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大野修一(日本財団)
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犬山城 (01/18)
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日系スカラー「夢の実現プロジェクト」ブラジル面接試験 [2011年10月16日(Sun)]
10月16日(日)
                    <今日は朝から雨だった>

やはり、日本と真逆の南米の時差にはなかなか身体が適応してくれない。よく眠れず、うつらうつらする内に朝になった。ホテルの部屋の窓から外を見ると、雨が降っていた。私は晴れ男で、出張中に傘を使うことはめったに無いのだが、今日は覚悟を決めて、傘を持って出掛けることに。
「夢の実現プロジェクト」のブラジルでの面接試験会場は日伯文化福祉協会(通称:文協)だ。ブエノスアイレス同様に、ここでの面接予定者も9人、うち女性が7名とここでも女性上位だ。ここでも約半数がポルトガル語の通訳を通じての面接だ。一人当たりの面接時間は約20分。
                  <面接会場が設けられた日伯文化福祉協会ビル>

ここでも、ブエノスアイレス同様、多様で個性的な受験者が集まった。希望する留学分野も、大学院での研究から美容学校まで様々。これはこの奨学金事業の特徴であろう。やる気のある大勢の若者のうちから合格者を絞り込むのはいつもながら至難の技。今年の合格者数も例年通り10名以内を想定していたが、この分では、東京やブエノスアイレスでの面接者の中から選抜する人の数を、最終的に、10名の枠に収めるのは難しそうだ。
面接を終えて、一旦、ホテルに戻り、2時にブラジル名物、シュラスコ料理のレストランに集合。そこには、ブラジルに帰国している日系スカラーのOB、OGのうち、都合のついた3名が集まってくれていた。造園技師のネリアさん、大学教員のセイジさんと新婚の奥さん、和太鼓指導者のフェルナンドさんだ。フェルナンドさんは何とバスで8時間もかけて我々に会いに来てくれたという。感激だ。3人共に、日本で獲得した知識や経験を活用して、それぞれの分野で活躍してくれているだけでなく、卒業生同士が仲良く、今も連絡を取り合っていることが分り大変うれしかった。
                  <日系スカラー在ブラジルOBとの昼食会>

私は、今日の夕方の便で帰国せねばならない。仕事でもう一泊すると言う日本財団職員の梅村君、この事業の実施団体になってくれている海外日系人協会の中井さんと別れて、菊池さんの車で空港へ。南米の春の花であるジャカランダが雨の中、薄紫の花を咲かせていた。
                   <ジャカランダの花が咲いていた>

8時15分 ホテル出発
9時 ポルトガル語圏応募者面接
14時 日系スカラー在ブラジルOBとの昼食会
18時 ホテル出発
21時50分 サンパウロ発
日系スカラー「夢の実現プロジェクト」スペイン語圏面接試験 [2011年10月14日(Fri)]
10月14日(金)
昨夜ワシントンを飛び立ち、更に、10時間のフライト。現地時間の14日朝、ブエノスアイレスに到着。日本とアルゼンチンの時差は12時間。ということは、日本と夜昼が真逆になっており、こちらの朝9時は日本の夜の9時と言うこと。日本を発って30時間以上、その間に夜と昼が逆転しており、眠いのか眠くないのか判然としない。ただ、体がだるく、疲労感が残る。
                 <南米は春真っ只中 花が咲き乱れる>

空港には在亜日系団体連合会の米須会長がわざわざ来てくださっていた。一足先に現地入りしていた財団職員の梅村君も一緒だ。日本と季節が逆の南米は今が春。今日は快晴。雲ひとつ無い空は真っ青。街には桜より鮮やかなピンクの花が満開であった。ラパチョという名前だそうだ。私も知っている南半球の春の花、ジャカランダの薄紫もあちこちに見える。美しい風景に疲れが癒される。
ホテルにチェックインし小休止のあと、日系人奨学金選抜のための面接会場へ。ここ、アルゼンチンの日系人口は3万数千人と言われるが、その大半、7、8割が沖縄出身者だそうだ。そこで、今回の面接は沖縄出身日系人の活動の拠点、在亜沖縄県人連合会会館をお借りして行うこととなった。
                <面接会場となった在亜沖縄県人連合会会館ビル入り口>

