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大野修一(日本財団)
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犬山城 (01/18)
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ASEAN事務局でスリン事務局長と面談 [2008年07月28日(Mon)]
7月28日(月曜日)
朝、ホテルからタクシーに乗ってASEAN事務局へ。対外関係局のダナン局長の部屋で、局次長のトンパンさんやその他の担当官も交えて、ASEAN事務局と日本財団の間で6月末に調印した包括業務提携協定の具体化に向けての協議。
五つの重点項目の殆どの分野で、第一弾となる具体的な提携事業の素案で合意。
そこへスリン事務局長が現れ、彼の執務室に招じ入れてくれる。私の方から、実務レベル協議での合意事項のあらましを報告、スリン事務局長の同意を得る。
また、スリン事務局長の呼びかけに応じ、ミャンマーのサイクロン被災者支援の為に日本財団がいち早く1000万円の義捐金を拠出した支援基金の使用についても協議、8月にもミャンマーに一緒に行き伝統医薬品を活用した医療支援を実施する方針を確認。
そのあとタクシーで丸紅ジャカルタ支店へ。小室インドネシア総代表らと面談。小室さんは、ジャカルタ在住の企業や個人の集まりであるジャカルタ・ジャパン・クラブの理事長。昨日行われた日本インドネシア国交樹立50周年記念のための日本インドネシア交流フェスティバルの実行委員長でもある。日本財団のインドネシアの事業計画を説明し、日本企業のCSRなどの観点からアドバイスを頂いた。
その後ホテルに取って返し、共同通信の上村ジャカルタ支局長と夕食を取りながら面談。終わって直ぐに空港へ。夜行便で帰国の途に。


     <ジャカルタのホテルの前の通り>

10時 ASEAN事務局での会議
11時45分 スリン事務局長面談
16時 丸紅ジャカルタ支店訪問
17時半 共同通信上村ジャカルタ支局長面談 
19時15分 ホテル出発
22時15分 ジャカルタ発
(翌29日)7時45分 成田着
日系インドネシア人ヘル・サントソさん [2008年07月27日(Sun)]
7月27日(日曜日)
今朝は、飛行機の時間が少しゆっくりなので、朝食をシンガポールのホテルの直ぐ脇にある中華街(?)でとったあと、空港へ。空路ジャカルタへ。ほんの一時間の旅。
午後5時、日曜日にもかかわらず、日系インドネシア人組織である福祉友の会の会長、ヘル・サントソさん達がホテルに訪ねて来てくれた。日本でも良く知られた話であるが、第二次世界大戦に敗れた後も日本に帰国せずインドネシアに残留、対オランダ独立戦争にインドネシア側に義勇兵として参画して戦った日本兵が1000人も居たと言われる。
そして、インドネシアが目出度く独立した後も現地に留まり、インドネシア人と結婚し現地に帰化した約100人の旧日本軍人たちが、紆余曲折の後1979年に結成したのが福祉友の会である。しかし、現在では結成時の会員のうち存命の人たちは5-6名に減り、今の会の運営は2世、3世の手に委ねられるようになっている。現会長のヘル・サントソさんは、日本留学の経験も持ち、日本語を流暢に話すが日系2世、49歳である。
彼と一緒に現れたシルビアさんは福祉友の会の事務局長で3世、彼女も日本留学経験者で日本語は堪能だが、今の会員には日本語の出来ない人も多いという。サントソさん、シルビアさんに同行して来たまりこさんは、インドネシア人と結婚した日本人で、日系人子弟の通う日本語学校ミエ学園の先生である。
日本財団は4年前に、シニアボランティアの送り出し組織「NISVA(技能ボランティア海外派遣協会)」を設立し、腕に職のあるシニアの日本人の方々に海外途上国での技術指導をお願いしているが、今度は、ヘル・サントソさん達の福祉友の会と組んで、インドネシアへのボランティア派遣を強化する計画である。


