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多摩丘陵にある日野市三井台、ここに住む高齢者のクラブ・三井台南窓会の会員が中心になって作っている団体ブログです。地元の季節毎の写真、南窓会の活動報告、会員の旅行記、俳句、地域の情報など、多様な記事が満載です。
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高幡不動尊(続) [2011年04月30日(Sat)]
高幡不動尊(続)





上:シャガ
下:カラスノエンドウ(弁天池)



上:境内のもみじ
下:名前不詳



上下:山地内の新緑




上:もみじの新緑
下:五重塔と新緑もみじ



上:大師堂・聖天堂の背面
下:大師堂・聖天堂の細部
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Posted by wild river at 09:14
フラワーアレンジメント [2011年04月29日(Fri)]
フラワーアレンジメント
2011年4月

今月は花束(ブーケ)を作りました。

先生の作品



花材
上段左から バラ・カーネーション・オーニソガラム(ダビウム)
下段左から トルコキキョウ・スカビオサ・アルケミラモーリス
アイビー(パーセリ)


その他の材料 針金(40センチ1本、20センチ3本)・テープ

土台の作り方
1.針金に茶色のテープを巻きます。
2.長い方の針金は輪にして、つなぎ目はテープで巻きます。
3.輪の針金に短い針金を3〜4センチ掛けて、動かないようひねっておきます。
4.輪に掛けた3本の針金を写真のように一つにまとめてテープを巻きます。
5.輪のまわりにアイビーをからめます。


土台が出来たら、中心の針金を手に持って、葉を取った花を土台の輪より上に7〜8センチ出るように、輪の中に入れていきます。(中心の針金と一緒に茎を握る)
全部入れ終わったら、輪ゴムで茎の上の方を止めておきます。
余分な長い茎を切り揃え、水を入れた花器に飾ります。

生徒の作品




(文責石塚)
Posted by みよちゃん at 23:37
高幡不動尊 [2011年04月28日(Thu)]
高幡不動尊

太師堂の建替え工事が終わり4月23日土曜日に落慶法要が行われました。
建替えに伴い新たに「聖天堂」が併設されています。
木の香も清々しいお堂は、新東京百景「高幡不動尊」の声価をさらに高めるものと思います。



上:二つのお堂の全景
下:聖天堂



上:太師堂
下:太師堂 堂内



上:境内の一輪草
下:同  すみれ



上:つつじ(聖天堂前)
下:つつじ(五重塔南の八十八か所入口)


上下:どうだんつつじ(聖天堂前)

注)お堂の全景は超広角レンズを使用したため画面が歪んでいます。

続く
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Posted by wild river at 08:06
サクラ保存林を訪ねて [2011年04月27日(Wed)]
サクラ保存林を訪ねて



JR高尾駅北口から徒歩10分ほどのところにある多摩森林科学園に面積8ヘクタールのサクラ保存林があります。
(1ヘクタールは10000平方メートル約3000坪)

この保存林は、昭和41年 全国の著名なサクラの遺伝子を保存するために設置されました。

江戸時代から伝わる栽培品種、国の天然記念物に指定されたサクラのクローンなど全国各地からあつめられたサクラ 約1500本が植えられています。
品種によって開花期がズレるので5月頃までサクラを楽しむことができます。




上:サクラ保存林の一つの風景
下:枝垂れ染井吉野
風景は撮影者の好みに応じて多くのポイントを見つけられるでしょう。



上:大島サクラ
下:雨情枝垂れ




上:八重紅彼岸(ヤエベニヒガン)
下:白雪




上:佐野サクラ
下:湯村
湯村とは兵庫県温泉町正福寺(ショウフクジ)で栽培されている品種



上:山サクラ
下:仙台枝垂れ
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Posted by wild river at 09:34
チューリップ [2011年04月25日(Mon)]
チューリップ

今年のチューリップの見納めとばかりに、昭和記念公園にでかけました。
チューリップは梅や桜に比べると品に欠けると思うのですが、トルコ原産のこの花は原色の鮮やかさが人を惹きつけます。
NHKの写真の先生のお話では、今年は去年とは別の人がガーデンのデザインを担当したということです。
















ポピーも咲きはじめた様子です


さいた さいた チューリップのはなが

ならんだ ならんだ あか しろ きいろ 

どのはなみても きれいだな
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Posted by wild river at 07:41
白州正子展 [2011年04月23日(Sat)]
白州正子特別展案内

用賀、砧公園内の世田谷美術館で白州正子生誕100年特別展が5月8日まで開かれています。ご覧になられた方もおられると思いますが、素敵な展覧会です。

仏像、絵画、写真など、著作、「近江山河抄」「十一面観音巡礼」その他の白州さんの著作から引用の説明があり、普通の展覧会の学芸員の解説とは違う魅力があります。

良く知られる国宝、高山寺「明恵上人樹上座禅像」は明日24日までの展示ですが、他にも
見ごたえのある展示品が多く、お勧めできる展覧会です。

昼をはさむ場合は、着いたらまず管内のレストランを予約(1時間以上待ち)しておいて展示を見てから食事、その後また展示に戻るのが疲れずに楽しめます。

案内 東急田園都市線用賀駅下車から
   徒歩15分、美術館行きバスは1時間に1本、2本と少ない。タクシー710円
文責菊間
Posted by 菊間敏夫 at 09:41
風の中のマリア(読書感想)  [2011年04月22日(Fri)]
「風の中のマリア」(読書感想)
 

(講談社発行、2009年3月)

「風の中のマリア」というタイトルで、どんな内容の本を想像しますか?主人公は亜麻色の髪を風になびかせた若い美しい女性でしょうか?
いいえ、実は、この本の主人公は、恐ろしい顎をもつ獰猛なオオスズメバチの一匹の働き蜂(メス)です。著者が勝手にこの蜂を擬人化して、その動きの速さから「疾風のマリア」という名前を付けています。

