渋滞対策の切り札は首都ジャカルタの遷都? [2010年08月31日(Tue)]
8月31日(火曜日)
早朝4時、スマトラ島のパレンバンへハンセン病施設の視察に出かける会長一行を見送った。 こちらのマスコミには、一昨日の日曜日に突如400年ぶりに噴火したと言うシナブン火山のことが大きく出ている。昨日早朝にはさらに大きな噴火があったという。地元では2万9000人もの人が避難。国内線の飛行機の運航にも大きな影響が出ているとか。 シナブン火山のあるのは北スマトラ。大きな島でパレンバンとは数百キロは離れているとは言え、会長らの乗った飛行機の運航に差し支えなければ良いがと心配。 朝8時、ASEAN事務局のラジャさんがホテルにやって来てくれ、朝食を取りながら、二人で打合せ。障害者公共政策大学院や、ASEANと共同で行う障害者フォーラム、伝統医療会議、ASEANオーケストラのことなど。 <噴煙を噴くシナブン火山> ラジャさんとの打合せを終えて直ぐ、私は慌てて、ホテルの車に乗り込む。昨日行ったばかりのインドネシア大学のドゥポック・キャンパスに再び向かわねばならない。約束の時間は11時。昨日のような白バイの先導も無く、ホテルの車で行くので1時間半は見ておいたほうが良いと言われたので、9時半前に出発することにしたもの。 高速道路を避けたのが幸いしたのか、車は比較的順調に進み、インドネシア大学に定刻より20分ほど早く到着。建物の入り口に、インドネシア手話辞書作成事業の責任者のウマル教授が待っていてくれた。 ラマダンなので昼間は水も絶っているとウマル教授。昨晩、笹川会長が会ったASEANのスリン事務局長もそうだが、オーストラリアの大学院で学んだと言う知識人の彼もモハメッドの教えを守っているのだ。そこで彼に合わせて私も飲み物の誘いを断り、早速、インドネシアの手話研究の現状を聞いてみる。 聾者の言語である手話を巡る問題は極めて複雑だ。インドネシアでも従来は聴覚障害者の教育は専ら健聴者によって担われ、教育の現場では手話ではなく、口話法と言われる読唇術と発声法の習得を中心とする教育が行われて来ており、手話の研究は殆ど進んでいないそうだ。 <インドネシア大学の手話事業の責任者ウマル教授> ウマル教授は、こうした中で、2年前からインドネシア聾者協会を通じて、聾者を週一回大学に招き、彼らを先生にした手話講座を開設。今では50人もの学生が聴講する言語学科でも一番人気のあるコースになっているという。こうした中で、香港中文大学で日本財団の支援を受けてアジア各国の手話辞書作り事業を進めている唐教授らのアプローチを受け、今年からインドネシア大学の言語学専攻の学生を香港に留学させ、一足先に香港入りして唐教授の下で手話言語学を学んでいる聾者の学生たちと、一緒にインドネシア手話の文法分析と手話語彙の収集に当たらせることになった。 ウマル教授の手話問題に対する深い理解と共感に驚き、なぜ、インドネシア諸語を専攻する通常の言語学者である彼が、手話の言語学に興味を持ったのか聞いてみると、彼にはおじさんとおばさんに聴覚障害者がいることがわかった。道理で手話問題や聾者の置かれた教育環境に対する深い理解を持っている訳だ。このような若手ながら素晴らしい学者がバックにいてインドネシア手話の辞書作り事業が始まったことを知り非常に安心した。 インドネシア大学からの帰途、暫くは電車の線路に沿った道が続く。大学の最寄り駅はインドネシア大学の学生と思しき若者で溢れていた。大学と市内を結ぶ交通機関としてはこの電車が一番速いのだとか。日本のODAで作られた通勤路線だ。そのため、この電車には日本の中古車両が使われているのだそうだが、ここでは暑さのせいか電車はドアーを全開にして走る。