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大野修一(日本財団)
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最後の出張が終わる [2016年12月04日(Sun)]
12月4日(日曜日)
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<凍てつくハバロフスク上空>

土曜日の夕方、吉田君と別れた新田さんと私は、ホテルの前からタクシーに乗りシャルルドゴール空港へ。
そして、現地時間午後7時、日本時間では日曜日の深夜3時発の羽田行きに乗り込んだ。
いつものように、乗り込むと同時に腕時計の針を日本時間に合わせた。そして、食事も断り眠ってしまった。
11時間のフライトの後、無事羽田に到着。こうして、今年で最後、13回目の出張が終わった。
そして、これはまた私にとって日本財団での最後の出張が終わったことを意味していた。
私は12月18日付で日本財団を退任することになった。
このブログも、これにて一旦、終わりとしようと思う。
長い間有難うございました。
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<羽田も良い天気だった>

14時55分 羽田着







吉田稔君と会う [2016年12月03日(Sat)]
12月3日(土曜日) 
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<ホテルの前のクリスマスツリー>

昨日でパリでの予定していた行事は終わったが、夕方の帰国便まで少し時間がある。
この時間をどうやって潰そうかと考えていたところ、数日前に同行の新田さんにベルギーに出向中の日本財団職員、吉田君から連絡があった。時間があればブラッセルから私たちに会いに来ようと思うがどうか、と。
「勿論、大歓迎」と返事をしてもらい、今日の昼前に落ち合うことになった。
吉田稔君は最近まで日本財団で障害者公共政策大学院(IDPP)の担当として活躍してくれていた若手職員。自身も、聴覚障害者ということで手話通訳者の蓮池さんとコンビを組み、国際部では私の下で主に、障害者事業を担当してくれていたのだが、その後、審査本部に異動。そして、今年の10月から欧州議会事務局に出向している。
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<吉田稔君>

今回は、彼とホテルの近くで落ち合った後、私が贔屓にしているリブゴーシュにある中華料理店で新田さんと三人で昼食を取りながらブリュッセルの仕事ぶりを話してもらった。
吉田君は37歳。聴覚に障害はあるが、いわゆる口話法というテクニックを身に付け、よほど複雑な話でない限り、普通に会話し読唇術でこちらの会話も聞き取ってくれる。
彼が日本財団に入ってくれたのは8年前。障害者支援に力を入れる日本財団にとっては、障害当事者という立場から貢献してもらえる人を、ということで彼をスカウトしたのだった。
彼は幼いときに病気ににかかり、聴覚障害者になったが、ご両親の方針で口話法を身に付け、小中校とも一般学級で学んだ。しかし、小学校高学年の時、親に内緒で手話サークルに入り手話も身に着けた。さらに、米国で英語と米国手話を習い、ロチェスターにある国立聾理工学院(NTID)ではITを専攻。さらに大学院に入り公共政策で修士号を取ったと言う輝かしい経歴の持ち主。
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<シャンゼリゼの両側にクリスマスマーケット>

彼が席を置いているのは欧州議会事務局にあるハンガリー出身の自身も聴覚障害者というアダム・コーシャ議員のオフィス。主に使うのは国際手話だと言う。文書はハンガリー語が多くて読めない、とこぼしていたが楽しそうだ。国際部時代は、部内でもぴか一の素晴らしい英語力の持ち主で、彼の書く英文にほれぼれとしたものである。
昼食の後、三人でシャンゼリゼのクリスマスマーケット見物に向かった。人ごみに中に異常に背の高い男性を発見。
吉田君のNTID時代の恩師であるデカロ教授の言葉を思い出した。「障害は相対的な関係を表す概念に過ぎない。自分のようにとても背が低い人間は、米国では一種の障害者である」
1年半の出向という契約でこの正月は赴任間もないので帰国せずに頑張ります、と言う吉田君にエールを送りたい。
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<人混みの中に異常に背の高い人物を発見>

11時半 吉田稔君
12時 昼食
16時10分 ホテル出発
19時00分 パリ発
UNESCOで [2016年12月02日(Fri)]
12月2日(金曜日) 
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<今日のパリは曇り空>

目を覚まして時間を見ると、夜中の3時だった。しかし、日本はもう昼に近い11時だ。今日、UNESCOで発表する3つの事業の内容や狙いについて朝日新聞の市川さんに説明するメールをやりとり。
そうこうするうちに、目が冴えてしまったので、そのまま起きて仕事。
10時になった。道路を隔てて向かいの場所にあるホテルに、新田職員、チャパルさん、ジョンハニー弁護士と一緒に、行く。
ウィンミャッエー大臣一行と、会議室でミーティング。私の方で、トレーニングセンターの運営に向けて、社会福祉省と詰めておかないといけない幾つかの問題について説明し、大臣の意向を確認した。
私の後は、チャパルさんが彼の事業について大臣らに説明。
その後、ミャンマー大使が加わり、彼らの立ち会いのもとで、私がICT事業計画書にサイン。
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<ミャンマー大臣、大使立ち会いのもと、ICT事業計画にサイン>

