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大野修一(日本財団)
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犬山城 (01/18)
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ヤンゴンへ移動、バンコク空港で5時間の乗り継ぎ [2009年11月30日(Mon)]
11月30日(月曜日)
朝8時、ホテルを出発、ラジャさんと一緒に空港へ。今回彼がしきりに驚いていたのは、私の荷物が11日間と言う日程の割に少なかったこと。その秘訣は、第一に皺になりにくい素材を使ったスーツ上下とズボン共通の半そでサファリジャケット上着をコンパクトに畳んで入れていたことと、衣料品の圧縮袋にダウンジャケットや、下着などを真空状態にして収納していたことにある。結局、この方法で、私の荷物は衣料品は総て小振りのガーメントケースに詰め、コンピューターや書類などその他の荷物は、小型のスーツケースに纏めて入れていたので、総て、機内に持ち込むことが出来た。ラジャさんに、ダウンジャケットがタイトに圧縮されているのを見せたら、あんまり感心してくれるので、予備に持っていた新品の衣料品圧縮袋をあげたら大変喜んでくれた。

          <ラジャさんが驚いた私の軽装>

バンコクへ行きスリンASEAN事務局長と合流して、日本に行くという彼とはタンソンニュット空港でお別れ。私は、別の便でバンコク経由ヤンゴンに行かねばならない。
バンコク空港では、5時間の乗り継ぎ。メールをチェックしたり、書類を読んだりして過ごす。


       <美しいヤンゴンの町は私の一番のお気に入り>

夜7時前、やっとヤンゴン空港に着く。1年間有効の無償ビザを持っているので国境管理はスムースに完了、空港出口に出ようとして呼び止められる。だれも来ていないと思っていたのに、元外交官で今は笹川平和財団の事業を手伝ってくれているOさんが出迎えてくれたのだ。
今回、彼の息子が日本財団が企画・助成している国連平和大学アジア分校プログラムに応募してくれたが、残念ながらミャンマー人一人の枠に10人以上が応募するという難関で不合格となった。
実は、審査書類が閉め切られた段階では私たちは彼の息子が応募したことさえ知らなかったのだが、ちょっとした手違いで彼の書類が不受理とされて彼から私に問い合わせがあったことから、我々は本件に関わることになった。
調べたところ、国連平和大学側の取り扱い原則に関する勘違いから不受理になったことが判明。こちらからの指摘で、大学側事務局も方針を変更し、申請書類を受理し他の受験者同様に審査してくれたが合格にはならなかった。


      <この国ではインド式に男性もロンジーと呼ばれる腰巻を付ける>

物静かな、Oさんは自分からは何も言わなかったが、私の方から、日本財団の個人ベースの案件への不介入原則を説明し、了解を求めた。これに対し、彼はむしろ、一旦不受理とされた書類を受理しちゃんと審理してもらったことを大変感謝していると述べた。
そして、ぽつりぽつりと、自分の息子への思いを語り始めた。Oさん自身は、ミャンマー外務省を数年前に退職している。最後のポストは課長だが、今受け取っている年金は月額5ドルという驚くほどの小額。今回不合格となった一人息子は国連機関の現地雇員として働いており、家計は妻と二人だけなので笹川平和財団の仕事を手伝うことで何とか生活できている。
元々、双子の男の子がいたのだが90年代に二人を亡くし、この息子のためだけに全てを捧げて来た。幸い、在外公館勤務を利用して、息子にはオーストラリアの大学を卒業させるなど高い教育を受けさせることが出来た。息子は、ミャンマー国内で国連機関に現地採用され、先のハリケーン被害の時も率先して被災地に駆けつけるなど人道援助に汗を流しているが、学部卒のままでは将来が限られているので、幹部候補生となるべく国連平和大学のマスターコースに応募したのだ、ということであった。来年もあるし、日本財団の奨学金対象外だが、本校のコースに応募する道があるので、あきらめず頑張るよう息子さんに伝言してもらうよう伝えた。


        <ここでもホテルはクリスマスの飾り付け>

8時 ホテル出発
11時25分 ホーチミン発
12時50分 バンコク着
17時55分 バンコク発
18時40分 ヤンゴン着
19時45分 ホテル着
福村さんと武田杏奈さんのコンサートに感激 [2009年11月29日(Sun)]
11月29日(日曜日)

