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大野修一(日本財団)
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カタールに向けて出発 [2012年11月10日(Sat)]
11月10日(土曜日) 
1110airport.jpg
<Don't say good-byeと書かれたエンテベ空港ターミナル>

昨夜は、早く床に付いたので流石に、今朝は、3時頃に目が覚めてしまった。しかし、今日はもうこれからベトナムに移動するので、時差を考えると無理に眠らず、起きていた方が良い。
ホテルの前のビーチを散歩。朝日がとても美しかったので何枚も写真を撮った。その披露は後で。
今日も、8時からまた会議が始まった。本来は、今日はSAAの姉妹組織であるSAFE理事会の筈なのだが、昨日の会議で持ち越した来年度予算案など、SAAの問題に付いて討議。しかし、私は午後のフライトでカタールのドーハ経由でベトナムのハノイに移動しておかなくてはならない。
11時前に中座し、SAAの車に送ってもらって一人、ホテルを出発、エンテベ空港に向かった。
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<滑走路の向こうにビクトリア湖が見える>

空港の待合室で現地の英字新聞を読んでいて面白い記事を見つけた。若い男女が交際相手を求めるページである。男性から女性への部と、女性から男性への部に分かれており、それぞれに、自分の売り込み文句と相手に求める条件が数行にまとめられている。
面白いのは、男女とも結婚相手を求むというものと、恋愛相手を求むというのが混在していること。必ずしも、結婚を前提とした相手探しでもないらしい。
1110couple1.jpg
<待合室で見つけた現地の英字新聞の相手探し欄>

相手に求める条件には、学歴、収入や社会的ステータス、容姿などが並ぶが、中には、白人の相手を希望するというものもチラホラ。
具体的に国籍を指定しているものもある。面白かったのは、「白人の女性を求む、但し、イギリス、フランス、そして、日本人(!)に限る」というもの。ここでは、日本人は白人扱いなのだった。
1110couple2.jpg
<男性から女性への部と、女性から男性への部に分かれていた>

午後1時過ぎに出発した飛行機は、殆ど真北に向かって進み、5時間ほどで夕闇のなかのカタール、ドーハ空港に到着。今年の2月、ケニアのナイロビからバンコクへの途中、乗り継いだのと同じターミナル。あの時と同じ、夜8時45分のバンコク行きに乗り継ぐ。

08時 SAA/SAFE理事会
11時 ホテル出発
13時15分 エンテベ発
18時15分  ドーハ着
20時45分 ドーハ発
ウガンダでのSAA理事会 [2012年11月09日(Fri)]
11月9日(金曜日)
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<朝日を浴びるホテルの前の芝生 木々の向こうに湖面が見える>

時差があるので眠れないのではと心配したが、それは杞憂だったようで熟睡。朝7時、念のためにセットしておいた目覚まし時計のベルで辛うじて目を覚ます。
朝8時、昨夜もらったファイルに指定されていた会議室に行くと、もう他の理事メンバーは揃っていた。
笹川アフリカ協会の理事会は多国籍だ。ケニア人の元国会議員のルース・オニアンゴ教授、タンザニア人で現地プログラムの総責任者ジュリアナ・ルウェラミラ博士。以上の二人が女性メンバー。そして、カーターセンター理事長のハードマン博士、スイス人の弁護士ジャン・フレモンさん。今回は、日本人は、東京事務局長でもある宮本さん、ジェトロ・アジア経済研究所の地域研究センター長の平野さんと私の3人だけ。
理事会が始まった。冒頭に、前回の理事会の直後に亡くなったクリスさんの冥福を祈って黙祷。豊富な経験と該博な知識に基づく鋭い問題指摘を時に饒舌なまでに喋り続け周りを辟易させることもあったが、陽気な人柄で自分自身のことも笑いとばしてしまう温かなユーモアを振りまき、皆に愛されていたクリスさんだった。
1109SAA.jpg
<朝8時から、夕方6時まで終日続いたSAA理事会>

前回の理事会の議事録の確認や、今回の予定議題の承認などいつもの手順で始まった理事会は、途中で、一時中断。農業大臣の顧問ら3人のナイジェリア農業省高官が部屋に入って来た。
ナイジェリア連邦政府が最近打出した新農業政策について、力のこもったプレゼンテーション。これまで、産油国として外貨収入が豊富にあったことから、農業振興には殆ど無関心だったナイジエリアが、今後は農業振興に注力したい。ついては、笹川アフリカ協会(SAA)の力を借りたいという。
既に、始まっている4つの州政府との間の共同事業に加えて、連邦政府としても、SAA(笹川アフリカ協会)との間で正式に共同事業に向けたMOUを調印したいというのだ。費用は全額、ナイジェリア側が負担するのでSAAには資金負担の必要はない、政府と共同で農民を指導してほしい、とのこと。
エチオピア、ナイジェリア、マリ、ウガンダと笹川アフリカ協会の事業が行われている4カ国の事業報告の後、組織上や人事上の問題点に付いて討議。夜6時半、漸く今日の会議は終了。
7時からはホテルの食堂でウガンダ政府関係者らを招いて夕食会。私は、疲れたので早めに失礼し、部屋に戻った。
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<理事会が開かれたホテル>