「夢の実現プロジェクト」と名付けられたこの日系人奨学金事業は、私が日本財団に入ってまもなく、当時の曽野綾子会長の提案で始まったもの。当初の5年間ほどは、私が毎回、南米に出張し、全候補者を面接していた。その後、事業が軌道に乗ったのを境に、この2年ほどは部長以下に任せて出張することもなかったのだが、今回、久し振りに現地に行ってみることにした。
南米の日系人は全部で約200万人程度と見られるが、その過半を占めるブラジル人は、ポルトガル語が国語。それに対し、ペルー、アルゼンチン、メキシコなどの言語はスペイン語なので、日系人奨学金の面接はブラジル人と、その他スペイン語地域の受験者に分けて行っており、会場は、通例2ヶ所。ポルトガル語通訳を用意して行うブラジルのサンパウロの他、スペイン語圏の受験者に対しては、開催地は毎年異なり、各国を順番に廻っている。今年は、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスとなったもの。
今年の応募者総数は90人。書類選考によって面接対象者を絞り込んだ。今日、アルゼンチンで行うスペイン語圏からの面接予定者は9人。このうち、5人が通訳の同席を希望した。この奨学金を支給された、いわゆる「日系スカラー」はこれまで全部で8期生60人。うち、半分の約30人が既に卒業。残りの約30人がまだ日本留学中である。
                 <沖縄県人連合会会館の文化活動案内板>

面接を終えて、米須会長に、会館内を案内していただいた。面接会場のすぐ隣は、日本料理店。「ゴーやチャンプルー」のような沖縄料理メニューもあったが、中心はオーソドックスな和食メニュー。お客さんは非日系人が大半だとか。
会館の各教室では、現地の人を対象に、日本語教室や合気道などの武道や、折り紙、生け花などの日本文化に関連した講座が毎日のように開かれ、様々な文化活動が活発に開かれていると言う。我々が覗いた階上のホールでは、何と、太極拳の教室が開かれていた。参加者には日系人の姿は無く、現地の人ばかり。日本文化や日本に直接関連したものに限定することなく、東洋文化全般に関する現地の人の関心によって、会館の活動が支えられているようであった。
ホテルに戻る途中、面白い形の木を見つけた。お腹の突き出た人間のように、木の幹の胴体部分がぷっくりと膨らんでいる。米須さんによると、この木の名前は、何と「酔っ払いの木」。なぜか親しみを感じてしまう。
夜は、在アルゼンチン日系団体連合会の幹部の方とアルゼンチン料理店で、美味しいアルゼンチンワインと牛肉を頂きながら、意見交換。日本財団の支援で建てられた困窮日系老人ホームの運営状況など、連合会の活動上の問題点などの話を伺った。
                    <メタボ体型がユーモラスな「酔っ払いの木」 >

9時40分 ブエノスアイレス着
14時 スペイン語圏応募者面接
19時 在アルゼンチン日系団体連合会主催夕食会
日本国籍を希望する残留日系人の家を訪ねる [2010年03月05日(Fri)]
3月5日(金曜日)
朝、7時45分ホテルのロビーに集合して、ワゴン車に乗り込む。程なくして、車は大きな建物の前に停まる。そこが、フィリピン日系人会事務所の入るビルであった。日系人会が経営する学校もここにある。大きな中庭のようなスペースに案内される。両サイドには沢山の椅子が並べられ、正面にはステージがあり、そこにも椅子が並んでいる。

     <日系人学校生徒によるお神輿も登場>

予定の時間を大分回ったころ、日系人協会診療センターの開所式典が始まった。来賓の挨拶などを挟んで日系人学校生徒による鼓笛隊の演奏や、お神輿を担いでのパレードなど、賑やかな式典であった。
式典の後、診療センター正面玄関に移動してテープカット。そして、診療センター内部のお披露目があった。診療センターは3階建て、延床面積987平米の施設。日本財団が約5000万円の建設費を全額負担した。一階には、日系人会直営の臨床検査室と薬局、2階と3階のスペースは一般の医師に貸し出されることになっている。既に、歯科や内科など一部は開業が始まっているが、大半はこれから。産婦人科や精神科などまで様々な分野のクリニックの開業が予定されており、日系人のみならず、一般のダバオ市民の医療事情改善に寄与することが期待されている。