この本の著者は、以前このブログで紹介した「永遠の0(ゼロ)」の百田(ひゃくた)尚樹氏です。
(「永遠のゼロ」のブログは次をクリック
http://blog.canpan.info/nsk/archive/957

この小説は、働き蜂マリアが羽化してから死ぬ瞬間までの約1カ月間のストーリーで、マリアの立場から、その行動や考えを描いています。オオスズメバチの生態を知らず知らずに勉強できるようになっています。

働き蜂は、すべてメスというのもこの本を読んで知りました。働き蜂は、常に女王蜂と幼虫のために、食べものを得るために、他の虫を捕獲し続ける一生であり、メスでも子供を産むことはありません。その命も30日ほどです。ハチの世界で最強といわれるオオスズメバチは、一匹の女王蜂を中心に帝国を築いています。

マリアは、帝国の最盛期に生まれ、狩りに明け暮れる毎日を過ごして居ますが、日が経つにつれて獲物が少なくなっていきます。黄色スズメバチと、死闘をくりひろげますが、その熾烈な戦いは、「永遠のゼロ」の中の戦闘機同士の戦いを思い起こせます。オス(複数)の誕生と、新しい女王バチ(複数)の誕生とともに、現在の帝国が次第に崩壊し、新しく生まれた女王蜂を中心に別の帝国が築かれていきます。
帝国のために、自身の命も顧みず戦う働き蜂の姿は感動的で、日本の為に散って行った兵士の姿が重なります。

私は、虫は嫌いで、スズメバチは特に危険な虫だと警戒していましたが、ちょっと見方が変わりました。
ハチが主人公といっても、童話と違って大人が読むためのスリルのある小説で、一息に読ませます。(皆川)
Posted by 皆川眞孝 at 20:27
八重桜 [2011年04月21日(Thu)]
八重桜

今週19日、新宿御苑の八重桜を見てまいりました。
以下はそのレポートです。

1.



2.


3.

上:鬱金 ウコン
   数百品種の桜の中で唯一黄色の花
下:関山 カンザン 正式名はセキヤマ
   代表的な品種で環境変化に対して強い


4.

上:一葉 イチヨウ
   花弁の中央に葉が一枚あるところからこの名
下:福禄寿 フクロクジュ
   東京荒川堤にあった大島桜系の里さくら

5.


新宿御苑には「普賢象」フゲンゾウという室町時代から存在したという八重桜もあるのですが、今年は見落としてしまいました。
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Posted by wild river at 08:00
We shall overcome (補足) [2011年04月20日(Wed)]
We shall overcome(補足)



明平さん、We shall overcome のYouTube を掲載していただき、ありがとうございます。心に沁みる歌です。猫の表情もいいですね。

ブログ読者でこの歌を初めて聞く方のためにちょっと補足しますと、この歌は、アメリカで1960年代に黒人公民権運動のテーマソングとして歌われたそうです。また、讃美歌にもなっているようです。
そして今は、東北大震災で被害を受けた方々を力づける歌として、インターネットでも取り上げられています。
Overcomeというのは、「克服する」、「乗り越える」という意味ですから、ぴったりです。

インターネットで英語の歌詞を調べてみました。日本語歌詞もありましたが、意訳していますので、直訳してみました(皆川)

<英文の歌詞>
We shall overcome
We shall overcome
We shall overcome someday
Oh, deep in my heart
I do believe
We shall overcome someday

We’ll walk hand in hand
We’ll walk hand in hand
We‘ll walk hand in hand someday
Oh, deep in my heart
I do believe
We shall overcome someday


<翻訳(皆川)>
ぼくらは 乗り越えられる
ぼくらは 乗越えられる
いつかは 乗越えられる
心から信じている
いつかは 乗越えられると

ぼくらは 手をつなぎ歩こう
ぼくらは手をつなぎ歩こう
いつか 手をつなぎ歩こう
心から信じている
いつかは 乗り越えられると

<讃美歌第二編164番「勝利をのぞみて」歌詞>
勝利を望み 勇みて進まん
大地踏みしめて
ああ、希望にあふれて
我らは進まん

手を携えて 互いに進まん
勝利の時まで
ああ、希望にあふれて
我らは進まん
Posted by 皆川眞孝 at 08:44
三井台南窓会定期総会の報告 [2011年04月19日(Tue)]
三井台南窓会定期総会の報告


三井台南窓会定期総会は4月16日(土)午前10時より南平東地区センターで開催されました。
昨年と同じく、萩原暁様の司会で開会しました。出席者28名 委任状89名 計117名、これは正会員の過半数を超えており、総会は成立しました。

会長挨拶では、「大震災の後、助け合いと復興のために地域の力が見直されていて、自治会・老人会の重要性が再認識されています。南窓会も地域の結びつきに一層力をいれて、防災にすこしでも役に立つようにしていきましょう」という話をしました。

野澤義和様の議長で議事が進められました。
平成22年度事業報告、決算報告、役員改選、平成23年度事業計画、収支予算、規約一部改正は原案(先月の南窓会だより添付)通り全会一致で承認されました。

議事終了後、退任の大宮澄子様、宮ア和子様、阿部充枝様、に花束の贈呈がありました。長い間、南窓会へのご尽力ありがとうございました。


大宮さん(左)には、倉重副会長から



宮アさん(左)には、篠田さんから


阿部さん(左)には、小泉さんから

(上の写真提供:和田修さん)

新役員の顔ぶれは、次の通りです。

 会長 皆川眞孝   副会長 倉重敬子   会計 藤戸紘子
幹事 秋澤洋三、内田千鶴江、小野洋子、菊間敏夫、木原義江、小泉晃子(新)、小菅和恵(新)、小山正子、篠田洋子(新)、成瀬巌、萩原暁、春木絢、松井澄子(再)、和田修  
サークル連絡員:石塚美代、大澤紀美香
監査  大宮澄子  宮ア和子 

22年度とほとんど同じメンバーですが、よろしくお願いいたします。
(皆川)
Posted by 皆川眞孝 at 18:27
近畿逍遥(52) [2011年04月15日(Fri)]
近畿逍遥(52)


