災童を餓死より救うA
[2006年06月26日(月)]
こんにちは
今日は前回の続きのお話をご紹介いたします。
安三先生は災童収容所案が採用されると、自ら、飢餓地へ行って災童を集めた。一週間ほどすると、災童は約800人集まった。さらに、看護婦、医師、教員、書記、経理、炊事婦を指揮するようになった。安三先生は一年志願兵を務めたこともあって指揮する手腕は持っていた。
災童たちには栗のお粥やとうもろこしを食べさせ、当時一ヶ月一人分二円で食費は足りた。
災童収容所が臨時的事業であるにもかかわらず、安三先生は机だの黒板だのを少々作った。それは安三先生がこの収容所が解散されるときに、親たちの中には行方不明になったり、死んだりして、子供を受け取りにこない者がきっといるだろうと考えたからだ。
災童収容所の経営はなかなか面倒だったが、安三先生が子供たちを村に送りに行くと、村々では親たちが道ばたにひざまずいて、安三先生に感謝の意を表してくれたそうだ。安三先生も苦労を自ら慰めることができた。
収容所を解散すると、安三先生には当時の金額で300円のお礼が送られたそうだ。その他に綿衣の制作費の余剰二百何十円かを頂き、そのお金で安三先生は学校を設立した。それが崇貞学園である。(創立当時は崇貞工読女学校と呼んでいた。)
今日は前回の続きのお話をご紹介いたします。安三先生は災童収容所案が採用されると、自ら、飢餓地へ行って災童を集めた。一週間ほどすると、災童は約800人集まった。さらに、看護婦、医師、教員、書記、経理、炊事婦を指揮するようになった。安三先生は一年志願兵を務めたこともあって指揮する手腕は持っていた。
災童たちには栗のお粥やとうもろこしを食べさせ、当時一ヶ月一人分二円で食費は足りた。
災童収容所が臨時的事業であるにもかかわらず、安三先生は机だの黒板だのを少々作った。それは安三先生がこの収容所が解散されるときに、親たちの中には行方不明になったり、死んだりして、子供を受け取りにこない者がきっといるだろうと考えたからだ。
災童収容所の経営はなかなか面倒だったが、安三先生が子供たちを村に送りに行くと、村々では親たちが道ばたにひざまずいて、安三先生に感謝の意を表してくれたそうだ。安三先生も苦労を自ら慰めることができた。
収容所を解散すると、安三先生には当時の金額で300円のお礼が送られたそうだ。その他に綿衣の制作費の余剰二百何十円かを頂き、そのお金で安三先生は学校を設立した。それが崇貞学園である。(創立当時は崇貞工読女学校と呼んでいた。)



