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大野修一(日本財団)
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雪害緊急事態宣言のワシントンを尻目に帰国 [2009年12月19日(Sat)]
12月19日(土曜日)

         <ワシントンでは国会議事堂も吹雪の中>
 
時差を調整するため、ホテルでは全く眠らずメールのチェック、このブログの下書きなどをして過ごす。咳は漸く止まったものの、今度は何故かくしゃみが止まらない。風邪をひいたのだろうか。部屋の暖房のスイッチを高めに調節して机に向かう。
明け方、ホテルのテレビを点けるとワシントンのニュース。ワシントンとの時差は3時間もあり、サンフランシスコの夜まだ明けやらぬ4時は、ワシントンでは既に朝7時。


     <ワシントン市長が自ら吹雪の中を登場、雪害緊急事態対策を説明>

早朝の首都では、市長が雪害緊急事態宣言をするなど大変なことになっていた。猛烈な雪吹雪がテレビのスクリーンに映し出される。リポーター嬢は、吹き飛ばされそうになりながら実況中継。そうこうする内に、ワシントン空港を発着する飛行機のキャンセルが次々に発表される。石井君たちはどうしたのだろうか。
結局、出発の朝を徹夜で迎えた私は早めにホテルをチェックアウト、連絡バスに乗って空港へ。サンフランシスコはやや曇り気味なるも、首都の雪害とは無縁。何事もなかったように、飛行機は発着していた。定刻、成田行きの飛行機に乗り込む。


     <ワシントン空港を発着する飛行機のキャンセルを告げるテレビ画面>

再び、11時間余りの飛行時間の大半を殆ど眠ったまま過ごして、気が付いたら成田上空。スチュワーデスにお食事は、と聞かれるがToo late、ほどなく着陸。日本時間は午後3時。日付変更線を越えたので、12月20日、一週間が終わり、日曜日になっていた。
こうして、私の今年最後の海外出張が終わった。今年の通算海外出張回数は18回、延べ158日目の出張最終日であった。


        <アメリカは広い、サンフランシスコは何事もなく平穏そのもの>

8時半 ホテル出発
10時50分 サンフランシスコ発
(翌日)15時05分 成田着
大雪の予想を前に急遽ワシントンを脱出 [2009年12月18日(Fri)]
12月18日(金曜日)
今日は、昨日に次いでアメリカン大学で会議。今日がむしろ本番、コアメンバー3人に我々日本財団のメンバーを加えた6人と、コグバーン准教授、そして吉田君のための手話通訳2人だけで、障害者公共政策大学院設置のための準備会合を行うのだ。タクシー2台に分乗、アメリカン大学に急ぐ。
ところが、外は肌を刺す寒さ、空はどんよりと曇り外気は湿度が高い。雪になりそうな気配が濃厚。デカロさんがテレビの天気予報が夜半からワシントン地方が大雪になると告げていたと教えてくれる。何でも、12月では20年ぶりというほどの規模の低気圧がこちらに向かいつつあると言うのだ。


     <大雪の到来を予感させる空>

我々の成田行きの飛行機は明日朝である。もし、予報どおりの事態が起きると、雪に不慣れなワシントンの交通が大混乱することは丁度20年前にワシントンに住んでいた私自身が実感したところである。それどころか、空港が閉鎖されれば飛行機が飛ばなくなる事態さえ予想される。そうなたったら大変だ、唯でさえ、クリスマスと年末の休暇シーズンを控え、混雑が予想される空の便は大混乱してしまうだろう。何とかしなければと、笹川平和財団米国支部の岩竹さんに電話で相談。彼は、前職が全日空の現地スタッフだったのでこういう時は本当に頼りになる。 結局、デカロさんも今夜のフライトを夕方のフライトに繰り上げることにする。彼のフライトはワシントンではなく、北隣のメリーランド州ボルティモア出発なので早めに出ないといけない。会議も、出来るだけ午後早めには切り上げることにして効率よく進める事にした。
そして、1時前までに、
1) リークアンユー大学院の扱い、
2) @政治的な働きかけ戦略作り、A障害者のデータ調査と需要予測(アメリカン大学国際関係学部が協力)、B授業カリキュラム作り(アメリカン大学国際関係学部が協力)、C授業で使うコンピューターシステムの使用テスト(アメリカン大学国際関係学部が協力)、の4つのテーマ毎にタスクフォースを設けて8月末までにリサーチを行うこと、
3) その担当責任者と予算の対応方針
4) 次回のコアグループ会議とドリームチーム会議を8月中旬にバンコクで行うこと
5) 3月にウエブ上でのコアグループ会議を実施すること
6) 1月中旬からのコグバーン准教授が開講する遠隔授業に障害者9名程度を選抜し参加させてシステムをテストすること
7) 3人の先発奨学生の選抜の方法と派遣先
など、非常にいい雰囲気の中で取り組み方針がスムーズに議論され具体的な今後の段取りが決まった。皆会議の結果に大変満足していた。


