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第9回アジア地域キャッサバ会議 [2011年11月28日(Mon)]
11月28日(月)
朝7時過ぎ、朝食の前に、飛行機の延着で昨晩打合せが出来なかったCIAT出向中の日本財団職員、間遠さんと、日本財団の担当者の田中さんの3人で打合せ。
朝食の後は、ホテルと同じ敷地内の別棟にある会議室で、広西壮族自治区政府の陳章良副主席ら自治区政府幹部と懇談。
陳副主席は中国の政府要人としては珍しく、英語を流暢に話す。それもその筈で、米国のワシントン大学で学び、農業博士号を取得している。専門は遺伝子組み換え。キャッサバの遺伝子操作もやったことがあるという。副主席になる前は北京の農業大学の学長だったという農業のプロだった。
彼は懇談会の後の開会式でも、広西壮族自治区におけるキャッサバの重要性を力説、今回の会議に対する自治区政府としての期待を熱く語った。開会式の会場には、英語の通訳が待機していたのだが、彼は冒頭から通訳による翻訳を制止し、自ら中国語と英語の二ヶ国語で熱弁をふるった。
それによると、広西省内の現在のキャッサバ生産能力は需要の半分に過ぎないが、キャッサバに対する需要は今後更に増大が見込まれているという。特に、バイオエタノールについては、現在の生産量は20万トンに過ぎないが、100万トンに増産する計画である。中国政府の人材の層の厚さを感じさせられた瞬間だった。

             <開会式で挨拶する自治区政府の陳副主席>


開会式に引き続き、第9回アジア地域キャッサバ会議が始まった。参加者は全部で160人ほど。前回のラオスでの会議はそれまでで最高の120人だったが、今回はそれから更に大幅に増えたことになる。政府関係者や、大学関係などの研究者に交じって、日本やシンガポール、ミャンマー、インドネシアなど民間企業からの参加者もいた。キャッサバの経済的価値が、広く認識されるようになってきたことが伺われる。
各国からの報告にも、キャッサバの経済的側面が大きくクローズアップされるものが多かった。例えば、東南アジアで最も急成長したベトナムの場合、過去10年間で同国のキャッサバの作付面積、面積あたりの生産性は、倍増し、生産高は4倍以上になったが、現在、バイオ燃料に加工する大型プラントが3基、建設中で、これらが完成すると、現在の生産量の3分の一、輸出量の2分の一をこれらの工場だけで消費してしまうことになる、という驚くべきもの。

                <キャッサバ会議が始まった>

私は、これらの報告を聞きながら、ひとり、感慨に耽っていた。今回の会議の冒頭の挨拶でも触れたのだが、日本財団がそれまで10年間にわたり、CIATとタイと中国、インドネシアで行ってきたキャッサバ事業を、ラオスとカンボジアにまで拡大することを決めたのは、2003年だった。その頃、キャッサバは中国やベトナムではブームになりつつあったのだが、そのことはラオスでは余り知られておらず事業の開始に先立ち、ラオス農業省に副大臣を表敬した際、副大臣はキャッサバの事業には気乗り薄で、どうせなら、キャッシュクロップ(換金作物)をやってもらえないかと言われた。
私は、彼に対し、日本財団の事業は政府の行うODA(公的開発援助)とは異なり、ラオス経済の底上げを狙ってのものではなく、貧困県で飢えに苦しんでいる零細農民の生活環境改善が目標であること、その点では、キャッサバは極めて効果的な作物であると確信していること、などを説明した。
その5年後、ラオスで開かれたキャッサバ会議で再会した事務次官は、開会式の挨拶の中で、「キャッサバは政府の農業の4大基本目標、即ち、食糧自給の推進、商業生産の拡大、焼畑農業からの離脱、森林保護に則した作物であり、ラオスにおいては、キャッサバは作付面積で第5位、収穫量で第4位という重要な作物である」と述べた。その頃には、漸く、ラオスでも、中国やベトナム、タイなどからのバイヤーがキャッサバを求めて出没するようになり、原油価格の高騰やそれに続く穀物価格の急騰により、キャッサバが極めて収益性の高い作物であると認識されるに至っていたのである。
その後、エネルギー価格が急落し一時、キャッサバ熱は沈静化したかに見えたが、今回の会議の盛況振りから見ても、再び、注目が集まっていることは間違いない。
しかし、私は、複雑な心境だった。キャッサバが国際企業や投機家の熱い視線を集めるまでに成長し、その価格がエネルギー価格などと連動して、大きく乱高下するようになってくると、我々の支援をこのまま続けることが果たして正しいことなのだろうか、、、。

