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桜美林学園のお話

今年(2006年)桜美林学園は創立60周年を迎えます。そこで、この60周年を機会に桜美林学園の自校史や創立者である、清水安三先生、郁子先生にまつわるお話や清水安三先生Tシャツプロジェクトの同行をお伝えしていきます。

 たくさんのコメントをよろしくお願いいたします。


崇貞学園創立 [2006年06月27日(火)]
 こんにちは今回は崇貞学園を当時の資金500円で創立した安三先生をご紹介いたします。

 わずか500円で学校をこしらえると聞いて、何人も笑ったが、安三先生はお金の上に学校を建てたのではない。実になくてならぬものは与えられるという信念の上に学校を建てたのだ。大正10年5月28日安三先生は崇貞学園を創立した。

 支那人小学校は最初58名の子供が勉強していたようだ。当時の安三先生は同時に日本へ帰り、後者建築資金の募金活動に励んでいたそうです。

 
災童を餓死より救うA [2006年06月26日(月)]
 こんにちは今日は前回の続きのお話をご紹介いたします。

 安三先生は災童収容所案が採用されると、自ら、飢餓地へ行って災童を集めた。一週間ほどすると、災童は約800人集まった。さらに、看護婦、医師、教員、書記、経理、炊事婦を指揮するようになった。安三先生は一年志願兵を務めたこともあって指揮する手腕は持っていた。

 災童たちには栗のお粥やとうもろこしを食べさせ、当時一ヶ月一人分二円で食費は足りた。

 災童収容所が臨時的事業であるにもかかわらず、安三先生は机だの黒板だのを少々作った。それは安三先生がこの収容所が解散されるときに、親たちの中には行方不明になったり、死んだりして、子供を受け取りにこない者がきっといるだろうと考えたからだ。

 災童収容所の経営はなかなか面倒だったが、安三先生が子供たちを村に送りに行くと、村々では親たちが道ばたにひざまずいて、安三先生に感謝の意を表してくれたそうだ。安三先生も苦労を自ら慰めることができた。

 収容所を解散すると、安三先生には当時の金額で300円のお礼が送られたそうだ。その他に綿衣の制作費の余剰二百何十円かを頂き、そのお金で安三先生は学校を設立した。それが崇貞学園である。(創立当時は崇貞工読女学校と呼んでいた。)
災童を餓死より救う [2006年06月25日(日)]
 こんにちは今回は安三先生が崇貞学園を創設するきっかけとなった事業を二回に分けてご紹介いたします。

 安三先生が支那語と支那事情の勉強をしているときに、北支の早災が起こった。雨が一滴も降らない状態で、作物も育たず、北支五省の百姓たちは大飢餓のために死ぬよりほかなかった。

 日本国民もそれを黙ってはいなかった。学校や商業会議所が主催してお金を支那へ送金した。しかし、そのお金が目をくぼませている農民の手に入るかどうか疑問に思った安三先生は直接救済運動をやりたいと考えた。

 北京の居留民会委員会へ餓死にひんしている農民の子女を集めて麦の収穫期まで養うという災童収容所案を提出した。当時の委員長だった中山氏は「飢餓救済のようなものは拙速を顧みる暇がないのであるから、君一つやってみよ。」と了承した。安三先生28歳の時だった。

 この続きは次回ご紹介いたします。
いざ北京へ [2006年06月24日(土)]
 こんにちは今回は安三先生の北京生活の始まりをご紹介いたします。

 安三先生が北京へ行ったのは大正8年のことでした。安三先生は大日本支那同学会に入れてもらい、支那語と支那事情の研究に没頭したそうです。同学会の雰囲気は息づまるほど勉強に燃えていたそうです。そこで、まず最初に安三先生は『支那新人と黎明運動』を書き上げました。(もちろんこの本は桜美林大学の図書館にあります。)内容は、孫文の思想等を取り扱ったものです。

 さらに安三先生は魯迅の小説を初めて日本文に訳されました。

 今後も安三先生の中国での活躍をご紹介していきます。
安三先生の母 [2006年06月23日(金)]
こんにちは今日は昨日の続きの安三先生が除隊前に外出された、二泊めの話をしたいと思います

 見習仕官姿の安三先生を見た、お母さんはものすごく喜んで、村の人々を招き、まだ除隊もしてないのに祝杯をはられたとそうです。
 そんなお母さんに安三先生は
「実は‥‥」
 と切り出しました。
「おっかあ、わしはな、こんどシナ(中国)へ行くことになったんや」
 とお母さんにことの一部始終を物語り、
「しかしやで」
 と言葉を切って、
「おっかあが、さみしから行かんとけ、近江にいてくれと、たっていうやったら、わしはボリッさんの近江ミッションで働かしてもろうてよいのやで‥‥」
 するとお母さんは立ち上がって、言った、
「おまえはなんと、このクソババのわしのことが心配で、シナにもいけんのか。そんならわしは首を吊って死のうわいの。わしの事なんか考えんと、アメリカなとシナなと、どこへなっと行け」
と立て続けに言うお母さんの言葉を聞いて、思わず、
「おっかあ、お前はなんと、藤樹のおかあさまより偉い女じゃなあ‥‥」
と言ったそうです。こんなイイお母さんに育てられ、安三先生は育ったんですね

 人間は、本当に周りの人々の影響を受けて育っていくんだなと改めて感じる話でした、これからも人と人との繋がりを大切にして生きていきたいなとしみじみ思いました
反逆者先生 [2006年06月22日(木)]
 こんにちは今日はなぜ安三先生が反逆者になったのか書いていきたいと思います。
 
