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大野修一(日本財団)
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香港経由で帰国 [2009年06月16日(Tue)]
6月16日(火曜日)

8時20分 ジャカルタ発
14時10分 香港着
16時10分 香港発
21時25分 成田着

ケアリー前オックスフォード大教授の数奇な人生 [2009年06月15日(Mon)]
6月15日(月曜日)
ASEANビルのホールで9時半から「ハンセン病患者回復者の尊厳回復プロジェクト」の立ち上げ式典が開かれるのに間に合うべく、8時半にホテルを出てASEAN本部へ向かう。笹川会長はスリン事務局長と事務局長室で暫し談笑。私は、その間、事務局長特別顧問のラジャさんと、懸案事項の打合せ。

     <事務局長室で笹川会長と談笑するスリン事務局長>

ハンセン病元患者などNGOや、事務局関係者の他、各国大使、各国保健省代表など予想以上に大勢の参加者が詰めかけるなか、ASEANハンセン病元患者尊厳回復キャンペーン開始式が始まった。

     <「ハンセン病患者回復者の尊厳回復プロジェクト」開始式典>

思えば、昨年6月に笹川会長がスリン事務局長と合意文書に調印し、始まった日本財団とASEAN事務局との包括協定であるが、5項目の事業分野の内で、ハンセン病元患者の人権問題を扱う今回の式典が具体的な共同事業の第一号案件となった。
ただ、この分野は、私の直接の担当分野ではないので、笹川記念保健財団や田南常務に任せて気楽な立場で傍聴。


     <NISVAインドネシア事業のコーディネーター谷川さん>

盛会の内に式典が無事終了したのを見届けて、私はNISVAインドネシア事業のコーディネーター谷川さんと落ち合い、NISVAボランティア派遣事業の現場へ。
ジャカルタの郊外へ向かう。道路は順調、目的地のアサルタには2時間の予定が1時間ほどで着いてしまう。ここはメタルプレスの会社、従業員930人の中堅企業。日立出身のシステムエンジニアの野村さんがNISVAから派遣されて活躍中。ただ、システム開発以前の問題が山積、野村さんの苦労も並大抵ではなさそう。
NISVAインドネシア事業の松下ゴーベル財団(YMG)を訪問、ヘル・サントソさん以下、幹部の方にお目にかかってお礼を申し上げる。


     <松下ゴーベル財団でヘル・サントソさん>

ここでは、もうお二人のNISVAボランティア、小沼さんと臼井さんにもご足労願い、お目にかかることが出来た。小沼さんは日野自動車出身、バス整備のプロだ。臼井さんはサンライズ工業出身、プラスティック用金型の専門家。お二人とも、海外での経験も十分で、元気に活躍していられる様子。生活費の問題などを話し合う。
雨が降り出した。私は、7時にジャカルタ義肢装具士学校プロジェクトの責任者、ケアリー博士との打合せが入っている。急いで、ジャカルタに戻らねばならない。皆さんに挨拶もそこそこに、車に乗り込む。
ピーター・ケアリーさんとは前回ジャカルタでカンボジアトラストのカーソン理事と一緒にお会いして以来、二回目の面談。先ず、義肢装具士学校事業のその後の進捗状況を伺ったあと、前回お会いした時から気になっていたこと、即ち、オックスフォード大学教授という名誉も安定も投げ出して、何故、我々の事業のためにインドネシアまで来るという決断をしたのか、ということだ。
高名な学者らしく、上品なウイットと気品のある英語(これが、いわゆる、オックスフォード英語というものではないかと思うのだが)で、彼が語ってくれた話は非常に感銘深いものであった。


