CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
« 2009年08月 | Main | 2009年10月»
プロフィール

大野修一(日本財団)さんの画像
大野修一(日本財団)
プロフィール
ブログ
<< 2009年09月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
ブログ内の検索は
  こちらから ▼
Google 
カテゴリ
最新記事

コメント

トラックバック
犬山城 (01/18)
月別
リンク集
http://blog.canpan.info/ohno/index1_0.rdf
http://blog.canpan.info/ohno/index2_0.xml
快晴のウランバートル市内 朝青龍の元妻タミルさんの微笑みが [2009年09月30日(Wed)]
9月30日(水曜日)
朝起きてみると、北京市内の霧はさらに悪化。仮令、計器飛行でもこれで果たして飛び立てるのかと心配になる。中国は国慶節からの4日間の休日と10月3日の中秋節の4日間を合わせて、8日間の長期休暇シーズン。空港は海外旅行に行くと思しき中国人観光客でごった返していた。
彼らの間でも、濃霧を心配するひそひそ声が聞こえる。現実に、飛行機の出発スケジュールを示す電光掲示板にはキャンセルの文字も。しかし、私の乗るモンゴル航空便については杞憂だったようだ。濃霧の中を何食わぬ顔で飛行機は離陸。
飛び立って2時間弱、ふと、外をみると雲ひとつない青空の下にモンゴルの大平原が広がっていた。機内アナウンスによるとウランバートルは快晴、気温は8度。23度の北京と比べると15度も低い。


        <縦横無尽に車が走った跡>

ウランバートルに近づき、飛行が高度を下げ始めると、大自然の中に人間の営みの痕跡が目に入ってきた。平原を貫く道路だ。とは言っても、そこはモンゴル。道路とは言え、決して舗装された広い道が一本通っているのではなく、何本も並行して、轍の跡が作り出した自然路が縦横無尽に走る。

       <ウランバートルはすっかり晩秋>

空港には、いつものように、置き薬事業の実施団体であるNGO「ワンセンブルウ」の森さんたちが出迎えに来てくれていた。空気はひんやりしている。青空の下、ウランバートル市内へ向かう。既に、先週は雪が降ったそうだが、街路樹はまだ丸裸にならず、黄色い葉を付けて美しい。しかし、市内を歩く人は、暖かそうな外套を着込み、早くも真冬のファッションだ。それもその筈、既に夜になると気温は零下にまで下がるのだそうだ。

       <街ゆく人の服装は完全に冬服>

チェックインの後、ワンセンブルウの専門家委員会のメンバーの一人、モンゴル伝統医学の権威、メンドサイハン博士も加わり、明日の保健大臣との面談や明後日の伝統医学会議の段取りや手順について打合せ。彼は保健大臣の顧問でもあり、明後日の伝統医学会議の責任者だ。彼以外のワンセンブルウの専門家委員会のメンバーも、唯一の女性委員のナラントヤさんが事務局長、ボルドさんが保健大臣のスピーチライター、など全員が実行委員会の要職についている。今回の会議を事実上仕切っているのはワンセンブルウなのだ。
カフェテリアにいると、関取を廃業してモンゴルに戻り実業家になった旭鷲山の姿があった。外に出てみると、朝青龍と離婚したタミル夫人が美しく微笑むポスターがあちこちに。ここでは、大相撲は日本と同時に完全生中継されている。日本人とモンゴル人は大相撲の興奮を同時的に共有しているのだ。


       <朝青龍と離婚したタミル夫人のポスター>

メンドサイハン保健大臣顧問と別れて、つい先日、モンゴルの伝統医薬メーカーとして初めてWHOが定めた製造技術基準に則った製造設備を整えたというアルモン社の新鋭工場を訪問する。我々の置き薬事業の将来の有望パートナーだ。女社長のニャマーさんが工場内を案内してくれる。さすがに清潔できちんと整頓された工場だ。
同社は1992年創業。ニャマーさんはもともと、薬剤師と助産婦の資格を持っていたが、一人で同社を立ち上げた。1993年には国立医科大学に開設された伝統医学コースを卒業。苦労しながらアルモン社を社員50人の総合医薬品メーカーに育て上げた。製品の一部は現在、ポーランドを中心に、ロシアや米国、ドイツなどに輸出しているという。特に、ポーランドではモンゴルの伝統医学に対する評価が高く、モンゴル人の伝統医が多数働いているのだとか。


