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大野修一(日本財団)
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騒乱の爪あと残る?バンコクへ [2010年05月31日(Mon)]
5月31日(月曜日)

<緑と仏教寺院に囲まれたヤンゴンは美しい街>

朝7時45分ホテルを出て、タクシーで空港に向かう。ヤンゴン市内は緑が美しい。福村さんが呟いた。「大野さん、私は初めて来たミャンマーが好きになりましたよ」
一時間ほどのフライトで再びバンコクに。やはり、空港の中はがらがら。いつもは長蛇の列の入国検査なのに今日は並ぶ人は殆どなし。市内のホテルに向かうタクシーもディスカウントに応じたほど。


             <バンコク空港はがらがら>

暴徒に占拠されていたルンピニ公園の前に建ついつものホテルに投宿。顔見知りのボーイによると今日のホテルの稼働率は15%とか。別の従業員は、騒乱のさなかは外に出ることも出来ないまま、自宅に帰らず2週間もホテルに缶詰め状態だった、と打ち明けた。この間、当然ホテルは閉鎖されていたのかと問うと、それがずっと営業していたのだという。「そんな。宿泊客なんていなかったでしょうに」というと、騒乱を取材するためのジャーナリストたちが20名ほど、ずっと泊っていたのだとか。
丁度、このホテルの前の大通りを隔てた反対側に建つ別のホテルには客室に銃弾が撃ち込まれ一時は宿泊客を全員地下に避難させたことがあったが、こちらのホテルではそんなことも無く全員無事だったと言うが、、、。
ところがホテルの部屋に入り、窓から眼下に広がるルンピニ公園を見てみると、どこにも騒乱の後が見られないではないか。政府は急ピッチで清掃と修復を進めているとは聞いていたが、それにしてもこれはどうしたことであろう。少しくらいは、何か痕跡くらいが見つかる筈と目を皿のようにして捜すが、何も発見することは出来なかった。


           <暴徒が集結していたルンピニ公園は元通り>

そこで、急に思い立って町中に出てみることに。約束のある夕方まで暫く時間がある。赤シャツグループによる略奪や放火など破壊行為が一番ひどかった報じられていたサイアムスクエアまでスカイトレインに乗って行ってみよう。
先ずは最寄りのサラデーン駅へ。駅までの道には何の変化も無い。シーロム通りもいつものように賑わっていた。ここでも騒乱時には爆発騒ぎがあった筈なのだが、その痕跡はどこをどう見てもない。電車に乗り込む。次の駅はラチャダムリ。ここまで何の変化も無し。そしていよいよサイアム駅へ。スクンビット線と重なるところを過ぎて間もなく電車はセントラルワールドの脇を通る。
ここでようやく騒乱を物語る場面に遭遇。ショッピング客でにぎわっている筈のセントラルワールドの建物が醜く焼け落ちた姿を晒して建っていた。これはひどい。


            <焼け落ちた姿を晒すセントラルワールド>

セントラルワールドの脇をあっという間に通り抜けた電車はサイアム駅に滑り込んだ。スクンビット線とのインターチェンジ、スカイトレインの駅では一番賑やかな中央駅である。駅の正面に広がるショッピングモール、サイアム・パラゴンの前の広場では、中央にロープが張られ何やら広場のタイルを修理している。暴徒が剥がしたタイルの修復が行われているのであった。
しかし、このような場面はこの一角だけ。その後、パヤタイの先までスカイトレインに乗って行ってみたが町は平和そのもの、何も変化は見られなかった。

            <暴徒が剥がした路面タイルの修復が進む>

7時 エルウィンさん
7時45分 ホテル出発
9時50分 ヤンゴン発
11時45分 バンコク着
19時 共同通信 沢井支局長
福村芳一さんのミャンマー国立文化大学でのオーディションは無事終了 [2010年05月30日(Sun)]
5月30日(日曜日)
エルウィンさんの案内でヤンゴン郊外、30分ほどのところにある国立ヤンゴン文化大学へ。エルウィンさんはミャンマー政府の外務省や文化省に働きかけ、文化大学の協力の下、卒業生などのネットワークを使って、西洋楽器の経験の豊富な人にオーディションへの参加を呼びかけてくれた。その結果、40人ほどの名前が挙がった。
こうして、日曜日の今日、ヤンゴン郊外のヤンゴン文化大学でオーデションを行うことになったのだ。


