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大野修一(日本財団)
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カンボジア教育省とBBCとの共同事業につき相談 [2012年08月18日(Sat)]
8月18日(土曜日)
プノンペン滞在の最終日。ホテルでの朝食は、昨年のチャリティーコンサートでお世話になった英国人のチップさんと。彼は、今仕事で韓国のソウルとプノンペンとの間を週一回往復する毎日とか。
久しぶりに会った彼との会話は、音楽のみならず、彼が手伝っているという、特殊なミミズが作り出す有機肥料を活用した農業から、ミャンマー事情まで様々な話題で弾んだ。特に今は、ミャンマーに興味があるとかで、日本財団が取り組んでいるミャンマーでの事業について熱心に耳を傾けてくれた。 
0818View.jpg
<早朝のプノンペン市内も美しい>

チップさんと入れ違いに、教育省のバンナ次長がやって来た。ラジオを使った英語教育放送事業に関連して意見交換。今年4月にイムセティ教育大臣と合意した国際会議の開催時期について協議。先ずは、国内会議を優先することで合意。また、ミャンマーの教育省関係者を現場視察に招待することについても賛同を得ることが出来た。
昼食は日本人商工会事務局の木村さんと一緒。その後、急いでホテルをチェックアウト。今日のうちにバンコクに戻らねばならない。明日、日曜日の便でバンコクからラオスに入るのだ。3時半の飛行機に乗るため空港へ急ぐ。
0818fruits.jpg
<プノンペンのホテルではドリアンだけでなくマンゴスチンの持ち込みも禁止>

空港へ向かう車の窓の外に、建設中の新しい高層建築物が見えた。読売新聞アジア版に掲載されていた記事によると、カンボジアでの日系企業の登録数は、10年の11社から、昨年は86社に急増したという。外国企業から見て、カンボジアの魅力はASEAN10カ国の中でも抜きん出て安定した政治と、高度成長が続く経済であろう。ここ数年、カンボジアへの直接投資が急増している。
しかし、ここに来て、ミャンマーが門戸開放したことで、今後はその優位性も揺らぐのではなかろうか。人口比で4倍。勤勉で優秀、しかも、人件費はカンボジアの水準さえ下回るのだから。
0818Buildings.jpg
<またまた、新しい高層建築物が、、、>

定刻の、午後4時前にバンコクに到着。月曜ににバンコクに着いた時と同様の時刻だ。
荷物が少ないので、今回も早くて安いエアポートレールリンクの電車を利用。軽装ならやはり便利。
空港駅は地下なので最初はわからなかったが、空港駅を発車して間もなく、電車が地上を走るようになってみると、月曜ににバンコクに着いた時と同様、外は大変なスコールだった。土砂降りの中を電車が走る。強い日差しを遮断するため、窓の外には無数の穴が開いた金属板が張られているのだが、そこに水滴が張り付き、電車の中からは外は全く見えない。
夜は、毎日新聞春日アジア総局長と。ミャンマーが話題の中心。

09時 チップさん
10時半 カンボジア教育省 バンナ次長
12時 日本人商工会事務局 木村さん
13時半 ホテル出発
15時40分 プノンペン発
16時50分 バンコク着
19時 毎日新聞春日アジア総局長
北京で奨学金事業のOB、OGに会う [2011年11月14日(Mon)]
11月14日(月)
                  <今日も青空が拡がる 文字通り「北京の秋天」だ>

