CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
« 2009年02月 | Main | 2009年04月»
プロフィール

大野修一(日本財団)さんの画像
大野修一(日本財団)
プロフィール
ブログ
<< 2009年03月 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
ブログ内の検索は
  こちらから ▼
Google 
カテゴリ
最新記事

コメント

トラックバック
犬山城 (01/18)
月別
リンク集
http://blog.canpan.info/ohno/index1_0.rdf
http://blog.canpan.info/ohno/index2_0.xml
視覚障害者に対する医療マッサージセミナー [2009年03月31日(Tue)]
3月31日(火曜日)
伝統医療事業の現場からウランバートルに帰った翌日、日本モンゴルセンターで始まった、視覚障害者を対象とする医療マッサージ教育セミナーに駆け付けた。

<セミナー会場となった日本モンゴルセンター>

この事業は、国立筑波技術大学の先生たちとともに、モンゴル盲人連合を支援して、目の見えない人達に医療を目的とする高度なマッサージ技術を伝授し、就業機会の少ないモンゴルの盲人たちに生業の場を与えようとするものである。
当事者である盲人連合のメンバーの他、保健省や労働福祉省の役人など、総勢約130人が藤井教授や加藤教授の話に耳を傾けた。


<視覚障害者医療マッサージセミナー>

私は、ガンディー労働福祉大臣とともに、祝辞を述べた。ガンディー大臣とは彼女が保健大臣だった時に伝統医療事業の件で会って以来。こっそり、伝統医療置き薬事業の現状を耳打ち。
大臣によれば、モンゴルの障害者は7万6000人、うち、盲人は9.5%の7000人とか。


<スピーチするガンディー労働福祉大臣>

日本では、あんまは古くから当然のこととして盲人の専業と看做されてきたが、外国では必ずしもそうではない。恐らく、中国と香港、台湾の他は、韓国くらいのもので、その他のアジア諸国では、JICAを通じた日本政府のマッサージ講習事業によって、日本式マッサージを学んで帰った盲人たちが、各国で細々とやっているに過ぎない。我々の事業が、盲人たちの就業環境を改善する一助になればと思っている。


<ウランバートル市内では交通渋滞も始まった>


<市内を流れるトゥーラ川はまだ凍結>

10時 AMIN視覚障害者医療マッサージセミナー
11時半 NISVA専門家の藤井さんと昼食
13時15分 ワンセンブルウ事務所で打ち合わせ
19時 筑波技術大学関係者との夕食
モンゴル青年会議所(JC)の会頭バット君のこと [2009年03月30日(Mon)]
3月30日(月曜日)


    <ゲルの中でも伝統医療の講義、講師はボルト博士>

ウムヌデルゲルで泊ったホテルは街中で恐らく一番立派なホテルだったと思うが、ここにはバスタブはおろか、シャワーさえも無かった。モンゴルの遊牧民は、元々風呂に入る習慣は無いのだそうだ。身体を洗って清潔にするよりも、彼らにとっては乾燥から皮膚を守ることの方が重要なのではなかろうか。食事のあと、指についた羊の脂はナプキンで拭き取るなんて習慣はここにはない。顔にすりつけてお終い。スキンクリーム代りなのだ。
「ゲル」と呼ばれるテント式移動住居の中には当然風呂もトイレも無い。トイレは外に出て、野っ原で適当に済ませるのだ。さすがに、街中ではトイレが無いということはないが、ここに来る途中のレストランでもそうだったように、建物の中にではなく、野外に粗末な小屋が出来ていることが多い。今回のホテルでは、我々が泊った部屋には一つだけトイレがあり、我々は皆でこのトイレを共有したが、その他の部屋にはトイレが無く、原則的には宿泊客は建物の裏手にあるトイレ小屋を利用するようになっていた。


    <バスもシャワーも無い一番立派なホテル>

さて、今日はウランバートルに戻らねばならない。帰りは無料診療を終えた医師たちも同道。2台の四輪駆動車に分乗して、300キロを一気に移動、一路ウランバートルへ。吹雪は止んだが、氷点下10度前後か、外気はまだまだ寒い。外に出るときは防寒のための毛皮の帽子は手放せない。

