CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
« 2009年03月 | Main | 2009年05月»
プロフィール

大野修一(日本財団)さんの画像
大野修一(日本財団)
プロフィール
ブログ
<< 2009年04月 >>
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
ブログ内の検索は
  こちらから ▼
Google 
カテゴリ
最新記事

コメント

トラックバック
犬山城 (01/18)
月別
リンク集
http://blog.canpan.info/ohno/index1_0.rdf
http://blog.canpan.info/ohno/index2_0.xml
WHO(世界保健機関)で伝統医療国際会議について打合せ [2009年04月24日(Fri)]
4月24日(金曜日)

     <ホテルの前は藤の花が咲き乱れていた>

久しぶりのジュネーブは、春うらら。朝、ホテルの周りは暖かな陽光に包まれ、色とりどりの花が咲き乱れていた。緑の少ない冬の世界であったモスクワから来た身には、そのコントラストがまぶしいほど。
WHO本部伝統医療課の専門官丸山さんが迎えに来てくれる。彼女の車に乗ること数分でWHOに到着。WHOは新型インフルエンザ騒ぎのまっただ中。関連の会合を告げる掲示が見られるが、オフィスの様子は左程いつもと変わらない。ちょっと拍子抜け。
伝統医療課責任者の中国人の張博士と丸山さんの3人で早速、会議。お二人とお会いするのは昨年10月の北京での国際会議以来、半年振り。
この間の日本財団の関連事業の進行状況につき報告。特に、8月末にバンコクで行うことになっているタイ保健省、ASEAN事務局との共催の伝統医療会議について意見交換。張さんの出席を確認。
会議の後は、いつものように、中華料理店で昼食。中国保健省から出向中の王さんも加わる。昼食の後、私は一人で徒歩でホテルにとって返し、タクシーで空港へ。パリへ出て、そのまま、成田行きに乗り継いでいよいよ帰国だ。フィリピンから始まった10日以上にわたる長旅も漸く終わる。


     <ところどころに黄色いパッチワーク>

空から見たジュネーブの平野のあちこちに、菜の花かタンポポ畑のように、黄色いパッチワークのようになっているところが見える。出てくるときはまだ肌寒かった日本も、今頃は春の色が一層色濃くなっていることだろう。パリのオルリー空港に着陸直前、飛行機はパリの市内をゆっくり通過した。エッフェル塔がはっきり見える。25年程前には、幼かった長女を連れてあその辺りに住んでいたんだと、とても懐かしく思い出し思わずパチリ。

     <懐かしいパリ市街がはっきり見える>


9時半 ホテル出発
10時 WHO世界保健機関
   伝統医療ユニット訪問
15時30分 ジュネーブ発
16時40分 パリ着
19時20分 パリ発
(翌日)14時10分 成田着
PEN-Russiaの会議2日目 [2009年04月23日(Thu)]
4月23日(木曜日)
  

     <PEN-Russiaの会議2日目>

今日はPEN-Russiaの会議2日目。昨日に引き続き、加盟大学の発表が行われた。PEN-Internationalのロシア支部として、PEN-Russiaが発足したのは2005年のこと。今ではロシア全土で5つの大学が加盟し、それらの大学で学ぶ聾学生の数も518人にまで達している

     <聾の学生たち>

我々の支援によって作られたモスクワ工大の聾サポートセンターの中のコンピューターラボは、モスクワ工科大学の総てのコンピューターラボのなかでも最も最新の設備とソフトを備えた最高のものである、と評価されている。ロシア政府はこのラボをモデルにロシア全土の32に大学に拡大するよう指示を出したという。

     <PEN-Internationalの責任者デカロ教授>

私は、PEN-Internationalの責任者デカロ教授に、かねてから温めてきた夢の構想である、アジアに障害者のための大学院大学を設立する計画を打ち明け助言を求めた。瞬時に彼はこの構想の意義を求め、協力を約してくれた。来月私がアメリカに出張する際に、時間をもらって構想の具体化に向けて準備を始めることになった。
デカロさんと話し込んでいるうちに、時間となり、昼食もとらず空港へ。
ジュネーブに到着。夜8時というのに、外はまだ明るい。気温もモスクワと違って春の暖かさだ。


     <夜8時というのにまだ明るいジュネーブ>

9時 Pen-Russia会議
15時 空港へ出発
18時30 モスクワ発
20時20分 ジュネーブ着
ノーベル賞と無縁の有名校、モスクワ工科大学 [2009年04月22日(Wed)]
4月22日(水曜日)