今回の出張は一泊だけの駆け足の出張で、今日はもう帰国するのだが、お昼の時間を利用して、笹川日中友好基金の于展さんの手配により、北京大学周辺の大学で教鞭をとっている人たちとの懇親会が設営されていた。日本財団が北京大学国際関係学院を通じて支援している奨学金プログラムのOB/OGたちである。
今年で16年目を迎えるこの事業で日本財団の奨学金を得て、早稲田や東大などの日本の大学に留学した人たちは、累計で既に160人を超えている。卒業生の進路は大学教授になった人や、研究者、政府の役人、マスコミ関係者、から民間企業まで様々だが、北京大学の于鉄軍さんのように大学の教員や研究者になった人が一番多い。幸い、彼らは平日の昼間でも授業のない限り、比較的自由に時間が使えるので、こうした集まりには比較的、好都合だという。今回は6人が都合を付けて集まってくれた。
各大学で活躍しているOB/OG達と、久しぶりに顔を合わせ、近況を聞く機会は貴重であり、私は都合が付く限り、持つようにしている。今日は、たまたま、郷里、四川省の重慶大学で活躍するOGであるPさんの誕生日だというので、皆で電話を掛けお祝いを言うことも出来た。彼らは卒業後も、日本財団奨学生独自の同窓会を組織し、毎年、新年会を行うなど交友を保ってくれているというのも嬉しい限りだ。
懇親会を終えて、午後4時北京発のフライトで于展さんと一緒に帰国。


                  <北京大学国際関係学院奨学生OB/OGとの懇親会>

7時半 国際交流基金北京事務所杉田所長
10時半 ホテル出発
12時 北京大学国際関係学院奨学生OB/OGとの懇親会
13時半 出発
15時55分 北京発
20時15分 羽田着
久しぶりに北京へ [2011年11月13日(Sun)]
11月13日(日)

久しぶりの北京出張。昨年までは年に2,3回のペースで北京に行っていたのだが、今年に入って足が遠のいていた。今回の出張の目的は、日本財団が16年前から継続してきた北京大学の国際関係学院に対する支援事業に関する打ち合わせ。多忙な王学院長の都合と私のスケジュールを摺り合せたところ、今日の午後となった。そんな訳で日曜日なのだが、これから北京大学で会議の予定。
羽田発の飛行機で、北京へ飛ぶ。途中、富士山がきれいに見えた。


                   <富士山を眼下に見ながら飛ぶ>

北京空港に着いてみると、普段は、出迎えなどなく自分で勝手に目的の場所に向かうのが普通なのだが、今回は、一足先に北京入りしていた笹川日中友好基金室長の于展(ユジャン)さんと一緒に、北京大学の于鉄軍准教授もわざわざ迎えに来てくれていた。一旦、ホテルにチェックインして簡単に着替えて、再び、3人で北京大学の車に乗り込む。北京は、今年は冬の訪れが遅れているのだそうで、道路並木にはまだ葉っぱが一杯付いていた。黄金色の並木が美しい。日曜の所為か、道路は空いている。車は予定時間より大幅に早く、北京大学の広大なキャンパス内の国際関係学院ビルに到着。

                 <大通りの並木は今が紅葉のピーク>

時間つぶしに于鉄軍教授の部屋で雑談。于鉄軍さんは、防衛問題を中心に日米関係を専門とする気鋭の研究者。彼自身がこの事業による奨学金授与の第一期生であり、今は、北京大学側の窓口的な役割も果たしてくれている。私とは既に10年近い付き合いだ。
部屋の中は暖房もなく寒いので、皆、コートを着たままで雑談。日曜日の所為かと思ったら、北京市の地域暖房の開始時期は、平年は11月15日からなのだとか。


              <于鉄軍教授の部屋は日米両語の本で埋まっていた>

学院の応接に場所を移し、4時からは、王院長、範副院長を交えて会議。国際関係学院に対する支援事業の将来の方向性、取扱の基本方針などに関して突っ込んだ話し合いをすることが出来た。
午後6時からは、近くのレストランに行き夕食会。以前から王院長にご紹介しようと考えていた朝日新聞の前編集長で今年から精華大学の客員教授を務めている西村さんにも来ていただいて、非常に有意義な意見交換の場となった。