<国立ヤンゴン文化大学の構内>

この大学の創立は1993年というから歴史は新しい。なぜか。1980年代の末、ミャンマー最高学府であった国立ヤンゴン大学など大学生を中心に反政府運動が燃え上がった。これを抑え込んだミャンマー軍事政権は、何と、その後数年間にわたって全国の大学を閉鎖。90年代に入って再開したものの、ヤンゴン大学の場合は、ヤンゴン東大学、ヤンゴン西大学などと、ばらばらに分割したうえ、地理的にもヤンゴン郊外の場所に分散配置してしまったのだ。
この国立ヤンゴン文化大学もそのようにして新設された単科大学。国立の芸大としては、他にはマンダレーにあるマンダレー文化大学があるのみとか。学生総数は373人、絵画、彫刻、舞踊など4つの学科があり、音楽学科には85人の学生が学んでいるという。日本のように洋楽と邦楽が別コースになっておらず、全員がミャンマー古典音楽も西洋音楽も学ぶ。
オーディション会場は大学キャンパス内の階段教室であった。外はとても暑いのに冷房はないので窓は開けっ放し。大きな扇風機が何台か風をおこすのみ。しかし、日曜日のキャンパスは静かで外からの騒音はない。
エルウィンさんからは今日の参加者は40人、と説明を受けていたのだが何故か集まっていたのは20人ほど。ASEANサミットの各国元首の前で演奏するための団員探しという話がはっきりするにつれて怖気づく人がでたようだ。
その上、当日集まっていた人の中からも、急に辞退する人が出たりして、結局、17人を対象に行うことに。ビオラが一人、チェロが二人、フルートが二人の他は全員バイオリン。うち女性は、フルートの二人のみであとは全員男性。若い人が圧倒的に多い。先ず、各自好きな曲を一人ずつ数分間弾いてもらう。福村さんが、これはと思った人にのみ、譜面を渡してその場で演奏してもらう。サイトリーディングというやり方だ。


          <ヤンゴン文化大学で行われたオーディション>

突然、爆弾でも落ちたのかと思うような激しい雷鳴が轟いたかと思うと、地面に叩きつけるように雨が降り出した。余りにも雨音が大きいうえ、窓は開け放してあるので、演奏の音が良く聞こえない。オーディションを中断するのかと思い、福村さんの様子を伺うが、彼はちらっと外の方に眼をやっただけで、何事も無いようにオーディションを続けた。
結局、17人のなかから6人を選び、譜面を渡して30分ほどの練習時間を与え、再度ひとりずつ課題曲を演奏してもらう。うち、2人については再々度の演奏を求めて念のため比較。「よしっ、OK.サンキュー」という福村さんの声で、オーディションは終了した。時計を見ると12時になっていた。
殆ど全員が若く技術的には未熟な点もあったが、素人の私には、そのうちの数人にはきらりと光るものを感じた。私がそう言ったところ、福村さんは「いや、全然駄目です。まともなレベルに達しているものは一人もいない」とにべもない。「えっ。駄目ですか」と私。「でも、大丈夫。しっかり、使って見せます」と自分に言い聞かせるように福村さんは言った。
オーディションを終えて、参加者には食堂で昼食が振る舞われた。我々は別の会議室で大学関係者と昼食。食事を終えて外にでてみると、雨はすっかりあがっていた。車に乗りこみ大学の正門をでると、表の国道に向かう一本道を楽器ケースを抱えて歩いている若者たちの姿があった。我々のように車で直行すればヤンゴンから半時間ほどの行程とはいえ、大半の学生たちが利用するのは路線バス。これだと、片道だけで一時間半もかかってしまうのだとか。
福村さんは、車を止めさせると窓を開けて、「サンキューベリーマッチ」と大声で叫んだ。にっこりと笑顔で礼をする若者たち。福村さんが小声でつぶやいた。「かわいそうな連中。ちゃんとした指導者さえいれば、、、」
オーディションの参加者は40人と聞いていたので、私は、早朝から夕方まで一日がかりの仕事となることを想定。予備の時間も入れて、帰りの飛行機は、明日の夕方の便を予約していた。ところが、人数が半分以下になった上、段取りも思いのほか順調に進んだことから、僅か3時間。午前中一杯で済んでしまった。
そこで、福村さんと相談して、明日のフライトを夕方の便ではなく早朝の便に繰り上げることとした。バンコクで明日の夜、共同通信の沢井支局長らにお目にかかることが出来る。ミャンマーでは、軍事政権の政策によるものなのか一般的な国際携帯電話が使えない。そこで一旦、ホテルに戻った私は、ホテルの部屋の電話を使って日本や、タイに電話したりして、小一時間ほどかけてフライトの予約変更に漕ぎ着けた。