     <日系人の組織「福祉友の会」ヘルサントソさんたち>

サントソさん達と話をしているうちに、急に空が掻き曇り大変なスコールになった。今日は、日本インドネシア国交樹立50周年記念のための日本インドネシア交流フェスティバルの日、これから盆踊りが始まるところなのだ、という。一ヶ月ぶりという雨の影響を心配しながら、会場に準備のため急ぐサントソさん達と入れ替わりに、カンボジアトラストのカーソンさん夫婦が現れた。
カーソンさんは、インドネシア保健省との協議が最終段階を迎えている義肢装具士学校事業の準備交渉の責任者である。最後の追い込みの為に、夏休み返上でジャカルタに張りついているカーソンさんに、自らも専門家の夫人と娘さんたちが夏休みを使って激励に訪れたという訳だ。
私はカーソン夫人ともこれまで何度も会っている。しかし、ゆっくり話をするのは今回が初めて。



12時40分 シンガポール発
13時15分 ジャカルタ着
17時 福祉友の会会長ヘルサントソさんらと面談
19時 カンボジアトラストのカーソンさん夫妻と夕食

一日中ホテル内で過ごす [2008年07月26日(Sat)]
7月26日(土曜日)
今日は土曜日。ラジャさんもいないし、やることがない。一日中ホテル内で過ごす。シンガポールは美しい町だが、今更一人で出歩くのも億劫だ。今度、家族旅行に家内や娘を連れ出そうか、そのためには、もう少し最近の穴場を探検しておいたほうが良いかと思うが、今回はパス。
結局、一日中、ホテルの部屋で本を読んだり、ASEAN関係の書類を読んで過ごす。夕食は、直ぐ近くにあるスーパーで買ってきたビールと、週末屋台で見つけた中華惣菜とタイ式のパパイヤサラダで。同じホテルに泊まる利点はこんなところにある


シンガポールに移動 [2008年07月25日(Fri)]
7月25日(金曜日) 
今日はシンガポールに移動。元々は、月曜日のASEAN事務局との会議の前に、ASEAN事務局長特別補佐官になったラジャさんと会っておきたかったからだが、彼はインドに行っていて不在。
そこで、いつも法人割引レートでホテルを予約してもらっている丸紅のシンガポール支店に挨拶。以前の私の若き同僚である高橋君に会い、旧知の秘書のアイレスさんにお礼。
夕食は、朝日新聞シンガポール支局の杉井支局長と。つい、先日終わったばかりのASEAN外相会議について色々教えてもらう。


11時10分 バンコク発
14時25分 シンガポール着
16時半 丸紅シンガポール支店訪問
18時半 朝日新聞杉井シンガポール支局長面談
再びAPCDでの盲人次世代リーダー会議へ [2008年07月24日(Thu)]
7月24日(木曜日)
ハノイからバンコクに戻る。ホテルにチェックインして、そのままAPCDへ。着いてみると、参加者の総意で作る共同宣言作りがほぼ終わるところであった。そのまま、終了式に。ドナーを代表して私が挨拶したあと、盲目の上院議員のモンティアンさんが主催者を代表して、「我々盲人は誇りを持って生きよう」と熱のこもった挨拶をしてくれた。

     <モンティアン上院議員の熱のこもった挨拶>

最後まで全日程に付き合ってくれたサブリエさんに心からお礼を言って、再会を約して握手を交わす。「私自身も本当に楽しかったわ」、と言ってくれる。きっと、彼女と何か仕事が出来るのではないかと思う。
終了式の後、盲人の参加者たちとお別れのディナー、というから豪華なパーティーかと思っていたら、とても簡素な夕食。中身は日本料理店のお弁当だった。最後まで無駄の無い、効率的なセミナーであった。APCD(アジア大洋州障害者センター)の皆さん、とりわけ日本財団職員として担当してくれた前APCD職員の千葉さんに感謝。


