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多摩丘陵にある日野市三井台、ここに住む高齢者のクラブ・三井台南窓会の会員が中心になって作っている団体ブログです。地元の季節毎の写真、南窓会の活動報告、会員の旅行記、俳句、地域の情報など、多様な記事が満載です。
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故・石川耀子様の思い出(2) [2011年02月27日(Sun)]
故・石川耀子様の思い出(2)
 
南窓会副会長  倉重敬子

石川さんが南窓会会長の時、松井さんと副会長をさせていただき、石川さんとのお付き合いが始まりました。輪投げの道具を2セット購入し、「輪投げと体操の会」を開始しました。子供会に親子で参加できるよう呼びかけ、子供会と南窓会との接点ができました。石川さんは子供たちへの対応が上手で、輪投げの時も子供たちが意欲を持つように得点を黒板に書くようにし、子供を褒めて育てる教育者の一面を見せてもらいました。今年1月にお伺いした時「私が輪投げを始めたのよ。今でも続いていているので良かったわ」と言われました。今では、輪投げを通じて会員相互のコミュニケーションを図れるので、毎月1回開催しています。良いものを育てていただき、感謝しています。

昨年(平成22年)2月に帰宅途中に倒れ救急車で運ばれました。前歯を折られ、体力の低下を感じられ、それから会長交替を決意されたと受け取っています。地域のために、南窓会のために働くことをご自身の生き甲斐にされてきた方です。

センター室内を掃除する石川さん


私も石川さんが怪我をして動けなくなった事を知り、黒煎り玄米をスープにして持参して飲んでいただきました。スープから、次は玄米粥にして、お元気になっていただきたいと願っていました。私も娘の出産で1カ月家を空けたので、玄米粥も中断しました。その後お伺いすると、「大丈夫、お粥にして食べているから」を言われ、一安心しました。その後、水頭症の手術を受け、それも乗り越えられて、皆がよかったと思っておりました。

今年の新年会は、息子さんが「いいよ」と言ったので参加できると喜んでおられました。当日はヘルパーさん同行で出席されました。転倒による骨折事故を防止するのが一番の対策でした。和服から洋服に仕立てたお手製のスーツがよくお似合いでした。「この洋服もダブダブなのよ」と言われました。新年会の席で大勢の南窓会の方々の前でお話されました。今思うと、それが最後の挨拶になりましたね。あの日からひと月余りで、天上の人になられました。気丈で女性の強さと芯があり、思いやりのある方でした。私の心に大きな穴が空いたようです。天国に行かれ穏やかに楽しくお暮しになっていると思います。心から、ご冥福をお祈りいたします。(倉重)
   

堀さん(向かって右)と石川さん 平成20年9月
Posted by 皆川眞孝 at 16:24
フラワーアレンジメント2011-2月 [2011年02月26日(Sat)]
フラワーアレンジメント

2011-2月 お雛さまの花

もうすぐ3月3日のひな祭り。今月はひな祭りにふさわしい桃の花を使ったアレンジを教えていただきました。
雛の節句は桃の節句とも言われますが、その起源をインターネットで調べてみました。

昔から桃には邪気を祓う力があるとされ、様々な神事に取り入れられていたので、ちょうど桃の季節でもあり、邪気祓いをする上巳の節句が桃の節句になったそうです。

上巳:5節句の1。陰暦3月最初の巳の日、後3月3日に該当された。また、桃は不老長寿を与える植物とされており、百歳(ももとせ)まで長生きできるよう、桃の節句には桃花酒を飲む風習もありました。

先生の作品



使われた花


      上段左から  桃、菜の花、ギリア
      2段目左から キルタンサス、ガーベラ、ミリオ
      3段目左から アリウムコワニー、アルストロメリア、
      4段目     スカピオサ(マツムシソウ)



挿し方
今回は高さを押さえ、全体に低めに活けます。
花器はお正月の花に使用した籠です。
水が漏れないよう、花器にセロファンを敷いてから、オアシスを入れます。
中心の点に向かって、同じ高さにならないよう、変化をつけてフリースタイルで活けます。
挿す順序は桃、ガーベラなど大きい花から順に。
キルタンサスは茎の中が空洞なので短めに真っ直ぐに挿しましょう。
(茎の中に桃の枝の切れ端を入れて活けたら、うまくいきました。)
アルストロメリアは短めに足元に活けます。
最後にミリオで足元をカバーします。

生徒の作品


教室の風景


今日も可愛い花々に囲まれて、おしゃべりにも花が咲きます。楽しいお話と笑い声で優雅なひと時を過ごしました。 
文責:石塚
Posted by みよちゃん at 08:12
故・石川耀子様の思いで [2011年02月25日(Fri)]
故・石川耀子様の思い出


南窓会会長 皆川眞孝

先日の石川耀子様のご葬儀には、大勢の南窓会会員の方が参列し、石川さんをしのぶ方の多さに、感動しました。

石川さんに初めてお会いしたのは、平成20年4月私が三井台自治会長になった時ですから、たった3年前のことです。ちょうど石川さんは、南窓会会長になったばかりで、張り切っておられました。そこで、自治会の班長会で南窓会についてPRを兼ねて話してもらうことにしました。お話がわかりやすく、要領がよく、感心しました。後で、小学校校長をされていたと聞いて、納得しました。とにかく、頭がきれ、意見がはっきりしている方でした。体は小柄ながら、貫禄がありました。