            <シュエダゴンパゴダはデートコース>

そのあと、ヤンゴンは初めてという福村さんを案内して、市内見学に出かけた。案内役の私は、ミャンマーにはこれまで20回近く来ているのではないかと思うのだが、観光の経験は殆どない。そこで、行き先はシュエダゴンパゴダとインダー湖、それから英国植民地時代に建てられた名門ホテルであるストランドホテルに限定。この内、ストランドホテルは私自身今回が初めてというから心もとないことこの上もない。
途中、車の駐車場でお釣りにもらったお札は信じられないほど擦り切れ、ボロボロに汚れたものであった。これほど汚いのは、随分以前、アフリカのどこかで受け取ったことがあるが、アジアの国では初めて。カンボジアのリエル札にも小額紙幣の中には随分汚いのを見たことがあるが、ここまでひどいのはない。記念にと写真に取る。


            <信じられないほどボロボロのお札>

8時15分 ホテル出発
9時 ヤンゴン文化大学でのオーディション
12時 関係者昼食会
15時 市内見学 シュエダゴンパゴダなど
19時 セイダナー・ヤンゴン事務所和田さん
バンコク経由でミャンマーへ、福村さんは到着時ビザで入国 [2010年05月29日(Sat)]
5月29日(土曜日)
    
           <昨日は仏陀の誕生日、仏教国では休日>

福村さんと落ち合い、一緒に空港へ。バンコク行きの飛行機に乗り込む。機内はがらがら。さすがに、騒乱が終わったばかりの今の段階では、バンコクに行こうという人は少数なのだろうか。
バンコクへの機内で、私がいつも読むことにしているのは、タイを代表する英字紙の中でもThe Nationだ。Bangkok Postも有名だが、The Nationの方が経済記事が充実していると思うのと、知人であるカビ副編集長の記事を読むため。今日は彼の記事を見つけることが出来なかったが、昨年の大変な病気から奇跡の復活を遂げたカビさんが書いた記事があると嬉しくなってしまう。


         <バンコクの目抜き通りでは臨時歩行者天国>

今日の紙面で気になったのは、騒乱後のバンコク情勢。仏教国のタイでは、仏陀の誕生日とされる昨日は公休日。今日の土曜日と明日の日曜日を併せると三連休になる。そこで、騒乱の間、商売が上がったりであった露天商や、焼き打ちにあったショッピングモールに出店していた小売商を救済するために、この三日間、被害の大きかったシーロム通りを政府の特別の計らいで歩行者天国にしたという記事が写真付きで出ていた。
また、焼き打ちにあったショッピングモールに出店していた小売商であることを証明できる者には、地下鉄構内の空きスペースの使用が無償で認められるとの記事も。なかなか粋な計らいと感心。
バンコク空港には定刻に到着。構内を移動しながら何か普段と違うことに気が付いた。異常に静かなのだ。いつもは、いろんな人種が行き交うメイン・コンコースにも人影はまばら。やはり、バンコクに来る人が大幅に減っているのだ。
5時間近い乗り継ぎ時間を経て、ヤンゴン行きの便に乗り込む。

     
           <バンコク空港はがらがら>

ヤンゴン空港に着いて、福村さんと一緒に入国検査の列に並ぶ。私の方は、先週、東京のミャンマー大使館で1年間のビザをもらっているが、福村さんは今年から始まった到着時ビザ発給制度を当てにしての入国。果たしてスムースに入国できるのか少々心配したが、入国審査に並んだ列で、検査官からビザ取得カウンターに行くように言われ、ビザ取得カウンターに並び直したが、10分ほどで難なくビザを取得出来、無事入国。
夜7時半、我々がチェックインしたホテルに、今回のオーディションの準備を取り仕切ってくれたミャンマー外務省の元ASEAN局長エルウィンさんが来てくれ、明日のオーディションの段取りにつき打合せ。そのあと、彼の従弟で音楽教師のチョウセインさんの自宅へ。ミャンマーの音楽事情についての説明を受ける。