     <終了式に臨んだ参加者たち>

私は、食事を取りながら4日間の合宿形式のセミナーですっかり仲良くなった友人たちと話し込んでいる参加者たちの中に割って入り、セミナーの感想を聞いて廻った。みんな異口同音にとても良いセミナーだった、と言ってくれたが、私は、しつこくどの講演が一番良かったとか、これまで参加したこの種の会議と比べてどうだった、と聞いて廻った。どの講演も良かったがと前置きして、サブリエの名前を挙げる人が多かった。そして、「この種の会議と較べて」という質問には、「このような会議は初めてだ、参加できたことを光栄に思う」、という答えが返って来たのには感激。8時半 ホテル出発
11時15分 ハノイ発
13時05 バンコク着
16時 視覚障害者次世代リーダー会議終了式出席
18時 参加者と一緒に夕食

重度肢体障害者自立生活プロジェクト(IL) [2008年07月23日(Wed)]
7月23日(水曜日)
今朝は、最初にBright Futureという素晴らしい名前を持つ肢体障害者の自主支援(Self Help)グループを訪問した。彼らには、日本の障害者支援センターの支援の下、IL(Independent Living)という事業を始めてもらうことになっている。ILという運動は、アメリカで始まった重度障害者が相互に支援しあうことで自分たちの社会参加を促そうと言う運動である。それまで、交通事故や脳性まひなどで重度の障害を受けた人は、日常的な介護が必要と言う理由から、外に出ることのみか、社会活動に参加することは出来ない、と周りも見做し自分たち自身もそのように考えて来た。しかし、ILの発想は、重度の障害者であっても、適切な補助具や、必要最小限の介護者の支援を受けるだけで、社会において自分たちでしか出来ないユニークな貢献が可能である、というものである。特に、ILの基幹要素を占めるピアカウンセリング(Peer Counseling)と呼ばれる活動は、相手の境遇をより深く理解しうる障害者自身が同じ障害者に対して行うカウンセリングである。それまで家に閉じこもり、健常者には心を閉ざしていた重度障害者が、ピアカウンセラーの働きかけに応じて、それまでの思い込みを捨てて活動に参加する事例が少なくない。
代表者であるホンハーさんの自宅を開放したBright Futureの事務所で、来年始めの事業の開始に向けての意見交換を行った。集まってくれたのは、ホンハーさんを含めて4人の人たちであった。日本財団の支援で日本に招聘した障害者基本法制定のための政府調査団の一員として数ヶ月前に会ったばかりのバンさんを除く3名は車椅子の利用者であったが、脳性まひのホアさんを除いた3人は言語障害は無く、しかも流暢な英語を話してくれた。和やかな雰囲気で大変率直な話が出来、事業の準備を進める上で、大変参考になる話を聞くことが出来た。
Bright Futureの事務所で2時間半も過ごしたあと、一旦、ホテルに帰り一人で昼食の後、ベトナム盲人協会を訪問した。ここは、今年からICEVIと組んで盲人大学生のための学習支援事業を始めたところである。


     <ベトナム盲人協会のビル>

ベトナム盲人協会は古い小ぶりなビルではあるが、政府の支援を受けて自分自身の事務所ビルを抱える立派な組織である。ここでは、協会スタッフで英語の堪能な若い晴眼者の女性ハイさんが待っててくれ、副会長のフオンさんのオフィスに案内された。ハイさんの通訳の下、フオンさんに現状の説明を受けたあと、同じビルの中に設けられたサポートセンターに案内された。
サポートセンターとは、盲人大学生のための学習支援事業の拠点をなすもので、盲人用の特殊なソフトウエアを装備したコンピューターを備えた学習室のようなものである。ハノイ地区の大学に通う盲人の大学生は、ここに来れば、盲人用ソフトウエアのトレーニングを受けるとともに、8台あるコンピューターが空いている限り自由に使うことが出来る。
本来ならば、ハノイ地区だけで約60人いるという盲人大学生一人一人にコンピューターを供与出来れば良いのだろうが、各家庭からブロードバンドに接続できる訳でも無いし、また、通信費を個々人が負担するのも大変だということで、昨年始めたインドネシアのジャカルタ、バンドンの二都市同様、ハノイでもこのようなシステムになっている。ただ、副会長の話では、8台中2台しかないラップトップコンピューターの人気が最も高く、試験期間中は奪い合いになっているという。また、同じハノイ地区内であっても、離れた場所に住む大学生にとっては、ここに来るまでの時間や、交通費の負担が馬鹿にならないので、ここでの運用状況次第では、別の場所に第二、第三の拠点を開設することも必要だ、その場合には、デスクトップを減らしラップトップコンピューターを増やして欲しい。また、今回は大学生に利用を限定しているが高校生にも同様なファシリティーが欲しい、とのことであった。
サポートセンターで熱心にコンピューターに取り組んでいる男子学生の画面を覗いてみてびっくりした。彼が、使っていたのは何とテレビ電話システムのSKYPEだったのだ。さすがに、こちら側のコンピューターにはカメラが装着されていないのだが、相手側の顔が画面に映っている。この学生によると、遠隔地にいる人たちと主にコンピューターソフトに関する情報交換をSKYPEを通して行っているのだ、という。今の相手はホーチミン市にいる盲人の友人だが、時には外国人とも英語で情報交換するんだ、と語ってくれた。