(2月−6)


奥嵯峨・鳥居本〜愛宕念仏寺
景観を楽しみながらの散歩に絶好のコースと言えます。
嵐山渡月橋から北西方向に延びている嵯峨路は鳥居本経由愛宕念仏寺まで約3キロぐらいだと思います。京都駅からは路線バスで嵯峨野の一番奥の「愛宕寺前」で下車して嵐山に下りていく逆のコースがお勧めです。





嵯峨鳥居本(右京区)

愛宕神社一之鳥居の前に形成された町並み。江戸時代には火を司る神を祀る愛宕神社への参詣が盛んであった。嵯峨釈迦堂を経て愛宕神社へ向かう愛宕街道沿いにこの町並みはある。約5〜600mの区間に町家と草葺の民家があり徐々に移り変わる。一之鳥居付近の茶店は江戸時代の姿を伝えている。

「産寧坂(東山区)の円山公園〜三年坂の一帯」と「上賀茂(北区)の社家町一帯」とともに京都の「歴史的景観保全修景地区」に指定されています。









愛宕念仏寺おたぎねんぶつじ(右京区)

縁起には下記のように記されています。
稱徳天皇しょうとくてんのう(764〜770)の開基により山城国愛宕(おたぎ)郡(現在の東山区)に愛宕おたぎ寺として建立された。平安期の初め、鴨川の洪水により堂宇が焼失したため、天台宗の僧、阿闍梨伝燈大法師千観内供(せんかんないぐ)(918〜984)によって再興された。これより天台宗比叡山の末寺となり等覚山愛宕院(おたぎいん)と号した。また、千観は生涯仏名を唱えて絶えることがなかったので、世に念仏上人ともいわれ、当寺を愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)と称するようになった。
それから後、大正11年(1922)堂宇の保存とあたご山との信仰的な関係から、当地に移築された。昭和56年(1981)には寺門興隆を祈念して、境内を羅漢の石像で充満させたいと発願し、平成3年(1991)に「千二百羅漢落慶法要」が厳修されている。
これらの羅漢さんは、10年間にわたる、全国(沖縄から北海道まで、外国人も含む、小学生から90歳台のご老人まで)の千二百人の精魂込めた自信作である。
何度も訪れ、何度もゆっくり、じっくり見てますが、「祈りの造形」には飽きることがありません。今この時、特に痛く響く造形です。




写真・上左:「仁王門」
江戸中期。仁王像は鎌倉時代に造られ、市指定文化財。

写真・上右:「地蔵堂」
本堂正面にある。平安初期に造られた火除地蔵菩薩像が祀られています。

写真・下:「本堂」
方五間、単層入母屋造り。鎌倉時代で重要文化財。







































前住職である西村公朝(平成15年遷化、89歳)さんのお話。
『昭和30年(1955)、比叡山から住職を命じられて寺を訪れると、想像以上の惨状でした。
師と仰ぐ清水寺の大西良慶管長さんに相談したところ「それだけ荒れておったら、草一本むしっただけで、おまえは復興者やと言うてもらえる。あわてんでもよろしい。仏さんがおまえを待ってたんや。わしも手伝ってやるから引き受けろ」と。
とはいえ、なかなか寺の復興に取り掛かれなかったのですが、昭和55年頃からやっと本格的に堂宇の再建に着工し、寺門興隆を祈願して信者の方々による石の羅漢彫りを発願しました。それが、十年後には千二百体になり多くの方が参拝してくれるようになりました』
現役中は、公朝さんの法話を聞こうと全国から人が集まったそうです。ご住職は、仏師であり、仏像修理技師としても活躍されたということです(比叡山では「現代の円空」と呼ばれていたとのこと)。
境内には公朝さんの造った仏像や千二百体の羅漢さんが、いつも温かく迎えてくれます。
なお、現在のご住職はご子息が継がれています。





(2月 了)







皆様への御礼

昨年3月にスタートした「近畿逍遥」。手持ちの写真や資料の整理整頓ができ、略、ネタが尽きてしまいましたので(一部未整理のモノや、あらたに材料ができましたら追加させていただきますが)、ここでひとまず筆を置かせていただきたいと思います。
12ヶ月間にわたりまして、お付き合いいただきました皆様、並びに特に本ブログ開設から掲載の技術的指導等いろいろと労をおとりいただいた皆川様には深甚なる感謝を申し上げます。
お陰さまにて、狭い押し入れを陣取っていたダンボール4箱が全て、これを機に廃棄できる運びとなり大変喜んでいるところです。ありがとうございました。                       奥野拝
Posted by 奥野 祥司 at 08:30
日野市防犯ニュース [2011年04月14日(Thu)]
日野市防犯ニュース
 

 大震災の後、人々の心をひとつにして復興に努力しなければいけない時ですが、このような非常時でも振り込め詐欺が発生しているようで、残念です。
本日「日野市防災安全課」から「日野警察署からの情報」が届きましたので、お伝えします。(皆川)

*******

☆今、日野市が狙われています!

昨日から今日まで、多数の振り込め詐欺の事前電話(アポ電)が確認され、実際に被害が発生しています!(本年計8件)

いずれも息子を名乗り、「大切な金を電車でなくした」、「会社の金を使い込んだ」、「今から仲間が取りに行く」などと、様々な手口・方法を多用しています。ご注意ください。
▲真偽を確認する
▲家族に相談する
▲警察に相談する

☆嘘の義捐金や点検詐欺にご注意!
 