08時 SAA理事会
19時 夕食会
丸一日会議漬けの土曜日 [2012年06月30日(Sat)]
6月30日(土曜日)
ナイロビのホテルにチェックインした後、眠ろうとするがいつまで経っても眠れない。成田・パリでも、パリ・ナイロビ間でも、飛行機の中ではずっと寝ていたので、現地時間では夜になっていても眠くならないのだ。日本時間との時差は6時間。
結局、3時頃になってやっと少しばかり眠ったと思って時計を見ると、まだ4時だった。日本時間の午前10時だ。結局、その後は、睡眠出来ないまま朝を迎えた。
外が明るくなったので、窓を開けると目の前にゴルフ場が広がっていた。緑の芝生が眩しい。数人の宿泊客とおぼしき人影が、こんな時間からゴルフをやっていたのにはびっくり。確かに、このホテルの名前は、ウインザー・ホテル・ゴルフリゾート。今日は土曜日なのであった。
0630Golf.jpg
<早朝からゴルフをやっていた>

8時に指定された会議場に着くと、ケニア人のチェアウーマンであるルースさんやプロジェクトの現場の総責任者でタンザニア出身のジュリアナさん、チャド人で日本人を奥さんに持つデオラさんや、笹川アフリカ協会の宮本常務理事らが集まっていた。間もなく、スイス人のジャンさんやアメリカ人のジョンさんが姿を現し、理事会がスタート。
冒頭に、昨年の理事会の直後に亡くなったクリスさんを悼み黙祷。そうだ、前回の理事会には賑やかなクリスさんがいたのだ、としんみり。
その後は、いつものように現状報告、予算の確認、人事の承認など次々と、議題が挙げられ審議が進む。クリスさんがいた時には彼の該博な知識と、それを踏まえた、時に、饒舌すぎる彼の発言には舌を巻いたり、時には、うんざりさせられたりしたものだ。彼のいない笹川アフリカ協会などあり得ないと誰もが思っていた筈だが、今は、彼がいないことが当然のように審議が進む。それを見ていると寂しくなった。彼がいなくなった今は、多少は議事進行が早くなるかもと期待したが、ジャンさんが空白を埋めるかのように饒舌になっていたので、かかった時間はあまり変わらなかった。終了は5時半。
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<9時間半に及んだSAA理事会>

理事会の後、デオラさんや宮本さん、ジャンさんとプールサイドのカフェで一休み。しかし、私には夕食を取るまでの時間はなく、ホテルをチェックアウト。7時には、SAA東京事務局の仲本さんが手配してくれたタクシーにジャンさん、ジョンさんと三人で乗り込み空港へ。仲本さんは、宮本さん、ルースさん、ジュリアナさんらと夜遅い便でナイジェリアに向かうのだという。
一方、7時出発組は、ジャンさんはチューリヒ、ジョンさんはロッテルダム、私はパリと飛行機も航空会社もばらばらなので、飛行場に着いたところで、お別れ。
私は10時45分出発の夜行便でパリに向かった。
0630garden.jpg
<美しい庭園 治安問題を抱える国とは思えない静けさ>

8時-17時半 笹川アフリカ協会執行理事会
19時 ホテル出発
22時45分 ナイロビ発
1泊4日のアフリカ行き [2012年06月29日(Fri)]
6月29日(金曜日)
0629ParisDawn.jpg
<夜明けのパリに着いた>
前回の出張から中4日空けただけで、再び出張。6月3回目の出張だ。今度は、深夜の羽田空港から、パリ経由ケニヤのナイロビへ。笹川アフリカ協会の執行理事会に出席するため。そう、私もここの理事を兼ねているのだ。
自宅から近いので自宅からタクシーで羽田空港へ向かう。金曜日の出発ではあるが、実質的には木曜日の夜、仕事を終えて財団から戻り、夕食をとって間もなく、空港へ。前回の出張時にもらった風邪が治りきっておらず、鼻をぐずぐず言わせながら飛行機に乗る。
到着時のパリは19度、雨が降ったりやんだりの曇り空。風邪は洟から咳に移ったようだ。
久しぶりのパリだが、空港の中だけ。5時間ほどの乗り継ぎ時間は、メールをチェックしたり本を読んだりして過ごす。
0629ParisCloudy.jpg
<雨が降ったりやんだりの曇り空>