9時 ホテル出発
11時40分 ホーチミン発
13時05分 バンコク着
17時50分 バンコク発
18時45分 ヤンゴン着
19時半 エルウィンさん
福村芳一さんのコンサートは前回以上の大成功 [2010年05月28日(Fri)]
5月28日(金曜日)

              <コンサートは始っていた>

夕方、ホテルでハノイから取材に駆けつけてくれた共同通信の三宅支局長と落ち合い、コンサートの行われる国立音楽院近くで夕食。のんびりしゃべりながら食べていると、間もなくコンサートが始まる時間だ。慌ててタクシーに飛び乗り、国立音楽院付属のコンサートホールに駆けつける。着いた時には、8時の開演時間を1分ほど過ぎていた。しかし、前回は、定刻を5分ほど遅れて始まったのでまだ大丈夫でしょう、と言いながら入ってみると、何と福村さんの指揮棒が振り下げられて音楽がジャーンと始まった瞬間だった。しかし、日本とは異なり、会場のドアは開いたままで閉じられる様子はない。我々が入った後も、何人もの人が入ってくる。中には、何故か、出て行く人もいる始末。鷹揚なお国柄はクラシック音楽の世界にまで浸透しているのか、と感心。

           <コンサートが始った後も出たり入ったり>

今日の演目は、ブラームスの大学祝典序曲から始まった。次に、珍しいファッゴットとオーケストラの共演だ。モーツアルト作曲の「ファゴットとオーケストラのための協奏曲」なのだそうだ。このために、台北フィルハーモニーからファゴット奏者のチャンさんが招かれていた。この楽器、日本ではイタリア語にならい「ファゴット」と呼ばれているが、英語圏では「バスーン(Bassoon)」と呼ばなくてはならないのだそうだ。英語圏で「ファゴット」と言ってしまうと、同性愛者への侮蔑的呼称-オカマを意味する「faggot」と受け取られてしまうので、充分に注意する必要があるのだそうだ。
ファゴット協奏曲のあとは、交響曲。メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」であった。50人近いオーケストラが迫力のある演奏を聞かせる。やはり、オーケストラはクラシックの醍醐味だ。80人編成のASEANオーケストラならもっとすごいことになるのだろう。今から楽しみだ。
最後は、リズミカルで軽快なブラームスのハンガリー舞曲。にぎやかで楽しい演奏に会場も大いに盛り上がっているのが伝わってくる。演奏が終わると、ブラボーと大きな拍手。前回の時より、演奏も迫力があったが、聴衆の反応も数段上回ったのではなかろうか。


      <聴衆から大喝采を受ける福村さんとオーケストラの団員達>

コンサートが大成功のうちに終了した後、打ち上げパーティーに来ないかと誘われ行ってみる。集まった団員達と話してみて、改めて彼らが皆とても若いのに気づく。彼らに出身を聞いてみる。当然、ホーチミン音楽院の卒業生もいたが、ハノイの出身者も、米国に留学したものも。意外に、固定的ではなく、多様な背景を持つ集団であることに驚く。さすが、国内に5つものオーケストラを持つベトナムだけのことはある。
もう一つ感心したことは、このパーティーは団員達がお金を出し合って福村さんにお礼をするという趣旨で開かれたものだとか。我々の飛び入り参加で、余計なお金をかけさせてしまい済みません。

         <打ち上げパーティーで盛り上がる>



12時 フックさん
17時半 共同通信三宅ハノイ支局長 
20時 コンサート
22時 打ち上げ会
ASEANオーケストラのオーディションでミャンマーへ [2010年05月27日(Thu)]
5月27日(木曜日)
今回の出張の主たる目的は二つ。第一に、指揮者の福村さんに同行して、ミャンマーでのASEANオーケストラの団員選抜のためのオーディションに立ち会うため。もう一つは、シンガポールのリークアンユー大学院で障害者大学院大学設立のための協議を行うため。
明日福村さんの定期演奏会が開かれるホーチミンで合流し、明後日は、福村さんと一緒にバンコク経由でヤンゴンに向かう予定だ。