     <前オックスフォード大学教授のピーター・ケアリーさん>

彼は今、61歳。生まれはミャンマーのヤンゴン。お父さんはリバプール出身だが、16歳の時にヤンゴンに渡り、貿易に従事していた。そこで、上海生まれの英国人女性と結婚、ケアリーさんが生まれた、というわけだ。一家は、1950年代末に、英国に帰国。
彼はオックスフォード大学に進学、歴史学を専攻。優秀な成績を修めたため、学者として残ることを勧められる。その時、教授から、ヨーロッパにおけるフランス革命の影響、という当初の課題ではなく、オランダ領東インド(現インドネシア)におけるフランス革命の影響という誰もやっていない分野を手掛けてみないか、との示唆を受けた。その時、ふと目にしたのがジャワの若き国王ディパナガラの銅版画であった。この肖像画に何故か強く心を惹かれるものがあり、結局、ジャワの歴史を専攻することになった。
縁があって、大学院生の時に、3カ月かけて喜望峰を通るアフリカ回りの船でインドネシアに向かったことがる。しかし、洋上で盲腸にかかり、危うく手遅れで命を落とす寸前、英国空軍機によってシンガポールの病院に急送され、命拾いした。
結局、このときは、回復後、一旦英国に戻されてしまったが、1971年にインドネシア行きを実現。その後、(極めて難解と言われる)ジャワ語をマスター、古文書を渉猟し、論文を執筆する生活に入った。その後、ケアリーさんは、主任教授のあとをついで、オックスフォードの中でも権威あるトリニティーカレッジの歴史学の主任教授となる。
ところが38歳の時、彼の象牙の塔の人生を揺り動かす事件がおこる。彼のインドネシア専門家としての知識を高く評価した英国の有名なNGO、オックスファムの要請を受けて、1986年に彼はアジア問題の顧問に就任。その関係で、翌年、カンボジアを訪問する。そこで、地雷や戦闘の犠牲で障害者となった人が大勢いるのを見て大きな衝撃を受ける。
そして、1989年、友人の教授や外交官たちと語り合い、カンボジアトラストを設立、カンボジア支援の運動を始めた。ダイアナ王女が関係していた財団などから資金援助を受けて、地雷除去や外科クリニックなどの活動を始めるが、90年7月には資金が底をついたため、やむなく活動終了を覚悟した時、ある友人から、有名週刊誌に、プロのカメラマンが撮った素晴らしい写真があるので、それに添えて支援を訴える文章を書くよう、勧められる。
その記事への反響はすさまじく、予定の額の倍以上があっというまに集まってしまった。さらに、91年初めに自分の教え子で日本の輸銀から来ていた留学生が、日本財団の笹川さんを紹介してあげよう、と言ってくれた。こうして、カンボジアトラストは日本財団という強力で継続的スポンサーを得ることになり、安定した財政基盤のもとで活動できるようになった。
ケアリーさん自身は、1988年から1997年まで、即ち、カンボジアの義肢装具士学校が発足し第一回目の卒業生を出すところまで、毎年のように、カンボジアに通ったが、その後は、再び、大学人としての生活に専念し、それまでの研究を集大成するような大部の著作の執筆に専念。
これが、昨年出たその本なんだ、と彼が差し出した大きな本の表紙には、学生時代の彼がインスピレーションを得た、ジャワの若き国王ディパナガラが描かれていた。彼の話はまだ、続く。
━あれは、この本を執筆していた2006年のこと。カンボジアトラストのカーソンから電話が掛ってきたんだ。「日本財団がインドネシアに義手義足装具士の養成学校の設立を決めた。君に何らかの形で手伝ってもらいたいんだ」とね。
このまま、大学に65歳の定年までいれば安穏な生活と年金が保証される。正直なところとても迷ったよ。でも、考えたんだ。これは、自分のこれまでの人生の二つの重要な部分、即ち、カンボジアから始まったNGOとしての人生、とインドネシア学者としての人生、その二つを統合することが出来る素晴らしいものではないかと。プルーストの詩にもある。天の声に背を向けて生きることも出来る。しかし、それは、日蔭の人生だ、とね。ジャワの言葉にも天啓という言葉がある。それだ、と思ったんだよ。
後日、2007年に彼は24歳まで育てたダウン症の長男を失ったことを、聞かされた。「愛らしく、美しい心を持った素晴らしい息子だったんだ」と彼は言った。
最初の奥さんを病で失い、彼は、今、再婚したジャワ人の夫人と、東チモールで養子にした3歳の子供と一緒に、ジャカルタで学校運営に文字通り奔走してくれている。
日本財団の事業はこれらの素晴らしい人々によって可能になっているのだ。