ケニヤ航空機でナイロビへ。
ケニヤはこのところ政治的に不安定な状況が続いており、ナイロビ市内でも頻繁に誘拐事件や爆弾騒ぎが起きるなど、アフリカの中でも特に危険な場所と言われるようになっている。
ソマリアのイスラム過激派組織「アル・シャバーブ」による報復テロ攻撃宣言を受けて、ケニアの治安当局が、首都ナイロビ市等の主要都市を中心に、警備体制を強化している中、ナイロビ市のダウンタウン地区内において、深夜バー及びバス乗り場において、手榴弾が投げ込まれ、多数の死傷者を出す爆弾事件が発生。
出発の一週間前にはアメリカ政府がケニヤに滞在中の旅行者などに対し、テロや誘拐などの危険について緊急警告を発した。そのため、直前になって、ナイロビ市内のホテルに予定されていた会議場所が、郊外のゴルフリゾートに変更。
0629fasade.jpg
<ゴルフリゾートの正面入り口 これは翌朝の写真>

00時40分 羽田発
06時20分 パリ着
11時00分 パリ発
20時30分 ナイロビ着
第9回アジア地域キャッサバ会議 [2011年11月28日(Mon)]
11月28日(月)
朝7時過ぎ、朝食の前に、飛行機の延着で昨晩打合せが出来なかったCIAT出向中の日本財団職員、間遠さんと、日本財団の担当者の田中さんの3人で打合せ。
朝食の後は、ホテルと同じ敷地内の別棟にある会議室で、広西壮族自治区政府の陳章良副主席ら自治区政府幹部と懇談。
陳副主席は中国の政府要人としては珍しく、英語を流暢に話す。それもその筈で、米国のワシントン大学で学び、農業博士号を取得している。専門は遺伝子組み換え。キャッサバの遺伝子操作もやったことがあるという。副主席になる前は北京の農業大学の学長だったという農業のプロだった。
彼は懇談会の後の開会式でも、広西壮族自治区におけるキャッサバの重要性を力説、今回の会議に対する自治区政府としての期待を熱く語った。開会式の会場には、英語の通訳が待機していたのだが、彼は冒頭から通訳による翻訳を制止し、自ら中国語と英語の二ヶ国語で熱弁をふるった。
それによると、広西省内の現在のキャッサバ生産能力は需要の半分に過ぎないが、キャッサバに対する需要は今後更に増大が見込まれているという。特に、バイオエタノールについては、現在の生産量は20万トンに過ぎないが、100万トンに増産する計画である。中国政府の人材の層の厚さを感じさせられた瞬間だった。

             <開会式で挨拶する自治区政府の陳副主席>


開会式に引き続き、第9回アジア地域キャッサバ会議が始まった。参加者は全部で160人ほど。前回のラオスでの会議はそれまでで最高の120人だったが、今回はそれから更に大幅に増えたことになる。政府関係者や、大学関係などの研究者に交じって、日本やシンガポール、ミャンマー、インドネシアなど民間企業からの参加者もいた。キャッサバの経済的価値が、広く認識されるようになってきたことが伺われる。
各国からの報告にも、キャッサバの経済的側面が大きくクローズアップされるものが多かった。例えば、東南アジアで最も急成長したベトナムの場合、過去10年間で同国のキャッサバの作付面積、面積あたりの生産性は、倍増し、生産高は4倍以上になったが、現在、バイオ燃料に加工する大型プラントが3基、建設中で、これらが完成すると、現在の生産量の3分の一、輸出量の2分の一をこれらの工場だけで消費してしまうことになる、という驚くべきもの。