           <完全防備で工場見学>

7時 ホテル出発
9時30分 北京発 
11時55分 ウランバートル着
13時半 メンドサイハン保健大臣顧問打合せ
15時 アルモン社(伝統医薬メーカー)訪問
18時半 ワンセンブルウ幹部との夕食会 
国慶節直前の北京は厳戒態勢 [2009年09月29日(Tue)]
9月29日(火曜日)
今回の出張の目的地はモンゴルの首都ウランバートル。10月2日に開かれることになったモンゴル伝統医療会議に出席するため計画したもの。
今年は、1999年に第46号国会決議「モンゴル伝統医療を発展させるための国家政策」が採択されてから丁度10年目。モンゴル保健省は、記念式典を計画するにあたって、日本財団に対し人材ノウハウ面での協力と資金援助を要請してきた。
というのも、我々は5年前から現地に設立したNGO「ワンセンブルウ・モンゴリア」を通じて「モンゴル伝統医療普及事業」を実施している。この事業は、モンゴル伝統薬を箱に入れた「置き薬」を5つの県17の郡で、遊牧民を中心とする1万世帯に配布するとともに、地方医師・住民に対する伝統医療研修や、地方住民に対する伝統医学による巡回診療を行うというもの。この間、保健大臣が毎年変わったことや、妬みからの中傷なども受けたりして、保健省とは必ずしもいつもしっくり行っていなかったが、ここに来て漸く、モンゴル保健省は我々を伝統医療の分野での最も重要なパートナーとして認知するに致ったようだ。モンゴル国内での評価が確立したことと合わせて、WHO(世界保健機関)を始め国際的にも非常に成功した伝統医療活用事例として高い評価を受けるに至ったためだ。


        <濃霧に飛行機も霞む北京空港>

私は当初、モンゴル行きの飛行機が北京経由となるため30日に北京入りし、翌10月1日朝、北京発のフライトでウランバートルに入る予定であった。ところが直前になって、10月1日は国慶節に伴う警備強化の一環として閲兵パレード中の午前9時30分から同12時30分まで、北京首都空港での飛行機の発着が全面的に禁止されるとの発表があり、急遽、出発を一日繰り上げ本日の出発となったもの。
空港の閉鎖との報に、「そんな馬鹿な」、と思ったが、今年は建国60周年という節目の年であり、チベットやウイグル問題もあり、警備当局は例年以上にピリピリしているらしい。いつも宿泊するホテルも天安門に近いため実質的に使用禁止になると聞き、やむなく空港に近いホテルに変更。何と、国慶節でビジネスの宿泊客が減っているためか宿泊料金は特別割引。確かに、行きの飛行機はがらがらだった。
北京市内への高速道路は建国60周年を祝う色とりどりの幟で飾り付けられていた。しかし、私の気がかりは、霧が出ていることだった。中国では濃霧は禁物。北京首都空港は近代装備で濃霧でも発着は大丈夫なのだそうだが、問題は地方の空港。そこで遅延が起きると、玉突き状態に陥り、北京空港でも飛行機が遅延するのが通例。明日が心配だ。


       <高速道路の脇には国慶節の幟が続く>

10時35分 成田発
13時25分 北京着
18時半 北京大学国際関係学院帰准教授
早朝の便で帰国 [2009年09月17日(Thu)]
9月17日(木曜日)

6時 ホテル出発
8時15分 シンガポール発
16時20分 成田着
ジャカルタへ日帰り [2009年09月16日(Wed)]
9月16日(水曜日)
早朝の、ジャカルタ行き飛行機に乗って、インドネシアへ。ジャカルタ義肢装具士学校の開校を受けて、国際諮問委員会の第一回会合をどのタイミングで開くか、そのメンバーをどうするかで、カンボジアトラストのカーソンさん、ケアリーさんと打合せをするのが目的だ。
インドネシアから日本への帰国便は、ジャカルタからだと夜行便しかないので、夜行便嫌いの私は、今夜、シンガポールに舞い戻り早朝の成田行きで帰国の予定。つまり、日帰り。シンガポールのホテルに荷物を置いて手ぶらでジャカルタへ。パスポートだけ持って、飛行機に乗るのはなんだかとても変な感じ。

     <ジャカルタ市内もスモッグ>

早朝のシンガポールの町には濃い霧が立ち込める。タクシー運転手の話によると、このところ、インドネシアの山林火災によるスモッグが再び悪化しているのだそうだ。視界不良で飛行機が遅れなければ良いが、と心配したが、幸い、30分ほど遅れただけで飛行機は無事、ジャカルタ到着。