 <ホーチミン国立音楽院オーケストラの指揮をとる福村芳一さん>

ベトナムで義足配布など障害者関連で幅広く提携している現地NGOパートナーのVNAHのハイ所長やら、ASEAN事務局長特別顧問のラジャさんらと夕方まで仕事の打合せなどを行う。そのあと、古くからの友人と会うというラジャさんと分れ、一人で一旦ホテルに戻り、シャワーを浴びて服も着替える。
今夜はホーチミン国立音楽院でのコンサート。遅れてはいけないと思う余り早めに出発したら30分も前に着いてしまった。会場となる筈のホールの前にはベトナム国営テレビの大型バスが横付けされている。数人の作業員の姿はあるものの、観客らしき人はまだ誰も来ておらず、がらんとしている。昨夜頂いたチケットに従い、まん中、前から3列目のVIPと大書された席に一人腰掛けて周りを見渡してみる。2階席も合わせると500人ほどが収容できるかという比較的小規模なホールは、日本政府の支援によって10数年前に作られたものだそうだ。


      <三々五々集まって来たコンサート会場の観客>

しかし、10分たっても、20分たっても殆ど人が現れない。まあ、南方人は時間にのんびりしているからと一人慰めてみるが、ラジャさんさえ来ない。ベトナムは比較的クラシック人口が多いとは言え、入場料がたったの1ドルでもなかなか観客を集めるのは難しい、と昨夜の席で福村さんが言っていた言葉を思い出す。音楽を楽しみたいと思っても、生活水準から言えば、ベトナムの個人所得は日本の50分の1と言ったところか。即ち、1ドルのチケットは5千円の重みを持つ。国立音楽院のフオン院長によれば、前回10月末のコンサートは入場券が7ドルから30ドルだったにも拘わらず大成功だったために、今回は国営テレビ局からテレビクルーが録画に来ることになった、というのだが、、、。
そんなことを思い出しながら、果たして会場が埋まるのか心配しているうち、定刻5分前になった。すると、どうしたことだろうか、急に人が入ってきた。ラジャさんも定刻ぎりぎりに到着。盛装したオーケストラの団員も開演時間を5分ほど過ぎたころ登壇、最後に福村さんが登場して漸くコンサートが始まった。後ろを振り返ってみると、4分の3くらいの入りか。
しかし、いざ始まってみると私は、予想をはるかに超える美しい音楽に感動してしまった。昨日の夜、オーケストラの仕上がり状態を尋ねた私に、福村さんは「なかなか思ったようにならないので、先程までのリハーサル中は罵倒の連続でしたよ」と仰っていたので、その言葉を真に受けていたのだ。今夜の出し物は、ドボルザークの弦楽のためのセレナーデ、サンサーンスのロンドカプリオーゾ、モーツアルトのジュピターなど。


     <17歳の天才バイオリニスト武田杏奈さんも力演>

特に素晴らしかったのは、中段でラベルのツィガーヌ、ハンガリー舞曲など数曲のみオーケストラと共演したバイオリニストの武田杏奈さんの演奏であった。彼女は日タイ混血の17歳。10歳という若さでタイの音楽コンクールで優勝、注目された。現在は、タイで事業を営むご両親と別れて、洗足学園高等学校音楽科2年に在学中。
武田さんは今年8月、日本財団のランチタイム・コンサートで初めて演奏を聴いた。そのときは、ピアノの伴奏のみ。今回はオーケストラを従えて堂々の演奏。バイオリンの音色も美しく、素人の私が言っても迫力はないが、圧倒的力量に神々しささえ感じた。
今回は、自身の演奏を終えると、コンサートの終演を見届けることなく空港へ。授業に間に合うよう、深夜発の夜行便で日本に帰国してしまった。
久し振りのオーケストラに素人ながら感動した私が、帰り道思い出していたのは、ホーチミン在住の盲人のコンピューター専門家フックさんのこと。彼が音楽ファンで、大学入学を認められなかった頃、ピアノを習っていたと言っていたことを思い出し、彼に声をかけてやらなかったことが悔やまれた。あんなに席が開いていたのだから、障害者など普段優れた生の音楽に接することの少ない人たちを招待することを提案すればよかった。盲人には失われた視力を聴力でカバーするという力が働くのか、音楽に優れた人が少なくないのだ。