                <会議には160人が参加>


*日本財団がキャッサバ事業を始めた経緯について、私は2005年10月20日付けのこのブログで以下のように書いた。
「日本財団とCIATのキャッサバでのお付き合いは12年前に遡ります。当時、CIATはタイで、キャッサバの新種の導入と栽培技術の指導で大きな成果を挙げていました。それをベースに、インドネシア、ベトナム、中国南部(雲南省、海南島省)への拡張を計画し、日本財団に資金助成を要請したのです。
キャッサバはCIATの本部がある南米原産の植物で、後にアフリカやインドに広がり、今ではこの二つの地域では食料作物として主要な地位を占めるに至っています。しかし、米の生産が盛んな東南アジアではこれまで、余り重視されていませんでした。その一つの理由は、主に食用として活用されるキャッサバの根に、青酸性の毒素が含まれており、正しい処理をしないと生命の危険さえあるためではなかったでしょうか。
ところが、キャッサバは乾燥に強く、痩せた土地でも育つ上、その根は極めて良質な澱粉の原料となります。澱粉の原料はポテトやとうもろこしなど種類が多く、世界には極めて多様な製造プロセスがあります。しかし、キャッサバは他の原料と比べて、低コストで生産出来るのです。現在、世界最大のキャッサバの輸出国はタイで、タイで栽培されているキャッサバの品種はほぼ100%、CIATが品種改良に協力したものだそうです。
澱粉は、糊として、繊維産業や製紙業に使われるだけでなく、澱粉を加工すると、アルコール、グルタミンソーダからビタミンCまで多種多様のものに生まれ変わります。最近では、原油価格の高騰に伴い、ガソリンに混ぜてバイオガソリンとして使われるようにもなっています。そのため、キャッサバ澱粉の市況は高騰し、今年の価格は昨年の約2倍になっているそうです。
12年前に日本財団の助成を受けて、CIATがベトナムでのキャッサバ指導に乗り出したとき、ベトナム政府は余り興味を示さなかったそうです。政府の関心は何よりも、米(コメ)に向けられていたのです。しかし、今では、ベトナム政府はキャッサバを三大主要作物として位置づけて、キャッサバの増産に力を入れています。
ベトナムの場合、キャッサバの生産量のうち、澱粉に加工されるのは約半分で残りの半分は豚などの家畜の飼料に向けられています。キャッサバの葉っぱはキャッサバの根以上に毒性が強く、これまで殆ど利用されることが無かったのですが、天日で干したり、サイロで発酵させると、比較的簡単に毒素を取り除けることがわかってきました。実は、キャッサバの葉っぱには、極めて高度な蛋白質が含まれています。家畜用の牧草の蛋白質含有割合は良くて15%程度とされるのに対し、キャッサバの葉っぱの場合は25%。これを上回るのは大豆の40%くらいだそうです。ところが、大豆は栽培に当たって大量の肥料を必要とするなどのため、生産コストが極めて高くなります。キャッサバの根にキャッサバの葉っぱを混ぜると理想的な飼料が低コストで出来上がる、という訳です。
日本財団のキャッサバ栽培支援プロジェクトの主たるターゲットは、僻地の貧困農民です。ベトナムや中国南部などと同様に、ラオスやカンボジアでも、東南アジアの山間僻地では、どこも農民は貧しく、肥料を買うことが出来ません。そこで、肥料分を得るためには、焼畑農法に頼らざるをえません。しかし、キャッサバを活用して飼料を作り、家畜を飼い、その糞を使って堆肥を作ることで、多くの場合、10年もすると、焼畑に頼らなくて済むようになるそうです。
我々は、ベトナムなどでの成功により、10年目でこのプロジェクトを打ち切ることにしました。各国の政府が乗り出してきたからです。そこで、今度は、隣接のこの地域で行うこととし、昨年からラオス、今年の初めからカンボジアで、貧困農民を対象に、新たにキャッサバ栽培指導のプロジェクトを始めたと言うわけです。今は、カンボジアでは、第一段階として、その土に適した品種の選別を調べているところです。その意味で、この大農家の協力は大きな力になることでしょう。」
(2009年02月のブログでは、キャッサバの生産により変貌するベトナムの農村の様子をレポートしている)
                <会場となった西園ホテル 広大な敷地に建物が点在>

