3月3日(水曜日)
<マニラに到着 天気は快晴、気温は33度>
昨夜、日本へ帰国する澤村先生とジャカルタの空港で別れたあと、私とカーソンさんの二人は、シンガポールで飛行機を乗り継ぎ、マニラにやってきた。カーソンさんと一緒というのは、フィリピンにおける義肢装具士学校の開設の可能性を検証するため、ジャカルタ義肢装具士学校の国際諮問委員会の開催に合わせて、カーソンさんにマニラでの関係者とのミーティングをセットしてもらったためだ。
マニラ空港には、昨夏バンコクで日本財団が主宰したIDPP(障害者公共政策学大学院大学)構想に関する専門家会合で会って以来、親しくしているマレーシア人の実業家のトーマス・ヌンさんの車が我々を待ってくれていた。彼がマニラのオフィスで普段使っている運転手付の車を、自分が出張中で空いているからと、好意で使わせてくれたのだった。 <フィリピンで最も権威があると言われるフィリピン総合病院>
ホテルにチェックインして直ぐ、二人して再びトーマスさんの車でフィリピン大学付属フィリピン総合病院に向かう。フィリピン総合病院はフィリピンで一番権威のある総合病院だそうだ。ここのリハビリテーションセンターの所長のブンドック博士に会うためだ。カーソンさんが「Dr.ペニー」と愛称で呼ぶブンドック博士はまだ40代の女医さん。とても小柄で謙虚な人柄からはちょっと想像しにくいが、フィリピンリハビリテーション学会の前会長で、フィリピン整形外科学界の権威。フィリピン最大の私立大学、イースト大学のラモン・マグサイサイ医学センター(UERMMC)の教授でもある。
Dr.ペニー(ブンドック博士)がスライドを使ってフィリピンにおける義肢装具に対する需要と供給の現状を説明してくれる。 <ペニーさんはフィリピンリハビリテーション学会の前会長>
それによると、人口約9000万人のフィリピンの身体障害者は現在296万人。内、三分の一の100万人が肢体障害者と推計される。そのまた、三分の一の34.5万人が義足を必要としていると見られている。それに対し、義肢装具士は全部で47人。一人の義肢装具士に対し、患者が7300人となる。国際的にトップクラスの義肢装具士でも一年に作れる義足の数は、せいぜい250人どまり。フィリピンの場合、義肢装具士の大半は短期間の簡易講習しか受けたことがなく、生産性は低く、年間100人がやっととのこと。
ブンドック博士らが行ったある地方での現地調査では、義足装着の順番待ちが4年以上であった。34.5万人のうち10.5万人は、義足を装着しさえすれば、生産労働に従事できるとみられており、このような義足供給能力の不足は、大変な経済的な損失を意味している。
47人の現職の義肢装具士のうち、国際資格を持っているのは4名のみ。彼らは総て、日本財団などが支援しているカンボジアの義肢装具士学校(CSPO)の卒業生。国際的に通用する資格をもつ義肢装具士の養成を国内で行えるよう教育機関の整備が急務であるという。
ブンドック博士が教授を務めるイースト大学ラモン・マグサイサイ医学センター(UERMMC)では、学部長が、義肢装具士学校の開設に積極的で、敷地内の建物を自分たちの経費で改修して、準備する意向を示している。大学の総長も興味を示しているが、先ず、手順を踏むよう言われてプレゼンテーションの準備をしていたところ、大学の評議員議長である有名財界人がその話を聞きつけ、総長に、なぜぐずぐずしているのかと発破をかけた。そのため、総長がへそを曲げ、危うくこじれる所だったが、その後誤解も解け、今は総長も前向だとか。
イースト大学ラモン・マグサイサイ医学センター(UERMMC)以外でも、マニラ郊外のある地区が義肢装具士学校誘致の名乗りを上げているし、元大統領のラモス氏も軍人の障害者の福利厚生の関連で熱心なサポーターである、等等。
<義足の取替えだけで4ヶ月待たされたという少女 フィリピン総合病院クリニックで>
Dr.ペニーのリハビリテーションセンターを視察して、一旦、ホテルに戻り、服装を着替える。ペニーさんもメンバーとなっている外科医を中心とする国際NGO「Physicians for Peace」のフィリピン支部の代表者の集まりに顔を出すよう頼まれたのである。どういう趣旨の会合なのかよく分からないので、カーソンさんに尋ねるが彼もよく分からないと言う。
ペニーさんの夫君ブンドック博士(彼も整形外科医)の車で連れて行ってくれた場所は、イントラムーロス地区にある由緒ありげなスペイン風レストラン。そこでは、Physicians for Peace(PFP)のフィリピン支部の臨時理事会が開かれていた。PFPはアメリカに本部を置く国際的な医療NGOで、フィリピン支部の場合は、地方での出張診察や、義足装着などを、会員医師のボランティア活動によって行っている。
そこで、私は急に挨拶するよう求められ、日本財団としての東南アジア各国での活動、特に、義肢装具関連を中心に説明するとともに、フィリピンでの今後の学校開設の見通しについて話す。彼らは、私の前向きな説明に安心したのか、その後、自分たちの活動についての話し合いに没入。20人ほどのメンバーが熱心に、真剣に、議論を続ける。
会話は総て、流暢な英語で行われる。我々外国人が傍聴しているからではない。フィリピンのインテリのワーキングランゲージは英語なのである。フィリピンの公用語のタガログ語(フィリピノ語)は87年制定のアキノ憲法以降、次第に広がりつつあるが抽象的な概念を表現するには不向きとされ、インテリや上流階級の会話は尚、英語を使うことが多いようだ。
新たな資金調達のアイデアについて、ウエブサイトの開設について真剣な議論が続く。聞いていると、欧米人の議論を聞いているような錯覚に陥る。こんなことは、フィリピン以外のアジア諸国では感じたことがない。使われている言葉が英語であるからだけでなく、彼らの思考パターンそのものが、アジア式ではなく欧米式なのだ。企業のCSRについて、市民の義務について、ボランティアについて、総てが途上国の発想ではなく欧米のインテリの発想そのものなのである。
こんな立派な議論が出来る知識人、専門職階層が一握りの例外と言うより、かなりの有力な階層として存在するフィリピンの社会が、政治的に経済的に発展途上国のレベルに留まっているというのは一体どう理解すれば良いのだろうか。そんなことを彼らの活発な議論を聞きながら考えた。
カーソンさんと私は、結局、このNGOの会合を二時間近く傍聴することになった。この間、出てきた飲み物はソフトドリンクだけ。食事も、スペイン風店構えには余り似つかわしくないちょっと中華風のチキンライスのようなものが一品だけ。うまいワインかせめてビールと、ちょっと豪華な夕食をイメージしていた我々の予想は大外れ。しかし、考えてみれば自分の打算のためでなく、社会のために貢献しようとしている人たちが贅沢な食事や酒にうつつを抜かしていたのでは話にならない、と納得。「NGO先進国」フィリピンの実力について考えさせられた一夜であった。 <平和医師団(Physicians For Peace)の理事会>
9時45分 シンガポール発
13時15分 マニラ着
15時 フィリピン総合病院訪問
19時 平和医師団(PFP)理事会