     <無事終了、大変な喝采を浴びる>

9時 VNAHタインさん
12時 ラジャさん、VNAHハイ所長と打合せ
15時 ラジャさんと打合せ
20時 国立音楽院交響楽団コンサート
福村芳一さんのコンサートを聴きにホーチミン市へ [2009年11月28日(Sat)]
11月28日(土曜日)

             <ホーチミンの街も随分綺麗になった>

ラジャASEAN事務局長特別顧問とハノイを発ち、ホーチミン市へ。目的は日曜日に行われる福村芳一さんのコンサート。
ハノイ・ホーチミン間は2時間のフライトだ。政治都市である首都ハノイを東京とすれば、商都ホーチミン市はさしずめ大阪と言ったところであろうが、日本の2大都市の間隔が500キロであるのに対し、ハノイ・ホーチミン間は1600キロ余り。日本の協力による新幹線建設構想があるが、果たして両都市をつなぐ高速鉄道が実現する日は来るのだろうか。
ハノイからの飛行機の中でもらった英字紙Vietnam Newsには、福村さんの今回のコンサートのことが、バイオリンソリストとして共演する武田杏奈さんと並んだ写真入りで大きく出ていた。
ホーチミンのタンソンニュット空港に着いた我々を福村芳一さんがご自身で迎えてくれたのにはびっくり。コンサート本番を明日、日曜日の夜に控えて、本来なら最後のリハーサルに忙殺されている筈。本当に申し訳なく、大恐縮。3人で車に乗り市内へ。10数年ぶりというラジャさんは町がきれいになったのにびっくり。


      <新しく出来たフォーの店、グエンカオキ元南大統領夫人が経営者とか>

福村さんは、私より2年先輩だが、私が大学生時代、20代で早くも、京都市交響楽団を指揮して颯爽とデビュー。その後、名古屋フィルを始めとする有名オーケストラの常任指揮者となり、テレビなどでも大活躍した。おまけに、モデル出身の美人女優の真理アンヌさんと結婚するなど私たちの世代にとっては大変なヒーローだった。ところが、その後、彼の消息は殆ど聞かれなくなっていた。
私は、レコードファンだった父親の影響で、若いころクラシックのレコードは良く聴いていたが、その程度のことでクラシックファンと言えるものではない。福村さんの活躍もテレビで見るくらいで、コンサートに足を運んだことは一度もない。
そんな私が、福村さんのその後の活躍を知ったのは最近のこと、共通の知人に紹介されて以来のことだ。その後は、ときどきお会いして音楽のことを伺ったり、途上国のことなどを肴に、楽しくお酒を飲ませてもらっている。
福村さんは、保守的な日本のクラシック界と袂を分かち海外に飛び出したあと、今では発展途上国のオーケストラの育成と指導に情熱を掛けておられる。「全くお金にはならないんですよ」とボヤキながらも、南米やアジアを中心に世界を飛び回っておられる姿には本当に頭が下がる。90年代の初めのハノイで、ないない尽くしのベトナム国立交響楽団の再建に奮闘する様子は、フジテレビ(?)のドキュメンタリー番組となって放映され評判になったが、彼が手掛けたオーケストラは、中国、香港、台湾、韓国、シンガポール、フィリピン、タイ、インド、キューバ、コロンビア、コスタリカ、メキシコ、ウルグアイと各国に及んでいる。


     <あちこちに、新聞などの売店を併設する公衆トイレも出来た>

今度、ホーチミン市のオーケストラを指揮するが、都合を付けて来ないか、と福村さんからお誘いいただいたのは1、2か月ほど前のこと。その時は、うまく日程を合わせられるか定かではなかったが、ハノイでの会議がたまたま、直前の金曜日になったことから、急に現実味を帯びた話になった。
ASEAN事務局長特別顧問のラジャさんにも、一緒に行かないかと打診したところ、都合がつけば是非、とのことになった。彼にも以前から、アジア各国のオーケストラの指導に東奔西走する福村さんのことは話してあったが、たまたま最近、ASEAN事務局長のスリン博士の出身地ナコンシタマラートで、ASEANの記念行事として、タイランド・フィルハーモニック・オーケストラのコンサートが行われたということもあり、ラジャさんもASEANのクラシック音楽事情に興味を持ったようだった。
ホテルチェックイン済ませ直ぐに、ベトナム料理のレストランへ。福村さんのハノイ時代からの友人で出光興産のホーチミン所長の三木さんと、ホーチミン国立音楽院院長のフオンさんも一緒だ。