            <ホーチミン市民劇場>

この「ASEANオーケストラ」とは、史上初めての試みとして、ASEAN各国の音楽家から成るオーケストラを編成し、今年10月にベトナムのハノイで行われるASEANサミット開催に合わせてクラシック・コンサートを開催しよう、というもの。昨年11月、ホーチミン市で開かれたホーチミン国立音楽院付属オーケストラのコンサートに、ASEAN事務局のラジャさんと一緒に招待された際の雑談から生まれたアイデアだ。
その後、スリンASEAN事務局長の強いバックアップもあって、ベトナム政府も賛同。結局、サミット第二日の夜の正式行事として行われることに内定している。演奏会場はハノイの国立オペラハウスを予定。
この事業の背景には、ASEAN地域には、シンガポール、タイ、マレーシア、フィリピンなど、オーケストラを持つ国もあるものの、楽団員の多くが欧米から来た外国人であるというケースが少なくないのに対し、ベトナムのみ、自国民で構成されるオーケストラが5団体存在するほどクラシック愛好家の層が厚い、という事実がある。
今年、ASEAN議長国となったベトナム政府としては、史上初めてのASEANオーケストラを組成することで、自国が誇れるクラシック音楽文化を、ASEAN各国と日中韓及び、インド、豪州、ニュージ―ランドの16カ国の元首にアピール出来る訳だ。
指揮者を務める福村芳一氏は、かつて、90年代にはベトナム政府の要請によりベトナム国立交響楽団の再建を手掛け、文化功労勲章を授与された経歴を持っているベトナムでは著名な音楽家。
彼は、22歳という若さで京都市交響楽団を指揮して大絶賛を得、その後、インド、ベネズエラ、アルゼンチン、ブラジル、チリ、メキシコ、キューバなど海外それも、途上国を中心に活躍。特に、アジアでは、中国、香港、台湾、韓国のほか、ASEAN各国のうち、シンガポール交響楽団、 バンコク交響楽団、 フィリピン・フィルハーモニー管弦楽団、 ヴェトナム国立交響楽団、 ヴェトナム・オペラ・バレー管弦楽団、ホーチミン市立交響楽団、 ホーチミン音楽院管弦楽団等とのコンサートを指揮。その他、2000年から6年間、タイでPan Asian Philharmonic Orchestraを組織し、毎年演奏会を実施したという経験を持つ。
現時点での肩書は、キューバ国立交響楽団の名誉首席客演指揮者のほか、国立ホーチミン音楽院の音楽監督を兼務。今回の指揮者として最も適任だ。


10時30分 成田発
14時30分 ホーチミン着
16時 福村さん、齊藤マネージャーとの打合せ
18時 グローバル・インテグレーション社ブンさん
19時 福村さん、斉藤さんと夕食
国際交流基金北京日本文化センターへ [2010年05月19日(Wed)]
5月19日(水曜日) 

    <国際交流基金北京日本文化センターの入るビル>

帰国の日。所長の杉田さんに会いに国際交流基金北京日本文化センターに出かける。彼は、私が日本財団に転職するまで働いていた丸紅時代の同僚。彼は東京外国語大学の中国語専攻で、サラリーマン生活の約半分を中国での支店勤務という中国通だ。
一年前までは、丸紅の北京支店長の要職にあったが、退職とともに日本語学校に入学、将来は中国人の若者のために日本語を教えたい、と考えてのことであった。ところが、国際交流基金日本文化センター所長の公募を知り応募。めでたく採用されたのだ。
大変なアイデアマンで行動力もある彼なら、中国勤務の豊かな経験と、民間人ながらの視点を生かして、新しい職場で大活躍してくれることであろう。
    
          <商社マンから転職した杉田所長>

国際交流基金北京日本文化センターからホテルに戻り、共同通信の水野記者と昼食。モンゴルの置き薬事業などの最近の進展について報告。
2時前にタクシーに乗り、北京空港に向かう。往路と同じく成田経由でなく、羽田便で帰国。

            <大きく近代的な北京の国際空港第3ターミナル>

10時 国際交流基金北京日本文化センター
11時半 共同通信水野記者 昼食
13時45分 ホテル出発
16時30分 北京発
21時00分 羽田着
置き薬プロジェクトの有効性検証のため、調査実施を合意 [2010年05月18日(Tue)]
5月18日(火曜日)
ホテルから徒歩で国際貿易センタービルへ。世界銀行の北京事務所がこのビルの中に入っているのだ。
保健衛生事業担当者である王さんに会うのは今年1月に続き、2回目。英語が堪能で、自身も医師の資格を持つ彼は、まだ30代前半という若さながら、バリバリと仕事をこなす。
1月に会って私の話に興味をもった彼は、先週、モンゴルに出張し保健大臣に会って、モンゴル保健省の意向を確認してきたばかり。
開口一番、「いい事業を紹介してもらってありがとう」と言われ私は面喰ってしまった。モンゴルの置き薬事業の全国展開のために世界銀行がローンを供与することがあたかも決まってしまっているかの口ぶりだ。