ご承知のように、三井台自治会の懸案の問題は、町名変更でした。私が自治会長を引き受けた時の条件は、「町名変更には触れません」ということでした。個人的には、「南平」という名前に愛着があり、できるだけこのままでいたいという希望でした。しかし、自治会会長になって「町名変更委員会」の存在を知り、石川さんが委員会メンバーであり、いやでも「町名変更問題」に取り組まざるを得なくなりました。一度「三沢四丁目」でまとまりかけたが、一部反対が強く、石川さんが自治会長の時に「三沢五丁目」にして再度提案したこと、いづれ日野市が強制的に変更するだろうから早いうちに変更したほうがよい、と石川さんから説得され、自治会の全役員で協議して、「臨時総会」を開くことにしました。それ以降は、ご存じのような動きで、昨年八月に「三沢五丁目」と変更されました。石川さんの熱意がなかったら町名変更は実現しなかったでしょう。自分の生きているうちになんとか実現したいという願いでしたので、その点は満足されていました。

平成22年1月新年会で日舞を踊る


昨年の二月に、病で倒れるまでは、もう一年南窓会会長を続ける意思をおもちでしたので、その点は残念だったことでしょう。ただ、石川さんが敷かれたレールはしっかりとしていて、これからも南窓会がゆく道を示しています。榎本さん、石川さんと優秀な会長が続き、頼りない私ですが、そのレールに乗っかって務めさせてもらいます。

平成22年4月 南窓会総会にて 花束贈呈

どうか、天国で三井台南窓会を暖かく見守っていてください。ご冥福をお祈りします。
(皆川)
Posted by 皆川眞孝 at 18:08
石川耀子さまを偲んで [2011年02月24日(Thu)]
石川耀子様を偲んで                                                                                                                                                                                                                           
宮ア和子                                                      
1月15日 新年会
                                    
2月14日だったと思いますが、南窓会会長から「石川耀子さんが再び入院なさったこと、しかも癌が肝臓に転移して余命1〜2か月とご家族から連絡がありました」と知らせていただきました。
18日にまだお話ができると思い、何をお話ししようかしらと考えながら 石川さんと日舞でお仲間だった 秋永さん、大沢さんとご一緒に3人でお見舞いに行きました。病室に入って行きますと窓の方を向いて、眠っていらっしゃいましたので「石川さん」と声をかけましたが返事がありません。右の手を動かしたり足を動かしたりしていますので、手を触ったり頬をさすったりしましたが、目を開けてくれません。そこで初めて意識がないことに気が付きました。  ちょうど看護師さんが、彼女の体位を変えるために病室に来られたので、11日に入院なさったこと、家で倒れた時から意識がはっきりしなかったことなどを伺うことができました。3人で彼女の温かい手を取って「よく頑張ったわねえ、聞こえたら握り返して・・」などと声をかけ、苦しまないで欲しいの思いを抱いて病室を後にしました。その三日後に亡くなるとはあまりの早さにただ驚いております。  昨日お通夜の会場で、お子様方に見守られ最後にニコッとされて息を引き取られたとご遺族から伺い、安らかに逝かれてよかったと少しほっといたしました。  南窓会の会長を平成20年4月〜22年3月まで2年間務めてくださいました。きびきびとご活躍くださったことを思い出します。平成21年の日老連女性委員会主催ファッションショーで南窓会は石川さんのアイディアでエプロンのファッションを発表して、大好評でした。
                                                                                                                                                                   
右から3人目が石川さん                                                                                                                                                                                                                                            
平成21年三井台高齢者作品展                                                           
                                                                        最近まで洋裁を習っていらっしゃって、ツーピースもお手製でお洒落さんでした。 パッチワークにも励まれて、「ほら見て!」にこにこ笑顔でランチョンマットを何枚か 見せてくださいました。何度も手術を受けて普通なら手仕事など放棄するような体調なのに楽しんでいらっしゃるのにはびっくりしたものです。                                                         
長い間教職についていらっしゃったので、南窓会と子供会合同の行事で子供と接する姿勢は「さすが!」と感動いたしました。
     
 石川さん、あなたと私のお付き合いは5年足らずの短い間柄でしたね。ちょっと私が年長だったせいでしょうか、何か行き詰まると「石川です」と低いゆっくりした口調で電話がかかってきました。ただ聞くだけでお役にたてなかったでしょうに、そのお声が耳に残っています。昨年2月頃よく転ばれましたね。あの頃「今度ばかりは私も覚悟したわ」と珍しく弱音を吐いていらっしゃいましたね。病気との闘いはお辛かったことでしょう。本当によく頑張ったわねとしか、ほかに言葉がありません。。昨年私が入院した時、あなたと同じ病院だったので通院の帰りに「どーお?」と覗いて下さいました。あなたの方がずっと顔色が悪いのに。 榎本さんに続いて石川さんともお別れすることは、悲しく寂しいという言葉では表せません。 石川さん本当にありがとうございました。さようなら。心からご冥福をお祈り申し上げます。
Posted by ミセスミヤ at 13:29
急告―訃報(石川耀子様) [2011年02月21日(Mon)]
急告―訃報(石川耀子様)

三井台南窓会の前会長・石川耀子様が本日(21日)に入院中の病院で亡くなられたと連絡を受けました。昭和8年生まれの77歳でした。

平成22年南窓会新年会にて(会長挨拶)

石川様は、昭和42年に三井台に引越されてからは、地元のために尽力され、平成11年に三井台自治会長を引きうけられ、積極的に町名地番変更問題に取り組まれました。その熱意が通じて、昨年8月21日に町名変更が実現しました。

がんの手術後にもかかわらず、平成20年から22年年3月までの2年間、会長として南窓会を献身的に導いてくれました。特に、新しい企画には、ご自身の小学校校長経験を生かしたアイディアを盛り込み、さすがと感心させられました。体調を崩され会長を辞任し、療養につとめられ、今年の新年会にも出席されたばかりで、突然の訃報に驚いています。