8時半 ホテル出発
9時半 「ハンセン病患者回復者の尊厳回復プロジェクト」開始式典
13時 NISVA現場視察出発
14時 アサルタ工場訪問
17時 YMG(松下ゴーベル財団)訪問
19時 ケアリー博士面談
スリン事務局長らと夕食 [2009年06月14日(Sun)]
6月14日(日曜日)
日曜の朝、久しぶりに朝寝。一人、ホテルの近くのシンガポール名物の屋台でおかゆをすする。昼過ぎに空港に向かい、ジャカルタへ。
空港でスラバヤから到着したばかりの笹川会長一行と合流。19時、ASEAN事務局長のスリンさんの招きで夕食。先方は、特別顧問のラジャさんと二人。こちらは、田南常務、通訳の平野さんを加えた4人、総勢6人の気楽な夕食会であった。


15時30分 シンガポール発
16時05分 ジャカルタ着
19時 ASEAN事務局長夕食会
シンガポールでマラリア!? [2009年06月13日(Sat)]
6月13日(土曜日)
朝、近代薬配置事業の現場に向かった佐竹教授、中嶋君らとは別行動をとった私は、キャッサバ事業のプログラムディレクター、ティン博士とホテルで再度協議。そのまま、空港に送ってもらう。夕方、シンガポールに舞い戻る。

    <空港へ通じるビエンチャン一の幹線道路>

シンガポールで入手した現地紙によれば、何と、シンガポールでの話題はマラリアの被害。先進国で衛生事情が極めて優れているはずのシンガポールで、マラリアとは信じられない。新聞記事によると、今年は、雨が多かったため、自然公園やグリーンベルト地帯でマラリヤを媒介する蚊が異常発生したのだとか。現時点で既に患者が15人に達したのだとか。これは、2006年の通年13人以来の大きな数字。年間では近来ない高水準に達することは確実、との情勢だそうな。

9時 CIATアジア本部ティン博士
13時50分 ビエンチャン発
14時55分 バンコク着
16時20分 バンコク発
19時35分 シンガポール着

佐竹教授らと合流、ラオス保健省伝統医学研究所へ [2009年06月12日(Fri)]
6月12日(金曜日)
シンガポールを早朝に発ってバンコクで飛行機を乗り換え、ビエンチャンへ。バンコク空港でミャンマー、タイと回ってきた日本財団の伝統医学事業担当中嶋君と、有用薬草の研究者として名高い、富山大学兼お茶の水大学客員教授の佐竹先生と合流する。飛行機は、1時前にビエンチャンに到着、皆一緒にホテルへ向かう。

     <ビエンチャン俯瞰図>

ビエンチャンは近年目覚ましい成長を遂げ、騒々しい大都市に変貌した多くのアジアの首都の中では、例外的に静かでのんびりとした空気が漂う、昔ながらのアジアの町である。それでも、ラオスの人たちは真顔で最近は交通渋滞がひどくて、とこぼすのを聞いていると思わず噴き出しそうになる。

     <随分、車が増えたと言うがのんびりした町並み>

私は、ホテルのロビーでキャッサバ事業を担当する熱帯農業研究センター(CIAT)アジア本部のデフロイ本部長、プログラムディレクターに昇格したばかりのティン博士と面談。来年度の事業プランを相談する。
そのあと、佐竹先生、中嶋君と一緒に、保健省伝統医学研究所へ。シダラ副所長らと、伝統医学事業について協議。保健省がこれまで世界銀行やアジア開発銀行の支援でやってきた貧困地域の5600か村での近代医薬品を用いた医薬品配置事業の見直しの一環として、一部を伝統医薬品と置きかえたいという先方の要望に基き、事業計画を立てることにする。