     <成功裏にコアメンバー会議を終えて記念撮影>

天候が怪しい上、夕方まで予定していた会議が順調に進んだので、昼食を食べたところで終了。我々日本人組は帰りの飛行機の相談をしに岩竹さんのいるSPF/USAへ。
着いてみると、彼は全日空の知人と私の帰国便をサンフランシスコ経由にするための電話の真っ最中。幸いにも一つだけ席が取れたと言うので、私のみ、岩竹さんに送ってもらって、空港へ急ぐことに。
17時20分のサンフランシスコ行きをとてもらっていたのだが、荷作りに手間取った上、空港への道路がクリスマス休暇シーズン直前の週末のラッシュということで予想以上の混雑。結局、ダレス空港に着いたのは出発時間の45分前。岩竹さんが親切にも車を降りて手伝ってくれたのだが、自動チェックイン機にたどり着くまでに時間がかかった上、セキュリーティーも混雑。結局、ゲートまで走りに走ったのだが、搭乗時刻の10分目を過ぎ、非情にも目の前で、ゲートはクローズ。
全力疾走したのは何年ぶりのことか。私同様に息を切らしている3人ほどの乗客と共に抗議するが埒開かず。幸い、6時45分発で次のフライトがあったので、キャンセル待ちに。余りにも、本気で走ったので、咳が出て止まらない。疲労困憊して、ゲート前の椅子にへたり込む。

      <キャンセル待ちの順番を告げる電光掲示版>
    
キャンセル待ちは生まれて初めての経験。ただ、米国の航空機会社はこれをきちんと制度化し、時々刻々と情報を公開してくれるので、とても分かりやすい。最初は私の名前はキャンセル待ちリストの4番目に掲示されていたのだが、電話で相談に乗ってくれた岩竹さんのアドバイスのお陰で、リストのトップにしてもらう。サンフランシスコから翌日、国際線へ乗り継ぐことを説明したのだ。
だが、そもそも、この便はオーバーブッキングなのでリストのトップでも席が手に入るかは保証の限りではないと言われ、祈る気持ちで待つこと一時間余り。この間、ラウンジのカスタマーサービスに掛け合ったりゲートに戻ったりと、広い空港構内を咳をしながら右往左往。
結局、150人の乗客中5人が搭乗締切時間になっても現れず、私は幸い切符を手にすることが出来た。しかし、キャンセル待ちに名前を連ねた人は全部で17人。10人以上が乗りはぐれ、深夜の最終便に最後の希望をつなぐ羽目になった模様。
私はと言えば、咳は漸く治まったのだが疲労困憊、飛行機の最後尾26列目の座席に座ったとたん睡魔に襲われる、5時間余りの空路の殆どを寝込んだまま過ごしてしまった。
アメリカは広い。5時間余りの飛行のあと、現地時間の夜10時前、ワシントン時間の深夜1時前に無事サンフランシスコに到着。無料の送迎バスに乗って、空港から約10分のホテルに投宿。ワシントン脱出に成功。


8時半 ホテル出発
9時 アメリカン大学COTELCOにてコアメンバー会議
14時半 SPF/USA訪問
15時45分 ホテル出発
18時55分 ワシントン発
21時40分 サンフランシスコ着
アメリカン大学国際関係学部を訪問 [2009年12月17日(Thu)]
12月17日(木曜日)

          <国際関係学部の前に立つコアメンバーたち>

朝8時半、NTID(米国立聾理工学院)院長のデカロさん、ICEVI(国際視覚障害者教育協議会)会長のキャンベルさん、日本財団の石井課長と吉田君、と私の5人はタクシー2台に分乗、アメリカン大学国際関係学院へ。外気は肌を刺すように寒い。天気予報に拠れば今日の最低気温は零下2度、とのことだったが、この寒さはそれ以上。マイナス4-5度位にはなっていたのではなかろうか。
アメリカン大学は、ジョージタウン大学、ジョージ・ワシントン大学と並びアメリカでは首都三大学と呼ばれる名門校。設立は、1893年。米国の初代大統領、ジョージ・ワシントンの「偉大な大学を首都に設立する」という考えに基づき、議会によって特許状を与えられたという由緒ある大学だ。
会議の冒頭、国際関係学部長のグッドマン教授が我々のために、アメリカン大学の沿革と国際関係学部の設立の由来とその背景に流れる思想を踏まえて、今回の会合の目的である障害者公共政策大学院大学の構想に対する賛同と支援を語ってくれた。