                <キャッサバ会議が始まった>

私は、これらの報告を聞きながら、ひとり、感慨に耽っていた。今回の会議の冒頭の挨拶でも触れたのだが、日本財団がそれまで10年間にわたり、CIATとタイと中国、インドネシアで行ってきたキャッサバ事業を、ラオスとカンボジアにまで拡大することを決めたのは、2003年だった。その頃、キャッサバは中国やベトナムではブームになりつつあったのだが、そのことはラオスでは余り知られておらず事業の開始に先立ち、ラオス農業省に副大臣を表敬した際、副大臣はキャッサバの事業には気乗り薄で、どうせなら、キャッシュクロップ(換金作物)をやってもらえないかと言われた。
私は、彼に対し、日本財団の事業は政府の行うODA(公的開発援助)とは異なり、ラオス経済の底上げを狙ってのものではなく、貧困県で飢えに苦しんでいる零細農民の生活環境改善が目標であること、その点では、キャッサバは極めて効果的な作物であると確信していること、などを説明した。
その5年後、ラオスで開かれたキャッサバ会議で再会した事務次官は、開会式の挨拶の中で、「キャッサバは政府の農業の4大基本目標、即ち、食糧自給の推進、商業生産の拡大、焼畑農業からの離脱、森林保護に則した作物であり、ラオスにおいては、キャッサバは作付面積で第5位、収穫量で第4位という重要な作物である」と述べた。その頃には、漸く、ラオスでも、中国やベトナム、タイなどからのバイヤーがキャッサバを求めて出没するようになり、原油価格の高騰やそれに続く穀物価格の急騰により、キャッサバが極めて収益性の高い作物であると認識されるに至っていたのである。
その後、エネルギー価格が急落し一時、キャッサバ熱は沈静化したかに見えたが、今回の会議の盛況振りから見ても、再び、注目が集まっていることは間違いない。
しかし、私は、複雑な心境だった。キャッサバが国際企業や投機家の熱い視線を集めるまでに成長し、その価格がエネルギー価格などと連動して、大きく乱高下するようになってくると、我々の支援をこのまま続けることが果たして正しいことなのだろうか、、、。

                <会議には160人が参加>


*日本財団がキャッサバ事業を始めた経緯について、私は2005年10月20日付けのこのブログで以下のように書いた。
「日本財団とCIATのキャッサバでのお付き合いは12年前に遡ります。当時、CIATはタイで、キャッサバの新種の導入と栽培技術の指導で大きな成果を挙げていました。それをベースに、インドネシア、ベトナム、中国南部(雲南省、海南島省)への拡張を計画し、日本財団に資金助成を要請したのです。
キャッサバはCIATの本部がある南米原産の植物で、後にアフリカやインドに広がり、今ではこの二つの地域では食料作物として主要な地位を占めるに至っています。しかし、米の生産が盛んな東南アジアではこれまで、余り重視されていませんでした。その一つの理由は、主に食用として活用されるキャッサバの根に、青酸性の毒素が含まれており、正しい処理をしないと生命の危険さえあるためではなかったでしょうか。
ところが、キャッサバは乾燥に強く、痩せた土地でも育つ上、その根は極めて良質な澱粉の原料となります。澱粉の原料はポテトやとうもろこしなど種類が多く、世界には極めて多様な製造プロセスがあります。しかし、キャッサバは他の原料と比べて、低コストで生産出来るのです。現在、世界最大のキャッサバの輸出国はタイで、タイで栽培されているキャッサバの品種はほぼ100%、CIATが品種改良に協力したものだそうです。
澱粉は、糊として、繊維産業や製紙業に使われるだけでなく、澱粉を加工すると、アルコール、グルタミンソーダからビタミンCまで多種多様のものに生まれ変わります。最近では、原油価格の高騰に伴い、ガソリンに混ぜてバイオガソリンとして使われるようにもなっています。そのため、キャッサバ澱粉の市況は高騰し、今年の価格は昨年の約2倍になっているそうです。
12年前に日本財団の助成を受けて、CIATがベトナムでのキャッサバ指導に乗り出したとき、ベトナム政府は余り興味を示さなかったそうです。政府の関心は何よりも、米(コメ)に向けられていたのです。しかし、今では、ベトナム政府はキャッサバを三大主要作物として位置づけて、キャッサバの増産に力を入れています。
ベトナムの場合、キャッサバの生産量のうち、澱粉に加工されるのは約半分で残りの半分は豚などの家畜の飼料に向けられています。キャッサバの葉っぱはキャッサバの根以上に毒性が強く、これまで殆ど利用されることが無かったのですが、天日で干したり、サイロで発酵させると、比較的簡単に毒素を取り除けることがわかってきました。実は、キャッサバの葉っぱには、極めて高度な蛋白質が含まれています。家畜用の牧草の蛋白質含有割合は良くて15%程度とされるのに対し、キャッサバの葉っぱの場合は25%。これを上回るのは大豆の40%くらいだそうです。ところが、大豆は栽培に当たって大量の肥料を必要とするなどのため、生産コストが極めて高くなります。キャッサバの根にキャッサバの葉っぱを混ぜると理想的な飼料が低コストで出来上がる、という訳です。
日本財団のキャッサバ栽培支援プロジェクトの主たるターゲットは、僻地の貧困農民です。ベトナムや中国南部などと同様に、ラオスやカンボジアでも、東南アジアの山間僻地では、どこも農民は貧しく、肥料を買うことが出来ません。そこで、肥料分を得るためには、焼畑農法に頼らざるをえません。しかし、キャッサバを活用して飼料を作り、家畜を飼い、その糞を使って堆肥を作ることで、多くの場合、10年もすると、焼畑に頼らなくて済むようになるそうです。
我々は、ベトナムなどでの成功により、10年目でこのプロジェクトを打ち切ることにしました。各国の政府が乗り出してきたからです。そこで、今度は、隣接のこの地域で行うこととし、昨年からラオス、今年の初めからカンボジアで、貧困農民を対象に、新たにキャッサバ栽培指導のプロジェクトを始めたと言うわけです。今は、カンボジアでは、第一段階として、その土に適した品種の選別を調べているところです。その意味で、この大農家の協力は大きな力になることでしょう。」
(2009年02月のブログでは、キャッサバの生産により変貌するベトナムの農村の様子をレポートしている)
                <会場となった西園ホテル 広大な敷地に建物が点在>

