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大野修一(日本財団)
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フィリピンの乗り物あれこれ [2010年03月10日(Wed)]
3月10日(水曜日)

              <マニラの夜が明ける>

暗い空が曙色に変わる。朝6時、ホテルのタクシーで一人、空港に向かう。やっと、10日間の出張が終わった。長かった。特に、フィリピンには二回にわたり行きつ戻りつするという非効率なスケジュールで、途中でダレそうだった。しかし、今回も、いろんな人に巡り合うことが出来た。いつものように、少しの疲労と沢山の充実感が混じり合った感覚を味わいながら車の中から早朝のマニラ市内を眺めていた。さあ帰国だ。

        <高層ビル群に朝が来た 早朝の近代都市マニラ>


     <「警察は皆さんを守ります」と大書されたフィリピンのパトカー>

 
    <ジープを改装して始まったフィリピンのバス、ジプニー>

 
       <ジプニーと並ぶ庶民の足トライシクル>

6時 ホテル出発
9時10分 マニラ発
14時20分 成田着
ジェナスティン社社長トーマスさんの野望 [2010年03月09日(Tue)]
3月9日(火曜日)
朝、7時半ホテルを出発して、ケソンシティーにあるイースト大学ラモンマグサイサイ校(UERM)へ。ブンドック博士、カーソンさんと落ち合い、ディビナグラシア学長と面談する。例の義肢装具士養成校の開設に関し、UERMの責任者からのコミットメントを確認するためだ。
ディビナグラシア学長によれば、我々の先週の訪問の翌日、大学は理事会を開いて、義肢装具士養成校誘致の方針の確認とそのための予算措置などについての意思統一を行ったという。これで、大学側の基本姿勢がはっきりした。あとは、実現に向けて、事業計画と予算書の作成と、日本財団に対する助成金申請書類の提出、審査など具体的な手続きを進めるだけだ。一旦、母国のアイルランドに戻ったあと、一、二カ月後にカーソンさんが再びマニラに来て、ブンドック博士らと協議して最終版を作成することになった。

私は、一旦、ホテルに戻った後、世界保健機関(WHO)西太平洋事務局ナラントゥヤ伝統医療調整官と面談。先週の協議での合意を受けて、具体的な協力事業分野を検討。前回の会議で出てきていたアイデアのうちの二つ、即ち、南太平洋島嶼国保健大臣会合で2000年に合意されたままになっていた、伝統医療分野での共同事業の推進に向けて、具体化な行動計画の作成と実施、それと、ラオスや、ベトナムなどWHO西太平洋事務局が担当するASEAN各国で日本財団の支援で実施しようとしている、伝統医薬品の配布事業における薬の品質管理と、事業の第三者評価、という二つの事業が具体的な協力事業案件として浮上。今後、実施に向けて細目を詰めることになった。

     <会場は格式あるマカティ・ポロクラブ>

夕方4時、昨夜、トーマスさんに指定されたマカティ・ポロクラブのクラブハウスに向かう。ここは、フィリピンの上流階級が馬上の球技、ポロを楽しむとともに、友人らと食事を楽しむという優雅な会員制のクラブハウスだ。豪華な内装と、優雅な雰囲気に、場違いなところに来てしまったという居心地の悪さを感じながらトーマスさんたちを探す。すると、レストランの向かい側、バンケットルームに、車イスの集団を発見。トーマスさんが経営するGenashtim社の社員たちだ。
同社の社長のトーマス・ヌンさんは中国系のマレーシア人、ニュージーランドの大学で学び、自宅は今、オーストラリアのメルボルン。そして、自分が経営する会社の本社はマニラ、という文字通りの国際人だ。Genashtim社という変わった名前の由来を聞いてみた。何と、夫人と娘さん、息子さんの名前の頭の部分をくっつけて作った造語だとのこと。家族思いでもある。
盲人や肢体障害者などを積極的に雇用するITビジネスの可能性に賭ける彼とは、障害者のための公共政策大学院大学構想(IDPP)の準備会合の際、バンコクで初めて会った。IT革命は障害者にとって大きな可能性を持つものであり、それを我々が引き出さねばならない、という私に対して、彼は、障害者にとってIT革命はむしろ相対的な優位を与える、と主張して驚かせた。
彼は現在、4つの事業で30人ほどの社員を雇っているが、そのうち、10人近くが、視覚障害や肢体障害などをもつ障害者なのである。
トーマスさんは言う、「僕が障害者を雇っているのは、同情からではない。同情は一過性で長続きしない。僕が彼らを雇うのは彼らの方が健常者より僕のビジネスに向いているからだ。情報通信分野では障害者の方が向いている分野が少なくない。探せばもっとある筈だ。それによって障害者が自信と誇りを持って仕事をしてもらえるよう手助けしたい」
彼が今、最も力を注いでいるビジネスは、インターネット上の無料テレビ電話システム「スカイプ」を用いた英語のマン・ツー・マンレッスン「Epic Online」(http://www.genashtim.com/epic/index.html)。このレッスンの教師は、ネイティブ並みの完璧な英語を話すフィリピン人たちだ。教師のうち、3人が盲人、1人が車イスの障害者だという。
今日は、いつもは殆ど在宅で働いている障害者の社員たちを、トーマスさんが私たちのヒアリングのために集めてくれたのだ。それにしても、なぜポロクラブのこの場所を会合の場所に選んだのか。「バリアフリーだから?」と尋ねる私に、彼はこう答えた。「バリアフリーってこともあるけど、いつもの彼らの頑張りに報いるために、少し、奮発したのさ。今日はここで、これから食事付きのパーティーをするんだよ」