        <国際関係学部長のグッドマン教授も登場>

グッドマン教授と私は、日本財団が主催するBABA (Building a Better Asia)セミナーの講師として来てくれたインドのオリッサで、今年の初めに会った。全くの初対面であったが、我々がマニラで始めたアテネオデマニラ大学と国連平和大学とのダブル・キャンパス事業のモデルとなった、アメリカン大学と国連平和大学とのダブル・キャンパス事業の立役者であったことなど考え方の共鳴するところが多く、いきなり意気投合。その時に、ワシントンに来る機会には是非アメリカン大学を訪問するようにと強く勧められたのだった。そして今年の7月、バンコクのBABAの参加者を選考するための専門家委員会で再会した際には、私が、障害者公共政策大学院大学の構想を打ち明け、8月にバンコクで準備のため1回目の専門家会合を開催する予定であると、話したところ、自分の部下で、コンピューター通信を用いた遠隔教育の専門家で、障害者問題に強い関心を持つコッグバーン准教授を紹介してくれたのだった。

     <遠隔教育システムの権威コグバーン准教授>

グッドマン学部長は在位20年以上という大変な実力学部長であるが、長期政権を可能にしたのは彼の学者としての業績だけでなく、タイムリーな新機軸を打ち出す辣腕の経営者としての実績であるのではないかとと思われる。
アメリカン大学の国際関係学部は1957年の設立。学生総数は約3000人で、国際関係学部としては学生総数が全米で第一位と規模的に大きいだけでなく、質的にも全世界ランキング9位を誇る。グッドマン学部長によると、その特徴は、その正式名称School of International Serviceに端的に表れているという。
一般的には International Studies という言葉を使われることが多いが、ここではInternational Serviceなのだ。彼は、第一次戦争中は国防省が接収、第二次大戦中は一部が海軍の施設に転用された、というアメリカン大学の戦争に翻弄された歴史や、1957年アイゼンハワーが国際関係学部の鍬入れ式で述べた平和の希求という言葉、1963年の卒業式の席上でJ・F・ケネディーがソ連に核実験停止を呼び掛けたというエピソードなどに触れつつ、ここの建学の精神「International Service=国際的な奉仕」を強調した。国際関係を、軍縮や、学術的研究の観点からではなく、実践に即した立場から学ぶという姿勢である。

     <遠隔教育システムのデモンストレーション画面>

昨年には、グッドマン学部長のリーダーシップのもと、全米初のASEAN研究センターが設立された。我々が目指す、「世界初の障害者の問題を専門に扱う公共政策大学院をサイバー学習システムを活用してASEANに設置する」という構想についても、SISの建学の精神にも繋がるものがある。是非、協力させて欲しい、と熱意を込めて語ってくれたのであった。
これから全学学部長会議に出席するので、とグッドマン教授が去った後、ASEAN研究センター長、国際コミュニケーションセンター長、など国際関係学部の教授たちが入れ替わり立ちjavascript:;替わり我々のいる会議室に現れ、それぞれの担当分野の説明と協力を申し出てくれた。
コグバーン准教授も専門の遠隔教育システムのデモンストレーション。これなら本番でも使えそうと実感。途中、お昼前に、昨日までに到着していたお二人のコアメンバーに加えて、三人目のメンバー,APCDの二ノ宮所長が参加。バンコクから到着して、ホテルにも行かずそのまま空港から大学に直行してくれたのだ

 
8時半 ホテル出発
9時 アメリカン大学国際関係学部のプレゼンテーション
16時半 アメリカン大学国際関係学部主催夕食会

ベトナム現代史の生き証人、カバントランさんのこと [2009年12月16日(Wed)]
12月16日(水曜日)

