパー、ファーストフードから駐車場の支払いにまで使われるようになっている。
さらに、オクトパスカードの機能はそれにとどまらず、氏名と誕生日、身分証番号、電話番号など個人情報を入力することによって、個人識別のためのカードとして様々な使われ方をするようになっている。200ヶ所以上のマンションで玄関のキーとして使われている他、180もの学校でも入館証兼カードキーとして利用されているという。
「香港ポスト」の記事によれば、オクトパスカードに蓄えられた200万人分もの個人情報が、保険会社や市場調査会社に売り渡されていたということが判明し大きなスキャンダルになっているのだそうな。便利になればなるほど、一方で不正の発生するリスクも大きくなるということのようだ。


           <以前は九広鉄路と呼ばれていた路線 中国国境と香港をつなぐ>

8時 ホテル出発
9時 香港中文大学
15時00分 シンガポール発
20時20分 成田着
2年ぶりの香港 [2010年08月20日(Fri)]
8月20日(金曜日)

                             <香港空港に到着>

朝8時、ラジャさんと一緒にホテルを出て空港へ。バンコクへ向かうと言う彼と別れて私は今回の出張の最後の目的地である香港行きの飛行機に乗り込む。明日から始まるBuilding a Better Asia---Deaf Dialogueと名付けられた研修プログラムの冒頭でスピーチするためだ。アジアに住む聾者の次世代リーダーを対象とするこのプログラムは昨年の12月にここ香港で第一回を開催しており、今回は第二回目。そのため、関係者の間では、略して「DD2」と呼ばれている。
前回の会合には都合がつかず参加できなかった私にとって、久しぶりの香港は2年ぶり。空港から市内に向かう高速道路は美しく整備され、その向こうに、香港を象徴する高層ビル群が見えてくると、香港の豊かさに圧倒される想いがする。近年、経済成長目覚しいベトナムでは、まだまだ表面的とは言え、はっきりと表れ始めた豊かさに感心することが多いのだが、今回のように、ハノイから香港に直ぐやって来ると、先進都市香港との格差がまだどれほど大きいか、改めて思い知らされる。

  
                   <高速道路の後ろに高層ビル群が顔を出した>
  
このセミナーの会場は、アジア有数の名門校、香港中文大学。日本財団の支援で5−6年前に始まったアジア各国の手話辞書作成プログラムの拠点である。あまり十分知られていないことだが、一般の言語と同じように、手話も各国様々で(むしろ、ベトナムや中国のように、国によっては一つだけでは無く、複数の手話が並存していることも少なくない)、語彙のみか文法構造も異なる。
しかしアジアの途上国の手話については、これまできちんとした手話辞書が作られていないだけでなく、言語としての文法構造の解析もほとんど行われていない。こうした中で、日本財団は、世界的な手話言語学者である米国人のウッドワード博士の提案を受けて、アジアの各国の手話語彙を収集、文法構造の解析を踏まえた手話辞書を編纂する事業を始めた。
これまでに、香港、ベトナム(南部)、カンボジア、フィリピンでの手話辞書を刊行、さらに現在では対象を、スリランカ、インドネシア、フィジーなどに拡大し、それぞれの地域の手話の収集と解析が進行中である。この事業を、ウッドワード博士とともに進めている中心人物が、香港中文大学の言語学部門の責任者で手話言語学者の唐(タン)教授だ。