     <トーマスさんの右腕ライヤンさん>

彼の一番の自慢の部下は、彼がMy Executive Assistantと呼ぶライアンさんである。ライアンさんは子供のころ、脳性まひを患い、それ以来ずっと車いす生活。トーマスさんに雇われるまでは、コンピュータ関係の雑誌に寄稿するフリーランス・ライターであった。コンピューターの通信教育を受けて、趣味はコンピューターというほどの技術力を身に付けていたからだ。と言っても、定期的に原稿が採用されるわけではなく、収入は不安定で僅かしかなかったという。
今は、彼はトーマスさんに雇われてこれまでの最高時の月給の4倍の額を毎月安定的に得ている。と言っても、Genashtim社オフィスに通うのではない。自宅でコンピューターに向かう毎日だ。得意のコンピューターを駆使して、トーマスさんの依頼に応じて調べものをしたり、レポートを纏めたり、ホテルや飛行機の手配、スケジュールの設定など、何でも自宅からこなしている。
私の今回のマニラ訪問時の車の手配なども彼によるものだ。トーマスさんは、自慢そうに言う。「ライヤンはすごいよ。一人で、秘書と補佐官、それからコンピューター専門家の三人分の仕事をこなしてくれる。この間なんか、出張先のシンガポールで、僕のコンピューターが動かなくなったんだよ。そしたら、彼はマニラの自宅から遠隔操作で修理してくれた。従来型の秘書嬢は要らないね。ライヤンなら在宅勤務なので、オフィススペースも使わず、通勤費も要らないんだから」
ライヤンさんが自分の車イスを指して言った。「収入が増えたんで新型の車いすに替えたんだ。でも、一番うれしいのは、今の仕事にはやりがいを感じるということだね。お金のことよりも、自分が役に立っている、と実感できるのが何よりさ」
ライヤンさんが、他の社員を順番に紹介してくれる。
優しい感じのグレースさんは、美しい声で、とても上品な英語を話す。目が開いているのですぐにはわからないが、彼女は全盲の視覚障害者だ。英語レッスン事業Epic Onlineのチューターだが、以前は盲学校で英語を教えていたと言うだけあって、お客さんからは教え方がうまいと評判なのだそうだ。グレースさんは、「この仕事の魅力は世界中の人と、生徒・先生の関係を越えてお友達になること」だという。トーマスさんによれば、英語レッスン事業Epic Onlineは好評で、顧客がベトナム、タイ、台湾、中国、日本と各地に急ピッチで広がりつつある。
他にも、車イスのジンジャーさん、盲人のビリーさんら大勢の障害者と話をすることが出来た。彼らの誰もが、とても明るく、張り切っていて、やる気に燃えていたことが印象的だった。トーマスさんのビジネスが、障害者の人々に生きがいを与えていることは明らかだった。


      <一番人気の英語教師は盲人のグレースさん(左)>

7時半 ホテル出発
8時 イースト大学ラモンマグサイサイ校ディビナグラシア学長面談
12時 世界保健機関(WHO)西太平洋事務局ナラントゥヤ伝統医療調整官
14時15分 国連平和大学中路潤子さん
15時 ホテル出発
16時 Genashtim社社員面談
19時半 高等教育委員長リカフォート夫人
マニラは選挙運動真っただ中 [2010年03月08日(Mon)]
3月8日(月曜日)
ホテルをチェックアウトして、再び、昨日のセミナー会場に。グローバル・インテグレーション社というビジネスコンサルタントの会社を始めたという旧知のトラン・ブ・グエン君と会い、結婚のお祝いの品を渡す。グエン君はまだ29歳の若者。私とは、5年前の北京で開催した第一回BABA(Building a Better Asia)セミナー(日本財団グループの支援事業参加者を対象にしたセミナー)で会って以来の付き合い。彼とは、年に数回、ホーチミン市に行く度に一緒に食事をしたり議論したりしている間柄だ。彼は私をBigBrotherと呼び、私は彼の愛称であるBung君と呼んでいる。
彼は、母親を8歳の時に、父親を12歳の時にいずれも癌で亡くしたため、姉と二人で、市場で野菜などを売ったりしながら苦労して成長した。それでも、成績が優秀であったため、ベトナムでも最難関の国家大学に入学。在学中は、4年間を通して毎年、最優秀生徒として奨学金を受けていたという。卒業後は、「トイチェ」という人気の大手新聞社の記者として活躍、数年のうちに、「ベトナムで最も将来性のある若手ジャーナリスト」の一人に選ばれるという快挙を成し遂げている。その後、出版社や、ビジネススクールの幹部に就任したりしていたが、今度は、ビジネスコンサルティングの会社を先輩と立ち上げたというのだ。
その会社でCSR部長に就任したという彼とひとしきり、障害者支援の考え方、具体的な事業の進め方について意見交換。ハノイの自立生活センターを見たいと言うので、ハノイ代表のホンハーさんを紹介。さらに、マニラでこれから会うトーマス・ヌン氏を紹介することにする。
昼食もそこそこに彼と別れ、一人、飛行場に向かう。マニラへは、今回は、フィリピン航空の直行便で、わずか、2時間半のフライト。あっという間に着いてしまう。
空港には、中国系マレーシア人で、マニラを中心に障害者を用いたユニークな事業を展開するビジネスマン、トーマス・ヌン氏の姿があった。バンコクから先ほど着いたばかりという彼に案内してもらい、彼の行きつけのスペイン料理店へ。タパス料理で遅めの夕食を取りながら意見交換。
フィリピンでは、今年は選挙の年。5月10日に大統領と上下院議員を選ぶ国政選挙と、知事や市長などの地方選挙が同時に行われる。フィリピンの選挙運動は、期間中は流血の惨事も少なくないという過熱ぶりで有名。
今回も、2月9日に大統領選挙はスタートしたものの、下院や知事・市長選の解禁は正式には3月26日からというのに、同国内では事実上の選挙戦がスタート。街の至る所に選挙ポスターが、それも、無数かつ無秩序に貼られているのが目撃される。以下はフィリピン式選挙ポスターのほんの一例。


     <フィリピン式選挙ポスター@>


     <フィリピン式選挙ポスターA>


     <フィリピン式選挙ポスターB>

11時 グローバル・インテグレーション社トランCSR部長
15時30分 ホーチミン発
19時15分 マニラ着
20時 Genashtim社トーマス・ヌン社長と夕食
自立生活運動がホーチミン市でも始まる [2010年03月07日(Sun)]
3月7日(日曜日)
発展途上国では、脳性まひや交通事故の結果、自力では手足を動かすことの出来なくなった重度の肢体障害者は親、兄弟などの庇護の下、自らの意思で行動したり、外出したりする自由を奪われたまま、自宅や施設で不自由な生活を強いられていることが多い。
このような状況を打ち破り、障害者であっても、一般の人と同様に、自らの意思で行動を決定、選択し、主体的な生活が出来ることを目指す運動が、70年代に米国で始まった自立生活運動(Independent Living)である。
障害者が必要とする介護サービスなどを障害者自身が企画し、それを公的な負担により提供出来るよう政府に働きかけるとともに、障害者が自らの生き方を肯定的に捉え、社会に参加して行くよう障害者自身が呼び掛けるピアカウンセリングという精神的支援サービス、などが活動の基本である。