     <佐竹先生を囲んで 伝統医療研究所の玄関>

夜は、保健省の人たちと夕食を取ることになり、ホテルの車で、指定された筈のレストランへ。ところが約束の時間になっても、だれも現れない。ラオスの人は万事のんびりだからと心配しないで待つうち、30分も過ぎた。このころになって、さすがに心配になり何とか先方に連絡。そうして、漸く、間違ったレストランに連れてこられたことに気づいた。
慌てて、正しいレストランを探し当て、そこに着いたころには約束の時間を1時間過ぎていた。しかし、誰も困った様子もなくニコニコしている。単なる笑い話が一つ出来ただけで、何事もなかったように乾杯が始まった。


     <夕食の後で記念撮影>

7時40分 シンガポール発
9時 バンコク着
11時45分 バンコク発
12時55分 ビエンチャン着
14時半 CIATアジア本部デフロイ本部長
16時 保健省伝統医学研究所シダラ副所長
20時 保健省局長らと夕食会
EDB(経済発展局)の新しい動き [2009年06月11日(Thu)]
6月11日(木曜日)
EDB(経済発展局)に国際非営利団体のアジア本部誘致を担当する部局のロー副部長を尋ねた。市内目抜き通りの有名なラッフルズホテル横のショッピングモールRafflesCityの中のビルの4フロアーを使っているEDB(経済発展局)はシンガポールの本部に400人、海外に200人という堂々たる陣容だ。

     <EDB(経済発展局)の本部はRafflesCityのビルの中>

もともとは、シンガポールへの外資系企業、それも当初は製造業の対シンガポール誘致のために作られた役所だが、その後、シンガポール国内の人手不足が深刻化すると、非製造業、なかでもハイテク産業の、アジア本部の誘致に注力していた。
最近作られたローさんの部署の仕事は、公共財団などNPOのアジア地域本部の誘致だという。
彼と面談するのは二回目である。彼にも、障害者大学院大学の構想は予め話していたが、今回は構想メモを渡し、今後の進め方について助言を求めた。


     <EDB(経済発展局)のロー副部長>


     <EDBに行く途中見つけたメイドカフェらしき看板>

12時半 朝日新聞塚本支局長
16時 EDBロー副部長
19時半 共同通信米元支局長
リークアンュー公共政策大学院副院長と面談 [2009年06月10日(Wed)]
6月10日(水曜日)
ティルバナンタプラムを夜行便で発ち、早朝、5時40分にシンガポールに到着。午前10時半、シンガポール国立大学リークアンュー公共政策大学院へ。入口で、ASEAN事務局長特別顧問のラジャさんが待っていてくれた。障害者のための大学院大学構想をまとめたメモをラジャさんに送り、リークアンュー公共政策大学院にコンタクトしたいが誰か知り合いはいないかと尋ねたところ、何と、学院長のキショールさんは、高校大学時代の先輩で、昵懇の中だと言うではないか。
結局、海外出張中で不在のキショール院長に代って副院長が会ってくれることになり、こうしてラジャさんも同行して面談の運びとなった。


     <リークアンュー公共政策大学院の建物>

結局、今回の会談では、リークアンュー公共政策大学院としては直ぐに、直接の提携を出来る体勢にはないが、この構想そのものには関心はある。段階的なアプローチであれば協力出来る可能性があるのではないか、ということになった。
前日、ケララで会ったサブリエさんも、私の構想に対し、これは自分がやろうとしているのは社会事業家を育てて、直接社会に仕掛けて行こうというアプローチとはことなるが、それと対立矛盾するものではなく、それを補完するものであり、大いに意義がある。相互に協力し助け合っていこうではないか、とのコメントを寄せてくれた。これまでは、単なる夢物語に過ぎなかったものがこうして説明するたびに賛同者、支援者の輪が広がっている。あきらめずに努力を続けて行けば、きっと、実現出来る日が来るのではないか、と思えるのであった。


