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大野修一(日本財団)
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古都フエの近郊で焼畑を見学 [2009年02月28日(Sat)]
2月28日(土曜日)
朝7時、CIATアジア本部のあるラオスから昨晩駆けつけてくれたティン博士も加わり、総勢8人で出発。
ベトナムでは、キャッサバ生産は急成長している。我々のプログラムが始まった90年前半では、キャッサバをスターチに加工するための工場は、ベトナム全土でゼロだった。ところが、今では60、さらに、7ヵ所で建設中という。
ベトナム国内では、70%が新品種に置き換わったと言う。我々のプログラムで、ハウラーさんが研究拠点のタイから持ち込んだものだ。
我々の事業はベトナムでは2003年に成功裏に終了したのだが、その後も、ベトナムのキャッサバ生産は増加の一途を辿り、特に、昨年にはブームがピークに達した。その一つの要因は、世界的な価格高騰。特に石油価格の高騰による、バイオ燃料ブームだろう。
ベトナム、特に北部では、中国からのバイヤーが村々を廻り、片っ端から買い漁って行ったと聞く。中国のベトナム国境にある広西壮族自治区では、キャッサバを原料にした世界最大級のエタノール工場が建設されたが、折からのバイオ燃料ブームで、原料のキャッサバ不足に陥り、ベトナムからの輸入キャッサバに頼らざるを得なかったのが背景だ。
ところが、原油価格の急落とともに、バイオ燃料ブームも終焉し、最近ではキャッサバの値段は昨年ピーク時の半分から3分の1の水準にまで下落している。ベトナムやカンボジアなどの零細農民まで、石油価格の変動に振り回されたことになる。
しかし、キャッサバ事業を始めた日本財団の狙いは、バイオ燃料ではない。本来の目的は、焼畑農業に頼らざるを得ない遠隔地の零細農民の生活環境をキャッサバ生産を通じた豚などの畜産振興で改善することにあった。石油価格と違って、食肉のマーケットは国際相場の変動とは無縁である。暴騰もしなかったし、暴落もしていない。
豚などの家畜をキャッサバの根や葉っぱなどで飼育すると現金収入になるだけではなく、家畜の糞を使った有機肥料を活用することで焼畑に頼らなくても良くなることが期待できる。
現に、ベトナムや中国の現場では、我々のキャッサバ事業が始まってから、焼畑農業がストップしたという報告が相次いだ。私自身も目撃しているし、昨年のラオスでの国際キャッサバ会議で農業次官がキャッサバ振興に期待する効果として、挙げた3つのポイントの一つも、焼畑のストップであった。
そこで、今回の視察に当っては、そのような事業の成果を確認できるよう焼畑地域に案内して欲しいと、ハウラー博士を通じて、ベトナム側に伝えてあった。 
           

<山の中腹、急傾斜で村人が焼畑中>

フエの町を出て、暫く南下、その後、西方に向かい、3時間ほどのドライブで、山の中にあるフエ省ナムドン郡のトゥオンロン村に到着。山の向こうはラオスだ。途中、山の中腹、急傾斜で村人が焼畑をしているのを目撃。はて、焼畑はしなくなった筈では、と首をひねる。
トゥオンロン村役場に着き、わざわざ集まってくれた村長さんらから説明を聞く。それによると、この村は469世帯、人口2,232人。少数民族95%の貧しい村だ。一世帯あたりの年収は520万ドン、325ドルに過ぎない。耕地面積 263haのうち、キャッサバが160ha、水田は44haのみ。ということは水不足の地域である。
家畜は、水牛が371頭、牛が494頭、豚が602頭というから、一世帯におよそ一頭ずつの計算。典型的な寒村だ。全世帯の30%以上が政府が指定する貧困家庭であるという。しかし、我々のキャッサバ事業の対象地であったにしては、様子がおかしい。