7時 CIAT間遠さん
8時 朝食
8時半 省政府副主席表敬
9時 アジア地域キャッサバ会議開会式
10時 第9回アジア地域キャッサバ会議
12時半 昼食
14時 ハウラー博士
15時半 CIAT間遠さん
18時 CIATハーシー博士、トーベ博士
18時半 夕食会
広西壮族自治区の南寧へ [2011年11月27日(Sun)]
11月27日(日)
北京から帰ったばかりだが、再び、中国へ。今回の出張の目的はキャッサバ。アジア地域を中心に各国の専門家を集めてキャッサバに関する課題を話し合う国際会議を3年前のラオスに引き続き日本財団の財政支援により開くことになり、ドナーを代表してのスピーチを求められたもの。
日本財団が20年近くに亘り東南アジアで行って来た唯一の農業事業がキャッサバに関わるもので、改良品種の作付け指導を農民の意思を尊重する独自のアプローチによって行っている。
開始当時、キャッサバは、アジアでは主食である米の不作に備える補完的な作物に過ぎず、換金性もないことから軽視されていた。こうしたなかで、日本財団は、キャッサバが、山間僻地などの貧しい農民の現金収入源になる可能性に着目し、国際熱帯農業センター(CIAT)と組んで、地道な取り組みを続けて来た。
今ではキャッサバは、バイオ燃料の原料としての役割なども加わり、極めて重要な作物として各国政府からも大いに注目を集めるに至っている。

                  <南寧は人口650万人の大都会>

今回の会議の場所は中国南部の南寧。広西壮族自治区の首都である。南寧や広西といっても一般には馴染みの無い地名だが、奇観で有名な桂林は広西にあり、南寧からは400キロ。広西壮族自治区はベトナムと国境を接し、ベトナムとの国境の町として有名な友誼関までは南寧から180キロ。
亜熱帯に属する広西壮族自治区は気候が温暖で、中国のキャッサバ生産の中心地である。省都の南寧では、一年中で一番寒い1月でも、平均の最低気温は10度という。熱帯性の植物であるキャッサバの生産地は中国では、広西壮族自治区の他は、広東省、海南省、など最南端の地域に限られる。中でも広西は、中国全土のキャッサバ生産量の6割を占める最大の生産地だ。
北京から南寧までは、国内線の飛行機で3時間。東京から、北京までの所要時間と左程違わない。南寧の飛行場に着いた。外の気温は25度。生暖かい。

                     <ホテルの玄関に咲く熱帯の花ブーゲンビリア>

ホテルに着くと、木薯研究所の田(ティエン)博士が懐かしそうに迎えてくれた。彼と会うのは、3年前にラオスで行われた前回のキャッサバ会議以来だが、それまでも、何度かキャッサバ関連の行事で顔を合わせている仲だ。
彼が副所長を務める広西壮族自治区(省)政府所属の木薯研究所はもともとは、今回の会議の主催者である亜熱帯作物研究所の下部機関であったが最近、独立の研究機関になった。親組織である亜熱帯作物研究所は設立1952年と古く、スタッフの数も300人と言う大きな組織だが、数年前にそのキャッサバ部門を広西壮族自治区木薯研究所として独立させて、中国唯一のキャッサバの専門研究機関としたのだ。木薯(ムーシュ)とは中国語でキャッサバのこと。

           <広西壮族自治区木薯研究所(キャッサバ研究所作成のパンフレットより)>

木薯研究所がくれたパンフレットには自治区政府の副主席で明日の開会式の主賓である陳章良博士が、試験栽培の現場を視察する様子を写した写真が大きく掲載されていた。自治区政府がキャッサバ生産に注力している様子が伺われる。
            <キャッサバ栽培の現場を視察する自治区副主席(同上)>

             
09時40分 羽田発
12時50分 北京着
15時00分 北京発
18時40分 南寧着
生産者コミュニティー訪問 [2011年11月04日(Fri)]
11月4日(金曜日)
今日はSAAのサイト視察ということで朝7時半にホテルを出発。と言っても、100人を越える大部隊。大勢での出発準備に手間取り、5台のバスが実際にホテルを出た頃には、殆ど8時になっていた。
随分スピードが出るなと思ったら、先頭にはサイレンを鳴らした白バイが2台。おまけに、車列の最後には、カービン銃を抱えた黒ずくめの5、6人の兵士が乗り込んだ小型トラックまで付くというものものしさ。

                  <2台の白バイに先導されて出発>

しかし、問題はここからだった。事前に渡されていた予定表には、目的地のマディナ村までは1時間半、到着予定は9時となっていた。しかし、2時間過ぎた10時になっても、一向にそれらしき様子がない。そのうち、目的地までの距離は、200キロとの情報が伝わって来る。それなら、そもそも、9時到着という計画は何だったのか。
果たして、我々一行が、実際にマディナ村に着いたのは、何と11時15分。予定を2時間以上オーバーしていたことになる。ところが、村の広場に通じる道には沢山の村人が集まってくれていた。きっと、35度近い気温の中、2時間以上も我々を待っていたであろうに、待ちくたびれた様子を露ほども見せず、歌や踊りで大歓迎。

