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大野修一(日本財団)
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帰国、一旦日本に戻ることに [2009年10月30日(Fri)]
10月30日(金曜日)
私には、この直後にエチオピア行きが控えており、マニラからドバイ経由でアジスアベバに行くことも考えたが、そうすると出張期間が長くなりすぎるので断念。結局、今回は帰りも会長と一緒の便で一旦日本に戻ることにした。

 <フィリピンの慶応大学と言われるアテネオ・デ・マニラ大学の美しいキャンパス>


     <ホテルの隣に広がる高級住宅街はまるで米国のよう>

7時 ホテル出発
9時10分 マニラ発
14時20分 成田着

国連平和大学の第二期生卒業式 [2009年10月29日(Thu)]
10月29日(木曜日)


     <卒業証書を手渡すマレスカ学長ら>

今日は、国連平和大学の第二期生卒業式の当日。予てから懸案であった、国際諮問委員会が漸く組織され、今日の卒業式に合わせて第一回目の会合が招集された。7人の有識者からなる国際諮問委員会は以下のような豪華メンバー。今回は、このうち、スリンASEAN事務局長とローマクラブ事務局長のリーズ元学長を除く5人が参加してくれた。国際諮問委員、唯一の日本人で紅一点は民主党参議院議員の広中和歌子さん。朝9時から、宿泊先のホテルで2時間半ほどの討議を行った後、昼食会。ラモス元大統領を除く委員は総て何らかのかたちで日本財団や関係財団の事業に縁のある方々ばかり。互いに面識のある人が多かった。ユーモア溢れたラモス元大統領のジョークを中心に和気藹々、楽しい昼食会であった。

     <国際諮問委員会が始まる>

財団理事長 元フィリピン大統領 フィデル・ラモス (フィリピン)
ASEAN事務局長 元タイ外相 スリン・ピスワン (タイ)→欠席
ローマクラブ事務局長 平和大学元学長 マーティン・リーズ (英国)→欠席
参議院議員 元環境大臣 広中和歌子 (日本)
国際政治学者 新聞社社長 ユスフ・ワナンディ (インドネシア)
北京大学国際関係学院院長 ワン・ジースィ (中国)
NGO代表 ハルシャ・クマラ・ナバラトネ (スリランカ)

     <アジアの教育をテーマに円卓会議>

午後からは会場をアテネオデマニラ大学に移して、アジアの教育をテーマに円卓会議。基調講演はアジア開発銀行副総裁。
円卓会議のあと、卒業式は夕方5時半から始まった。


     <卒業生総代はベトナム人のトラン君>

今年の卒業生は20人。国籍別内訳は、日本(6)、カンボジア(3)、フィリピン(2)、
キルギスタン(2)、タイ(2)、モンゴル(1)、トルクメニスタン(1)、ミャンマー(1)、インドネシア(1)、ベトナム(1)。男女の割合は、女性が11人、男性9名とほぼ半々。


     <晴れ晴れとした表情の卒業生たち>

9時 国連平和大学国際諮問委員会
11時半 国際諮問委員昼食会
12時45分 ホテル出発
13時40分 卒業式記念円卓会議
16時半 カクテルパーティー
17時半 第二期生卒業式
19時半 卒業生との夕食会
ヤンゴンからマニラへ、バンコク経由で移動 [2009年10月28日(Wed)]
10月28日(水曜日)
笹川会長と我々は、シャン州の学校建設現場に行く森さんたちと別れ、明日行われる国連平和大学の卒業式に備えてマニラへ行かねばならない。朝8時半、ホテル出て、空港へ。9時50分ヤンゴン発のタイ国際航空機でバンコクへ。3時間ほどの乗り継ぎで、マニラへ。
マニラ空港には日本財団の担当者の本多さんが出迎えに来てくれていた。8時半ころホテルにチェックインしたあと、国連平和大学のマレスカ学長、担当のガブリエルさんらと、本多さん私の4人で、国連平和大学事業の来年度以降の方針につき打合せ。夜の10時に始まった打合せが終わったのは12時過ぎだった。



     <ミャンマー/サイクロン被災地の民家(その1)>


     <ミャンマー/サイクロン被災地の民家(その2)>


     <ミャンマー/サイクロン被災地の民家(その3)>


     <ミャンマー/農村の畦道を行き交う人々>


     <ミャンマー/サイクロン被災地の小学校>

8時半 ホテル出発
9時50分 ヤンゴン発
11時45分 バンコク着
15時05分 バンコク発
19時15分 マニラ着
22時 マレスカ学長との打合せ
サイクロンの被災地でマイクロファイナンス現場を視察 [2009年10月27日(Tue)]
10月27日(火曜日)