その後、我ら三人だけで一足先にUNESCOへ。世界障害者デー記念のこの日、最初の行事は関係者を招いての昼食会。開始予定時間ぎりぎりの12時半数分前に会場となっていたUNESCOの来客食堂に行くとすでに、50-60人ほどの人でテーブルはほぼ埋まっていた。
定刻を少し過ぎたところで、本日の行事を担当する知識社会部のバネルジー部長の司会で昼食会が始まった。日本財団がスポンサーと言うことで、私が短いスピーチ。昨年のこの日、日本財団とUNESCOの間で、障害者支援に向けた協力協定が締結されたが、既に4,5件の共同事業が実現に向けて進行中、午後のセッションで報告するとコメント。
昼食の後は、一階の会議場に移動。午後2時半から世界障害者デー記念のイベントが始まった。出席者は150人くらいか。
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<世界障害者デーを記念するUNESCOでのイベント>

ここでは、UNESCO側の挨拶の後、昨年、UNESCOと日本財団との間で結ばれた協力協定を紹介する形でミャンマーの社会福祉大臣、ウィンミャッエー博士が登壇、ヤンゴンで来夏オープン予定の情報通信技術トレーニングセンターについて報告した。
その後、私の方からは、その他の二つの共同事業、即ち、来年度から始まる「傑出した世界の障害者を顕彰する制度」、再来年にシンガポールで開く予定のアジア太平洋障害者芸術祭についても説明し、昨年の協定に基づきこれらの3つの事業を日本財団がUNESCOと組んで行なう予定になったとして報告した。
我々二人の報告の後は、クウェイト政府がスポンサーになっている情報技術を活用して障害者支援を行なう活動を顕彰するジャベル・アルアーマド・アルジャベル・アルサバ賞という異常に長い名前の賞のコーナーになり、審査員によるパネルのあと、今年の受賞者2組に対する表彰式となった。
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<スピーチするウィンミャッエー大臣 > 

障害者を描いた短編映画や、障害を持った音楽家による生演奏などを挟んだイベントが終わったあと、チャパルさん、ハニーさんを含む私たちはウィンミャッエー博士一行と別れ、一旦、ホテルに戻った。
そして、チャパルさんの奥さんも交えて、パリの街に繰り出した。クリスマスイルミネーションに彩られたシャンゼリゼの通りを抜けて、昼食時に日本大使館の方から教わった日本人シェフが数ヶ月前に開店したばかりと言うフランス料理店に向かった。
小さいが清潔感の漂う店で、出されたフルコースのフランス料理はどれも繊細な味付けと優雅な盛り付けでチャパルさんご夫妻、ハニーさんにも大好評。感極まってチャパルさんが唸りながら言った。「これはフランス料理ではない。繊細な日本人でしか出来ない素晴らしい別の料理だ!」この店がミシュランの星を獲得する日もそう遠くないことを願わずにはいられなかった。
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<クリスマスイルミネーションが美しいシャンゼリゼー通り>

10時 ウィンミャッエー大臣   
12時 ホテル出発 
12時半 UNESCO昼食会
14時半 イベント
19時 ホテル出発 
19時半 夕食
2ヶ月ぶり、再びパリへ [2016年12月01日(Thu)]
12月1日(木曜日) 
今年に入って13回目、遂に最後の出張はパリへの単純往復になった。
朝8時前、家を出るときに雨が降っていたので、家人に駅まで送ってもらう。いつもの電車に乗り羽田空港へ。荷物はキャリーバッグと小型のガーメントケースのみという軽装。4日間という短い出張なのでスーツケースは不要だ。
12月3日は世界障害者デー、昨年のこの日、日本財団とUNESCOの間で、協力協定が締結された。
その中身は、情報通信技術を使った障害者支援、それと2020年に向けて世界障害者芸術祭を企画推進していく、というもの。それに沿って、話し合いを進めてきた結果、3つの事業がまとまった。今回は、それを、今年のUNESCOの世界障害者デーのイベントで発表しようということになったもの。
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<雨の羽田を出発>

今回発表する事業の中の目玉が、ミャンマー政府社会福祉省の支援を受けてUNESCOと連携して設置するICTトレーニングセンターであるということで、ウィンミャッエー大臣をお招きすることになった。
当初は、笹川会長に行ってもらう予定であったが、都合で取り止めになり、私が代理で出ることに。同行者は日本財団の新田職員一人。
前回、WHOのチャパルさんと会った際に、今回、ミャンマーから社会福祉大臣に置いでいただくことになっていると話したところ、是非、彼の主導で進めているある事業のミャンマーでの導入について、大臣に直接お話しできる機会を作って欲しい、と頼まれた。了承すると、パリに出て来るという。
それならその序でに、ロンドンからジョン・ハニー弁護士にもパリまで来てもらい、三人で前回の出張の際、それぞれ別々に相談したばかりの、バリアフリーに関する国際認証制度事業の具体化に向けての相談をすることにした。
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<パリのホテルは工事中>

飛行機は、凍てついて真っ白になったシベリアの上空を横切り、12時間のフライの末、定刻より少し早くパリに到着。
パリ到着時の気温は6度。空港からタクシーに乗り込んだ。車中で、ジョンさんとチャパルさんに連絡を取り二人がすでにホテルに入っていることを確認。
到着してみると、パリのホテルの入り口は閉鎖されていた。改装のための工事中。しかし、臨時に作られた入り口がわかりにくく、タクシーを降りた後に、レセプションへの入口を探して右往左往する羽目に。
そこで、当初はホテル内のカフェで予定していた明日午前の打ち合わせの場所を、彼らが泊まっている道路を隔てて向かい側のホテルに変更。
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<夜のパリ>