  
今年の新年会の石川様

ご葬儀は次の通りです。
お通夜 2月23日(水)午後6時〜7時 
告別式 2月24日(木)午前11時〜12時
場所 豊田 桃源院(豊田駅北口、ファナック隣)

短い間でしたが、お世話になりました。心よりご冥福をお祈り致します。
(南窓会会長・皆川眞孝)



Posted by 皆川眞孝 at 20:57
近畿逍遥(46) [2011年02月19日(Sat)]
近畿逍遥(46)


1月−2



今回は奈良市の南に位置する桜井市・葛城市・明日香村・橿原市の仏閣神社を訪ね歩いてみます。




長谷寺(桜井市)近鉄大阪線長谷寺駅から徒歩15分。

真言宗豊山派の総本山。また西国三十三所第八番札所。本尊 十一面観世音菩薩。
七千株の牡丹と文人に愛された花の寺として有名、また伊勢への参詣路に位置しているため伊勢神宮詣での旅人も多いとのこと。
神々の住む霊山として信奉されていた三輪山、その裏にある初瀬山は死者の魂がとどまる場所として「隠(こも)り国」と呼ばれていた。その中腹に位置する長谷寺は霊験あらたかな土地に広大な寺域を占めている。




写真上左・上段 仁王門
平安時代、一条天皇の御代に建立。現在の門は明治18年(1885)の再建。

写真上左・中&下段 登廊のぼりろう 
中段:仁王門から本堂に至る登廊の外観。
下段:登廊内の景色(天井から吊り下げられた長谷型灯籠が印象的)
長谷寺といえば、この灯籠の景色が良く知られている。399段の階段式の回廊で、二度折れ曲がり、段差は低いので然程負担とはならずに、平坦地に建つ本堂にたどりつく。


写真右・上段 寒牡丹
登廊の左右に咲いている。花を眺めながらゆっくりと登れば本堂も近くなります。なお、普通の牡丹の花期は4月中旬〜5月上旬頃であでやかに咲き競います。

「花咲かば堂塔埋もれつくしべし」(高浜虚子)

写真右・上段 本堂
徳川三代将軍家光公の寄進により慶応3年(1650)建立。前面に懸崖造りの舞台が付く大建造物です。国宝指定となっています。この舞台からの景色は谷間に建つ伽藍や山並みと緑が見張らせてすばらしい。
本尊の十一面観世音菩薩立像(身の丈が三丈三尺約10m)という巨大な像は全国に広がる長谷観音の根本像で、天文7年(1537)の造立で重文指定されています。

写真右・下段 本堂
きれいに磨きこまれて、幾分前下がりになっていて滑りそうな本堂床面越しの風景。







當麻寺たいまでら(葛城市) 近鉄南大阪線で当麻寺駅下車徒歩約15分。

大和と河内の境に位置する二上山(にじょうざん)の東麓に建つ、大和の代表的な古寺。
中将姫伝説で有名な當麻曼荼羅や日本に現存する最古の塑像である国宝弥勒仏坐像、同じく現存する唯一の双塔など見所は多い。また、独特な伽藍配置も特徴のひとつ。さらに真言宗と浄土宗の二宗を奉じる珍しい寺でもある。
尚、当麻寺駅からの途中に、「當麻蹶速塚(たいまのけはやづか)」や「葛城市相撲館」がある。相撲の始祖とされる當麻蹶速の墓と伝わる史跡。「日本書紀」に垂仁天皇の前で當麻蹶速と野見宿禰(のみのすくね)が立ち会った日本最古の天覧相撲と記される。



写真下・上段 本堂(曼荼羅堂)国宝

写真下・中段 東西両塔(奥院からの眺め)

奈良時代の伽藍配置にならい金堂の南側に配された2基の三重塔。ともにいく度かの兵火をまぬかれてきたもので、創建当時の双塔がそろって残っているのは、全国でここだけ。
奥院からは古都塔二塔が現存するという貴重な景色を見ることができる。

写真下・下段左 東塔(白鳳時代) 国宝  22m

写真下・下段右 西塔(天平時代) 国宝  25m

どちらも本瓦葺で、八輪の相輪とその上の水煙がほかに類を見ない特徴がある。












飛鳥寺あすかでら(高市郡明日香村) 近鉄橿原線飛鳥駅よりバス、飛鳥大仏前下車直ぐ前。

飛鳥の地を見渡す甘樫の丘の東、のどかな田園風景の中に建っている。今は、飛鳥大仏を安置する本堂と礎石が静かに残っている。現在は正式には真言宗豊山派に属する「安居院(あんごいん)」で文政9年(1826)の再建になる。
596年、日本初の本格的寺院、飛鳥寺が完成する。蘇我馬子の発願によって建立。かっての飛鳥寺の伽藍配置は塔を三つの金堂が囲む「一塔三金堂」式で壮大な伽藍であったことがわかっている。この配置は後世には見られない独特な形式で、飛鳥式伽藍配置と呼ばれる。伽藍全体の規模は後に建つ法隆寺の3倍にも及んだ。往時の日本人にとり見たこともないものを作るので大事業であったろうと思われる。建立に際しては、百済から僧や寺工、瓦博士などの技術者が渡来したという。仏像は鞍作止利(くらつくりのとり)によって作られたといわれる。飛鳥大仏、その姿形に往時の人々は強烈な刺激を受けたであろう。
なお、飛鳥寺は、大化の改新(645)を行った中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの場としても有名。ここで、蹴鞠をしていたときのことであったと「日本書紀」に記されている。