     <彼が使っているのは何とSkype>

9時 ホテル出発
9時半 重度障害者自立グループBright Future訪問
14時半 ベトナム盲人協会訪問
18時 国連平和大学インターン生と夕食
日越国交樹立35周年 [2008年07月22日(Tue)]
7月22日(火曜日)
今日は、視覚障害者次世代リーダー会議の二日目。本来なら、河村さん石川教授の話を聞くところなのだが、私と尾形理事長は朝6時にホテルを発ち、空港へ。多忙な理事長は日本へ帰国。私は、ハノイへ向かう。
ベトナムに到着後、私は丸紅ハノイ支店に向かう。真新しいビルの真新しいオフィスでベトナム事業の総責任者砥上ベトナム総代表に会う。彼は、在ベトナム日本企業約300社の集まりであるベトナム日本商工会の会長だ。
砥上ベトナム総代表に面会を申し入れていた理由は、今度我々が始めるべく準備中の重度障害者の自立支援に必要となる特別仕様の介護車をベトナム進出の日本企業に寄付してもらう可能性を探るため。
砥上さんによると、半年か一年早ければ可能性は十分あったが今では難しい、という。今年は、日本のベトナム国交樹立35周年ということで日系企業は様々なチャリティー活動に支援を行ってきており、このタイミングでの追加支援は難しい状況であると。
というのも、ベトナム経済はここへ来て、インフレが30%に迫る勢いで進行し、政府は金融引き締めに転じたため、それまで天井知らずの急上昇を続けていた株式市場は大暴落。工場では労働者が賃上げを求めてストをおこなう一方、輸入部品の輸入関税率が大幅に引き上げられ、それまで高度成長を謳歌していた日本企業も業績の悪化に直面している、というのだ。
丸紅を辞し、NHKのハノイ支局に向かう。この間まで親しくさせてもらっていた野田支局長が帰国し、後任の山田支局長に初めて会う。野田さんに続いて若い女性の支局長だ。日本財団の事業の概要とあわせ、重度障害者支援など現在計画・準備中の事業についても説明。
そのあと、場所を変えて日本料理店へ。国連平和大学からのインターン生の徳末さん、横山さんのお二人を紹介がてら4人で食事。


     <道路の拡張が進むハノイの町>

6時 ホテル出発
8時25分 バンコク発
10時15分 ハノイ着
16時 丸紅ハノイ支店訪問
17時半 NHKハノイ支局山田支局長と面談
19時 夕食
サブリエ・テンバーケンさんの講演に圧倒される [2008年07月21日(Mon)]
7月21日(月曜日)