09時25分 羽田発
12時35分 北京着
15時 ホテル出発
16時 北京大学国際関係学院での会議
18時 夕食会
国連平和大学6期生の応募者が急増 [2011年10月24日(Mon)]
10月24日(月曜日)
朝、7時。フィリピン義肢装具士学校からの迎えの車に一人、乗り込む。元々は、明日25日に、尾形理事長を迎えて、義肢装具士学校の新校舎の落成式を行う手筈になっていたのだが、数週間前にフィリッピンを襲った超大型台風のために完成が遅れたため、直前になって中止の連絡。
ところが、落成式に併せて行うことになっていた義肢装具士学校の国際諮問委員会だけは行うのだと言う。何時行うのか二転三転した結果、この会議は私が、明日、バンコクに行く予定だったために本日の午前に行うことになった。一方、今日の午後から行われる予定の国連平和大学が、急に当初の予定にはなかった、賓客のための昼食会を行うと言い出した。そこで、尾形理事長には平和大学の昼食会の方に出てもらうこととし、私は、こちらの義肢装具士学校国際諮問委員会に参加することにしたもの。

               <建設途上のフィリピン義肢装具士学校校舎>

この事業の現地パートナーであるUERM(University of East, Ramon Magsaysay)に行って見ると、国際諮問委員会の単なる初顔合わせかと思っていた会議は、大きな講堂を使い、ディビノグラシア学長はおろか、ロブレード内務長官まで来る大袈裟な「開校式」に仕立ててあってびっくり。フィリピン初の国際基準に基づいた義肢装具士学校に寄せる、大学、政府、医療関係者らの熱意と期待の大きさが感じられた。
会場には昨年の調印式直前に大学キャンパス内でのテロ事件に巻き込まれて両足を失い、一躍、フィリピン中の同情を集めた女子法学生のライッサ・ローレルさんの姿も見えた。彼女は、日本財団によって、この学校の講師陣によって作られた義足をプレゼントされることになった。
久し振りに会ったライッサさんは、杖も使わず階段を自由に上れるまでになっていた。IDPP(障害者公共政策大学院)の話をすると身を乗り出してきた。

               <国際諮問委員会の初会合で挨拶するUERM学長>

諮問委員会の会合を終えて、一旦、ホテルに戻り、私は日本から持参したバロン・タガログに着替えた。パイナップルの繊維で出来たフィリピンの正装である。
昼食会から戻ったばかりの尾形理事長や、国連平和大学の国際諮問委員である広中和歌子元環境庁長官と一緒に、アテネオデマニラ大学に向かった。国連平和大学とフィリピンの名門アテネオデマニラ大学の二つのキャンパスを用いた平和学の修士号コースは、今年で5年目を迎えるに至った。今日卒業式を迎えるのは、昨年4月に入学した第4期の28人の卒業生。うち、日本人が9名。女性が18人、男性が10人の女性上位の若者たちである。
                  <国連平和大学第4期の卒業生たち>

コスタリカにある本校から駆けつけてくれたマレスカ学長によると最近締め切ったばかりの第6期生の出願状況は、例年通り30人の募集に対して、オンラインでの申し込みが、昨年の約300人の倍以上の750人。うち、最終的に出願書類を提出したのは400名(昨年は120名)だという。ついに、私が設立以来密かに目標としてきた競争倍率10倍を超えたのだ。ただ、30人のうち、15人程度の枠を用意しているにも拘わらず、日本人の応募状況は昨年比数倍になったとは言えまだ低い。授業料の全額免除のみならず、渡航費や生活費まで面倒を見るという破格のコースなので日本人の競争率も10倍になっても不思議ではないように思えるのだが。
                     <壇上で卒業証書を受け取る>


7時 ホテル出発
8時 PSPO IABミーティング
10時半 PSPOブランチ
14時半 ホテル出発
15時 歓迎レセプション
16時半 国連平和大学卒業式
19時 記念夕食会
国連平和大学の入学式に参加 そして、帰国 [2011年04月07日(Thu)]
4月7日(木曜日)
朝8時、ホテルをチェックアウト。荷物を全部持って、アテネオ・デ・マニラ大学へ。これから国連平和大学のアジア・キャンパス修士コースの5期生の入学式が行われるのだ。
入学式とは言っても、これまでのような大袈裟なセレモニーは取り止めることにした。この事業のアテネオ・デ・マニラ大学側の責任者であるクルス人文学部長と国連平和大学のカワガス教授が歓迎の挨拶しただけで、後は実務的なオリエンテーション的内容が中心。
私はその中で、日本財団グループの活動を紹介した。プレゼンテーションを終えて席に戻ると、クルス学部長が「日本財団の支援事業は本当に人々の役に立つ良い事業ばかりだ、私はそのような素晴らしい日本財団と仕事が出来ることを光栄に思っているんだ」と囁いた。
    