写真上・上段 本堂
写真上・右中段 飛鳥大仏606年、止利仏師作。全長2m70cm金銅の合金製。法隆寺の釈迦三尊像より17年、奈良の大仏より150年早くわが国最古の尊像である。
アルカイックスマイルが特徴で、向かって左側の顔はやさしく、右側は厳しい表情といわれている(1196年落雷にて一部損傷の部分は補修してあるため「重文」指定。但し、価値は超国宝的のものであるとのこと)。

写真上・左下段 蘇我入鹿の首塚
寺近くの田んぼの中に建つ五輪塔。これは蘇我入鹿の首塚といわれ、鎌倉時代に造られたもの。大化の改新で討たれた入鹿は「日本書紀」では非道の人物とされている。首を斬られた後も首だけで鎌足を追いかけまわしたという伝説が残る。







大神神社おおみわじんじゃ(桜井市) JR三輪駅より徒歩5分。

端正な円錐形の姿が美しい三輪山は、標高467m、全山が古杉、老松の大木に覆われて、古代から神南備山(かむなびやま)として尊崇を受けてきた。山中の「磐座(いわくら)」と名付けられた巨石を神の憑代(よりしろ)として祀る。
これらの磐座を含む三輪祭祀遺跡からは、勾玉のどの石製品や、杵、臼、杓子などの土製品が出土しており、古墳時代から平安時代の須恵器の破片も発掘されている。山内の木一本伐ることも禁ぜられ、明治に至るまでは禁制の山であった。
大神神社は本殿はなく、拝殿から三輪山中の磐座を遥配する。

下写真・上段左 二の鳥居
下写真・上段右 拝殿
下写真・下段 社域北側にある「大美和の杜」からの南西方面の眺望
右に大鳥居が見えている。その左の小高い盛り上がりが「耳成山みみなしやま(約140m)」、中央あたりの盛り上がりが「畝傍山うねびやま(約199m)」、そして左の盛り上がりが「香久かぐやま(約152m)」、いわゆる古来から有名な「大和三山」である。
この位置からは一直線に並んでいるように見える。三山を一眸にするポイントは幾つかあるのでしょうが、ここはすばらしいですね。
大和三山はいずれも現在、橿原市にあって、北に耳成山、南東に香久山、南西に畝傍山とそれぞれの孤丘が藤原京を三角形に囲むように位置している。




万葉集に、中大兄皇子(天智天皇)が弟の大海人皇子(天武天皇)と額田王をめぐって詠った歌に、
「香久山は 畝傍を愛しと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし いにしへも しかにあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき」があるなど、三山の姿は親しまれている。






橿原神宮かしはらじんぐう橿原市) 

近鉄は奈良観光の重要な足で橿原神宮前駅も橿原線・吉野線・南大阪線の分岐駅である。西口駅前から社域まで徒歩で15分ぐらい。
橿原神宮御由緒によると、「神武天皇は、天壌無窮の神勅を受け、天業をおし広めんとして、九州の日向国の高千穂の宮から東遷の壮途につかれました。そして国内を統一せられ、畝傍山の東南・橿原の地に皇居を営んで、即位の礼を行わせられました。明治の時代になり、天皇の御聖徳を景仰して、この橿原宮跡に神宮創建の請願が民間有志から起り、明治天皇には、これを深く嘉みせられ、御聖慮により元京都御所の賢所と神嘉殿を本殿と拝殿として下賜され、明治23年4月2日官幣大社・橿原神宮として御鎮座になりました」とある。

下写真が当社の代表的風景であろう。広大な敷地に建物のスケールも大きく、内拝殿まで進むことができますが、その奥に建つ幣殿と本殿(実際には見えない)を拝するのみで全貌を知ることはできません。下段写真の右奥が畝傍山です。




最後に蛇足。平成23年正月の奈良県の初詣参拝者数のベスト3は下記の通りでした。

1.橿原神宮・・・・・約85万人
2.春日大社・・・・・約70万人
3.大神神社・・・・・約47万人



(1月 了)
Posted by 奥野 祥司 at 19:00
町のスナップ 高幡不動駅周辺 [2011年02月18日(Fri)]
町のスナップ 高幡不動駅周辺


明平さんの提案に賛同して、現在の町の記録として高幡不動駅あたりの写真を掲載します。
皆さんお馴染の場所ばかりです。
なんと言っても町の中心は京王線の高幡不動駅です。今になると、昔の写真をとっておけばよかったなと思います。


次は高幡不動尊参道入り口です。



フラワーアレンジメントでお世話になっている花屋さんBUDDYです。


大切な役割の消防署で、先日救急車のお世話になりました。


いつもお世話になっている日野市立高幡図書館です。


皆さんも、いろいろな場所の写真をアップしてください。(皆川)
Posted by 皆川眞孝 at 19:42
再びの雪 [2011年02月16日(Wed)]
再びの雪

2月14日の夜から再び、雪が降り始めました。
思いがけない大雪となりました。

15日の夜明け前、窓からのぞくと、雪はやんでいて、静まり返った雪国のような景色です。


庭も雪に埋もれています。


つつじの木に雪のカバーがかかっています。


やっと日がさしてきました。




これからの除雪が大仕事です。
すでに、雪かきを終えた場所もあります。朝早くから御苦労さまでした。

(皆川、2月15日)
Posted by 皆川眞孝 at 07:57
高幡不動駅周辺 [2011年02月13日(Sun)]
ぼくたちの町のスナップをブログで
記録しておきたいなと思いました。
できればみんなで長期間に
わたって記録しておくのもまた
一興かと思います。

まず手始めに高幡不動駅の
周辺からです。











ちょっと離れて川向う。

夜のアルプスです。


Posted by 明平暢男 at 22:55
三井台からの雪景色 [2011年02月12日(Sat)]
三井台からの雪景色


昨日2月11日の建国記念日は、雪が降る寒い一日でした。
今朝は、その雪も止んで、外は雪国のようなモノトーンの景色です。





(我が家の窓から)