                          <超高層ばかりの香港の建物>

ある意味で、聴覚障害者は障害者の中では一番障害が目立たず、そのために彼らが直面している障壁の大きさが、部外者には正しく理解されていない、と言うことが出来ると思う。私自身も聴覚障害者支援に関わる前は、漠然と「聴覚に問題があっても、筆談すれば通じ合えるので問題は少ない」というふうに考えていた。しかし、生まれながらの聾者にとっては、「自国語」と言われているのは「外国語」のようなものであって、教育によってのみ習得すべきものなのである。しかも、音という手がかりもなしに文字の形のみを手がかりに習得するのである。そして、その習得のためには、先ずは手話によるコミュニケーションが前提となるのである。
さて、その手話辞書作り事業の拠点である香港中文大学で明日から始まる若手聾者のセミナーとは、この手話辞書事業のみならず、日本財団が実施している様々な聴覚障害者を対象にした事業(3つの奨学金事業や、PEN-International、ベトナムでの高等教育支援など)にかかわる若者を対象に、聴覚障害者の次世代のリーダーとしての立場を踏まえて、アジアの未来、聴覚障害者の未来作りに貢献してもらうよう自己研鑽と連帯の場を提供しょうとするものなのである。

 
                         <ここが香港中文大学の会議場>

空港から指定された宿泊先のホテルのロビーには、シンガポールから先回りしていた日本財団の担当者で自身が聾者である吉田君が手話通訳の大石さんと一緒に待っていてくれた。彼の案内で、直ちに、香港中文大学に向かう。明日から始まるセミナーの講師や実行委員会の面々が準備会議を開いているので私もそこで、このセミナーの言いだしっぺとして、それに対する期待、助成者としての狙い、といったことについて話をすることになっているのだ。
香港中文大学に着いてみると、唐教授やウッドワード博士ら懐かしい面々と、日本財団の石井課長、担当の高橋さんらが、明日からのセミナーをどう進めていくか打合せの最中であった。唐教授が私のために今回のセミナーの講師の人たちを紹介してくれる。
ネパールの国会議員のジョシさんは自身が聾者だ。ケニヤ人のカキリさんは日本財団がアメリカの聾専門のギャローデット大学に設置した奨学金の受給者OBだ。私とは旧知の宮本さんは、世界聾連盟アジア大洋州地区代表だ。以上の三人がすべて聾者であるのに対して、4人目の講師は、肢体障害者の中西夫人。彼女と私は初対面だが、夫君で国際障害者組織DPIのアジア大洋州代表の中西さんには日本財団の支援でベトナムでも始まった重度障害者の独立生活運動(Independent Living)でいつも顔を合わせている仲だ。そして、もう一人の講師がウッドワード博士。唯一の健常者だ。豪華な講師陣の前で日本財団としての想いを話しながら、私は明日からのセミナーに期待を募らせていた。

  
                         <明日からのセミナーの打合せ>
    
8時 ホテル出発
11時05分 ハノイ発
13時55分 香港着
14時半 中文大学打合せ
ベトナム外務省で二回にわたり協議 [2010年08月19日(Thu)]
8月19日(木曜日)
ベトナム外務省ASEANサミット事務局での約束の時間の30分前にタクシーに乗り込み出発。ところが、指定されていたはずの場所に着いたが様子がおかしい。フオン院長が電話で担当者に確認したところ、昨日急に場所が変更になり、その旨は伝言したはずとのこと。
慌ててタクシーに再び乗り込み、外務省の本部ビルへ。既に、外務省のファン・サイン・チャウ文化局長を始め、サミット事務局、報道局など外務省のメンバー6、7人が集まっていてくれた。


                    <ベトナム外務省の由緒ありげな本部ビル>

ただ、そこで判明したのは、文化省国際局長の話とは随分食い違った話で、我々を唖然とするに十分なものであった。即ち、サミットの各国首脳が参加するプログラムについては外務省のこのチームが管掌しているが、それによると、第2日の夜の公式行事はギャラディナー即ち、民族舞踊などを鑑賞しながらの夕食会であり、オペラ座でのクラシックコンサートではないというのだ。我々は文化省からはギャラディナーは第1日目の夜と聞いていたが、外務省によれば、第1日目はサミットに参加する16か国首脳だけのワーキングディナーになったというではないか。
ラジャさんが言うように、文化イベントを所管する文化省とサミットそのものを統括する外務省の間で十分な意思疎通がなされていなかったことがはっきりした。チャウ局長は、ASEANオーケストラは良いアイデアだと思うので、第2日の夜のギャラディナーの際に20−30分くらいコンサートをやってもらいたいと言う。しかし、これでは余りにも重大な前提条件の変更である。そこで、我々サイドで十分協議した上で、本日中に外務省のこのメンバーと再度協議することとし、一旦引き揚げることにした。