         <入学式で挨拶するクルス人文学部長>

中米コスタリカにある国連平和大学本校とフィリピンの有名私立校アテネオ・デ・マニラ大学の二つのキャンパスを結んで1年半余りの期間で国際平和学に関連した10以上の専門分野でマスターコースの習得を目指すこの事業も、発足して今年で早くも、5年目を迎える。今年も30人の定員に大勢の応募があった。その中から、10名の男性と、20名の女性が選ばれたのだが、うち、14名が日本人、残り16名の国籍は、インドネシア、韓国、ミャンマー、フィリピンなど10カ国に及ぶ。
休憩時間に、そのうちの何人かとは少し雑談することが出来たが、いずれも、将来は国際平和に貢献したいという意欲に燃えた、爽やかな若者たちばかりであった。来年以降、このプログラムをどのように実施するかはまだ白紙の段階だが、出来れば続けていきたいと考えている。
                                        <オリエンテーションに耳を傾ける第5期生たち>

入学式=オリエンテーションの午前の部が終わったところで、私は昼食に向かう一行と別れて空港へ。午後2時半の便で帰国。今回の出張の最後のフライトだ。
成田へ向かう機内はがらがら。成田空港に着いてみると、空港構内はこれまで経験したことのない空きようだった。
いつもは荷物を受け取る人で込み合う税関前のフロアーも殆ど空っぽの状態だ。地震の後、特に、原発事故が表面化して以来、日本を脱出する外国人が増えるとともに、日本に来る外国人が激減している、という報道を実感。

                                <成田空港は空っぽ>

     
8時 ホテル出発
9時 アテネオ・デ・マニラ大学入学式
10時 プレゼンテーション
11時半 アテネオ・デ・マニラ大学出発
14時25分 マニラ発
19時50分 成田着
ラジオ教育放送事業対象校を訪問 [2010年09月24日(Fri)]
9月24日(金曜日)−−−続き−−−

                  <チェンモク中学 校長先生が迎えてくれた>

プレアビヒア寺院遺跡見学を終えて、本来の目的地であるラジオ放送事業の対象校に急ぐ。昼食は車の中、パンで済ます。
午後3時、漸く目的地、チェンモク中学に到着。校長先生が迎えてくれる。一年から三年まで、各学年1クラスずつ。合計3クラスに生徒が全部で119人ということだが、今はまだ夏休みの休暇中。生徒たちの姿はなかった。その代り、10人余りの父兄たちが集まってくれていた。


              <先生に加えて父兄の代表たちも集まってくれた>

先生は校長を含めて7人。学区は近隣3カ村に広がるという。今回のラジオによる英語放送は一年生だけが対象となるのだが、父兄からはその他の学年も対象にしてもらえないのかとの質問。果ては、真顔で自分たちも英語の勉強をしたいと言い出す。何故、英語に関心があるのかと聞くと、英語が出来れば良い仕事に就けるから、と言う答えが返ってきた。しかし、家にラジオがある人は、と尋ねると手を挙げたのは半分くらいしかいない。そもそも、学区内にある3つの村にはどこにも電気が来ていないという。勿論、この中学校にも電気はない。

                   <カメラを向けるとはにかむ子供たち>

ESC-Kizunaの松島君が持参したのは、この学校にも配布予定のバッテリー駆動のラジカセ。これで生徒たちは10月からラジオ放送を聞いて勉強するのだ。肝心の電波が届いているのか、受信状態をチェック。幸い、教室内にちゃんとラジオ電波が届いていることが確認できた。
この学校の英語担当教師のダム・ワンディさんは2008年に我々の奨学金を受けて国立教員養成校を卒業したあと、プノンペンの大学に進学し卒業したという優秀な人物。道理で、彼の英語のレベルは大変高い。これまで私が会ったカンボジアの中学校の英語の先生ではこんなに英語の良く出来る先生に会ったことがない。あなたにはラジオ放送は要らないのじゃないかと冗談を言ったら、真顔でとんでもないと言う。彼は、最近、自分のお父さんを強盗に殺されたばかり。森さんによると、その悲しみを打ち消すかのように、このラジオ英語教育放送にのめり込んでいるのだそうだ。