           <公共交通機関のバスも増えた、しかし、、、>

食事の席で話題になったのは、ASEAN諸国のクラシック音楽事情と、そこに占めるベトナムのユニークな位置。福村さんによれば、ASEAN諸国のオーケストラは大半が自国民だけではハイレベルのオーケストラを編成することが出来ず、白人を中心に外人部隊が活躍しているところが多いという。ベストはシンガポール・シンフォニー・オーケストラだが、その団員の約3分の1は外国人とか。ラジャさんも、タイランド・フィルハーモニック・オーケストラの場合も外国人が目立った、という。一方、ベトナムでは曲がりなりにも殆どが自国民。
ホーチミン国立音楽院院長のフオンさんの話では、全国に国立の音楽院が3か所もあり、ホーチミン市だけでオーケストラが2つもあるというから驚きだ。福村さんによれば、それは旧宗主国のフランスと、社会主義のパートナーのソ連という、二つのクラシック大国に深い影響を受けたからだそうだ。
来年、ベトナムがASEAN の議長国になるのを機会に、この際、ASEAN国民からなるASEANオーケストラを編成し、ASEAN結成記念日などに記念演奏をしてみてはどうか、というアイデアでこの食事の席は大いに盛り上がった。


              <まだまだ主流は、オートバイ>

11時 伝統医療局マイ博士
13時半 ホテル出発
15時00分 ハノイ発
17時00分 ホーチミン着
19時 夕食会(出光興産三木所長、国立音楽院フオン所長) 
初めてのハノイ市内見学、ホーチミン廟へ [2009年11月27日(Fri)]
11月27日(金曜日)

     <レーニンの立像の前では若者たちがサッカーに興じていた>

朝9時半、保健省の車でマイ博士が迎えに来る。ASEAN事務局長特別顧問のラジャさんと3人で保健省へ。伝統医療局カイン局長らとの会議を再開、昨日に続いて、来年の第2回ASEAN伝統医療会議について打合せ。タイ政府保健省との連携、ASEAN事務局との関係、日本財団への助成申請手続きなど細目を協議。

     <カイン伝統医療局長らとの昼食はハノイ名物魚鍋チャー・カー>

昼食後、国立医科大学の伝統医療学の教授であるフオン博士らが我々二人をホテルに送ってくれる。何故、ホテルに戻るのかと訝しがって尋ねると、食後は休憩するでしょうから、午後の協議は休憩の後、3時くらいからではどうか、と言う。我々には、昼食後の昼寝の習慣がないのでこのまま続けて残りの仕事を片付けよう、と提案。急遽、ホテルのロビーで会議の続きをすることに。
そこで、ASEAN伝統医学会議に加えて、置き薬事業の試行実験などにつき、日本財団として財政支援をして貰えないかとの打診を受ける。原則的にOKなので、早急に申請書類を作成してもらうことに。
これら協議を終えると、何か見たいところがあるか、と聞かれたので「出来れば、伝統医療関係の研究所などを見学したい」と申し出るがそれには反応なし。どうやら、予め上層部の許可を取っていないことはしたくない模様。市内観光はどうかと提案される。ベトナムには何回も来ている筈のラジャさんも、ほとんど観光はしたことがないというので、3時半過ぎに、揃って出発。考えてみると、ハノイには恐らく20回以上は来ている筈の私にとっても、初めての市内観光だった。

              <ホーチミンの遺言を無視して作られた廟>

9時半 ホテル出発
10時 保健省伝統医療局カイン局長面談
12時 昼食会
13時 保健省伝統医療局会議
15時半 市内見学(文廟、ホーチミン廟)
19時 夕食
ベトナム政府と伝統医療事業を協議に [2009年11月26日(Thu)]
11月26日(木曜日)