庭もすっかり雪に覆われています。


そのうち、太陽もでてきました。


東を見ると、東京スカイツリーが霞の上にひときわ高く見えます。



しばらくすると、再び雪が降り始め、見えなくなりました。
今日もまた雪の予報です。
(皆川)
Posted by 皆川眞孝 at 10:24
山への回帰(終)――万葉びとの求めた山中他界(五) [2011年02月11日(Fri)]
山への回帰――万葉びとの求めた山中他界(五)(終)

伊藤 道子


(写真:伊藤道子 野尻湖)

万葉集では山中他界の信仰に立ったうたが圧倒的に多く見られるが、やがて六世紀前半に大陸から仏教が移入されると、死後における魂の旅路にも変貌が生ずる。山中だけに限らず森や野原や湖や島や空や地下など、魂のゆくえは一定していない。柳田國男の民俗学の立場では山中他界をとる。

さて、話は現在に飛ぶ。先述したように山国日本には美しい山々が各地に存在している。私たちはその恩恵をどれほど蒙っていることだろう。
山の風景はその時々でいろいろな顔を見せてくれる。季節によって、天候によって、時間によって、人の気配のあるなしによって、違った顔を見せてくれるのがたまらなくおもしろい。私は両親のふるさとが新潟県の奥深い山村だったので、子供時代の疎開の体験も含めてごく自然に山に馴染んでいった。逆に海とは縁遠かった。山に心惹かれるあまり、人生の中年期に北軽井沢の浅間山麓に小さな山荘を造った。1979年(昭和五十四年)、私が四十代半ばのことである。そのことは前号にも書いた。亡き夫も山の好きな人だった。長野と群馬の県境にそびえる浅間山は荒ぶる活火山であるが、1783年(天明三)の大噴火を最後に、その後は静かに眠っている。

(浅間山)
火山の作った大地の上に人間は住まわせてもらっているわけである。山荘はしっとりとした林に囲まれ、たゆまず雑草を抜いたお陰で地面には杉苔が緑の絨毯よろしく柔らかに敷かれた風情である。春はしゃくなげが大輪の花を咲かせ、秋は木々が鮮やかな紅葉に彩られる。夫の植えた萩が小さな花をつけるのを今年も見届けた。夫と共にここで生活したのは二〇年間であった。都会での喧騒と煩雑な生活を忘れて別次元のシンプルな時間を体験することが出来たのであった。特にシーズンが去って人気のなくなった時にここへ来て、鳥の声や風のそよぎに耳をすませ、まれに木の枝を渡る小動物を見たりしながら時を過ごすと、不思議な感覚になる。こういう気分の時に、現世と異なった他界を認識できるように思う。そして今は他界に住む人の恩寵をわが身に受けていると感ずることができるのである。(終わり)

(付記)伊藤さんは、この「山への回帰」をブログに載せるにあたって、「死」というものを取り上げているだけに、南窓会のブログにあまり合わないのではないかと心配されました。それを、私が強引に説得して、載せたものです。
最近は、お葬式や埋葬についても、いままでの形にとらわれないものがでてきました。海への散骨とか、樹木葬というのも増えてきました。「私はお墓の中に眠っていません」という「千の風になって」の詩は、多くの人の共感を得ています。仏教が日本に到来する以前の万葉集時代には、死者の霊魂は山中他界に移って、私達も見守っているという、この考えは現代にも通じるような気がして紹介しました。(皆川)

Posted by 皆川眞孝 at 15:17
近畿逍遥(45) [2011年02月09日(Wed)]

近畿逍遥(45)


(1月−1)



今回は、新撰組の残景を訪ねて京都壬生・島原界隈(中京区・下京区)を歩いてみます。
光縁寺・旧前川邸・八木邸・壬生寺・大門・角屋・輪違屋などです。







光縁寺(下京区)
京福電車の四条大宮駅から徒歩、踏切を渡り狭い路地を入った直ぐのところにある。
浄土宗。本尊は阿弥陀如来。知恩院の末寺。創建は慶長18年(1613)頃で、本堂や山門は天明の大火で焼失し、文政2年(1819)に本堂、弘化3年(1846)に山門が再建されて現在に至っている。
新撰組との関係であるが、門前近くに新撰組の馬小屋があり、毎日門前を隊士達が往来し、その中には副長の山南敬介もいたとのこと。山門を見上げると、瓦に「丸に右離れ三つ葉立葵」の山南家と同じ家紋が目に入る。当時の住職良誉上人は、年齢も山南と同じであったことから二人に親交が生まれたとのこと。こんな経緯から屯所で切腹した隊士達、そして山南自身、その後も隊士達関係者が弔われ、埋葬されたとのこと。そして、過去帳には隊士のほか新撰組と縁のある人を含めて28人の記載があるとのことです。
なお、山南は仙台藩を脱藩して千葉周作の門下生(坂本竜馬と同じ北辰一刀流)となり、その後浪士隊に加わっている。山南は文武両道で隊士からの人望を集めたが、剣の流派が違うため今一つなじめなかったようで、組を脱走して大津で捕えられ、後述の前川邸内で切腹させられている。


写真下・左上下 山門、同瓦の「丸に右離れ三つ葉立葵」の紋

写真下・右    山南敬介の墓









旧前川邸」 (下写真:左上)

光縁寺から西に2〜300mぐらい。私有地通常非公開。今は、土日ぐらいが中に入れるようになっているのか?(平成16年当時はNHK大河ドラマ「新撰組」で平日でも賑わっていたと思いました)。壬生の地で誕生した新撰組は、隊士が増えるにつれ後述の八木邸が手狭になったことから、道を挟んだ東にある旧前川邸も屯所としたようです。
山南が切腹した部屋や古高俊太郎を拷問に掛けた地下室等があります。



