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大野修一(日本財団)
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犬山城 (01/18)
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17日間という長い出張へ [2009年05月31日(Sun)]
5月31日(日曜日)
今回は、17日間という長い出張。この出張はもともとは、日本財団が東南アジア各地で展開している義肢義足装具士訓練学校のうち、タイとスリランカで相次いで開かれた定例理事会に参加するために計画したもの。そこへ、昨年締結したASEAN事務局との提携協定に基づくハンセン病人権キャンペーン開始式典が、6月15日にジャカルタで開かれることになったので、その間の期間を利用して、スリランカから直行の空路でわずか一時間というインド南部ケララ州トリバンテルムでの国際社会企業家学校視察と、シンガポール国立大学リークアンユー行政大学院での打合せを追加。そのため。結局、2週間以上の長い出張と相成った。

10時50分 成田発
15時25分 バンコク着

新型インフルエンザ対策のマスク姿のスチュワーデス [2009年05月23日(Sat)]
5月23日(土曜日)
帰国のため。再び、サンフランシスコへ戻る。シアトルからのフライトでは、マスク姿の人を目にすることはなかったが、サンフランシスコの空港で、成田行きの日本航空便に乗り込んでびっくり。スチュワーデスが揃ってマスクをしていたのだ。「規則なので」とすまなそうに語るスチュワーデス。何より、これまでマスク姿を目にすることが無かっただけに、一層不気味に感じられた。
それにしても、日本人の何事に対するにも生真面目なまでに即応する態度と、死者が何人も出てようと、我関せずのアメリカ人との違いはどこから来るのだろう。恐らく少なくとも一つの要素はマスコミの対応の違いではなかろうか。この新型インフルエンザは発生の初期では日本では「豚インフルエンザ」と呼ばれていた。しかし、回教国を中心とした豚に対する過剰反応に、WHOが豚という言葉を使わず、新型インフルエンザと呼ぶべきだと訴えた途端、ほとんど一斉に各社横並びで翌日から豚インフルエンザに代えて、新型インフルエンザと呼び出したと記憶している。これに対し、米国では新聞やテレビで、いまだに堂々と豚インフルエンザ(Swine Flu)と言う言葉を変えようとしないのはどういう心理に基づくものだろうか。


     <マスク姿のスチュワーデスにぎょっとする>

9時23分 シアトル発
11時33分 サンフランシスコ着
13時30分 サンフランシスコ発
(翌日)16時20分 成田着
ビルゲーツ財団とアフリカでの農業事業での提携を協議 [2009年05月22日(Fri)]
5月22日(金曜日)
今日は、笹川アフリカ協会の執行理事会。2年前から協議が進行しながら、なかなか終結しないビルゲーツ財団とのアフリカでの農業支援での共同事業の話がいよいよ最終段階になったとのことから、来年度の予算や組織のありかたについて協議。
参加者は、メキシコの国際小麦トウモロコシ研究所(CIMMYT)から参加したクリスと日本事務局長の宮本さんの二人の常務理事の他、米国のカーターセンターのハードマン理事長、スイス人弁護士のフレモン氏、日本人の国際的な農業専門家で笹川アフリカ協会副会長の岩永博士ら。
夕方、4時半全員揃って、ビルゲーツ財団へ。アフリカ事業担当チームと協議。
そのあと、双方メンバーが一緒に夕食会。 


   <ビルゲーツ財団受付で、後ろ姿は、カーターセンターのハードマン理事長>

8時 笹川アフリカ協会理事会 
13時 笹川アフリカ協会理事会
16時半 ビルゲーツ財団訪問 
18時半 夕食会
障害者大学院大学の基本構想まとまる [2009年05月21日(Thu)]
5月21日(木曜日)
午前中は、ホテルのロビーで3人で討議。昼食をホテルのレストランで摂る間も議論。午後は、ホテルのカフェで討論。終日、三人で、ああでもないこうでもないと、障害者大学院大学の構想について議論。おかげで、夕方には、大凡の姿が、これまでより鮮明かつ具体的に見えるようになってきた。
そこで、次のステップとして、私が持参した叩き台のためのメモを、先ず、デカロさんが大幅に書き直し、それをキャンベルさんに回付、彼の意見を取り入れて最終版にし、コンセプトノートを仕上げること、それを各分野での障害当事者と専門家に送付し、意見を求めること、そして、8月初めころに、バンコクで障害当事者も加えた自由討論の場を持つこと、などで合意した