     <新築なったフィリピン日系人協会診療センター>

午後、私は、「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」のスタッフである紫垣さんに案内してもらって、ダバオ市内から20キロほど北のカリナンという町のマラゴス地区に、日系人二世と言われながら、尚、日本政府の認定が得られていないという老婦人に会うために出かけた。
「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」は、2003年8月、ダバオで開催された日本人移民100周年記念祭をきっかけに設立されたNGOである。戸籍がなかったり、戸籍の所在がわからない日系人に、様々な証拠をもとに、家庭裁判所の許可を得て新たに本籍を設定し、戸籍を作成する「就籍」という活動を中心に、フィリピン日系人のアイデンティティの調査、日本国籍取得等にかかわる法律問題の解決、生活の向上、教育等の支援に関する事業を行っている。(http://pnlsc.com/pnlsc/index.html) 
日本財団は2006年度から同センターの活動を財政面から支援してきている。4年を経て、これまでに230人の身元が判明、うち、48人の戸籍取得に成功している。このセンターの中心人物として理事長を務める河合弘之弁護士と日本財団は、中国残留孤児の就籍事業以来のお付き合いである。
河合さんは30人もの弁護士が所属する大手法律事務所を運営する敏腕のビジネス弁護士。しかし、満州国時代の新京(現在の長春)で生まれ、引き揚げ中に弟を亡くしたという経験を持つ。「一歩間違えば、自分も中国で孤児になっていた」との思いから、中国残留孤児の就籍支援を始め、約1300人もの戸籍取得を実現させた。今度は、フィリピン日系人の支援に乗り出したという訳だ。


    <日系人2世だという老婦人の家>

ダバオ市内から40分ほどでカリナンという町に着く。そこから、小さな未舗装の道を15分ほど進み、マラゴスという地区に到着。みすぼらしい家屋が林の中に散在する。その中の一軒が目指すイルネアさん、日本名を「さかがわとみこ」さんと名乗る76歳の老婦人の家だった。「とみこ」さんのお父さんは、「みつひろ(もしくは、みちひろ)」。マニラ麻作りの農民だったが、戦争中、軍属として埠頭建設に駆り出され、空襲により爆死した、という。しかし、父親に関する戸籍などの証拠書類は発見されておらず、彼女の希望にも拘わらず、日本の国籍はいまだ与えられていない。
周辺には、果樹がぱらぱらと見られる他は、田圃どころか畑のような耕作地も見当たらない。どうやって生計を立てているのだろうかと尋ねると、「時々日雇いの仕事がある他は、そこらの樹になる果物を売ったりして暮らしている」と、イルネアさんの亡くなった息子の嫁だという婦人が答えた。殆ど無職に近いらしく、着ているものは粗末だが、口ぶりは明るく、その表情にも暗さは微塵も見られない。
紫垣さんに通訳してもらって、我々が「とみこ」さんと話をしているところへ、「かいぬまみちこ」さんと称する、もう一人の老婦人が現れた。「さかがわとみこ」さんと同じ76歳。二人は、国民学校のクラスメート。「みちこ」さんのお父さんの戸籍は山口県で見つかったが、そこには、「みちこ」さんの名前の記載はなく、彼女も戸籍を得られていない、という。


