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大野修一(日本財団)
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犬山城 (01/18)
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帰国 [2009年01月13日(Tue)]
1月13日(火曜日) 

8時35分 バンコク発
16時20分 成田着
CIATハウラー博士の衝撃的な過去 [2009年01月12日(Mon)]
1月12日(月曜日)  
朝ホテルで朝食を済ませたあと、キャッサバプロジェクトでお世話になっている熱帯農業研究センター(CIAT)のハウラー博士と会う。親切にも、東京の三菱化学から寄贈の申し出があった特殊な土中溶解型プラスティックのサンプル・ロール2巻を手渡すためだ。我々がカンボジアとラオスで行っているキャッサバ農法改良支援事業の現場で、どのような利用法が考えられるか博士に渡してテストしてもらうことになり、重くて嵩張るロールをはるばる東京からスーツケースに入れて運んできたのだ。
併せて、今年の4月にハウラーさんが退任する直前に企画しようとしているフィールド・トリップについて打合せ。これまで20年以上住んでいたタイを離れ、彼の後半生のライフワークとなったキャッサバ事業の最前線から離れるのは、ハウラーさん自身も辛そうだ。
この機会に改めて、オランダ人の彼が一体何故、タイに来ることになったのか、その辺りの経緯をハウラーさんに聞いてみた。これまで気になりながら詳しく聞くことが出来ていなかった事柄だった。
彼が生まれたのは第二次大戦中の1942年、インドネシアの南カリマンタンにある、バンチェマシというところにあった日本軍によるオランダ人強制収容所の中であった。彼の両親は二人ともスイスのプロテスタント系キリスト教布教団に属する医師であった。両親は、戦争前はニューギニアで働いていたが、その後、当時はボルネオと呼ばれていたカリマンタンへ移動、太平洋戦争の勃発に遭遇する。
戦争が終わった1945年末、彼が3歳のときに父親は4人の幼い子供を連れてオランダに帰国。彼も、中学、高校までオランダで過ごす。そして、卒業後、交換留学生としてアメリカへ渡った。その時に、土いじりが好きだったことと、自分も若い頃の両親のように、途上国で貧しい人々のために働きたい、と考え、熱帯農業を勉強しようと思うようになったという。
そして、苦労の末、アイビーリーグと呼ばれる有名大学の一つであるコーネル大学で農学博士号を取得した。当初は、米の研究を専門にしていたが後にキャッサバ研究に転じたというハウラーさんだが、1986年に初めてタイに赴任するよう求められた時は、学齢期の子供を抱え全くの新しい土地に移ることに、抵抗があったという。しかし、今となってはこれはBlessing in disguiseだった、と「その時は不運に思えたことが、後になってみれば幸運」という意味の英語の慣用句を使って話すハウラーさんの顔は、大きな仕事をやり遂げた人間特有の静かな満足に満ちていた。
彼の永年にわたるキャッサバ事業での貢献が評価され、彼はタイ国王から、3年前に外国人に贈られる勲章としては最高の白象賞を授与されたほか、2年前にはアメリカ農業学会から国際奉仕賞を受け、昨年は農業部門のノーベル賞と言われるWorld Food Prizeの候補にノミネートされている。