                  <ユニークな形の屋根の民家>

広場の真ん中に設えられたテントに案内されて周りを見渡すと、大きなテントがもう一張り。炎天下には大勢の村人が集まっていた。老若男女あわせて200人ほど、全部では300人以上にもなるのではないだろうか。きっとここでは、これほど大勢の人が集まるのはめったにないことなのであろう。子供たちだけでなく、大人たちも、興味津々。
すると、間もなく、歓迎式が始まった。着飾った婦人たちの歌や仮面をつけた戦士たちの踊りが披露された後、県知事や地域政府のお役人などからの歓迎と感謝のスピーチが続く。SG2000のお陰で農業生産が増大し、生活が楽になったと言うわけだ。今度は、SAA側からの感謝のスピーチが続いて、また歌と踊り。歌詞の意味は判らないガ、盛んに「ササカワ」という言葉が繰り返される。こうして、一時間ほどの式典は終了。

                  <村人たち総出で歓迎式>

しかし、もう時間がない。収穫物の加工品の展示を少し見ただけで、我々は早々にバスに引き上げた。そして、村はずれに何故かある田舎にしてはなかなか立派なホテルで昼食。
昼食を終えた頃には時間はもう午後2時。本来の予定表には、農家訪問やらミルク加工場視察などと書かれていたが、ここまで大幅に時間がずれてしまうと、到底そんな余裕はない。総て、割愛して農村女性訓練センターのあるウルスブグという町へ急行する。ここで、何故か、記念シンポジウムの閉会式。サイト視察の小旅行の筈が、時間の読み違いで、肝心の現場を見る時間が無くなり、お偉いさんが来るので省略できない式典だけが残った、ということのようであった。
さて、我々は、今夜のフライトでマリを出ねばならない。このあとジュネーブに行く予定の、私の飛行機は深夜出発のパリ行きだが、笹川会長一行は9時前のブルキナファッソ行きに乗らねばならない。式典を手短に切り上げてウルスブグを出発したのは4時前であった。

                  <物騒な姿の武装警官が警護してくれた>

ところが、何と1時間ほど走ったところで私の乗ったバスはエンコ。運転席のあたりで大きな音がしたと思ったら、車は急停止。運転手は車のエンジンのカバーを外し、機械をチェックし始めた。バスに乗っていた20人ほどのメンバーも全員降りて、思い思いに足を伸ばす。
他のメンバーの乗ったバスは徐行して運転手に声をかけながらも、我々を追い越して行ってしまう。しかし、さすがに最後に付いていた武装警官の乗ったトラックは、我々を置き去りにすることなく停まり、警官たちが修理を手伝ってくれた。
黒ずくめで目出し帽を被って銃を抱えた彼らの姿は、背中に大きく書かれた「POLICE」という文字が無ければ、銀行強盗グループを髣髴とさせるものであったが、この時ばかりは、とても頼もしく思えた。
ようやく、修理が済んで、武装警官の乗ったトラックに先導してもらい他のメンバーに遅れること1時間ほどで無事、ホテルに到着。急いで、荷物をまとめチェックアウト。夕食を済ませて、同じ便でパリへ向かう理事会メンバーの羽生笹川平和財団会長やアジア経済研究所の平野さんらと空港へ。

                  <武装警官がエンコした車の面倒まで見てくれた>


7時 朝食
8時 ホテル出発
11時 マディナ村到着
12時 マディナ村出発
13時 昼食
15時 ウルスブグ到着
15時半 閉会式 
20時 ホテル出発
23時40分 バマコ発
「ササカワ・グローバル2000」25周年記念シンポジウム [2011年11月03日(Thu)]
11月3日(木曜日)
                  <SAA幹部を招いての朝食会>

早朝の7時。ホテルのレストランで笹川アフリカ協会(SAA)の幹部を招いて、日本財団主催の朝食会。こうやって眺めてみると、ここ数年で、幹部職員に女性が増えたことに気付く。事業担当の常務理事のクリスさんによると、65名ほどの幹部職員中、女性は4割近い25名にもなるという。その他の補助職も加えるとSAAの総人員は約120名。この他、4カ国政府の農業省などでSG2000担当として働くスタッフが、約1000人なのだそうだ。
                <記念シンポジウム会場となったモダンな国際会議場>

朝食会の後、バスでホテルの裏側にある国際会議場へ向かう。昨日の記念式典に続いて、今日は、SG2000事業25周年記念シンポジウムが行われるのだ。アフリカ各国からの参加者に加えて、欧米や日本など合計で100数十名の参加者が集まった。
オープニングスピーチは日本財団の笹川会長。マリ政府を代表して歓迎のスピーチしたのは女性のシディベ首相。トゥーレ大統領は、今朝から、メッカへの巡礼に出発したのだそうだ。
ベニンのソグロ元大統領、ナイジェリアのオバサンジョ元大統領もそれぞれにセッションの議長を務めてくれた。他にも、ガーナの元農業大臣がSG2000への熱い思いを語ってくれた。