    <防寒のための毛皮の帽子を被って>

午後4時前に無事、ウランバートル郊外のジンギスカーン像に到着。像の建つ建物内の記念館は有料なので中には入らず外で皆で記念撮影。

    <ジンギスカーン像を背景に記念撮影>

夕食の後、伝統医学普及事業を担当する現地NGOワンセンブルウの理事長の森さんと専務理事のバトバヤル(バット)君の3人で、ウランバートルのホテルのバーで一杯。
バット君は36歳の青年実業家。今年からモンゴル青年会議所(JC)の会頭に就任したばかり。旅行会社経営など実業で多忙な身ながら、我らがワンセンブルウの仕事を手伝ってくれている以外にも、奨学金や日韓蒙の子供交流事業など様々な社会事業を手掛けている。既に、財務副大臣の就任を要請されるなど、将来の首相候補にも擬されている。
彼は、英語、ロシア語の他にも日本語が堪能だ。モンゴル国立大学で英語とコンピューターを学んだあと、22歳の時に、趣味の空手の勉強にと日本にわたり、一年半の滞在で日本語をマスター。28歳で旅行代理店を立ち上げた。
彼の空手人脈は面白い。16歳の時、空手を初めて教わったのが、当時、日本留学から帰り警察学校で空手教室を開いていた、現駐日大使のジクジットさん。
モンゴルでも最も有名な女性政治家であるオユン前外務大臣も、ジクジット大使らが88年にモンゴル空手連盟を設立した際の創設メンバーだ。チェコ留学時に空手を学んだ、という。オユンさんの兄のゾリグさんは将来の大統領間違いないと言われていた若手政治家だったが、建設大臣当時暗殺された。そのゾリグさんらが92年にモンゴル青年会議所(JC)を創設したという。麻生総理もそうだが、モンゴルでは青年会議所の会頭は政治家への登竜門なのだそうだ。
2003年1月、当時日本財団国際部のアドバイザーをしていた森さん(現ワンセンブルウ理事長)が、私の要請を受けて、日本財団の伝統医療事業企画案をまとめるためモンゴルにリサーチに来た時に、通訳、車の手配をしたのがきっかけで、伝統医療事業に参加。
元々、彼は金もうけだけではなく、社会事業に興味を持ち、植林や貧しい家庭の子供に対する支援などを自ら行っていたが、森さんからスケールの大きな伝統医療事業のプランを聞き、是非手伝わせて欲しいと名乗りを上げてくれたのだ。
モンゴルでは有名な昔話に出てくる幻の薬草を意味するワンセンブルウという名前も彼が名付け親だ。2003年12月31日のワンセンブルウ設立時の事務局長だ。私とは、2004年4月15日の開始式典でモンゴル訪問した際に会って以来の付き合いだ。
モンゴルには今なお、政治の腐敗や治安の悪化、経済インフラの不備など多くの問題が山積しているのは事実だが、未来の夢を熱く語る彼の話を聞いていると、この国の将来は明るいのではないかと思えてくる。


    <将来の総理大臣? バットバヤル専務理事>

10時 ウムヌデルゲル郡発
16時 ウランバートル着
19時 伝統医学専門委員との夕食会
ダライラマの写真 [2009年03月29日(Sun)]
3月29日(日曜日) 

朝10時、ウンドゥルハーンを出発、正午頃、ウムヌデルゲル郡のソムセンターに到着。ここはロシアと国境を接する郡である。郡内の総人口は約5200人。1350世帯のうち、約1000世帯が遊牧で暮らしているという。
ウムヌデルゲル郡センター病院には院長を含め4人の正医師がいるが、うち二人は伝統医学の専門医である。このほか、准医師が11人いるが、その内、伝統医学の専門医は4人。
准医師11人のうち、3人はバグと呼ばれる村落に配置されている。郡内には全部で6つの村落があるので、准医師が常駐していない3つの村落は、郡センター病院の准医師が巡回診療に手カバーする仕組み。これら15人の医師で年間累計1万8000人の外来患者と675人の入院患者を診ている。郡センター病院の入院ベットは15床。
郡センター病院は、伝統医療の無料検診を受けるために集まった大勢の遊牧民でごったがえしていた。診察を担当するのは4人の伝統医学専門医たち。若い女医さんもいる。内蒙古からモンゴルにモンゴル伝統医学を学びに来てそのまま暫く滞在していると言う医師もいて、私とは中国語で話し合う。
ウランバートル市内には現在、モンゴル伝統医学を教える大学が3つある。国立のウランバートル医科大学には、西洋医学を専攻する者は238人のほか、40人の学生が伝統医学部でモンゴル医学を学んでいる。あとの二つは、いずれも私立の伝統医学専門大学である。チベット仏教系のマニバータツン大学と、新興医薬品メーカーモノス社が設立したモノス大学だ。モンゴル全土には現在330人の伝統医学専門医がいるという。モンゴルは、ことモンゴル医学に関しては、内蒙古とは言え中国からも留学生が来る「医療先進国」なのであった。