                         <こちらは昔使っていた校舎>

教室に入り話し合いを始めたとたん降り始めたスコールもあがった。我々もそろそろ、シェムレアップの町に戻らねばならない。カンボジアの道路は、最近ようやく舗装されたところが増えたとはいえ、街灯は全くない。そのため、車の運転手は夜間のドライブを嫌がり、明るいうちに目的地に着きたがる。
そのため、道草はご法度だったのだが、森田さんのアイデアで、学校からの帰り道1時半くらいのところにあるコッケイという遺跡にだけ特別の小休止。しかし、車を降りてみると、ここも、信じられないほどの素晴らしい遺跡であった。アンコールワット、プレアビヒアだけではない。カンボジアは誠に凄い国である。


             <帰りに立ち寄ったコッケイの巨大遺跡 人が豆粒のように見える>

5時 ホテル出発
6時50分 プノンペン発
7時40分 シェムレアップ着
12時 プレアビヒア寺院遺跡
15時 ラジオ教育放送事業対象校訪問
19時 ホテル帰着
ラジオ教育放送事業開始式 大いに盛り上がる [2010年09月22日(Wed)]
9月22日(水曜日)

                        <上空から見たプノンペン>

早朝、まだ暗い中を空港に向かい朝一番のプノンペン行き飛行機に乗り込む。定刻の9時にプノンペン到着。涼しい。
いつものソルヤ君の車に乗り込み、ホテルへ。前日からプノンペン入りしていた日本財団職員の田中さんと合流。チェックインして直ぐに、同じホテルで開かれているラジオによる英語教育放送のための研修会場へ急ぐ。対象校15校の先生たち28人が集まり、ラジオ教育放送をどのように英語教育の現場で生かすかを学ぶため昨日から二日掛りの研修に参加してくれているのだ。指導しているのは国立教員養成学校のソクサパット先生ら。カンボジアの中学生たちのためにテキストを作ってくれたBBC英国本部のディレクター、アバデーンさんとは初対面。挨拶し、お礼を言う。


                     <ラジオ教育放送参加教員研修>

お昼は同じくホテルの会議室で僻地の中学校の先生の卵たちに奨学金を支給するために日本財団が現地に設立したNGO、「ESC-Kizuna」の理事会に出席。ラジオ教育放送事業もこのNGOに担当してもらうことになっている。
ESCの理事会を無事終えて、3時からやはり同じホテルの大広間でラジオ放送事業の開始式典が始まった。私は教育大臣の前にスピーチ。
最前列にBBCのカンボジア代表のハミルトンさんが座っているのを見て、彼との思い出を急遽スピーチに付け加えることにした。思えば、このラジオ放送によるカンボジアの僻地の教育支援事業を思いついたのは3年前。BBCのプノンペンオフィスにひとり出向いて、初対面のハミルトンさんに構想を打ち明け、彼の賛同を得たのだった。
その間に、BBCの代表は3回交代、教育大臣もフンシンペック党のコルペンさんから今のイムセティさんに変わった。幸い、ハミルトンさんが再びBBCのカンボジア代表に返り咲き、イムセティ教育大臣も、ローテクと見られがちのラジオを活用した教育支援システムに理解を示し、省を挙げての協力を約束してくれたことで、この事業は日の目を見ることが出来たのだった。


         <ラジオ教育放送事業開始式はお祝いのダンスで始まった>

スピーチの中で、私はラジオ放送にかける我々の期待について述べた。
「ラジオなんて時代遅れと思われるかもしれないが、電気が来ていないカンボジアの僻地のみならず、活用の余地は大きいと考える。例えば、日本ではNHKのラジオ第二放送は朝の6時から真夜中まで毎日18時間の放送を行っているが、定時のニュース以外は総て教育放送。その種類は、語学だけではなく、歴史、文学から数学や音楽、果ては体育まで50種類もの番組があり、学生のみならず、通勤時のサラリーマンまでがラジオの教育番組のリスナーである」と紹介した。
さらに、「我々の夢は、この事業の有効性が立証され、当初の3県、15校だけではなく全国に広がること。更には、日本のように、英語以外の分野にも放送が広がること。そして、最終的にはカンボジア以外の途上国でもラジオ教育放送が広がることなのだ」と述べて壇上を降りた。