                      <ベトナム外務省本部ビルの荘重な通路>

フオン院長と福村さんは午後の飛行機でベトナム中部の古都フエに向かわねばならない。間もなく、チェックアウトの時間だ。そこで、一旦ホテルに戻り二人はチェックアウトを済ませる。それを待って、フオン院長、福村さん、ラジャさんの4人でホテルのカフェで善処策を協議した。
福村さんは、ギャラディナーの余興のような形では落ち着いてクラシック音楽を鑑賞してもらうことは出来ないと渋い顔。確かに、そうかもしれないが、それでもサミットの正式プログラムには違わない、全く断ってしまうのは惜しい、と私。でも、とラジャさん、前回のタイのサミットでもギャラディナーの時に音楽演奏があったが、誰もまともに聞いていなかった。しかし、他に選択肢はないし、例え音響効果が悪かろうとギャラディナーでもやるしかないのでは、とフオンさん。サミット第1日目の16か国首脳だけのワーキングディナーには音楽演奏が入り込む隙間は無い。資金的には、80人のオーケストラの団員を再び別の日に動員する訳にはいかない。4人とも頭を抱える。
ふと、思いついたのは、16か国首脳だけのワーキングディナーの時間帯のご夫人方のプログラムのこと。一般に、サミットなどの主要な外交行事は夫人同伴が常識。受け入れる各国政府は、仕事の行事とは別に、観光や博物館見学など配偶者に楽しんでもらうためのプログラムを工夫する。コンサートを、第1日のワーキングディナーの時間帯にオペラハウスで行い、これを配偶者のためのプログラムにして、第2日のギャラディナーはミニコンサートにしてはどうだろうか。サミットの直後の疲れ切った首脳陣を相手に、長時間のコンサートをするより、この方がスマートかも。他の三人も名案だと同意してくれた。


                         <4人で協議、妙案が見つかった>
    
直ちに、フオンさんが外務省に探りを入れてみると、ご夫人方のプログラムはまだ白紙なのだとか。それなら十分行けそうだ。
フオン院長と福村さんは午後の便でフエに向かわねばならないので、外務省との二回目の協議はラジャさんと私の二人で当たることにして、一旦、部屋に引き揚げる。
すると、福村さんから「厄介な問題が発生した」と電話。再び、ロビーへ降りてゆくと、その日、オペラ座では既に別の公演が組まれているというのだ。一難去ってまた一難、と一同頭をかかえる。しかし、この問題については、外務省、文化省からの強権発動で解決しそうだと判明。
夕方5時、二人で再び外務省にチャウ局長を訪ね、短いコンサートを彼の示唆通り第2日の夜のギャラディナーの会場でやるが、別途、第1日の夜に配偶者のためのプログラムとして、約2時間のフルコンサートをオペラハウスで行うという我々のアイデアを説明したところ彼も大賛成。ベトナム大統領も臨席の公式行事にしよう、ということになった。

    
       <再度の協議を終えて外務省を出る>

ようやく肩の荷を下ろした思いで、ラジャさんと二人でホテルに戻る。そこへ、元フィリピンの文部大臣で最近までバンコクにある国際機関SEAMEOで事務局長を務めていたデジーザスさんから電話、ハノイに来ているのだという。ラジャさんと食事をしながら意見交換。彼は、今マニラにあるアジア経営大学院AIMの学長だ。IDPPの話に関心を持ってくれたようだ。
    
