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大野修一(日本財団)
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LTTEの旧本拠地キリノッチで学校建設プロジェクト完工式 [2011年12月21日(Wed)]
12月21日(水曜日)
コロンボ郊外の漁村、ネゴンボのホテルで4時半に目覚ましの音に起こされ、朝5時、真っ暗な中を車に乗り込み出発。結局、睡眠時間は2時間ほど。
ネゴンボを出て、間もなくすると道路が見違えるようにきれいになっているのに驚いた。政府による道路の補修工事が進み、これまで3時間かかったアヌラダプーラまでの行程が3分の1短くなり、2時間で済むようになったという。施工は、地元企業と、中国企業が請負っているという。
しかし、バブーニャに近づくあたりから、それまでスムースに進んでいた車のスピードが急に落ちる。あちこちでまだ道路工事の真っ最中。道を外れて、未舗装の泥濘を進む。工事中の区間と完了済みの区間が混在しているのだ。中国の区画らしきところでは、中国人の技術者らしき姿も見える。
途中、レストランで朝食。胃の負担をかけないよう、食事は少しつまんだだけで、私は専ら紅茶を飲む。体力回復を考えて、たっぷりのミルクに砂糖を入れて飲む。本場だけあって紅茶は本当にうまい。少し元気が戻りつつあるのを感じる。
<泥濘が作る悪路が車の行く手を阻むく>

ようやくバブーニャ県に入る。バブーニャは内戦当時は政府軍とLTTE軍が対峙、軍事境界線があったところだ。停戦協定下の2005年だったか、セワランカ財団会長のハルシャさんが運転する車で二人で境界線を越えたことがあったが、その時は、政府側とLTTE側双方のチェックポイントで厳しい検問を受けたことを思い出す。
スリランカでは、一昨年の政府軍による反乱軍制圧以来、一件もタミル側と政府軍の間の戦闘は生じていないという。しかし、バブーニャに入るころから、兵士の姿が急に増え出した。道路際には、かなりの頻度で、兵士が歩哨に立つ見張り小屋やトーチカが置かれている。
それにしても、歩哨の数が異常に多い。軍事衝突が全くなくとも、政府軍としては今なお油断せず、警戒を怠らないという意思表示なのだろうか。ウデニさんが私の疑問に答えて曰く、「それだけではありません。政府としては、おいそれと軍事設備や軍人の数を減らせないんです。元兵士の失業問題に直結しますから」
<バブーニヤ地区の検問ポイント>

突然、車が、大きな軍事基地らしき門の前で停車した。何事かといぶかっていると、これからバブーニャ方面軍司令官に会うのだと告げられる。何でも、彼に会って挨拶をしておくと軍の検問がずっと楽に済むようになるのだそうな。
会ってみると、昨年5月、会長一行とバブーニヤの国内難民キャンプに行ったときに挨拶した司令官と判明。「ああ、あの時の日本財団か」と、とても愛想が良い。私の今回の訪問目的などを書いた書類や、パスポートのコピーを渡すが、ろくに読みもせず、OKのサイン。そこで調子に乗って、司令官に、一緒に記念の写真を撮っても良いかと尋ねると、あっさり了解。
車に戻ったとたん、同行していたウデニさんが、声を潜めて、まさか写真のOKが出るとは、セキュリティーの関係で軍トップが写真撮影を許すなど、これまででは考えられなかったことだと言う。
その後、さらに北上し、キリノッチへ向かう途中、幾つかの場所で検問があったが、我々の車は停められることも無くフリーパス。司令官に挨拶したことが効を奏しているようだ。
<洪水の爪痕が残る道路を進む>

キリノッチに近づくにつれ、頻繁にのろのろ運転するようになる。道路があちこちで冠水している。昨日までの雨による洪水の跡だ。これでは、いつになったら目的地に到着するのやらと気を揉む。
水没した道路を慎重に走ること暫し、ようやく、キリノッチの町に入る。スリランカ本島部の北端にある町、休戦協定が有効だった当時は、LTTE(「タミルイーラム解放の虎」=反政府タミル人組織)の首都が置かれていたところだ。私にとってはキリノッチ行きは今年の1月以来だが、新しい建物があちこちに出来ている。このまま、平和がつづくことを祈るばかりだ。
午後12時半、セワランカ財団のキリノッチ支部に到着。結局、出発してからここまで7時間半もかかったことになる。予定より、一時間以上遅い。支部内の食堂で、急いで昼食を取る。
バナナの葉に乗せられたカレーだ。うまい。丸一日以上殆ど何も食べていないので、少し、食欲が出てきたようだ。どうやら車の中で眠ったりしたお陰で元気を取り戻したようだ。風邪っぽさも随分抜けたし、これなら大丈夫だ。
<バナナの葉に乗せられたカレーは手で食べると美味い>