   <セミナーには障害者や障害者行政に携わる多くの人たちが参加した>

アジアでは、日本がいち早くこの運動を展開し、公的サポート体制の整備に成功した。そして今、日本の障害当事者団体などの指導を受けて、タイやフィリピンなどでもこの運動が広まりつつある。日本財団は、八王子にあるヒューマンケア協会の代表で、障害者の世界組織であるDPIアジア太平洋事務局議長の中西正司さんを通じて、昨年からベトナムの障害者を対象とする自立生活運動の支援を始めた。
ハノイで始まったこの運動は、早くもベトナムのテレビなどマスコミにも大きく取り上げられるなどの反響を呼び、労働福祉省など政府関係者にも大きな影響を与えた。今年施行予定のベトナム障害者基本法にも、自立生活運動の基本精神が盛り込まれる見通しになっている。このような成功を背景に、日本財団は中西さんたちと相談し、今年からホーチミン市にも活動を広げることにした。
今日からの一週間、日本やタイから自立生活運動のリーダーたちが集まり、ホーチミン市の障害者や福祉行政を担当する市の職員を招いての講習会が開かれることになっている。今日は政府関係者など来賓を招いての開始式。私も支援団体を代表して挨拶することになっている。


     <セミナー開始式でスピーチするASEAN事務局長顧問のラジャさん>

嬉しかったのは、私の誘いに応じて多忙な日程にも拘わらずASEAN事務局長特別顧問のラジャさんが駆けつけ、ASEAN事務局を代表して応援のスピーチをしてくれたこと。しかもそれだけでなく、自立生活運動に惚れ込み、現在準備中のASEAN障害者フォーラムでの重要課題に取り上げるよう進言してくれた。
また、ドンナイ省のビエンホアで日本財団の支援で進行中の、ベトナム初の聾者のための師範大学の教員養成課程の学生たちが大勢で参加し、教員のホアさんたちの手話通訳を通じて、熱心に講師の話に「耳を傾け」てくれたのも嬉しい驚きだった。


     <聴覚障害者のために手話通訳も入った>

開始式の後、ホーチミン市音楽院のフオン院長、ASEAN事務局長特別顧問のラジャさんの3人で、先般合意したASEANオーケストラ構想の実現に向けた打合せを行った。その結果、基本的には私のアイデアに沿って、ハノイの国立音楽アカデミー、フエ市の音楽アカデミー、ホーチミン市音楽院の三団体の共催とすること、ホーチミン市音楽院オーケストラ音楽監督の福村芳一さんが指揮者として、楽団員の選抜にも当たること、演奏会は今年は時間の関係でASEANの公式行事とはしないが、ベトナム政府やASEANのスリン事務局長などの後援を得て、出来ればASEANサミットの時期に合わせて行うよう働きかけることなど、構想の基本的なストラクチャーが決まった。
この時、私の呼び掛けに応じて、ベトナムの盲人用コンピューターソフト開発の第一人者で、障害者のための公共政策大学院大学構想の支援メンバーの一人であるフックさんが来てくれた。(フックさんについては、https://blog.canpan.info/ohno/archive/539)自らも一時は盲人ピアニストを目指して音楽院でピアノを学んでいたというフックさんを、ホーチミン市音楽院のフオン院長に紹介し、福村さんの次回のコンサートに招待してもらおうと考えてのことであったが、二人を引き合わせてみると、何とフオンさんは、音楽院時代のフックさんの先生であったことが判明した。世間は狭い、と大笑い。 


     <ユニークな日本語の名前がついた洋服店>

7時 ホテル出発
8時 ASEAN事務局長ラジャ特別顧問
9時 自立生活運動セミナー開始式
11時 ホーチミン市国立音楽院フオン院長
14時 ASEAN事務局長ラジャ特別顧問
18時 DPI/APサワラク事務局長
19時 フジテレビ江藤バンコク支局長
フィリピン最高峰アポ山の雄姿を見てベトナムへ [2010年03月06日(Sat)]
3月6日(土曜日)
早朝6時半、ホテルを出て、空港へ。マニラまでは、フィリピン日系人リーガルサポートセンターの河合さんらも一緒だ。
私は、河合さん達が2日前にマニラで記者会見した際に配られたという資料に目を通した。それには、昨年三月、フィリピン日系人リーガルサポートセンターが支援した就籍を求める裁判で、証拠が無いと却下されたばかりのフィリピン日系人「吉見政江さん」の戸籍が見つかったことが記されていた。
それによると、裁判後、厚生労働省が保管する「部隊留守名簿」の中から、リーガルサポートセンターが、吉見さんの記憶する父親、政七さんに関する資料を見つけ出し、本籍地が熊本県であることが判明。熊本にある政七さんの戸籍を調べたところ、政江さんの名が娘として記載されていた。生年月日なども政江さんの記憶と一致。そこでは、政江さんは既に死亡したとされていたが、政江さんが政七さんの娘である証拠が見つかった訳で、戸籍の回復が出来ることが確実になった、というものであった。この吉見政江さんも昨日会った「とみこ」さんらと同じ76歳だという。
飛行機からミンダナオ島の山々を見下ろしながら、日本人が深くかかわって来たダバオの開拓史、そして戦後65年も経つのに国籍の確認もままならない「とみこ」さんら、日系人たちのことを思った。雲海の向うに突き出た高峰が見えた。フィリピンの最高峰、標高2954メートルのアポ山だ。その昔、現地に妻や子供たちを残したまま、ミンダナオを離れざるを得なかった日本人たちもこの山を眺めたのだろうか。


     <フィリピン最高峰、アポ山の雄姿>

マニラで、日本へ帰国する河合さんや日本財団の梅村君らと別れ、バンコク行きの飛行機に乗り込む。バンコクで、フジテレビ・バンコク支局の江藤支局長らと合流。ホーチミン市で明日から開催される重度障害者の自立支援のためのワークショップを取材してもらうことになっている。一緒の便でホーチミン市へ。
夜のホーチミン市は明るく、ダイナミックに動きまわる人々で溢れていた。また更に賑やかになっているように感じた。マクドナルドやKFC、ロッテリアに続いて、日本の100円ショップまでが進出してきているのに今回初めて気がついた。ベトナムの経済発展は止まらない。