           <教育大臣がレセプションの最後まで付き合ってくれた>

私の後にスピーチに立った教育大臣の挨拶は、通り一遍の挨拶ではなく大変熱の篭ったものであった。事実、大臣は何度も原稿を読み上げるのを中断し、時には英語で自分の言葉で彼の思いを私たちの方に向かって語りかけた。終わった後、大臣は私に何度も、「話が長くなってしまって申し訳ない」と言ったが、我々は大感激。
しかも、式典の後の夕食会では、大臣以下、副大臣、事務次官ら教育省幹部が総出で私たちに文字通り最後の最後まで、他の招待客があらかた帰った後まで付き合ってくれた。
BBCのハミルトンさんが私の席に来て小声で言った。「大臣は普通はスピーチだけで帰ってしまうもの。今回のように、食事会まで含めて最後まで付き合ってくれたなんて初めて。教育行政のトップがここまで支援してくれるなら、この事業の成功は間違いない」と。
民間主導の小さなパイロット事業であるにもかかわらず、ここまで教育省を挙げてその気にさせたのは、我々のアドバイザーとして、松島さんら若い現地スタッフを指導しながら精緻な実行プランを纏め上げた森祐次さんの卓越した能力のお陰。身内のことなので私は挨拶のスピーチでは触れなかったが、感謝感謝。


                  <ラジオ教育放送事業開始式の横断幕>


5時15分 ホテル出発
7時50分 バンコク発
9時05分 プノンペン着
10時半 ラジオ教育放送参加教員会議
12時 ESC絆理事会
15時 ラジオ教育放送事業開始式
17時 レセプション
19時 メイ官房副長官
中国の光と影 [2010年09月20日(Mon)]
9月20日(月曜日)          
朝8時、市内南部にあるホテルから本多さんと二人、タクシーに乗り込む。今日から北京大学で行われる日本財団グループの支援事業の関係者若手を集めたBABAセミナーのオリエンテーションで日本財団グループに関するプレゼンテーションをするためだが、その前に主催者であるIRCのラジャさんとの打合せも入っている。
北部の北京大学キャンパスまでは通常は一時間弱の距離。しかし、今日は途中で交通事故らしき現場を通ったこともあり1時間半かかってしまう。
北京大学の新校内に出来たばかりのモダンなホテルのロビーで、3人で打合せをした後、徒歩で10分ほどの北京大学国際交流センターに設けられたBABAの会場へ。今回の参加者は13ヶ国から26名。うち、女性が11人。
プレゼンテーションを終えたあと、メインスピーカーとして来てくれていたThe Nationグループの編集副主幹のカビさんと暫し雑談。彼はこの後、モンゴルに行きエルベグドルジ大統領と単独会見する由。何でもハーバード留学時代の知り合いなのだそうな。置き薬事業など日本財団のモンゴルでの事業について説明を求められる。置き薬事業の詳細は、たまたま今回のBABAに参加者として来てくれていた現地NGOワンセンブルウのオユン事務局長に任せ、私はひとり空港へ。


                <各国の民族衣装を着て自己紹介する参加者たち>

北京大学から車に乗ったとたん、雨が振り出した。街の様子をカメラに収めようとしていると、運転手がスピードを緩めると同時に、電動式の窓を開けてくれた。丁度オリンピック競技場、所謂「鳥の巣」の前。私がてっきりそれを写そうとしたものと勘違いし親切に気配りしてくれたもののようだ。折角なので一枚パチリ。すると、にっこり笑って窓を閉めてくれる。
中国人にとって今回の北京オリンピックを成功させたことは大変な自信になったようだ。今回久し振りに会った日本留学OBで北京市政府で働くフォンさんが話してくれたのだが、オリンピックの次の目標は北京を世界都市にすることなのだそうな。世界都市という言葉には余りなじみが無いが、どうやら「世界のトップレベルの都市と並ぶような一流の近代都市」、「世界のどこに出しても恥ずかしくないような都市」というような意味が含まれているようだ。気が付くと道路の脇にはあちこちに中国語のスローガン「国際品牌 世界城市」と英語のスローガン「International Brand --- World City」が踊る幟が下がっていた。