7時 CIAT間遠さん
8時 朝食
8時半 省政府副主席表敬
9時 アジア地域キャッサバ会議開会式
10時 第9回アジア地域キャッサバ会議
12時半 昼食
14時 ハウラー博士
15時半 CIAT間遠さん
18時 CIATハーシー博士、トーベ博士
18時半 夕食会
広西壮族自治区の南寧へ [2011年11月27日(Sun)]
11月27日(日)
北京から帰ったばかりだが、再び、中国へ。今回の出張の目的はキャッサバ。アジア地域を中心に各国の専門家を集めてキャッサバに関する課題を話し合う国際会議を3年前のラオスに引き続き日本財団の財政支援により開くことになり、ドナーを代表してのスピーチを求められたもの。
日本財団が20年近くに亘り東南アジアで行って来た唯一の農業事業がキャッサバに関わるもので、改良品種の作付け指導を農民の意思を尊重する独自のアプローチによって行っている。
開始当時、キャッサバは、アジアでは主食である米の不作に備える補完的な作物に過ぎず、換金性もないことから軽視されていた。こうしたなかで、日本財団は、キャッサバが、山間僻地などの貧しい農民の現金収入源になる可能性に着目し、国際熱帯農業センター(CIAT)と組んで、地道な取り組みを続けて来た。
今ではキャッサバは、バイオ燃料の原料としての役割なども加わり、極めて重要な作物として各国政府からも大いに注目を集めるに至っている。

                  <南寧は人口650万人の大都会>

今回の会議の場所は中国南部の南寧。広西壮族自治区の首都である。南寧や広西といっても一般には馴染みの無い地名だが、奇観で有名な桂林は広西にあり、南寧からは400キロ。広西壮族自治区はベトナムと国境を接し、ベトナムとの国境の町として有名な友誼関までは南寧から180キロ。
亜熱帯に属する広西壮族自治区は気候が温暖で、中国のキャッサバ生産の中心地である。省都の南寧では、一年中で一番寒い1月でも、平均の最低気温は10度という。熱帯性の植物であるキャッサバの生産地は中国では、広西壮族自治区の他は、広東省、海南省、など最南端の地域に限られる。中でも広西は、中国全土のキャッサバ生産量の6割を占める最大の生産地だ。
北京から南寧までは、国内線の飛行機で3時間。東京から、北京までの所要時間と左程違わない。南寧の飛行場に着いた。外の気温は25度。生暖かい。

                     <ホテルの玄関に咲く熱帯の花ブーゲンビリア>

ホテルに着くと、木薯研究所の田(ティエン)博士が懐かしそうに迎えてくれた。彼と会うのは、3年前にラオスで行われた前回のキャッサバ会議以来だが、それまでも、何度かキャッサバ関連の行事で顔を合わせている仲だ。
彼が副所長を務める広西壮族自治区(省)政府所属の木薯研究所はもともとは、今回の会議の主催者である亜熱帯作物研究所の下部機関であったが最近、独立の研究機関になった。親組織である亜熱帯作物研究所は設立1952年と古く、スタッフの数も300人と言う大きな組織だが、数年前にそのキャッサバ部門を広西壮族自治区木薯研究所として独立させて、中国唯一のキャッサバの専門研究機関としたのだ。木薯(ムーシュ)とは中国語でキャッサバのこと。

           <広西壮族自治区木薯研究所(キャッサバ研究所作成のパンフレットより)>

木薯研究所がくれたパンフレットには自治区政府の副主席で明日の開会式の主賓である陳章良博士が、試験栽培の現場を視察する様子を写した写真が大きく掲載されていた。自治区政府がキャッサバ生産に注力している様子が伺われる。
            <キャッサバ栽培の現場を視察する自治区副主席(同上)>