   <モスクワ工科大学の豪壮な正面玄関>

朝、デカロ教授と一緒にホテルを出て、市内のモスクワ工科大学キャンパスへ。1830年エカテリーナ女王によって作られたという歴史を誇るこの大学は、ソ連時代から連邦内各地から最優秀な学生が集まる理工系の超エリート校として有名であった。特に、宇宙開発では有名で、ソ連の宇宙飛行士の90%はこの大学の出身者だと言われる。エリート校だけあって学内の設備はなかなか立派であった。

         <とても豪華な大学講堂>

しかし、この大学は、ソ連の軍産学共同体の中核として、宇宙兵器の開発をリードしてきた大学でもあった。これだけの大学なら卒業生の中には多数のノーベル賞受賞者がいるだろうと思って聞いたところ、意外な答えが返ってきた。ゼロなのだ。その理由は、研究の内容が総て国家機密とされ対外的に発表することが許されなかったためとか。
その伝統は今も根強く残っており、大学に入るためのセキュリティーチェックは厳格をきわめている。それのみか、一旦、学内に入れたとしても、単独行動は許されない。導きいれられた校内の作りはどこか刑務所の中を思わせるものだった。考え過ぎか。


    <セキュリティーの厳しい学内>

この大学は、日本財団が支援する国際聾唖高等教育ネットワーク(PEN-International)のロシア本部、とでも言う位置づけにある。モスクワ工大は、ソ連時代の1934年に、いち早く聾唖者の学生の受け入れに踏み切ったことで知られる。現在の聾学生数は予備課程の50人を加えると250人。全学生数1万8000人という数字と比べると小さいが、大きな数だ。しかし、何故か、障害者の受け入れは聾唖者だけに限られている。視覚障害者は不適格と考えられているようであった。車いすの姿も見られない。
一般の教室で聾の学生が一般の学生に交じって授業を受けている様子を見学。手話通訳が聾学生の前に陣取り付きっきりで通訳していた。専門分野の手話通訳の養成は大変だ。


     <手話通訳の付く授業風景>

その後、聾学生のためのサポートセンターで聾学生のためのコンピューター教育の様子を視察。このセンターとコンピューター機器は、日本財団の支援によるものだ。


    <聾学生のための特別コンピューター教室>

Pen-Russia会議に参加した後、夜はフョードロフ学長とロシア料理店で夕食。フョードロフ博士は、モスクワ工大学長の他にも、プーチン首相の特別顧問、ロシアアカデミー会員、全ロシア理工系大学長会の会長など要職についている実力者だが、英語はできず、寡黙。彼が身を乗り出したのはロシア文学の話になったときくらいで、宇宙工学などチンプンカンの私達との話はあまり弾まなかった。デカロさんが私にそっと耳打ちした。彼を数年前にアメリカでの会議に招待したのだが、入国ビザがでなかったんだよ。


9時半 ホテル出発
10時 モスクワ工科大学
13時 Pen-Russia会議
18時 モスクワ工大学長と夕食会
雪が残るモスクワ市内 [2009年04月21日(Tue)]
4月21日(火曜日)
夜のシンガポールで乗り継ぎ。深夜のチャンギー空港で2時のモスクワ便の出発まで、本を読んだりして過ごす。一人旅なので眠って乗り過ごしては大変だ。

     <モスクワ着陸寸前の飛行機の窓から>
   
モスクワまでの直行便。約11時間のフライトで、現地時間の朝9時にモスクワ着。飛行機の窓から見る外は寒そうだ。機内アナウンスによると現在の気温はマイナス3度。30度以上の東南アジアから一足飛びに真冬へ逆戻りだ。

     <雪が残るモスクワ市内>

前夜には雪が降ったそうで、モスクワ市内には雪が残っていた。私にとっては恐らく10年ぶりくらいのモスクワ。重厚な町並みはあまり変わっていないが、モダンな建物も増え、日本料理のレストランもちらほら。

     <賑やかなモスクワの大通り>

夕食は、ホテル内のレストランで米国立聾理工科学院(NTID)のデカロ教授と。明日から始まる国際聾唖高等教育ネットワーク(PEN-International)のロシア国内会議について打合せ。
  