          <アメリカン大学の正門>

一足先に帰国するモンゴル置き薬事業の責任者の森さんと一緒に朝食の後、私はホテルの同じレストランで、もう一人の人と会った。ベトナムで長年続いている義足配布事業のパートナーVNAH(Vietnam Assistance for the Handicapped) の責任者カバントラン(Ca Van Tran)さんだ。カバントランさんとは、日本の学校との姉妹校提携をベースにした学校建設事業でも、彼が作ったもう一つのNGOであるHealthEd (Health Education Volunteers)を通じて協力してもらっている。
前回、私のベトナム出張の際は、彼とは同時期ベトナムにいながら行き違いになってしまい会えずじまい。二人でゆっくり話をするのは久し振りだ。 来年度以降の事業の基本方針について意見交換。
何故、ベトナム事業の責任者とワシントンで会うのかと言えば、それは、彼がいわゆる越僑と言われる亡命ベトナム人で、今は米国籍、自宅がバージニア州北部にあるためだ。ここワシントン・ジョージタウン地区からは、車で30分ほどの距離。
カバントランさんの人生は、まさに波瀾万丈。ベトナム現代史の犠牲者であるとともに、ヒューマンストーリーの生き証人だ。
カバントランさんは1951年生まれ。青春期は文字通りベトナム戦争の真っただ中で過ごす。生まれ故郷は中部ダナン近く、南北ベトナムの境界線近くだ。高校1年生の時に、校舎は爆撃により破壊され、彼の学校生活は中断される。そして彼は得意の英語を生かして、米国海兵隊の通訳として生活を始める。
サイゴン陥落の時1975年4月30日、結婚して子供が生まれたばかりの彼はサイゴンの米国大使館で働いていた。この日、ベトコン・北ベトナム連合軍の予想を遥かに上回る急ピッチのサイゴン侵攻により、米軍はついに戦闘放棄を決断、彼は米国大使館から脱出船への乗船許可を与えられる。しかしサイゴンの町中が大混乱に陥る中、愛妻のキムさんとは連絡がつき合流出来たものの、生後2カ月で、姉のもとに預けていた息子を連れ出すことは出来ず、苦渋の決断の結果、赤ん坊を置き去りにして夫婦二人で脱出。
ワシントンに上陸後は、ショッピングモールの掃除人夫を振り出しに、文字通り裸一貫からわずか15年後には4店舗をもつレストランのオーナーにまで上り詰めた。高級住宅街に8寝室の大邸宅を構え、まさに、アメリカンドリームを地で行くサクセスストーリーであった。
この間、彼の姉のもとから手紙が届き、息子が無事で育っていることを知らされる。しかし、ベトナム政府は、息子の出国もカバントランさんの入国も許さなかった。彼の出来ることは、姉あての小包みにそっと米ドル札を忍ばせることだけであった。そして、ある日彼のもとに訃報が届く。彼の姉と兄たち一族13人がボートピープルとしての脱出に失敗、全員死亡したというのだ。
そして、統一後の経済不況と外貨不足に悩んだベトナム政府は、ついに1990年外貨目当てに脱出ベトナム人の再入国を解禁。カバントランさんはそのチャンスを逃さず、第一陣に加わりベトナムを再訪する。彼は17歳になった息子とついに再会するが、ベトナム政府は連れて帰ることは認めない。傷心の彼の心をさらに痛めたのは大勢の傷痍軍人の姿であった。地雷などで腕や脚を失った旧南ベトナム軍の兵士たちが街中の雑踏で物乞いをしていた。
彼は、ワシントンに帰るとすぐに、これら障害者支援のためのNGOを立ち上げた。ベトナム障害者支援組織=VNAH(Vietnam Assistance for the Handicapped)である。しかし、当初、仲間の在米亡命ベトナム人からは自分たちの敵である社会主義ベトナム政府を支援するものとして強い反対を受け、脅迫されるなどの目にあった。一方で、ベトナムに支援に行っても現地では長い間、警察に尾行されたり、尋問されたりするなどの嫌がらせを受けた。
孤立無援の彼を支えたのは夫人のキムさんであった。米国はおろか、助けに行ったベトナムでもスパイ扱いされ、トランさんは何度ももうやめようと思った。その都度、キム夫人が、やめてはいけないと励ましたという。孤立無援の中、トランさんは何年もの間、自己資金でベトナムに渡り、車イスや義足の寄付を続け、障害者のための職業訓練校を作るなどの支援を続けた。
その後、日本財団などが彼のこうした努力を知り支援を始め、今では米国政府やベトナム政府なども彼の事業を支援するまでになった。しかし、その間、彼は活動資金の捻出のため、自分で築いたレストラン・チェーンを切り売りし、結局、手元に残ったのは一店舗だけという。