     <住民検診に集まった人々>

物珍しそうに見つめる住民の間を抜けて、院長室に通されてみると、そこには私たちを歓迎して、ご馳走が並べられていた。

     <羊肉と馬乳酒がモンゴル式ご馳走>

昼食が始まると、モンゴル式祝宴には付き物のウオッカも出され、医師たちも一緒に乾杯と相成ったではないか。さすがに、何倍もお代わりを強要されることは無かったが、居並ぶ患者たちを待たせておいて、病院で昼間からウオッカで乾杯とは、、、。これには正直驚いた。ひょっとすると、この日は日曜日だったので例外だったのかも。いずれにせよ、我々を歓迎しての特別のもてなしであったことには違いない。

     <昼間から診療所でウオッカで乾杯>

我々が伝統医療普及事業のために設立した現地NGO「ワンセンンブルウ」による一般住民に対するモンゴル伝統医療の基礎知識を教えるセミナーも見学。講師は、「ワンセンンブルウ」専門委員のボルト博士。冗談を交えての軽妙な講義は大好評。夫婦和合の知恵まで含まれていて、ところどころで大爆笑。

     <熱心に講演に耳を傾ける住民たち>

モンゴル伝統医学はインドのアーユルベーダの流れを汲むもので、仏教と共にチベット経由でラマ僧によって伝えられたという。今でも残るモンゴル伝統医学古典文献はチベット語で書かれている。とは言え、チベット語文献の総てがチベットで作られたものと言う訳ではなく、モンゴル人の手によるものも含まれているそうだ。当時の文化がチベットのほうが進んでいたことを示すもの。日本人が昔、漢文を使ったのと同じような関係があったと言うことだ。
このような、チベット文化、ラマ教に対する親近感からかダライラマの写真がモンゴルでは時々目にする。お隣の中国の政府役人が見るたら、さぞかし、目を剥くことだろう。


     <ダライラマの写真も>


10時 ウンドゥルハーン発
12時  ウムヌデルゲル郡病院着
15時半 住民研修視察
18時 第1ソムでの住民研修
21時半 病院関係者との夕食会
トイレのないレストラン [2009年03月28日(Sat)]
3月28日(土曜日)


      <ホテルの窓から見下ろす雪の朝のウランバートル>

朝起きると、窓の外は昨夜から降り始めた雪が積もって白くなっていた。遅めの朝食を取り、モンゴルでの伝統医療事業のために日本財団が設立したNGO[ワンセンブルウ」の四輪駆動車に乗りこむ。10時半に出発。同行者はワンセンブルウの理事長の森さん、プロジェクトマネージャーのオユンさん、経理担当のアディアさんの3人、専門委員ボルト博士らは一足先に現地入りし、住民検診や研修会を開いているはずだ。ウランバートルの市域を出たところで、高さ40メートルの巨大なチンギスハーン像(2006年に建立)に別れを告げ、一路、350キロ離れたヘンティ県へ。ヘンティ県はチンギスハーン生誕の地と言われる。

   <ウランバートルの新しいシンボル、巨大なチンギスハーン像>

この道を行くのは何年振りだろうか。道路が飛躍的に良くなっているのに驚かされる。道中は、雪が降ったり止んだり。一時は猛烈な吹雪に襲われる。

      <視界が悪化するほどの雪の中を進む>

途中で昼食に立ち寄ったレストランでトイレをたずねる。レストランの内部には無いので外に回るように指示される。
裏に回ってびっくり。30メートルほど離れた辺りに、深く穴を掘り、両側に板を渡して、それを掘立小屋式囲ったかたちのトイレがポツンと建っていた。外気温は氷点下15度くらいか。
ふと、便壺の中をみると、壺の中央の底から突き出すように柱のようなもの立っているではないか。外に出て、ワンセンブルウのスタッフたちに、トイレの中に柱が立っているが何のためか、と質問するが意味が通じない。暫く、やり取りをしているうちに、彼らは腹を抱えて笑いだした。それもその筈。柱のように見えたのは、気温が異常に低いために、凍った糞便が自然に積み重なって出来た「柱」だったのだ。