    <小学校でも一緒だったというもう一人の日系人老婦人と>

二人は、日本語はいくつかの単語を除き殆ど忘れてしまったが、国民学校で習った唱歌や軍歌を今も覚えているという。我々の求めに応じて、か細い声で、「見よ東海の空明けて、旭日高く輝けば」で始まる愛国行進曲と、「支邦の夜」を歌ってくれた。渡辺はま子が歌い、軍人に人気のあった流行歌である。我々の周りには、いつの間にか、大勢の村人が集まり、大人しく我々のやり取りに耳を傾けていた。
ふと気になったので、「とみこ」さん達に、「自分たちが日本人の血を引いていることを村人にいつまで隠していたのか」と、聞いてみた。すると、「この村では皆が最初から知っていた。日本人であるからと言って苛められることもなかった」という答えが返ってきた。彼女らの話を聞いて、私は二人が日本人であることを確信した。
「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」の活動により、これまでに、フィリピン日系人200人以上の身元が判明したとはいえ、今なお「とみこ」さん達のように、身元を示す書類が不備で、戸籍獲得の希望が叶えられない残留2世が約800人いる。彼らは高齢で、次々に亡くなりつつある。身元調査、戸籍回復が急がれる。


    <「サカガハトミコ」とカタカナで自分の名前を書いてくれた>

7時45分 ホテル出発
8時半 フィリピン日系人会診療センター開所式
13時 ホテル出発 カリナン県へ
14時 マラゴス村日系人老婦人訪問
14時45分 フィリピン日本歴史資料館訪問
15時45分 ダバオ開拓の父、太田恭三郎慰霊碑参拝
16時 日本人墓地訪問
19時 日本フィリピン企業協議会(JPIC)主催夕食会
フィリピン残留日系人の中心地ダバオへ [2010年03月04日(Thu)]
3月4日(木曜日)
朝11時、ホテルから歩いて数分のところにあるWHO/WPRO(世界保健機関西太平洋事務局)に伝統医療調整官のナラントゥヤ博士を訪問。暫く意見交換した後、上司のベケダム保健部門開発局長、同僚のサントソ薬務調整官らと昼食を取りながら懇談。伝統医療分野での日本財団とWHO/WPRO(世界保健機関西太平洋事務局)との協力の可能性について意見交換。
ベケダム局長は、日本財団の沿革やハンセン病などでの活動状況、また、モンゴル、ミャンマー、タイなどでの伝統医薬品配布事業や、ASEAN事務局と共同での伝統医療会議の開催など、特に伝統医療分野での活動については十分認識しており、高く評価する立場から、今後両者間の協力関係を深めて行きたいとの意向であった。そして、具体的な共同事業についてナラントゥヤ博士と検討して欲しいと述べた。ただ、彼が強調したのは伝統医薬品の有効性についての客観的学術的な検証データの必要性であった。WHOの立場で伝統医薬品の利用を推奨する以上、臨床実験データなどにより有効性と安全性が保証されたものに限定せざるを得ないとの考え方であった。
これは、WHO本部事務局の伝統医療ユニットが推奨している基準と異なる、非常に慎重な立場であるが、私は、彼らの協力を得ることで国際金融公社(IFC)など伝統医薬品に慎重な国際機関の協力を今後得やすくすることが出来ると考え、今後の協力に同意することにした。そして、ナラントゥヤさんとは来週、ベトナムから戻った後、もう一度マニラで時間を作って落ち合い、具体的な協力に向けた議論を続けることとした。


       <WHO/WPRO(世界保健機関西太平洋事務局)の正面入り口>

一旦ホテルに戻った後、ペニーさん、カーソンさんと合流、トーマスさんの車に乗り込む。約30分ほどで、マニラの北東ケソンシティーにあるイースト大学ラモンマグサイサイキャンパスに到着。ここは、フィリピン最大の私大といわれるUniversity of the Eastの一部。医学部、看護学部、理学療法学部などから構成される医学部門(正式名称はラモン・マグサイサイ医学センター=UERMMC)はここにある。
UERMMCはフィリピン共和国第3代大統領マグサイサイの名前を記念して作られた非営利の財団形式で作られたもの。イースト大学を構成する一部門だが、その運営はかなり独立しているそうだ。マグサイサイの胸像がセンターの入り口脇に飾ってあった。大変人望があり、国民に慕われていた大統領だったそうだが、飛行機事故で非業の死を遂げた。彼の名前を祈念して作られたマグサイサイ賞は、今では「アジアのノーベル賞」と呼ばれる権威ある賞になっている。