昼食のあと、キリノッチ市内にあるウルティラプラム学校に案内される。ここは、1年生から13年生まで530人の生徒を抱える小中高一貫校だ。
学校正門に向かう一本道の途中で、女子生徒のブラスバンドに迎えられる。そのまま、誘導されて校門を抜けると、先生と全校生徒が整列して待ち構えていた。
完成した校舎の壁には大きく日本財団のロゴ。その前で、除幕式を行った後、新校舎の入り口でテープカット。教室に入ると、子供たちの民族舞踊、そして地元選出の国会議員のスピーチと盛りだくさんの式典が用意されていた。
その後、もう一つ、パランタム学校に案内される。もともとは、キリノッチと並ぶ内戦終盤の激戦地、ムライティブの学校を訪問するはずだったのだが、時間の関係で中止、ここにしたのだとか。
この学校も小中高一貫校だが、規模が大きい。生徒総数1300人、ここは、私が今年の1月にこちらに来て学校建設事業の調印式を行ったところ。当時は、屋根も壁も失い、土台だけが辛うじて残った校舎跡に椅子を並べただけの「教室」で子供たちが勉強していたものだったが、今は、新築と見まがうばかりの立派な校舎が並んでいた。
<ウルティラプラム学校先生や生徒たち 国旗掲揚台の前で記念撮影>

時間がなくなってきた。先を急がねばならない。これから、先ず、バブーニヤまで戻り、NISVAのシニアボランティアの皆さんと、お会いしないといけない。新年をこの僻地で過ごすボランティアのお二人のために、日本から持参したお餅を差し入れするのだ。バブーニヤに向けて、再び悪路交じりの道を南下する。
途中、道路際のカフェで休憩。他の人たちが夕食を取る間、昼食のカレーが胃もたれしていた私は、食事をパス、とても美味しいミルクティーを飲んでいると、誰かに肩をたたかれた。振り向くと、昨日会ったばかりの司令官。軍服ではなく、半ズボンにTシャツ姿。ジョギング中なのだとか。しかし、後ろには、軍用ジープに完全武装の護衛が控えている。
「どうだい、この店は」と聞かれたので、「紅茶がとてもおいしい」と答えると、「そうかそうか」と上機嫌。何と、このカフェは兵士の失業対策として軍が設営したものだとか。ボーイさんたちは全員元兵士なのであった。
真っ暗になった道をさらに走り、漸くバブーニヤのセワランカ財団支部に着いたときには、既に7時半。ボランテイアのお二人の宿舎にお邪魔し、少しお話を聞いただけで、お土産を渡して慌しくおいとま。先を急ぐ。我々は、アヌラダプーラ近くのアイランダーセンターにあるセワランカ財団のトレーニングセンターに泊まる予定なのだ。漸く夜も更けた9時半に到着。


00時15分 コロンボ着
01時半 ネゴンボのホテルにチェックイン
05時 ホテル出発
08時 朝食
09時45分 セワランカ財団バブーニャ支部訪問
10時半 バブーニヤ方面軍司令官表敬 
12時半 キリノチ到着 昼食
13時 学校建設プロジェクト完工式
14時半 学校視察
19時半 NISVAボランティア面談
21時半 アイランダーセンター到着

ヤンゴン市内のラッシュアワー [2011年06月06日(Mon)]
6月6日(月曜日)
朝、まだ、うす暗い中、チンチンという音で目を覚ました。時計を見るとまだ6時前。窓の外を覗くと、お坊さんたちが何人も一列に托鉢に歩いているのであった。チンチンという音は、托鉢を触れて回るための鉦の音だったようだ。
再び眠った後、暫くすると、今度は、独特の節回しで何やら唱えながら歩く人の声。何か、食べ物を売る商人の口上のようだ。また、少しするともう一人別の口上が聞こえる。こうして、外からの物音や、人の声が段々増える中で、タウンジーの朝が明けて来た。

               <朝の街を托鉢に回る小僧さんたち>

昨日からの雨こそ上がったが、外は肌寒い。ホテルのレストランで、シャン・ヌードルで地元式の朝食で腹ごしらえ。8時、空港のあるヘーホーの街へ出発。午前の便でヤンゴンに戻らねばならない。
空港までの道では、朝の仕事に出掛ける人たちの乗った色んな乗り物に出会う。ここでは、まだ馬車や牛車も通勤の足。バス代わりのトラックにも満員の人々。トラクターさえもここでは相乗りだ。
                             <満員の乗り合いバス?>

ヘーホーの空港では、地元政府に認知されているNGOセイダナーは顔パスだ。普通の人や車が入ることを許されていない入り口をすんなり通って、駐車場に車を止めて空港の待合室へ。
幸い、帰りの便は来るときのように遅れることなく出発。11時過ぎにヤンゴン空港に到着。ヤンゴン市内は曇り。気温は28度。間もなく雨が降り出す。

                      <ヘーホー飛行場へは顔パスで入る>

空港から一旦、セーダナー・ヤンゴン事務所に寄せてもらった後、一人でホテルに戻る。午後2時、保健省の前伝統医療局長のティン・ニュント博士に再びホテルに来てもらって、シャン州での見聞を踏まえて、また、3日前に聞き漏らしたことなどについて幾つか確認と相談。
              <セーダナー・ヤンゴン事務所>
     