             
09時40分 羽田発
12時50分 北京着
15時00分 北京発
18時40分 南寧着
生産者コミュニティー訪問 [2011年11月04日(Fri)]
11月4日(金曜日)
今日はSAAのサイト視察ということで朝7時半にホテルを出発。と言っても、100人を越える大部隊。大勢での出発準備に手間取り、5台のバスが実際にホテルを出た頃には、殆ど8時になっていた。
随分スピードが出るなと思ったら、先頭にはサイレンを鳴らした白バイが2台。おまけに、車列の最後には、カービン銃を抱えた黒ずくめの5、6人の兵士が乗り込んだ小型トラックまで付くというものものしさ。

                  <2台の白バイに先導されて出発>

しかし、問題はここからだった。事前に渡されていた予定表には、目的地のマディナ村までは1時間半、到着予定は9時となっていた。しかし、2時間過ぎた10時になっても、一向にそれらしき様子がない。そのうち、目的地までの距離は、200キロとの情報が伝わって来る。それなら、そもそも、9時到着という計画は何だったのか。
果たして、我々一行が、実際にマディナ村に着いたのは、何と11時15分。予定を2時間以上オーバーしていたことになる。ところが、村の広場に通じる道には沢山の村人が集まってくれていた。きっと、35度近い気温の中、2時間以上も我々を待っていたであろうに、待ちくたびれた様子を露ほども見せず、歌や踊りで大歓迎。

                  <ユニークな形の屋根の民家>

広場の真ん中に設えられたテントに案内されて周りを見渡すと、大きなテントがもう一張り。炎天下には大勢の村人が集まっていた。老若男女あわせて200人ほど、全部では300人以上にもなるのではないだろうか。きっとここでは、これほど大勢の人が集まるのはめったにないことなのであろう。子供たちだけでなく、大人たちも、興味津々。
すると、間もなく、歓迎式が始まった。着飾った婦人たちの歌や仮面をつけた戦士たちの踊りが披露された後、県知事や地域政府のお役人などからの歓迎と感謝のスピーチが続く。SG2000のお陰で農業生産が増大し、生活が楽になったと言うわけだ。今度は、SAA側からの感謝のスピーチが続いて、また歌と踊り。歌詞の意味は判らないガ、盛んに「ササカワ」という言葉が繰り返される。こうして、一時間ほどの式典は終了。

                  <村人たち総出で歓迎式>

しかし、もう時間がない。収穫物の加工品の展示を少し見ただけで、我々は早々にバスに引き上げた。そして、村はずれに何故かある田舎にしてはなかなか立派なホテルで昼食。
昼食を終えた頃には時間はもう午後2時。本来の予定表には、農家訪問やらミルク加工場視察などと書かれていたが、ここまで大幅に時間がずれてしまうと、到底そんな余裕はない。総て、割愛して農村女性訓練センターのあるウルスブグという町へ急行する。ここで、何故か、記念シンポジウムの閉会式。サイト視察の小旅行の筈が、時間の読み違いで、肝心の現場を見る時間が無くなり、お偉いさんが来るので省略できない式典だけが残った、ということのようであった。
さて、我々は、今夜のフライトでマリを出ねばならない。このあとジュネーブに行く予定の、私の飛行機は深夜出発のパリ行きだが、笹川会長一行は9時前のブルキナファッソ行きに乗らねばならない。式典を手短に切り上げてウルスブグを出発したのは4時前であった。

                  <物騒な姿の武装警官が警護してくれた>

ところが、何と1時間ほど走ったところで私の乗ったバスはエンコ。運転席のあたりで大きな音がしたと思ったら、車は急停止。運転手は車のエンジンのカバーを外し、機械をチェックし始めた。バスに乗っていた20人ほどのメンバーも全員降りて、思い思いに足を伸ばす。
他のメンバーの乗ったバスは徐行して運転手に声をかけながらも、我々を追い越して行ってしまう。しかし、さすがに最後に付いていた武装警官の乗ったトラックは、我々を置き去りにすることなく停まり、警官たちが修理を手伝ってくれた。
黒ずくめで目出し帽を被って銃を抱えた彼らの姿は、背中に大きく書かれた「POLICE」という文字が無ければ、銀行強盗グループを髣髴とさせるものであったが、この時ばかりは、とても頼もしく思えた。
ようやく、修理が済んで、武装警官の乗ったトラックに先導してもらい他のメンバーに遅れること1時間ほどで無事、ホテルに到着。急いで、荷物をまとめチェックアウト。夕食を済ませて、同じ便でパリへ向かう理事会メンバーの羽生笹川平和財団会長やアジア経済研究所の平野さんらと空港へ。

                  <武装警官がエンコした車の面倒まで見てくれた>


7時 朝食
8時 ホテル出発
11時 マディナ村到着
12時 マディナ村出発
13時 昼食
15時 ウルスブグ到着
15時半 閉会式 
20時 ホテル出発
23時40分 バマコ発
「ササカワ・グローバル2000」25周年記念シンポジウム [2011年11月03日(Thu)]
11月3日(木曜日)
                  <SAA幹部を招いての朝食会>