WHO チャパルさん、ロンドンから駆け付けたジョン・ハニー弁護士と打ち合わせ。
その後、ジュネーブからパリへチャパルさんに同行して来ていた奥さんも加えて5人で近所のレストランで夕食することに。
そこで、ホテルの近所のレストランをネットで検索したところ、評判の良さそうなところが、すぐ近くにあったのでそこを予約しようとすると、予約は受け付けていないので7時の開店すぐに来て欲しい、と言われた。
不思議に思いながらも5人揃って7時5分頃にレストランに向かうと中に入る人の行列が出来ていた。幸い、中に潜り込むことができて賑やかな夕食となった。
その後、明日の場所を確認のため、大臣一行が泊まっているホテルに行く。こちらは工事もなく、広々としたロビーで安心。

10時50分 羽田発
15時10分 パリ着
17時 ハニー弁護士、チャパルさん 打ち合わせ
19時 夕食

長い旅の終わり [2016年11月07日(Mon)]
11月7日(月曜日)
朝7時、APCDのぴかぴかの車でバンコクのホテルを出て、4人で一緒に空港に向かった。 
空港では、私だけ30分ほど早い、別のフライトなのでそれぞれに分かれてチェックイン。
その後、一緒に出国手続きのカウンターに並び、空港内に入った。
しばらく、岸田さん母娘、高木職員らに空港内を案内したのち、私は一人、ターミナル反対側のゲートに向かった。
広いターミナルの端から端まで歩いて、漸く、ゲートに着いてみると、搭乗が始まっていた。最後の乗客の後ろについて、慌てて羽田行きの飛行機に乗り込んだ。
久しぶりの一人旅。5時間ほどのフライトの末、5時過ぎ、羽田に着陸。
訪問国数にして5カ国、8つの都市。フライト11回、全部で2週間余りの長い旅がようやく無事に終わった瞬間だった。
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<無事、羽田に到着>

07時 ホテル出発
09時55分 バンコク発
17時30分 羽田着
人の縁、つながりの大切さを再認識 [2016年11月06日(Sun)]
11月6日(日曜日) 
今日はバンコクへ移動する日。昨日、一足先に帰国の途に着いた市川さんがいなくなって、我々は4名のみ。
朝7時、MILIのドライバー、チョースワミンさんの運転するワンボックスカーに荷物を積み込み、ダウンタウンのホテルを出発した。
少し、遠回りして川沿いの道を通ってもらう。途中で、広島市の市電の中古車両を使った都市交通実験路線に沿って北上。
日曜日の朝、道路もすいていたので、余裕を持って空港に到着。要領も分かってきたので、ヤンゴン空港での車椅子での飛行機の乗り込みも難なくこなす。
一時間ちょっとと国際線としては例外的に大変短いフライトの末、バンコクのスワンナプーム飛行場に到着。
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<バンコクへ向けて出発>

今回も、我々は車椅子の乗客の付き添いと言うことで、もう一組、車椅子の高年の女性を連れた人たちとともに、ヤンゴンでの機内乗り込み時は最初に、しかし、バンコクで降りる時は一番最後、という段取りであった。
ここまでは普通。ところが、バンコクで降りるときにびっくりすることが起きた。飛行機で人が乗り降りするときに使われるドアの位置は、どんな飛行機であっても、必ず、左舷と決まっている。これは、昔の船舶の構造に由来する港での接岸時の慣行が、飛行機にも受け継がれたものと聞いたことがある。何れにせよ、例外はなく左側からの乗り降りなのだ。
ところが、今回、われわれが降りるように言われたのは何と右側のドアからだった。これは、荷物の積み下ろしに使われるドア。びっくりして待っていると、開いたドアの先に待っていたのは、大きな特殊車両。どうやら、車椅子専用のものらしい。
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<バンコクの空港では車椅子専用のビークルに>

我々が右舷のドアからその車両に乗り込むと、振動がして車両の床が下がり始めた。下がりきったところで、車が移動し始めた。
これに似た車両は、米国の首都、ワシントンのダレス国際空港にあるモバイル・ラウンジと呼ばれる特殊車両だが、こちらは一般の乗客用だ。
この車両で中央の一階にあるバスの入り口に到着。車椅子なので優先ゲートを使って入国手続きが出来る。
税関を通って出ると、APCDでインターン中と言う、鎮目(しずめ)さんと言う理学療法士の方が迎えに来てくれていた。
彼に案内されて空港ビルの外に出ると、そこには「60+」という文字と、APCDのロゴの付いた車椅子用の専門車両が待機していた。今まで見慣れていた古い車ではなく、ぴかぴかの新車両だ。
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<APCDのロゴの付いた車椅子用の専門車両に乗り込む>