8時 福村さん打合せ
9時半 ホテル出発
10時 ベトナム外務省ASEANサミット事務局打合せ
11時半 打合せ
17時 ベトナム外務省ASEANサミット事務局打合せ
19時 AIMデジーザス学長
ベトナムは月餅のシーズン [2010年08月18日(Wed)]
8月18日(水曜日)

                  <ベトナムは中秋節 月餅のシーズン>

バンコク、シンガポールと3日間続いたIDPP関連の会議がすべて終了した。私とASEAN事務局のラジャさんは、ASEANオーケストラの件でハノイへ行くことになっている。日本財団の石井課長と吉田君は一足先に香港へ向かい、アジアの聾者の次世代リーダーのためのセミナー(BABA DD2)の準備だ。私もハノイの後で香港に立ち寄ることになっている。
APCDスタッフでバンコクから来てくれていた堀内さんは、今日、全員の帰国を見届けた後、午後の便で一人でバンコクに戻ると言う。目の見えない彼女を一人で帰すのは心配だったが、本人は、「シンガポールでは英語が通じるし、バンコクに着けばタイ語が通じるから」と屈託がない。APCDの二ノ宮所長も、「彼女は本当にしっかりしているから」と余り心配していない様子。
確かに社会企業家を目指す彼女の師匠格のサブリエ・テンバーケンさんも、目が見えないことを弱点と見られることを嫌い、実にあっけらかんと一人で旅をしていたことを考えると、堀内さんの姿勢も分からぬではない。「それじゃあ気を付けてね」とだけ声をかけてタクシーに乗り込み、空港へ向けてホテルを出発。


                    <涼しいハノイ 現在の気温は23度>

ラジャさんと一緒にハノイに到着したのはお昼過ぎ。むっとする暑さを感じた先月とは打って変わって、外の気温は27度、むしろ快適な気候だ。機内で読んだシンガポールの英字紙「ストレートタイムズ」によれば日本は3年ぶりの猛暑、東京では37度とか。バンコクも今回到着したときの機内アナウンスでは29度と言っていた。いつもは暑いはずの東南アジアの方が東京よりも涼しいとは、、、。
今年10月にハノイで行われる予定のASEANサミットで披露されることになっているASEANオーケストラ・コンサートをベトナム外務省で協議するのが今回のハノイ行きの目的。先月、ラオスのオーディションを終えて、福村さんと一緒に来てベトナム政府文化省の国際局長から確認を得たばかりなのに再びここへやってきたのは、ASEAN事務局のラジャさんのアドバイスによるもの。
文化省の話だけでは心配で外務省とも早めに確認を得ておくことが絶対に不可欠だというのだ。取り越し苦労とは思ったが、ラジャさんも都合をつけると言うし、シンガポールでの仕事の後、香港での聾者セミナーまで2日ほど間が出来たので、思い切って来てみたもの。結果的には、大正解だった。今回の外務省での会合が、これほど重大な意味を持つことになろうとは。


              <ホテル・ロビーには月餅の特設コーナーが>

2時前にホテルに到着。ホテルの周りは月餅だらけ。ロビーには月餅の特設コーナーも設けられていた。シンガポールのホテルでも見られた光景である。ここも、タイなど東南アジアの多くの国とは異なり、紛れもない中華文化圏なのである。
月餅は中国での習慣で、旧暦の8月15日の中秋節にお月見をしながら食べるものとされているが、その前に、親しい人やお世話になった人に贈答品として配る習わしがある。
もともと、意外に大きくて値段も高いものだが、最近では、中国で月餅の高額化が話題になっている。高級酒や時計などを月餅の箱に詰めたりして、時には、贈賄の隠れ蓑に使われるということもあるそうだ。どうやらベトナムでも高額化の傾向は同じようで、ロビーの特設売店に恭しく飾られた贈答用の化粧箱入りの月餅の値段を見てびっくり。何と238.8米ドル、約二万円だ。高級酒との詰め合わせとはいえ、肝心の月餅の数は6個だけ。