    <イラワジ・デルタでは船が便利>

昨日に続いて、サイクロン・ナルギスの被災地に。但し、今日の現場はイラワジ州ではなく、その手前ヤンゴン州の西の端、クンジャンゴン地区。今年の初めに、バンコク駐在の日系メディアの皆さんをご案内したところだ。
2時間半ほどで、クンジャンゴンの町に到着。ここの近郊の村では、笹川会長が1000万円もの金額をポケットマネーで出して今年の初めから始まったマイクロファイナンス事業が行われている。この仕組みは、サイクロンの被害を受けた農民らに、種もみの購入に充てるべく一人当たり200から300ドルほどの資金を貸し付けるというもの。月利は1.5%、年率では約20%。この地域ではコメは二期作なので、大凡、1年間で100ドルほどの利益が見込まれるのだという。


     <村の集会所には入りきれないほどの村人が集結>

クンジャンゴンの町を出て一時間弱、ペイコン村に到着。この辺りでは、緊急支援に使われた青いビニールシートが今も掛る家屋を沢山見た。昨日行ったイラワジ県ではあまり見られなかった光景だ。
集まってくれた農民から話を聞く。この村では、笹川会長のマイクロファイナンスの利用者は66名。サイクロンでは49名もの死者が出たのだという。235頭もの水牛が死に、残ったのは50頭ほど。これでは、耕起も出来ないので一台の小型のトラクターを買った農民がいて、皆、順番に使わせてもらったりしているのだそうだ。幸い、高潮によって塩水が入り一時はダメになった田圃も今では正常化したが、サイクロンの以前の状況に戻るには、尚、時間がかかりそうだ。


     <小さな吊り橋を渡る>

ペイコン村を出て、船着場から船に乗り込む。小一時間ほどで小さな船着き場に到着。吊り橋を渡り、待ち構えていた3台のトラクターに乗り込む。ただのトラクターではない。後ろには人間が10人ほどは乗れるような荷台が付いている。気温は40度はあろうかという炎天下をトラクターに揺られること30分ほど、二番目の村、チャイパ村に到着。ここでも、ペイコン村同様、集まってくれた農民から話を聞く。笹川会長が、農作業の忙しい中、我々のために集まってくれてありがとう、と語りかけると、ここでも、住民は口々に、自分たちこそ、遠路はるばる自分たちのために助けに来てくれた皆さんのことを感謝している、と言ってくれる。

     <トラクターが牽引する“農村バス“>

ついつい、村々での問答が長引き、予定時間を大幅にオーバー、昼食もとっていないのに、ヤンゴンへ帰る時間になってしまった。エイルウィンさんたちは、最後に予定していた3番目の村は割愛してクンジャンゴンの町に戻り昼食をとることにしてはという。しかし、笹川会長は「それでは待ってくれている村人たちに申し訳ない」、と反対を押し切りマヤン村へ。村内を急いで回る。
結局、昼食をとったのはヤンゴンへ戻る途中の3時。道路際の食堂のテーブル席の奥、一段高くなったところにゴザ敷きの広間があった。靴を脱いで卓袱台を囲む。昔の日本の田舎の座敷を思い出す懐かしい光景であった。
今回訪問した3か所の村では、今年の2月に始まったヤンゴン州での置き薬配布事業のことを聞いてみたところ、いずれの村でも、置き薬キットが配置されていることが確認出来た。どこでも村人に聞くと、使っている、助かっている、という声が返ってきた。


     <昼食をとった町のレストラン>


7時半 ホテル出発
10時 クンジャンゴン到着
11時半 ペイコン村訪問
13時20分 チャイパ村訪問
14時10分 マヤン村訪問
15時 昼食(クンジャンゴン)
19時 CIATティン博士らと夕食

サイクロン・ナルギスの被災地での学校建設落成式典、大臣の参加は選挙運動? [2009年10月26日(Mon)]
10月26日(月曜日)