       <郊外のレストランでは野外トイレが一般的>

3時過ぎにムルン郡の郡センターに到着。郡センター(ソムセンター)というのは、郡の文字通り中心地のことだが、実態は郡役所や、銀行、郵便局などを囲むように、学校や住居がパラパラと並んでいるに過ぎない。このセンターの総世帯数は506世帯とか。
郡センター病院のエンフトール院長の案内で、病院の内部を見学。そのあと、別棟になった伝統医療クリニックを見せてもらう。昨年7月に地元出身の国会議員の寄付で出来たという。
この郡では4年前から置き薬が475世帯に配布されている。当初の半年くらいは、置き薬は殆ど利用されなかったという。県庁所在地まで車で30分ほどなので、置き薬に不慣れな住民達は県立病院に行くことが多かったという。しかし、置く薬事業のおかげで住民の間に伝統医療に対する理解が進んだ結果、最近では郡センター病院に来る患者の4人に一人は伝統医療に基づく治療を受けるようになった、という。
16時、県庁所在地であるウンドゥルハーンに到着。県庁横のホテルにチェックインしたあと、県庁に。バイカル保健局長に会う。ヘンティ県は、モンゴルでも早くから伝統医療の利用を推進してきたユニークな県である。16年前には県立伝統医療センターを設立。県内の19人の医師のうち、6人は伝統医学を専攻した専門家である。バイカル保健局長自身も伝統医療の専門家。保健局長に就任する前は、長らく県立伝統医療センターの所長を務めていた。自らセンターの設立にも関わったという。
県立伝統医療センターは、現在、年間の外来患者数は、県外からも含め3000人を超す。入院設備も備えており、通年で700人の患者が入院するという。しかし、設立当初は来院する患者数も少なく年寄りばかり、行政のサポートも不十分でうまくいかなかった。そこで、西洋医学で内科を専門としていたバイカル医師自身が、伝統医学に転じ、県内の伝統医学活用の促進に乗り出したのだ。
ヘンティ県にある8つのソム(郡)のうち、我々の置き薬配置事業はムルン郡など、2つの郡で実施中。バイカル局長は、遊牧民の生活方式にマッチした優れた方法だと力説していた。


       <ウンドゥルハーンの町にて>

ウンドゥルハーンの町で我々が投宿したのは、県庁脇に立つ市内「随一」のホテルの筈だが、部屋の水洗トイレの蓋ははずれ、シャワーのドアも壊れていた。モンゴル人は全てに鷹揚である。細かいことは気にしない。水洗トイレがあり、シャワーがあるだけマシ、ということを翌日には痛感させられることになった。

10時半 ホテル出発
15時15分 ムルン郡中央病院訪問
16時、ウンドゥルハーン着 
16時半 ヘンティ県伝統医療病院視察
18時15分 ヘンティ県の伝統医療病院長らとの夕食会 
中国国際航空の出発が大幅に遅れ、深夜、厳寒のウランバートルへ [2009年03月27日(Fri)]
3月27日(金曜日)
朝10時過ぎ、いつも頼んでいる友人紹介の運転手、付さんの車で空港へ出発しようとしてホテルの前に出たところへモンゴルの伝統医療事業担当のNGOワンセンブルウ代表の森さんから電話。それによると、ウランバートルの気象条件が悪く、私が乗ろうとしていた中国国際航空の飛行機は出発が大幅に遅れる見通し、5時過ぎとのこと。こういう時は、それが段々遅くなることが多い。いやな予感。しかし、もうホテルはチェックアウトしてしまっているので、北京空港で様子を見ることにして予定通り出発。
オリンピック以前は、渋滞で道路の混雑がひどく、空港に着くのに思った以上に時間がかかりひやひやさせられたものだが、最近は、道路混雑に悩まされることも無くなった。オリンピックを契機にした道路の整備、地下鉄の開通、私有車の運行規制などの措置に加えて、最近の景気不振も影響しているのだろうか。空港に着いたのは、11時過ぎ。
搭乗手続きの際に、搭乗開始は午後7時、出発予定は7時半、と聞かされる。やっぱり、とモンゴルの森さんに電話。現地の様子を聞くと、雪が降ってきたという。午後遅くになって、今度は搭乗時間は9時に、2時間延ばされる。不安的中。