                     <化粧箱に入った贈答用の高級月餅セット>

ホテルの中華レストランで7時から、全員で明日の会議の前に打合せを兼ねた夕食会を計画。指揮者の福村芳一さんが香港から3時過ぎに到着。ホーチミン市国立音楽院のフオン院長は6時すぎに空港に到着。7時ぎりぎりにレストランに到着。何とか、全員が揃った。このメンバー全員が顔を合わせたのは昨年11月に初めて顔を合わせて以来のこと。ASEANオーケストラのアイデアが生まれたのがその時であった。あれから9カ月足らず。思い付きのアイデアが間もなく実現しようとしている。本当に夢のようである。
ただ、福村さんによれば、メンバー選考は順調とは言えず、問題が続出しているのだと言う。ハノイでのASAENサミットの日程の決定が遅れ、我々のコンサートの日取りがなかなか決まらないために、オーケストラへの参加を約束してくれていた筈のメンバーが別の公演に参加することになっていたり、海外へ行ってしまっていたり、、、。早く、日取りをはっきり決めてもらい、正式の招待状をそうふしないといけない。そのためにも、明日の外務省での会議が重要になってくる。


                   <この月餅はマンホールの蓋サイズ 非売品?>

6時半 デカロさん打合わせ
8時 出発
10時00分 シンガポール発
12時30分 ハノイ着
19時 夕食打合せ
IDPPを中核に大学間ネットワークを作る構想が浮上 [2010年08月17日(Tue)]
8月17日(火曜日)
朝7時、ホテルでの朝食の席でデカロさんから、彼が昨晩寝ずに考えたというIDPPの今後の設立戦略について説明を聞く。IDPPを単に障害者問題専門の大学院にするのではなく、アジア地域の障害者問題研究の中核的大学院とし、出来るだけ多くの大学をパートナー校としてネットワークの中に取り込むというアイデア。ベースになっているのは彼が日本財団の支援で約10年にわたって作り上げてきた世界の大学による聾教育のためのネットワークであるPEN-Internationalだ。これは、我々の基本的な考えに一致するので、それを今日のコアチーム会議第二日に彼の方から提案してもらうことに。
    
                             <コアチーム会議第二日>

デカロさんの提案を基に協議。これならリークアンユー大学院としても参加しやすいとトゥミネス院長補佐も大賛成。昨日までのどちらかというと慎重なスタンスに替えて、共同研究など次々と積極的な提案を出してくれる。他の参加者も色々なアイデアを出してくれ、デカロ案を基調に議論が展開。
東南アジアにはPEN-Internationalの対象校だけでなく、日本財団グループの東京財団が担当しているSylffと呼ばれるアジアの有名大学に対する奨学金事業の対象校など、いくつもの優れた大学と既に大変親しい関係にある。これらの大学を含め、アジア全域の有力大学/大学院のネットワークの中核にIDPPを位置付けることが出来れば、一校としてだけでなくこれらの大学を通じてアジア各国に散らばる障害者にとって大きな学習環境の改善となろう。デカロさんの提案を基に、基本構想を手直しすることで満場一致。


                       <盲人のジョニさんも一緒に学内視察>

会議を終えて、エレーヌさんの案内で、今年の8月にIDPPのモニター・スチューデントとして入学したばかりの視覚障害のインドネシア人、ジョニさんの就学環境を視察することに。ジョニさんも一緒に全員で大学院のキャンパスを歩く。私と二ノ宮さんにとっては既に何度も見ているところだが、堀内さんやジョニさんという視覚障害者の立場でみても問題がないことを確認できたのでみんなも安心。
その後、会議室に戻り、彼の学習環境を確保するためのミーティング。リークアンユー大学院からは、学生問題担当の学院長代理のポーチョロエン助教授が来て説明してくれる。その後の詳しい打合せは、盲人教育の専門家のラリーさんや、堀内さんを中心にやってもらうことにして、我々はホテルに戻る。