元々は、この車でホテルに連れて行ってもらい、先ずはチェックインしようと考えていたのだが、時計を見るともう12時半。そこで、急遽、予定を変更し、サイアムスクエアのショッピングモールに立ち寄り、そこで昼食を済ますことにした。
そして、モールの中のカフェで軽く昼食をとった後は、序でなので、ショッピングモール内を案内することに。
バンコクは、以前、盲人の上院議員のモンティアンさんがこぼしていたように、必ずしも車椅子にやさしい場所ではない。最大の問題は、高架電車のBTSやエアポートリンクの電車の駅がバリアフリーの設計になっていないこと。従って、市内の見物や買い物を車椅子の人がすることは容易ではない。しかし、幸い、このショッピングモールの中にいる限りはエレベーターもあるので難しくない。しばらく、岸田さんたちお二人には自由に散策してもらうことにした。
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<ショッピングモールでは大規模な喪服の販売イベント>

夜は7時から、APCD二ノ宮さんご夫妻と佐野さんを交えて、近くのホテルでタイの王宮料理の夕食会。そこで、盛り上がったのが「人の縁、つながりの大切さ」ということ。
APCDの二ノ宮所長や佐野さんは、障害者問題の専門家である。特に、二ノ宮さんは、元々、私に障害者問題の基礎を教えて下さったうえ、アジア全域でこの分野の殆どのキーパーソンを紹介して下さった。そして、ミャンマーでの日本財団の障害者支援における中心パートナーとなったMILIと結びつけていただいたのも、二ノ宮さんである。
さらに、今回は、二ノ宮さんが岸田奈美さんの母校、関学で以前、教授をされていたことや、同行の日本財団職員、高木さんのお祖父さんが神学の大家で、神学博士でもある二ノ宮さんと友人であったことなどが判明。
人の繋がりの不思議さとその大切さを再認識した夜であった。
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<二ノ宮さんご夫妻と佐野さんを交えての夕食会>

07時  ホテル出発
09時50分 ヤンゴン発
11時45分 バンコク着
13時半 昼食
18時半 ホテル出発
19時 APCD二ノ宮さんご夫妻との夕食会
障害者大学生らとの講演会 [2016年11月05日(Sat)]
11月5日(土曜日) 
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<早朝のシュェダゴンパゴダ>

今日は土曜日。ヤンゴン滞在の実質的な最終日だ。
尾形理事長一行は、昨日のニューワールドでの講演会場から、直接、カレン州の薬草栽培事業の現場視察に向かってしまったので、今日のスケジュールは完全に我々6名だけ。
岸田さん母娘と、通訳のモンさん、日本財団の高木職員に、朝日新聞の市川さんと私。車はワンボックスカー一台だけなので身動きは楽になった。
今日の主な予定は、午前の障害学生らに対する岸田さんたちによる講演会と、夕方のMILI幹部との夕食会のふたつ。時間に少し余裕があるので、ヤンゴン市内を視察してもらうことに。
先ず、朝一番にシュウェダゴンパゴダに案内する。
チョースワミンさんは、昨年も、垣内さんを案内してシュウェダゴンパゴダに行ってもらったので、車椅子での見学の要領は良く分かっている。迷うことなく、エレベーターのある南側の入り口に車をつける。
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<シュェダゴンパゴダに参拝>

早朝のシュェダゴンパゴダは既に大勢の参拝客で賑わっていた。外国人の姿も年々多くなっているようだ。
岸田さん達はモンさんに詳しい歴史やしきたりの説明を受けながら、パゴダを時計回りに一周して参拝。皆んなで、昨日無事手術が終わったばかりのミライロの垣内社長の健康をお祈りした。
8時半頃にシュェダゴンパゴの参拝を終えると、開始時間には少々早かったが、皆で講演会場となるホテルに行くことにした。ホテルに着いてみると、MILIのメンバーは既に来て準備を始めていた。
少し用があったので私と市川さんは自分たちが泊まっているダウンタウンのホテルに行き、丁度10時ぎりぎりに、用を済ませてホテルに戻った。MILIによると、日本財団がMILIと一緒に奨学金を支援している障害学生らに加えて、ミャンマーの各、障害者団体にも声をかけたと言うことで、週末にも拘らず、60人余りの若者たちが岸田さんたちの講演を聞こうと集まっていた。
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<聴衆に語りかける岸田さん>

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<障害学生らと記念撮影>

今回は、相手が障害当事者の若者たちということで、お母さんの岸田ひろ実さんだけでなく、娘さんの奈美さんも講壇に立って、話してくれた。
昨日と同様、岸田ひろ実さんのこれまでの人生のストーリー、日本の障害者問題の状況に加えて、奈美さんによるミライロでの創業にまつわる話などなど、2時間ほどにも及ぶ熱の入った講演会であった。
集まった若者たちは、長い時間、静かに二人の話に耳を傾けたのみならず、終わった後も熱心に質問をしてくれた。
昨日に次いで、今日の講演会も大成功であった。
講演のあと、昼食は日本財団のヤンゴン事務所の中核スタッフでヤンゴン生活の長い和田さんに教えてもらった、ダウンタウンのしゃれたカフェで取った。
昼食の後、ヤンゴンを代表するマーケット、アウンサンマーケットに案内。その後、ホテルで休んでもらった。
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<ピンクの袈裟を着た可愛い尼さんたちに遭遇>