     <夜も賑やかなホーチミン市>


     <日本の100円ショップも進出>

6時半 ホテル出発
8時50分 ダバオ発
10時40分 マニラ着
14時20分 マニラ発
16時35分 バンコク着
18時25分 バンコク発
19時55分 ホーチミン着
日本国籍を希望する残留日系人の家を訪ねる [2010年03月05日(Fri)]
3月5日(金曜日)
朝、7時45分ホテルのロビーに集合して、ワゴン車に乗り込む。程なくして、車は大きな建物の前に停まる。そこが、フィリピン日系人会事務所の入るビルであった。日系人会が経営する学校もここにある。大きな中庭のようなスペースに案内される。両サイドには沢山の椅子が並べられ、正面にはステージがあり、そこにも椅子が並んでいる。

     <日系人学校生徒によるお神輿も登場>

予定の時間を大分回ったころ、日系人協会診療センターの開所式典が始まった。来賓の挨拶などを挟んで日系人学校生徒による鼓笛隊の演奏や、お神輿を担いでのパレードなど、賑やかな式典であった。
式典の後、診療センター正面玄関に移動してテープカット。そして、診療センター内部のお披露目があった。診療センターは3階建て、延床面積987平米の施設。日本財団が約5000万円の建設費を全額負担した。一階には、日系人会直営の臨床検査室と薬局、2階と3階のスペースは一般の医師に貸し出されることになっている。既に、歯科や内科など一部は開業が始まっているが、大半はこれから。産婦人科や精神科などまで様々な分野のクリニックの開業が予定されており、日系人のみならず、一般のダバオ市民の医療事情改善に寄与することが期待されている。


     <新築なったフィリピン日系人協会診療センター>

午後、私は、「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」のスタッフである紫垣さんに案内してもらって、ダバオ市内から20キロほど北のカリナンという町のマラゴス地区に、日系人二世と言われながら、尚、日本政府の認定が得られていないという老婦人に会うために出かけた。
「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」は、2003年8月、ダバオで開催された日本人移民100周年記念祭をきっかけに設立されたNGOである。戸籍がなかったり、戸籍の所在がわからない日系人に、様々な証拠をもとに、家庭裁判所の許可を得て新たに本籍を設定し、戸籍を作成する「就籍」という活動を中心に、フィリピン日系人のアイデンティティの調査、日本国籍取得等にかかわる法律問題の解決、生活の向上、教育等の支援に関する事業を行っている。(http://pnlsc.com/pnlsc/index.html) 
日本財団は2006年度から同センターの活動を財政面から支援してきている。4年を経て、これまでに230人の身元が判明、うち、48人の戸籍取得に成功している。このセンターの中心人物として理事長を務める河合弘之弁護士と日本財団は、中国残留孤児の就籍事業以来のお付き合いである。
河合さんは30人もの弁護士が所属する大手法律事務所を運営する敏腕のビジネス弁護士。しかし、満州国時代の新京(現在の長春)で生まれ、引き揚げ中に弟を亡くしたという経験を持つ。「一歩間違えば、自分も中国で孤児になっていた」との思いから、中国残留孤児の就籍支援を始め、約1300人もの戸籍取得を実現させた。今度は、フィリピン日系人の支援に乗り出したという訳だ。


    <日系人2世だという老婦人の家>

ダバオ市内から40分ほどでカリナンという町に着く。そこから、小さな未舗装の道を15分ほど進み、マラゴスという地区に到着。みすぼらしい家屋が林の中に散在する。その中の一軒が目指すイルネアさん、日本名を「さかがわとみこ」さんと名乗る76歳の老婦人の家だった。「とみこ」さんのお父さんは、「みつひろ(もしくは、みちひろ)」。マニラ麻作りの農民だったが、戦争中、軍属として埠頭建設に駆り出され、空襲により爆死した、という。しかし、父親に関する戸籍などの証拠書類は発見されておらず、彼女の希望にも拘わらず、日本の国籍はいまだ与えられていない。
周辺には、果樹がぱらぱらと見られる他は、田圃どころか畑のような耕作地も見当たらない。どうやって生計を立てているのだろうかと尋ねると、「時々日雇いの仕事がある他は、そこらの樹になる果物を売ったりして暮らしている」と、イルネアさんの亡くなった息子の嫁だという婦人が答えた。殆ど無職に近いらしく、着ているものは粗末だが、口ぶりは明るく、その表情にも暗さは微塵も見られない。
紫垣さんに通訳してもらって、我々が「とみこ」さんと話をしているところへ、「かいぬまみちこ」さんと称する、もう一人の老婦人が現れた。「さかがわとみこ」さんと同じ76歳。二人は、国民学校のクラスメート。「みちこ」さんのお父さんの戸籍は山口県で見つかったが、そこには、「みちこ」さんの名前の記載はなく、彼女も戸籍を得られていない、という。


    <小学校でも一緒だったというもう一人の日系人老婦人と>

二人は、日本語はいくつかの単語を除き殆ど忘れてしまったが、国民学校で習った唱歌や軍歌を今も覚えているという。我々の求めに応じて、か細い声で、「見よ東海の空明けて、旭日高く輝けば」で始まる愛国行進曲と、「支邦の夜」を歌ってくれた。渡辺はま子が歌い、軍人に人気のあった流行歌である。我々の周りには、いつの間にか、大勢の村人が集まり、大人しく我々のやり取りに耳を傾けていた。
ふと気になったので、「とみこ」さん達に、「自分たちが日本人の血を引いていることを村人にいつまで隠していたのか」と、聞いてみた。すると、「この村では皆が最初から知っていた。日本人であるからと言って苛められることもなかった」という答えが返ってきた。彼女らの話を聞いて、私は二人が日本人であることを確信した。
「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」の活動により、これまでに、フィリピン日系人200人以上の身元が判明したとはいえ、今なお「とみこ」さん達のように、身元を示す書類が不備で、戸籍獲得の希望が叶えられない残留2世が約800人いる。彼らは高齢で、次々に亡くなりつつある。身元調査、戸籍回復が急がれる。