壬生屯所遺蹟(八木家)」 (下写真:左下、右) (中京区)

幕末、新撰組は文久3年(1863)春、ここ洛西壬生村の八木家11代目宅にて誕生しました。創設期十三名は、芹沢 鴨・平山五郎・近藤 勇・土方歳三・新見 錦・平間重助・野口健司・沖田総司・山南敬介・永倉新八・原田左之助・籐堂平助・井上源三郎。以来壬生を拠点に自刃をもって奔走した彼らが慶応元年(1865)、隊士の増員に伴い手狭となった壬生を引き払って西本願寺に屯所を移転するまでの3年間、初代局長・芹沢 鴨らの暗殺をはじめ、池田屋の変、禁門の変など、新撰組の激動の歴史が繰り広げられましたが、それらを目撃してきたのがこの八木家です。
近隣の前川家・南部家なども屯所として使用されましたが、八木家はその中枢だったとのこと。一番奥の部屋、鴨居に残る刀傷は、文久3年9月18日夜、芹沢 鴨・平山五郎らが斬殺された時のものとのこと。
また幕末当時の壬生界隈は、あたり一面が閑静な農村地帯で、八木家の中庭から二条城や五山の送り火が望めたとのことです。









壬生寺 (中京区)

律宗の大本山。本尊は地蔵菩薩。
正暦2年(991)に建立。正嘉元年(1257)には火災で被害にあったが中興の祖とする円覚上人が再興。
春秋の壬生大念仏狂言(国の重要無形民俗文化財)は有名。
境内にある壬生塚には、近藤 勇の胸像と遺髪塔、屯所で暗殺された芹沢 鴨、池田屋騒動で亡くなった新撰組数名等が葬られている。かって、壬生寺境内は新撰組の兵法調練場に使われ、武芸や大砲の訓練が行われたとの記録が残っているとのこと。また、隊士にまつわる逸話も多く残っているとのことです。

写真下:左上下 山門・千体仏塔

写真下・右    近藤 勇 胸像








島原「大門」 (下京区)

島原は、江戸時代以来、公許の花街かがい(歌舞音曲を伴う遊宴の町)として発展してきた。寛永18年(1641)、官命によって、島原の前身である六条三筋町から現在の朱雀野の地に移された。その移転騒動が、九州で起きた島原の乱を思わせたところから、一般に「島原」と呼ばれてきたが、正式名称は「西新屋敷」という。
この島原は、単に遊宴を事とするにとどまらず、和歌俳諧等の文芸も盛んで、ことに江戸中期には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈した。
しかし明治以降の島原は次第にさびれてゆき、現在では揚屋あげや(今の料亭に当たる店)の「角屋」、置屋おきや(太夫や芸妓を派遣する店)の「輪違屋」、それに島原入口の「大門」、これら三箇所がわずかに往時の名残をとどめるものとなっている。
現在の「大門」は、慶応3年(1867)に神社仏閣なみの本格的な高麗門として建て替えられたものである。

嶋原のでぐちのやなぎをみてなつかしき
やなぎのまゆの 春風になびくほかげや 里の夕ぐれ 蓮月尼
(大田垣蓮月(歌人 1791〜1875)







角屋すみや (写真下:上段と二段目左右)

島原三百年の歴史を誇る家屋は、次第に姿を消した中に、角屋のみは、当時の揚屋建築の唯一の遺構を伝えるものとして、国の重文指定されています。木造二階建て、表全体を格子造りとしていますが、奥の大座敷には広い庭に茶席を配し、また大きな台所を設けることにより典型的な揚屋建築の特徴を残しています。
天明年間(1781〜1789)前後、角屋では、当時における一流画人に襖絵の制作を依頼し、丸山応挙、与謝蕪村などの画蹟が残されています。さらに幕末のころには、諸大名をはじめ、西郷隆盛、桂小五郎、坂本竜馬などの志士がこの角屋を利用し、志士たちが軍用金調達のために、鴻池、加島屋などの豪商を招き、しばしば饗宴を催したことが伝えられています。
そのほか、新撰組の近藤 勇や芹沢 鴨なども出入りし、その刀痕が今も柱に残っています。
現在、「角屋もてなしの文化美術館」として公開されています。


維新の石標」長州藩志士 久坂玄瑞の密儀の角屋;石碑 (写真下:中央)


輪違屋わちがいや (写真下:下段)

輪違屋は、太夫や芸妓を抱えていた由緒ある置屋で、元禄年間(1688〜1704)の創業と伝える。
建築的に質が高く、二階の座敷の襖や壁の斬新な意匠には目を見張るものがある。また、最古の置屋の遺構として貴重であり、京都市の有形文化財に指定されている。現在はお茶屋として営業中のため通常は非公開である。










おわりに、浅田次郎原作の新撰組物時代小説として「壬生義士伝」「輪違屋糸里」があるのはご存知の通りです。



(1月−1 了)
Posted by 奥野 祥司 at 08:00
南窓会映画会へのお誘い [2011年02月06日(Sun)]
南窓会映画会へのお誘い



「南窓会だより」で通知しましたが、ちょうど一週間後に、南窓会映画会を実施する予定です。

日時: 2月13日(日)午後2時から、
場所: 南平東地区センター
上映作品:「初恋のきた道」(中国映画・字幕、2000年)
入場無料
南窓会の会員でなくても、どなたでも歓迎です。お待ちしています。(南窓会。皆川)