        <休暇中で閑散としたアメリカン大学のキャンパス>

カバントランさんと別れ、私はワシントンのほぼ北端に位置するアメリカン大学へ。コッグバーン助教授に迎えられ、国際関係学部長のグッドマン教授に会う。コッグバーン助教授はこの8月にバンコクで初会合を行った障害者大学院大学設立準備専門家会合のメンバー、グッドマン学部長は彼を紹介してくれた上司である。大学の食堂で二人と食事をしながら、明日からの会議の打合せを行う。
夜7時、近所のすしバーで、明日から始まる障害者大学院大学設立準備のためのコアメンバー会合のために駆けつけてくれたデカロさんとキャンベルさん、日本財団から到着したばかりの石井チームリーダー(課長)と担当の吉田君の5人で夕食を兼ねた打合せ。


        <歴史の重みを感じさせるアメリカン大学内の建物>

9時半 VNAHカバントラン代表打合せ
12時 アメリカン大学国際関係学部グッドマン学部長表敬
14時半 元IFC菊地さん面談
19時 IDPPコアグループ夕食会
IFCでモンゴル置き薬事業を説明する [2009年12月15日(Tue)]

12月15日(火曜日)

        <国際機関IFCの玄関にもクリスマスの飾りが>

午前中、森さんと一緒に、国際金融公社(IFC)の保健衛生事業の担当者らに置き薬事業の紹介と半官半民事業会社への移管計画を説明した。しかし、残念ながら、結果は不首尾に終わった。
その理由は2つ。第一に、規模が小さすぎるということ。モンゴルで置き薬事業を全国展開した場合、手堅く考えて、置き薬事業に参加する世帯は全国総世帯の3分の1の20万世帯。1世帯当たり年間5ドル配置薬を使用するとして、年間の総売上は100万ドル=約1億円。その場合、粗利は3000万円くらいは確保できると思うのだが、世銀やIFCが扱うには小さすぎるというのだ。
この点はもともと予想できたことであった。しかし、モンゴルでの全国展開は、ミャンマーやタイ、さらにはベトナムなど、モンゴルでの実験に刺激を受けて同様の置き薬事業を開始したり始めようとしている国々に波及する可能性が高く、しかも、こうした国々では、モンゴルの数十倍の人口を有する。事業規模も当然、売上数十億円、利益十億円といったオーダーになる筈である。そうなれば、世銀やIFCの取り扱うレベルになること必至であろう。そもそも、国際機関が対象国の人口規模を考慮することなく、最低規模を設定すると小国は対象になりえなくなってしまう。これでは、国際機関として加盟国に対する責任を全う出来なくなってしまうのではないか、というのが我々の主張であった。
しかし、それにしてもこの規模では、というのが現場の反応であった。

         <モンゴル置き薬事業を説明する森さん>

また、IFCの保健事業の担当者からは、IFCが支援する事業において使われる医薬品としては、臨床試験で安全性が立証されている近代医薬品を使うべきで、万一、伝統薬品を使って事故が起き、損害賠償を求められた場合に対応できないという声が上がった。これまで扱ったことのない伝統医薬品を使うことにはかなり抵抗があるようであった。我々は、WHOが最近、伝統医薬品の使用を予備かけている、と昨年の北京宣言などの例を挙げて説明したが、ついに最後まで、彼らの誤解を解くことは出来なかった。
しかし、その直後に場所を変えて行った一般の職員を対象にした日本財団に関するプレゼンテーションの中でも、モンゴルなどでの置き薬事業を日本財団が実施しているユニークな事業の例として取り上げて説明したところ、今度は大変好意的な反応が相次いだ。これは、今回の訪問の企画から準備全般にわたって全面的指導アドバイスいただいたIFC専門家の田中さんが、様々なセクションの人々に参加を呼び掛けてくれて行った25名ほどを対象にした自主勉強会形式のミニ講演会であった。