    <「サカガハトミコ」とカタカナで自分の名前を書いてくれた>

7時45分 ホテル出発
8時半 フィリピン日系人会診療センター開所式
13時 ホテル出発 カリナン県へ
14時 マラゴス村日系人老婦人訪問
14時45分 フィリピン日本歴史資料館訪問
15時45分 ダバオ開拓の父、太田恭三郎慰霊碑参拝
16時 日本人墓地訪問
19時 日本フィリピン企業協議会(JPIC)主催夕食会
フィリピン残留日系人の中心地ダバオへ [2010年03月04日(Thu)]
3月4日(木曜日)
朝11時、ホテルから歩いて数分のところにあるWHO/WPRO(世界保健機関西太平洋事務局)に伝統医療調整官のナラントゥヤ博士を訪問。暫く意見交換した後、上司のベケダム保健部門開発局長、同僚のサントソ薬務調整官らと昼食を取りながら懇談。伝統医療分野での日本財団とWHO/WPRO(世界保健機関西太平洋事務局)との協力の可能性について意見交換。
ベケダム局長は、日本財団の沿革やハンセン病などでの活動状況、また、モンゴル、ミャンマー、タイなどでの伝統医薬品配布事業や、ASEAN事務局と共同での伝統医療会議の開催など、特に伝統医療分野での活動については十分認識しており、高く評価する立場から、今後両者間の協力関係を深めて行きたいとの意向であった。そして、具体的な共同事業についてナラントゥヤ博士と検討して欲しいと述べた。ただ、彼が強調したのは伝統医薬品の有効性についての客観的学術的な検証データの必要性であった。WHOの立場で伝統医薬品の利用を推奨する以上、臨床実験データなどにより有効性と安全性が保証されたものに限定せざるを得ないとの考え方であった。
これは、WHO本部事務局の伝統医療ユニットが推奨している基準と異なる、非常に慎重な立場であるが、私は、彼らの協力を得ることで国際金融公社(IFC)など伝統医薬品に慎重な国際機関の協力を今後得やすくすることが出来ると考え、今後の協力に同意することにした。そして、ナラントゥヤさんとは来週、ベトナムから戻った後、もう一度マニラで時間を作って落ち合い、具体的な協力に向けた議論を続けることとした。


       <WHO/WPRO(世界保健機関西太平洋事務局)の正面入り口>

一旦ホテルに戻った後、ペニーさん、カーソンさんと合流、トーマスさんの車に乗り込む。約30分ほどで、マニラの北東ケソンシティーにあるイースト大学ラモンマグサイサイキャンパスに到着。ここは、フィリピン最大の私大といわれるUniversity of the Eastの一部。医学部、看護学部、理学療法学部などから構成される医学部門(正式名称はラモン・マグサイサイ医学センター=UERMMC)はここにある。
UERMMCはフィリピン共和国第3代大統領マグサイサイの名前を記念して作られた非営利の財団形式で作られたもの。イースト大学を構成する一部門だが、その運営はかなり独立しているそうだ。マグサイサイの胸像がセンターの入り口脇に飾ってあった。大変人望があり、国民に慕われていた大統領だったそうだが、飛行機事故で非業の死を遂げた。彼の名前を祈念して作られたマグサイサイ賞は、今では「アジアのノーベル賞」と呼ばれる権威ある賞になっている。


         <UERMMC入り口脇に立つマグサイサイの胸像>

ペニーさんの案内で、医学センター付属病院の理学療法クリニックを視察。そのあと、この敷地内に義肢装具学校を開設するという想定で、問題点のチェック。その結果、大学側が当初予定していた場所では、教室と作業実習所、診断室など総ての施設を収容するには不十分であることが判明。その他、カリキュラムについてもいくつかの問題点があることが判明。
そこで、これらは宿題とし、来週、私が再びベトナムから戻ってくるまでに、カーソンさんとペニーさんで週末などを利用して再検討してもらうことになった。
私は、ダバオで明日開かれる日系人会診療センターの開所式に出席して祝辞を述べなくてはならない。そこで、カーソンさんとペニーさんをクリニックに残し、トーマスさんの車で一人、空港に向かう。
飛行機は、一時間半余りのフライトで、フィリピン南端の島、ミンダナオの中心地、ダバオに到着。ダバオは、人口136万人。マニラ、セブ、に次ぐフィリピン3番目の都市である。

        <美しいダバオの街 後ろに海を望む>

空港で、日本からやってきた日系フィリピン人の国籍回復運動を支援するNGO「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」を主宰する河合弁護士らと合流。「フィリピン日系人会」のジュセブン・アウステーロ会長らの出迎えを受け、皆で宿泊先のホテルに向かう。
第二次世界大戦以前、ここダバオは、東南アジア最大の日本人入植地であったと言われる。(ここで言うフィリピン日系人とは、戦前の日本人移民などの配偶者やその子女を指す。近年増加している、日本滞在中のフィリピン人女性との間で生まれた日系二世は、新日系人と呼び区別されることが多い)ある統計によると、第二次世界大戦開戦当時、フィリピン在住邦人総数2.7万人に対し、ダバオだけで2万人が住んでいたという。
戦前、ダバオの日本人入植者の多くは、マニラ麻の生産に従事した農民と、マニラ麻を売買する商人たちであった。その後、日本人入植者が増えるにつれて、様々な職業の日本人が移り住み、日本人町が形成されていった。
しかし、日本人の父親が戦死したり、戦後、米軍の捕虜となったあと日本へ強制送還されたため、フィリピンに大勢の日系移民二世が残されることになった。彼らは、フィリピン国内での反日感情が強まる中で、多くの場合、日本人の子供であるという事実をひた隠しにして暮らしてきたという。
1980年代に入り、対日感情も少しずつ好転する中で、日本政府による日系人調査が始まったが、日本人の出自を示す書類を失ったり、自ら捨ててしまった人も多く、日系人と認定されなかった人が大勢いた。このころから、フィリピン各地で日系人組織が設立され、自らの互助と、身元や国籍などアイデンティティーの確認を求めて立ち上がり始めた。
現在、フィリピンには、フィリピン日系人会連合会のもと、17の日系人団体がある。そのうち、最大の会員数を擁しているのが日系3世のアウステーロさんが会長を務めるダバオの「フィリピン日系人会」。今も昔も、ダバオがフィリピン日系人の中心地なのである。