午後5時、こちらも3日に続いて再び、マッコム社のハウ社長と会う約束だったが、5時過ぎに電話。渋滞で道路が予想外に混んでいて15分程度遅れそうだという。
今は丁度、下校時間。特に、私立学校では、お金持ちの親が子供たちの送り迎えを車でするのもあって、最近ではこの時間が特に混雑するのだそうだ。つい最近までは、東南アジアの主要都市でヤンゴンだけが渋滞の無い都市だと思っていたのだが、、、。特に、車を持ち、子供を私学に通わせることの出来る有産階級がそれだけ増えたということだろう。
結局、ハウさんが到着したのは、午後5時半。近くのミャンマー料理のレストランでミャンマー料理を食べながら、意見交換。
                         <ヤンゴン市内のラッシュアワー>

8時 ホテル出発
10時10分 ヘーホー発
11時05分 ヤンゴン着
12時 セーダナー事務所訪問
14時 保健省前伝統医療局長ティムニュントさん
17時半 マッコム社ハウ社長  
久し振りの学校訪問(2) [2011年06月05日(Sun)]
6月5日(日曜日)
建設準備の会合を抜け出し、村長の案内で、ナムリ村の生活を少し覗かせてもらうことにした。こんなに山奥の村だが、それほど貧しい村ではないようだ。村長の話によると、10年前に自力で近くの小川に水力発電機を設置、今は全世帯260軒に一年中電気が来ている。電気代は無料。確かに村の中には大きなパラボラアンテナがある。
                            <ナムリ村の家並み>

どんな番組を見てるんですか。すると、村長曰く。言葉は分からないが海外の番組を見ている。日本の地震の時も衛星テレビで見ていたよ。
この村の産業は農業だが、自給自足ではなく、換金性の作物であるタバコの葉が主な作物だという。それも、単にタバコの葉を生産するだけではなく、それをタマリンドなど色々なものと調合してから、タナペという葉で巻いてミャンマー特有の葉巻にして出荷しているのだという。即ち、現金収入があるわけで、山中の辺鄙な場所から受ける先入観は訂正する必要がありそうだ。
   
         <村で見かけたパオー族の娘さんたち>

村の視察から戻ってみると、集会はまだ続いていたが、昼食時間を過ぎたので、別室で、村人の心づくしの手料理を御馳走になった。ヤンゴンで食べる油の多いビルマ料理とは違って野菜の多い、比較的さっぱりしたおいしい料理だった。
                        <心づくしの手料理>

食事を終えて外に出ると、それまで青く晴れ渡っていた空が俄かに掻き曇り、突然のスコールがやってきた。激しい雨がトタン屋根の上にたたきつけるので教室の中では人の話が聞こえないほど。これでは、先生も生徒たちも雨季の授業は大変だ。
建て替えが急がれる旧校舎は雨漏りはおろか、そもそも外壁が竹を編んだだけというしろものなので、横からも吹き込んで来るに違いない。一日も早く新しい校舎が完成するのを祈らずにはいられない。     
雨が小止みになるのを待って、村人や子供たちに見送られてトラック隊は出発。

                         <ぼろぼろの校舎内部>

途中、タウンジーに程近いエタヤの町でもう一つの中学校を見学してタウンジーに戻ったのは夕方の5時。
何と、セイダナーの皆さんが夕食に連れて行ってくれたのは、ブドウ畑を臨むお洒落なワインレストランで。生憎、外は雨だったが、晴れていれば夕日が美しいのだとか。ドイツ人のオーナーが説明してくれたところによると、タウンジーの周辺だけで、二つもワイナリーがあるのだが、裕福になったミャンマー人の間にワインに対する需要が急拡大しているので、作るだけ売れる状態で、共存に問題は無いのだとか。
比較的涼しいタウンジーの気候がワイン作りに適しているとでもというのかと思って尋ねると、そうではない、という。カビなどの問題が大きく、ここまで来るには大変な苦労があったとか。何故そこまでしてここでのワイン作りに取り組んでいるのかと聞くと、「さあ、どうしてか自分でもわからない」と意外な答えが返ってきた。
赤、ロゼ、白を三種類試してみたが、「特に、自信がある」という白は絶品だった。ミャンマーワインなるものの実力を認識させられた瞬間であった。
 
            <何とブドウ畑にワインレストラン>


11時半 ナムリ村内視察
12時半 昼食
13時半 ナムリ村出発
15時 エタヤ小中学校
17時 ホテル帰着
18時半 夕食
久し振りの学校訪問(1) [2011年06月05日(Sun)]
6月5日(日曜日)
朝8時、セイダナーの白木さん以下7人のメンバーとピックアップ・トラック2台に分乗して、学校訪問に出発。途中、シャン州など少数民族地域を管掌する役所である国境開発省(正式名称が「国境地域少数民族・開発省」云々と余り長すぎるので、ミャンマー人もNaTaLaと略称で呼んでいる)のタウンジー事務所に立ち寄る。今年の建設予定校に地方政府のトップの意向をどこまで反映させるかについての、白木さんと担当課長の間の交渉に暫し立ち会った後、再び、出発。
               <牛車を追い抜く>