     <視覚障害者次世代リーダー国際会議始まる>

朝8時、理事長と二人でホテルの車で出発、APCD(アジア大洋州障害者センターに向かう。APCD財団の会長であるタイの元首相タニンさんを迎えて、いよいよ会議がスタートした。日本財団の尾形理事長、タニン元首相らの挨拶の後、最初の基調講演はサブリエ・テンバーケンさん。
彼女はまだ38歳ながら欧米などでは、既に極めて有名な人物である。2004年にはタイム誌のヒーローオブザイヤーに選ばれ、2006年にはマザーテレサ賞を受賞。また、2005年にはノーベル平和賞候補にもノミネートされている。彼女がチベットでの盲学校設立に至る過程を描いた本「わが道はチベットに通ず」はドイツでベストセラーになったばかりか、日本語など各国語にも訳されている。また、日本でも公開された映画「ブラインドサイト 小さな登山者たち」はいくつもの映画祭で賞を受けている。
彼女は、自分の生い立ちからチベットに至る半生を語り始めた。
自分は12歳で失明したあと、途上国支援を志してボンの大学でチベット、モンゴルを中心に中央アジア学を専攻、チベット語や中国語を学んだ。チベット語の学習の過程で自らチベット初となる点字を考案、27歳にして単身でチベットに移り住み、大変な苦労の末、盲人学校を設立した。それまで教育の対象として全く顧みられる事の無かったチベットの目の見えない子供たちに、自ら開発したチベット点字を習得させるとともに、点字を通じて算数、中国語、英語などを教えた。そして、さらに2006年には盲人初の米人エベレスト登山家や6人の子供たちと一緒に7000メートル級の登山に挑んだ。
私自身も含めて、盲人の若者を中心とする聴衆は、破天荒ともいえる彼女の話に圧倒されたようだ。まるで小説を読むような、波乱に満ちた経験談の中で、サブリエさんが繰り返したメッセージは、盲人は、決して無力な存在ではなく、哀れみの対象ではないこと、自分に誇りを持ち、自信を持ち、信念をもつことで不可能と思えたことでも成し得るのだ、ということであった。
私自身が、アジアの各地での障害者支援事業に関わる過程で痛感させられたことは、特に、カンボジアやラオスなど東南アジアでも特に貧しい国においては、障害者は一般的に教育や社会福祉などの政策において一番後回しになっているのみか、輪廻を信じる仏教徒においては、障害は前世の悪行の報いであると考えられて、同情どころか侮蔑の対象になっていることも少なくない。
このような困難な日常の中で苦労している障害者に、現在ではなく未来に視座を移して見ることで、自らの持つ大きな可能性と社会に対する貢献を考えてもらおうというのが、私の願いであった。
サブリエさんのメッセージこそが、このセミナーに参加した盲人の若手リーダー達に私が伝えたかったことであり、彼女が今回の講師陣のトップバッターであったことは本当に嬉しいことであった。



     <盲人よ誇りを持てと語るサブリエさん>

サブリエさんの迫力ある話のあとは、盲人の参加者たちと活発な質疑応答。ふと、後ろの席を見ると、午後のレクチャーの講師を務めてくれることになっているタイの有名なジャーナリストのカビさんがいた。彼にサブリエさんの話の感想を聞いてみる。「彼女はすごい人だね。話も本当に面白かった。でも、彼女のあとではやりにくいなあ」と不安を口にする。
彼は有力英字経済紙ザ・ネーションの編集副主幹で、時には料理評論や、時事評論の一こま漫画も書くという才人だ。話もうまく、講演には定評がある。その彼にして、「サブリエさんの後ではやりにくいなあ」と言わせるほどの迫力があった。
しかし、午後になってカビさんの話が始まってみると、彼もまたさすがであった。参加者たちの周りを歩き回り、個々人に直接語り掛けながら熱くアジアの未来を語る。後で聞いたところによると、講演なれしたカビさんにとっても、全員盲人の聴衆と言うのは全く始めての経験であったので、今回は講演の準備にこれまでになく時間を掛けた、ということであった。
尾形理事長には、残念ながらカビさんの話の途中で抜けてもらい、マヒドン大学の義肢装具士学校の方に視察に行ってもらったが、私はそのまま残り、カビさんの講義を堪能した。ここでも、講義の後、参加者からの質疑応答が相次ぎ、サブリエさんの講演にも劣らぬ熱気が感じられた。ある参加者はサブリエさんよりもカビさんのほうが更にためになった、と私に打ち明けた。いずれにせよ、こうして視覚障害者次世代リーダー会議初日は大成功に終わった。
夜は、マヒドン大学から戻った尾形理事長やAPCDの二宮さんを始めとするスタッフ、河村さん、石川先生らとタイ料理屋でタイ鍋をつつきながら歓談。


