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2018年08月14日

真鍋祐子「光州事件で読む現代韓国」

真鍋祐子「光州事件で読む現代韓国」

平凡社、2010、6

1.光州事件.png


プロローグ=現代韓国政治のアイロニー
 1980年5月。韓国南西部の光州という町で、互いに武器を持った軍と
市民たちとの間で惨劇が繰り広げられた。10日間の抗争は民間の犠牲者
189人という痛みをともなうものだった。武田幸男編『朝鮮史』には、
「大統領の死という形で朴政権が崩壊すると、民主化運動が展開された。
軍隊が民主化運動の全面弾圧に乗り出し、強権政治の抑圧を緩めれば、
北の“南進”を招くとして、光州市では市内を占拠した学生や市民を戦
車まで出動させて殺害した。1980年9月には、軍部の実力者であった
全斗煥大統領が就任し、新たな強権政治が始まった。」と記されている。
・ この事件は87、8年あたりまで、なかったこととして葬り去られていた。1996年8月、「全斗煥に死刑判決」という見出しで状況は大転回した。15年以上前の出来事が、特別立法によって裁かれ始めた。突然の処断の背景には、「金大中封じ」の政治的意図があったと見られている。
・ 光州はいま、新たなる巡礼地となり、5月18日前後は全国から巡礼者が集まっている。
T章 韓国現代史のなかの光州事件
・ 韓国社会における「体制―反体制」間の対立構図は、「慶尚道―全羅道」、「国民国家ナショナリズム―民族ナショナリズム」、「軍事政権―文民政権」、「祖上神―冤魂」という4つの脈絡がある。
・ 73年の金大中拉致事件は、“韓国=軍事政権”の否定的イメージを動かしがたいものにした。
 それに反して、「キリスト者、民主主義政治家金大中、反体制=文民政治」が生まれた。
・ 朴正煕は、「個人の生命と価値が集団と階級の威力で踏みにじられる共産主義が成功することは、人類の歴史上ありうるものではない」と、国民国家へ向けて推進したが、1993年、金泳三政権が登場し、待ちこがれた文民政府が出帆した。
・ なぜ舞台が光州だったのか? 全羅南道最大の国立大学・全南大学校の学生たちによって口火が切られた。「戒厳撤廃」を学生たちが叫び、街頭デモや討論会が全国で繰り広げた。光州事件は、学生中心から民衆や市民たちへと移行していった。この非常戒厳の折に金大中が内乱容疑で逮捕されたことが、引き金となり、流血の惨事にまで至らせた要因とみられている。
・ 光州以外では市民からの呼応が得られず、運動諸勢力が相互に乖離していたのに対し、光州の学生らのたいまつデモは市民の共感を呼び、学生と教授、農民らが結び付き、一糸乱れぬ体系が具現し、金大中釈放デモに拡大した。資本主義の未発達・全羅道は、階級間の連帯を可能にし、共同体意識を高揚させる要因になり、金大中をシンボル化した。
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吉田裕「日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実」

吉田裕「日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実」

中公新書、2017.12.25

1.日本軍兵士.png

11.無題.png

はじめに  
・ 日本がアメリカ・イギリス・中国などの連合国との間で戦火を交えたアジア・太平洋戦争。1941年12月8日に始まり、45年8月15日に終結。その後も続いた地域もあったが、9月2日には
日本政府が降伏調印した戦争である。戦闘は、東はハワイ諸島、西はインド、北はアリューシャン、南はオーストラリアに及ぶ広大な地域だ。
・ 戦没者は、日本だけでも 軍人・軍属が230万人、民間人が80万人、合計310万人に達する。日露戦争の戦死者9万人とは規模が違う。
序 章 アジア・太平洋戦争の長期化
・ 1937年に始まった日中戦争は、40年に入ると、行き詰まりの様相を呈していた。日本軍による大規模な進攻作戦の時代はほぼ終わりを告げ、中国各地の日本軍は占領地を防衛するための「高度分散配置」体制に移行していた。小兵力の多数の舞台を広範な地域に分散して警備に当たらせる態勢に、1940年には中国戦線に約68万人の陸軍部隊が派遣されていた。
・ 日中戦争の行き詰まりに関しては、大元帥・昭和天皇も自覚していたようだ。
・ 1941年12月8日、日本陸軍の侘美支隊は英領マレー半島、コタバルへの上陸を開始した。続
いて空母から発進した日本海軍の攻撃隊がハワイの真珠湾に対する空爆を開始し、アジア太平洋戦
争が始まった。この戦争は、日本が日中戦争の行き詰まりを東南アジアにおける新たな勢力圏の獲
得によって打開するために開始した戦争だった。日米関係に焦点を合わせるならば、満州事変以降
の一連の侵略戦争で獲得した権益の確保に、日本があくまで固執したために始まった戦争である。
・ 1941年の春から戦争回避の外交交渉が続けられたが、その最大の争点はアメリカ側が求める日本軍の中国からの撤兵だった。米軍は先ず盧溝橋以前の姿に帰れ、内政干渉は認めないだった。
・ 開戦後の戦局は、第1期の1942年5月までの日本軍の戦略的攻勢期。第2期は1942年の6月のミッドウエー海戦での日本海軍正規空母4隻の撃沈から日本軍の撤退。第3期は、1943年3月から44年7月までの米軍の戦略的攻勢期・日本軍の戦略的守勢期。1944年6月米軍はサイパン島への上陸を行い、日本海軍の機動部隊は事実上潰滅する。第4期は、1944年8月から45年8月の敗戦に至るまでの絶望的抗戦期の4期に概観できる。
・ 日中戦争開始以降、敗戦までに、日本人戦没者は軍人・軍属約230万人、外地の邦人約30万人、空爆などの戦死者約50万人合計310万人である。米軍の戦没者は9万2千人、ソ連軍の戦死者2万2689人、英軍が2万9968人、オランダ軍2万7600人、中国人と中国民衆1000万人、朝鮮20万人、台湾3万人、マレーシア・シンガポール10万人、べトナム等合わせて1900万人だ!
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