震災に便乗して「義捐金や貴金属を集めています」、「耐震制度を確認しませんか」など、震災に関連した詐欺が発生しています。

また、依然として「同時多発テロが発生します」「人体に有害な雨が降ります」など不安をあおる風評にもご注意ください。
(日野市役所 防災安全課)


なお、本日の新聞によれば、「放射能対策」をうたった新手の悪質商法が広がっているそうです。たとえば「給湯器に放射能がたまり危険です。清掃しませんか」ともちかけたり、「放射能に汚染された水を飲めるようになる薬を買いませんか」とか「体に侵入した放射能物質を吸着して排泄する健康食品です」と勧誘するケースです。いずれも、現状このようなものはないそうですので、ご注意ください。

Posted by 皆川眞孝 at 14:12
高幡不動駅北口方面を散策 [2011年04月13日(Wed)]
高幡不動北口方面を散策

                                                                                                                    
風の強かった4月12日の正午過ぎ、一足違いでミニバスが発車してしまい、バス停から駅ビルを眺めているうち、そういえば私は駅が改装して何年にもなるのに、新しく設けられた北口を見た事がないと気付きました。ちょっと行ってみたくなり、エスカレーターに乗り3階の改札口の前を通り過ぎて、北口を見に行くことにしました。  

                                     
節電のため北口のエスカレーターは止まっています。でもエレベーターがあり助かりました。


此の北口が出来る前は、南口からでて、今もありますが天井の低いガード下を通って行ったものでした。
時間が限られているので取りあえず潤徳小学校の周りを歩いてみました。



若宮神社の前を通り、小学校の正門を過ぎると校舎の北に「向島用水親水路」の表示板が見えました。この水は以前田畑を潤し続けて来たのでしょう。
浅川のふれあい橋近くに取水口があり新井橋の方向へ流れています。歩道にはウッドチップが敷き詰められ、歩きやすくなっています。此処は潤徳小学校の敷地内だそうです。
マンションに囲まれていることを忘れる、小さな静かな空間だと思いました。
家に帰ってからインターネットで調べましたら、ビオトープとして知られているようです。
ビオトープって何?生き物(Bio)がありのままに生息活動する場所(Top)という意味の合成されたドイツ語だそうです。
「都市部などで人間によって再構成された自然環境をとくにビオトープという」とありました。
何年か前には沢山鯉が泳いでいましたが、今日は鳩以外何もいませんでした。ちょっと水が少ないようだと思いました。水面に桜の花びらを乗せて流れています。

           
                                            
堤の下から「ふれあい橋」を仰ぎ見て、大きく見事な「大島桜」を眺め、さくら餅を包む葉はこの桜だと、お腹がすく時間でしたので思い出して、バス停まで早足で戻りました。今日は風のせいでしょうか空が青く澄んで綺麗でした。足元にも踊子草が可愛いピンクの花を見せてくれました。

(文責:宮ア)
                                                                                                                  
Posted by ミセスミヤ at 11:46
ウォーキングサークルの活動再開 [2011年04月12日(Tue)]
ウォーキングサークルの活動再開


ウォーキング・サークルが久しぶりに活動を再開したという明るいニュースを聞きましたので、参加した藤戸さんに、原稿を書いていただきました。(皆川)
********
震災のため、中止となっていたウォーキング・サークルの活動が一か月ぶりに再開した4月7日(木)は、春の陽射しが柔らかく降り注いで、絶好のウォーキング日和でありました。
新顔も加わり総勢14名、午前9時に鹿島台の郵便ポスト前に集合、和田リーダーを先頭に定刻通り出発いたしました。当日の目的地は根川の桜並木。いつもなら姦しいほどの会話が弾むのですがこの日ばかりは無口になりがちのウォーキングでありました。
ふれあい橋を渡り、浅川の土手を歩き、浅川と多摩川の合流地点に流れ込む・根川に達しました。川への曲がり角を曲がると一気に桜色の光景が眼前に広がりました。

根川の土手には染井吉野だけでなく、大島桜の大振りの白い桜も開いて、それはそれは見事な眺めでありました。震災の影響か、根川の桜並木があまり知られていないせいかわかりませんが、花見の人々も少なく、落ち着いて桜を鑑賞できました。

桜には鵯や雀が密を吸うために群がり、河原の叢には青鷺が群れをなして卵を温め、川の土手にはたんぽぽ、草木瓜、仏の座、雪柳、犬ふぐりなどが命を繋ぐ営みをしておりました。桜並木の下では若者が夢中でドラムを叩いておりました。

花は咲き、鳥は囀り、春の日射しはこよなく優しく暖かく、本来ならばウキウキと浮き立つ情景ではありましたが、全員言葉少なく、思いを胸におさめて道程を終了し、午前11時30分モノレール万願寺駅にて解散となりました。

ウォーキングの参加者全員

美しければ美しいほど悲しく切ないウオーキングでありました。
被災地の一日も早い復興を心よりお祈りしております。

   「咲く木無く桜前線北上す」        
(藤戸紘子記)
Posted by 皆川眞孝 at 13:16
浅川堤防の桜 [2011年04月11日(Mon)]
浅川堤防の桜


4月10日午後都知事選の投票のため、みなみが丘に住む私は南平小学校に行きました。鹿島台の子ども達が通学時に渡る、北野街道に架かる陸橋を見上げると、満開の桜が見事でした。
バックの中の小さなカメラで一枚撮りました。校庭は桜で囲まれてとても綺麗でした。
投票後、急に思いついて一番橋の手前から右折して浅川の堤防の桜を眺めてきました。
今年は開花が遅かったのですが、花の色は濃いような気がします。











堤防から川と反対側に下りてみました。桜のトンネルを歩きます。





今年は子ども連れの家族がひっそりとお花見しながら、お昼を楽しんでいました。
若者たちは河原に居ましたが、静かで音楽も聞こえませんでした。
ゆっくりと落ち着いて眺める事が出来ました。もう少し青空が欲しかったのと、力量不足で雰囲気が出せないのが残念です。ひらひらと花が散り始めている木もありました。

(文責:宮ア)
Posted by ミセスミヤ at 09:37
稲荷沢公園の桜(わが町スナップ) [2011年04月10日(Sun)]
稲荷沢公園の桜(わが町スナップ)