     <完成したばかりの教室で落成式典>

昨年5月にミャンマー南部を襲ったサイクロンから一年半。ナルギスと名付けられたこのサイクロンは14万人の死者を出したほか、80万の家屋を破壊、校舎4000棟が損壊し、水牛などの家畜にも甚大な被害が出た。
ミャンマー政府は、サイクロンの被災地の再建のために、地区毎に閣僚による担当制を導入。今年の2月に、首都ネピドーで辺境開発(NATALA)省のテイン・ニュン大臣と笹川会長が面談した際、大臣からイラワジ州の彼の担当地区での校舎再建の依頼を受けた。日本財団は検討の末、3校の建設を決定、シャン州での学校建設を担当しているNGOセイダナーに実施を命じた。
このほど、これらの校舎が完成、今回の置き薬配布開始式に合わせて現地で完工式を行うことになった。驚いたことに、大臣は3校それぞれでの式典に総て出席するというではないか。

     <我々を歓迎して大勢の人たちが集まってくれた>

朝6時、ホテルを出発。セイダナー代表の白木さん、ヤンゴン事務所の責任者和田さんやスーさんらに案内されて一路西へ。イラワジ河を越え被災地に向かう。途中で、辺境開発大臣らを乗せた軍用車両と合流、何台もの車を連ねたコンボイになって田舎の未舗装の道を進む。
大臣がわざわざやって来るというので、現地は大変だったようだ。最初の学校では、それまで沼のようなぬかるみを蛭に血を吸われながら歩かざるを得なかったという悪路が、俄か作りの盛土で車でも通れるようにしてあった。尤も、我々の乗った小型バスではそこまでは入れず、ジープを改造したミニバスに乗り換えを余儀なくされたが。また、学校への道の両側には、竹を組んで白いペンキを塗ったフェンスが作られていた。


     <式典のために作られたアーチ>

ミャンマー軍政の閣僚は殆どが軍人。辺境開発大臣は現役の大佐。そのためか、辺境開発省の役人が作った式典のスケジュールは分刻みで細かくびっしりと決められていた。そして、最初の小学校での式典は予定通りぴったり8時に始まった。集まった大勢の住民たち。すると、気難しい人柄で知られる大臣が住民たちに愛想よく手を振るではないか。

     <記念碑の序幕はなんと電動式、操作はリモコンで>

しかし、2番目の学校に移動する前に我々がトイレに行ったりした上、途中でスコールに見舞われたりしたため、進行は10分ほど遅れる。
と見るや、2番目の学校でのスケジュールは途中で一部カット。先を急ぐよう指示される。3番目の学校に着いた時には再び予定時間ぴったりに戻されていたのにはびっくり。
実は、ここは大臣の出身地。来年10月実施とも言われる総選挙には、大臣や副大臣クラスが立候補するのではないかとの噂もある。忙しい大臣が、3校総てを訪問し、住民たちに愛想を振りまいていたのは選挙運動だったのかも。


     <住民に手を振る辺境開発大臣>

6時 ホテル出発
8時 シャンスーセインバヤー小学校訪問
10時 タニダウンワートゥー小学校訪問
11時 マウービン第3小学校訪問
13時 昼食会
17時半 日本大使
19時 Wilson How氏らと夕食
バゴー州での置き薬配布式典 [2009年10月25日(Sun)]
10月25日(日曜日)

     <第二の都市マンダレーとヤンゴンを結ぶ高速道路>

真っ暗な中、3時に目覚ましがなる。3時45分ロビー集合、4時出発だ。ヤンゴンの北200キロ余りの地点にあるバゴー州タウングー市に8時半までに着かなくてはならない。今年、4州目のバゴー州で置き薬配布式典が行われるのだ。
真っ暗な中、ヤンゴン=マンダレー高速道路を北上する。今年2月に新首都ネピドーからヤンゴンに戻る時に通った道だ。2時間ほど走るうちに、白々と夜が明けて視界が広がってくる。しかし、前にも後ろにも他の車の姿は見えない。前回2月に走った時は、まだ部分開通で一般人の通行は認められていなかった時だ。今は、もう一般に開放されている筈。聞いてみると、通行料は5000チャット=500円だとか。公務員給与が平均3000円というミャンマーでは大変高価な値段だ。これでは、一般人は使えないだろう、と納得。