道は、湖上の民で有名な観光地、インレー湖の手前を左に折れ、次第に、山の中に入っていく。竹林の中を走る。途中、馬車とすれ違い、牛車を追い抜く。タクシー替わりのトラクターに、信じられないほど大人数の農民たちがぶら下がっている。総て、5年前と変わらぬミャンマーの農村風景だ。
段々と道は険しく、細くなり、すれ違う人も殆どいなくなる。こんなに山道を分け入って、学校なんてあるのだろうかと危ぶむ頃。突然、山のてっぺんに目指すナムリー村が現れた。260世帯、1,100人。少数民族パオー族の村だ。

                     <ナムリ小はこの丘のてっぺんに>

山間に点在する民家の間を縫ってすすむ小高い丘に通じる一本道。登りきった丘の上にナムリー準中学校が姿を現した。1年生から8年生まで、4人の先生の元、76人の生徒が学ぶ。日本の、小学校と中学校を併せた学校だ。
校庭を横切る形で入り口から校舎まで、小さな小学生を先頭に、全校生徒、保護者、村人、教職員等総勢約100名が二列の縦隊になって、我々を歓迎するために待ち構えてくれていた。
                            <子供や父兄たちが出迎えてくれた >    

この学校は1952年の設立。創立当時以来使われてぼろぼろの状態の校舎を新校舎に建て替える計画がセイダナーの本年度事業として計画されているのだが、我々が案内されたのは、1995年に建てられたという少しはましな新校舎の方。中は仕切られていないので、教職員、村人ら外で待っていてくれたほぼ全員が中に入り込んで学校建設準備のための集会が始まった。
              <学校設立準備のための集会>

この村の村長ソーフラさんが説明してくれた。数年前から自分たちで老朽化した旧校舎の建て替えを計画し、お金をためては少しずつ着手するというやり方で、工事を進めてきた。自分たちだけではこの先何年もかかるところだったが、今回セイダナーの支援で一気に校舎が完成することになりこんなに嬉しいことはない。確かに、校庭の反対側には、コンクリートと砕石での基礎工事が出来上がっていた。
ところで、村長さんは政府の任命ですかそれとも、住民による選挙ですか、と聞いてみた。村人たちの協議の結果選ばれたのだという。それで、任期は。特にありません、住民の支持があれば何年でも、私は10年目です。ところで、有給ですか。いいえ、無給です。私は農民です。

                     <村人たちだけで作ったという基礎>

7時半 朝食
8時 ホテル出発
8時20分 NATALA事務所訪問
10時半 ナムリ小学校到着
バンメトートはベトナムのコーヒー生産の中心地 [2011年03月09日(Wed)]
3月9日(水曜日)
ハノイから同行してくれているカバントランさんと一緒に、ダクラク省の省都バンメトートに向かう。彼が主宰する国際NGO「HealthEd」が日本のNGO「AEFA」と組んで実施中の学校建設支援事業の対象校の一つ、ティントゥオン小学校はバンメトートの郊外にある。
ニャチャンから目的地までは凡そ220キロとのことだが、今回は現地で宿泊せず、今日のうちにニャチャンに帰ってくる予定だ。ダクラク省までは車で、片道4、5時間かかるということなので、今朝は朝食も取らずホテルを朝7時に出発、海岸沿いに国道一号線を北上する。
40キロほどで、高原地帯へ向かう国道26号線との分岐点、ニンホアの町に到着。フォーの朝食で腹ごしらえし、26号線を西へ向かう。たちまち険しい山道になる。比較的最近、山の斜面を強引に切り開いて道路の拡張を行ったらしく、道幅こそ余裕はあるが、路面には山から落ちてきた大小さまざまな岩がころがっている。帰りは、暗くならないうちにここを通り抜けねば危険だ。


                       <道路際にはコーヒーの樹が白い花をつけていた>
山道を抜けると、車はなだらかな高原地帯に入った。ダクラク省だ。道路際に、何やら白い花を一杯つけた潅木の林が続く。コーヒーの花だ、という。この辺りは、ベトナムのコーヒー生産の中心地なのだそうだ。
ベトナム戦争中、バンメトートには南ベトナム軍の重要な基地がおかれており、北ベトナム軍との間の熾烈な攻防戦で知られているが、もともとは、フランス植民地時代以来のコーヒー生産地。近年、ベトナム産コーヒーの品質は改良され、ベトナムはブラジルに次ぐ、世界第二位のコーヒー輸出国に躍り出ている。
コーヒーブームはこの辺りの経済改善に大きく貢献しつつあるようだが、もともと、カンボジアと国境を接するこの地域は「セントラルハイランド(中央高地)」と呼ばれるベトナムでも開発の最も遅れた場所だ。少数民族が多く住み、一般に、外国人の立ち入りは規制されている。ハノイ在住の日本のマスコミ関係者からも、マスコミの取材許可がなかなか下りない、と聞いている。
カバントランさんによれば、特に最近は、中東情勢もあり神経質になっているのだそうだ。当然、今回の我々の入域も予め当局の許可が取ってあるとのことだったのだが、、、。
携帯電話で何やら連絡を取っていた、カバントランさんが、突然焦り出す。入域許可を得ていた筈なのに、地元当局の担当者に連絡が届いていない、というのだ。あちこちに電話を掛け捲って漸く、バンメトートの教育部と連絡がつき、手配が間に合った、と聞き一安心。