                  <SG2000事業25周年記念シンポジウム>

夜は、バマコ市内のレストランでSG2000事業25周年記念ディナー。前方のステージでは、民族楽器の演奏でマリの女性歌手が熱唱する歌と踊りが披露された。しかし、肝心の食事は何時までたっても始まらない。その間、音楽の演奏と歌声が延々と続く。しかも、スピーカーから流れる音は最大音量なので強烈だ。そのため、食事を待つだけで、こちらはへとへとになってしまった。アフリカの大地に根差した人たちのエネルギーにはかないっこない。
                 <シンポジウム会場の前の道で>

7時 日本財団主催 SAA幹部との朝食会
8時 ホテル出発
9時 SG2000事業25周年記念シンポジウム
20時 SG2000事業25周年記念ディナー
「ササカワ・グローバル2000(SG2000)」25周年記念式典 [2011年11月02日(Wed)]
11月2日(水曜日)
今日も昨日に引き続き、朝8時からSAA理事会。昨日一日で終わらなかった問題点の協議。SAA理事会が終わると、今度は、SAAから数年前に枝分かれした各国政府の農業普及員に対する高等農業教育支援組織ある、SAFE(笹川アフリカ教育基金)の理事会。オニヤンゴ会長を含めて、大半の理事はSAAの理事と兼任だが、SAAより理事の数は少なく、少数精鋭方式。そのためか、いつもSAFE理事会では、議事の進行はSAAより、ずっとスムーズ。
                    <ホテルの庭の木(2)>

こうして、お昼休みまでに、SAA理事会もSAFE理事会も無事終了。昼食後、25周年記念式典が行われる国立博物館に、一足早く出掛けることにした。式典が始まる前に、会場となる国立博物館内を見学しようと考えたのだ。マリは、マリ帝国以来の伝統を誇る国なので、国立博物館なら興味深いものが見られるかもしれないと思ったからである。しかし、残念ながら、建物は立派だったものの、展示品には目ぼしいものは少なく、系統だった説明も無く期待はずれ。お陰で時間を持て余してしまった。
                           <物々しいセキュリティー>

国立博物館の敷地内の緑地には、早々と、100人以上は入れると思われる大きなテントが設けられ、その中に既に、折り畳み椅子が並べられていたので、我々はその椅子に腰掛けて、式典が始まるのを待つことにした。5時の式典開始時間が近づくにつれて、会場の周辺には武装警官の姿が目立つようになり、次第に物々しい雰囲気に包まれていった。それは恐らく、式典の参加者に、現職前職含めて3人の「大統領」がいたためだろう。
                 <博物館の庭園のテントの中で待つ>

やがて、我々一般の参加者がテントで待っているところへ、軍服姿の高官らしき人物に先導されて10人ほどのVIPのグループが姿を現した。アフリカの民族衣装姿の笹川会長もその中にいた。そして、3人の「大統領」、即ち、マリのトゥーレ大統領、SAA理事でベニンのソグロ元大統領、もう一人は、ナイジェリアの元大統領のオバサンジョさん。彼も以前はSAA理事だった。
こうして、夕方の5時過ぎ、「ササカワ・グローバル2000(SG2000)」事業の25周年記念式典が始まったのだった。

                         <3人の現、元大統領も参列>


8時 SAA理事会
10時半 SAFE理事会
14時50分 ホテル出発
15時 国立博物館見学
17時 SG2000事業25周年記念式典
18時 SAA主催レセプション
終日SAA理事会 [2011年11月01日(Tue)]
11月1日(火曜日)
時差の勢で夜中の3時頃に目を覚ましそのまま、本を読んで過ごす。聞きなれない鳥の声にカーテンを空けると、窓の直ぐ外の桟に、瑠璃色の羽が美しいエキゾチックな鳥が止まっていた。外はもう明るくなっていた。見慣れない木々の姿も美しい。そうだ、アフリカに来ているのだった。
私にとって、マリは5年ぶり。前回の訪問は2006年、笹川アフリカ協会のSG2000の20周年の記念式典の時だった。