      <昼食セミナーでは私が日本財団をプレゼンテーション> 

30分ほどのプレゼンテーションが終わるとすぐに沢山の好意的なコメントと質問が相次いだだけでなく、大勢の参加者がプレゼンテーションが終わったあとも、我々のところにやってきて追加質問をしてくれた。非常にユニークなシステムであり、何らかの協力を考えたいといって、名刺を置いて行ってくれた人も多かった。
今後の協力まで約束してくれた人が多数いたことで、午前の会議で若干、萎れていた我々の気持ちはいっぺんに回復した。取り敢えずは、IFCの田中さんのご配慮で、私が来月中旬に北京に別件で出張するのに合わせて、世銀・IFCの北京事務所でモンゴル事業担当の責任者や保健事業の担当者などにもう一度、説明する機会を設けてくれることになった。
午後、IFCからスピンアウトする形で設立されたGrassroot Business Fundにハロルド・ローゼン所長を訪ね、カンボジアでの事業を中心に意見を交換。
ローゼン所長の取次により、私が20年前に世界銀行に勤務していた時代の上司であったアーミントン博士に再び会うことが出来た。久し振りに会うアーミントン部長は今年70歳。今も元気で世銀の引退後も、アフリカの若手企業家を育てるための教育NGOを設立、忙しく働いていた。20年ぶりに彼の自宅に行き、夫人のキャシーさんにも会い、懐かしい時間を持つことが出来た。アーミントン博士にもモンゴルの事業について話したところ、大変興味を持ってくれ、翌朝には、経済開発の専門家の立場から、今後の進め方について、長文のeメールが届いた。地方住民を巻き込む形での市民参加型の企業体による運営という提案であった。忙しい時間を割いて親切なアドバイスをくれた彼の変わらぬ人柄に感激。


        <IFCの一階吹き抜けには加盟各国の国旗が>

10時半 IFCモンゴル置き薬事業打合せ
12時半 IFC日本財団事業プレゼンテーション
14時半 SPF・USA訪問
15時 GBF訪問
16時半 WILFAアーミントン所長
久々のワシントン行き [2009年12月14日(Mon)]
12月14日(月曜日)

       <クリスマスの飾りつけを付けた市内ジョージタウン地区の銀行>

2年ぶりにワシントンに出かけた。12時間の長旅の後ワシントン上空に着き、順調に着陸するかに見えた全日空機が突然機首を返しエンジン全開で急上昇を始めた時、乗客は驚きの声をあげた。着陸寸前、滑走路の上で突然濃霧が現れたため機長はとっさの判断で着陸やり直しを決断したのだとか。安定飛行が確保できる高度に達して旋回を始めた飛行機から外を覗くと、青空が広がる好天の中、何故か丸く一部だけ、飛行場をすっぽり包む形で白く厚い雲が覆っていた。今回の出張の波乱の幕開けであった。

          <霧のワシントン・ダレス空港>
       
今回の出張の目的は二つ。第一には、世界銀行グループの一つ、国際金融公社(IFC)でモンゴルでの置き薬事業の全国展開のための協力策を打合せること、第二には、ASEAN(東南アジア諸国連合)事務局と協議中の障害者のための公共政策大学院大学の準備会合を開くこと。
前回のモンゴル訪問時、モンゴル保健省でランバー大臣から置き薬事業を全国展開してほしい、これは大統領の意向でもある、との申し入れがあった。これに対し、私の方は、日本財団の基本的立場は、あくまで一部の地域で実証実験を行い、その有効性が確認できれば政府に引き渡して撤退する、というものであり、全国展開はモンゴル政府の責任、と申し上げた。
しかし、モンゴル政府には全国展開するだけの財政力が無いという。ならば、世銀などの参加も得て、モンゴル政府も日本財団も出資して半官半民の事業会社を設立し、そこが独立採算ベースで置き薬事業を展開することにしてはどうかと提案、賛同を得た。日本財団は今後二年間をそのための準備期間と考え、現状の1万世帯を2万世帯にまで拡大することにした。


       <クリスマスのワシントン市内、不景気のためか今一つ活気なし>

今私が、国際機関の介在が必要と考えたのは、モンゴル国内の不安定な政情を考えると、新設する事業会社の経営の中立性と健全性を担保する上で、権威のある組織の関与が有効であるとの判断からであった。既に、世界銀行グループで、民間企業や民間財団を対象にするために設立された国際金融公社(IFC)の担当部門の責任者ダン・ランディ氏とは、彼が東京に出張してきた際に会って、この構想を打診している。その時点では、1万世帯と言う現状の規模ではIFCの扱う金額としては桁外れに小さい、ということであった。今回は、モンゴル政府との合意を基に、モンゴル国の総世帯数60万の3分の1の20万戸がこの事業の顧客になるという想定の下に、ワンセンブルウ理事長の森さんと当財団担当の中嶋君にフィージビリティースタディー(採算性調査)をやってもらい、その結果を持参し森理事長を伴ってのワシントン行きであった。


         <夜の国会議事堂とクリスマスツリー>

11時10分 成田発
09時40分 ワシントン着
12時 SPF・USA岩竹さん打合せ
18時 IFC田中さん打合せ
尾形理事長と同日、別便で帰国 [2009年12月06日(Sun)]
12月6日(日曜日)