今年は4月になっても寒い日が続きましたが、やっと暖かくなり、桜も咲き始めました。
三井台に隣接する「稲荷沢公園」には桜の木が3本あり、毎年見事な花を咲かせます。

昨年、枝を大幅に落としたので、今年はどうかなと心配しましたが、大丈夫、今日(4月10日)は満開の花を見せてくれました。


また、南平東地区センターの裏山(南が丘側)の桜もきれいです。



大災害の後なので、お花見の浮かれた気分になりません。
三井台会員・藤戸紘子さんの次の句が、私達の気持ちを代表しています。
被災地を思ひつ独り花を観る (藤戸紘子) 
(文責:皆川)
Posted by 皆川眞孝 at 16:32
近畿逍遥(51) [2011年04月09日(Sat)]
近畿逍遥(51)


(2月−5)



京都・嵯峨嵐山〜京福電車で蚕の社および北野天満宮そして京都御苑の一角を歩いてみます。






野宮神社ののみやじんじゃ(右京区)
祭神は天照大神。「源氏物語」の「賢木さかき」の巻の舞台となり、境内の黒木の鳥居と小柴垣に往時が偲ばれる。
現在は縁結び・子宝安産の神として信仰を集めている。苔と竹の美しさは、芭蕉や蕪村の俳句にも詠まれています。

写真・下 「黒木鳥居」
樹皮のついたままの鳥居のことで、鳥居の形式としては極めて原始的。当社では用材に「くぬぎ」を使用しているとのことですが、近時鳥居に適したくぬぎが入手困難とのこと。高松市の某会社から自然木の鳥居の寄進受け建立したと、説明書きにある。









三秀院(右京区)

嵐山の天龍寺の塔頭。貞治2年(1363)の創建。荒廃後、後水尾天皇によって寛文年間(1661〜72)に中興された。
「東向大黒天」と刻まれた石碑が立つ、静かな境内の奥に大黒天を安置する六角堂がある。大黒天は、仏教の発祥の地インドにおいては梵名で「摩訶迦羅」(まかから)という。「摩訶」は大きい、「迦羅」は暗黒の意で、「大黒天」と呼ばれ、暗黒の神、闘争の神とされ、忿怒の相をしていた。反面、象皮の袋を背負うことから、財宝の神とする面も有していた。
大黒天が日本に入ってくると財宝のご利益ばかりが強調され面相も福徳の柔和な相へ変えられていった。こうした変化の原因の一つに大国主命の存在がある。俗に「だいこくさん」と呼ばれ、大国と大黒天が同音であるため二神はいつしか混線していったという。
そして室町時代に福徳七福神が生まれ、大黒天は財(小槌)と食(米俵)を司る神として迎えられたことになる。
延暦寺の大黒天は、インドの摩訶迦羅像。寛永寺のそれは、七福神の純日本風の像。そして三秀院のそれは、その中間で、姿は日本流であるが顔はインドの忿怒相。摩訶迦羅から日本の大黒さんになる過渡期の珍しい立像とのことである。









蚕の社かいこのやしろ(右京区)

嵐山から嵐電に乗り、蚕の社駅下車、徒歩5〜6分。
正しくは、木島坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社。創祀時期は不詳。
かってこの地の勢力者であった秦氏が水の神・ムスビの神を祀ったのに始まるとされ、平安時代には祈雨の神として信仰された。本殿の右にある摂社の養蚕(こかい)神社は、養蚕・機織・染色の技術に優れた秦氏に縁が深く、蚕の社と呼ばれることから当社の通称となった。
境内にはいまでも清水が湧きでる元糺の池があり、池に建つ「三鳥居(みつとりい)」は明神鳥居を正三角形に組み合わせ、その中心に設けた組石の神座に御幣が立てられ、三方から遥拝できるようになっている。古くは木製鳥居だったという。現在のものは、石柱の刻銘から天保2年(1831)に再建されたものである。珍しくも日本唯一の「三柱鳥居」である。




北野天満宮の「伴氏社の鳥居」と京都御苑内の厳島神社の「唐破風鳥居」とともに京都三珍鳥居の一つである。








北野天満宮(上京区)

祭神は、菅原道真、中将殿(道真長男)、吉祥女(道真夫人)。
菅原道真の怨霊を鎮めるために建てられ、全国各地の天満宮・天神社の多くは当宮より勧請された。永延元年(987)に初めて北野祭を行い、「北野天神」の勅号を賜った。
古くから道真は学問・文芸の神とされ、社前に文人墨客が通い、室町時代には連歌の中心地となった。有名な北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)は天正15年(1587)に豊臣秀吉によって催され、慶長8年(1603)には出雲の阿国(おくに)が社前で初めて歌舞伎を興行し、歌舞伎発祥の地ともいう。




写真・左上:「中門」
太陽・月・星の彫刻から別名「三光門」とも称される重要文化財。

写真・右上:「拝殿」
社殿(本殿と石の間、拝殿と楽の間)は慶長12年(1607)豊臣秀頼の寄進になる権現造の最古のもので国宝。

写真・下左:「伴氏社」(ともうじしゃ
祭神は伴氏。菅原道真の母である伴氏を祀る。北野天満宮の境内末社。社前の鳥居は鎌倉時代に建てられ、京都三珍鳥居の一つ(額束が島木を貫通して笠木まで延びていることと、柱を支える台座に蓮弁が刻まれていることが珍しい。重要文化財。

写真・下右:「キリシタン灯籠」
社殿の回廊の外側東南角にある。足に刻まれた立像はお地蔵さんではない。聖母マリアである。多分、これはキリシタン・ブームだった桃山時代のものであろう、とのこと。
古代の政治家菅原道真は「天神さん」と庶民に親しまれてきた。その神殿の前に長い風雪に耐えてマリアさまがいらっしゃる。こういうのは日本ならではの光景でしょうね。
尚、そばの碑銘に、市中に売り物になっていたのを偶然発見して買い取り、ここに寄進されたのが明治14年のことであったと伝えている。











京都御苑九条邸跡近辺(上京区)