                    <ホテルの窓際にやって来た美しい鳥>

マリという国はどういう国かと言うと、アフリカ西部、アルジェリアの南に位置する内陸国。旧フランス植民地だったのでフランス語が今も公用語だ。
13−15世紀に栄えたマリ帝国の流れをくむ歴史のある国で、国土面積は日本の3倍以上あるが、国土の大半が砂漠。人口は1300万人に過ぎない。
ただ、中心部を流れるニジェール川に沿った地域は農業地帯で、綿花の生産で知られる。食用としては米、粟、もろこしなど。首都バマコもニジェール川沿いの都市である。宗教はイスラム教徒が8割というイスラム国家。
しかし、アフリカの国としては珍しく、1992年以来、民主主義が続いており、選挙による政権交代が実現している。トゥーレ大統領が率いる現政権は農業の振興を優先課題と定めている。2005年以降は、天候にも恵まれ農業生産は比較的順調だという。

                     <ホテルの庭の木(1)>

日本財団は、ノーベル賞を受賞した唯一の農学者であるノーマン・ボーログ博士、米国のカーター元大統領らと組んで笹川アフリカ協会を設立、1986年よりアフリカ各地で、ササカワ・グローバル2000(SG2000)と呼ばれる農業振興支援事業を実施してきた。その活動は、これまで累計で14の国に及んでいるが、現在は、マリやエチオピア、ナイジェリア、ウガンダの4カ国を対象に実施中である。
その基本的な考え方は、品種改良された優れた種を用いて、土壌の性質に合わせた適量の肥料を与え、正しい農法で栽培すれば農業生産を倍加させることが出来る筈だ、というもので、それは技術面での指導者のボーログ博士のアジアの「緑の革命」での成功体験に基づいている。そして、事実、この事業が行われた殆どの国で数年のうちに農業生産高を数倍に増大させることに成功している。にも拘わらず、アフリカに於いて「緑の革命」が実現しなかったのは何故か。その主な原因の一つが「飢える大陸 アフリカ」に書かれているように、先進国が採用している農業保護政策にあることは間違いあるまい。

                    <SAA理事会の開かれたホテル>

SAA理事会は我々の泊まっているホテルの会議室で行われた。SAA理事会の参加者たちの顔ぶれは、いつもと変わりなかったが、ここ数回欠席が続いていた、西アフリカのベニンの元大統領のソグロさんだった。ベニンもマリ同様、仏語圏に属する国である。そのため、ソグロさんの英語はフランス語訛りであるが、そこは政治家、さすがに英語でも雄弁。暖かい人柄だが、欠点は話が長くなることか。
今回の理事会は、一人のメンバーの失言を巡って、一時、珍しく緊迫する場面も見られたが、オニアンゴ会長の落ち着いた議事裁きのお陰で、午後に至り、本人による陳謝と発言撤回で一件落着と相成った

                     <SAA理事会の参加者たち>

お昼の休憩時間に、ホテルの周辺をひとり歩いてみた。立派な道路を隔てて、ホテルの向かいには、何やら真新しい建物が何棟も立ち並んでいる。近代的な建物だが、無味乾燥なものではなく、シンプルさのなかに華麗さも覗く、なかなか粋な建築だ。装飾にアラブ風のテイストが感じられる。
尋ねてみると、これらの建物群は官庁の建物で、つい最近、リビアの援助で完成したばかりと言う。良く見ると、一つ一つの建物に、省庁の名前がマリの公用語であるフランス語で書かれている。官庁のなかには、既に引っ越して来たところもあるようだ。マリ政府にとっては誠に幸いなことに、カダフィ大佐の失脚の直前に総ての工事は完成していたという。自国民が必ずしも裕福でないなかで、よその国に対する気前良い援助が出来たのも、独裁国ならではのことだったようだ。

               <リビアの援助で出来た豪華なビルは官庁街>

7時半 朝食
8時 SAA理事会
13時 記者会見
14時半 SAA理事会
19時 夕食会
カーターセンターで笹川アフリカ協会の理事会 [2011年05月16日(Mon)]
5月16日(月曜日)
        <カーターセンターは高速道路の標識にも>

朝8時、寒い、気温は15度くらいか。ホテルをチェックアウトして、タクシーに分乗、カーターセンターへ。
カーター大統領を記念して造られたカーターセンターは大変大規模な施設である。敷地面積は37エーカ-(14万8000平米)、美しい緑の敷地内には大きな池や、立派な図書館、450人の大会議場、210人が着席して宴会出来るホールなどがあり、会議スペースとして外部にも貸し出すほか、結婚式場としても開放している。職員総数は175人。

