災童を餓死より救う
[2006年06月25日(日)]
こんにちは
今回は安三先生が崇貞学園を創設するきっかけとなった事業を二回に分けてご紹介いたします。
安三先生が支那語と支那事情の勉強をしているときに、北支の早災が起こった。雨が一滴も降らない状態で、作物も育たず、北支五省の百姓たちは大飢餓のために死ぬよりほかなかった。
日本国民もそれを黙ってはいなかった。学校や商業会議所が主催してお金を支那へ送金した。しかし、そのお金が目をくぼませている農民の手に入るかどうか疑問に思った安三先生は直接救済運動をやりたいと考えた。
北京の居留民会委員会へ餓死にひんしている農民の子女を集めて麦の収穫期まで養うという災童収容所案を提出した。当時の委員長だった中山氏は「飢餓救済のようなものは拙速を顧みる暇がないのであるから、君一つやってみよ。」と了承した。安三先生28歳の時だった。
この続きは次回ご紹介いたします。
今回は安三先生が崇貞学園を創設するきっかけとなった事業を二回に分けてご紹介いたします。安三先生が支那語と支那事情の勉強をしているときに、北支の早災が起こった。雨が一滴も降らない状態で、作物も育たず、北支五省の百姓たちは大飢餓のために死ぬよりほかなかった。
日本国民もそれを黙ってはいなかった。学校や商業会議所が主催してお金を支那へ送金した。しかし、そのお金が目をくぼませている農民の手に入るかどうか疑問に思った安三先生は直接救済運動をやりたいと考えた。
北京の居留民会委員会へ餓死にひんしている農民の子女を集めて麦の収穫期まで養うという災童収容所案を提出した。当時の委員長だった中山氏は「飢餓救済のようなものは拙速を顧みる暇がないのであるから、君一つやってみよ。」と了承した。安三先生28歳の時だった。
この続きは次回ご紹介いたします。