     <置き薬配布式典に集まった500村の代表たち>

バゴー州の州都は元々はバゴー市、タウングーは元々はカヤン族の反乱を平定するための軍事拠点であった。タウングーが州都になったのは20年前、カヤン族が平定された時という。ヤンゴン州に近いバゴー市から州都をここに移したのは、カヤン族に睨みを利かせるためであったようだ。改めて、ミャンマー軍事政権が置かれた状況を思う。
式典には当初出てくれるはずの保健大臣チョウミン博士はタンシュエ議長に呼ばれたとかで急遽欠席。主賓は、バゴー県北部方面司令官であった。ミャンマーには14の州がある。これらの州には二つの種類がある、一つはビルマ族中心の7つの州で、英語ではDivision(管区)と呼ぶ。一方、少数民族中心の7州にはStateという英語が当てられる。Division(管区)より、独立した存在であることをアピールする狙いが込められているのだろうか。
Division、Stateとも、それぞれのトップは州知事ではなく、軍司令官である。原則は各州に一人だが、シャン州(State)には3人、バゴー州(Division)に2人という例外もあるようだ。


     <壇上で笹川会長から置き薬キットを受け取る少数民族>

タウングーでの式典を終えた我々は、保健省のティン・ニュント局長らに案内されて、近くのレブ地方保健センターに案内される。ここで、ネピドーの保健省から来てくれたハンセン病対策の責任者のチョウミン博士からミャンマー政府のハンセン病対策事業についての説明を受ける。そのあと、バゴー州の責任者らからも説明が続く。数年前の制圧の後も、ミャンマー政府がハンセン病の啓蒙と対応に引き続き注力していることが窺われた。その後、ハンセン病の元患者数名が現れ、その中の一人の36歳と言う女性は、しっかりした様子で、紙に書かれた原稿を見ながら英語で自分の経験と将来の計画を語ってくれた。それによると、彼女は高校生の時に発病、指先を失い障害者となった。父を亡くした今は、ミシンによる裁縫を学んで、母親孝行をしたいという。

     <タウングー郊外の保健センターでハンセン病患者を激励する笹川会長>

昼食は、行きにトイレ休憩のため立ち寄ったレストラン。ここは、高速道路沿いの唯一のレストラン。尤も、レストランとは言っても、昔の「海の家」のような簡便な構造。ここまでは、軍のジープが先導してくれた。昼食の後、高速道路をヤンゴンに向かって戻る。途中、ヤンゴン州に入ったところで高速道路を外れ、ナグー郡オネゴン村というところへ。ここは、今年の2月に置き薬の配置が最初に始まったヤンゴン州の500か村のひとつに選ばれたところ。村の総人口は570人。
ここでの配置薬を管理する責任者は4人の子供の母親というしっかりした感じの主婦であった。村の婦人会の役員をしているというこの女性を選んだのは村人たち。衆議一致の結果であるという。
置き薬が配置されるまでは、一時間ほどかけて隣町まで買いに行く必要があったが、今ではその必要もなくなり、楽になった、と喜んでいた。


     <置き薬キットが配布された村を訪問、担当の主婦らから説明を受ける>

ミャンマー保健省が今年から始めたこの「置き薬」配賦事業は、今年中に4つの州で計2000か村の配布を終え、来年は、マグウェー州、マンダレー州、モン州、シャン州、ヤカイン州の5州で実施する予定。再来年には残りの5州での配布を実施、全14州7000か村での配布を完了する予定だ。
ミャンマーでのやり方は、我々がモンゴルで4年前から実施 し、好評を博しているモンゴル方式とは、主に二つの点で大きな違いがある。それは、@各家庭に1キットではなく、1ヵ村に1キットを配賦、A「先用後利」の代金後払い方式ではなく、原則としては現金引換え。但し、一定の販価を定め、杓子定規に徴収するということではなく、村々での自由裁量を認め、時には「催促なしの有るとき払い」も可、というところにある。
モンゴル方式を参考にしつつも、自らの風土や環境に応 じた独自の方式を、半年以上の自主的な試行期間の末に編み出したという。いかにも、自主独立を重んじるミャンマー人らしい優れた対応である。

    
 