                          <37エーカーの敷地を誇るカーターセンター>

ただ、笹川アフリカ協会(SAA)の米国での会議にカーターセンターがよく使われるのは、レンタルスペースとして便利だからではなく、カーターセンターが笹川アフリカ協会設立以来の事業パートナーであるからだ。そのため、理事会にはカーターセンターを代表して理事長のハードマン博士が加わっている。
笹川アフリカ協会の執行理事会のメンバーは他に6人。スイス人の弁護士であるジャン・フレモンさんは、昨晩は飛行機の到着が遅れハードマン博士邸での夕食会には間に合わなかった。残りの5人でお邪魔したのだが、このうち、女性は二人。ケニア人で笹川アフリカ協会会長のルース・オニアンゴ教授、元国会議員の農業専門家だ。そして、もう一人は、タンザニア人女性で現地プログラムの総責任者ジュリアナ・ルウェラミラ博士。そして、私のほかは、二人の常務理事。米国人のクリス・ドズウェルさんと東京事務局長でもある宮本正顕さんだ。
 
           <カーターセンターで開かれた笹川アフリカ協会の執行理事会>
     
皆で簡単な朝食の後、9時から笹川アフリカ協会の執行理事会が始まった。ルースさんの議長のもと、会議は順調に進み、予算や人事、規定改定などの審議が進む。昼食を挟んで、午後の議題は、今年の秋にアフリカのマリで開かれる笹川アフリカ協会25周年記念行事のこと。
午後の会議が終わると私は、ワシントンへ向かうべく、昨日着陸したばかりのアトランタ空港へ。同じ便でやはりワシントンに行くというクリスさんと一緒。
2時間足らずのフライトで着いたのはワシントン郊外のダレス空港。日本からの全日空直行便も到着する空港だ。クリスさんと別れて、私は一人、ジョージタウンのホテルへ。稲妻が光る雨模様だが、寒々しかったアトランタと違って空気が生暖かく、柔らかだ。


8時 ホテル出発
8時半 朝食
9時 SAA執行理事会
12時 昼食
13時 SAA執行理事会
17時55分 アトランタ発
19時52分 ワシントン着
ナイジェリア農業大臣を表敬 [2010年11月05日(Fri)]
11月5日(金曜日)

                   <笹川アフリカ協会理事会第二日>

昨晩早く寝たので、明け方3時過ぎに目が覚めてしまう。幸い部屋でもインターネットが繋がるので、メールをチェック、返事を書いたりしているうちに朝7時。
散歩の後、ホテルのダイニングで朝食。新会長のルースさんらと一緒のテーブルを囲む。明るく人懐っこい人なので、話が楽しい。
8時からは、昨日に引き続き、笹川アフリカ協会理事会。積み残した問題を総て片付けたので、9時からは笹川アフリカ農業普及教育基金(SAFE)の理事会を行う。笹川アフリカ農業普及教育基金は8年ほど前に、笹川アフリカ協会から分離独立した組織。アフリカ9ヶ国の14の大学で各国政府農業省と協力して農業普及員のための大学教育の改善に取り組んでいる


        <笹川アフリカ農業普及教育基金はアフリカ9ヶ国で展開中>

建て替わったばかりのナイジェリア農業省ビルに、農業大臣を理事会メンバー全員で表敬訪問。まだ、若そうな大臣は御供も連れず一人で現れた。熱心にエチオピア政府の農業政策を説明すると共に、自ら熱心にメモを取りながら我々の話にも耳を傾けた。
結局、会見は一時間にも及んだ。それも、当方から、笹川平和財団の羽生会長など一部の人は間もなく空港に向かわねばならないので、と腰を上げなかったらもっと続いていたかもしれない。


                   <農業大臣と熱心な議論を交わす>

一旦ホテルに戻り、笹川アフリカ協会(SAA)東京事務局の宮本常務理事や横山さん、SAAから現地に出向中の徳末さん、日本財団の当事業担当の田中さんら日本人職員だけで慰労会をかねた夕食。夜9時、SAAの書記長役のスイス人弁護士、ジャン・フレモンさんと二人で空港へ向かう。深夜発のフランクフルト行きの便で帰国するためだ。
ところが空港でチェックインしようとして、トラブル。なぜか私のボーディングパスが発券出来ないというのだ。フレモンさんも付き合ってくれて待たされること一時間。ようやく、発券してもらい搭乗ゲートへ。


               <なぜか斜めに貼られたポスター 農業省で>

8時 笹川アフリカ協会理事会
9時 笹川アフリカ農業普及教育基金理事会
12時半 昼食
16時 農業大臣表敬
18時 夕食
21時 ホテル出発 
23時25分 アジスアベバ発
笹川アフリカ協会の理事会に出席 [2010年11月04日(Thu)]
11月4日(木曜日)