           <学生食堂 ムスリムか非ムスリムかで食器の下げ場所も異なる>

午後3時、デカロさんたちと一緒に、シンガポールの若手聾者で、リークアンユー大学院を今回我々の推薦で申し込みながら残念ながら唯一不合格になった、シンガポール人のUさんと面談。
今回、我々はIDPPの先遣隊として、3人の学生をリークアンユー大学院に推薦した。4月に公募して集まった42人もの志願者の中から書類審査で6人に絞り込んだが、最終段階で3人が辞退したので残る3人を推薦したもの。シンガポール、インドネシア、フィリピンのASEANメンバー3か国から、聾一人、盲一人、肢体障害一人という組み合わせであった。
IDPPの先遣隊としての学生派遣の目的の一つは、それぞれの障害に十分対応した学習環境を確保するための支援サービスの確認であった。障害者のための学習環境と言う点では、最も複雑でありながら、その実、殆ど正しく理解されていない分野が聴覚障害である。これまで、盲人と、車椅子の障害者を一人づつ受け入れたことがあるというリークアンユー大学院も聴覚障害者は未経験だという。
そのため我々としては、特に、聾者であるUさんの入学を一番重要なことと考えていた。彼は、デカロさんが学院長を務めるアメリカのNTIDの卒業生。英語の読み書き能力は3人の推薦学生の中でも最優秀であった。しかも、米国でソーシャルワーカーやカウンセラーとして働いた経験もある。彼の能力や人物に加えこうしたキャリアからみて彼の合格は確実に思えた。しかし、ふたを開けてみると、彼だけが不合格、盲人のジョニさんと、肢体障害者のRさんの二人が合格し、Uさんは不合格となった。(Rさんはその後、残念なことに仕事の都合で辞退、ジョニさんだけが入学)


               <縁の下の力持ち 日米の手話を通訳した3人>
    
彼の不合格の理由をリークアンユー大学院側に問い合わせたところ、以下のようなことが判明した。即ち、先ず第1点は、彼の成績は基本的には素晴らしく、特に彼の人物は高い評価を受けたこと、第2に、今年は昨年にもまして、リークアンユー大学院への応募者が増えた上、資質も高く、極めて狭き門になったということ、最後に、こうした中で彼の数学の成績が他の受験者との比較において若干見劣りしたこと、であった。
IDPPの設立にあたって我々は、聾を含む多様な障害者を対象としたいと考えている。そして、特に聾者については、教育面でのバリアーが最も高いことから特段の配慮が必要であると考えている。ただ、IDPPの卒業生の質については極めて高い評価を得られるようにすることが、その後の彼らの職業機会を確保する上でも肝要であると考えており、入学試験で手心を加えるべきではないと考える。その代り、有望な受験者については、受検前の段階での補習などの支援をすることにしている。
そこで、今回、Uさんに会って不合格の理由について説明するとともに、我々としては、彼を高く評価する立場を変えておらず、来年以降のIDPPへの受験のためにも、彼の数学のレベルアップを支援したいことを伝え、数学の個人レッスンを受けることを提案した。彼も合意。

                    <これが最後の夕食>

7時 デカロさん打ち合わせ    
8時 ホテル出発
9時 リークアンユー大学院(コアチーム会議)
10時半 学内視察
11時 ジョニさん面談
12時半 デカロさん打ち合わせ
15時 Uさん面談
17時半 夕食
リークアンユー公共政策大学院でコアグループ会議 [2010年08月16日(Mon)]
8月16日(月曜日)
朝5時半、真っ暗な中を、APCDのバスで、ASEAN事務局のラジャさん、日本財団の石井課長らでAPCDの宿舎を出発する。デリックさんや、デカロさんら米国からの一行は、ホテルが別なので空港で合流。シンガポール行きの飛行機に乗り込む。リークアンユー公共政策大学院で、本日と明日の2日間、コアグループだけで来秋のIDPP(障害者公共政策大学院)設立に向けた戦略会議を行うのだ。事務局のスタッフとして日本財団の吉田君、APCDの堀内さんも一緒だ。