               <エデ族の学校 ティントゥオン小学校>
ニャチャンを出発して4時間半。車は思った以上にこざっぱりした町に入った。ダクラク省の省都バンメトートだ。幹線道路に沿って、何やら、沢山の幟や看板が並べられている。カバントランさんによると、これらは総て数日後に始まるコーヒー祭りを知らせるものだとか。
今年でまだ3回目だというが、年々、規模が大きくなり今年は国内のみならず海外からの招待者も入れて数千人が参加する一大イベントなのだという。そのためにバンメトートへは、航空機の臨時便まで飛ぶという。その煽りで、近隣の飛行場では定期便が欠航になるという事態が生じているのだとか。
はて、入域許可が必要なセントラルハイランドと、コーヒーフェスティバルは両立しそうにないように思えるが、この時期だけは規制の対象外ということなのだろうか。


                <子供たちがエデ族の踊りを披露してくれた>

バンメトートのレストランで昼食。省政府のお役人二人が加わる。食事を終えて、全員一緒に車で45分ほど離れたチョンアナ郡ドレイサップ村へ。二人は我々の監視役ということのようだ。
ここのティントゥオン小学校は、HealthEdが日本財団の資金で3年前に建てかえたもの。1年生から5年生まで5学年、生徒総数324人の殆どが少数民族エデ族だ。
彼らの母国語はエデ語だが、小学校に入学する前の2年間の幼稚園生活を通じて標準ベトナム語を身につける、という。
AEFAのアレンジにより神奈川県の保土ヶ谷中学校と姉妹校提携をしている。職員室には日本の子供たちから送られた書道や絵入りのポスターなどが飾ってあった。


                               <授業を受ける子供たち>
ドレイサップ村の人口は約9000人。村を構成する9つの地区のうち、4つが少数民族エデ族の地区。うち、二つの地区はハンセン病のコロニー。昔、フランス人宣教師が、近隣地区からハンセン病患者を集めて、クリニックと一緒に開設したものだとか。この小学校の子供たちの親は総てこれらのハンセン病の元患者なのだそうだ。
ティントゥオン小学校の視察を終え、子供たちの両親が住む村を訪ねた。65歳だというある村人は、35年前にここから40キロ離れた村からこのクリニックに連れて来られたのだ、という。もう何年も前にハンセン病は完治してクリニックを出たが、ここに住み着いている。「何故って、ここではみんなハンセン病の元患者なので、白い目で見られることが余り無いから」なのだそうだ。

村人と話したりしてすっかり遅くなってしまった。間もなく4時になろうとしている。
 

暗くなるまでに山道を通り抜けて、ニャチャンに戻らねばならない。運転手も車を飛ばす。高度差は900メートルという山道に差し掛かったときにはとっぷり日は暮れてしまっていた。冷や冷やしながら下り坂を走り、国道一号線との合流点で遅めの夕食。ニャチャンのホテルに戻ったのは、夜の9時過ぎ。
              <教室には靴を脱いで、、、>

7時 ホテル出発                
8時 朝食
11時半 ダクラク省政府教育部関係者 
14時 ティントゥオン小学校訪問
15時半 ドレイサップ村訪問
19時 夕食  
21時 ホテル帰着
バブーニヤへ7時間の旅 [2011年01月12日(Wed)]
1月12日(水曜日)
前夜はなぜか寝つきが悪く、殆ど眠らないうちに目覚ましが鳴る。
朝5時半。まだ外は暗い中を梅村君、ラクシ副会長と3人でセワランカ財団の車に乗り込み出発。途中、朝食の場所でウデニさんも合流、4人になる。
今日の目的地は北部の旧タミル支配地区にあるバブーニヤ。内戦終結後、タミル避難民を収容するための大規模なキャンプが設置されていたところだ。日本財団は、避難民の中に多数見られた四肢切断者に義手や義足を処方するための臨時診療所の設置を、スリランカ政府から要請され決定したのだった。
ところが、その後、欧米の批判を受けて、スリランカ政府は国内避難民の帰還作業を急いだために、臨時診療所の必要性はなくなってしまった。そこで、日本財団は事業を担当する国際NGOカンボジアトラストと協議の結果、臨時診療所ではなく、バブーニヤとトリンコマレの二箇所の中央病院内に恒久の義肢専門クリニックを開設することを決定。昨年、11月に第一弾としてバブーニヤのクリニックが開設されたのだ。
今回は、その現場を初めて訪問することにしたもの。