     <新空港の設備はモダンだが>

あきらめでロビーで待機するが、その後のアナウンスは全くない。どうせ再度出発を延期するつもりだろうが、こんなことなら、ホテルで待機しておれば良かった、などどぼやいていると、突然の搭乗開始のアナウンス。しかも、搭乗ゲートは、なぜか、反対側一番端に変更。大汗をかいて飛行機に乗り込む。が、どこか様子が変。乗務員たちがざわついてそわそわしているが、理由を聞いても「お待ちください」というだけで何が起きているのか答えない。
そのまま、30分ほども経って、突然「全員、一旦機体から降りてください」と機内アナウンス。ついに、堪忍袋の緒を切らした外国人乗客がスチュワーデスに毒づくも無駄。追い立てられるように、機外に出される。
なぜか、搭乗口カウンターから待合室に出るところで、搭乗券の半券を求め、一人づつ、乗客リストと突き合わせるので時間がかかる。我々乗客の作る長蛇の列の脇をすり抜けてスーツや制服姿の警察官(公安)が7人も、ぞろぞろと乗り込む。


     <飛行機から降ろされた乗客の列と背広姿の公安官たち>

30分ほどで公安は全員出て来て、入れ替わりに我々が再び乗り込む。一体何だったのか、スチュワーデスに尋ねるが、「乗客に間違えて乗った人がいた」と要領の得ない答え。思い出すのは、昨日、読売の河田さんに聞いた四川省での取材時の話。今回も、あるいは政治に関わる緊急事態ではなかったのかと、想像するが、結局、真相は不明。
こうした事情から、飛行機が北京空港を飛び立ったのは夜の10時過ぎ。ウランバートルに着いたのは0時半だった。3月の終わりとはいえ、深夜のウランバートルの気温は零下10度
空港で待っていてくれたワンセンブルウの森さんたちから、今夜に予定していた伝統医療専門委員との夕食会は3月30日に延期された、と告げられる。


     <深夜の空港で飛行機の出発を待つ乗客たち>

10時半 ホテル出発 
12時55分→20時 北京発
15時25分→0時30分  ウランバートル着
1時半 ホテルチェックイン
モンゴルの伝統医療事業の現場へ北京経由の一人旅 [2009年03月26日(Thu)]
3月26日(木曜日)
今回の出張は一人旅。モンゴルの伝統医療事業の現場に行き、今後の方針などにつき現地パートナーのNGOワンセンブルウと意見交換するため。
私にとっては、2007年8月のWHO(世界保健機関)と共催した伝統医療の国際会議以来のモンゴル訪問だ。
以前は、少なくとも一年に一回以上は伝統医療の現場を訪ね、色々と相談していたものだが、すっかり事業が定着した今は、その手腕に敬服している森理事長以下現地陣にまかせきっているので、私の出る幕はない。
ただ今回は、タイやミャンマーでのその後の展開を踏まえ、中長期的な将来の方針を再構築する必要が出来てきた。また、モンゴルサイドでも、この事業の知名度が上がるにつれて、この置き薬方式の医薬品デリバリー制度を実施して欲しい、と言う要請が国会議員や、地方政府関係者から公式、非公式チャンネルを通じて寄せられるようになった、という事情もある。
また、今回このタイミングとしたのは、読売新聞の中国総局から取材の意向が伝えられており、併せて、現場取材をお手伝いしようとした、という事情もある。残念ながら、新聞取材のほうは先方の事情から延期せざるを得なくなったが、私の方は、この機会を逃すとモンゴル行きの可能性が暫く遠のくことを恐れそのまま決行することにしたもの。


     <モダンで広々とした北京の新空港内の様子>

お昼、昼食をはさんで、件の読売新聞河田中国総局長と面談。モンゴル取材の再設定について相談した後、最近話題になっているチベット取材の苦労話を聞く。中国政府が如何に神経質になっているかを物語るのが、四川省での出来事。支局の記者が乗った飛行機が空港に到着したところ、勝手な取材を心配した中国政府の係官がどよどやと乗り込んできて、乗客のIDをチェック。記者を確認すると、そのあとは、どこに行くにも係官がぴったりとマークした、という。
その後、丸紅北京支店に行き、友人の杉田支店長らと面談。夜は、北京大学国際交流会館の陳振亜館長や同僚の宋さんと面談。