     <トゥオンロン村役場で説明を聞く>

村長らによれば、キャッサバの収量は年々低下し、2002年の16t/haから2008年には7t/haになった。その理由は、肥料を買う金がないからだという。キャッサバ飼料を活用した豚などの飼育をすれば現金収入が得られる筈なのにどうしたのか、とハウラーさんが尋ねる。すると、キャッサバ事業のパートナーであったフエ農林大学のリンさんが、この地域までは手が回りかねたので飼料の指導はしていない、と。
我々の事業が焼畑に与えた効果を見たいと伝えてあったのだが、どうやら取り違えて現在も尚、焼畑を実行中のところに案内されたらしい。肥料を買う金が無いので収量が低下する。すると、定着農業が行えなくなる。その結果、場所をかえて、森を焼いて肥料の代わりにする、という悪循環である。確かに、村の周辺では、あちこちで焼畑が進行中であった。
農民たちに、何か質問、リクエストはと聞くとキャッサバの価格下落を何とかして欲しい、という。工場が近くにないので、仲買人に売るしかないのだが、今は1キロ300ドン、2円にもならないと、切羽詰った表情で語る。我々に言われても困る要求だが、ハウラーさんたちは、キャッサバの根をそのまま売るだけでなく、豚など家畜を飼うことの必要性を諄々と説明。農民たちは、真剣な表情で聞き入っていた。ハウラー博士は、リンさんたちにこの村人たちへの指導を頼んでいたが、我々の事業はベトナムでは終了してしまっている。果たして、フエ農林大学が彼らをしっかりサポートしてくれるのだろうか。


     <もっと豊かなフオンバン村の役場にて>

郡都の食堂で昼食のあと、フエに向かって戻る。しかし、市街には入らずバイパスを北上し、フエを通り過ぎて、フオンチャン郡フオンバン村に。ここは1,375世帯、人口7,100人の村。貧困家庭は10%未満に過ぎない由。トゥオンロン村役場と比べると、格段に立派なフオンバン村役場で婦人会長らから話を聞く。
ここの耕地面積は 700ha 一世帯あたりの耕地面積でトゥオンロン村と大差は無いが、水田が129haを占めているほか、キャッサバが82ha、他にこの地方の名産品であるザボンやピーナツ、野菜など農地の利用形態は多様だ。この村では、全世帯のうち約7割がキャッサバを栽培し、豚などの家畜や家禽を育てているという。豚が3,000頭 家禽は19,000羽、という家畜などの数もトゥオンロン村とは大違いである。ここでは、我々の事業によって、キャッサバの葉っぱを活用した豚などの飼育法が拡がったということのようだ。
一方、キャッサバの出荷価格を聞いてみると、キロ当たり400乃至500ドンというからトゥオンロン村の5割り増しである。その訳は、ハウラーさんの解釈では、キャッサバスターチの加工工場が近くにあるからだそうだ。


     <フオンバン村の農家は新築中>

豚小屋を案内してくれた主婦に年収を聞いてみた。ここでは、10頭ほどの豚を飼っているが、キャッサバの根に葉っぱを加えた飼料では生育が早く、わずか3ヶ月余りで出荷できるまでの成長するので、年に3回出荷出来る。豚を売って得られる収入は年間1000万ドン、他の収入を加えた年収は2,000万ドン、約1,250ドルである。
月収に換算すると100ドルほどとなる計算だ。一世帯当たりの月収が30ドルにもならないトゥオンロン村とは大きな違いである。因みに、カック博士の月給を尋ねてみた。「私はベテランだから月給は300万ドン(約190ドル)だけど、これは、一般の教員の2倍ぐらい、若い教員では100万ドン(約60ドル)くらいかな」という。月収100ドルというのは、農家としてはそこそこ立派なものではないか。次に尋ねたもう一軒の農家ではずっとたくさんの豚を飼っていたが、収入は聞きそびれた。


     <たくさんの豚を飼っていた>

土曜にであるにもかかわらず、我々を歓迎するため、学長が待っていると言うのでインタビューを早々に切上げ、フエ市内に戻り、フエ農林大学へ。予想外に時間がかかり4時半到着の予定が5時過ぎになったため、ミン学長は不在。学長に代わり副学長のレー教授が歓迎してくれる。彼の説明に拠ると、フエ農林大学は、教員420人、学生数4,500人。
急いで、一旦ホテルに戻り、大急ぎでシャワーを浴びて、学長主催の夕食会場に。夕食会場のレストランには、義足配布事業を担当するNGO、VNAHの代表カバントランさんが待ち構えていた。わざわざ、打合せのためにホーチミンから駆けつけてくれたのだ。夕食後、二人でホテルのロビーで打合せ。


7時 ホテル出発
10時 ナムドン村到着
12時 昼食
14時50分 フオンチャン村到着
17時 フエ農林大学副学長面談
18時10分 フエ農林大学長主催夕食会
19時40分 VNAHカバントラン代表打合せ 