 大正6年5月、安三先生が除隊を前に二泊、外出許可の許しを得た時の話です。先生は一泊目をヴォーリーズ先生のもとで、二泊目を母のもとで過ごしました。

 ヴォーリーズ先生とは夕食を食べたあとゆっくりと話しをしたそうです。ここからは、その時の二人の会話を紹介したいと思います。
ヴォ「君は近江ミッションの伝道師たるべきじゃ」

安 「先生、僕は同志社の四年終わり頃、近江ミッション解職されたんですよ。その証拠に五年生の一年
   間は、一銭だってスカラシップを受けておらんですよ。」

ヴォ「それは知らなかった。しかし、ボクは君を手放すことは絶対にでけへんは」

安 「ボリッさん、先生が米国から日本に来られた同じ動機で、ボクはチャイナへ行くのですよ」

 この時の会話を先生はまざまざと記憶されていたそうです。こんな感じで、二人はとうとう夜が明けるまで、日本語半分、英語半分の押し問答をされたそうです。
 そして最後にボリッさんが言い放たれた文句が、

ヴォ「君は反逆者だ!」
 
であったそうです。これが安三先生が反逆者になった理由ですヴォーリーズ先生が安三先生のことを大好きだったのが、よく伝わってくる話でしたね
模範兵 [2006年06月21日(水)]
こんにちは今日は安三先生が大正4年12月1日に大津市琵琶湖畔の、歩兵第九連隊に志願兵として入隊したときの話をしたいと思います。
 
 安三先生は当時30s近くある鉄砲などをかついで一日に60qの長距離を強行軍させられていたそうです。しかし、一度も先生は落伍しなかったそうです。それどころか、町々村々のよりすぐりの壮丁ばかりの中でさえ、以前も話したが早駈けそうもいつも一番だったそうです。
 こうした勤務振りだったから、安三先生は上等兵に任官するときにも、伍長に昇進するときにも、志願兵を引率して「連隊長殿、清水志願兵以下52名、本日伍長に任ぜられました」とやってのけたそうです。

 安三先生は、かなりの頑張り屋でリーダーシップのとれる方だったんですね。

安三先生中国への決心B [2006年06月20日(火)]
 こんにちは今回は安三先生が中国へ渡る決心をしたとどめとなるような事を紹介いたします。

 それは安三先生同志社大学生活最後の正月に、国際愛という題の下に、平安教会で行われた祈祷会に出席したときのことです。

 その日の祈祷会はのちの同志社大学総長牧野虎治牧師による講演だったそうです。牧野氏はエール大学の卒業生であるが、やはりエール大学を出て殺されたホレス・ペトキンという宣教師の物語をされたそうです。

 ペトキンはアメリカン・ボードの宣教師であって、保定の東関外に、小さい学校と診療所を経営していた。その時かの北清事変が起こった。ペトキンは彼の妻と赤ん坊を伴って天津に至り、米国義勇隊に避難した。米国公使は軍艦から去ってはならぬと命じたが、羊飼いが羊の群れを野に置いて逃げるならば、それは卑怯者であるといって、彼は保定に帰っていった。保定では何人かのキリスト教徒が惨殺され、彼も一弾をあびて亡くなった。

 彼は生前にエール大学へ次のような手紙を残していた。「エールよ、エールよ、エールは我が子ジョンが25歳になるまで、彼を育ててくれ、25歳になったらば、彼をして保定に来らしめ、我が後を継がしめよ。」エール大学の教職員と学生はこの手紙に感銘を受けて、今でもエール・チャイナ・ミッションというのを支持している。

 安三先生はこの奨励を聞いてもうどうしてもじっとしていられなかったそうです。


安三先生中国への決心A [2006年06月19日(月)]
 こんにちは今回は安三先生が中国へ渡った第二の理由をご紹介いたします。

 第二のきっかけは同じく安三先生が同志社大時代に薬師寺唐招提寺にお参りしたときのことでした。みなさんもご存じのとおり、唐招提寺は鑑真和尚の建立に関わるものです。鑑真は何度も日本に来ようとし、来たときには既に潮風のため盲目となっていたことは有名なお話です。これを安三先生が寺僧からの説明でお聞きになられ、とても感銘を受けたそうです。誰かが大いなる犠牲となって、日本文化を高めた、だから私もという気にさせたのがこの鑑真の物語です。

 次回は安三先生が中国へ行く決心最終回をお伝えします。お楽しみに

安三先生中国への決心@ [2006年06月18日(日)]
 こんにちは今回は清水安三先生が何故中国に渡る事を決めたのかについてご紹介します。

 安三先生は1921年に中国北京において子どもたちや女性たちが技術とともに教養を身につけることができるようにと設立された「崇貞学園」を開校したわけですが、そもそも何故中国へ行こうと思ったのか。それにはどうやらきっかけがあったようです。

 第一のきっかけとなったのは、安三先生同志社大学神学部5年生の時の事でした。図書館で徳富蘇峰氏の『支那漫遊期』を見つけたことが始まりです。安三先生が読んでいくと、蘇峰氏が宣教師を訪問するところまで読んだとき、次のような文書があったそうです。「おもふに、我邦の宗教家にして、果して一生の歳月を支那伝道のために投没する決心あるものあるか。予は、英米その他の宣教師の随喜者にあらざるも、彼らの中にかくの如き献身的努力あるの事実は、たとえ、暁天の星の如く少くも、猶暁天の星としてその光を認めざるを得ざる也。」(暁天とは朝早くにお寺でお坊さんのお説教や著名な文化人のお話をうかがうというもので す。)安三先生は読後、「なあに、わが国青年宗教家だって、やれんことはあるまい。」とおっしゃったそうです。

 安三先生は蘇峰氏のこの一文でどうやら生涯の方向を転換せしめられたようです。続きはまた明日
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