     <北京市内もオリンピックを境にモダンな建物がいっそう増えた>

12時 読売新聞河田中国総局長
15時 丸紅北京支店
18時半 北京大学国際交流会館陳振亜館長
朝日新聞のミャンマー伝統医療に関する記事に感激 [2009年03月25日(Wed)]
3月25日(水曜日)
午前、財団に出て、来客の応対やメールの処理などをする。
前夜、先だってミャンマー行きをご一緒した朝日新聞のバンコク特派員の山本記者からの電話。今朝の紙面にミャンマーの伝統医療事情について山本さんが書いた記事が掲載されているというのでコンビニエンスストアで朝刊を買って、財団で早速開いてみる。大きく記事が出ている。しかも、ほぼ実態を正確に、概ねポジティブなトーンで書かれていて感激。朝日新聞のミャンマーに関する最近の記事でここまで政府の施策を好意的に描いたものはなかったのではなかろうか。
そもそも、今回のメディア同行で書かれたニュース記事はテレビも含め、ミャンマーの軍政を中心にかかれたものが大半。しかも、判で押したように、軍政のネガティブな面が強調されていた。しかし、私がメディアの皆さんにお願いしていたことは、予断を持たずに現地を訪問して自分の目で見た真実に基づいた報道をして欲しいということ。軍政に対する判断は判断として、この伝統医薬品配布事業のようにユニークで有意義な政策が行われている事実はきちんと評価してほしい、ということ。
財団裏の蕎麦屋で笹川会長らとに昼食の後、社有車で空港に送ってもらう。



     <夕闇迫る成田空港>

成田空港では、つい二日前の日曜日にアメリカFedEx社の貨物輸送機の着陸失敗炎上の事故があったばかり。この二日間ほどは出発便のキャンセルや大幅遅延が続いていたが、幸運なことに、今日あたりから運行は正常化したもよう。夕闇迫るA滑走路のかなたに黒焦げの尾翼のようなものを望見。ブログ用にと、持参のカメラでぱちり。
北京行きの全日空便は定刻どおり出発。ただ、成田は良いとして、北京から乗り継ぐモンゴルのウランバートル行きは心配。ウランバートルの飛行場の設備は時代遅れで、今の時季は気象条件が少しでも悪いと飛行機が離着陸できなくなるからだ。


     <二日前の事故の機体か黒い尾翼が見える>


14時 財団出発
17時25分 成田発
20時30分 北京着
帰国 [2009年03月07日(Sat)]
3月7日(土曜日)


6時半 ホテル出発
8時30分 シンガポール発  
16時20分 成田着
シンガポールの中の「日本」 [2009年03月06日(Fri)]
3月6日(金曜日)
カンボジアのような東南アジアの低開発国を回ったあと、シンガポールにやって来ると、シンガポールの先進国ぶりが際立って感じられる。それもその筈、シンガポールの国民一人当たり国民所得額は一昨年の段階で、既に日本を上回っている。尤も、人口の少ない都市国家であるシンガポールと、一億以上人口の日本では単純な比較は無理、厳密な比較には為替レートの変動を考慮する必要がある、と言われるが、どちらが上であるにせよ、その差は僅か。シンガポールが堂々たる先進国であることは疑いようも無い。

     <シンガポールの所得水準は日本以上>

そんなシンガポール市内でも、日本製品は高級イメージのようで、それをうまく取り込んだ商業戦略に出くわすことが少なくない。私が今回滞在したホテルの近くのショッピングモールで目撃したものをいくつか紹介しよう。
先ずは、「渦巻きアイスクリーム」である。抹茶を練りこんだソフトクリームのようだが、地上の映画館の横と地下一階の食品街の2ケ所に店舗を出している。そこには、大きく日本語で「日本の茶畑で取れた最高品質の茶葉を使った最高品質の抹茶を使った世界最高の抹茶アイスクリーム」と書いてあった。日本人観光客がお目当てでもないようなので、日本語を理解できないシンガポール人でも漢字を少しは解する華僑系の人にアピールすると見てのことだろうか。抹茶の看板の横には、可愛いピンク色の姉妹製品、桜アイスの看板もあった。


     <「渦巻きアイスクリーム」は抹茶入り>

ショッピングモール地下の食品街には、既に定番となったすしなどと並んでたこ焼きスタンドが常設されて、人気を博している。
また、「東洋」と言う名のキャンデーストアには、わざわざカタカナでイーストオーシャンと書いてあった。ただ、カタカナ文字はお手本を手書きでなぞったもののよう。