     <ハノイのホテルロビーのクリスマスの飾り付け>

成田から一人ハノイ行きの飛行機に乗り込む。ハノイでは今夜、ASEAN事務局長特別顧問のラジャさんと一緒に、ベトナム保健省でシュエン副大臣に面談することになっている。忙しい二人のタイミングを合わせようと苦労した結果、今日の会議は夜7時からということになった。
会議のテーマは、来年の第2回ASEAN伝統医療会議をベトナムで開催することと、伝統医療に関する事業の検討。いずれも、資金面など日本財団の全面協力が前提だ。
私にとって密かな目的は、ASEAN事務局長特別顧問のラジャさんとじっくり話し合うこと。超多忙なため普段なかなか時間が合わず、電話で捕まえるのも困難な彼を、今回はハノイで2泊、ホーチミン市で2泊独占できる。日本財団が彼と一緒に進めつつある諸々の事業の話をこの機会に一気に詰めるのが私の狙いだ。
ハノイ空港には、保健省伝統医療局から担当のマイ博士が迎えに来てくれていた。一足先に着いたラジャさんはホテルで待っているという。保健省の車でホテルへ。ホテルのロビー中央には大きなクリスマスの飾りつけが置かれていた。


           <ベトナム保健省の建物>

夕方6時半、ラジャさんと一緒に保健省差し回しの車に乗り込み、15分ほどで保健省へ。マイ博士に案内され3階の会議室へ。しかし、保健省の建物の中は無人。日本の官庁なら、この時間はまだ、大勢の人でごった返しているはずだが。
案内された会議室には、伝統医療局長、国際局次長ら6、7人の幹部職員が勢揃いしていた。名刺交換などして待つうちに、シュエン副大臣が入って来た。ホーチミン市から先ほど、ハノイ空港に戻ってきたばかり、明日は再びホーチミンにとんぼ返りするのだという。何とこの会議のためだけにハノイに半日戻って来たのだそうだ。真剣さが伝わる。
副大臣とは2007年1月に会って以来、二回目。以前、WHOと組んで日本財団が支援した基礎薬品普及事業当時、ある省政府でその事業の責任者として担当した経験があり、日本財団のことは今も感謝していると、会議の冒頭に日本財団への謝辞。
早速、本題に入る。今年8月、バンコクで行われた第1回ASEAN伝統医療地域会議に参加した伝統医療局長を団長とするベトナム代表団から報告を受けた。ついては、第2回ASEAN伝統医療会議を是非ベトナムで開催させてほしい、ベトナムには他の国に負けないほどの、伝統医学の歴史と医療現場での応用の実績がある、また、保健省を始めこれまで沢山の国際会議主催の経験があり、必ず成功させて見せる。
この会議をもともとASEAN事務局に提案し、タイ保健省と企画し、資金助成をしてきたのは日本財団であるが、第2回目の開催地をベトナムにするのは、ベトナムが来年はASEANの議長国であることからも自然の流れであり、ASEAN事務局としても異論もない、ということで、ベトナムでの開催で合意。開催時期としては、気候的にもベストシーズンである10月末か11月初めとすることになる。
詳細については、明日引き続き伝統医療局長らと打ち合わせることとし、ホテル内のレストランに移動、副大臣主催で夕食会。残念ながら私の大好物のベトナム料理ではなく、中華料理だった。


     <夜景も明るくなったハノイの町>
 
11時00分 成田発
15時10分 ハノイ着
18時半 ホテル出発
19時 保健省シュエン副大臣面談
20時半 夕食会
ニューヨーク経由で帰国 [2009年11月22日(Sun)]
11月22日(日曜日)

     <ニューヨークは快晴>

朝6時、前田常務と二人で、ホテルの前からタクシーに乗り空港へ。ボストンから1時間半、ニューヨークのJFケネディー国際空港へ。3時間余りの乗り継ぎで成田行きの飛行機に搭乗。日付変更線を越えて、翌23日の午後に成田に到着。

6時 ホテル出発
8時25分 ボストン発
9時45分 ニューヨーク着
12時00分 ニューヨーク発  
(23日)16時20分 成田着
ボストン・キャリアフォーラム第2日 [2009年11月21日(Sat)]
11月21日(土曜日)
今日も、前日同様のやり方で面接。今日の面接者も昨日と同じ10名。うち、女性のみ2名の合格者を選んだ。
夕食の懇談会はこのうち、都合のついた1名と昨日の積み残し1名の計2人で、昨夜とは別の中華料理店で懇談会。
結局、二日間で20名の面接で、合計8名を選抜したことになる。二次選抜は65名の中から8名を選んだので8倍の狭き門。ただ、面接した若者の殆どはやる気と優秀な資質を持った人たち。つらい選択であった。
結局、最終的な選抜は、日本財団がもつ組織風土というか個性との相性のようなものに頼らざるを得なかったが、不合格とした合格者の7倍もの若者がこの結果にめげずに他の組織・企業の面接に成功してくれることを望まずにはいられない。