5時40分 シンガポール着
10時半 リークアンュー公共政策大学院 副院長
19時半 日経新聞牛山支局長
サブリエ・テンバーケンさんが始めた学校IISE [2009年06月09日(Tue)]
6月9日(火曜日)
スリランカへの出張の最大の問題は飛行機の時間。発着とも何故か、利用者の都合何て全く考えていないと言わざるを得ない時間が多い。今回はまだましな方とは言え、7時半の出発。深夜3時半に起きて、4時半にホテルを出発。南インドケララ州の州都、ティルバナンタプラムへ。盲人のドイツ人女性サブリエ・テンバーケンさんが始めたIISE(International Institute for Social Entrepreneurs)を見学するためだ。
インドは私には鬼門。いつも何か起きるので、無意識のうちに身構えてしまう。今回は、スリランカからの短い旅。高々、一時半の行程だが、何と、飛行機が30分早く出発したので、到着もその分早まり、予定より随分早い8時15分にティルバナンタプラムに到着。サブリエさんが出迎えてくれる筈だが、果たして無事会えるのか不安が頭をよぎる。
到着ホールに進んでみると、新型インフルエンザ(海外ではどこも相変わらず「豚インフル」と呼んでいるが)のチェックカウンターで大混乱。何故、普通に整然と出来ないのか不思議。今回は、インドでは泊らず今夜の夜行便でシンガポールに移動するので、スリランカで搭乗した際に、荷物はシンガポールまでスルーチェックインにした。そのため、ここでは出てくる筈はないのだが、ふと不安になったのでターンベルトの前で、念のため様子を見ることにする。
すると、不思議というか案の定というか、何と、シンガポールに運ばれるはずの荷物が出てきたではないか。荷物のタグを確認してみると、ちゃんと、シンガポール行きとなっている。従って、スリランカでの手違いではない。
あるいは、ここではこのようなシステムになっており、このまま放っておくと、係員がシンガポール行きの載せてくれるとでも言うのであろうか。念のため、係の女性に尋ねてみたところ、放っておかず、持って出た方が良い(!)とのアドバイス。何ということだろうか。
唖然としながらも、念のためにチェックして良かったと胸をなでおろしながら、外へでてみると、サブリエさんが盲人の日本人の女性ヨシミさんと一緒に出迎えてくれた。といっても、二人とも私を見えるわけではないので、ちょっと不安そうに、群集の中に佇んでいたのを私が気がついたという訳なのだが、、、。
私にとって、サブリエさん、ヨシミさんとは昨年7月の視覚障害者次世代リーダー国際会議以来。サブリエさんは講師、ヨシミさんは研修生としての参加であった。その時から、サブリエさんの夢の計画であるこの学校のことは聞いて、彼女の話に強く惹かれ、是非、南インドの学校が出来たら訪ねたてみたいと思っていたのだ。ヨシミさんは、今年初めに学校が始まると同時に20人の学生と一人として参加したのだった。