「初恋のきた道」


監督:チャン・イーモウ(張藝謀)
主演:チャン・ツイイー(章子怡)                    
(解説)
都会からやってきた若い教師ルオに恋して、その想いを伝えようとする18歳の少女チャオ・ディのひたむきなラブ・ストーリーを中国の美しい農村風景とともに描く。
この映画を監督したチャン・イーモウ監督は中国を代表する映画監督で、『紅いコーリャン』でベルリン映画祭金熊賞、そして『秋菊の物語』と『あの子を探して』で2度ヴェネチア映画祭金獅子賞を手にした。この作品でも第50回ベルリン映画祭銀熊賞を受賞した。彼は、北京オリンピック開会式の華やかな演出も行っている。
かわいい主役に抜擢されたのは、本作でデビューした19歳の美人女優、チャン・ツイイー。
(あらすじ)
父の死の知らせを聞き、都会から青年が母の住む華北の小さな山村に戻ってきた。父はこの貧しい村の小学校で、ずっと教師をしていた。悲しみに暮れる母の願いは、自分で織った赤い布をかけた柩を村の人が担ぐ伝統的な葬儀をしたいということ。かたくなな母の姿に、息子は当時、村で話題になった両親の恋物語を思いだすのだった・・・・
Posted by 皆川眞孝 at 22:53
山への回帰――万葉びとの求めた山中他界(四) [2011年02月05日(Sat)]
山への回帰――万葉びとの求めた山中他界(四)
伊藤 道子


(写真:伊藤道子  妙高山)

秋津野に 朝居る雲の 失せゆけば 昨日も今日も なき人思ほゆ)(巻七・一四〇六)

(秋津野に朝方から出ている雲がだんだんと消えてゆくので、昨日も今日も亡くなった人のことがあれこれと思い出される)

巻七の挽歌の中の歌。朝、同じところにじっと動かずにいる雲を見て、火葬の煙を連想し、亡き人を偲んでいる。

こもりくの 泊瀬の山に 霞立ち たなびく雲は 妹にかもあらむ(巻七・一四〇七)

(初瀬の山に霞がかかったようにたなびく雲は、あのいとしい妻であろうか)

(泊瀬の山 インターネットより)


これも雲を見て火葬の煙を連想している。ついでに言えば、当時の人びとは、山のみを霊魂の安住する場所として求めていたわけではない。高みにある雲や霞や霧もその対象になったのである。

それでは、山中他界という発想にどのような定義づけをしたらよいのだろうか、考えてみたい。わずかな万葉歌しか挙げられなかったが、それらを踏まえて考えると、古代人は死によって肉体は滅びても、肉体から遊離した魂は永遠に生き続けると考えていたようだ。そしてその霊魂は高い所に昇っていって、そこに留まって子孫を見守ってくれると思っていたのではないだろうか。山の頂でもいい、あるいは自分たちの住んでいるところの裏山でもいい、生きている人間と隔絶して別世界に行ってまうのではなく、姿は見えなくても心が通い合うところにいると考えていた。現実の山の中に霊魂が集まる他界があると信じていたようだ。海や空や地中ではなく、生きている人間にもっとも近いところに他界を想定したのである。

(写真:皆川  尖石遺跡―八ヶ岳)


世界のどの国よりも日本は山の多い国である。国土の八割までが山であってみれば、生活上、山とのかかわりは非常に大きい。そこは狩猟の場であり、食料採取の場であり、採鉱、採木の場であり、ふもとの平地で農業が営まれれば、その水源は山に依存した。人間の生活にとって山は全能であった。山に依存してこそ生活が成り立ったのである。従って古代の人びとは、山に対する畏怖と同時に大きな感謝の念を持っていたにちがいない。祖先の霊が山に籠もって、生きている自分たちを守ってくれると考えていた。里に近い山に祖先の葬地を作り、時節ごとの祭りを怠りなく行う。死者との心のつながりを確実に求めていた。(続く)
Posted by 皆川眞孝 at 18:32
日野児童作品展 [2011年02月03日(Thu)]
日野児童作品展

昨年秋に行われた第17回MOA美術館主催の日野児童作品展で、つくし子供会の岡本陸君(夢が丘小学校1年)が見事、最優秀賞に選ばれました。また、つくし子供会から岡本くんを含めて4名が入選しました。
この作品展の審査員は、画家の土方洋氏と高橋正江氏、応募総数は183点、入賞は15点でした。三井台南窓会の秋澤洋三さんがこの地域担当の世話役として積極的に作品を集められ、36点(つくし子供会など近所15、潤徳小学校16、学童クラブ5)を集め、そのうち入賞は7点(つくし子供会4、その他3)でした。

1. MOA美術館奨励賞(日野最優秀賞)(第1位)
たまむしキラキラ」  岡本陸(夢が丘小学校1年)

審査員講評>美しくキラキラと輝く「たまむし」を画面いっぱいに堂々と描かれ、翔の輝き、茶色の木の幹の感じがとても良く出ています。この絵から虫好きの陸くんの感動が充分に伝わってくる素晴らしい作品です。多摩平の雑木林にも「たまむし」がいますよ。

2. 日野市市議会議長賞(第3位)
緑いっぱい」  岡本花梨(夢が丘小学校5年)

審査員講評> みつけた大きな葉っぱが、画面の中央に描かれ、つかまえた美しい蝶に目が引かれます。後ろの木の幹、左側の赤い花が画面を引き締めています。大きな蝶に小さな蟻んこが、列をなして移動している様子がとても良く描かれていて、その観察力に感心しました。

3. 日野市教育委員会会長賞(第4位)
釣り名人」  木原修斗(夢が丘小学校2年)