4時 ホテル出発
8時半 バゴー州タウングー市到着
9時 バゴー州置き薬配布式典
10時半 レブ地方保健センター訪問
15時半 ヤンゴン州ナグー郡オネゴン村置き薬現場視察
19時 セダナー関係者らと夕食会
アジア最後の楽園(?)ミャンマーへ [2009年10月24日(Sat)]
10月24日(土曜日)
笹川会長に同行してミャンマーとフィリピンへ。今回のミャンマー出張の目的は三つ。今年2月に始まったミャンマー伝統医学に基づく置き薬事業(http://blog.canpan.info/ohno/daily/200902/07)のバゴー州での開始式典への出席と、サイクロン被災地イラワジ州での学校校舎再建完工式典への出席、同じくサイクロン被災地であるヤンゴン州クンジャンゴン近郊でのマイクロファイナンス事業の現場視察。前二者は、私が担当する日本財団の事業であるが、最後のマイクロファイナンスは笹川会長が自らポケットマネーを出して始めたもの。ミャンマー外務省のOBで、元ASEAN局長のエイ・ルウィンさんが設立した現地NGOが手伝ってくれている。
成田に集合したのは、いつも通訳をお願いしている平野さんと、ミャンマーのみ同行取材していただくことになった国際開発ジャーナルの新海さん、笹川平和財団の関理事長、そして日本財団の富永、中嶋の計7名。
今回のミャンマー行きも、前回2月同様、バンコク駐在の日本のマスコミの皆さんに同行取材をお願いしようと、ミャンマー政府に掛け合ったが、保健省の必死の尽力も虚しく今回は駐タイ・ミャンマー大使館からの取材ビザは出なかった。国際公約の総選挙を来年に控え、ミャンマー側は異常なまでに神経質になっているようだ。結局、東京でビザを取った国際開発ジャーナルの新海記者と、共同通信の大熊記者のみが同行取材してくれることになった。大熊さんは一足先に今日の午前の便でバンコク経由ヤンゴン入り。
6時間の飛行でバンコクに到着。約3時間の乗り継ぎでヤンゴン行きの便に乗り継ぐ。ここからはほんの一時間ほどのフライトでヤンゴンだ。飛行場には外務省元ASEAN局長のエイ・ルウィンさん、国立ヤンゴン伝統病院院長のテインチョウさんらが迎えに来てくれていた。マイクロバスで宿舎のトレイダーズ・ホテルへ。
ミャンマーというと、多くの日本人にとっては軍政のイメージが強く、日常的に緊張感の強い国、と看做されているようだが、実態はかなり違う。私は、ミャンマーはアジアの最後の楽園ではないかと思っている。ヤンゴン市内には、みすぼらしい家が多く、道を走る車もその多くは凄まじいばかりのポンコツ車だが、英国の植民地時代に整備されたままの市内には緑が多く、素朴な魅力に溢れている。私にとっては、東南アジア各国の首都(正確には、ヤンゴンはもうミャンマーの首都ではないのだが)の中では一番好きな町だ。


     <穏やかな笑顔を絶やさないミャンマーの人たち>


     <ミャンマーでは今も水牛が農耕の主役>


     <多様な少数民族、これはカレン族のダンス>


     <タナカと呼ばれるお化粧兼日焼け止めをした少女たち>


     <サイクロンの被災地へ、イラワジ川を渡る>

10時30分 成田発
15時05分 バンコク着
17時50分 バンコク発
18時45分 ヤンゴン着

北京経由で帰国へ [2009年10月03日(Sat)]
10月3日(土曜日)
朝8時半、二日酔いの内田さん、森さん、専務理事のバットさんたちに送られて空港へ。途中、ビルの工事現場で2階の片隅にゲルが据えられているのを発見。おそらく、建設作業員の宿舎か事務所として建てられた(?)ものであろう。

       <プレハブ代わりのゲル>

ゲルと呼ばれる(パオというのは中国語)モンゴル遊牧民の丸テント式移動住居は、決して草原専用ではなく、ウランバートルのような都会の一角にも臨時の事務所や住居などとして、まるでプレハブのように置かれていることは少なくない。しかし、大きなビルの建設現場の、それも2階というのは珍しい。慌てて、カメラを出して取ろうとするが間に合わず、シャッターチャンスを逃してしまった。この写真は、悔しがる私を見ていた森さんが、律儀にも後日メールに添付して送ってくれたものである。

        <ゴビ砂漠の厳しく壮大な眺め>

今日も天気は快晴。中国国際航空機は定刻より10分以上早く、ウランバートルの空港を離陸。真っ青な空の下、雄大なゴビ砂漠を眼下にひとっ飛び。あっという間に中国領土上空に入る。眼下には、水墨画のような美しい山並みが広がる。

      <水墨画のように美しい稜線が続く中国の山々>

機内で配られた英字紙には、国慶節の軍事パレードを自画自賛する言葉が連なる。確かに、昨年は、北京五輪を曲がりなりにも成功させ、米国の新政権との間では2Gと呼ばれる関係が生まれるなど、中国の国民の間には、自らの国に対する強国としての大きな自信が生まれつつあるのであろう。