      <滞在したのは水辺に建つ小振りのホテル>


        <ホテルから見える湾の水面は穏やか>


           <大きな客船も入ってきた>


10時 障害者大学院大学打合せ
18時半 笹川アフリカ協会宮本事務局長
新型インフルエンザの心配をしながらシアトルへ [2009年05月20日(Wed)]
5月20日(水曜日)
久しぶりの米国出張。しかも、今回の出張の目的たる笹川アフリカ協会の主役の一人たる協会常務理事のクリス・ドズウェルさんは、メキシコ在住。日本財団事務局は、新型インフルエンザを心配し、マスクを持って行くようにと数枚手渡される。タミフルは以前に自分で入手したものを持参することにする。
ところが、サンフランシスコについてみると、マスクをしているのは、防疫担当の空港の職員くらいのもので、他にはおよそマスク姿が見当たらない。結局、一度もマスクを取りだすことなくシアトルへ。
私にとって、シアトルは今回が初めて。以前、首都ワシントンに住んでいたときに、新聞で、アメリカ人に住んでみたいと思う街を尋ねたところ、一番人気に輝いたのがシアトル。それ以来、一度は訪ねてみたいと思っていたが、これまでそのチャンスがなかった。今回、笹川アフリカ協会の理事の一人として、アフリカでの農業事業でビルゲーツ財団との協議に参加することになり、ビルゲーツ財団の本拠地であるシアトルに来る機会が生まれたのである。確かに、自然と人口が上手く調和した美しい街、というのが第一印象であった。


     <アメリカ人に人気のシアトル>

19時、ホテルのロビーで一足先に着いていた、国立聾理工科学院のデカロ教授とキャンベルさんに合流。デカロさんとは、4月にモスクワで会ったばかりだが、その際、私が持ち出したアジアで障害者のための大学院大学を作るアイデアに賛同、シアトルで再会することに決めたのだった。米国東海岸のニューヨーク州ロチェスターから、この構想を掘り下げるためのブレーンストーミングに、わざわざ駆け付けてくれたのだ。
同じく、先だって東京で会ってアドバイスをくれたラリー・キャンベルさんも、東海岸のオーバーブルック盲学校から今回の会議のために加わってくれた。彼は、国際視覚障害者教育協議会の事務局長。視覚障害者のためのコンピューター教育の専門家である。明日の会議を控え、今夜は三人で祝宴だ。


14時 財団出発
18時05分 成田発
11時30分 サンフランシスコ着
13時40分 サンフランシスコ発
15時45分 シアトル着
19時 デカロ教授、ラリーさんと夕食
帰国 [2009年05月16日(Sat)]
5月16日(土曜日)

8時15分 バンコク発
16時20分 成田着

伝統薬置き薬事業へのタイ保健省の熱意 [2009年05月15日(Fri)]
5月15日(金曜日)
正午前にタイ保健省の伝統医療局へ向かう。ASEAN事務局長特別顧問のラジャさんも合流して、8月末のASEAN地域伝統医療国際会議に向けて協議。3日間の会期の基本的な枠組みが決まる。当初期待されたシリントーン王女の出席は、別の行事との関係から見送り。その代わり、保健大臣の出席とスピーチが決まる。初日の開会式でのスピーチは、ASEANのスリン・ピスワン事務局長、日本財団の笹川会長を入れた3人で決定。

     <タイ国内4か所で配布された置き薬箱とその中身>

そのあと、私一人は、保健省の医務サービス局へ。今年の初めから始まったタイ国内での置き薬事業の現状報告を受けるとともに、6月にも計画されているタイ国内でのキャンペーン国民集会についての情報入手と、タイ保健省係官の対日研修の打合せを行う。
タイ国内4か所で1600世帯を対象にした置き薬キットのパイロット事業が始まったのは、2007年のウランバートルで日本財団がWHO(世界保健機関)と共同で開催した伝統医療に関する国際会議に、当時、タイ保健省医務サービス局の局長であったスパチャイ博士が参加したのがきっかけだ。彼の口から、タイでも日本財団がモンゴルの遊牧民相手に実施している置き薬の家庭内配布をやってみたいと聞いた時には、私は思わず彼に言った。「東南アジアでは既に、シンガポールに次ぐ医療先進国とも言われるタイで今更なぜ」。彼の答えは、「タクシン政権時代に始まった医療サービスの無料化の結果、財政負担が急増する一方で、国民の方は、病院が大混雑してしまい、肝心の医療サービスを受けることが困難になっている、という状況にある。たとえ、有料であっても簡単な病気なら、家庭内で副作用の少ない伝統薬を自ら服用できるようにすれば、一定の利用が見込まれるはず。これによって、どこまで病院の混雑と財政負担が軽減されるか実証実験をしてみたい」、というものだった。そこで、日本財団は、費用を保健省と折半すること、チュラロンコン大学の協力を得て、きちんとした科学的なデータを収集し、それを内外に公表すること、を条件に事業を支援することに決めた。