     <熱帯農業研究センター(CIAT)のハウラー博士>

ただ、私には気になることが一つあった。彼の話には、彼の母親のことが出てこないのだ。なぜかはぐらかそうとするハウラーさんに、しつこく尋ねる私に重い口を開いた彼が、いつものように、穏やかに語ったのは、誠に衝撃的な事実であった。
彼が語ってくれたのは以下のような話である。
彼の母親は父親と同じく宣教師団に属する医師であった。他のオランダ人同様、日本軍に強制収容所に入れられ、そこで彼を生んだという。ところが、彼を生んですぐに、母親は日本軍に対する蜂起に関与したと疑われ、刑務所に送られた。彼の父親も別の刑務所に送られていたため、彼は、強制収容所に残った別の女性に育てられたという。そして、後日、彼女は刑務所の中で亡くなったことが明らかになるが、その死因に付いては病死なのか、刑死なのか今に至るまで判らない、というのだ。
私が、そんなこととは全く想像すらしなかった、誠に申し訳ない、と言うと、ハウラーさんは「このことは今まで日本人の誰にも話したとことはない。楽しい話ではないからね。自分自身は幼かったので何の記憶も無い。だから、日本人に何の恨みも反感も持っていないよ」、と淡々と語った。
現在のインドネシアの国土の大半は、当時は「オランダ領東インド」と呼ばれる植民地であった。戦争開始時には20万人以上のオランダ人が居住していたと言われる。インドネシアに上陸した日本軍は、短時日のうちに、オランダ植民地軍を降伏させ、インドネシア全土を軍政下に置いた。そして、オランダ人は軍人が捕虜収容所に送られただけでなく、民間人も総て、敵性国人として強制収容所か刑務所に入れられることになった。
この時に、大勢の捕虜が過酷な労働や、栄養失調、あるいは処刑されたりして死に追いやられた。また、強制収容所にいたオランダ婦人の中には強制的に慰安婦にさせられた人もいた。これらの事実は、戦後明らかになり、大勢の日本の軍人が国際法違反を問われ、処刑されている。また、オランダの対日感情は一時、ヨーロッパの中では最悪、と言われたが、その背景にあるのがインドネシアにおけるこうした戦争中の出来事だ。
「しかし、自分は日本財団と知り合い、こうして素晴らしい仕事をさせてもらったことを心から光栄に思っている」と語るハウラーさんの言葉には何の気負いも感じられなかった。


    <マヒドン大学の義肢装具士学校理事会、ピアサコール学長も出席>

彼と別れ、マヒドン大学のシリントーン義肢装具士学校へ。ピアサコール学長も多忙な中、出席してくれた。会議の冒頭、理事会のメンバーの一人で、このほどマグサイサイ賞を受賞した、タイ王立義肢財団のターチャイ理事長に、理事会の議長を務めるテラワット医学部長から、お祝いの花束が贈られた。マグサイサイ賞は社会貢献分野で活躍した個人や団体に贈られるもので、この分野では大変権威のある、アジアを代表する賞である。チェンマイにある王立義肢財団とは、日本財団もつい最近まで資金支援を行ってきており、我々にとっても嬉しいニュースである。

     <マグサイサイ賞のお祝いの花束を受けるターチャイさん>

10時 CIATハウラー博士
12時 ホテル出発
13時半 SSPO理事会
19時 フジテレビ青木支局長
スクムパン王子がバンコク知事に [2009年01月11日(Sun)]
1月11日(日曜日) 
バンコク到着直後に予定していたASEANのスリン事務局長の特別顧問ラジャさんとの打合せの場に、急遽、タイ保健省伝統医療研究所のプラモート所長らが合流することになり、その段取りを付けるため、朝からあちこちに電話をする。
北京からバンコクへは、直行便の飛行機で4時間余りの行程。ただ、問題は気温差だ。天気予報ではバンコクの最高気温は30度、北京との一日の最大気温差は40度にもなる。さて、どのような服装で飛行機に乗り込むか。朝、ホテルで荷造りをしながら、考えあぐねてしまう。
結局、バンコクに着く直前に飛行機の中で、セーターを脱ぐことにし、コートとあわせて仕舞えるよう大きなビニール袋を機内に持ち込むかばんに潜ませる。