        <機内で配られた英字新聞>

私は、中国とモンゴルの余りにも大きなコントラストを考えざるを得なかった。13億もの民と豊かな大地に恵まれた中国と、260万人しかいない厳しい風土のモンゴルの対比である。
私は昨日、一年ぶりでお目にかかったモンゴル国会議員で前外務大臣のオユン女史の言葉を思い出していた。彼女は、丁度11年前の1998年10月2日に暗殺された民主化指導者の兄、サンジャー・ゾリグさんの遺志をついで国会議員になった人だ。汚職撲滅と民主主義の確立を謳って設立した正義党という少数党の党首だが、今だに、政治家の汚職が絶えず、先の大統領選挙でも、選挙民に対するばら撒きのスローガンが横行した現状を嘆きながらも、未開発の鉱物資源の公正な利用政策を確立さえできればモンゴルの未来は明るいと、強い意志をもって未来を拓いて行く決意を語る姿に、深い感銘を受けた。


          <モンゴルの希望の星、オユン議員>

8時半 ホテル出発
10時50分 ウランバートル発
13時00分 北京着
14時45分 北京発
19時15分 成田着
第1回モンゴル伝統医療会議 [2009年10月02日(Fri)]
10月2日(金曜日)

     <第1回モンゴル伝統医療会議の会場は国会議事堂>

第1回モンゴル伝統医療会議が始まった。会場は、国会議事堂内の大会議室。800人は入れそうな二階席もある立派な会議場。ざっと見まわしたところ、約600人くらいの入りか。
保健省医政局長のエンフバットさんの司会で会議が始まる。出席が予定されていたエルベグドルジ大統領は結局欠席。WHO代表の挨拶のあと、私が日本財団を代表して挨拶。ワンセンブルウ顧問でモンゴル語の名手、内田さんが通訳してくれた。以下は私のスピーチのさわりの部分である。


    <ヒナ段の後ろに日本財団と保健省、ワンセンブルウのロゴが並ぶ>

このプロジェクトは、モンゴル方式として、今ではモンゴル国内だけではなく、国際的にも成功した伝統医療の活用事例として大きな注目を集めるまでに育っています。
昨年11月北京におきまして世界保健機関が初めて伝統医療を主なテーマとした会議を開催し、80か国から1000人もの代表者が出席いたしました。この会議では、各国伝統医療の現状、今後伝統医療をいかに活用していくかなどの報告があり、最終日には伝統医療を活用することの重要性をうたった「北京宣言」が採択されました。この宣言は、今年5月に開かれた世界保健機関の総会におきまして、伝統医療に対する正式な方針として承認されております。世界保健機関が設立されて以来60年の歴史の中でこれほど伝統医療を大きく取り上げたことは初めてであり、伝統医療の活用を促す歴史的な決議となったのです。
このきっかけをつくったのが、ワンセンブルウによるモンゴルでの置き薬事業であった、と言っても過言ではありません。2007年8月、日本財団はWHOと共催でウランバートルでモンゴル方式の置き薬事業を紹介する国際会議を実施しました。この時の様子はWHO本部の首脳に詳しく報告され、伝統医療活用の成功例として大きな注目を集めたのです。

     <約600人の聴衆が耳を傾ける>

また、この会議に参加したミャンマー、タイなどでもモンゴル方式をモデルにした伝統医療活用事業を実施したいと言う要請が両国政府から、日本財団に向けられた。現在、両国で置き薬を中心とする伝統医療事業が進行中です。カンボジアでも日本財団の支援を受けて、伝統医学の復活に向けた初の国立伝統医療学校が始まっています。さらに、現在、日本財団は、ラオス政府からもモンゴル方式の事業の要請を受け、実施に向けて準備中です。
また、この8月末、日本財団は、ASEAN事務局、タイ保健省と共同で、バンコクで第一回ASEAN伝統医療国際会議を開催しました。ASEAN加盟国を中心に16カ国から200人の関係者が集まりました。私は、唯一の民間人発表者として、モンゴル方式の事業のプレゼンを行いました。この結果、WHO西太平洋事務局やベトナム政府からもモンゴル方式の伝統医療事業での提携の申し入れがありました。
ワンセンブルウのこの事業は、もともと、モンゴル政府の求めに応じ、モンゴルの伝統医療専門家や伝統医療の復活に興味を持つ人々に呼びかけて始めたものです。モンゴルの皆様の熱意と支援に支えられて大きく育ったこのプロジェクトがモンゴルだけにとどまらず、アジアの、そして世界の人々の保健衛生の環境を大きく変えるきっかけとなりつつあることを皆様と共に喜びたいとおもいます。