     <たこ焼きも人気>

地上のショッピングモールの洋品小物の店には、おしゃれなバッグと並んで藍染の帆布で作った手提げ袋が麗々しく並ぶ。

     <藍染の帆布で作ったバッグ>

仕事の方は、経済開発庁の非営利団体の担当者、ロー・チンフイ氏と会って、障害者のための大学院大学の構想を相談。シンガポール政府は、これまで外国企業に直接投資を勧奨して来たが、今後は、NGOなど非営利団体のアジア地域センターを招聘したい考えとか。
昼は、ミャンマー情報省に食い込んでいるマッコム社のウイルソン・ハウ社長と面談。奥さんのフィリピン人キャサリンさんも同席。彼女は、国際機関のコンサルタントとしてミャンマーで働いている。
夜、ジャカルタから帰ってきたばかりのASEAN事務局長特別顧問ラジャラトナム氏と面談、ASEANと日本財団との提携事業などを相談する。超多忙の彼を独占できる貴重な時間だ。


9時 経済開発庁 ロー・チンフイ氏
12時半 マッコム社ウイルソン・ハウ氏
19時 ASEAN事務局長特別顧問ラジャラトナム氏
カンボジアトラストのカーソンさん [2009年03月05日(Thu)]
3月5日(木曜日)
午前7時半、ホテルでCSPO(カンボジア義肢装具士養成学校)の責任者のメアリー・スコットさん、CSPOの親組織であるカンボジア・トラストの渉外担当理事カーソンさんと一緒に朝食。メアリーから提案のあった障害者のための大学教育支援事業について協議。
シンガポールへ休暇旅行に行くという彼女を見送ったあと、カンボジア・トラストのカーソンさんと二人で、間もなく開校予定のインドネシアでの義肢装具士養成学校事業について打合せ。
彼は日本財団が東南アジアで展開している4ヵ国での義肢装具士養成学校のうち、タイを除く総て、即ち、カンボジア、スリランカ、インドネシアでの設立に中心人物としてかかわってきた。日本財団の義手義足装具士養成における支援事業は、今では、国際義肢装具士協会など専門家から高い評価を受けるまでになったが、その原動力になったのが、この北アイルランド出身のイギリス人義手義足装具士、カーソン・ハート氏である。
いつも陽気でエネルギッシュ、雑談時には、楽しいジョークで笑わせてくれる大変愉快な人物である。しかし、彼の心の中には敬虔なカトリック教徒としての信仰に基づく、社会活動へのゆるぎない信念がある。そうでなければ、93年、内戦がまだ完全には終了しておらず、治安も社会インフラも不備なカンボジアに、家族帯同で赴任してくるなど出来なかったであろう。
当時のプノンペンでは、市内を走る車といったら、軍用車両か、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)や、国際赤十字など国際機関の車ばかり。市内のいたるところで頻繁に銃声が聞こえ、郊外の道路を走るときは国軍の護送が不可欠であった、という。
そんなところへ、彼は7歳の子供と奥さんを連れて、設立されたばかりのCSPO(カンボジア義肢義足装具士養成学校)の校長としてやってきたのである。彼にとっても奥さんにとっても生まれてはじめての外国であった。
当時、彼は35歳になったばかり、自分で義手義足製作の会社を経営し、典型的な中流家庭として、何一つ不満のない生活だったのだが、35歳の誕生日に、突然、このまま人生を送って行っていいのだろうかという疑問が生じたのだそうだ。偶然のことから、カンボジアに義肢装具士養成学校を作ると言う話を聞き、神の啓示と考えやってきたのだ。
苦労の末、このCSPOを国際義手義足装具士協会の公式認定校に指定されるまでに育て上げた。今では、CSPOはカンボジアで唯一、アジア各国からの留学生の数のほうがカンボジア人学生よりも多い教育機関である、と言われる。