      <ラマダンで路上の屋台は閑散>

着いてみると、インドネシアはラマダンの真っ最中。ちょうど昼前と言うのに、いつもは食べ物の屋台が軒を連ねる道路も閑散。いつもは歩道をわがもの顔に占拠している店々も、殆どはテーブルさえ拡げず人の気配すらしない。モダンなショッピングモールの中のカフェは、さすがに開いていたが、事実上の開店休業状態。
それにしても、以前はインドネシアでは宗教色は希薄でラマダンと言っても、食事を躊躇わない人が多かったように思うのだが。インドネシアでは近年イスラム教の影響が強まり宗教的には保守回帰が進んでいると言うが、これもその表れかと思う。


      <ショッピングモールの喫茶店も閑散>

がらすきの日本料理店で昼食を取った後、カーソンさん、ケアリーさんと郊外のJSPO(ジャカルタ義肢装具士学校)へ。ここは、80年代の初めに日本政府のODAで建てられた看護学校の跡。一年ほど前に初めて下見に訪れた時はコンクリートの外壁こそ、しっかりしていたが、内部は荒れ果て、金具は錆つき、木のドアも下の方が腐食したりして無残な姿を晒していたのだが、見違えるほど綺麗になっていた。
カーソンさん曰く、「床を磨いたり、ペンキを塗り直したりしただけで、殆どの素材は再利用。単純に取り換えたりした方が安くついた可能性が無いわけではないが、さすが、日本のODAだけあって、どれもしっかりした材質のものが使われていることが判明したので、総て、きれいに磨いたり、ペンキを塗り直したりしただけで、再利用したんだ」と自慢そう。

        <二つの棟からなるJSPO>

国際諮問委員会の第一回会合を11月の中旬に開催することで合意。私は、ボストン行きの直前なので欠席し、石井課長を派遣することになる。新校舎の落成式典を笹川会長の出席可能なタイミングで開くことなどが決まった。そうこうするうちに4時になった。慌ただしく、空港へ。シンガポールに舞い戻る。

        <ひろびろとした教室内部>

7時 ホテル出発
9時00分 シンガポール発
9時40分 ジャカルタ着
12時 カンボジアトラスト カーソン理事
14時 JSPO視察
16時 JSPO出発
19時05分 ジャカルタ発
21時40分 シンガポール着
日本財団グループについてプレゼンテーション [2009年09月15日(Tue)]
9月15日(火曜日)
朝、ホテルをチェックアウト。荷物を持って北京大学へ。本日、朝一番のプログラムは、私による日本財団グループについてプレゼンテーション。日本財団の本事業を担当する本多さんが作ってくれたパワーポイントを使って一時間半のレクチャーの後、30分ほどを質疑応答。
午後、昼食を取っていると間に合わないのでそのまま、空港へ。ジャカルタに向かうため、シンガポールへ。遅いので、今夜はシンガポール泊まり。


7時半 ホテル出発
8時半 BABAプレゼンテーション
13時 北京大学出発
16時00分 北京発 
22時15分 シンガポール着
BABA リトリート始まる [2009年09月14日(Mon)]
9月14日(月曜日)

     <看板と横断幕がBABAの開催をアピール>

本日から一週間の予定でBABA(Building a Better Asia) リトリート、日本財団グループの事業に関連した30代のアジアの若者の中から選抜された人を対象にする合宿形式のセミナー、が始まった。このために東京から駆けつけた日本財団の尾形理事長、笹川平和財団の日中基金室長の于展さんらと参列。
北京大学側は、いつものように、副学長で共産党書記のミン教授が挨拶してくれる。ミン先生は共産党の中央委員。副学長とは言いながら実質的には、共産党の立場で北京大学を取り仕切る最高幹部だ。
今回の出席者は、直前に緊急事態発生で欠席を余儀なくされたフィリピンからの参加者を除く20名だ。今日から土曜日までみっちり、一週間の合宿に励むことになる。

     <BABA開会式でスピーチする尾形理事長>


     <会場となった北京大学交流会館>

夕方までセミナーを傍聴した後は、日本財団が博士課程の対日留学を支援している国際関係学院の先生方と協議。そのまま、夕食会に。

7時半 ホテル出発
8時半 BABA開会式
17時半 国際関係学院打合せ
18時半 王学院長らと夕食会
満州国皇帝旧皇居を見学 [2009年09月13日(Sun)]
9月13日(日曜日)