何より、今回の会議で嬉しかったのは、開会式の後半で行われた功労者表彰式。5,6人の伝統医療関係者の名前が読み上げられ、壇上にて保健大臣から表彰されたのだが、その中で唯一の外国人として、しかも、一人だけ大きな勲章をもらったのは、我がワンセンブルウ理事長の森祐次さんであったことだ。

     <森さんが受勲した保健省の功労者勲章>

準備の段階も含めると、6年以上の長きにわたって、時には命の危険にまで直面しながら、さんざん苦労をして本事業を軌道に乗せたばかりか、保健省も伝統医療の活用の最大、最良の事業として認知させるに至った功績は誠に大きい。彼がいなかったら、この事業はそもそも始ってさえいなかったであろう、仮令、始まったとしても最初の1、2年で空中分解してしまっていたであろう。
何より、価値があると思うのは、この事業を現場の厳しい環境で置き薬を配り、代金を回収し、遊牧民に助言を与えているバグ・エムチと呼ばれる薄給の准医師たちが彼の受勲を自分のことのように喜んでくれたことだ。今回の会議にも、彼らは遠方からはるばる駆けつけてくれた訳だが、決してやさしいばかりではなく、時には極めて厳しいこともある森さんなのだが、彼とバグ・エムチらとの信頼関係は大変なものである。
3年ほど前に、地方の病院を訪ねたことがある。その時に、彼らが、ワンセンブルウの事業を評して、こんな風に言うのを聞いた。「今までの医療保健プログラムは、いつも、一方的な上からの押し付けで、自分たちの意見や考え方を聞かれることはなかった。今度の事業は、全く違う。だから、やっていて楽しい」
今では、仕事などでウランバートルに上京したバグ・エムチ達は、必ずワンセンブルウの事務所に立ち寄るのが通例である。何も用事がなくとも、世間話をしていったり、時には、人生相談まで持ちかけられることもあるという。
この日、閉会式の後、保健省主催の公式夕食会があったが、我々は、食事が終わり恒例のダンスパーティーになったところで抜け出して、別のレストランに急いだ。そこには、森さんの発案で、今回の会議にはるばる地方から参加しながらも、公式晩さん会には招待されなかった地方の准医師達を慰労のために呼んでいたのだ。
ところが、食事が始まったとたん、バグ・エムチ達はどこからか大きな花束とプレゼントを持ち出し、森さんに差し出した。そして、慰労会はバグ・エムチ達による、森さんのための受勲祝いの場所に置き換わってしまったのである。ハンカチで何度も眼をぬぐう森さんであった。


     <森さんにお祝いをする地方のお医者さんたち>

8時20分 ホテル出発
8時40分 国会議事堂到着
9時 モンゴル伝統医療会議開幕式
14時半 モンゴル国立経営大学院OBとの懇親会
16時 オユン前外務大臣訪問
17時 モンゴル伝統医療会議閉幕式
18時半 保健省主催夕食会
20時 ワンセンブルウ主催関係者慰労会
置き薬事業を2万世帯まで拡大する方針を説明 [2009年10月01日(Thu)]
10月1日(木曜日)
朝9時。保健省でランバー大臣と会う。昨夏に就任したランバー大臣は、今年5月末の選挙で現職のエンフバイヤル氏を破って選出されたばかりのエルベグドルジ大統領と同じ民主党出身だ。
我々の置き薬事業は、2001年、エンフバヤル前大統領が首相の時、日本を公式訪問された折に、日本財団の笹川現会長にモンゴルに対する支援を要請されたことに始まったものなので、政権交代による本事業に対する悪影響を心配する向きもあった。しかし、現政権は、首相のバヤル氏が率いる人民革命党と民主党の大連立政権。結局、大統領の交代後もバヤル内閣の解散はなく、ランバー大臣は留任。むしろ、7月に、バヤル首相が来日した際の笹川会長と朝食会でワンセンブルウの置き薬事業が話題になったのをきっかけに、ワンセンブルウの森さんらがメンドサイハン大臣顧問の斡旋でランバー大臣と面談、詳しく、本事業の説明を行った結果、保健省側の認識と評価が飛躍的に高まった。そして、今回のモンゴル伝統医療会議の開催に当たっては、保健省側から、ワンセンブルウ=日本財団に対し人材・ノウハウ面での協力と資金援助を要請してきた。