早朝の7時。ホテルのレストランで笹川アフリカ協会(SAA)の幹部を招いて、日本財団主催の朝食会。こうやって眺めてみると、ここ数年で、幹部職員に女性が増えたことに気付く。事業担当の常務理事のクリスさんによると、65名ほどの幹部職員中、女性は4割近い25名にもなるという。その他の補助職も加えるとSAAの総人員は約120名。この他、4カ国政府の農業省などでSG2000担当として働くスタッフが、約1000人なのだそうだ。
                <記念シンポジウム会場となったモダンな国際会議場>

朝食会の後、バスでホテルの裏側にある国際会議場へ向かう。昨日の記念式典に続いて、今日は、SG2000事業25周年記念シンポジウムが行われるのだ。アフリカ各国からの参加者に加えて、欧米や日本など合計で100数十名の参加者が集まった。
オープニングスピーチは日本財団の笹川会長。マリ政府を代表して歓迎のスピーチしたのは女性のシディベ首相。トゥーレ大統領は、今朝から、メッカへの巡礼に出発したのだそうだ。
ベニンのソグロ元大統領、ナイジェリアのオバサンジョ元大統領もそれぞれにセッションの議長を務めてくれた。他にも、ガーナの元農業大臣がSG2000への熱い思いを語ってくれた。

                  <SG2000事業25周年記念シンポジウム>

夜は、バマコ市内のレストランでSG2000事業25周年記念ディナー。前方のステージでは、民族楽器の演奏でマリの女性歌手が熱唱する歌と踊りが披露された。しかし、肝心の食事は何時までたっても始まらない。その間、音楽の演奏と歌声が延々と続く。しかも、スピーカーから流れる音は最大音量なので強烈だ。そのため、食事を待つだけで、こちらはへとへとになってしまった。アフリカの大地に根差した人たちのエネルギーにはかないっこない。
                 <シンポジウム会場の前の道で>

7時 日本財団主催 SAA幹部との朝食会
8時 ホテル出発
9時 SG2000事業25周年記念シンポジウム
20時 SG2000事業25周年記念ディナー
「ササカワ・グローバル2000(SG2000)」25周年記念式典 [2011年11月02日(Wed)]
11月2日(水曜日)
今日も昨日に引き続き、朝8時からSAA理事会。昨日一日で終わらなかった問題点の協議。SAA理事会が終わると、今度は、SAAから数年前に枝分かれした各国政府の農業普及員に対する高等農業教育支援組織ある、SAFE(笹川アフリカ教育基金)の理事会。オニヤンゴ会長を含めて、大半の理事はSAAの理事と兼任だが、SAAより理事の数は少なく、少数精鋭方式。そのためか、いつもSAFE理事会では、議事の進行はSAAより、ずっとスムーズ。
                    <ホテルの庭の木(2)>

こうして、お昼休みまでに、SAA理事会もSAFE理事会も無事終了。昼食後、25周年記念式典が行われる国立博物館に、一足早く出掛けることにした。式典が始まる前に、会場となる国立博物館内を見学しようと考えたのだ。マリは、マリ帝国以来の伝統を誇る国なので、国立博物館なら興味深いものが見られるかもしれないと思ったからである。しかし、残念ながら、建物は立派だったものの、展示品には目ぼしいものは少なく、系統だった説明も無く期待はずれ。お陰で時間を持て余してしまった。
                           <物々しいセキュリティー>

国立博物館の敷地内の緑地には、早々と、100人以上は入れると思われる大きなテントが設けられ、その中に既に、折り畳み椅子が並べられていたので、我々はその椅子に腰掛けて、式典が始まるのを待つことにした。5時の式典開始時間が近づくにつれて、会場の周辺には武装警官の姿が目立つようになり、次第に物々しい雰囲気に包まれていった。それは恐らく、式典の参加者に、現職前職含めて3人の「大統領」がいたためだろう。
                 <博物館の庭園のテントの中で待つ>

やがて、我々一般の参加者がテントで待っているところへ、軍服姿の高官らしき人物に先導されて10人ほどのVIPのグループが姿を現した。アフリカの民族衣装姿の笹川会長もその中にいた。そして、3人の「大統領」、即ち、マリのトゥーレ大統領、SAA理事でベニンのソグロ元大統領、もう一人は、ナイジェリアの元大統領のオバサンジョさん。彼も以前はSAA理事だった。
こうして、夕方の5時過ぎ、「ササカワ・グローバル2000(SG2000)」事業の25周年記念式典が始まったのだった。