キャッサバ事業の現場へ [2009年02月27日(Fri)]
2月27日(金曜日)
今回は尾形理事長、萩原君ら日本財団のスタッフと成田から一緒。この出張の主たる目的は、日本財団が1990年代から資金支援をして来ているキャッサバ事業の現場を尾形理事長と視察すること。
キャッサバはもともとはブラジル原産の潅木だが、今ではアフリカ、アジアなどの熱帯、亜熱帯地域で広く栽培されている。根は澱粉質で、そのまま蒸かして食料にしたりタピオカにしたりする。また、工業用スターチを作り、製紙、繊維製造に用いられる他、アルコールやグルタミン酸ソーダやビタミンCの原料になるなど様々な用途に用いられる。
米作主体のアジアでは、丈夫でやせた土地でも育つ上、乾燥にも強いので、水田が出来ない急な斜面などで、従来から旱魃時の非常食料として作られて来た。近年、家畜飼料の原料としての利用が進み、タイが世界最大の輸出国として台頭して来ている。更に、最近では、バイオ燃料の原料として、キャッサバの生産コストの安さが注目されている。
ただ、一般に利用される根にシアン性の有毒成分が含まれているだけではなく、高度の蛋白含有で飼料原料として注目されている葉は特に毒性が強く、生のままで食べさせると大きな牛でも死んでしまう。
我々が支援している事業では、キャッサバ研究の専門機関として国際的に有名なCIAT(国際熱帯農業センター)の専門家による、新品種の導入、適切な施肥、土壌管理、無害化した葉っぱを利用した飼料生産、などを中心とした指導が行われている。
長年この事業の指揮を執ってくれたハウラー博士が66歳を潮に退職することになり、彼の退職を直前に控えたこのタイミングで、これまで殆ど現場を見たことがない尾形理事長のために、現場視察を行うことにした。ハウラーさんのお蔭でこの事業は大成功を収め、一昨年にはアメリカ農業学会から表彰されたり、タイ国王から外国人としては最高位の勲章がハウラーさんに贈られている。
これまで、タイと中国、インドネシア、ベトナムでの事業を完了し、現在では、ラオスとカンボジアで進行中。今回は、時間の制約などから、このうち、5年前に事業が終結したベトナムと、現在、事業が進行中のベトナムの2カ国を回ることとした。
我々3人に、紅一点、国際開発ジャーナルの新海記者が同行してくれることになった。新海記者は若手の女性ながら昨年日本財団が笹川アフリカ協会を通じて実施してきたアフリカの農業事業の現場を取材、非常に詳細かつ、正確な記事に纏めてくれた大変有能な記者である。
フエの空港に着くと、ハウラー博士のほか、フエ農林大学から二人の専門家、リンさんとカックさんが迎えてくれた。お二人とも女性だが、キャッサバを中心とする農業指導のベテラン。カックさんは最近、キャッサバで論文を書き、博士号を取得している。



    <これがキャッサバの根 生では有毒>


    <キャッサバ畑を視察>


    <キャッサバ事業の責任者 ハウラー博士>

                     写真はいずれも3月2日カンボジアで撮影したもの

10時30分 成田発
14時55分 ホーチミン着
17時 ホーチミン発
18時20分 フエ着
二週間の出張終わる [2009年02月17日(Tue)]
2月17日(火曜日)
朝6時半、空港に向かう。ホテルから乗ったタクシーの運転手は中国系。最初は英語、途中から中国語で話す。私が日本人だと言うと。まさか、と言う。何人だと思ったの、と尋ねると、てっきりインドネシアの華僑だと思った、と。
私に中国語の読み書きも出来るのか、と聞くので勿論と答えると、盛んに感心する。日本人は中国から取り入れた漢字を使っているのだから当然なのだ、と説明するのだが、漢字を知っているのはすごい。自分は中国系2世だが、子供の頃、中国語なんて大嫌いと思って勉強しなかったことを今は後悔している、英語こそうまくなりたいと思っていたのだ、という。
最後にタクシーを降りるときに、彼が「老師(先生)」というので「私は別に先生ではないけど」、というと、「いやあなたは私にとっては先生です」と。気分を良くして、チップをはずんでから気がついた。まんまと、乗せられた。


6時半 ホテル出発
8時30分 シンガポール発  
16時20分 成田着
シンガポール国立図書館 [2009年02月16日(Mon)]
2月16日(月曜日)

     <シンガポール国立図書館は総ガラス張り>

今日に予定していたラジャASEAN事務局長特別顧問との面談が昨夜に繰り上がったため時間に余裕が出来たので、予てから友人のジョンソン=ポール氏に強く誘われていたシンガポール国立図書館を訪問することにした。彼自身が調査部次長として勤めていている職場である。日本財団がインドネシアを始めに東南アジア各国で展開しようとしている視覚障害をもった大学生に対する支援事業に関連して、デジタル・ライブラリー化を進めているシンガポール国立図書館の様子を学ぶのが目的であった。