審査員講評> 釣り上手な修斗くんの、釣り上げた時のさも得意そうな表情、巨大な魚のみずみずしさと、美しい縞模様!!(大きな鱒でしょうか)河原の大小の石ころの形が面白く渓流釣りの情景が、素晴らしく良く描けています。

4. 佳作
はなびがきれい〜」  河原萌恵 (夢が丘小学校1年)


平成22年11月13日に市民会館小ホールで表彰式が行われました。
下記の写真は、夢が丘小学校の入賞者4人と阪田幸子校長との記念写真です。

前列左から:岡本陸くん、河原萌恵ちゃん、
後列左から:木原修斗くん、岡本花梨ちゃん、阪田幸子校長

秋澤さん、精力的な活動と、絵画や写真などの資料提供をありがとうございました。
子供さんたちの作品は、私達おとなには気がつかない大胆な発想で、とても新鮮に感じます。また、このつくし子供会のレベルの高さを誇りに思います。
なお、前回の第16回作品展については、こちらをクリックしてご覧ください。(皆川)
Posted by wild river at 21:17
海中散歩 [2011年02月02日(Wed)]





海中散歩







2010.7月 西表島

写真上段 ノコギリダイの群れ。西表島の珊瑚は世界でも有数。

写真下段 カクレクマノミ(センジュイソギンチャクの中に入っている)
カクレクマノミはディズニー映画の「ファインディングニモ」のモデルの魚。映画で人気が出てイソギンチャクとともに乱獲が心配されているとのこと。

















2010.8月 慶良間諸島(写真上段)
タイマイ 、ウミガメの一種で絶滅危惧種。昔はべっ甲として乱獲されたが今は輸入禁止されている。泳いでいる姿は空を飛んでいるようです。

2010.10月 沖縄本島(写真下段)
ハマクマノミ 、ダイバーを威嚇(噛みつく)してきますので、アップで撮れました。














2010.11月 宮古島




写真上段 イシガキカエルウオ
表情がカエルに似てますね。

写真中段 サラサゴンベ
体長は8pぐらい。珊瑚上でちょこんとしている。

写真下段 ハナビラウツボ
穴から顔を出して威嚇してきます。でもホントは臆病なのです。


















2010.12月 サイパン




写真上段 アカヒメジと沈船
サイパンは透明度が抜群(マリアナブルーというそうです)。
沈船は第二次大戦時の日本の輸送船とのこと。

写真下段 マダラトビエイ
八景島シーパラダイスのロゴのモデル。優雅に泳ぐ様子はまるで空を飛んでいるようです。





同  上

写真上段 モンツキカエルウオ
穴から顔を出し愛嬌がありますね。


写真下段 ヨスジフエダイ
体側に特徴的な四本の縞があり、黄色がきれいな魚です。





真冬の沖縄の水温は20℃前後。サイパンの水温は27℃前後とのこと。ウエットスーツで潜るときは、24℃を下回ると寒いとのこと。



海の中を散歩するという手もあるのですね。若い人が多いと思いきや最近は、リタイヤ後にダイバー資格をとり楽しむ人とか結構年輩の人も多いとのこと。
今回の内容は娘夫婦が昨年始めた趣味で、話を時々聞かされていたので、それを題材としました。したがって、写真・コメントともに彼らが原作です。
実は、「やったら」と勧められていますが、今のところ縁なしです。




( 了 )
Posted by 奥野 祥司 at 00:18
山への回帰――万葉びとの求めた山中他界(二) [2011年02月01日(Tue)]
山への回帰――万葉びとの求めた山中他界(三)

伊藤 道子


写真:伊藤道子 妙高 5月


山への回帰(二)はこちらをクリックしてください。

これ(注:前回の柿本人麻呂の歌)と似た発想の歌に、巻七挽歌の中に左のような歌もある。作者は未詳。

秋山の 黄葉(もみち)あはれと うらぶれて 入りにし妹は 待てど来まさず(巻七・一四〇九)

(秋山のもみじに心惹かれて、しおしおと入って行った妻は、いくら待っても帰って来ない)

写真:皆川(蓼科11月)


妻の死を異郷への旅、と受けとめ、心中でその帰りを待ちわびる形で詠んでいる。異郷への旅は美しいもみじに心惹かれて、つまり魔性に魅せられたためと考えている。

山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく(巻二・一五八)

(黄色い山吹が咲き匂っている山の清水、汲みに行きたいがどう行っていいのかまったく道がわからないことだ)

八重山吹の花(インターネット)


高市皇子(たけちのみこ)の作。十市皇女(とをちのひめみこ)が亡くなったときに詠まれた挽歌である。二人は天武天皇所生の異母兄妹であり、この歌からも愛し合っていたことがわかる。高市皇子は万葉集に、十市皇女を思って詠んだこの歌を含む三首の歌を残すのみである。一方、十市皇女ほど時代に翻弄されて悲劇的な人生を送った人はいない。壬申の乱の折、夫側と父側が熾烈な戦いを繰りひろげた末に、夫である大友皇子は自刃した。勝利を収めたのは父天武天皇側で、その時天武側の総指揮をとったのが若き高市皇子であった。父と夫が戦うというような状況のなか、十市皇女にとっては決して心穏やかでいられるはずはない。壬申の乱に勝利した天武天皇は飛鳥浄(きよ)御原(みはら)宮に新都を造り、十市皇女もそこに引き取られたが、どんなにか複雑な思いであったろう。それから間もなく十市皇女は死ぬのだが、若い皇女の突然の死を自殺と見る向きも多い。

(十市皇女)

ともあれ愛する十市皇女を失った高市皇子の悲しみは深く、山吹の花が美しく咲いている山の清水のあたりにその面影を探そうととする。山中に死者のゆくえを求めているのだ。(続く
Posted by 皆川眞孝 at 08:29
プロフィール

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