     <新北京空港は世界最大>

到着後、直ちに会合場所に急がねばならないのに、飛行機のバンコクへの到着は40分遅れ。おまけに、入国管理の窓口は長蛇の列。そこで、急遽、打ちあわせの場所を変更することにして、あちこちに電話。結局、ホテル内の日本料理店にテーブルを予約。私の到着を待たず、打合せを先に始めておいてもらうことにする。
意外に道路が空いていたので、さほど遅れることなくホテルに到着。直ちに、ホテル内の日本料理店へ。無事、ラジャさんやプラモートさんらと合流。
一時間ほどで打ち合わせを終了。するとラジャさんが、これからスクムパン殿下の祝賀会に一緒に行こうと誘う。ASEAN事務局長のスリンさんも現地で待っているという。
今日、投票が終わったばかりのバンコク知事選挙でスクムパン王子が当選したので、これから彼の住居であるスアン・パッカード宮殿で祝賀会が開かれるというのだ。時間はもう9時半を廻っている。このままでは、終わるのが何時になるか分かったものではない。暫し迷った挙句、結局お誘いを断り、彼を見送って私はホテルの部屋に引き揚げる。まだ、チェックインはしたものの、荷解きすらもしていないのだ。
スクムパンさんは、民主党の有力者で、元外務次官。バンコクの空港閉鎖騒ぎのあとで、アビシット民主党内閣が発足したが、元々、次の民主党内閣では、彼の外相就任が有望視されていた。しかしそれより先に、スキャンダルで辞任したバンコク知事の後を受けて、彼がバンコク知事選に出馬することになった。
スクムパンさんは、政治家というより学者肌で物静かな人だ。事実、かつてはチュラロンコン大学の政治学の教授をしていた。ここ数年は、日本財団グループ支援事業参加者OB対象の合宿セミナー「BABA」の審査委員長として、バンコク市内のスアン・パッカード宮殿にある事務所での審査会議を毎回主宰してくれている。
スクムパンさんが、知事になったのは嬉しいが、我々の「BABA」事業の審査委員長については、今後は後任を捜さねばならなくなりそうだ。


13時45分 北京発
18時05分 バンコク着
20時 ラジャ特別顧問

氷点下の北京 [2009年01月10日(Sat)]
1月10日(土曜日) 

     <オリンピック新設建物群のひとつ、人呼んでパンツビル>

今日も、お昼は北京大学国際関係学院OBの別のグループと会う。日本で初めて会ったのは彼らの歓迎会の場であった。その時、痛飲して大騒ぎしたことを話の肴にして大盛り上がり。
今回集まってくれた4人のうち最年少で今年卒業予定のPさんは、中国の景気悪化から今年の就職戦線は本当に大変だとこぼす。中国ではエリート中のエリートである北京大学の大学院で博士号を取得した彼女のような卒業生ですら、思うような就職が出来ないというのだ。つい数ヶ月前までオリンピックに沸いていた北京はどこへ行ってしまったのだろうか。
中国では、例年、春節前は故郷にお土産を持って帰る人で列車や飛行機は大混雑するのだが、今年は、不景気のせいで工場の冬休みが早めに始まったり、倒産で職を失ったりした出稼ぎ労働者の帰郷のタイミングが早まったりしたために、切符の需要期が分散しているため、混雑が幾分緩和されたのだという。不況による怪我の功名だ。
今後の心配の種は、春節が終わったあと、労働者が都市に戻ってきても、生産不振がより深刻化して職にあぶれることだ。そうなると、春節後は社会不安が一層深刻化するのではないか、と広く心配されているのだそうだ。
今日の北京は晴れ。気温は一層冷え込んでいる。天気予報によると、最高気温がマイナス1度、最低ではマイナス9度という。ここでは、ホームレスは命懸けだ。


     <北京大学国際関係学院OBの皆さんと>

12時 北京大学OB
18時 共同通信中国総局水野記者他
寒風の中、北京でも凧揚げ [2009年01月09日(Fri)]
1月9日(金曜日)   
午前中、日産自動車の中国事業の持ち株会社である日産(中国)投資有限公司に研究開発の責任者である中川さんを訪ねた。ベトナムのハノイで間もなく始まる重度障害者の自立生活支援運動( Independent Living)で使用する車椅子運搬のための特殊車両に付き相談するため。
その後、ホテルに戻り、北京大学国際関係学院の早稲田留学事業の卒業生、Lさんら三人と会い、一緒に昼食を取りながら意見交換。三人は皆、日本留学中は私と中国語と日本語の交換授業をやってくれた仲。今では、北京外国語大学、北京人民大学、現代国際関係問題研究所とそれぞれ職場は違うものの、日本政治などの分野で教鞭をとるなど若手政治学者として活躍中。マニラの国連平和大学への中国人学生の応募者増大への協力などをお願いする。
日本では、長かった正月休みも終わり、お祭り気分も消えたばかりだが、ここ中国ではあちらこちらに新年を祝う文字が目に付く。それもその筈、中国人にとっては1月1日以上に重要な、旧暦に基づく正月、即ち、「春節」がまもなく始まろうとしているのだ。日本の伝統的な正月飾りにも共通する赤やピンクのお目出度い色を使った新年の飾りつけに加えて、最近は、クリスマスツリーなどの欧米式のデコレーションも増えて来た。
几帳面にもクリスマスが過ぎると、もうその翌日には正月飾りに取り替えてしまう日本人にとっては、若干違和感を感じるところであるが、ここでは、春節が過ぎるまではクリスマスのデコレーションも街の賑わいの一役を担うのは何ら不思議なことではない。