     <極めて機能的に作られた図書館内部>

それに先立ち、ジョンソンさんに図書館の生い立ちから始まる説明のレクチャーと内部巡回ツアーをやってもらう。
この図書館は、16階建て、総床面積6.8万平米という大規模なもの。蔵書総数100万冊、利用者数一日あたり5000人。日本メーカー製の電子カードにより貸出しや返却などの自動化は勿論、遅延金やコピー代など総てがキャッシュレスになっているなど、極めて機能的、合理的運営のための工夫がなされている。中には3階分使って舞踏劇場も併設、様々なギャラリーも。
ガラス張りの建物なので熱帯のこの風土では室内は熱くなりすぎるのではないかと思っていたが、空中庭園など、熱を逃がす工夫があちこちに施されているのには感心した。外光をうまく取り込むことで、照明用の電気はミニマムに抑えられているという。エコ建築で有名なマレーシア人の設計によるものとか


     <美しい庭園は熱を放射するための工夫>

また、ここは都心の一等地ということで、法律により10%は民間企業に利用させねばならないとのルール。そこで、アメリカの大学とフランスにあるビジネススクールに賃貸。国立図書館は、学生のいるキャンパスでもあった。
いかにも、シンガポールらしいのは、6階のフロアーを完全に将来の拡張のニーズに対応するためのスペースとして、未利用のまま確保していたこと。シンガポールを見ていつも思うことは、政府がしっかりしていれば人間はここまで出来る、ということだ。
この国で一番幸せなのは国家公務員ではないか。この国の公務員の給料が高いのは良く知られた事実だが、それだけではなく、安定した政治と合理的な考えの政府の下、自分の夢や理想をそのまま政策に反映させ、そしてそれらを具体的に実現できるのは、さぞかしやりがいのあることであろう。
図書館の見学の後、ジョンソンさんと遅めの昼食を取りながら、障害者のための国際大学院大学の構想を彼にぶつけてみる。東南アジアのどこか、バンコク辺りに設置できないかと考えていたが、シンガポールが相応しいのかも知れない。


(写真はいずれもシンガポール国立図書館提供)

10時 シンガポール国立図書館訪問
18時半 共同通信米元シンガポール支局長
 
久しぶりにゆっくり [2009年02月15日(Sun)]
2月15日(日曜日)
今日は日曜日。久し振りに朝寝のあとは、一日、このブログの下書きをしたり、本を読んだりしてのんびりして過ごす。今回の出張もいよいよ明日を残すのみ、予期の目的はほぼ成功裏に終了。リラックスした気分で、半そでシャツに袖を通し、ホテルの外に散歩に出る。ここは、日本の寒気とは無縁の常夏の国。暖かい空気が肌を包む。至福のひと時だ。ここでも、街角にはピンク色を多用したバレンタインデーの飾りつけが目に付く。若い二人連れが楽しそうに腕を組んで歩く。中国語ではバレンタインデーのことを「情人節」と表現するようだ。
一人での海外出張は気軽だが、最も不便を感じるのは食事のときだ。勝手の分からない外国では、案内してくれる現地の人がいない場合は、やむを得ずホテルで食事を済まさざるをえないことも少なくない。しかし、私は基本的に海外のホテルのインターナショナルなレストランは苦手だ。出来れば、ホテルの外に出てその国の料理、そこでしか経験することの出来ないものを味わいたいと思う。幸いここはシンガポール。しかも、ホテルの前はショッピングモール、裏手には路上の屋台に毛が生えたような飲食街。
そこで今回は、周辺の店を探検してみることに。朝食は裏手の中国系の店で怪しげな「タイ式ラーメン」を啜り、昼食は、ショッピングモールのテイクアウトで焼きそばと野菜炒めを買って、ホテルの部屋でテレビを見ながら食事。
夜は、インドでの約束どおり、ASEAN事務局長特別顧問のラジャさんが来たのでホテルの中のコーヒーショップでサンドイッチとビールを摂りながら、ASEANとの業務提携プロジェクトの進め方などを話し合う。彼は最近は忙しすぎてメールを送ってもなかなか返事が来ない。来月一杯で組織改革が終わるので、そうなれば、スタッフがもっと増えるので、迅速に対応できるから、それまでもう暫く待って欲しいと言う。しかし、こうやって、面と向かって彼の時間を独占するのが最も効果的。