                         <3人の現、元大統領も参列>


8時 SAA理事会
10時半 SAFE理事会
14時50分 ホテル出発
15時 国立博物館見学
17時 SG2000事業25周年記念式典
18時 SAA主催レセプション
終日SAA理事会 [2011年11月01日(Tue)]
11月1日(火曜日)
時差の勢で夜中の3時頃に目を覚ましそのまま、本を読んで過ごす。聞きなれない鳥の声にカーテンを空けると、窓の直ぐ外の桟に、瑠璃色の羽が美しいエキゾチックな鳥が止まっていた。外はもう明るくなっていた。見慣れない木々の姿も美しい。そうだ、アフリカに来ているのだった。
私にとって、マリは5年ぶり。前回の訪問は2006年、笹川アフリカ協会のSG2000の20周年の記念式典の時だった。

                    <ホテルの窓際にやって来た美しい鳥>

マリという国はどういう国かと言うと、アフリカ西部、アルジェリアの南に位置する内陸国。旧フランス植民地だったのでフランス語が今も公用語だ。
13−15世紀に栄えたマリ帝国の流れをくむ歴史のある国で、国土面積は日本の3倍以上あるが、国土の大半が砂漠。人口は1300万人に過ぎない。
ただ、中心部を流れるニジェール川に沿った地域は農業地帯で、綿花の生産で知られる。食用としては米、粟、もろこしなど。首都バマコもニジェール川沿いの都市である。宗教はイスラム教徒が8割というイスラム国家。
しかし、アフリカの国としては珍しく、1992年以来、民主主義が続いており、選挙による政権交代が実現している。トゥーレ大統領が率いる現政権は農業の振興を優先課題と定めている。2005年以降は、天候にも恵まれ農業生産は比較的順調だという。

                     <ホテルの庭の木(1)>

日本財団は、ノーベル賞を受賞した唯一の農学者であるノーマン・ボーログ博士、米国のカーター元大統領らと組んで笹川アフリカ協会を設立、1986年よりアフリカ各地で、ササカワ・グローバル2000(SG2000)と呼ばれる農業振興支援事業を実施してきた。その活動は、これまで累計で14の国に及んでいるが、現在は、マリやエチオピア、ナイジェリア、ウガンダの4カ国を対象に実施中である。
その基本的な考え方は、品種改良された優れた種を用いて、土壌の性質に合わせた適量の肥料を与え、正しい農法で栽培すれば農業生産を倍加させることが出来る筈だ、というもので、それは技術面での指導者のボーログ博士のアジアの「緑の革命」での成功体験に基づいている。そして、事実、この事業が行われた殆どの国で数年のうちに農業生産高を数倍に増大させることに成功している。にも拘わらず、アフリカに於いて「緑の革命」が実現しなかったのは何故か。その主な原因の一つが「飢える大陸 アフリカ」に書かれているように、先進国が採用している農業保護政策にあることは間違いあるまい。

                    <SAA理事会の開かれたホテル>

SAA理事会は我々の泊まっているホテルの会議室で行われた。SAA理事会の参加者たちの顔ぶれは、いつもと変わりなかったが、ここ数回欠席が続いていた、西アフリカのベニンの元大統領のソグロさんだった。ベニンもマリ同様、仏語圏に属する国である。そのため、ソグロさんの英語はフランス語訛りであるが、そこは政治家、さすがに英語でも雄弁。暖かい人柄だが、欠点は話が長くなることか。
今回の理事会は、一人のメンバーの失言を巡って、一時、珍しく緊迫する場面も見られたが、オニアンゴ会長の落ち着いた議事裁きのお陰で、午後に至り、本人による陳謝と発言撤回で一件落着と相成った

                     <SAA理事会の参加者たち>

お昼の休憩時間に、ホテルの周辺をひとり歩いてみた。立派な道路を隔てて、ホテルの向かいには、何やら真新しい建物が何棟も立ち並んでいる。近代的な建物だが、無味乾燥なものではなく、シンプルさのなかに華麗さも覗く、なかなか粋な建築だ。装飾にアラブ風のテイストが感じられる。
尋ねてみると、これらの建物群は官庁の建物で、つい最近、リビアの援助で完成したばかりと言う。良く見ると、一つ一つの建物に、省庁の名前がマリの公用語であるフランス語で書かれている。官庁のなかには、既に引っ越して来たところもあるようだ。マリ政府にとっては誠に幸いなことに、カダフィ大佐の失脚の直前に総ての工事は完成していたという。自国民が必ずしも裕福でないなかで、よその国に対する気前良い援助が出来たのも、独裁国ならではのことだったようだ。

               <リビアの援助で出来た豪華なビルは官庁街>

7時半 朝食
8時 SAA理事会
13時 記者会見
14時半 SAA理事会
19時 夕食会
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