写真・上段左:「九条邸跡」
丸太町烏丸から東へ約二百mぐらい御苑入口「堺町御門」がある。入って直ぐ左に碑が見えてくる。

写真・上段右:「九条池」
この反り橋からは、西側の池畔に九条家の建物で唯一残る「拾翆亭」(しゅうすいてい)などが往時を偲ばせてくれる。

写真・中段左:「厳島神社」
社殿は反り橋からも見えているが、神社の参拝は池の周りを廻って北側の道から入る。

写真・中段右:「唐破風型鳥居」
室町時代の作で重要美術品に指定されており、その名の如く笠木と島木が共に唐破風型をした珍しい姿を見せる。




写真・下段:「京都観光神社」
厳島神社から西へ約百m程で楠の巨木がある。そこに「宗像神社」と刻む石碑が立つ。
社殿によると、神社の背後東北のあたりに藤原冬嗣の小一条院邸があり、神社は冬嗣が筑紫より勧請したものという。
現在、摂社も幾つかあり、その中には昭和43年(1968)に建立された「京都観光神社」がある。祭神猿田彦神は、天孫降臨の際に行程の安全を期して先導をつとめた神として知られ、それにちなんで旅行安全・交通安全の神となった。
京都市は平成20年(2008)に年間観光客数5千万人を突破している。




(2月−5 了)
Posted by 奥野 祥司 at 08:30
南窓会定期総会のお知らせ [2011年04月08日(Fri)]
南窓会定期総会のお知らせ


三井台南窓会の定期総会が次の通り開催されます。

日時:4月16日(土) 午前10時から
場所:南平東地区センター
議題:平成22年度事業報告・収支決算報告の承認、役員改選、平成23年度事業計画、収支予算の承認、会則の一部改正
(詳細は、南窓会たよりをご参考ください)

東北大震災のような災害の起きた今、地域の協力の必要性が改めて見直されています。南窓会も、単なる親睦の場だけでなく、災害時にすこしでも皆様の力になれるように、組織強化を図っていきたいと思います。
まだ出欠票の提出をされていない方は、出来るだけ早く担当役員までお届けください。(三井台南窓会会長:皆川眞孝)
Posted by 皆川眞孝 at 13:36
松尾育英会・育英生募集 [2011年04月06日(Wed)]
松尾育英会・育英生募集

今回の記事は直接、この地域に関係がありませんが、地方に住むお知り合いに対象の方があれば紹介していただきたいので、お知らせします。(文責:皆川)

世の中には、信じられないほどの素晴らしい慈善活動でも、ほとんど知られないというものがあります。この松尾育英会というのがその一つです。大学の授業料を全額出してくれ、寮に無料で入れてくれ、食費も無料、それでいて卒業後は自由に進路を選べて、返済義務もなし、思想宗教の教育もなし、こんな話を聞くと、あまりにもうまい話で、何か裏があると考えるのではないでしょうか?ところが、現実にそのような素晴らしい育英会があるのです。しかも50年以上もその活動が続いているのです。現に、私は幸運にもその松尾育英会の恩恵を受けて、大学を卒業しました。私が現在あるのは、この松尾育英会のお蔭で、いくら感謝しても感謝し足りません。

この松尾育英会は、立志伝中の人・松尾國三氏(雅叙園観光・日本ドリーム観光社長)が、私財をなげうって設立した財団法人です。貧しくて教育を受けられなかった國三氏が、同じような境遇で修学できない人を助けようするもので、「恩は社会に返せ」という信念から、一切の返済義務をなくしています。

松尾國三氏

私は浜松市生まれですが、家がとても貧乏で高校もアルバイトをしながら通うほどでした。東京の大学に行きたくても、経済的に不可能で、あきらめて就職を考えていました。高校3年生の時に、学校の掲示板でたまたま「松尾育英会育英生募集」を目にしました。本当かと疑うような好条件でしたが、藁をもすがる気持ちで応募しました。運よく候補生になり、大学も合格できて、育英生になり、東京・板橋区の学生寮で4年間を過ごしました。まだ松尾育英会はスタートしたばかりで、私は2期生でした。当時、松尾理事長は50代後半、親しく教えを受けることができて、有難い時代でした。門限があり、規律の厳しい寮生活でしたが、寮生同志が切磋琢磨し合い、お蔭で有意義な学生生活を送れました。
松尾先生は昭和59年に亡くなられましたが、その遺志をついで奥様の波儔江(はずえ)先生が2代目理事長となり、平成3年に波儔江先生が亡くなられ、長女の日出子先生が三代目理事長となりました。幾多の困難を乗り越えて、現在も日本でも稀有な育英事業を継続しています。

板橋の学生寮(平成3年完成の2代目建物)

松尾育英会の卒業生はすでに250名を超え、大会社の社長、大学教授、弁護士、国家公務員、など社会で活躍中の人が大勢います。このような、好条件の育英会ですが、最近は経済的に恵まれた家庭が多いのか、寮生活は堅苦しいと敬遠され、応募者が減少する傾向にあります。皆様のお知り合いの方で、地方(東京や周りの県以外)に住み、経済的な問題で大学を諦めている優秀な男子高校生(来年受験)がいたら、ぜひご紹介ください。この東日本大震災で、経済的に大学に行かれない人が飛躍的に増加すると思います。それらの人には朗報です。
以下は、その応募要項です。
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若者よ大きく育ってほしい。大きな夢を抱いてほしい。

平成24年度松尾育英会第56期育英生募集

財団法人松尾育英会では、平成24年度大学新入生を対象に償還義務を負わない学資金・修学金一切を全額支給する育英生の募集を行います。

育英給付の内容
1. 学資金・通学費の給付
学校に納入する入学金、授業料及び学生寮から大学までの通学定期代の全額を無償給します。
2. 学生寮への入居
学生寮へ無償にて入居できます。
3. 食事の給付
一日三食の食事を無償給付します。(但し、昼食は一定額を金銭により給付)
4. 保健・医療の給付
負傷疾病に対しては常備薬を備えるほか、健康保険料以外の医療費を給付します。