20時 ラジャさん
国際義手義足装具士協会国際大会 [2009年02月14日(Sat)]
2月14日(土曜日)
市内のホテルで国際義手義足装具士協会(ISPO)の国際大会が開かれた。日本財団は今回この会議費用のほんの一部を負担したに過ぎないが、アジアに於ける義肢装具士学校の支援や、これら学校間の地域内連携事業(APOS)の支援を通じて、ISPOとは密接な関係にある。最近ではISPO会長交代の際には日本財団に新旧会長が揃って挨拶に来られる。それだけこの世界では日本財団の存在感が大きいということであろう。昨年には、ISPOからは日本財団に理事会にメンバーとして加わってほしいとの要請もあった。もっとも、これにはドナーとしての立場から、お断りしたが。
今回の国際大会には、日本財団の尾形理事長が求められて、祝辞を披露することになり私も初めてISPOの国際大会を傍聴することにした。行ってみて大変大掛かりな会議で驚いた。参加者は約20カ国から240人。大きな会議場の周りの廊下には、各国の義手義足装具士学校や義手義足メーカーのブースが設けられており、とても賑わっていた。
大会が始まった。司会は、日本財団が支援する、マヒドン大学シリントーン義肢装具士学校のアドバイザーとして活躍していただいている田沢博士。
先ず、美しいタイの民族衣装に身を包んだ若い女性たちの艶やかな舞踊が披露された。ところが、舞踊が終わってから、彼女たちは全員シリントーン義肢装具士学校のスタッフや生徒たちであると紹介され、これには会場がどよめいた。
次いで、来賓などからの挨拶が始まった。ISPOのダン・ブロッカ会長を始め、挨拶する人の誰もが、アジアでの義手義足装具士教育における一貫した支援などの日本財団の活動を高く評価するなど、繰り返し日本財団に言及してくれた。
午前中の部が終わったところで昼食。私は、これから今回の出張の最後の目的地、シンガポールに向かわねばならない。昼食を断って、タクシーに乗り一人ホテルへ戻り、チェックアウト。今日こそバレンタインデーなのだが、時間が早いせいか、昨日のような渋滞もなくスムースに空港へ向かうことが出来た。定刻、シンガポールに到着。


8時15分 ホテル出発
9時 ISPO国際義手義足装具士協会会議
14時 ホテル出発
16時35分 バンコク発
19時55分 シンガポール着
バレンタインデーで大渋滞? [2009年02月13日(Fri)]
2月13日(金曜日)
昨晩遅く、プノンペンからバンコクのホテルに着いてみるとメッセージ。朝7時、一足先にバンコク入りしていた財団職員の上野さんが、わざわざ、ホテルまで迎えに来てくれるという。普段は、マヒドン大学の職員、タニットさんが一人で来てくれるのに、と一人訝う。
しかし、約束の7時を過ぎても来ない。結局、なぜか大変な渋滞で30分遅れて到着。彼女がわざわざホテルに迎えに来てくれたのは、APOS会議の場所が当初予定されていたホテルではなく、急遽、マヒドン大学の医学部に変わったためであった。
一緒に、マヒドン大学のシルラート医学部に急ぐ。会議開始予定の8時を少し遅れただけでなんとか大幅な遅刻をせずに済んだ。


  <東南アジアの義肢装具士学校間ネットワークAPOS 上野さん撮影>

日本財団は、アジアの4つの国で義肢義足装具士のための学校を支援している。もともとは、英国のNGOカンボジアトラストがプノンペンで運営していたCSPOと呼ばれる義肢装具士学校に対し資金助成をしたのがきっかけだが、その後、ここバンコク・マヒドン大学での4年制の装具士学校、スリランカでの義肢義足学校、そして間もなく開始予定のジャカルタでの装具士学校と支援を拡大してきたのである。
そして、今ではカンボジアのCSPOが中心になって、東南アジア全域の日本財団の支援を受けた義肢義足装具師学校やその他の学校に呼びかけ、学校間の連携を深める協議会組織APOSが設立され、域内での学校間協力が活発に行われるようになっている。日本財団が資金面でのAPOSのスポンサーである。