     <保健省でランバー大臣と会談>

私は、初対面のランバー大臣に、このプロジェクトは、もともと、モンゴル政府の求めに応じ、モンゴルの伝統医療専門家や伝統医療の復活に興味を持つ人々に呼びかけて始めたものであること、このプロジェクトは今では、モンゴル方式として、モンゴル国内だけではなく、国際的にも成功した伝統医療の活用事例として大きな注目を集め、アジアの、そして世界の人々の保健衛生の環境を大きく変えるきっかけとなりつつあることを説明した。
これに対し、大臣は、この事業については大臣になるまで知らなかったが、ワンセンブルウの森さんや、メンドサイハン顧問から聞いて今では十分認識し、高く評価しており、日本財団の長きにわたる支援に感謝する、とのコメントがあった。
そして、私の方から、日本財団としては、モンゴル側からの要請に応えて、来年から2年ほどかけて置き薬の対象戸数を現在の2倍の2万戸に増やす方針であること、しかし、そのためには、モンゴル政府側のしっかりした支援が不可欠である。来年の7月頃に笹川会長がモンゴルを訪問し、大統領と会いその点を確認するような機会を持ちたい。
また、2012年以降は、全国展開に向けて新たな組織作りを検討すべきであると考えている。例えば、モンゴル政府や国際金融公社などと協力して、民間ベースの実施企業体を設立するなどの方策が考えられる。日本財団は、一挙に完全撤退することは考えていないが、これまでのような全面的な資金負担は期待しないでほしい、と述べた。
大臣からは、笹川会長の訪問を歓迎する。大統領もこの事業を支援している。伝統医薬品、置き薬方式はモンゴル人にマッチしている。保健省は今後、保健行政の中心に、予防医学や健康法の推進を据えたいと考えており、伝統医学はその中核を占めるべきもの。今後、置き薬事業は2万世帯ではなく、モンゴルの全世帯数である60万世帯にまで広げていきたい。明日の会議では、各県の代表から、置き薬事業を全国展開してほしい、という声が出てくるものと思う。スピードアップが必要だ。2012年を待たず、政府とNGOの協力で早く全国展開したい。今後も日本財団の支援を希望したい、とのコメントがあった。


     <伝統医療の展示会は大賑わい>

その後、国立情報科学センターへ。ここでは、モンゴル伝統医療会議の付属イベントとして、一般人向けの講演会や、ドキュメンタリー映画の上映、モンゴル伝統医学展示会が開催中。

     <ワンセンブルウの展示に見入る遊牧民の婦人たち>

我々は、小一時間ほど、モンゴル伝統医学展示会を見学。ここでは、ワンセンブルウを始め、昨日訪問したアルモン社などの伝統医学品メーカー、医科大学、伝統医科病院など伝統医学に関連する17の団体や企業がブースを開設、伝統医による健康診断サービスなどもあり、予想以上の見学者で賑わっていた。

     <メンドサイハン博士に地元テレビがインタビュー>

     
夜、6時半。メンドサイハン保健大臣顧問が、我々を夕食に招待してくれるというので、市内中心部のホテル内のレストランへ。おいしそうな料理が並ぶが、今日は一カ月に一回の「禁酒の日」なのだそうだ。外国人が泊るホテルでも酒類の提供はご法度、だという。ラマダン中のイスラム諸国の中には、レストランは昼間閉まっているが、外国人の泊るホテルでは例外なのに、これでは、イスラム諸国より厳しい、とぼやきながらビールもワインも無い寂しい夕食となった。そこで、食事の後、ワンセンブルウの森さんと内田さんの住むマンションへ行き、ビールやウオッカで乾杯。


     <モンゴル市内の洒落たパブも今日は禁酒>


8時半 ホテル出発
9時 ランバー保健大臣との面談
10時半 バドバヤル専務理事打合せ
12時 ワンセンブルウ幹部との打合せ
13時半 モンゴル伝統医療展示会視察
14時45分 ワンセンブルウ事務所訪問(森理事長打合せ)
18時半 メンドサイハン保健大臣顧問主催夕食会
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