     <日本料理のレストラン>
  

2時20分 シンガポール発
9時10分 モスクワ着
13時半 ホテル出発
18時半 デカロ教授
カンボジア始まって以来の国立の伝統医学学校 [2009年04月20日(Mon)]
4月20日(月曜日)
朝10時、保健省の裏手に建設中の国立伝統医療学校の開校式が始まった。二年越しで保健省伝統医学センター所長のプンレイ博士や、彼の上司でありながら、実は国立医学大学時代の教え子、という保健副大臣ピルム博士らと、相談、準備してきたものだ。カンボジア始まって以来の国立の伝統医学学校である。
そのきっかけになったのは、2007年に日本財団がWHO(世界保健機関)と共同でモンゴルで開いた伝統医学に関する国際会議である。その会議に、プンレイさんとピルム副大臣が参加してくれた。伝統医学を振興して国民の保健健康の増進に役立てたい、と二人が相談した結果、生まれたのが行く行くはミャンマー、マンダレーのような国立伝統医療大学をカンボジアにも作りたいという夢である。
今回、発足したのはその準備段階としての専門学校。6ヶ月間の課程だ。生徒数50名。その約半分は既にカンボジア全土で活躍している現役の伝統医療師である。年も50代が中心。女性が11人いるが大半は男性である。
お祝いのスピーチは、ピルム博士に代わって、伝統医療担当の副大臣に就任した女性のモナ副大臣。
肝心の建物の建設は当初の予定より大幅に遅れているが、誰も気にしている様子はない。先方の要請に応じて、日本財団が派遣した鍼の専門家、高田さんの顔も見える。みんな嬉しそうだ。この学校が、大学に昇格する日が遠くないことを祈らずにはいられない。
私は、尾形理事長らと別れて夕方の飛行機でシンガポールへ舞い戻る。夜のモスクワ行きに乗り継ぐのだ。寒いロシアの気候に合わせて、服装を慎重に選ぶ。


10時 国立伝統医学学校開校式
18時10分 プノンペン発
21時10分 シンガポール着
ブンサンボ首相顧問と夕食 [2009年04月19日(Sun)]
4月19日(日曜日)
シンガポールからプノンペンへ移動。プノンペンのホテルで尾形理事長一行と合流する。夜は、日本財団がカンボジアで実施中の各事業で大変お世話になっているブンサンボ首相顧問ご夫妻をお招きして夕食会。中学校の先生の卵に対する奨学金事業を担当してもらっているESC(Education Support Center-Kizuna)代表の山田さんらも加わって楽しい一夜になった。


     <ブンサンボ首相顧問と握手する尾形理事長>

14時 ホテル出発
16時20分 シンガポール発
17時15分 プノンペン着
19時 ブンサンボ首相顧問と夕食
ASEAN事務局長特別顧問ラジャさんと打合せ [2009年04月18日(Sat)]
4月18日(土曜日)
日本財団が実施中のアジアの次世代を担う若者のセミナー「BABA(Builiding a Better Asia」の進め方について、中心人物であるASEAN事務局長特別顧問ラジャさんと打合せ。彼は、アジアの若手政治家や財界人、言論人などを集めたセミナーなどを企画するNGO「IRC]の代表だが、昨年、ASEAN事務局長になったスリンさんに頼まれて渋々ASEAN事務局長特別顧問に就任。その結果、超多忙となり、メールや電話にさえ中々出られないほど。強引に、彼が自宅のあるシンガポールにいるタイミングに押し掛けるようにして、今回の打ち合わせになったもの。彼のブレーン、麗澤大学ラウ教授も同席。

9時 国立図書館 
  ASEAN事務局長特別顧問ラジャさんらと打合せ
マニラからシンガポールへ [2009年04月17日(Fri)]
4月17日(金曜日)
香港へ廻る当財団の尾形理事長らと別れて、私はシンガポールに。土曜日に、ASEAN事務局長特別顧問ラジャさんらと日本財団とASEAN事務局との業務協定に基づく事業についての打合せが予定されている。尾形理事長とは日曜日にプノンペンで合流し、翌日に予定されているカンボジア国立伝統医療学校の開校式に参列する予定。
シンガポール行きの飛行機まで少し時間があったので、アテネオデマニラ大学に立ち寄り、国連平和大学の2期生の授業を見学。今日は、特別授業とかで、学生たちが自分で作った寸劇を披露しあう「PEACE FESTIVAL」というのが行われていた。残念ながら最後まで見届けれず、途中で退席し、空港へ。


     <PEACE FESTIVAL(その1)>


     <PEACE FESTIVAL(その2)>


     <フィリピンの庶民の足、トゥクトゥクは健在>

8時 ホテル出発
9時 アテネオデマニラ大学到着
   Peace Festival見学
11時20分 出発
14時20分 マニラ発
17時50分 シンガポール着
18時半 日経新聞牛山シンガポール支局長
スアル発電所を訪問 [2009年04月16日(Thu)]
4月16日(木曜日)