募集人数
大学育英生(国内):10名以内
大学育英生(留学):1名以内

応募資格
以下の要件を満たす者が応募することができます。
1. 平成24年3月高等学校卒業見込の者、又は平成23年3月高等学校を卒業した者及び高等学校卒業程度認定試験合格者(2年有効)のいずれかで、かつ出身高等学校長の推薦があること。(高等学校卒業程度認定試験合格者については推薦不要)
2. 平成24年4月から当財団学生寮(東京都板橋区)より通学可能な大学に進学を希望する者であること。
3. 成績優秀、品行方正、身体強健な男子で、学資について他からの援助が必要と認められる家庭的事情にある者であること。(家計支持者の年収は、特別な経済的事情のない限り原則として600万円以下とします)
4. 留学育英生については、別途定めるものとします。
※ 高校1・2年生の応募希望者の登録受付も行っています。

応募方法
「育英生願書」等応募手続書類等の請求及びお問い合わせは、下記までご連絡ください。なお応募締切りは平成23年11月中旬を予定しておりますので、「育英会願書」等応募手続書類等の請求はお早めにお願い致します。

<応募書類等請求及び問い合わせ先>
〒173-0003 東京都板橋区加賀1丁目23番5号
財団法人松尾育英会 学生寮・寮監
TEL 03-3579-0041 FAX 03-3579-7510
メールアドレス ryokan@deluxe.ocn.ne.jp

松尾育英会とは
松尾育英会とは、1957(昭和32)年に松尾國三・波儔江が経済的理由により大学進学が難しい優秀な学生を対象に設立した奨学金制度です。250名余の全寮制の共同生活で切磋琢磨した育英生たちは、現在、官界・経済界・学界・教育界各分野で立派に活躍しており、創設者の体験から発起した教育への願いと理念は確実に実を結んでいます。また創立以来実施してきた中国・韓国など海外からの留学育英生への支援も平和で健全な国際社会にむけて大きく花開いています。

※詳細はホームページをご覧下さい。

http://homepage2.nifty.com/matsuofund/
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Posted by 皆川眞孝 at 09:57
近畿逍遥(50) [2011年04月03日(Sun)]


近畿逍遥(50)


2月−4





前回、西本願寺門前の正面通りを東に向かって歩き、鴨川に架かる正面橋西詰まで来てましたが、正面橋を渡り東に歩を進めると正面に「豊国神社」が見えてきます。今は境内から左手(北側)に隣接して「方広寺」がひっそりとあります。ご存知、このエリアは「京の大仏殿、大仏さん」があったところですね。方広寺大仏殿は西に向いていた。楼門から真っ直ぐに西に走る通りは「正面通」と呼ばれるようになったとのこと。西本願寺門前から続く、この「正面通り」とは、大仏さんの正面に当たる通りという意味だったんですね。

次いで、東大路通りを北進し、清水道の先を左に折れて、昔の冥途への入口に当たる一帯即ち、六道珍皇寺、西福寺、六波羅密寺を廻ってみます。





豊国神社とよくにじんじゃ(東山区)

祭神は豊臣秀吉。通称は「ホウコクさん」。慶長3年(1598)に秀吉の遺体を東山の阿弥陀ヶ峰に葬り、翌年には広壮な社殿がその山腹に創建された。豊国大明神の神号を賜り、同9年の秀吉の七回忌には盛大な臨時祭礼が行われた。豊臣氏滅亡後は荒廃していたが、明治元年に新日吉(いまひえ)神宮の神楽殿を仮本殿として再興され、同13年(1608)に旧方広寺大仏殿境内に社殿を造営した。唐門は伏見城の遺構と伝え、豪壮雄大な国宝門である。

写真は、唐門と、右下は「耳塚」(史蹟)。
豊国神社正面石段下約30mのところ、小丘陵上に五輪塔(高さ約5m)がある。
文禄慶長の役に総大将加藤清正公が首級の代わりに鼻を持ち帰ったものを、異人とはいえ国難に斃れたる兵士の霊を厚く弔うべしとして葬り御身塚といわれたものが訛り耳塚といわれるようになったと伝えるが、他にも異説があるとの由。









方広寺(東山区)

豊国神社の境内から仕切るものは何もなく、云われないと神社の一部と見紛うほどに小さくて、あっさりした感じのお寺です。歴史上は大事だが、いまではあまり関心を持たれていない、そんな雰囲気の寺です。
方広寺の沿革・・・・・木造盧舎那佛坐像を本尊とし、天正14年(1586)に秀吉により創建された。
前面82m、側面57m、高さ50mの大仏殿の中に、漆を塗り金箔を置いて彩色された19mの大仏でした。大阪城がすっぽり屋根の下に入ってしまうというスケール、そして鎮座する大仏は東大寺大仏の18mを凌ぐものでした。2000年8月の発掘調査で、大仏基壇と大仏の台座が発見され、奈良大仏より大きな大仏が京都に実在したことが実証されたというわけです。
しからば、この大仏さんはどんな運命をたどったのでしょうか?
慶長元年(1596)の大地震により破壊。同7年(1602)に炎上。
その後、同15年(1610)に徳川家の勧めで、秀頼が豊太閤の追善供養のため19mの金銅大仏を再興しましたが、この大仏も寛文2年(1662)地震により倒壊。そしてその代わりに同4年(1664)に木造の大仏が造られましたが、また寛政10年(1798)に雷火により焼失。天保14年(1843)に尾張を中心に伊勢・美濃・越前の人々の寄進により木造半身の大仏像がまつられる。しかし昭和48年(1973)に火災により焼失。現在は本堂・大黒天堂・大鐘楼を残すのみとなっている。大仏は消えたが梵鐘は残ったというわけです。
では、何故秀吉は京都に大仏をつくったのでしょうか?聖武天皇になりたかったんでしょうか?「太閤記」には「京都がますます賑わうように、とのおぼしめしから」方広寺大仏殿の建立を思い立った、とある。
尚、東山の三十三間堂隣にあった大仏殿は、阿弥陀ヶ峰を背にして西に向かって建てられた。敷地の広さは現在の豊国神社・方広寺・京都国立博物館をすべて含む広大なものであった。この一帯「豊臣コーナー」と言っていいわけですが、その栄枯盛衰にはもののあわれを禁じえませんね。