         <UERMMC入り口脇に立つマグサイサイの胸像>

ペニーさんの案内で、医学センター付属病院の理学療法クリニックを視察。そのあと、この敷地内に義肢装具学校を開設するという想定で、問題点のチェック。その結果、大学側が当初予定していた場所では、教室と作業実習所、診断室など総ての施設を収容するには不十分であることが判明。その他、カリキュラムについてもいくつかの問題点があることが判明。
そこで、これらは宿題とし、来週、私が再びベトナムから戻ってくるまでに、カーソンさんとペニーさんで週末などを利用して再検討してもらうことになった。
私は、ダバオで明日開かれる日系人会診療センターの開所式に出席して祝辞を述べなくてはならない。そこで、カーソンさんとペニーさんをクリニックに残し、トーマスさんの車で一人、空港に向かう。
飛行機は、一時間半余りのフライトで、フィリピン南端の島、ミンダナオの中心地、ダバオに到着。ダバオは、人口136万人。マニラ、セブ、に次ぐフィリピン3番目の都市である。

        <美しいダバオの街 後ろに海を望む>

空港で、日本からやってきた日系フィリピン人の国籍回復運動を支援するNGO「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」を主宰する河合弁護士らと合流。「フィリピン日系人会」のジュセブン・アウステーロ会長らの出迎えを受け、皆で宿泊先のホテルに向かう。
第二次世界大戦以前、ここダバオは、東南アジア最大の日本人入植地であったと言われる。(ここで言うフィリピン日系人とは、戦前の日本人移民などの配偶者やその子女を指す。近年増加している、日本滞在中のフィリピン人女性との間で生まれた日系二世は、新日系人と呼び区別されることが多い)ある統計によると、第二次世界大戦開戦当時、フィリピン在住邦人総数2.7万人に対し、ダバオだけで2万人が住んでいたという。
戦前、ダバオの日本人入植者の多くは、マニラ麻の生産に従事した農民と、マニラ麻を売買する商人たちであった。その後、日本人入植者が増えるにつれて、様々な職業の日本人が移り住み、日本人町が形成されていった。
しかし、日本人の父親が戦死したり、戦後、米軍の捕虜となったあと日本へ強制送還されたため、フィリピンに大勢の日系移民二世が残されることになった。彼らは、フィリピン国内での反日感情が強まる中で、多くの場合、日本人の子供であるという事実をひた隠しにして暮らしてきたという。
1980年代に入り、対日感情も少しずつ好転する中で、日本政府による日系人調査が始まったが、日本人の出自を示す書類を失ったり、自ら捨ててしまった人も多く、日系人と認定されなかった人が大勢いた。このころから、フィリピン各地で日系人組織が設立され、自らの互助と、身元や国籍などアイデンティティーの確認を求めて立ち上がり始めた。
現在、フィリピンには、フィリピン日系人会連合会のもと、17の日系人団体がある。そのうち、最大の会員数を擁しているのが日系3世のアウステーロさんが会長を務めるダバオの「フィリピン日系人会」。今も昔も、ダバオがフィリピン日系人の中心地なのである。


     <フィリピン日系人協会経営の学校に通う生徒たち>

ダバオの「フィリピン日系人会(PNJK)」は1980年設立。現在の会員数は約6,800名。自らも日系移民二世として、ダバオで生まれ、戦後日本に引揚げた内田達男さん(http://www.manila-shimbun.com/award131485.html)や、フィリピン日系人を雇用する企業の集まりである「日本フィリピン企業協議会(JPIC)」(http://www.p-jpic.com/05kyogikai.html)など、様々な個人や組織による資金援助により活発な活動を展開してきている。
特筆されるのは、日系人子弟のみならず、一般のフィリピン人子弟も受け入れる日系人協会経営の学校群である。幼稚園に始まり、小学校、中学校、高等学校までの一貫校から、2002年には「ミンダナオ国際大学」という大学まで作ってしまった、というから驚きである。学生総数1800人。うち、大学が300人。


       <ダバオ日系人会が作った国際大学>

11時 世界保健機関(WHO)西太平洋事務局訪問
14時 イースト大学ラモンマグサイサイ校理学療法学部訪問
19時30分 マニラ発
21時20分 ダバオ着
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