               <世界銀行の入る国際貿易センタービル>

彼は、自分は以前から日本財団を尊敬していた、一緒に仕事を出来るのは光栄だという。日中笹川医学奨学金事業などことは、自分の友人たちにも恩恵を受けた者がいるのでよく知っているし、世界保健機関(WHO)を通じたハンセン病根絶のための活動など、日本財団の対中支援にはとても感謝している、というのだ。
彼の言う日中笹川医学奨学金事業とは、日本財団の子財団である笹川記念保健医療財団が20年にわたり実施して来た、中国からの医学生に対する一年間の対日研修のことで、これまでに2000人以上もの卒業生を生み出した。2年前の四川省の大地震の際には、日本政府が派遣した医師団を補佐し、また中国語の出来ない医師たちの通訳として、日中笹川医学奨学金OB会のメンバーたちが大活躍したことは余り知られていないが、知る人ぞ知る事実である。
前回は初対面であるにもかかわらず、とても友好的であるのが印象的であったが、その背景には彼の持つ日本財団グループに対する大変高い評価があったのだ、ということが分かり私も大変うれしかった。
彼との今回の打合せは、本事業の有効性を客観的に検証するための現地調査の実施について。世界銀行に資金供与をしてもらうためには、しっかりした現地調査とポジティブな評価が必要となるのだ。実施期間、必要経費、そのための事前手続き、などを話し合う。
王さんは、調査の結論がポジティブなものになることは信じて疑わないようであった。2012年までなら世銀のモンゴルに対する融資には、特別に無金利のものが割り当てられる可能性があるとか。ならばそれに間に合うよう、急いで準備を済ませることで合意。
世界銀行の事業年度は6月末に終わるので、今は一番忙しい時期なのだが、何とか頑張る、と言ってくれた王さんとがっちり握手をして別れた。


                 <貿易センタービルの前の通り>

日本を出る前にチェックした天気予報では北京は毎日雨となっていたのだが、なぜか快晴。世界銀行での打ち合わせも予想以上にうまく行ったので、晴れ晴れとした気分で、ホテルまで歩いて戻る。
その途中、あるビルの横の歩道で、5-6人の人たちが路上に抗議文を広げているのが目についた。文面も読んでみるとどうやら強制的な立ち退きに抗議しているようであった。ふと眼を見上げると、10メートルほど離れたところに、5、6人の背広姿の男たちがいる。私服の警察官であろうが、特に制止する様子もなく佇んでいる。
すると、突然大声をあげて男たちが道路の反対側に駆けだした。その先を逃げる一人の男。だが、あっという間に、逃げる男も、追いかける私服警官達の姿も、角を曲がって見えなくなってしまった。結局、何が起こったのかは分からずじまい。
短期間に大きく変貌した北京だが、その一つの理由は、社会主義国であるため、土地の強制収用がやりやすく、公共工事のスピードが早いということがある。しかし、最近では、市民の間に、権利意識が高まり、立ち退きなどに従順に従うばかりではなくなっている。

        <立ち退きの強制に抗議する人々(捕り物の行方を眼で追う)>

ホテルに戻ってみると、豪華な飾り付けが行われており結婚式の様子。ただ、従業員によると、これは人気テレビのドラマの撮影なのだとか。道理で、クレーン式のテレビカメラがある筈だ。
それにしても、中国人も豊かになったものだ。北京の街中には、日本料理店も増えたが、今は中国人の客で一杯だ。これらの高級レストランは、昔は外国人ばかりが利用していたものだった。
しかし、豊かになった人ばかりではない。ホテルの前の、横断地下道には手作りの粗末な胡弓のような楽器をもつ物乞いの姿もあった。


                   <横断地下道には物乞いの姿も>

12時 世界銀行 北京事務所訪問
18時半 NHK中国総局 

モンゴルの置き薬プロジェクトに世界銀行資金導入へ [2010年05月17日(Mon)]
5月17日(月曜日)
北京へ、羽田からの出発。完成間近の大きな国際線新ターミナルの脇を抜ける。こじんまりとした旧ターミナルの中は、超満員。セキュリティーチェックの前は長蛇の列。新しい国際線ターミナルの完成が待ち遠しい。