     <新年の飾りつけクリスマスツリーの前で記念撮影>

ふと空を見上げて、何と、寒空にいくつかの凧が舞っているのに気付く。日本ではお正月に特有の風物詩、と考えられている凧であるが、中国では秋から春にかけて子供のみならず大人をも時に夢中にさせるスポーツ(?)であるそうな。特に、冬季にかけて風の強いことで有名な北京では珍しいものではないようだ。以前、トンボや鳥の姿をした色とりどりの民芸調の凧が、北京の土産物屋で売られていたことを思い出す。私自身は、土産物屋を覗かなくなって久しいが今でも売られているのだろうか。
夜は、読売新聞の河田総局長と、モンゴル取材の件で打合せをしながら夕食。


     <北京の冬空に舞う凧、遠すぎて芥子粒のよう>

10時 日産(中国)投資有限公司
12時 北京大学OB
15時 丸紅中国
19時 読売新聞中国総局河田総局長
気温差は40度、中国経由タイ [2009年01月08日(Thu)]
1月8日(木曜日) 
新年早々、今年初の海外出張。行き先は、北京とバンコク。極寒の北京と熱帯のバンコク、両者の気温差は40度。
今回の出張は、もともと、昨年11月に予定されていながら先方の事情により延期になっていたバンコクのシリントーン義肢装具士学校の理事会への出席に、北京大学国際関係学院の東京大学向け修士留学事業の打合せを合わせて企画したもの。
バンコクのシリントーン義肢装具士学校(SSPO)とは、日本財団が得意とする東南アジアでの義肢装具士養成学校の中核校として、タイで最も権威ある医学部といわれるマヒドン大学に6年前に設置した4年制学士課程の義肢装具士養成コースである。2010年には、英語のみで授業を行う国際コースを開講、近隣諸国から広く留学生を集めることになっている。
このSSPOの生徒数は高々50名ほどと、学生総数2万6000人のマヒドン大学からみてほんの小さな存在に過ぎないが、現学長で、プミボン国王の侍医団長と言われるピアサコール教授が、医学部長で本事業の担当責任者であった時に、彼の全面的バックアップを得て始めたものである。ピアサコール学長の尽力により、タイ人が国王に次いで敬愛すると言われるシリントーン王女の勅許を得て、2年前に栄えあるシリントーン義肢装具士学校という名前になった。
私は、資金支援者側代表として、この学校の理事会メンバーに名前を連ねている。特に、今回は、2010年に国際コースを開校すべく現医学部長のテラワット教授と合意文書に署名することになっている。
一方、北京大学の国際関係学院の場合、その開設は10年以上前に遡るが、ここも日本財団の全面的資金支援によって始まったもの。その後、早稲田大学との博士課程の留学生派遣交流事業の成功を踏まえて、2年前からは東京大学との間で修士課程の留学生派遣事業が始まった。今回、来年度事業への打合せのために東京大学側の責任者である著名な政治学者の田中明彦教授らと、北京大学に出向くことになっていた。しかし、こちらは、その後、東大側の他の教授陣とスケジュールの調整が付かなくなり、急遽、延期されることになった。
そこで、私も一旦は、北京行きをキャンセルすることを検討したのだが、今回の北京行きに合わせて他の予定も既に組んでいたことから、予定通り北京に行くこととしたもの。
午前中、財団で予算会議に出たあと、社有車で成田空港に向かった。


17時25分 成田発
20時30分 北京着
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