     <フィリピン日系人協会経営の学校に通う生徒たち>

ダバオの「フィリピン日系人会(PNJK)」は1980年設立。現在の会員数は約6,800名。自らも日系移民二世として、ダバオで生まれ、戦後日本に引揚げた内田達男さん(http://www.manila-shimbun.com/award131485.html)や、フィリピン日系人を雇用する企業の集まりである「日本フィリピン企業協議会(JPIC)」(http://www.p-jpic.com/05kyogikai.html)など、様々な個人や組織による資金援助により活発な活動を展開してきている。
特筆されるのは、日系人子弟のみならず、一般のフィリピン人子弟も受け入れる日系人協会経営の学校群である。幼稚園に始まり、小学校、中学校、高等学校までの一貫校から、2002年には「ミンダナオ国際大学」という大学まで作ってしまった、というから驚きである。学生総数1800人。うち、大学が300人。


       <ダバオ日系人会が作った国際大学>

11時 世界保健機関(WHO)西太平洋事務局訪問
14時 イースト大学ラモンマグサイサイ校理学療法学部訪問
19時30分 マニラ発
21時20分 ダバオ着
「NGO先進国」フィリピン [2010年03月03日(Wed)]
3月3日(水曜日)

         <マニラに到着 天気は快晴、気温は33度>

昨夜、日本へ帰国する澤村先生とジャカルタの空港で別れたあと、私とカーソンさんの二人は、シンガポールで飛行機を乗り継ぎ、マニラにやってきた。カーソンさんと一緒というのは、フィリピンにおける義肢装具士学校の開設の可能性を検証するため、ジャカルタ義肢装具士学校の国際諮問委員会の開催に合わせて、カーソンさんにマニラでの関係者とのミーティングをセットしてもらったためだ。
マニラ空港には、昨夏バンコクで日本財団が主宰したIDPP(障害者公共政策学大学院大学)構想に関する専門家会合で会って以来、親しくしているマレーシア人の実業家のトーマス・ヌンさんの車が我々を待ってくれていた。彼がマニラのオフィスで普段使っている運転手付の車を、自分が出張中で空いているからと、好意で使わせてくれたのだった。


         <フィリピンで最も権威があると言われるフィリピン総合病院>

ホテルにチェックインして直ぐ、二人して再びトーマスさんの車でフィリピン大学付属フィリピン総合病院に向かう。フィリピン総合病院はフィリピンで一番権威のある総合病院だそうだ。ここのリハビリテーションセンターの所長のブンドック博士に会うためだ。カーソンさんが「Dr.ペニー」と愛称で呼ぶブンドック博士はまだ40代の女医さん。とても小柄で謙虚な人柄からはちょっと想像しにくいが、フィリピンリハビリテーション学会の前会長で、フィリピン整形外科学界の権威。フィリピン最大の私立大学、イースト大学のラモン・マグサイサイ医学センター(UERMMC)の教授でもある。
Dr.ペニー(ブンドック博士)がスライドを使ってフィリピンにおける義肢装具に対する需要と供給の現状を説明してくれる。


       <ペニーさんはフィリピンリハビリテーション学会の前会長>

それによると、人口約9000万人のフィリピンの身体障害者は現在296万人。内、三分の一の100万人が肢体障害者と推計される。そのまた、三分の一の34.5万人が義足を必要としていると見られている。それに対し、義肢装具士は全部で47人。一人の義肢装具士に対し、患者が7300人となる。国際的にトップクラスの義肢装具士でも一年に作れる義足の数は、せいぜい250人どまり。フィリピンの場合、義肢装具士の大半は短期間の簡易講習しか受けたことがなく、生産性は低く、年間100人がやっととのこと。
ブンドック博士らが行ったある地方での現地調査では、義足装着の順番待ちが4年以上であった。34.5万人のうち10.5万人は、義足を装着しさえすれば、生産労働に従事できるとみられており、このような義足供給能力の不足は、大変な経済的な損失を意味している。
47人の現職の義肢装具士のうち、国際資格を持っているのは4名のみ。彼らは総て、日本財団などが支援しているカンボジアの義肢装具士学校(CSPO)の卒業生。国際的に通用する資格をもつ義肢装具士の養成を国内で行えるよう教育機関の整備が急務であるという。
ブンドック博士が教授を務めるイースト大学ラモン・マグサイサイ医学センター(UERMMC)では、学部長が、義肢装具士学校の開設に積極的で、敷地内の建物を自分たちの経費で改修して、準備する意向を示している。大学の総長も興味を示しているが、先ず、手順を踏むよう言われてプレゼンテーションの準備をしていたところ、大学の評議員議長である有名財界人がその話を聞きつけ、総長に、なぜぐずぐずしているのかと発破をかけた。そのため、総長がへそを曲げ、危うくこじれる所だったが、その後誤解も解け、今は総長も前向だとか。
イースト大学ラモン・マグサイサイ医学センター(UERMMC)以外でも、マニラ郊外のある地区が義肢装具士学校誘致の名乗りを上げているし、元大統領のラモス氏も軍人の障害者の福利厚生の関連で熱心なサポーターである、等等。