     <日本財団を代表して挨拶 上野さん撮影>
  
私は、APOSの会議で後援者として日本財団を代表して挨拶したあと、暫くしてAPOS会場を抜け出し、タクシーに乗ってCIAT(熱帯農業研究国際センター)のハウラーさんの事務所があるタマサート大学へ急いだ。二人で、遅めの昼食を取りながら月末から始まる予定のキャッサバ視察の打ち合わせを行う。そのあと、ハウラーさんの車で、保健省に送ってもらう。
医務サービス局で、昨年12月に始まったばかりの置き薬事業の様子を聞く。報告の為に日本に5名の代表団を派遣するというので、時期も含めて実行プランを協議。
そのあと、伝統医療研究所の副所長のアンチャリーさんがやってくる。ASEAN事務局と共同で開催する予定の伝統医療に関する会議について協議。


     <タイ保健省が配布を始めた置き薬キット>

予定の時間より遅くなったので、急いでホテルに戻ろうとタクシーに乗り込む。日本から到着する尾形理事長らと6時にホテルで合流する約束だ。ところが、高速道路は大変な渋滞。運転手によると、普段から金曜日は道路が混むことが多いが、それにしても今日は異常。恐らくは、明日に迫ったバレンタインデーが原因?という。
確かに、クリスマス同様、東南アジアの各地でもバレンタインデーが流行中。あちこちで大きな看板が目に付く。ただ、女性から男性へ主にチョコレートを贈るというのは日本だけの現象のようで、東南アジアの各国では単に恋人たちが花束や宝飾品などをプレゼントし合ったり、食事を楽しむというもののようだ。そのため、今日はデートに急ぐ人たちで道路が混雑するという理屈らしいが、にわかには信じがたい。
それにしても、原因は兎も角、道路の異常な混雑は否定しようのない現実である。全く、車が動かないまま、時間だけが過ぎてゆく。結局、ホテルに戻ることを断念して、直接、朝日新聞のアジア総局長らと会う予定のレストランへ向かうことに。約束の7時を10分ほど遅れて着く。他の人たちも、遅れて来た人が多く、口々に、渋滞のひどいタイでもここまでひどいのは初めてと言うほどの異常事態。だが、本当にその原因がバレンタインデーであったのかどうかは、分からずじまい。


7時半 ホテル出発
8時15分 APOS会議
12時半 CIATハウラーさん
15時 保健省医務サービス局パタラポンさん
16時半 保健省伝統医療局アンチャリーさん
19時 朝日新聞柴田アジア総局長
イムセティ教育大臣に会う [2009年02月12日(Thu)]
2月12日(木曜日)
午前10時、ホテルでESCの山田さんと一緒にBBCのハミルトンさんと会う。
彼は、もともと一年前に、カンボジア辺境地区の中学校の教育環境改善のために、ラジオでの英語教育事業を企画、相談した時の責任者。その直後にベトナムへ異動になったのだが、一年ぶりにベトナムから戻ってきた。
ラジオによる英語教育放送事業は奨学金事業の組織建て直しなどで、一年間の足踏みを余儀なくされたが、奨学金事業のための新NGOであるESC「絆」の設立により、ようやく再スタートのための体制が整った。
そこで、篠原大使にお願いし、昨年秋に就任したばかりの新任の教育大臣との面談の場を設定していただいたものである。前の教育大臣とは、なぜ、コンピューターなどハイテク機材ではなく、ラジオを使っての事業なのか、ということで色々議論したものだ。
この事業の対象地域であるカンボジアの辺境地帯は、電気が普及していないところが殆どで、自家発電や太陽光発電ではテレビや、コンピューターのような電気の消費量の多い機器を使用することは現実的ではなく、消費電力が小さく、乾電池で利用できるラジオの方が適している。先進国の日本でも、ラジオによる英語会話を始め、様々な番組があり、学生のみならずサラリーマンなど広く国民の間で、家庭であるいは通勤途上で大変親しまれている。
私はそれを説明するため、各種のラジオ教育番組のテキストを日本から持参し、大臣室でテーブルの上に広げて、説明したのだった。その結果、最初はやや不審を持たれた大臣も、ラジオを活用することの意義を正しく理解し、納得して同意してくれた、という経緯がある。
今回、新任の教育大臣の前で、果たして、これまでの説明を、またゼロからやり直すのか不安があった。しかし、結果的には、新教育大臣のイムセティ氏は、なぜか最初から我々の話に好意的であった。計画の概要を説明し、それに対し大臣の賛意を得て、我々は大臣室を辞去。
それに先立つ昼食は、カンボジアで唯一の日本語コミュニティー誌「ニョニョム」を発行している山崎さんと、ESC絆の山田さんと三人で取った。山崎さんからは、コンポンチュナン焼きに関する新しい事業企画の話が持ち込まれた。日本財団として、大いに関心あり、と説明。
教育大臣との面談を成功裏に終えて、私は、夕方、空港に向かった。義肢装具士の国際会議に出席するため、バンコクへ戻るのだ。


