井上ひさし・こまつ座
「菊池寛の仕事」
文芸春秋、1999.1.29
はじめに:
・ 彼は、自分の作品を享受しようとしている人たちがごく普通の生活者で
あることを知っていた。当時の日本は軽工業から重工業への移行期、それ
に伴って大量の人口が農村から都市へ移動し、サラリーマンという名の
新しい階層が生まれていたが、これらの「教育を受けた大衆」こそが、自
分の作品の読者だということを、彼は充分に承知していたのである。生活
者は文学青年とは違う。「僕は人生に悩んでいます。メチャメチャに悩ん
でいます。こんなに悩んでいる僕って素敵でしょ」式の自然主義文学などとは一切無縁である。
・ 彼は、生活に対する基本的態度、「生活第一、芸術第二」という考え方と、「そのうち何とかなるだろう」という処世訓とを、読者と共有していたのである。菊池寛の前半生はその連続だった。
T 菊池寛はこう生きた――五十九歳の生涯 小田豊二
・ 小説家たらんとする青年に与う 菊池寛
25歳未満の者は小説を書くべからず、と言いたい。小説は、文章や技巧などではなく、生活を知り、人生に対する考えをきちんと持つことが必要なのだ。小説はある人生観を持った作家が、世の中の事象にことよせて、
自分の人生観を発表したものなのである。小説を書く前に、まず自分の人生観を作り上げることが大切だと思う。
・ 香川県高松市の貧しい士族の家に生まれた。寛は勉強が良くできた。中学2年の時に、高松市図書館ができ、2年間でその蔵書2万冊をすべて読んだと言われている。明治41年東京高等師範学校に入学するもテニスに興じるばかりで除名される。一時帰郷するが、法律を学ぶために明大に学ぶ。しかし、法律も自分には向かないと、第一高校に入学する。同級に芥川龍之介、山本有三、久米正雄らがいて、その交流から寛の「文学観」が目覚め始めた。その後京大入学を機に、文学同人誌『新思潮』の同人に推薦され、戯曲『玉村吉弥の死』を発表し、デビュー作となる。大正5年時事新報社に入社し、社会部記者を続けながら、文学への道をあきらめなかった。
・ 大正6年、同郷の女性と結婚し、猛烈な執筆生活が始まった。『恩讐の彼方に』『藤十郎の恋』… 『父帰る』が新富座で上演されたのを機に、「劇作家協会」「小説家協会」を設立した。
・ 寛は、自分が流行作家になったのを機に、多くの若者が実際に食べることすらできない現状を考え、自由な気持ちで書きたいものを書ける雑誌『文藝春秋』を創刊した。創刊号三千部は瞬く間に売り尽くし、編集同人制をつくり、川端康成、今東光、横光利一等を編集同人に迎えた。
・ 「文藝春秋」は売れに売れた。創刊3年目に2万6千部、4年目には11万部になった。
大正15年文芸家協会を結成。親友の芥川龍之介は本来の創作をしていない寛を気にしていたが、寛は「僕は編集者としてまだ全力を出していない」と答えている。芥川は昭和2年2度ほど寛を訪ねるが忙しい寛に会えていない。数日後芥川は自殺した。寛は号泣した。「あの時会っていればと」悔やんだ。
・ 昭和3年普通選挙への立候補を社会民衆党から要請され出馬するも次点落選した。その後、寛は文藝春秋社を株式会社化した。身軽になってもうひと踏ん張りしようというわけである。資本金5万円、取締役には鈴木氏亮、久米正雄がいる。
・ 破竹の勢いの寛にも受難の時代が訪れた。内務省と警視庁による削除である。武田麟太郎『暴力』、田中純『村の怪異』に削除命令が出た。文化そのものが検閲の時代に入っていく。昭和6年満州事変勃発。昭和7年上海事変、3月には財界の巨頭団琢磨暗殺、5月に犬養首相暗殺と続いた。しかし、寛は趣味人としても一流であった。テニス、野球、ラグビー、麻雀、将棋、競馬、ダンス、ゴルフ……