           <内部の伝統様式の建物>
 
日曜の今日は、北京に移動する日。12時過ぎの飛行機だが、長春大学の特殊教育の専門家で日本語の堪能な金博士が、早めにホテルを出て、空港へ行く途中、満州国皇帝の宮廷跡を見学して言ってはどうかと言ってくれる。前回は、慌ただしく、市内を見学する余裕は全くなかったのだが、ここは、旧満州国の首都だったところだ、せっかくの機会なので、ありがたくお誘いを受けることにする。
      <偽満皇宮博物院正門>
 
市内東北部の宮殿跡は、「偽満皇宮博物院」と呼ばれる博物館になっていた。日曜日と言うこともあってか、予想以上に大勢の中国人観光客で賑わっていた。入口でチケットと同時に渡されたパンフレットには、「素晴らしい愛国主義教育基地」とあった。むむ、なるほど。
金さんが文庫本サイズの携帯型音声観光案内装置をレンタルしてくれる。私のは日本語での音声ガイダンスだ。ほとんど完璧に近い日本語だが、我々には聞きなれない「偽満州国」、「偽満州国皇帝」という言葉が繰り返される。確かに、ここは「愛国主義教育」のための設備なのである。ただ、最近の風潮なのか、日本軍の残虐行為などの展示は全くなかった。


           <満州国皇帝の玉座>


          <豪華なダイニングルーム>

内部は13.7万平米もあるということだが、我々はその一部を駆け足で見て退出。確かに、ここは、日本帝国陸軍の満州攻略の本拠地であり、中国政府の「愛国主義教育」もあって、人々の心にはその記憶がまだ生々しく残されているのだろう。今回の会議のボランティアとしてかいがいしく我々の世話を焼いてくれた日本語学科の学生たちの中にも、日本語専攻に対する両親の複雑な思いを口にする若者もいた。そして慌てたように付け加えるのだった。「でも、悪いのは日本の軍事指導者たちで、日本人民に対しては悪い感情は持っていません」と。昨日、会議の英語通訳をしてくれた若い女性もこんなことを言っていた。「私は、今回あなたと会って初めて日本人が好きになりました。今まで、日本人と身近に接することはなく、日本人は嫌いだ、と思っていました」と。
長春の一般市民の間における日本に対する根強い反感について尋ねると、金先生は「確かに、日本について殆どの市民は本やテレビでしか知りませんから、悪い感情を持っている人が沢山います。でも、私のように、日本に留学したりして直接、日本や日本人のことを知った人は日本が好きになると思います」と答えた。
しかし、「偽満皇宮博物院」を出た途端、金先生がつぶやいた。「黒竜江省の哈爾浜(ハルピン)市には関東軍の細菌部隊731部隊を展示しているところもあります」。その展示がどのようなものかは知らないが、果たして、それを見た中国の一般市民がそれでも日本人民は別だ、と思ってくれるのだろうかと思わずにはいられなかった。

     <日本びいきの金先生>

8時 ホテル出発
9時 偽満皇宮博物院見学
12時10分 長春発
13時25分 北京着
長春大学構内を視察 [2009年09月12日(Sat)]
9月12日(土曜日)

        <聾学生たちが大歓迎>

午前中一杯かけて、昨日に続いて国別の報告を聞いた後、長春大学のPEN-International設備を視察に出かけた。驚いたことに、週末にも拘わらず、大学の入り口には長春大学の聾学生たちが集まって我々を歓迎してくれた。

       <聾学生たちの作品展を見学>

長春大学は吉林省立の大学。吉林省内では、国立の吉林大学に次ぐ第二の大学なのだそうだが、東北地域唯一の障害者対応の大学。盲学生には、鍼灸医学部、聾学生には工芸学部が用意されている。工芸学部の聾学生による作品の展示室に案内された後、講堂へ。そこでは、聾学生などによる大規模な舞踏フェスティバルが準備されていた。
素人の域を超えた演技と演出に圧倒された。さすが、人口大国中国だけあって、障害者の層が厚いことを思い知らされた時間であった。


      <聾学生たちによる歓迎の舞踏>


     <フィナーレ>

8時半 PEN-International会議(第2日)
13時 長春大学視察
17時半 夕食会
PEN-International会議始まる [2009年09月11日(Fri)]
9月11日(金曜日)

     <PEN-International始まる>

我々が宿泊する同じホテルでPEN-International全体会議の開会式が始まった。中国部会の代表で、天津聾理工大学のパオ教授とは5年ほど前に天津でお会いしたっけ。今年4月のロシア部会で会ったばかりの顔も。ベトナムのドンナイ師範大学のウッディーさん夫妻、香港中文大学の唐教授など親しい面々と挨拶を交わす。