<プミボン国王をあしらったキャンペーン用カレンダー>


実施まで準備に時間がかかったとはいえ、タイ保健省のこの事業にかける意気込みは我々の当初の予想をはるかに越えるものであった。全土でわずか1600世帯のみが対象というこの事業のために、素晴らしい手作りのバスケットとそれぞれの薬の専用容器の表面に、日タイ両国の国旗をデザインした美しい専用ロゴ入りの置き薬キットを作り上げた。しかも、キャンペーン用に作ったカレンダーにはプミボン国王の(随分若かりし頃のではあるが)写真が大きくあしらわれている。タイで国王の肖像を使う許可を獲得したというのは、それだけで、大変な待遇である。即ち、王室の賛同を受けている重要事業であることを意味する。




     <置き薬を入れる箱は、素晴らしい手作りのバスケット>


     <日タイ両国の国旗をあしらった薬箱 日本財団のロゴも>


          <中身の個々の薬にも美しいロゴが>


12時 保健省伝統医療局アンチャリーさん
15時 保健省医務サービス局ドゥアンタさん
19時 The Nation紙 カビ副編集主幹
再びバンコクへ [2009年05月14日(Thu)]
5月14日(木曜日)
タイ保健省との協議を明日に控えて、再びバンコクへ行かねばならない。VNAHのタインさんが空港まで付き合ってくれる。途中、一緒に朝食をとる。彼は、2年ほど前に、ベトナム系アメリカ人の奥さんと知り合い結婚。暫く、二人はベトナムに住んでいたが、子供の教育のためにはアメリカの方が良いと、アメリカへの移住を決意。今年中には、アメリカに渡る予定である。今、奥さんは二番目の子供の出産のためにアメリカの実家に一足先に里帰り。彼は、比較的時間があるので、一旦はやめたVNAHをパートタイマーとして手伝う身だ。
「アメリカに渡っても、永住権は大丈夫としても、仕事は何をやるの」、と聞くと、「さあ、何か貿易でも始めようかと思っているんだ」、と言う。特に具体的なあてがある訳ではなさそうだが、「ベトナム人仲間が手伝ってくれるから何とかなるさ」と屈託がない。


     <アメリカへの移住を決めたタイン君>

11時35分 ホーチミン
13時00分 バンコク着
18時半 NHKバンコク支局 黒川カメラマン大橋記者
盲人のコンピューター専門家フックさん [2009年05月13日(Wed)]
5月13日(水曜日)
日本領事館へ。水城総領事、郷倉領事らと意見交換。草の根無償の活用策について具体的な候補事業を挙げて検討する。
そのあと、フックさんとホテルのロビーで落ち合い、障害者のための大学院大学構想について当事者としての意見を聞く。この構想については、私が2年ほど前から温めて来たものだが、先月、モスクワで思い切ってデカロさんに打ち明けたところ、大変賛同され、一緒にやろうと約束してくれた。その直後、たまたま来日した、盲人コンピューター教育の専門家キャンベルさんと話し合って、このアイデアは一層具体的なものとなった。しかし、その際、キャンベルさんは、特に、盲人の当事者の意見を聞きそれを参考にすべきだと助言してくれ、フックさんの意見を聞くように勧めてくれたのだった。

  
     <盲人のコンピューター専門家フックさん>

フックさんは、ホーチミン近郊の港町ブンタウ出身。1982年生まれ。現在、27歳の好青年である。両親は農民。子供時代は大変な腕白で両親に怒られてばかりいたという。ところが、9歳の時に失明。自宅の庭で花を摘もうとして、埋まっていた地雷に触れたのだ。半年入院したが、全盲になった。ホーチミンの盲学校に一年間だけ通い点字を学習。その後、普通校での学習が可能と判断され、地元の小学校に戻った。
当初は事柄の深刻さを理解できず、両親が急に優しくなったので喜んでいたフック少年だったが、次第に、自分の置かれた境遇の深刻さを理解するようになった。失明した後も腕白で、授業をさぼったり、ガキ大将的な性格は変わらなかったが、次第に友達は一緒に遊んでくれなくなり、一人ぼっちでいる間に物事を深く考えるようになったと言う。
そして、自分の将来を考えると、親が死んだ後も、一人で生きていくためには勉強を頑張るしかないと思い、猛然と勉強し始めた。クラスメートの女の子に家に来てもらって教科書を読んでもらったりして必死になって勉強した。特に、数学、物理など理数系の科目が得意だった。彼はほかの子供たちの何倍も勉強したと言う。ついに、クラスのトップになり、2年飛び級して16歳の時に高校を卒業した。