10時 BBC ハミルトン代表
12時 ニョニョム山崎さん
15時 教育大臣
18時 ホテル出発
21時10分 プノンペン発
22時15分 バンコク着

コンポンチュナンの焼き物 [2009年02月11日(Wed)]
2月11日(水曜日)
夜中に、ムンバイを発った飛行機は、ほぼ定刻の現地時間5時にバンコクに到着。なぜかほっとしてしまう。
早朝の空港で偶然会った丸紅の先輩、遠藤さんと話していると、JICAの石川さんとまたまた、ばったり。数日前に顔をあわせたばかり 奇遇に驚く。
バンコク空港で、インターネットで朝日新聞とフジテレビなどミャンマーに同行して頂いたマスコミ各社の報道をチェック。どれも、さすがプロの仕事、短い時間できっちり纏めており流石だとは思うが、私の不満はどの記事も、テレビニュースも、ミャンマーに対するステレオタイプなマイナスの建前論に満ちているということ。
せっかく、ミャンマーの政府主導の伝統医療政策の先見性、特異性を説明、縷々理解してもらったはずなのに、相変わらず、ミャンマー政府については「不十分、至らない、出来ていない」と言った表現ばかりで、ネガティブなバイアスが目立つ。軍政批判は兎も角としても、ミャンマー保健省のユニークな伝統医療活用政策を正当に評価したコメントがない。
記者の皆さんに糺すといくら彼らがポジティブなことを、書いたとしても、東京の編集デスクが、自らのイメージに合わないと、書き換えたり、書き直しを命じられたりするのだ、という。これが真実を報道する立場のメディアの姿勢であろうか。先入観を変えることなく、事実を、曲げて自分たちの先入観通りに記事を改ざんするとは。これには、正直のところがっかり。現地に出向き、事実に基づき記事を書こうとしててくれた記者さんたちの責任ではないとしても、これでは、無理してビザを出してくれた保健省も失望することであろう。
プノンペンのホテルには、奨学金事業を行うために我々が作ったNGO「ESC絆」の山田さんがロビーで待っていてくれた。山田さんも一緒に、篠原大使と日本料理店で昼食。日本財団の事業の報告をし、大使からは色々貴重なアドバイスを頂く。
そのあと、保健省に出向き、大使にご紹介いただいた新任のマムブンヘン保健大臣に会う。ついこの間会ったばかりのモナオク副大臣も同席してくれた。同じく同席してくれた伝統医療センターのプンレー所長らから予め話を聞いてくれていたらしい大臣は極めて好意的。日本財団の支援でこれから始まる、国立伝統医療学校のことを高く評価、祝福してくれた。日本財団グループによるハンセン病の支援についてもよく承知している様子。
そのあと、プンレー所長と一緒に大臣室を辞し、保健省の建物を出る直前になって、思い立って、旧知のピルム副大臣を副大臣室に尋ねる。副大臣は7人もいるのだそうだ。ピルム博士に、新保健大臣と会ったことの報告と、これまで支援してくれていたことへのお礼を述べる。副大臣からは、今後もいつでも力になると、温かい励ましの言葉を頂く。
新しく伝統医療を担当することになったモナオク副大臣の下の次官補にも挨拶。以前は、国立医学大学の教授であったというプンレーさんは、そこらじゅうに、元の教え子がいる。彼のお陰でどこへ行っても、門戸が開かれる。
夜は、いつものようにフンセン首相補佐官のブンサンボ氏と夕食。コンポンチュナンの焼き物の話になり、食後、早速、様子を見に夜市に連れて行ってもらう。コンポンチュナン焼は、生地も薄くなかなか土は良さそう。亀の形の貯金箱など造形も面白い だが 釉薬が無く赤茶色一色がさびしい。ブンサンボ氏が、その場でポケットマネーで買い求めた小さな焼き物を二つ、サンプルにと私にプレゼンントしてくれた。
日本財団がNISVA(技能ボランティア海外派遣協会)を通じて行っている、シニアボランティア派遣事業でコンポンチュナン焼の近代化をお手伝いできないか、検討することにする。