写真・上段左:鐘銘事件の起った大鐘
高さ4.2m、外径2.8m、厚さお。27m、重さ82.7トン(この鐘もすごい。大きさは知恩院の 大鐘にかなわないものの、重さでは世界一とのこと)。

写真・上段右:銘文中の白い箇所のクローズアップ。「國家安康」「君臣豊楽」
この事件が起ったのは慶長19年(1614)である。明らかに徳川家の策略であったのだが、既に秀吉はなく天下は徳川の世、以降冬の陣、夏の陣が起り、豊臣家は滅亡する。

立派な鐘楼のみ見て帰る人が多いとのことであったが、小さな本堂には、十分の一に縮小された大仏もあり、大仏ゆかりのものが幾つかあり、丁寧な説明つきで拝観料以上の収穫でした。
写真・下段左:「大仏の蓮華座」巨大な大仏であったことが想像できる。

写真・下段右:「眉間の仏様」
天保14年寄進により造られた大仏が焼失した際、焼け跡から大仏の眉間にあった仏様が残った。







六道珍皇寺ろくどうちんのうじ(東山区)

建仁寺の塔頭。本尊は薬師如来。六道さんともいいならわされている。平安・鎌倉時代には東寺を本寺として隆盛したが、その後衰退し、室町前期に建仁寺の聞渓良聰(もんけいりょうそう)によって再建され、臨済宗に改めた。この地が葬地である鳥辺野(とりべの)の端にあたるため、現世と冥界の」境界として小野篁が冥途通いをしたという伝説を生み、六道まいりの信仰を集めた。
由緒書には「六道とは、一切の衆生が、生前における善悪の業因によって必ずおもむかなければならない地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六種の冥界をいう」とある。
本尊の薬師如来座像は重文。盂蘭盆会(8月7日〜10日)の六道まいりは有名で、この日に撞く鐘を「迎え鐘」と呼び、精霊を冥界から呼び戻すという




写真・右上:格子窓から小野篁像を覗くことができる。
篁は昼間は朝廷の官吏として働き、夜はこの寺の井戸から冥界に下り閻魔大王に仕えたという奇怪な伝承をもつ。

写真・下段:鐘楼
外からは釣鐘は見えず、変わった鐘楼である。ちょうど鈴のように引っ張ると鳴る仕組みになっている。








西福寺さいふくじ(東山区)

珍皇寺から少し西に行くと「六道の辻」と刻まれた石標の立つ角に小さな寺院が西福寺である。寺伝によると嵯峨天皇の御代に弘法大師がここに辻堂建て、自作の地蔵菩薩像を安置したのが起源と伝え、大師に帰依された檀林皇后も深く信仰、当時度々参詣されたと記されており、弘仁5年(814)皇子の正良親王が発病の折、この地蔵尊に祈願し無事快癒したことにより、この霊験にちなみ、人々は当地蔵尊を「子育地蔵」と呼び崇拝したという。
全国何処へ行っても見かけるのは六地蔵である。お寺の境内、街道の辻だったり。地蔵尊は人の魂をこの世からあの世に送ったり、迎えに行ったりする役目をもっていたということから、庶民の中にごく自然に溶け込んでいったのがわかりますね。
さて、盆の間だけに公開される寺宝に「檀林皇后九相観の図」があります。人間の死後の変相を描いたものである。檀林皇后が「自分の死後は簡素な風葬に」との遺言に従って嵯峨の地で風葬にした伝承にちなみ、美人の誉れ高い皇后が腐乱・白骨化し、やがて土に戻るまでの姿が、九つに分けて描かれている。これは人間の無常と儚さを示す仏陀の教えを絵にしたものである。
写真は殺風景な辻風景にしか見えませんが、いつまでも立っていても飽きがこない不思議な辻である。











六波羅密寺(東山区)

真言宗智山派。本尊は十一面観音。
天歴5年(951)醍醐天皇第二皇子である空也上人により開創。
当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曳き廻り、青竹を八葉の薄片の如く割り茶をたて、中へ小梅干と結び昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。
平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数五千二百余に及んだ。
寿永2年(1183)平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。
源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当寺はその変遷も甚だしいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し、寺領七十石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられたとのこと。
正月の皇服茶(おうぶくちゃ)、8月の万灯会、12月の空也踊躍(ゆやく)念仏などが有名。
また、本尊の国宝十一面観音像は空也の自刻と伝えられる。宝物館に安置される地蔵菩薩坐像もよく知られている。同じく空也上人立象は重要文化財で鎌倉時代に仏師運慶の四男である康勝の手になるもの。平清盛像と運慶と湛慶の像はともに重文指定を受けている。その他の像も含めて重文の質、量において文字通り此処は平安鎌倉期の宝庫と謂われる所以である。




写真・上段:本堂(右側)本堂に上がり回り込んだ奥に宝物館がある。

写真・下段左:本尊の十一面観音の等身大のレプリカ(本堂前)

写真・下段右:宝物館の実物は撮影禁止。入口に掲示されていたポスター写真。
この立像は日本史の教科書で有名ですね。あらためて、姿形を見てみましょう。右手に撞木、左手に鹿の杖をつき、念仏を称える口から六体の阿弥陀が現れている独特の像である。


最後に宝物館の方から「空也最中」の話を聞きましたので蛇足を。
屋号「空也」をなのる和菓子屋さんがあります。明治17年上野池之端で開業、戦災焼失のため、戦後銀座6丁目並木通りに移り、現在店主は四代目だそうです。安くておいしい、その日のうちに売り切るがモットーの店だとか。屋号は、初代が関東空也衆のひとりであったことから、空也念仏にちなんだとのこと。



(2月−4 了)
Posted by 奥野 祥司 at 08:30
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