     <サブリエさんとヨシミさん>

南インドのケララ州は、スリランカからは目と鼻の先なので、今回の出張に合わせて訪問することにしたものだが、私にはもう一つの目論見があった。それは、障害者大学院大学の構想について彼女の意見をもらうことであった。事前にメモを送ったところ、サブリエさんから是非意見交換しようとのメールが届いていた。
(サブリエさんのことは、http://blog.canpan.info/ohno/archive/411に以下のように書いた。
「彼女はまだ38歳ながら欧米などでは、既に極めて有名な人物である。2004年にはタイ ム誌のヒーローオブザイヤーに選ばれ、2006年にはマザーテレサ賞を受賞。また、2005年にはノーベル平和賞候補にもノミネートされている。彼女がチ ベットでの盲学校設立に至る過程を描いた本「わが道はチベットに通ず」はドイツでベストセラーになったばかりか、日本語など各国語にも訳されている。ま た、日本でも公開された映画「ブラインドサイト 小さな登山者たち」はいくつもの映画祭で賞を受けている。
彼女は、自分の生い立ちからチベットに至る半生を語り始めた。
自分は12歳で失明したあと、途上国支援を志してボンの大学でチベット、モンゴルを中心に中央アジア学を専攻、チベット語や中国語を学んだ。チベット語の 学習の過程で自らチベット初となる点字を考案、27歳にして単身でチベットに移り住み、大変な苦労の末、盲人学校を設立した。それまで教育の対象として全 く顧みられる事の無かったチベットの目の見えない子供たちに、自ら開発したチベット点字を習得させるとともに、点字を通じて算数、中国語、英語などを教え た。そして、さらに2006年には盲人初の米人エベレスト登山家や6人の子供たちと一緒に7000メートル級の登山に挑んだ。
私自身も含めて、盲人の若者を中心とする聴衆は、破天荒ともいえる彼女の話に圧倒されたようだ。まるで小説を読むような、波乱に満ちた経験談の中で、サブ リエさんが繰り返したメッセージは、盲人は、決して無力な存在ではなく、哀れみの対象ではないこと、自分に誇りを持ち、自信を持ち、信念をもつことで不可能と思えたことでも成し得るのだ、ということであった」)


     <国際社会事業家養成学校(IISE)の美しい建物>

さて、二人の若き女性の出迎えを受けた私は、一緒に古びた乗用車で国際社会事業家養成学校(IISE)に向った。てっきり学校の専用車かと思ったら、白タクであった。「いつもこの車を使っているの」と尋ねると、「いいえ、いつもはバス。今日は貴方が来たから特別よ」。との答え。「私たち盲人は甘っちょろい環境に慣れてしまうといけない、というのが私の主義なの」
しかし、到着したIISEは私の予想を大きく裏切る、素晴らしいキャンパスを持っていた。広大な敷地は1万平米、校舎は美しいレンガ作りの建物群であった。豪華ではなく、シンプルな素材を使っていることが見て取れるが、非常に気持ちのいい建築様式である。これらは、インドを代表するIT企業Infosysの経営者夫人など様々な個人の寄付によるものだとか。

     <食堂で学生たちが私を歓迎する歌を歌ってくれた>

この学校の目的は、視覚障害者に、社会事業家としての自立に必要とされる技術や知識を、一年かけて、修得させることを目指している。中身は、経理や法律などに加えて、交渉術、説得術、リーダーシップなど。実際のインド企業でのインターンや仮想社会事業での資金集め訓練など、総て、極めて実用に即したかたちで身に着くよう配慮されている。
午前は、「紛争仲裁」に関する講義を傍聴した。ここでは、生徒はparticipant先生はcatalyst(触媒)と呼ばれている。教員は、サブリエの思想に共鳴して駆け付けた様々な国籍の専門家たちであった。


     <やわらかな陽光が注ぐサブリエさんのオフィス>

午後は構内視察。生徒たちの制作による、なかなかに凝った放送劇を聞いたあと、3人の生徒にインタビューした。特に、アフリカの白子(Albino)の女性参加者の話は衝撃的であった。
私は、色の白い彼女のことを、初め、てっきり白人だと思った。ただ、言葉に黒人特有の訛りがあり、初めて気がついた。アフリカでは、もともと、白子は悪魔の仕業など不吉なものとして恐れられている。そのため、彼女の母親は、出産直後出奔、祖母に育てられた、という。
最近、タンザニアで白子の身体には魔力が宿っているというデマが広がり、白子を殺害し、その身体の部分が高額で売買されるという動きが広まっているのだそうだ。彼女は、ケニヤ人だが、最近では、ケニヤでも道を歩いていると「お金があるいているぞ」というような言葉を掛けられるようになり、生きた心地がしなかった、という。
彼女は涙をこぼしながら語った。「私は、ここに来て、生まれて初めて、差別のない、暖かい家族に包まれたような毎日を送れるようになった。私は、白子に対する差別撤廃のために戦う。そのための技能を身にけるためにここに来たんだ」
涙でぐしょぐしょになりながら、拳を握りしめて叫んだ彼女の姿が目に焼きついた。