           <オリンピックの次の目標は北京を世界都市にすること>

しかし、今回の出張でも見たように、表面的には躍進ぶりばかりが目立つ中国にも影の部分が無いわけでは勿論ない。発展から取り残された人々や、政治的な弾圧に抵抗する不満分子の存在だ。笹川会長が9月15日付のブログで紹介しているように(https://blog.canpan.info/sasakawa/archive/2597)監視の目をかいくぐりながらも、中国国内にも反政府運動は存在しているのだ。私自身も今回の滞在中に反政府的な文言が書き込みまれた一元札を見ることが出来た。こちらは会長が見たゴムスタンプのような書き込みではなく、ちゃんとプリンターで印刷したもののようで、殆ど元々の印刷かと見まがうほど。よく見ないと見逃してしまいそうだ。
書いてあったのは「天滅中共開始快快退党団隊大難来時命能保」その意味は、「天が中国共産党を滅ぼすのが始まった。早く、退党せよ。そうすれば、大難が来た時には命が助かるであろう」という物騒なもの。腕が悪いのかカメラのせいか、ピンボケの写真だが、書き込みは2箇所。赤で囲った円の部分だ。


          <反政府運動によるものとみられる書き込みのある一元札>

バンコク行きの飛行機のなかではいつものようにタイの英字紙The Nationを所望。トップニュースは昨日開かれたタクシン支持派「反独裁民主統一戦線」による集会のこと。タクシン元首相を失脚させる2006年のクーデターから丁度4年。参加者6000人は4月の騒乱以来では最大規模。タイの方でも、政治的な安定には尚、時間がかかると言うことのようだ。



8時 ホテル出発
9時半 ASEANラジャ事務局長特別顧問
11時 BABAリトリート会議
13時半 北京大学出発
17時05分 北京発
21時15分 バンコク着
バンコク都知事のスクムパン王子主催のBABA閉会式 [2010年02月06日(Sat)]
2月6日(土曜日)
朝8時半、私の滞在するホテルにASEAN事務局長ラジャ特別顧問と日本財団の担当者千葉君に集まってもらって3人で、日本財団とASEAN事務局との連携協定に基づく、障害者関連事業の進め方について協議。
そのあと、3人でタクシーに乗り、国際障害者協会アジア太平洋地区事務局(DPI/AP)に向かう。ASEAN障害者フォーラム構想について事務局長のサワラクさんたちと協議するため。ところが道路の異常な渋滞でにっちもさっちも行かなくなる。このままでは、DPI/APにいけたとしても、大遅刻。それどころか、その次に予定しているアジア大平洋身体障害者センター(APCD)もそれ以上の遅刻になってしまう。そこで、急遽APCDに行き先を変更。そこに、DPI/AP事務局長のサワラクさんたちにも来てもらい協議することにする。
アジア大平洋障害者センター(APCD)では、所長に就任したばかりの二ノ宮さんと部下の佐野さんが土曜日にもかかわらず出勤してくれていた。
無事、DPI/AP事務局長のサワラクさんたちも合流して打合せを終えてのち、ラジャさんと別れる。二ノ宮さんさんたちと我々だけで昼食ののち、ホテルに一旦戻る。
着替えをして、バンコク都知事スクムパン王子の居城であるスアンパッカード宮殿へ。ここで、日本財団グループの支援事業参加者を対象にしたセミナー、BABA(Building a Better Asia)の閉会式が行われるのだ。スクムパン知事は知事に就任する前から、BABAの運営委員会であるアカデミックコミティーの委員長を務めてくれている。今回は、彼の好意でこの歴史あるスアンパッカード宮殿で閉会式が行われることになったのだ。