    <帰国便の機上から 富士山の山頂がくっきり見えた>

足の痛みが悪化したため、ベトナム行きをキャンセルし、ラオスからバンコク経由で帰国することになった尾形理事長と同行の佐藤グループ長に合流した私は、ホテルから同じ車で飛行場に向かった。帰国便はほぼ同じ時間ながら航空会社が異なったので、チェックインを見届けて別れ、一人で帰国。

       <タイの英字新聞国王誕生日特別記念版の第一面>


8時15分 バンコク着
16時00分 成田着
国王誕生日のバンコクはピンク一色 [2009年12月05日(Sat)]
12月5日(土曜日)
午前中、ESC代表の山田さんと昨日の理事会を踏まえて今後の運営について協議した後、昼食を摂らずホテルを出発。空港に向かう途中で、プノンペン名物の何でも揃う屋根付き大型市場「ロシアンマーケット」へ。いつもなら、ここで好物のフランスパンにレバーパテなどを大根とにんじんのなますと一緒に挟んだベトナム風サンドイッチ「パンパテ」を食べるところだが、昨日飽食したので今回は断念、パン屋さんを横目に通り過ぎる。

     <プノンペン名物フランスパンは仏領植民地のプラスの遺産?>

何故か「ロシアンマーケット」と呼ばれる市場だが、ここはパソコンソフトから衣料品やバッグなど偽物も含め何でもござれの安物市。外国人観光客目当ての骨董屋もあったことを思い出して、クメール焼きの骨董品が売られていないかと、久し振りにやって来たもの。
しかし、残念ながらそれらしきものは見つからず。市場の中の瀬戸物屋を何軒か当ってみて、ここで売られている陶器が総てベトナム製であることを再確認。幻のクメール焼き復活事業の将来に夢をはせる。


     <市場の中の瀬戸物屋 ベトナム製ばかり>

再び、バンコクへ向かうべくタイ航空機に。やはり、帰りの便も来た時と同様ガラガラだった。今日はタイのプミボン国王の82歳の誕生日。タイ航空機の機内では、大型スクリーンで国王を賛美する特別番組を上映。機内で配られたタイ発行の英字新聞も国王誕生日特別記念版で、大部分が国王に関連する記事ばかり。
バンコク市内ではピンクのシャツを着た市民の姿が目立った。APCDの二ノ宮所長と一緒に夕食のために入ったレストランでもピンクのシャツを着た若者のカップルが入って来た。


    <ピンクのシャツを着て祝意を表す市民たち>

従来は、国王への敬愛を表すシンボルとされてきたのは、国王の誕生日である月曜日の色とされる黄色のシャツであった。ところが、タクシン元首相を反王室的であると非難した反タクシン市民運動が団結の証として黄色のシャツを着用するようになり、これに反発したタクシン派は赤いシャツを採用。そのため、黄色いシャツは単純な国王崇拝のシンボルではなく極めて党派的な意味合いを持つことになってしまった。そのため政治的関わり合いを嫌う市民は、プミボン国王が着用したピンクのシャツに着目、国王との連帯をピンク色のシャツを着用することで表そうと考えた、という訳だ。
 
     <テレビのアナウンサーもピンクのネクタイ>

従って、この日は町角はおろか、テレビ番組でも、アナウンサーがピンクのネクタイを締めるは、若いタレントのグループもピンクのシャツで勢揃いするはと、ピンク一色。老若男女を問わず、タイにおける国民の間の国王への敬愛の深さを改めて認識させられた思いであった。
今回国王は高齢の誕生日の式典のために、入院先のマヒドン大学シルラート病院を数時間だけ抜け出し、式典が終わると再び病院に戻って行かれた。高齢で病気がちの国王に万一のことがあれば、この国の政治情勢は一挙に不安定化するのではないかという事態が現実のものにならないことを祈るばかりだ。


     <若いタレントもピンクの衣装で>
 
11時 ESC山田代表
13時 ホテル出発
15時40分 プノンペン発
16時50分 バンコク着
19時 APCD二ノ宮所長
国立クメール伝統医療学院へ [2009年12月04日(Fri)]
12月4日(金曜日)