     <私が見学した授業は野外の教室で行われていた>

7時30分 コロンボ発
8時15分 ティルバナンタプラム着
10時 国際社会事業家養成学校(IISE)訪問
22時40分 ティルバナンタプラム発
ササカワトラスト副会長ダヤシリさんのこと [2009年06月08日(Mon)]
6月8日(月曜日)

     <バンダラナイケ記念国際会議場>

セワランカ財団のハルシャ会長に紹介してもらったパリタ・コホナ外務次官とホテルのレストランで朝食。日本人メディア関係者のために、キリノッチやムライティブへの特別取材許可を陳情する。彼は、豪州とスリランカの二重国籍。オーストラリアに滞在中のところを、ラジャパクサ大統領に請われて帰国したという。まだ40代の若手ながら、外務大臣以上の切れ者と評判。保健大臣からの要請のあった国内避難民用の義肢義足装着事業など、日本財団のスリランカ支援策などについても相談する。
次官との朝食のあと、日本大使館へ。着任したばかりの高橋大使を訪問。日本の民間団体ももっとPRに力を入れるべきと激励される。

     <バンダラナイケは中国語では「班達拉奈克」>

新ササカワホール建設予定地を視察する。約600坪の敷地。バンダラナイケ元大統領記念国際会議場(BMICH)の丁度、向かい側という素晴らしい立地。この建物は中国政府の支援により建てられたもの。入口には「紀念班達拉奈克国際会議場」との中国語の看板がかかる。警察官に不審に思われてはいけない、と心配するダヤシリさんの車の中から、急いで写真を撮る。
最愛の長男を亡くされたばかりのダヤシリさんだが、固辞する私に、「悲しみがまぎれるので」と自ら運転する愛車のベンツで、大使館と、新ササカワホール建設予定地に案内してもらった後、夕食をご一緒しながら、彼の半生記を伺った。
ダヤシリさんは、1939年生まれの70歳。14歳の時に名古屋の女の子と文通を始めて、日本に興味を持つようになった。
アメリカに瀬戸物の勉強をしに留学しようとしたところ、貿易商をしていた彼女のお父さんから瀬戸で勉強するよう勧められ身元引受人になってもらった。1960年に瀬戸に着いて見ると、コロンボと比べて大変遅れた貧しいところ、という印象を受けた。コロンボの自宅には車があり、市内にはたくさん車が走っていたが、瀬戸市内には車は殆どなかった。道路は未舗装、さびしい街だった。日本語は全然出来ず、苦労したが、人々は大変親切だった。シンハリ語と日本語は文法的に近く、およそ3カ月ほどで話せるようになった。
瀬戸には7年滞在。瀬戸陶芸高校を卒業。瀬戸物作り技術を身に付けただけでなく、日本語も流暢に話せるようになって帰国した。そして、独力で陶器の会社を立ち上げた。立ち上げ当時は、生産設備、原材料の調達で大変苦労したが、日本人にも助けてもらって、難局を切り抜けた。
当時、日本についてのスリランカ人一般の知識は乏しかった。ダヤシリさんは、日本の生産技術だけでなく、会社の管理技術、特に、生産管理に感銘を受け、スリランカ国内で5S運動を始めた。
現在は、陶器メーカー「ミダヤセラミックス」の社長として3人(今は2人になってしまったが)の息子たちと経営に当たるのみならず、笹川ホールを運営するための委員会であるササカワトラストの副会長として96歳のアントニウス会長に代わって事実上切り盛りしている他、スリランカ日本語教育協会会長、スリランカ癌予防協会の会長などの要職を兼務。日本のロータリークラブと協力して、日本の病院から寄贈されたベッドを数1,000台も自分の私財を投じて運び、スリランカ国内各地の病院に寄付するなど慈善事業家として知られている。日本財団との関連では、笹川ホールのほか、私がお願いしてスリランカ義肢装具士学校の設立当初から理事に就任してもらった。勿論、これも無給の名誉職である。
瀬戸で知り合い、スリランカで結婚した節子夫人の内助の功も大変なものであろうが、ダヤシリさんのえらいところはそれを公言して憚らないところである。ただ、不思議なことに彼の会社「ミダヤセラミックス」のミダヤは初恋の人ミツコさん(節子夫人ではなく!)とダヤシリさんの二人の名前の合成なのだそうである。