               <あちこちで冠水した道路に遭遇するも通行は可能>

シンハリ地区最北の古都、仏教遺跡で有名なアヌラーダプラが近づくにつれ洪水の被害が目立つようになる。あちこちで道路の一部が冠水しているが、幸い通れないほどではない。むしろ、一段高く作られた道路の周辺での被害が大きいようだ。完全に水没した田畑や、水に漬かった民家が点在する。
よく見ると、足元のみ水に漬かっているように見える、やしの木やバナナの木の幹や枝にも、高さ2メートルくらいまで乾いた泥がついている。ピーク時にはその辺りまで泥水に漬かっていたのであろう。木の前の民家の住民はどこかにでも避難したままなのか、人の気配がしなかった。
さらに北上し、バブーニヤに向かう。標識などの表示にタミル文字が目立つようになった。仏教寺院の代わりに、ヒンズー教寺院も多くなる。タミル人地区に入ったのだ。


              <水が退いた後も人の気配がしない民家>

11時45分、セワランカ財団バブーニヤ支部に到着。コロンボを出発して、途中、朝食に45分費やしたので、250キロの移動にかかった時間が5時間半ということになる。
今夜はここのゲストハウスに泊めてもらうのだ。宿舎として割り当てられた室に自分の荷物を置き、一休みして昼食をとることにする。身体の調子が悪い。寝不足で長時間、車の冷房に当たったために、どうやら風邪を本格化させてしまったらしい。
身体の節々が痛む。こんなところで風邪をひいている訳には行かないと、慌てて手持ちの風邪薬を飲み、ベッドに潜り込もうとして気が付いた。ここでは、ベッドには掛け布団も毛布も準備されてはいないのだ。しかも、シャワーは冷水のみ。どうしよう。昼食の時にウデニさんに相談、夜は、特別に毛布とバケツに湯をもらうことに。
今日の午後は、バブーニヤ中央病院の義足クリニックの視察と、近隣2箇所の小学校校舎の修復予定地訪問のスケジュールが入っている。抵抗力の衰えているときの病院訪問は避けたほうが無難なのだが、クリニックは昨日、メアリーさんから佐々木さんが我々の訪問に備えて一足先に入ってくれている、と聞いたばかり。キャンセルする訳には行かない。そこで、学校訪問だけ、一箇所に減らしてもらうことにした。 

              <バブーニヤ中央病院に開設された義肢クリニック>

バブーニヤ総合病院で佐々木さんに説明を聞く。ここの義肢クリニックは準備段階では日本人の義肢装具のスペシャリスト佐々木さんが責任者を務めてくれていたのだが、彼は今はコロンボにある義肢装具士養成校(SLSPO)の教務主任に移動し、代わって所長になったアイルランド人の専門家のサポート役に就任。その下で、SLSPOの2人のタミル人卒業生とカンボジアのCCSPOからの2人が義肢装具士として働き、それを、4人のテクニシャンが支える、という体制。2ヶ月前に開設されたばかりだが、既に、97人もの患者が、自分の身体に合わせた義手義足が出来上がるのを待っているという。患者の大半が内戦による犠牲者だそうだ。
元々、日本財団が7年前SLSPOの開設を支援したのは、当時、実現したばかりの停戦を恒常的なものにする一助にと考えたからで、多数派のシンハリ人だけではなく、タミル人にも門戸を開いた教育機関として発足させることを支援の絶対条件とした経緯がある。それだけに、昨年SLSPOを卒業したばかりのタミル人2人が早速、自分たちの出身地で活躍してくれる、というのはとても嬉しいことであった。
さらに嬉しい再会があった。この病院の院長のサティアモルティ博士である。タミール人の彼は、内戦終結のぎりぎりまで、この地で診療活動を続け、一時は、反政府メンバーと間違えられて制圧した政府軍に拘束されたというのだが、その後、誤解も解け、むしろ、身の危険も顧みず、医療を行ったということで英雄と評価され、この中央病院の院長に抜擢されたのだそうだ。佐々木さんが言うには、彼は私を知っていて、今回会えるのを楽しみにしているというではないか。
聞いてみると、彼はSLSPOの最初の理事会のメンバーであった。私が、無理やり頼んで、スリランカ保健省に認めてもらった、タミル側を代表する立場の理事だったのだ。その後、停戦が失効し、内戦が悪化する中で、彼はSLSPOの理事会に参加することも出来なくなり、音信不通のままになっていたのだが、、、。改めて御礼を言われ、私は彼との再会を喜んだのであった。


                <マライヤディトハクラム小学校跡地>

バブーニヤ中央病院を後にして、車で走ること約40分、マライヤディトハクラムという村にある小学校跡地を訪問した。「跡地」というのは、ここに残っていたのはコンクリートの塀の一部と数本の柱だけ、周りは草ぼうぼうで全くの廃墟となっていたからだ。この学校は元々は1880年に創立というから130年の歴史を持つ。この廃墟になった校舎は内戦勃発前の1970年に建てられたものだが、1990年に破壊されたままだという。
我々が来るのを知って村人が集まっていた。全員タミル系だ。手作りのお菓子とジュースで歓迎してくれる。村人たちが口々に言う。自分も、父親も、おじいさんもこの学校で学んだ。内戦前は450世帯もあった村も、内戦の結果、2002年の停戦当時には135世帯にまで落ち込み、今は、僅か25世帯になってしまった。
戻ってきた人も、学校がなくなってしまったために、子供を5キロも離れた村の学校に通わせている始末。学校がないため疎開したまま、村に帰れないという人も大勢いる。もし、この学校が再建されたら、きっと沢山の人が戻ってくる。村が再建できる筈だ。
セワランカの担当者が、日本財団の支援が決まったので、新学期の始まる5月にも校舎の再建が完成するだろう、というと、村人たちは喜んだ。
申し訳ないと思ったが、体調が優れないのでもう一校予定していた視察を取りやめ、セワランカ財団バブーニヤ支部に戻ることに。車に乗る直前に、訪問を予定していた先の校長がオートバイに乗って現れた。お詫びを言う私に校長先生からはお礼の言葉。