夕方6時半、ホテルを出て、皆で近くのコロニアルスタイルのレストランに行った。今回のヤンゴン最後の行事、MILI幹部との夕食会の会場なのだ。
しかし、今夜の直行便で一足先に帰国する朝日の市川さんとはここでお別れ。レストランで我々を降ろしたチョースワミンさんの車で市川さんはそのまま空港へ。
残った我々は、MILIの10名ほどの幹部メンバーとでミャンマー料理での夕食懇談会に臨んだ。
食事もそこそこに、来年からCEOとしてMILIを率いるユヤトゥさん、その逆に来年にはCEOを退くネイリンソーさんらが、メモをとりながら岸田奈美さんたちに熱心に質問していた。
残念なことに、この夕食には、3人の創業メンバーの一人、アウンコミンさんはいなかった。
MILIは来年から6年目に入る。これまでの5年に急成長しただけに、これからは、舵取りの難しい段階に入ることだろう。成功を祈る。
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<最後の夕食はMILI幹部とミャンマー料理で>

07時 ホテル出発
07時半 シュェダゴンパゴダ参拝
10時 障害学生らに対する講演会
13時 昼食
15時 市内視察
18時半 ホテル出発
19時 MILI幹部との夕食会

ニューワールド養護学校訪問 [2016年11月04日(Fri)]
11月4日(金曜日) 
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<岸田外相と握手するスーチーさん>

今朝のミャンマーの英字日刊紙に岸田外相と握手するスーチー国家最高顧問の写真が大きく紙面を飾っていた。
そうだ、そう言えば、笹川会長に同行してNLD本部で野党の党首としてのスーチーさんにお会いして、日本財団のミャンマーでの事業について説明したところ、「置き薬」事業に強い関心を示されたことを思い出した。確か、5年ほど前だったがと記録を調べてみると、果たして、丁度5年前、2011年12月だった。
5年の間に、野党の党首から事実上のミャンマー政府のトップに劇的な変身を遂げたことになる。2日付けの笹川会長のブログには、安倍首相との迎賓館での首脳会議で笹川会長の対面に座るスーチーさんの姿があった。感無量。
さて、今日はニューワールド養護学校での岸田さんの講演会。8時半、チョースワミンさんが運転するMILIのワンボックスカーで、一緒にホテルを出発、ニューワールドに向かった。
ニューワールド養護学校では、一足先に到着していた日本財団の尾形理事長一行と合流。父兄ら関係者の出迎えを受けたあと、校舎内を見学。
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<ニューワールド養護学校関係者の出迎えを受ける>

ここは、ミャンマーでは有名な小児科医でミャンマー医師会の会長でもあったテインアウン医師が2008年に始めた私立の養護学校である。当時、ミャンマーでは自閉症、ダウン症などの障害を持った児童を預かる国立の施設はあったものの、ただ、子供たちを数時間滞在させるだけの預かり施設に過ぎず、子供たちに対する訓練や教育のようなものは事実上行なわれていなかった、という。それに、心を痛めた博士が、自分が院長を勤めるパラミ小児科病院の敷地の一部を使って、障害児14人でスタートしたもの。今では児童の数は150名に拡大。約30名の教員や実習生が子供たちに、自立のための訓練や教育トレーニングを行なうミャンマー随一の養護学校に発展した。まだ、多くの希望者が順番待ちだと言う。
私は、2012年にティンニュント博士を通じてこの学校を紹介され、手狭になった施設のための拡張資金の相談を受けた。たまたま、その当時、日本財団のもとに、「アジアの恵まれない子供のために使ってほしい」という遺書を残して亡くなった日本人女性の弁護士から相談があったことで、その遺志を受けて、新校舎の建設が決まった次第。
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<匿名の日本人女性による遺贈を説明するプレートの前で>

遺贈による資金の全額が土地購入と建設資金に投じられただけでなく、代表者3名を日本財団の経費で日本に招待、日本各地の児童養護施設を見てもらった。また、日本財団が設立したシニアボランティア派遣組織NISVA(日本技能ボランティア海外派遣協会)から、専門家として島野さんにも一年以上にわたって指導に行って頂いた。そうして、日本のノウハウを参考にした設備とカリキュラムの充実が実現、昨年11月に落成式を行なったもの。
昨年の落成式には、初の計画ではミライロの垣内社長を伴って尾形理事長が主賓として来訪する予定であったのだが、直前にキャンセルになった。そこで、今回、尾形理事長に改めて視察してもらうとともに、同じダウン症の息子を持つ母として岸田ひろ実さんに講演していただくことになった次第。
事前に、岸田ひろ実さんの雑誌「致知」のインタビューの英訳を送ったところ、感激した父兄会の代表たちがミャンマー語に翻訳、150名の児童の親御さんたちに送り、今日の講演を案内したところ希望者が殺到する事態になった、という。
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<岸田さんによる講演会が始まった>