                <空港の待合室でラジャさんと談笑する堀内佳美さん>

機内の新聞で中国のGDPがついに日本を上回ったことを知る。勿論、一人あたりでは中国は未だに日本の10分の1以下に過ぎない。しかし一方で、シンガポールは、確か昨年すでに一人あたりGDPで日本を抜きアジアで第一位になった筈。きれいに整備が行き届いたシンガポールの街並みを見る度にそれを実感する。更なる高度成長を謳歌する中国やシンガポールなどのアジアの諸国の中に在って、日本はひとり停滞を続け、経済規模総額でも一人あたりでも、ずるずるとその地位を下げつつある。
シンガポールに着くと、そこにはリークアンユー大学院に手配してもらっていたバスが待っていた。一旦、ホテルに行きチェックインの後、再びバスに乗り込みシンガポール国立大学のブキテマキャンパスへ。リークアンユー公共政策大学院の美しい本部ビルで学長代理のトゥミネス博士に迎えられる。彼女も障害者大学院(IDPP)準備会合コアチームのメンバーだ。


                    <リークアンユー公共政策大学院に入る一行>

リークアンユー大学院でのコアチーム会議が始まった。司会はAOCDの二ノ宮所長、先ずはバンコクの会議に出れなかったトゥミネス院長補佐のために、コグバーン教授から昨日の会議での報告事項と、障害者の遠隔教育用に開発された授業中継用ソフトのデモンストレーション。そして、デカロNTID院長からは、昨日の会議の結果を踏まえた今後の進め方についての問題提起があった。
トゥミネスさんからは、リークアンユー大学院としてIDPPにどのような貢献が出来るのか、と言う観点からの質問、提案が出され、それを元に、侃々諤々の議論が続いた。


               <リークアンユー大学院でのコアチーム会議が始まった>

会議の記録係はAPCDの堀内さんが担当。目の見えない堀内さんはコンピューター画面でのプレゼンテーションには盲人用に開発された人工音声ソフトによる声をイヤホンで聞きながら、会議でのやり取りを聞き取り、キーボードに打ち込んでいく。聾者の吉田君は、米国手話の通訳者を介して議論をフォロー、堀内さんの記録作りを手伝う。そんな事務局の二人をサポートしてくれるのがエレーヌさんだ。彼女は、知的で柔和な眼差しがとても魅力的な中国系マレーシア人だ。リークアンユー大学院の事務局の担当課長として、吉田君、堀内さんと一緒に今回の会議も準備してくれたのだが、英語のeメールを通じてのやり取りの中では、二人が共に障害者だとは全く気が付いていなかった。ある時、吉田君に緊急の件で電話しようとして彼が聾者だと気がついてびっくりしたエレーヌさんだが、その後、堀内さんが盲人だと聞いてさらにびっくり。今回、初めて二人に直接会えてとても喜んでくれたようだ。

     <前方で腰掛けているのは手話通訳>

白熱した議論が交わされた今日のミーティングであったが、夜は事務局も加えたメンバー全員で、シンガポール特有のプラナカン料理の専門店で夕食。デリックさんは、ワシントンでどうしても外せない会議が入り明日早朝帰国しないといけないという。明日は、彼抜きでコアグループのミーティングをせざるを得ないので、彼を捕まえて色々と確認する。

                         <コアチーム夕食会>

5時半 出発
8時 バンコク発
11時15分 シンガポール着
13時15分 ホテル出発
14時 リークアンユー大学院(コアチーム会議)
19時 コアチーム夕食会

| 次へ
ブログパーツ レンタルCGI