                <野生の孔雀に遭遇 吉兆だ>

帰り道、路上に大きな糞。ウデニさんが野生の象の糞だと教えてくれる。さらに行くと、我々の眼の前を野生の孔雀。この辺りは誠に野生の動物の宝庫だ。
ちなみに、スリランカでは孔雀は吉兆なのだそうだ。何か良いことがあるのだろうか。
セワランカ財団のゲストハウスに戻る。、夕食の前に、少しでも身体を休めようとして、いつもの風邪薬に加えて強壮剤のガラナ粉末など手持ちの薬を総動員して横になるが眠つけない。
ゲストハウスのプールサイドでの夕食は、佐々木さんがクリニックのタミル人義肢装具士と一緒に来てくれたほか、バブーニヤ方面軍司令官や米国人の援助関係者 南アフリカ出身のホテル・レストラン・オーナーなど大勢の人たちと一緒。セワランカ財団ハルシャ会長の多彩な人脈にはいつも感心させられる。セワランカにしては珍しくビールが振舞われたので、飲んでいるうちに風邪はどこかへ行ってしまったように思えてくる。
今夜は早めに、特別にもらったお湯で身体を拭いて、借りた毛布に包まって、睡眠薬を飲んで就寝だ。

 
5時半 ホテル出発
6時45分 朝食
12時45分 セワランカ財団バブーニヤ支部
13時半 バブーニヤ総合病院義肢装具クリニック訪問
15時半 マライヤディトハクラム小学校訪問 
17時半 夕食
大統領官邸で校舎修復プロジェクト調印式 [2011年01月11日(Tue)]
1月11日(火曜日)
朝の新聞によると水害の被害は更に拡大しているようだ。9つの州、22万世帯83万人が被災したとある。死傷者37万人、うち死者数は13人に拡大していた。家屋の損壊は約5000戸。しかも、天気予報によると北部地方の雨は小休止のあと、明日から再び強くなる見通しとか。
朝9時半、義肢装具士学校(SLSPO)プロジェクトのパートナーである英国のNGOカンボジアトラストのメアリーさんが、笹川ホールを運営するササカワトラストの会長で義肢装具士学校(SLSPO)理事のダヤシリさんらとやって来る。ホテルのロビーで、SLSPOのスリランカ政府への移管問題や、2ヶ月前に開設したばかりの北部バブーニヤの義肢装具クリニックの状況などにつき説明を受ける。バブーニヤのクリニックへは私たちは明日訪問する予定なのだ。洪水による道路への影響は今日、SLSPO講師の佐々木さんが現地に向かうので情報が入る筈とのこと。


              <コロンボ市内をどんよりとした空が覆う>

その後、12時前に、ホテルでセワランカ財団のハルシャ会長と落合い、一緒に大統領官邸へ。北部での50校分の校舎修復プロジェクトの調印式に臨むためだ。この事業は昨秋、大統領の弟で大統領特別顧問でもあるバジル・ラジャパクサ経済開発大臣が日本を訪問した際、懇意の日本財団の笹川会長との昼食会が、外務大臣も出席して開かれた。その際に、バジル大臣から北部の旧タミル反政府軍支配地域での復興に協力を求められ、その際に浮上したアイデアだ。
本来なら、この調印式は、管轄の教育省かバジル大臣のオフィスがある経済開発省で行われるところだが、大臣の肝いりで格式のある大統領官邸が特別に選ばれたもの。


             <校舎修復プロジェクト調印式の行われた大統領官邸>

協定書の調印そのものは、教育長官、実施団体であるセワランカ財団のハルシャ会長、と私の3人がおこなったが、バジル大臣のほか、北部地域州のチャンドラスリ知事らが立ち会ってくれた。また、調印の後もバジル大臣は30分以上もの間、会場に留まり、色々内戦後の復興に向けた構想を語ってくれた。国営テレビや新聞なども取材に訪れた。
この事業はは北部のタミル人地域で、内戦により破壊されたままの50の学校の校舎修復事業を開始するものだが、進捗が順調であれば年内にも50校分を追加する予定である


