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大野修一(日本財団)
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犬山城 (01/18)
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タイ初の伝統医学国際会議 [2009年08月30日(Sun)]
8月30日(日曜日)
何と今月3回目のバンコク行き。今回の出張の主たる目的は、昨年6月に日本財団がASEAN事務局と締結した戦略的パートナーシップ協定に基づく、共同事業第二弾としての、ASEAN伝統医療促進国際会議の第一回会合をタイ保健省と組んでバンコクで執り行うに際してのもの。明日の開会式典において笹川会長は、タイ保健大臣、スリンASEAN事務局長とともに挨拶を行うことになっている。
ところで、タイ伝統医学とは何か。以下は、タイ保健省の資料に基づく、タイ伝統医学解題である。


            <王宮前広場から見た王宮>

━タイ伝統医学(TTM)とは、タイ特有の文化、行動様式、仏教哲学などに基礎を置く人間の健康と病気の治療に関する知恵と技術の集合である。そこでは、治療、薬の処方、マッサージ、仏教儀式、瞑想、その他超自然や宇宙の力を活用するための儀式などが用いられている。インドや中国を始めとする諸外国の伝統医学を取り込み、タイの風土に適合するよう改良している。
タイの伝統医療の歴史は長い。既に、スコタイ王朝(1238-1377)以前から薬草を用いていた記録がある。スコタイ期の碑文に拠れば、当時、タイ全土に102の病院があったという。
その後、アユタヤ王朝のナライ大王(1656−1688)の医師団がタイ伝統医学の初の公式医学書「ナライ大王の医薬教書」を編纂。ビルマ族にアユタヤ王朝が滅ぼされた後、バンコクに興ったチャクリ王朝では、ラーマ1,2,3世が伝統医学の復活に注力。1,000種以上の生薬の処方やマッサージの解説、病気の説明が刻まれた大理石板がワット・ポーなどの2つの寺院に納められた、という。
そして、ラーマ5世(1868-1910)の時代には医学生のためにタイ伝統医学初めての教科書など3冊の専門書が作られた。今でも、これらの文献は、タイ政府食品医薬品庁(FDA)が認定するタイ伝統医学の教科書とされている。
一方、近代化の過程で、西洋医学がラーマ3世の頃から、宣教師や西洋人の医師によってタイにもたらされた。そして、1888年にはタイ初の西洋式の病院と、医学校として、シルラート病院(現在のマヒドン大学シルラート病院医学部)が開設された。シルラート病院医学校では、当初は、西洋医学と並んで伝統医学も教えられていたが、1916年に伝統医学教育は廃止された。
廃止の理由とされたのは、@タイ式伝統医学と西洋式近代医学は互いに整合性がなく、両方を教えると学生が混乱してしまう、Aタイ式伝統医学は医師の主観的な判断が重視され、客観性を欠く、B指導法も古典文献の丸暗記に限られている、などであった。シルラート病院医学校での伝統医学教育の廃止は、特に、知識人層を中心とする国民の間でタイ式伝統医学に対する関心を低下させることになった。
その後、医療基本法(1923年)と医療行為規制法(Practice of the Arts of the Healing Act ,1936年)が導入されるに及び、タイ式伝統医療師の側の誤解もあって、大多数の伝統医療師は無資格となり、おおつぴらには医療行為が出来なくなってしまった。
そして、資格を取った少数の伝統医療師にとっても、公的機関での伝統医学に基づく医療行為は行われなくなったことから、活動の場は自らの私設施療院に限られ、その相手は、西洋式医療サービスが届かない、遠隔地に住む、貧しい人々に限られてしまうこととなった。
1970年代の後半に入り、このような潮流が大きく変化する訳だが、その説明は明日に回そう。

         <ASEAN伝統医学国際会議>

10時30分 成田発
15時05分 バンコク着
19時 笹川会長・マヒドン大学ピアサコール学長会談同席

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