しかし、当時はベトナムの大学で盲人の入学を認めるところがなかったので、音楽家で身を立てるしかないと思い、高校卒業後の一年間は盲学校の時から習い始めたピアノを習うために専門学校に行った。ところが、一年後の1999年、国立社会科学大学の英文学部が初めて盲人に受験資格を与えたので、受験し合格。17歳で、ベトナムで初めての盲人大学生になった。
ちょうどその時、イタリア政府の支援でホーチミン市立技術大学が盲人用コンピュータートレーニングを始め、自分はそれに通い始めコンピューターに夢中になった。そして、コンピューター指導員の資格を得、米国にも2カ月短期留学し、2001年にベトナム初の盲人用コンピューターセンターである「サオマイ・コンピューターセンター」が設立されたのを機会に大学を中退し、センターの専従指導員となった。ただ、来年には国立社会科学大学に戻り、学士号を取ろうとしている。
サオマイ・コンピューターセンターでは、フックさんの能力が認められ、理事、副理事長、と昇格し今は理事長となった。センターの従業員は32名、内、フルタイムが12人、盲人も8人いる。資金不足でいつも苦労している。将来は、コンピュータープログラミングやコンサルタント業などの収益事業で自立できることを目指している。最近、盲人の職場確保の一環として、カフェを開業している。

2003年にディスタント・ラーニングのネットワークを呼び掛け、今ではベトナム全土で20の団体が加盟する組織に成長している。
フックさんによると、その後、ベトナムの盲人大学生の数は増大し、現在では、ベトナム全体では70名くらいか。既に卒業した者が40名くらいいる筈、という。
日本財団との関係は、2003年にON-Net(日本財団が支援する盲人用コンピューター技術訓練事業)が実施したタイでのコンピューター指導員研修に参加して以来。現在もON-Netとは緊密な関係が続いている。
私的な面では、2年前、ソフトウエアエンジニアの非盲人の女性と結婚し、一年前に子供が生まれたばかり。奥さんは日本に留学経験があり、日本語を話すという。「彼女と付き合っていたころのことでね、その2年間は、羽を伸ばすことが出来たんだけれど、帰国したら結婚を迫られてね、」と語る彼の明るい表情からは、幼いころの腕白少年の面影が覗いた。


     <若手有望ジャーナリストブン君と食事>

フックさんと別れ、今度は若手ジャーナリストのチャンバングエン(通称ブン)君と会った。彼はフックさんより一歳年上の28歳。孤児となりながらも、ベトナムの将来を担う若手有望ジャーナリストとして表彰された彼の人生も波瀾万丈だ。しかし、ブン君の話はまた今度。


12時 郷倉領事と昼食
14時 水城総領事面談
15時半 フックさん面談
18時 ブンさん面談
三重苦にあえぐタイ経済 [2009年05月12日(Tue)]
5月12日(火曜日)
タイでは、テレビでも新聞でも経済不況が大きく取り上げられていた。世界的な金融危機の余波で輸出が大きく落ち込んだところへ、タイでは昨年以来の政治混乱と、最近では、さらに新型インフルエンザによる影響が重なり、ビジネス客や観光客の来訪者数が大きく低下。外国からの訪問客数は半減、ホテルの稼働率も軒並み急落しているという。
午前、丸紅タイランド社に内藤副社長を訪ねる。彼とはカンボジア盲人協会(ABC)のビル建設の時に、土地探しから、建物の建設、機材の導入まで、大変お世話になった。おかげで、ABCのビルは頑丈で地盤沈下に伴うひび割れなどの問題もなく、現地NGOの間でも評判だ。今回、カンボジア義肢装具士養成学校(CSPO)の新校舎の建設の話が浮上した当初から、オーナーのカンボジアトラストのカンボジア事業の責任者であるメアリースコットさんの方から、丸紅を指定して施工をお願い出来ないかとの話が出たのも、そのためだ。
バンコクからホーチミンへ移動。空港には地雷被害者などに義足を配布しているNGOであるベトナム障害者支援組織(VNAH)のタイン君が出迎えてくれた。


10時 丸紅タイランド内藤副社長面談
12時半 朝日新聞 柴田総局長
18時15分 バンコク発
19時45分 ホーチミン着
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