               <大統領の弟バジル大臣も立ち会ってくれた>

ハルシャ会長によれば、一昨年の内戦終結以来、旧タミル支配地域を中心としたスリランカの復興に対しては、日本や欧米各国の政府、国連機関などや、国際NGOなどからの支援はあるが、そのテンポは極めて緩やかで、金額的にも2004年の津波の被災時などと較べて大変少ないのだという。ここには、内戦終結前後にスリランカ政府軍がタミル系住民に対して行ったという所謂人権侵害問題が影を落としている。
一方、こうした隙に、中国が積極的にスリランカ支援に乗り出している。中国は、鉄道の近代化や高速道路の建設などインフラ建設に積極的で、過去3年ほどはスリランカの最大支援国は中国が、それまでの日本に取って代わるに至っているという。
大統領の出身地であるハンバントータでの飛行場建設、大規模港湾設備の建設など、政治的な臭いのする大規模なものが多いが、アフリカなどでの支援事業同様、建設労務者も中国から送り込んでおり、その数は3000人に達したと噂される。ただ、それら中国人は事業現場に作られた専用の住宅に共同生活しており、人目につくことは少ないのだという。


                <すっかり落ち着きを取り戻したコロンボ市内>

明日からは、校舎修復事業の予定地などを見るため、車で北部タミル地区へ向かう。国道9号線を縦走し、北部の旧タミル支配地区の町バブーニヤで一泊し、最終的には更に北上して、スリランカ本島最北の都市、キリノッチを目指す。
コロンボからの総距離は350キロ程度だが、高速道路の無いスリランカでは10時間近い行程だ。また、キリノッチなど旧タミル支配地区は一般の通行が認められておらず、特別の許可を受けることが必要だ。そのため、検問所もあるので、余計に時間が掛かることになる。明日は、早朝4時半起きで、5時半出発の予定だ。


             <明日からはスリランカ本島最北の町、キリノッチへ向かう>


8時 朝食                
9時半 カンボジアトラスト・メアリースコット代表、保健省アミル氏 
12時 ホテル出発
12時10分 大統領官邸到着
12時半 学校プロジェクト調印式
13時半 昼食
17時45分 ホテル出発
18時 調印式記念夕食会
サイクロン・ナルギスの被災地での学校建設落成式典、大臣の参加は選挙運動? [2009年10月26日(Mon)]
10月26日(月曜日)

     <完成したばかりの教室で落成式典>

昨年5月にミャンマー南部を襲ったサイクロンから一年半。ナルギスと名付けられたこのサイクロンは14万人の死者を出したほか、80万の家屋を破壊、校舎4000棟が損壊し、水牛などの家畜にも甚大な被害が出た。
ミャンマー政府は、サイクロンの被災地の再建のために、地区毎に閣僚による担当制を導入。今年の2月に、首都ネピドーで辺境開発(NATALA)省のテイン・ニュン大臣と笹川会長が面談した際、大臣からイラワジ州の彼の担当地区での校舎再建の依頼を受けた。日本財団は検討の末、3校の建設を決定、シャン州での学校建設を担当しているNGOセイダナーに実施を命じた。
このほど、これらの校舎が完成、今回の置き薬配布開始式に合わせて現地で完工式を行うことになった。驚いたことに、大臣は3校それぞれでの式典に総て出席するというではないか。

     <我々を歓迎して大勢の人たちが集まってくれた>

朝6時、ホテルを出発。セイダナー代表の白木さん、ヤンゴン事務所の責任者和田さんやスーさんらに案内されて一路西へ。イラワジ河を越え被災地に向かう。途中で、辺境開発大臣らを乗せた軍用車両と合流、何台もの車を連ねたコンボイになって田舎の未舗装の道を進む。
大臣がわざわざやって来るというので、現地は大変だったようだ。最初の学校では、それまで沼のようなぬかるみを蛭に血を吸われながら歩かざるを得なかったという悪路が、俄か作りの盛土で車でも通れるようにしてあった。尤も、我々の乗った小型バスではそこまでは入れず、ジープを改造したミニバスに乗り換えを余儀なくされたが。また、学校への道の両側には、竹を組んで白いペンキを塗ったフェンスが作られていた。


     <式典のために作られたアーチ>

ミャンマー軍政の閣僚は殆どが軍人。辺境開発大臣は現役の大佐。そのためか、辺境開発省の役人が作った式典のスケジュールは分刻みで細かくびっしりと決められていた。そして、最初の小学校での式典は予定通りぴったり8時に始まった。集まった大勢の住民たち。すると、気難しい人柄で知られる大臣が住民たちに愛想よく手を振るではないか。

     <記念碑の序幕はなんと電動式、操作はリモコンで>

しかし、2番目の学校に移動する前に我々がトイレに行ったりした上、途中でスコールに見舞われたりしたため、進行は10分ほど遅れる。
と見るや、2番目の学校でのスケジュールは途中で一部カット。先を急ぐよう指示される。3番目の学校に着いた時には再び予定時間ぴったりに戻されていたのにはびっくり。
実は、ここは大臣の出身地。来年10月実施とも言われる総選挙には、大臣や副大臣クラスが立候補するのではないかとの噂もある。忙しい大臣が、3校総てを訪問し、住民たちに愛想を振りまいていたのは選挙運動だったのかも。


     <住民に手を振る辺境開発大臣>

6時 ホテル出発
8時 シャンスーセインバヤー小学校訪問
10時 タニダウンワートゥー小学校訪問
11時 マウービン第3小学校訪問
13時 昼食会
17時半 日本大使
19時 Wilson How氏らと夕食
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