      <フォーラム会場近くのボストンの町並み>

9時半 来春採用第2次面接(第二日目) 
19時半 第2次面接合格者との夕食懇談会
ボストン・キャリアフォーラム、今年は参加企業が激減 [2009年11月20日(Fri)]
11月20日(金曜日)
ボストン・キャリアフォーラムは米国を中心とする海外の大学・大学院の卒業生の採用を希望する日本の企業など「買い手側」と、日本の企業への就職を希望し ている日本人を中心とする留学生という「売り手側」との集団お見合いの場である。今回の参加企業は101社。昨年の174社と比べると、大変な落ち込みである。これに対し、参加学生の数は約5000名と昨年とほぼ同じ。その分、成功の確率は大幅減。学生の表情も真剣だ。

    <キャリアフォーラムの会場スペースは昨年比大幅縮小>

一昨年までは大卒、大学院卒を対象にしていたが、昨年からは対象を大学院卒予定者に絞ることとした。新方式2年目の今年は、応募者79名に対し、書類選考で65名を選んだ。我々の面接に先行して行われた高木さんと本多君の二人の課長による一時面接を突破した候補者の内、今日は10名を前田常務と二人で面接した。一人当たり30分、約5時間の仕事。
昨年も感じたことだが、こんなに多数の高学歴の優秀な若者が、国際協力事業の資金的支援・助成業務という地味な仕事に興味をもってくれていることに驚かされ る。皆、優秀な若者だ
夕方までに、結局男女3名ずつ総勢6名を第2次面接合格者とし、うち連絡のついた5人をボストン市内のチャイナタウンの中華料理店での夕食に招待し、内輪の懇談 会を開催した。


        <キャリアフォーラムに詰めかけた学生たち>

11時45分 来春採用第2次面接開始
19時半 第2次面接合格者との夕食懇談会
ボストンで採用面接 [2009年11月19日(Thu)]
11月19日(木曜日)

        <ボストン・ローガン空港を覆う曇り空>

今月2回目の出張は、米国東海岸のボストン。ティーパーティー事件で有名な米国発祥の地ボストンは、ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学など幾つもの有力大学を擁する学園都市でもある。
今回の出張の目的は、日本語と英語を操ることのできる人材と、彼らを必要としている企業との「集団見合い」の場である「ボストン・キャリアフォーラム」。日本財団では、海外事業に活用出来る即戦力を求めて、数年前から、国内採用と併行してこのボストン・キャリアフォーラムに参加し、人材採用を行っている。私にとっては、このボストンでの集団就職見合いの場「キャリアフォーラム」に参加するのは昨年に続き2回目。
昨年同様、人事担当の前田常務と一緒に、来年の採用予定者を選抜するために2次面接を行うのだ。1次面接を担当する高木チームリーダー(課長)らを含め、総勢5人で成田を出発。
シカゴ経由で16時間余りの旅。現地時間の午後1時半に無事ボストンに到着。早朝シカゴに着いた時の気温は6度だったが、ボストンはどんよりと曇り、時折、小雨がぱらつく生憎の天気だが、気温は10度以上。寒さを覚悟して行ったので、当てが外れ、むしろ暖かくさえ感じる。先週までの冷え込みがここへきて和らいだのだとか。ホテルの前の植え込みの立木は鮮やかな赤だった。


        <ホテルの前の木々の鮮やかな紅葉ぶり>

11時35分 成田発
08時00分 シカゴ着
10時15分 シカゴ発
13時30分 ボストン着
フランクフルト経由で帰国 [2009年11月06日(Fri)]
11月6日(金曜日)

       <機能的なフランクフルト空港>

昨夜の真夜中にアジスアベバを発ったエチオピア航空機は、定刻通り早朝5時過ぎにフランクフルトの空港に到着。気温は8度。夜8時45分の成田行きの便まで、飛行場内のホテルにチェックイン。シャワーを浴びてひと眠り。日本時間に出来るだけ合わせて生活のリズムを調整する。
午後7時。ホテルを出て、徒歩で空港へ。久し振りにフランケンワインなどお土産を買って飛行機に乗り込む。長距離だが日数は短い出張は事実上終わった。

 
      <ここにも韓国メーカーの進出が顕著>

5時15分 フランクフルト着
20時45分 フランクフルト発
(翌日)16時00分 成田着

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