   <義足の取替えだけで4ヶ月待たされたという少女 フィリピン総合病院クリニックで>

Dr.ペニーのリハビリテーションセンターを視察して、一旦、ホテルに戻り、服装を着替える。ペニーさんもメンバーとなっている外科医を中心とする国際NGO「Physicians for Peace」のフィリピン支部の代表者の集まりに顔を出すよう頼まれたのである。どういう趣旨の会合なのかよく分からないので、カーソンさんに尋ねるが彼もよく分からないと言う。
ペニーさんの夫君ブンドック博士(彼も整形外科医)の車で連れて行ってくれた場所は、イントラムーロス地区にある由緒ありげなスペイン風レストラン。そこでは、Physicians for Peace(PFP)のフィリピン支部の臨時理事会が開かれていた。PFPはアメリカに本部を置く国際的な医療NGOで、フィリピン支部の場合は、地方での出張診察や、義足装着などを、会員医師のボランティア活動によって行っている。
そこで、私は急に挨拶するよう求められ、日本財団としての東南アジア各国での活動、特に、義肢装具関連を中心に説明するとともに、フィリピンでの今後の学校開設の見通しについて話す。彼らは、私の前向きな説明に安心したのか、その後、自分たちの活動についての話し合いに没入。20人ほどのメンバーが熱心に、真剣に、議論を続ける。
会話は総て、流暢な英語で行われる。我々外国人が傍聴しているからではない。フィリピンのインテリのワーキングランゲージは英語なのである。フィリピンの公用語のタガログ語(フィリピノ語)は87年制定のアキノ憲法以降、次第に広がりつつあるが抽象的な概念を表現するには不向きとされ、インテリや上流階級の会話は尚、英語を使うことが多いようだ。
新たな資金調達のアイデアについて、ウエブサイトの開設について真剣な議論が続く。聞いていると、欧米人の議論を聞いているような錯覚に陥る。こんなことは、フィリピン以外のアジア諸国では感じたことがない。使われている言葉が英語であるからだけでなく、彼らの思考パターンそのものが、アジア式ではなく欧米式なのだ。企業のCSRについて、市民の義務について、ボランティアについて、総てが途上国の発想ではなく欧米のインテリの発想そのものなのである。
こんな立派な議論が出来る知識人、専門職階層が一握りの例外と言うより、かなりの有力な階層として存在するフィリピンの社会が、政治的に経済的に発展途上国のレベルに留まっているというのは一体どう理解すれば良いのだろうか。そんなことを彼らの活発な議論を聞きながら考えた。
カーソンさんと私は、結局、このNGOの会合を二時間近く傍聴することになった。この間、出てきた飲み物はソフトドリンクだけ。食事も、スペイン風店構えには余り似つかわしくないちょっと中華風のチキンライスのようなものが一品だけ。うまいワインかせめてビールと、ちょっと豪華な夕食をイメージしていた我々の予想は大外れ。しかし、考えてみれば自分の打算のためでなく、社会のために貢献しようとしている人たちが贅沢な食事や酒にうつつを抜かしていたのでは話にならない、と納得。「NGO先進国」フィリピンの実力について考えさせられた一夜であった。


   <平和医師団(Physicians For Peace)の理事会>


9時45分 シンガポール発
13時15分 マニラ着
15時 フィリピン総合病院訪問
19時 平和医師団(PFP)理事会 
大勢の夢を乗せたジャカルタ義肢装具士学校 [2010年03月02日(Tue)]
3月2日(火曜日)
朝、ホテルにカンボジアトラストのジャカルタ代表のピーター・ケアリーさんが我々3人を迎えに来てくれた。英国のNGOであるカンボジアトラストは日本財団にとって、カンボジアでの義肢装具士学校事業以来のパートナー。スリランカを含めた3カ国の義肢装具士学校で、技術面のみならず、事業企画や実際の運営面でも中心的な役割を果たしてくれている。
昨夜遅く到着された澤村博士を加えた我々が乗り込んだ車の車体には、大きく腕を広げた笑顔をモチーフにした日本財団のロゴ。半年ほど前に納入されたばかりのぴかぴかの日本車だ。


        <日本財団のロゴを付けたジャカルタ義肢装具士養成学校の車>

わずか30分足らずのドライブで、ジャカルタ義肢装具士養成学校に到着。三階建て二棟の総床面積は1240平米。余裕ある敷地に建つ立派な学校の姿に「ほう」という声があがる。学校から道路一本隔てた反対側の敷地に建つジャカルタ医療専門学校の講堂に案内され、第一回目の国際諮問委員会の開催を記念する式典に参列。インドネシア保健省審議官のギアトノ博士が来賓として挨拶。彼自身、事故で一時は車椅子生活をしていたというエピソードを披露。ギアトノ博士が本事業の政府内での一番の理解者、推進者である。
その後、再び、学校に戻り、二階の教室で国際諮問委員会が始まった。15名ほどのメンバーのうち、外国人は日本人2名、イギリス人2名、スリランカ人1名の計5名。残りは、インドネシア人。内2名は実業家のギルバートさんとソロから駆けつけてくれたインドネシアを代表する整形外科医のハンドヨ博士。残りの8名が、行政官や医官などの保健省関係者や医療専門学校関係者など。
司会のピーターさんに促され、各委員が先ずは自己紹介。私は、その言葉を聞きながら、このジャカルタ義肢装具士養成学校が、今日ここに委員として集まった人々、それぞれにとっての長年の夢を実現するという大変重要な役割を果たしていたことに思いをめぐらせていた。

            <自己紹介する国際諮問委員会のメンバーたち>

澤村誠志博士は、義肢に関連する整形外科の権威として、日本国内のみならず国際的に著名な人である。今年、79歳というが、今回も日本から一人で駆けつけ、一泊しただけで、なんと今夜の夜行便で帰国というから驚きである。
澤村さんは、ISPO(国際義肢装具協会)の元会長であるが、日本では、ベトナムのシャム双生児ドクちゃんの義足作りを担当したことで知られている。その澤村さんが、アジアに義肢装具センターを作ろうと考え始めたのは、1980年代のことであったという。その後、日本外務省などのアドバイスをもとに、インドネシアをその候補地と定め、1992年には長年の親友であったインドネシア人のハンドヨ博士や弟分の田澤博士と共に、インドネシア政府や、国際機関、ISPO(国際義肢装具協会)などに対する働きかけを開始した。
そして、その後も、何度もジャカルタまで自ら足を運び、両国政府にもその意義を説明するなど、大変な努力を払われた。だが、長年にわたるたゆまぬ努力も官僚組織の壁などに阻まれ、結局インドネシアでは結実することはなかった。
しかし2002年になって、澤村さんの夢はタイのバンコクに場所を変えて実現することになった。日本財団が田澤博士の提案を受けて、資金協力することでスタートした国立シリントーン・リハビリテーションセンター内に設けられた義肢装具士学校である。田澤博士が技術顧問として現地に張り付き頑張ってこられたお陰で、シリントーン義肢装具士学校は間もなく東南アジア初の国際資格一級校となろうとしている。