         <羽田の新しい国際線ターミナルも完成間近>

3時間半ほどで北京に到着。今回は、北京のみ2泊3日という私には珍しく短い出張。
目的は、モンゴルで実施中の伝統医薬品を用いた置き薬プロジェクトを、モンゴル政府の要請に応じ、全国展開するにあたり、世界銀行の資金を導入しようという計画を詰めるため。
本来は、モンゴル事業も統括する世銀の北京事務所のあとモンゴルに行き、ランバー保健大臣に面会する4泊5日くらいの出張を計画したのだが、保健大臣が海外出張するため不在と分かり、やむなく北京だけとしたもの。出張全体を断念することも一時は考えたのだが、世銀資金の導入を急ぐ必要もあり、このタイミングでの北京だけの出張を決定。今月後半以降は別の出張などのスケジュールが控えていることから、この機会を逃すと次に行けるのはかなり先になってしまう。

             <道路の渋滞は大きく緩和された>

北京オリンピックをきっかけに北京は少なくとも表面的には大きく変わった。目抜き通りには高層ビルが林立し、町はきれいになった。車の数も一層増えたが、何本もの新しい地下鉄路線の建設と、自家用車に対する交通規制により道路の渋滞は大きく緩和された。バス停には、公徳心の向上を呼びかかけるポスターも掲げてあった。街角のゴミ箱が、分別収集になっているのに初めて気がついた。

       <街角のごみも分別収集>

10時30分 羽田発
13時20分 北京着
18時半 国際交流基金杉田所長
無事帰国(私の旅の工夫---その1) [2010年05月08日(Sat)]
5月8日(土曜日)
コロンボ発着の国際線はいつも深夜だ。今回も、我々が利用したバンコク行きの便は夜中の1時40分発。日本との時差は3時間半なので、日本では明け方の5時10分に相当する。3時間ほどのフライトでバンコクへ。幸い、前回と違って市内の騒乱は空港には及んでいない。
乗り継ぎ時間は1時間ほどなので、到着してそのまま出発ゲートへ直行。ほどなくして搭乗アナウンス。成田到着は定刻通りの午後4時前であった。
今回の出張でご一緒した日本のメディア関係者から、私の出張スタイルについて質問を受けた。そして、私の「出張ノウハウ」を開陳してはと勧められた。
今回の海外出張が果たして私にとって何回目の出張か、覚えていないし、数えたこともないが、これまで少なくとも200回以上、あるいは250回くらいかもしれない。飛行機に乗った回数も、ホテルに泊まった回数も恐らく1500回を超えるだろう。一般の日本人サラリーマンと比較すれば、海外旅行のヘビーユーザーと言えるだろう。その結果、自分では無意識のうちに、旅の工夫、旅の知恵(アイデア)を積み上げて来ているのかも知れない。
そう思って、振り返ってみると確かに人と少し違う「私なりの流儀」と言えるものが少なからずあるようだ。そこで、今後、このブログを通じて、それらを少しづつ発表することとしたい。
先ずは、スーツケースについて。日本財団での仕事を始めてから、これまでにほぼ1,2年に一回の割合で買い替えて来ている。それは、飽きるからではなく、壊れてしまうからだ。
基本的に使用頻度が高いうえに、書類や書籍など重さのかさばる物を詰め込むので、乱暴に扱われるとスーツケースの隅が凹み、遂にはひびが入って割れてしまったり、取っ手が壊れてしまったりする。
今使っているのは、大中小取り混ぜて4個、それを出張の長さや行き先に応じて組み合わせたり、使い分けたりしているが、一番の大きいスーツケースは4隅が凹んだままである。
私のこれらスーツケースの特徴は、いずれも中央に赤いテープが巻いてあること。目印にするためと、他人に間違えられないため。最近、このテープを普通のビニールテープから、アルミをベースにしたホログラムテープに換えたところ、これまで以上に遠くからでも自分の荷物を見分けることが出来るようになった。


       <中央に赤いアルミテープを巻いたスーツケースは目立つ>

スーツケースの外部と違って中身は、普段他人に見られるものではないが、気がついてみると、私の中身は少しユニークかも知れない。実は、私の荷物はさらに小さなケースに小分けしていることが多いが、ほとんど透明かそれに近いケースに入れている。こうすると、何がどこに入っているか、自分で迷うことがないだけでなく、最近のように、空港の保安検査が厳しくなり、荷物の中身を調べられる場合も、小分けしたものを不必要に開けられて、あとで再び戻すのに手間がかかることも殆ない。衣服や肌着なども、ネット状の袋に入れている。
この続きは次回にして、今回はここまでにしよう。
    