尾形理事長による、日本財団の関わりと岸田さん母娘を紹介する挨拶のあと、岸田ひろ実さんによる講演会が始まった。
静かに語りかけるように話す岸田ひろ実さんの日本語を、通訳のモンさんがミャンマー語に逐次翻訳して行く。
今は、車椅子の身だが7年前までは普通に暮らしていたこと。22歳で結婚し、翌年、長女の奈美さんが生まれたこと。しかし、26歳で生まれた息子がダウン症だったこと。一時は絶望したが、それを乗り越えて、親子三人で幸せに暮らしていた時に、夫が39歳と言う若さで心臓麻痺のために急死。自分が子供たちを支えねばと必死で働いていた時に、無理がたたって、大動脈乖離、という恐ろしい病気に倒れたこと。文字通り、九死に一生をえたものの下半身麻痺と言う障害が残ってしまった。
そして、1年半にも及ぶ入院生活の後、初めて車椅子で外出してみて、将来に絶望し、思わず娘の前で「死にたい」と漏らしてしまったこと。
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<岸田さんの話に熱心に耳を傾ける150人の父兄たち>

ところが、奈美さんの「お母さんのつらさは分かる。死にたいなら死んでもいいよ」、「でも、2億パーセント大丈夫だから、もう少し、一緒にがんばろう」という言葉をきっかけに前向きに生きることを決めたこと、、、。
岸田さんの静かな語り口と通訳のモンさんの情熱の込もったミャンマー語が交互に、繰り広げられた。150名の参加者の多くは自らも障害児をもつ立場。皆、一言も漏らすまいと熱心に耳を傾けていた。そして、奈美さんの「2億パーセント大丈夫だから、がんばろう」という言葉のところでは目頭を押さえる人が続出。
岸田さんは続けた。
今は、娘さんが垣内さんたちと創業したミライロの「ユニバーサルマナー」専任講師として、年間170回と言う講演をこなし、「今が、人生で一番幸せ」と思えるようになったこと。
そして、日本でのユニバーサルマナーのこと、障害者を巡る環境などを話して、岸田さんの講演が終わった。
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<MILIを訪問>

すかさず、地元のテレビ局の取材が入り、岸田さんはそのまま壇上でインタビューを受けた。しかし、その後は、岸田さんたちはそれが終わるのを待っていた大勢の人に取り囲まれてしまった。その後、遅れて始まった昼食会の席でも、障害児のお母さんたちが岸田さん母娘を質問攻めで、放そうとしない。
しかし、この後は、パラミ病院の見学、そして、ミャンマー障害者自立生活運動(MILI)の本部訪問。さらには、日本財団ヤンゴン事務所訪問、と予定が続いているので、私は気が気でない。無理やりに、割って入りニューワールド滞在を打ち切ったのだった。
時間が押せ押せになってしまったので、パラミ病院では救急設備を見学した後、テインアウン院長がもう直ぐ駆けつけるからと言うのをお断りして退出。MILIでも、明日の夜にはMILI幹部との夕食会があるので、と早々に訪問を切り上げた。そして、そのまま、日本財団のヤンゴン事務所へ。駐在員の田中、原田両職員、現地在住の和田さんら女性職員3人組が日本財団のミャンマー事業の全体像をプレゼンしてくれた。
一旦、ホテルに戻って小休止の後、エヤワディーでの学校建設事業の責任者、平野さんご夫妻との夕食会に臨んだ。

08時半 ホテル出発
10時 ニューワールド養護学校講演会
12時半 昼食懇談会
13時15分 パラミ病院視察
14時15分 MILI本部訪問
16時半 日本財団ヤンゴン事務所訪問
18時 ホテル出発 
19時 平野さんご夫妻との夕食会

バガン伝統医療クリニックを視察 [2016年11月03日(Thu)]
11月3日(木曜日) 
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<朝起きてみると素晴らしいリゾートだった>

朝、目が覚めて時計を見ると5時だった。外は、まだ真っ暗。しかし、ホテルの敷地のあちこちに洒落た照明が配置してあるので輪郭はほの見える。
とても、美しい配置で緑の芝生と遊歩道が並んでいた。このホテルは、バガンではとても人気のリゾートホテル。サービスも日本人の経営になるだけあって評判が良い。
なぜ、そんな豪華なホテルに泊まることができたのかというと、オーナーの方と日本財団のチャリティー事業を通じて我々は面識があり、今回の旅の計画をお話したところ、ご好意で、特に、車椅子のことなどを含めて特段のご配慮をしていただけることになったのだ。
夜が明けてきたので、着替えて外に出てみる。確かに、広大で美しい敷地にコテッジが点在するという素晴らしいリゾート・ホテルだった。
朝食を済ませて、暫くすると、昨日、マンダレーでアウンミン博士にお願いしていたティンソウさんというバガン地区政府の伝統医療担当官がホテルに来てくれて、バガン地区における伝統医療の現状についての説明を受けた後、2台の車に分乗して、全員で伝統医療クリニックに向かった。
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<ティンソウさんに説明を聞く>

日本財団はアジアの各地で伝統医学を活用した地域医療支援プログラムを実施して来ている。伝統医療は、最近になって先進国を中心に世界的な規模で再評価の機運にあるが、途上国では、これまで近代化の過程で、迷信に基づく非科学的なものとして退けられる傾向にあった。
実際には、それぞれの土地の固有の生薬原料を活用する伝統医学には、特に基礎的な医薬品すら手に入りにくい途上国の過疎地などにおいて、近代医療を補完しうる安価で安全性の高い初期医療サービスの担い手となる可能性がある。
日本財団は、そのような考えから、2003年にモンゴルで遊牧民を対象に「置き薬」方式による伝統医療薬の配布事業を開始した。モンゴルでの成功を受け、ミャンマーでも2008年から保健省と同様の事業を開始、これまでにミャンマー全土の3万以上の村々でミャンマー製の伝統医薬品を入れた「置き薬」箱の配置を完了している。マンダレーでのマッサージ訓練校がミャンマーの伝統医療理論に基づくものであるのも同様の視点から。
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<バガン伝統医療クリニックを視察>