      <二子石さんの孤児院>

朝ホテルを出て、スアル発電所へ。副所長を訪ね挨拶。そのあと、内部を見学させてもらう。

      <スアル発電所遠景>

スアル発電所は出力1200メガワット。ルソン島の電力総需要の2割を賄うという巨大な発電所だ。
スアル市に取っては大変な財源。公害を心配して、となりのダグーパン市が設置を拒否した間隙をぬって、
誘致に手を挙げたのが現市長の父親とか。それだけに、発電所は排気などに神経を使っている様子。


      <スアル発電所の内部>

 
    <スアルの町ではミスコンテンストの真っ最中>

発電所を辞して、一路、マニラへ。途中、太平洋戦争中に、日本軍の航空基地が置かれていたというターラックで小休止しただけで、ノンストップ。アテネオデマニラ大学のクルス学部長との約束に間に合わねばならない。

   
    <ターラック、神風特攻隊発祥の地との案内板が>

9時半 ホテル出発
10時 スアル発電所 副所長面談
12時 ダグーパン出発
16時半 マニラ到着
19時10分 アテネオデマニラ大学クルス学部長面談
技能ボランティア海外派遣協会(NISVA)の現場、スワル市へ [2009年04月15日(Wed)]
4月15日(水曜日)
朝8時、NISVAのフィリピン担当コーディネーターの二子石さんがホテルに迎えに来てくれて、彼の車で一緒にスアル市へ。4,5時間の行程で美しい海岸線をもつスアルに到着。市役所に市長を訪ねる。

        <美しいスアルの浜辺>

二子石さんは、日本財団とはアルゼンチンでの養老院事業でお世話になって以来のお付き合い。航空自衛隊の出身の二子石さんは、現在スアルで孤児院を運営している奇特な人だ。彼が、フィリピンで孤児院を運営するに至る話は、「事実は小説より奇なり」をまさに地で行く奇想天外な話なのだが、プライバシーに関わる話なのでここでは詳細を書く訳にはいかない。
簡単に言うと、昔、二子石さんが預かっていた日本の不良青年たちが、フィリピンに行ったことがきっかけで更生し、何とその内の何人もが医者になった。そして、彼らが自発的にフィリピンの人たちへの恩返しにとお金を差し出し、二子石さんがそのお金を使って建てたのがこの孤児院という訳だ。


    <スアル市長はまだ30代(右から2人目、その左が二子石さん)>

二子石さんは、孤児院のあるスアルでは有名人だ。まだ、30代の若い市長と話し合い、職業訓練校を設立した。そこに、溶接技術を教えるシニアボランティアを、という声に応えて、日本財団が設立したシニアボランティアの海外派遣組織である、NISVA(技能ボランティア海外派遣協会)が一昨年末に送り込んだのが自衛隊OBの根〆文雄元将補だ。溶接コースの卒業生は、全員スアル市内にある火力発電所で働いている。この発電所は丸紅と東京電力が設立した企業「チームエナジー社」が操業している。「チームエナジー社」は卒業生に職場を与えるだけでなく、教材費などの資金支援をしている。この溶接コースは、地元自治体と日系企業、日本のシニアボランティアが三者一体で実現した国際技術支援事業なのである。

      <スアル市が設置した職業訓練校>

根〆さんが昨年帰国した後を引き継いだのも自衛隊OB。澤田さんだ。今後、NISVAは自衛隊OBの組織「隊友会」と提携し、自衛官OBの海外への派遣に一層注力する計画だ。
「隊友会」は、誠に途上国で必要とされる技術をもつシニアの宝庫である。今後は、フィリピンでの増員のみならず、スリランカなどへの派遣も予定されており、派遣者数が大きく増える見通しである。自衛隊の海外での貢献と言うと、武装した制服組の派遣ばかりが議論されているが、制服を脱いだ自衛官OBの活躍に期待したい。


        <溶接技術を指導する>

澤田さんと同じスアル職業訓練校でミシン縫製を教えているのが中井さん。ミシンの方が溶接より早く始まり、中井さんは3代目。縫製製品は既に販路を確保し、スアルの婦人たちに副収入をもたらしつつある。

      <ミシン教室を視察するスアル市長>

8時 ホテル出発
12時半 スアル市ホテル到着
13時 スアル市長面談
14時 職業訓練所訪問
15時 孤児院訪問
18時 夕食会
| 次へ
ブログパーツ レンタルCGI