     <カンボジアトラストのカーソンさん>

カーソンさんは、7年後の2000年12月にシンガポールに移り、腎臓ガンを手術、九死に一生を得たあと、北アイルランドに戻り、今はベルファストと東南アジアを行ったり来たりしている。彼の家族は、今では4人に増えた。素敵な奥さんと、22歳になった娘さんと、15歳のお嬢さんがいる。下のお嬢さんは実の娘ではなく、カンボジア時代に養女に引き取った子供だ。
彼女がカーソンさんの養女になったのは、生後数ヶ月のとき。奥さんのオードリーさんが手伝っていた孤児院に、未熟児として押し付けられた1500グラムの赤ちゃんだった。てのひらに収まるほど小さな彼女の姿を初めて見たとき、彼は宿命のように感じるものがあったという。ところが、養子手続きを始めて間もなく、赤ちゃんは結核とエイズに冒されているようだと告げられ、カーソン夫妻は驚愕する。
抗体検査でHIVポジティブと判明したのは、生みの母親がエイズ患者であったためであった。
「しかし、抗体がHIVポジティブでも、それは母親から自動的に受け継いだだけで、血液感染さえ免れていれば、エイズではない可能性もある。その場合は、赤ちゃん自身の抗体が育つ一歳位になれば、HIVネガティブに転じる。しかし、その確率は3分の1である」と医師が言った。
当時としては、赤ん坊がもしエイズなら寿命は5歳くらいまでだ。「今ならまだ養子縁組を取り消しても良い」と言われたが、夫妻はそれを断り、そのまま養子手続きを終える。
カーソンさんは言う。「妹が出来たととても喜んでいた7歳の娘に、感染の恐れがあるからと、楽しみにしていた妹のオムツ変えも禁じざるを得なかった。5歳までしか生きることが出来ないかもしれない。先ずは、結核の治療に専念したが、薬の副作用で口の周りに湿疹が出てもエイズの初期症状かと心配した。赤ちゃんを抱かせて欲しいという友人たちにも、この子はエイズかもしれないので感染に気をつけるようにと、言わざるをえなかった。彼女が一歳になって再検査の結果が出るまでが、カンボジアで一番つらい時期だった。10ヶ月後の検査で、HIVネガティブと告げられたときは、家族中でみんなで抱き合い、涙、涙、涙だった。友人たちをみんな家に呼んでお祝いをした。この子を大事に育てようと強く思った」。
カーソンさんは、この辛苦の時期を、パートナーとして一貫して支え続けてくれた奥さんのオードリーさんには、頭が上がらないという。今も、大変な愛妻家で家族思いだが、どうやら、一番のお気に入りは、下のお嬢さんのようだ。それもむべなるかなである。
二人で昼食を食べた後、彼をCSPO(カンボジア義肢装具士養成学校)の新しい校舎まで送って行った。帰り道、韓国資本が造成中のニュータウンCamKo City近のくを通る。あちこちに、モダンなマンションや、ショッピングセンターが現れつつある。しかし、中には建設がストップしているものもある、と運転手のソルヤ君。
カンボジア経済は過去数年にわたり10%を上回る実質成長率を続け、ASEANで最も高い高度成長を謳歌してきた。好調な財政を元に政府も率先して道路建設や、政府機関を始めとする公共機関の建物の新増築を進めた。


     <壮麗な内閣府の建物も完成間近>

好況を背景に不動産価格も上昇、国内は昨年秋頃まで不動産ブームに沸いていたが、何よりその要因を作ったのは、韓国資本による投機だった、と言われている。韓国資本は高成長の継続期待からカンボジアで土地を買い漁り、マンションや商業ビルを建てるなど、ここ数年の不動産投機ブームを演出してきた。
しかし、さすがにこの半年ほどは、韓国国内の不況に加えて急激なウォンの為替レートの急落で韓国資金が雪崩を打って引き上げた。その結果、最近になって不動産価格は急落しているという。


     <イムヤン事務次官補、プンレー伝統医療センター所長ら>

ほどなく、保健省の裏手にある国立伝統医療センターに到着。プレハブ造りの仮事務所の中、プンレー博士所長の執務室に入ると、伝統医療担当の保健事務次官補のイムヤンさんも来ていたのはびっくり。4月の下旬に予定されている国立伝統医療学校の開校式について打合せ。
保健省同様に、伝統医療センターの建物も新築工事中。大分工事が進み、形が見えてきているが、果たして予定通りに3月中旬に完工するかはやや不安。
打合せを終えて、そのまま空港へ。シンガポールへ移動だ。


     <新築工事中の国立伝統医療センター>

7時半 CSPOメアリー・スコット校長
9時 カンボジアトラストのカーソン理事
14時 保健省インヤム事務次官補打合せ
18時10分 プノンペン発
21時10分 シンガポール着
| 次へ
ブログパーツ レンタルCGI