     <日本財団を代表して挨拶>

開会式。私は、日本財団を代表して概略以下のように挨拶した。
日本財団がこの事業を開始するに当たっての問題意識は以下のようなものであった。即ち、日本財団は、途上国の障害者が置かれた状況を変革していく上では、障害当事者の役割が決定的に重要と考えた。そしてそのためには、障害当事者の中から、将来のリーダーを育てていくことが肝要と考え、障害問題先進国のアメリカの優れた高等教育機関に留学するための奨学金制度を創設した。しかし、一人当たりの金額が嵩む上、中には、卒業後も米国に滞在し自国には戻らないというケースもあった。
そこで、一握りの対米留学ではなく、途上国の大学の現場での学習環境を改善する方が効率的との考えに至り、聾者の理工系教育機関として定評のあったNTIDと協議の上、このPEN-Internationalを発足させた、と言う訳だ。


     <会議を支えたボランティアたち>

発足から9年。PEN-Internationalは大きく育ち、当初は4か国をカバーするにすぎなかったネットワークは現在では9か国、18校にまで拡がった。中国や、ロシア、日本などでは、自国内に多数の大学をネットワークに組み込み、資金的にも自立出来る目処が立った。日本財団としては、節目の10年目を迎える来年は、本事業は一区切りとし国際本部を維持するだけの最小限の事業費を除いて支援を打ち切る考えだ。
そして、その後は、大学に入る手前、高等学校レベルの聾学生の教育支援のために高等学校間ネットワーク事業を開始する方向で検討を開始している。途上国の現場では、特に、聾者への教育支援の取り組みが遅れており、能力がありながら大学教育にまで進めない若者が多数いることを考慮した結果だ。

8時半 PEN-International開会式
9時半 日本財団挨拶
10時 PEN-International会議(第1日)
13時半 PEN-International会議(午後の部)
17時半 学長主催夕食会
久し振りの中国、長春へ [2009年09月10日(Thu)]
9月10日(木曜日)

     <上空から見た豊かな大地>

久し振りの中国出張。オリンピックに合わせて開港した北京の新しい飛行場で、国内線に乗り継ぐ。日本財団の若手職員、吉田君も一緒だ。私にとって、北京は半年前の4月初めにモンゴルからの帰途立ち寄って以来だが、吉田君には生まれて初めての中国。空港の大きさにびっくりしているようだ。ただ、今回は北京市内を見ることなく、そのまま吉林省長春へ行かねばならない。

     <近代的な大都市長春>
 
一時間ほどで飛行機は降下を始めると、眼下には豊かな緑の大地が広がっていた。長春、吉林省の省都。人口は3百万人という大都市。かつては、日中戦争のきっかけとなった満州国の首都、新京と呼ばれていた町だ。何年も前になるが、満州鉄道関連資料の保存プロジェクトの関連で来たことがあるが、確か、あの時は一泊二日の慌ただしい旅だった。今回は三泊。目的は、世界9カ国の大学を結ぶ、聾教育の大学間ネットワーク事業「PEN-International」の全体会議に参加すること。
 
    <長春大学本部ビルの威容>

2001年に始まった「PEN-International」は、アメリカのニューヨーク州ロチェスターにある国立聾理工科学院(NTID)を中核に、途上国を中心にした各国の大学のうち、聾学生の支援技術の研鑽に関心のあるところをメンバーとする共同研究のネットワークシステムである。9年目になる現在では、世界9カ国の18大学がメンバーになるまで拡大した。2001年当時は4カ国の4大学のみで発足したのだったが。
全加盟大学の代表が集まって進捗を報告しあう全体会議は隔年ごとの開催。私は、これが初めての出席。これまで、何度も参加しようとして日程の調整がつかなかったのだ。


     <大学ビルから見た長春の町>

このプログラムの責任者のデカロ教授は、現在準備中の障害者大学院大学のコアメンバーであるが、8月のバンコクでの会議には奥さんの急病で来れず電話で話をして以来。奥さんがすっかり元気になった様子を聞き、一安心。明日の打合せの後、私と、吉田君は、長春大学の障害者教育専門家で日本の大学に留学していたという金さんと長春名物の餃子屋さんに連れて行ってもらって遅めの夕食。

10時35分 成田発
13時25分 北京着
15時35分 北京発
17時10分 長春着
| 次へ
ブログパーツ レンタルCGI