         <中身が見えるケースに入れて小分け>

 

1時40分 コロンボ発
6時35分 バンコク着
7時35分 バンコク発
15時45分 成田着
ここまで徹底したボディーチェックは初めて [2010年05月07日(Fri)]
5月7日(金曜日)
朝9時、笹川会長はラジャパクサ大統領の義弟、チャンダラーサ博士とホテルのロビーで面談。昨年、博士が来日する計画があり、その際に笹川会長と面談する予定だったが、直前になってキャンセルとなった。両者の面談はその時以来の懸案。医学博士号を持つチャンダラーサさんはラジャパクサ大統領の信任厚く栄養問題に関する大統領諮問委員会の議長を務める。

             <ラジャパクサ大統領公邸に向かう>

10時半、セワランカ財団のハルシャ会長とともに、大統領公邸に向かう。内戦が終わり治安が回復したので、前回3年前の2007年1月に笹川会長に同行して官邸を訪問した時よりは、多少ともセキュリティーチェックは緩和されているのではないか、という予想は見事に外れ、今回のチェックは、私がこれまで世界のどこで経験したよりもはるかに厳格なものであった。
予め通告されて、カメラ、携帯電話などは外して行ったにも拘わらず、金属探知機に加えて身体の隅々まで触られるという厳しいボディーチェックを受け、ポケットの中のものは総て取り上げられ財布の中まで総て覗かれる始末。それも、一回厳しいチェックを受けて来客パスを渡され官邸の敷地に入ったあと、大統領執務室のある別棟の建物に入るにあたっては、再び、チェックを受け、先ほど与えられた来客パスと引き換えに新たな入館証を渡され、漸く応接室に入るのを許された。
何故これほどまでの大変な厳重警戒態勢なのか尋ねると、大統領にはLTTEから暗殺予告があったことに加えて、最近、アルカイダの暗殺予定者リストに、アメリカのオバマ大統領の次、2番目に挙げられていることが判明したのだそうな。


          <国営テレビで生放送に出演する笹川会長>

ラジャパクサ大統領と笹川会長の面談が無事終わり、ホテルに戻りロビーで雑談していると、大統領官邸からハルシャさんに電話が入る。大統領の指示により、急遽、国営テレビのニュースの生放送枠を空けたので、笹川会長に出演してほしい、とのこと。私は、セワランカ財団の渉外部長ウデニさんと一緒に、ササカワホールへ。事務所のパソコンテレビでこのテレビ番組を見ることに。
通訳の平野さんと一緒に、コマーシャルを挟み30分近くも出演。昼間の生放送に加えて、夜の8時と10時には短縮版が再放送されるとか。番組の冒頭、ニュースキャスターが日本財団グループと笹川会長のことを紹介したのだが、初代の笹川良一会長以来のスリランカとの結びつきを丁寧に説明したのが印象に残った。

       <ササカワホールの看板の下には今もチェックポイント>

夕方には、ラジャパクサ大統領の実弟で、前回面談した際は、大統領の上級顧問であったバジル・ラジャパクサ氏と笹川会長の面談に同行。バジル氏は、先月の総選挙に出馬。全選挙区中、最多投票数を獲得して国会議員に当選したそうな。今度の内閣では、最も重要なポストである経済開発大臣に就任したばかり。笹川会長とはこれまで何度も会った仲。熱心にメモを取りながら耳を傾けていた姿が印象に残った。
夜、現地メディアと記者会見のあと、セワランカ財団とササカワトラストの幹部らを招いてお礼の夕食会。深夜11時、明日からハンセン病事業の件でインドに向かう会長一行を残し、我々は帰国のために空港へ。


9時 大統領義弟 チャンダラーサ博士
10時 セワランカ財団ハルシャ会長
10時半 ホテル出発
11時 ラジャパクサ大統領面談
14時15分 (笹川会長 国営テレビ生出演)
16時半 ホテル出発
17時 バジル・ラジャパクサ経済開発大臣
18時 WMU(世界海事大学)卒業生面談
18時半 記者会見
19時半 夕食会
23時 ホテル出発
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