     <79歳の澤村博士と若手日本人講師の森本哲平さん>

一方、そのころ、人口大国インドネシアでの良質な義肢義足に対するニーズと、ハンドヨ博士ら地元関係者の熱意に注目したもう一人の人間がいた。カンボジアトラストの国際部長(当時)のカーソン・ハート氏である。日本財団は、カンボジア義肢装具士学校(CSPO)がカンボジア国内のみならず、周辺のアジア諸国から留学生を集めるまでに成長したことを背景に、カーソンさんにアジアのほかの国でも同様な義肢装具士学校を作るための予備調査を依頼した。義肢装具士学校に対する需要と供給体制に関する一年間の調査の末に、彼が出した結論は、フィリピン、インドネシア、スリランカの3つの国でその条件が備わっているというものであった。その間、カーソンさんはインドネシアではハンドヨ博士にコンタクトし、ハンドヨさんの熱意と誠実さにインドネシアのファンになっていた。
しかし、カーソンさんがあげた三つの候補国の中から、日本財団がその時、カンボジアに次ぐ義肢装具士学校設立支援対象国として選んだのはスリランカであった。当時、スリランカは内戦の終結に向けて一時的な停戦協定に漕ぎ着けたばかり。日本財団としては、このタイミングを捉えて、対立する二派の和解を促進するための一助にと、戦争の犠牲で手足を失った双方の兵士や民間人のニーズに応えるための義肢装具士を養成する学校を、スリランカに設立することにしたのだった。それから5年、スリランカの学校は既に20名以上の卒業生を送り出し、彼らはスリランカ中の国立病院で活躍を始めている。
スリランカの学校の運営が軌道に乗りつつあった設立3年目の2006年、我々は残り二カ国での学校設立を考慮する時期が来たと判断、カーソンさんに、先ずはインドネシアでの学校建設を検討するよう要請した。当時、母国アイルランドに戻り、カンボジアトラストの国際担当理事に就任していたカーソンさんは、カンボジアトラスト創立当時の発起人の一人で、オックスフォード大学の教授のピーター・ケアリーさんにインドネシアでの事業化が進み始めたことを報告、彼の参画を打診した。
インドネシア史の専門家として名を成していたピーター・ケアリーさんだったが、この話に神の啓示を感じたと言う。そして、なんとオックスフォード大学教授の職を捨てて、インドネシアでの義肢装具士養成学校の事業責任者としてインドネシアに赴任することを決意。今ここに、カンボジアトラストのインドネシア代表として、今日の国際諮問会議を主宰している。
このように、ジャカルタ義肢装具士養成学校は、私だけではなく、ここにいるみんなの長年の夢にささえられて実現したプロジェクトだったのである。


ピーターさんについては:https://blog.canpan.info/ohno/archive/565、カーソンさんについては:https://blog.canpan.info/ohno/archive/514、ハンドヨさんについては:https://blog.canpan.info/ohno/archive/99 などの私のブログをご参照。

        <和気藹々 ジャカルタ義肢装具士学校の学生たち>


            <真剣なまなざしで装着技術の実習中>

7時 朝食
7時45分 ホテル出発
8時半 ジャカルタ義肢装具士養成学校式典
9時半 国際諮問委員会
16時 空港へ出発
19時5分 ジャカルタ発
21時40分 シンガポール着
手動式のウオッシュレット「エコ」 [2010年03月01日(Mon)]
3月1日(月曜日)

約三週間ぶりの出張の目的地は、元々はインドネシアとフィリピン。そこへ、急遽、ベトナムが加わった。
ジャカルタに設置した義肢装具士養成校の初めての国際諮問委員会の会合に出席することと、フィリピンの南部ダバオ市の日系人協会が運営する診療センターの開所式への出席が当初の目的。また、この機会に合わせて、予てからの懸案であるフィリピンでの義肢装具士学校の開設に向けて、フィリピンの現状調査を行うことにした。そのために、週末を挟んでフィリピンに滞在する計画を立てたのだったが、、、。
直前になって、日曜日にベトナム・ホーチミン市で行われる障害者のための自立生活運動事業の開始式への出席を入れたため、マニラからベトナムに行って、月曜日には再びマニラに舞い戻る、という複雑なスケジュールになってしまった。

       <ジャカルタ都心 近代的なビルが立ち並ぶ>

飛行機は定刻にジャカルタのスカルノ・ハッタ空港に到着。少々心配していた到着時のビザカウンターには前回のような長い行列はなく、スムーズに外に出ることが出来た。しかし、空港の外には迎えに来てくれるはずのカーソンさんの姿が見えない。已む無く、タクシー乗り場に向かっていると、メールが入り、渋滞に巻き込まれたので、タクシーでホテルに行くようにとの指示。
ホテルにチェックインして間もなく、電話が入る。インドネシア人のビジネスマンであるギルバートさん、初対面であった。彼も義肢装具士学校の国際諮問委員だという。そこへ、インドネシアにおける義肢装具士事業の責任者としてカンボジアトラストが派遣した、元オックスフォード大学教授のピーター・ケアリーさんや、インドネシア人のベテラン整形外科医ハンドヨ博士が合流。まもなく、カーソンさんと一緒に到着した、スリランカ人のビジネスマンのレメルさんも加わり、全員で近所のレストランへ。明日の打合せを兼ねた遅い夕食。


     <ジャカルタの高速道路 渋滞解消には尚、不十分>

今回のホテルは私にとって、初めてのホテル。いつものホテルとは異なり、中心部から大分外れたジャカルタ南郊にある。中級のホテルだが、意外に大規模、且つ近代的で清潔感のある良いホテルだった。ジャカルタ義肢装具士養成学校に近いということでカーソンさん達が取ってくれたもの。
部屋に入って面白いものを発見。水洗トイレの便座の右に何やら見慣れないコックが。良く見ると、日本のメーカー「TOTO」のマークの上に、「washlet-eco」とあるではないか。「ひょっとすると」と思い、そうっと、右のコックをひねってみると、下から冷たい水がピュッと飛び出した。
要するに、電動式ではない手動式のウオッシュレットなので「エコ」と名付けたもののようだ。以前、やはりジャカルタの別のホテルでもっと素朴な、手作りのものを見たことはあるが、「TOTO」のマークつきは初めて。
確かに、暖かい熱帯地方では、水や便座を暖かくする必要はない。この方が製造コストも維持費もずっと安くつく筈だ。「washlet-eco」はなかなかのアイデアと見た。


      <手動式のウオッシュレット「エコ」>

11時10分 成田発
17時10分 ジャカルタ着
20時半 義肢装具士学校関係者で夕食
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