     <スアンパッカード宮殿で開かれたBABA閉会式のレセプション>

私はスアンパッカード宮殿には、これまでアカデミックコミティーの会合などで何回かお邪魔しているが、その度に、ここの厨房でつくられる正統(?)のタイ王宮料理を堪能してきた。王宮料理と言っても、決して華美なものではないのだが、とにかく上品な味わいが素晴らしい。今回もその料理が食べられると楽しみにしてきたのだ。
料理が運ばれ、夕食会が始まって程なくして、ようやくホストのスクムパン知事が現れた。知人の結婚式に呼ばれていたので、遅くなったのだとか。
スクムパンさんは王族であるが、現与党である民主党の政治家になるまではチュラロンコン大学の教授であった。普段は無口とも言えるほど口数が少ない。政治家としては異例のはにかみ屋というのが定評である。


        <修了証を参加者に手渡すバンコク都知事のスクムパン王子>

そのスクムパンさんが今夜の閉会式では、彼としては異例の長口舌を振るってBABA参加者を激励してくれた。そのあと主催者を代表して私が挨拶。最後に、スクムパンさんが修了証を参加者に手渡して終了。参加者はこの一週間の合宿式セミナーでの共同生活を通じて親しくなった仲間たちとの別れを惜しみ、最後の夜を遅くまで楽しんでいた。

     <参加者の中には私が誘ったスリランカ人のヒンズー僧、クルッカル師の姿も>
  
  
8時半 ASEAN事務局長ラジャ特別顧問打合せ
10時半 アジア大平洋障害者センター(APCD)訪問
19時 BABA閉会式・レセプション
ユニークなフォーラムBABA [2010年02月05日(Fri)]
2月5日(金曜日)

       <バンコク市内の移動にはスカイトレインが便利>
 
今回の出張のタイミングは、今週から始まった日本財団グループの支援事業参加者を対象にしたセミナー、BABA(Building a Better Asia)に合わせたもの。私は、今日の午後開かれる運営委員会であるアカデミックコミティーのメンバーである。また、明日の閉会式では主催者を代表して挨拶することになっている。
アカデミックコミティーの前に、2件の用件が入っていた。
先ず朝一番には、カンボジア、ラオスなどで実施中のキャッサバ農法指導事業の責任者であるティン博士と会い、今年から始まる新体制のもとでの事業実施方針などにつき意見交換。
そのあと、昼食を摂りながら、フジテレビバンコク支局の江藤支局長と、ベトナムでの事業に関する取材計画などにつき協議した。


         <コミティーの会場はスリナム領事館>
  
そして、スカイトレインに乗って向かった先は何故か、スリナム領事館。南米の小国がタイ外務省の支援で持つ領事館であるが、タイの元外務大臣で現在はASEAN事務局長であるスリン博士の好意で、今回のBABAアカデミックコミティーの会場として使わせてもらったもの。
5カ年計画の最終年度である今年の2回分の開催に向けて意見交換。アメリカン大学のアチャルヤ教授は、BABAのようなユニークなフォーラムは、5年の期間が満了しても、是非続けるべきで、日本財団が仮に支援しないなら、他のドナーを見つけてでもやるべきだと力説。欧米的価値観ではなくアジアの知恵がベースになっていること、参加者の多様性などが他に例を見ない特長なのだそうだ。
米国の首都ワシントンDCにあるアメリカン大学からは、国際関係学院のグッドマン学部長も遠路遥々参加してくれていた。グッドマン学部長とは昨年暮れにワシントンでIDPP(障害者のための公共政策大学院大学)構想のための会議で会ったばかり。来週には、シンガポール大学リークアンユー大学院のキショール院長と会うことになっていると言うので、IDPPの話をしてもらうよう頼む。


            <BABAアカデミックコミティー>

9時 CIAT(国際熱帯農業研究所)Tin博士
12時 フジテレビバンコク支局江藤支局長
14時 BABAアカデミックコミティー
18時半 BABAアカデミックコミティー夕食会
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