最近では、さらに日本の製薬メーカーなどと連携して、ミャンマーの少数民族州であるカレンや、シャンで原材料となる薬草栽培事業を開始するまでに至っている。昨日、尾形理事長が向かったのも、シャン州の山間部での薬草栽培の現場なのである。
険しい山間部なので車椅子での同行は無理と判断し、我々、岸田組は伝統医療の中核に位置するミャンマー仏教の本拠地バガンに向かうことにした次第。
日本では殆ど知られていないが、ミャンマーはアジアでも有数の伝統医療の盛んな国である。
ミャンマー保健省が数年前に実施した全国調査によると、伝統医学が信頼できると思う人が国民の99.3%、これまで受けた伝統医療に満足している人は88.9%という。
同国では1953年に保健省に伝統医学普及室という伝統医療を専門に担当する部局を設置。その後、1989年には保健省内の4つの局の一つにまで昇格、伝統医療局として独立させた。これは東南アジアの中では最も早いタイミングだったのではないかと思われる。
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<バガンの遺跡を見物>

東南アジアの各国では、国によってその濃淡に違いはあるものの、元来、インドのアーユルベーダと中国伝来の漢方にルーツをもつ、各国独特の伝統医学が行われていたのである。ところが、欧州各国による植民地化や、近代化の過程で、伝統医学は科学的根拠のない迷信であるとして遠ざけられ、長らく各国の医療行政に於いては無視されてきたと言って良い。
それが大きく変化したのは、漸く70年代に入ってから、先進国で伝統医学を再評価する機運を反映してのことである。タイで伝統医療の見直しが始まったのは漸く1970年代末になってのこと。保健省内に専門の部局が作られたのは1989年。更に、伝統医療局への昇格は2002年のことに過ぎない。
それに対し、ミャンマーでは、早くから伝統医療が国家の医療行政に明確に位置づけられて来た。全国14の州には、総て国立伝統医療病院が配置されている。この内、特に前首都のヤンゴンと第二の都市マンダレーには60床の比較的大きな病院が設けられている。
また、マンダレーには2001年に世界でもユニークな国立の伝統医療専門の大学、ミャンマー伝統医療大学が設立されている。
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<バガンには日本軍人の忠魂碑があった>

ミャンマーではさらに、伝統医療師に対する国家資格制度も導入されており、全国には約6000人の認定伝統医療師がいる。これら伝統医療師は全国に設けられた237ヶ所の国立伝統医療診療所や、数千ヶ所の民間診療所で治療を行っている。数年前にラカイン州の北部を訪れた際に言われたのは、その地区では近代医学を履修した医師が7人しかいないのに対し、伝統医療師の数は約150人もいる。
今回、ィンソウさんが我々一行を連れて行ってくれたのも、まさにそのような伝統医療クリニックの一つなのであった。
伝統医療クリニック視察のあと、ホテルに戻ってミャンマー伝統料理で昼食。一休みした後、やはり、2台の車に分乗して、全員でバガンの遺跡を見物に出かけた。
そして、夕方6時前の飛行機でヤンゴンへ。ヤンゴン空港ではシャン州の薬草栽培の現場視察から戻った理事長一行と偶然一緒になった。
しかし、空港からは、我々は理事長達と別れ、MILIのチョースワミンさんの車で今回はダウンタウンの方のホテルへ向かった。
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<素晴らしいリゾートホテル>

07時 朝食
08時45分 ティンソウさん
09時15分 ホテル出発
10時 バガン伝統医療クリニック視察
12時 昼食
14時 バガン遺跡見物
16時 ホテル出発
17時55分 バガン発
19時15分 ヤンゴン着
20時半 夕食
岸田ひろ実さんを案内してマンダレーへ [2016年11月02日(Wed)]
11月2日(水曜日) 
朝、7時。私と市川さんの二人は、MILIのチョースワミンさん運転のワンボックスカーでダウンタウンのホテルを出発、理事長と岸田さんたちが宿泊しているホテルへ。
そこから、車2台に分乗し、総勢8名でヤンゴン空港に向かった。内訳は、日本財団側が尾形理事長、中嶋課長と高木職員、当地駐在の田中職員、私の5名。そして、市川さんとミライロの岸田ひろ実さん、奈美さんのお二人。
そのうち、岸田さんのお母さんのひろ実さんだけが車椅子。お嬢さんの奈美さんはミライロ社の創立メンバーのお一人、現在は広報部長だ。
そもそも、なぜ、今回、このメンバーでミャンマーに行くことになったのかというと、そのきっかけは、今年の2月6日に安倍首相夫人をミライロの垣内社長に紹介した日の夕食会の席上での日本財団の尾形理事長の言葉だった。
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<さすがにこの時間の道路はガラガラ>