8時 ホテル出発
9時 視覚障害者次世代リーダー会議
18時 アジア大洋州障害者センタースタッフらと夕食
視覚障害者次世代リーダー国際会議へ [2008年07月20日(Sun)]
7月20日(日曜日)
日本財団の尾形理事長と成田空港で待ち合わせて、バンコク行きの飛行機に乗り込む。明日からバンコクのAPCD(アジア大洋州障害者センター)で始まる視覚障害者次世代リーダーのための国際会議で、尾形理事長に主催者として挨拶をしてもらうためだ。
視覚障害者次世代リーダー国際会議はAPCDの専門家から日本財団職員に転じてくれた千葉さんが中心になって、企画準備してきたもの。ASEAN諸国を中心にアジアの各地で活躍している30代を中心にした若手視覚障害者20人が集まってくれることになっている。20年後の未来のアジアにフォーカスして、その頃までには各国での視覚障害者コミュニティーでのリーダーになっている筈の彼らに、未来の社会でどのような貢献をしてもらえるのか、そのためには今から何を準備してもらう必要があるのか、などを4日間の合宿を通じて徹底的に議論してもらうことを狙いとしている。参加者の殆どが、日本財団がこれまで各地で実施してきた盲人支援事業の参加者で、うち、4-5人の参加者は私も面識がある。
この企画に賛同し、2年前から、実施団体として準備や参加者の選定、講師の手配など総てにわたって、現実に切り盛りしてくれたAPCD(アジア大洋州障害者センター)の二宮シニアアドバイザーによると、このような趣旨の国際会議は恐らく初めてのことだろうという。
このような企画を思いついた背景には、グローバリゼーションやASEANに象徴される地域統合の進展、IT技術の革命的な発展による障害者を取り巻く急激な変化がある。特に、IT革命の最大の受益者は障害者であると言ってよいのではなかろうか。
過去20年ほどの変化も大きかったが、それ以上に今後20年の変化には著しいものが予想される。日常、様々な問題や障壁に直面している、障害を持った若者に、一度思いっきり現実から未来に思いを馳せてもらうことで、新たな視点を持ってもらうとともに、我々支援団体としても今後の事業のヒントをもらおうと考えたのである。
そのための講師として一流の人材を揃えたいと思い、APCD の専門家の皆さんの協力を得てASEAN事務局長を始めとする人たちの名前をリストアップした。ASEAN事務局長のスリンさんからは内諾を得ていたのだが、シンガポールでの外相会議の日程と完全に重なってしまったため、彼の盟友でタイの有名なジャーナリストであるカビさんがピンチヒッターを引き受けてくれた。
その他の講師は、昨年日本でも公開された映画「ブラインドサイト 小さな登山者たち」で有名なドイツ人の盲人女性サブリエ・テンバーケンさん、障害者向けデジタル録音図書の普及を目指して活動するDAISYコンソーシアムの河村宏会長、静岡県立大学教授の石川准さん、タイ盲人協会会長で上院議員のモンティアンさん、という豪華な顔ぶれ。
石川教授は、全盲でありながら東京大学を卒業、社会学者であると同時に視覚障害者のためのコンピューターシステムの開発者としても有名な方である。また、河村さんが力を注ぐDAISYは日本財団が途上国での普及活動を支援してきたものだが、今年、国連の国際電気通信連合(ITU)より世界電気通信情報社会賞を受賞。障害者とICT(情報通信技術)を結ぶ活動が評価されたもの。さあ、明日からの会議が楽しみだ。


10時50分 成田発
15時25分 バンコク着
香港経由で帰国 [2008年07月05日(Sat)]
7月5日(土曜日)

    <新装成った空港>

10時05分 ホーチミン発
13時45分 香港着
14時50分 香港発
20時00分 成田着
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