     <国立クメール伝統医療学院でイムヤン次官らと会議>

朝10時、国立クメール伝統医療学院へ。ここは、日本財団の資金協力でことしから始まったカンボジア初の伝統医を教える学校。つい先週、一期生50名が卒業したばかり。僧侶、警官、公務員、主婦などもいるが、大部分は、現役の伝統医療治療師。半年にわたって薬草学、病理学、解剖学、鍼灸などを学んだ。
カンボジアではクメール帝国の流れをくむ立派な伝統医学が存在するのだが、その伝承は、おもに地方で活躍する伝統医療師の世襲などによる継承にまかされ、その体系化と知識の整理が遅れている。この学校は、そのような現状を踏まえ、保健省伝統医療局長のプンレイ博士らの提案を受けて始まったもの。ゆくゆくは、ミャンマーのマンダレーにある国立伝統医療大学のような本格的な高等教育機関に育てていくことを目指している。
私は、今回、イムヤン次官ら保健省幹部らと、来年度予算について協議した。先週、日本財団の担当者の中嶋君が薬用植物の専門家の佐竹教授らと卒業式のため来訪した際、既に一度協議してくれてはいるのだが、いくつか、基本的な問題で双方の見解が大きく異なっていたため、改めて協議することにしたもの。結局2時間ほどの会議で何とか先方の理解を得ることに成功、今後の協力を約し友好裏に握手して別れた。
保健省での協議の最中に、財団の佐藤グループ長から電話。ラオスを訪問中の尾形理事長の足の痛みが悪化したため、ベトナム行きをキャンセル、日程を切り上げバンコク経由で帰国することにしたという。バンコクでの合流を確認。
一旦ホテルに戻り、ロビーで、現地ミニコミ誌「NyoNyom」の発行人の山崎さんとクメール焼き復活プロジェクトなどについて相談。そこへ、14時半から面談する予定の篠原前駐カンボジア大使が早めにご登場。僻地の中学校の教員の卵を相手にした奨学金事業のために設立した現地NGO「ESC絆」の運営と、近々BBCと組んで始めることになったラジオによる英語教育放送事業などについて説明する。大使には、「ESC絆」の名誉顧問に就任していただくことで内諾を得る。


      <「ESC絆」の理事会へ。久し振りに、理事全員が揃う>


そのあと、「ESC絆」の理事会へ。久し振りに、理事全員が揃い、BBCとのラジオによる英語教育放送事業など来年度予算について審議。山崎さんに代わりJICA専門家の河本さんが監事に就任することも決定。その後、全員で鉄板焼きレストランで夕食会。今回も、カンボジア料理は食べそびれそう。


   <プノンペンの町角で(1)今日は大安吉日、後ろのテントは結婚式披露宴用 >


     <プノンペンの町角で(2)中国の支援がこの国でも目立つ>


    <プノンペンの町角で(3)韓国資本によるニュータウン「CamKoCity」の看板>

10時 国立伝統医療学院
12時半 NyoNyom山崎さん
14時半 篠原前駐カンボジア大使
17時半 ESC理事会
19時半 夕食会
がらがらのタイ国際航空プノンペン便 [2009年12月03日(Thu)]
12月3日(木曜日)
当初希望していた、バンコク県知事のスクムパンさんの自慢の才色兼備の副知事、タヤ・ディープスワンさんとのアポが取れなかったので、午前中はホテルでメールチェックなどをして過ごす。お昼過ぎに、朝日新聞バンコク支局の山本記者と面談の後、空港へ。

     <町の浄化を訴えるスクムパン都知事の顔写真入りのポスター>

カンボジアに向かうべく、タイ国際航空機のプノンペン便に搭乗してびっくり。中はがらがら。これまでに、何十回もこの便を利用しているが、こんなに空いているのは初めて。最近の、カンボジア・タイ間の不和の影響で、ビジネス客の往来がぐっと減ったためであろう。現実に、私が知るだけでも、両国政府の官僚間の相互訪問計画が取りやめになったり、無期限に延期されたり、という話はよく耳にする。
プノンペン空港に出迎えてくれた運転手のソルヤ君にも聞いてみると、タイからのお客さんがぐっと減っているという。一方、彼も含めてカンボジア国民の間には、タイに対する不満・不信の声が強くなっているようだ。
その裏には、歴史上の長い相克の歴史に加えて、近年、フンセン長期政権の下での政治的安定を背景に、ASEAN一と言われる高い経済成長を実現し急速に自信を付けて来たカンボジア国民の、これまでその繁栄を指をくわえて見ざるを得なかったタイに対する屈折した感情が潜んでいることも事実であろう。
これまで、国際政治的には比較的に安定していると思われて来た両国関係に突然表面化した相互不信の存在に、国境を接する二国関係の難しさを再認識する思いであった。

 
    <竣工したばかりのカンボジア政府閣僚理事会ビルの堂々とした威容>
 
 13時 朝日新聞バンコク支局山本記者
16時 ホテル出発
18時55分 バンコク発
20時10分 プノンペン着
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