8時 パリタ・コホナ外務次官との面談
10時 高橋日本大使訪問
11時 新ササカワホール建設予定地視察
17時 ササカワトラスト副会長ダヤシリさん
デング熱が大きな問題 [2009年06月07日(Sun)]
6月7日(日曜日)
来た時と同じように、早朝に出発する。朝夕のラッシュを避けるだけではない。出発を遅くして、途中で暗くなってしまうと今でも危険で、場所によっては夜間の通行が禁止されているのだ。
タミル地域を出て、仏教徒のシンハリ人の地域に入ると、再び、スリランカ国旗が目につくようになる。タクシーとして一般に使われている3輪の軽自動車にも、国旗がたなびく。

     <小さなミゼット型タクシーにも国旗が>

お祭りの行列に遭遇する。今日は仏教のお祭り。今年は、仏教伝来2550年?なのだとか。お祭りの行列とは言っても、着飾った老若男女がぞろぞろと歩くだけのものだが、ここでもスリランカ国旗。やはり、戦勝記念を兼ねてのものだそうだ。

     <仏教のお祭りが戦勝記念のパレードも兼ねる>

コロンボ市内に入ると、再び、戦勝記念のポスターが目につく。26年続いた内戦を強気の陣頭指揮で戦勝に導いたラジャパクサ大統領の人気は今や大変なものだそうだ。彼は、来年の任期切れを待たず、大統領選挙を今年中に前倒して行うことを計画中という。人気がピークの内に地盤固めをしてしまおうということらしい。

     <戦勝記念の大きなポスター>

車の中に蚊を見つけ、手で追おうとするが捕まらない。今、スリランカでは蚊が媒介するデング熱が問題になっている。マラリア蚊は清水を好み都市圏では余りいないのに対し、デングを媒介する蚊は汚水の中でも生き抜くしぶといものでコロンボ市内でも油断は危険。マラリアほど致死率は高くないとは言うものの、高熱をもたらすやっかいなものだ。
新聞によると、スリランカでの死者は既に110人、患者2,5万人。新型インフルエンザ以上の騒ぎである。ウデニさんたちに尋ねると、「そうなんだ。だから、蚊に咬まれないよう気をつけろ」と言いながら、車の中の蚊に左程心配する様子もない。時折、手で追い払う仕草をするのみ。防虫スプレーを持っているわけでもない。こういうときに限って、私は、蚊に何度もかまれる。考えてみると、着いたときの、
空港で、トリンコマレーのホテルでも、そして、この車の中でも。
コロンボ市内のホテルに向かう途中、面白い看板を見つけた、曰く、Mitsuboshi 、そしてまた、Penasonic。しかし、蚊の話に気を取られて、写真を撮るタイミングを逃してしまった。残念。


6時 ホテル出発
14時 コロンボ到着
19時 サンケンランカ田原取締役面談
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