5時05分 バンコク着
7時40分 バンコク発
9時 プノンペン着
12時 篠原大使
15時 保健大臣面談
18時半 ブンサンボさん
まだまだ続く、不思議の国インド [2009年02月10日(Tue)]
2月10日(火曜日)

    <ブバネシュワールの街角の商店>

朝起きて、鮮やかな色をした熱帯の花が咲き乱れるホテルの庭を写していると突然カメラが故障。露出の自動調節がうまく行かなくなったのか、撮った写真が時々真っ白になってしまうのだ。インドには強烈過ぎるエネルギーがあるようだ。
日本財団の担当者の本多さんが今朝日本から到着することになっていたのだが、飛行機の遅れで予定していた便に乗り継げず、私とはすれ違いになる、との連絡を受ける。
BABAセミナーは始まったばかり、今週末までの会期だが、私は後を本多さんに任せて、今日はもう飛行場に向かうことになっている。ムンバイ、バンコクと飛行機を乗り継ぎ、明日の朝にはプノンペンに着いていなければならない。
朝食の後、民芸品を作る職人が住む村の見学に向かうBABA一行を見送ったあと、私はホテルに残ったアメリカン大学のグッドマン国際関係学部長と面談を求められる。アメリカン大学も提携校である国連平和大学の事業のことなどを話しあう。双方の関心分野に共通点も多く、ワシントンでの再会を約す。
11時になってラジャさんが到着したと連絡が入り、朝食兼昼食を食べる彼のテーブルで慌しく打ち合わせ。彼は、このセミナーを主宰する団体IRCの代表者だが、数ヶ月前にASEAN事務局長のスリン博士に頼み込まれて特別顧問に就任。このところ、しょっちゅうスリン事務局長と行動を伴にしているため多忙を極めている。慌ただしく、取り敢えず必要な話だけに絞って相談。
このBABAセミナーの終了後の15日、シンガポールで再び彼と合流し、ASEAN日本財団連携協定の話をすることを確認し、彼を空港から連れてきたばかりの車でホテルを後にする。
ブバネシュワールとムンバイの空港で面白いことに気付く。まず、ブバネシュワールの空港で男子トイレの場所を探すが、女子トイレはあるのに、どこを探しても男子トイレが見つからない。それもその筈、なぜか、ここには、男子トイレはなかったのである。???
用足しは、レストランの中にあるトイレを使うしかない。勿論、ここには女子用もあるのである。即ち、トイレのジェンダーバランスが無視されているということ。同じような、男女別トイレの非対称性とでもいう現象が、ムンバイの空港でも見つかった。ここでは男子用と女子用トイレが並んでいたのだが、看板が非対称であるため、一見すると片方しかないように見える。つまり男女の別を示す看板が、方や(男子用)壁に垂直に立ち、方や(女子用)、壁に並行に貼り付けられているのである。日本人なら必ずどちらかに統一するところだが、インド人には気にならないようだ。この面白いトイレの様子を、故障気味のカメラを使ってだましだまし撮影に成功。

   <インドのトイレの看板は男女「非対称」 右の黒い地の看板が男子用>

前回、大変な目にあったムンバイの空港では6時間の乗り継ぎ時間であった。空港の工事もあらかた終わり 今回は国内線から国際線への移動も分かりやすくなっていたので少し安心して、ゆったり構えているとやはり失敗してしまった。
国内線ターミナルから国際線ターミナルへの連絡バスの待合室でのこと、ちゃんと表示板も出ていたし、そこに係と思われる男たちがたむろしていたので、ここが連絡バスの待合室かと確認。20分おきに来るというバスを待つため、最前列のベンチで待つことにする。前方には、バス乗り場に通じると思われるドアもある。
しかし、20分待ってもバスは来ない。係り員たちもいなくなってしまった。しかし、乗り継ぎの便まで時間はたっぷりある。インド式時間なんて、まあ、こんなものであろうと本を読み続ける。ついに、40分経ち、60分経ちさすがに心配になってくる。後ろを見まわしてみるが、数人の人が待っているのみ。
更に10分経っても何事も起きないので、さすがに立ち上がり、後ろの方に回ってみてびっくり。まったく、私のいた方角とは反対の端に、バス乗り場があったのだ。これには、苦笑い。インドを甘く見てはいけない。
夜11時半の便でバンコクへ出発。ほっとする。


7時半 朝食
8時 アメリカン大学ゴールドマン教授
11時 ラジャさん
11時半 ホテル出発
13時15分 空港到着
15時15分 ブバネシュワール発
17時15分 ムンバイ着
23時20分 ムンバイ発
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