                    <アジスアベバ空港に着いた>

早朝6時前、飛行機は朝焼けの空を降下し始める。アビシニア高原の山並みが近づき、早朝の村々が見えてくるともう直ぐアジスアベバだ。
飛行機は定刻にアジスアベバ空港に到着。ここはアフリカといっても高度2400メートル。年間を通じて、最高気温は20度から精々25度、最低気温は大体15度程度。時には10度を下回ることも。そんな時にアフリカの他の都市からアジスアベバに到着すると、予想外の寒さに震え上がることになる。今回は、晩秋の東京から着いたので余り違和感はない。
空港から外に出てみると驚いたことに、今年から笹川アフリカ協会で働き始めた徳末さんがエチオピア人スタッフと一緒に出迎えてくれた。彼女は、日本財団が数年前に国連平和大学とアテネオデマニラ大学と組んで始めた、ALP(フィリピンとコスタリカのデュアルキャンパス修士課程プログラム)の一期生だ。こんなに朝早い時間の出迎えに恐縮してしまう。
でも、お陰で道中、こちらでの仕事の様子などを聞くことが出来た。
アフリカ協会の会議が行われるホテルに、チェックインを済ませ、軽く顔を洗っただけで会議室に急ぐ。定刻の8時ぴったりに笹川アフリカ協会の理事会が始まった。


                 <理事会の議長は副会長の岩永博士(左から2番目)>

議長はいつものように、副会長の岩永博士。彼は、小麦の研究で世界的に有名な国際機関CIMMYTで理事長を務めていた国際的に有名な農学者、今は、独立行政法人「農研機構」作物研究所所長だ。平野さんの顔も見える。彼も著名なアフリカ専門家、今は、ジェトロ・アジア経済研究所の地域研究センター長だ。カーターセンター理事長のハードマンさんを初め、米国、スイス、タンザニア、ケニヤなど 多彩な国籍の9人の理事が顔を揃えた。
笹川アフリカ協会(SAA)は、来年創立25周年を迎えるアフリカでの農業開発を専門に行うNGOだ。ただ、NGOとは言っても、年間予算は6億円。エチオピアの他、ナイジェリア、マリ、ウガンダなど4カ国で、各国政府農業省と協力して、一年間に2万箇所もの試験農場で農民に対し、近代農法の指導を行っている。

       <笹川アフリカ協会幹部職員の女性比率は40%  立っているのがジュリアナさん>

SAAの実力が評価され、先月、ビルゲーツ財団から約5億円の助成を受けて、日本財団の資金と合わせてエチオピアでの農業支援事業を拡充することが決まったばかり。ビルゲーツ財団が日本のNGOに助成金を出すのは初めてのことだ。
サンドイッチの軽い昼食をはさんで、今年度の事業報告などのあと、来年度の事業計画、予算などを討議。また、初代で20年以上会長を務めたノーベル賞学者、故ノーマンボーログ博士のあと空席のままになっていた、会長にケニア出身の女性政治家で栄養学者でもあるルース・オニアンゴ博士を会長に選出。プロジェクトの現場の総責任者もタンザニア出身のジュリアナさんなので、笹川アフリカ協会は一挙に女性が実験を握るNGOに様変わり。
ジュリアナさんによると、幹部職員47人中、19人が女性とか。女性比率は40.4%。
それやこれやで、みっちり10時間近くも討議したが、それでも終わらなかったので、一部は明日に持ち越し。
         <ケニア人女性学者のルース・オニアンゴ博士を2代目SAA会長に選出>

夜、7時。同じホテルで、笹川アフリカ協会主催の夕食会。時差の関係か酒の回りが速い。9時過ぎに夕食会が終わると同時に部屋に戻り、シャワーを浴びるとそのまま寝てしまう。今日は朝から、一歩もホテルの外に出ずじまいだった。

                 <笹川アフリカ協会主催の夕食会>


6時45分 アジスアベバ着
8時 笹川アフリカ協会理事会
12時半 昼食
14時 笹川アフリカ協会理事会
19時 笹川アフリカ協会主催夕食会
フランクフルト経由で帰国 [2009年11月06日(Fri)]
11月6日(金曜日)

       <機能的なフランクフルト空港>

昨夜の真夜中にアジスアベバを発ったエチオピア航空機は、定刻通り早朝5時過ぎにフランクフルトの空港に到着。気温は8度。夜8時45分の成田行きの便まで、飛行場内のホテルにチェックイン。シャワーを浴びてひと眠り。日本時間に出来るだけ合わせて生活のリズムを調整する。
午後7時。ホテルを出て、徒歩で空港へ。久し振りにフランケンワインなどお土産を買って飛行機に乗り込む。長距離だが日数は短い出張は事実上終わった。

 
      <ここにも韓国メーカーの進出が顕著>

5時15分 フランクフルト着
20時45分 フランクフルト発
(翌日)16時00分 成田着

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