・ 昭和10年、広く文壇に人材を送り出そうと、芥川賞、直木賞を制定した。第一回の受賞者は、石川達三と川口松太郎だ。一方、軍国化の波は速さを増し、日華事変はいよいよ大陸深く進展していった。昭和13年内閣情報部より、文芸協会会長の寛に、作家を動員して従軍するよう要請が。最初に話があった時、22人の作家たちが集まった。吉川英治、久米正雄、尾崎士郎らに同行して大陸に向った。寛は「国家が文学を認めないことに不平不満を漏らしていた手前、今度のように大々的に認めてくれた時、健康などは構っていられず、率先していくことを決心したのである」と。日本的な自由主義者を自認していたはずの寛は、この時、個人としての自由は全くなく、文藝春秋の社長としてしか、その行動は許されなかったに違いない。戦争という異常事態の中の人間悲劇が。
・ 昭和20年、敗戦は寛の手足をもぎ取った。寛はついに文藝春秋社解散の決意をしたが、GHQからは「侵略戦争に指導的立場を取った」と公職追放された。何でもやりたいことをやって来た寛にとって、何もするなという指令は、死ねといっているのと同じであった。しかも、寛が一番驚いたのは、民衆の豹変であった。なんの反省もなく、敗戦の翌日から「民主主義、民主主義」と浮かれている。寛の戦う情熱が次第に薄れていった。さらに親友横光利一、一緒に苦楽を共にした元文藝春秋専務鈴木氏亮を失い、昭和23年3月6日狭心症で急逝した。
講演「菊池寛の仕事」in 高松 井上ひさし
・ 菊池寛はこの高松で生まれました。そういえば、江戸中期に生まれた平賀源内も、明治のジャーナリスト宮武外骨も高松です。いずれも外へ出て大変大きな仕事をしています。この3人は、日本の「文化の枠組み」をそっくり変えてしまうような偉大な仕事をしています。
・ 菊池寛の仕事は作家として、もう一つは日本の「文化の枠組み」を変えてしまうような仕事です。小説は作者が書いただけでは未完です。読者の胸に作者の言いたかったことが書きたかったことが伝わった時に初めて完成するのです。菊池寛の小説は「テーマ小説」「主題小説」と言われています。「文学は作者と読者の共同作業である」というものです。
・ 菊池寛はストーリーをどこから学んだのでしょうか。実は外国の大衆小説を徹底的に読んでいます。一人では多くの本を読み切れないので文筆婦人会をつくって、女子大出の英語ができる才媛に英米の小説を徹底的に読ませます。おまわりさんの月給が30円から40円の時代に、一冊読むと10円でした。菊池寛は、訳された小説のストーリーを集めて研究し、大衆小説を書き始めました。当時の読者は菊池寛の小説を読むことによって、世界の大衆小説の名作を読んでいたわけです。
・ 菊池寛が創設した大きな仕事に、芥川賞、直木賞があります。賞金は500円です。質素にすれば一年間生活できる賞金です。新人に賞を与え、一年間勉強しなさいと考えたのです。芸術院、「小説家協会」「劇作家協会」をつくり、地位と生活ができるようにしたのです。さらに、「日本著作権保護同盟」をつくり、作者が書いたもので食べられるようにしたのです。
・ 菊池寛ほど大きな事業をした作家というのは空前絶後です。多くの作家には「自分の作品が良ければよい」という部分がある。菊池寛は「きっちりと自分と世の中を見定めて、次々と実現していった作家的事業家」です、いや事業家的作家といった方がよいでしょうか。
・ 最近で言えば、大橋巨泉さんが、テレビの「11PM」で競馬、釣り、いろんなブームの火付け役になりました。実は、あれは昭和の初期に菊池寛がやっていたことなんです。小説も遊ぶ方法ですが、そのほかにこんなに楽しい遊びがありますよと、サラリーマンに率先して紹介したのです。
・ 菊池寛が考えていて実現しなかったことに、「文芸会館」があります。文学者たちの養老院を作ろうとしたのです。ある大学がある作家を雇って生活費を与え、勉強し直すという施設です。
所感:天才の本を読む機会を得た。文学に不案内な筆者にも大変興味深い内容だ。新しい大衆小説世界と日本文化の枠組みも創り上げたという。「今だけ 金だけ 自分だけ」の政治が続く昨今、
工業社会が衰退する中、新しい文化の社会を創り上げねばならないと痛感させられる。