その直前まで私は理事長と、マンダレーの視覚障害者用のマッサージ学校の視察に行ってもらう日程を相談していたのだが、垣内さんに昨年11月にミャンマーで障害者学生たちにしてもらった講演が好評だったと理事長に話したところ、「ならば、今度は岸田さんたちにも、自分と一緒にミャンマー行っていただくことにしよう」となったもの。
出来ればもっと早いタイミングでのマンダレー行きを考えていたのだが、講演で多忙な岸田ひろ実さんの都合と尾形理事長の都合を付き合わせたところ、11月まで待つしかなかったという次第。奇しくも11月というのは、垣内さんを一年前にご案内したのと同じ時期。ミャンマーでは雨期が明け、涼しい時期が始まるタイミングだったのだが、、、。
そして、この話を朝日新聞のベテラン記者で旧知の市川さんにお話ししたところ、興味を持っていただいて、今回、同行取材していただけることになった次第。
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<車椅子の岸田さんたちと飛行機に乗り込む>

空港の国内線ターミナルで今回の岸田さんの講演の通訳をお願いしているミャンマー人女性モンさんと合流する。
モンさんは、今回、理事長一行に東京から同行した日本財団の高木職員が、以前、彼女が担当しているニューワールド養護学校をビデオ撮りに訪れた際に担当していただいたベテランの通訳さん。
2ヶ月前に、今回の講演の通訳を打診したところ、岸田さんの話しに涙を浮かべて感激、「是非やらせてください」と言ってくれた。その後、岸田さんの雑誌や新聞のインタビュー記事は勿論、垣内さんの著書まで読み込んで、今回の通訳の準備をしてくれたという。そのせいか、いきなり、初めて会ったとは思えないほどの打ち解け様。
モンさんがてきぱきと交渉してくれたこともあって、国内線に乗り込む際には心配された車椅子に関するトラブルも無く、我々は飛行機に優先搭乗することが出来た。
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<とても丁寧に扱ってくれた>

マンダレー空港にはこの事業の責任者を務めるアウンミン博士が迎えに来てくれていた。早速、マッサージ学校に向かう。予定より30分ほど遅れて学校に到着。この立派な校舎は日本財団の資金で建てたものではなく、アウンミンさんが理事長を務めるミンスエ財団の好意で借りているもの。
2階に上がると、学校を運営する日本ミャンマー伝統医療振興財団の理事たちを始め、2期生の学生たち21名が待ってくれていた。
この学校は今年の1月に20名の一期生を迎えて開校した。1月16日に開かれた開校式は、当初、尾形理事長に出席してもらう前提で準備していたのだが、理事長の都合が悪くなり直前になってキャンセル、私が代理で出席した。今回は、その埋め合わせにと、理事長を案内することにしたもの。
早速、アウンミンさんの司会で歓迎式典が始まった。アウンミンさんがこの事業の背景を説明するスライドを用意してくれていた。
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<無事マンダレーに到着>

ミャンマーの伝統医学理論に基づく医療マッサージ教育を、視覚障害者の生業支援の一角として始めてはどうかというアイデアは、3年以上前に、私とミャンマー政府保健省の元伝統医療局長で、今も、日本財団のミャンマー事業のアドバイザーとしていつも頼りにしている、ティンニュント博士の会話から生まれた。その後、ヤンゴンでGenkyというマッサージクリニックを経営するビジネスコンサルタントの西垣さんに相談したり、ジュネーブのWHO本部の専門家にも相談した。
ティンニュント博士の助言で彼の後任の伝統医療局長で、その前は国立伝統医療大学の学長だったアウンミンさんを責任者に起用することになった。当初は、ヤンゴンでの事業展開を考えていたのだが、今はマンダレーで開業医をしているアウンミン博士の提案で、学校の開設地は彼の地元のマンダレーに変更。幸い、彼が理事長を勤める現地の民間財団から、破格の条件で建物をそっくり借り受けることが出来た。そうして今年はじめの開校に漕ぎつけた次第。
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<マッサージ校で歓迎式典に臨む>

スライドによるプレゼンテーション、尾形理事長の挨拶に続いて、岸田ひろ実さんがスピーチ。前もって、岸田ひろ実さんのインタビュー記事の英語訳をアウンミンさんには送ってあったので、彼女のことは皆よく知っている。岸田さんは、ミライロ社には視覚障害者の営業マンがいて、頑張っている。皆さんも、しっかりマッサージの勉強をして社会に貢献して行ってほしいとエールを送った。
それに答えて、学生たち全員で、自分たちがこの日のために作ったと言う歌をギター演奏つきで披露してくれた。モンさんが歌詞の内容を岸田さんのためにウィスパリング通訳、岸田さんは感激して涙ぐむ場面も。
式典の後、近所の中華レストランで昼食の後、これからシャン州の薬草栽培の現場に向かうという理事長、中嶋課長、田中職員らと別れ、我々6名はバガンに向かうべくマンダレー空港に戻った。途中、一時間ほど回り道をしてもらって通訳のモンさんの案内でマンダレーを超駆け足観光。
夕方6時半、夕闇に包まれたバガンのホテルに到着
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<歌をギター演奏つきで披露してくれた>

06時 ホテル出発
07時 ホテル出発
08時35分 ヤンゴン発
09時45分 マンダレー着
11時半 盲人マッサージ学校
12時半 昼食
16時55分 マンダレー発
17時25分 バガン着
19時 夕食
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