危険だと思うなかれ、ラッシュ時には屋根の上も乗客で一杯だ。運転間隔は結構短く頻繁にすれ違う。途上国としてはジャカルタは例外的に電車が活用されていると言えそうだ。 <ジャカルタの電車はドアを開けたままで走る> それにしても、ジャカルタの交通渋滞は深刻である。地下鉄やモノレールの建設計画が随分前から取りざたされてはいるが、一向に実現する気配はない。誰のアイデアか、市内の目抜き通りには、道路の中央分離帯の両側のレーンを少し周囲より高くし、そこをTransJakartaとわき腹に書かれた急行バスの専用レーンとしている。 ただでさえ一杯の道路が一レーン分狭くなる訳ではあるが、地下鉄やモノレールよりは財政負担は少なく、短期間で整備できるのでなかなかのアイデアだ。しかし、狙い通りの成果が上がっているわけではなさそうだ。というのも、このレーンではバス以外の車両の通行は禁止されているのだが、ラッシュアワー時には、そこを走る不届きな一般車両が少なくないからだ。 機内で読んだ英字紙「ジャカルタポスト」の、ジャカルタの渋滞についての記事を思い出した。それに拠れば、近年、ジャカルタの遷都論が取り沙汰されているのだそうだ。 ジャカルタの人口は既に959万人に達しており、住宅や交通システムなど都市としてのインフラの許容能力をはるかにオーバーしてしまっている。ジャカルタ特別州知事はつい最近、レバラン(ラマダン明けのお祭り)で地方に帰省する人たちに、地元の家族や友人をジャカルタに呼び寄せないようとのアピールを発令したほど。 しかも、ジャカルタには地震や、洪水などの天災もある。この解決策の切り札として首都遷都論が浮上しているのだそうだ。お手本は、ヤンゴンからジャングルを切り開いた新都市ネピドーに首都を移したミャンマー。ただ、問題はコスト。移転費用は数10億ドルはくだらないと考えられており、短時日で出来ると言う可能性は低そうだが、、、。 <道路中央の特設レーンを走る急行バス> 午後4時、ホテルの会議室にインドネシアのNISVAボランティアー、全7人の皆さんが、集まってくれた。市野さん、岡田さんのお二人はいずれも品質管理の専門家、ボゴールとチカランというところで現地メーカー相手に今年から頑張っていただいている。チビトンでバスのメンテナンスを指導されている小沼さん(日野自動車OB)、チカランで金型の指導をされている臼井(サンライズ工業(株)OB)のお二人には昨年6月以来の再会。 山木ご夫妻にはこれから、スマトラ島のメダンに赴任して日本語を教えていただく予定だ。栗橋さんは、現地でNISVAがお世話になっている在インドネシア日系人の組織「福祉友の会」で広報担当。日本財団のロゴ入りの中古の福祉車両の現地輸入でも活躍いただいている。「福祉友の会」事務局からも代表のヘル・サントソさん、マリコさん、そして、NISVAコーディネーターの谷川さんが駆けつけてくれたので総勢10人の方々と懇談。 そこへ、パレンバンでのハンセン病施設視察から日帰りで戻ってきたばかりの笹川会長が現れ皆さんにご挨拶。空港からの道路が混んでいたため間に合わないものと殆ど諦めかけていたのでこれはラッキーであった。 皆さんと急いで記念撮影をして笹川会長一行は日本大使館へ塩尻大使との面談のために出発。私は、一足先にシンガポールへ向かうべく一人ホテルタクシーで空港へ。 <NISVAボランティアー関係者の皆さんが忙しい中を勢揃いしてくれた> 8時 ASEAN事務局ラジャさん 9時半 ホテル出発 11時 インドネシア大学言語学部ウマル教授 16時 NISVAインドネシア関係者面談 17時 ホテル出発 20時半 ジャカルタ発 23時 シンガポール着 |