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多摩丘陵にある日野市三井台、ここに住む高齢者のクラブ・三井台南窓会の会員が中心になって作っている団体ブログです。地元の季節毎の写真、南窓会の活動報告、会員の旅行記、俳句、地域の情報など、多様な記事が満載です。
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短編小説への挑戦 [2016年12月07日(Wed)]
50年後の答え


2016年5月10日に瀬戸内寂聴さんの掌小説集「求愛」が発行された。一話が400字詰原稿用紙4,5枚の短編小説であった。この本を読んで思い出したことがある。瀬戸内寂聴さんの師は今東光師であり、彼の薦めで寂聴さんは東北の寺と京都の寺の住職になった。わたしもまだ学生だった頃、今東光師から教えを受けた。「400字詰め原稿用紙一枚に、ひとりの人間の人生を書け」という教えだったが、わたしは遂に1編も書けなかった。努力しても努力しても、わたしの能力では400字で人の一生が書けるわけがない。ただ、そうこうしているうちに、短編の書き方だけはすこしずつ上達していった。それで決心した。「求愛」に対する「返歌」のつもりで超短編をいくつか書いてみようと思った。数十年を超えて、やっと恩返しができるかもしれない。でも、結果はどうなるのか自分でもわからない。



    ジャスミンの香り

小学校のクラスメートが亡くなったとの知らせが届いた。ぼくの記憶では、彼女はまだ28歳のはずだった。ぼくと彼女とは九州の田舎町に住み、同じ小学校で同じクラスだった。
成績が抜群に良くて、ぼくはいつも色々と教えてもらっていた。ぼくは喧嘩が好きで、並外れて強かったから、女の子と仲良くしていても誰も冷やかす者などいなかった。
いまはオートレースで有名なこの町は戦争が終わったころから炭鉱で賑わい、多くの町の男たちは石炭を掘る仕事についていた。地下深くから掘り出した石炭は良質のものと工業に向かないものとにより分けられ、質の悪い石炭は町の至る所に積み上げられていた。その石炭の小山をぼくたちはボタ山とよんでいた。
子供や主婦たちは、その日の食事を作るために、ボタ山の石炭がらを拾ってきてコンロでご飯を炊いたり、風呂を沸かしたりしていた。町の景気も良くて、大浴場が数カ所も町にあり、住民たち家族は無料でその大浴場にはいることができた。
男女それぞれに大浴場があったのだが、小学校の男の子や女の子たちは父親と男風呂に入っていた。広い脱衣所で衣服を脱ぎガラス戸を開けると、そこには大きくて広い板が敷いている。だが板は湯で濡れていて滑るのだ。
ある日のこと、ぼくは祖父とともに大浴場に行き、裸になると用心もせず風呂に向かって走った。あっという間もなく、ぼくは見事に滑って仰向けに転がってしまった。目を開けると天井が湯気にくもってみえた。そのとき、ひとりの女の子が手を差し出してくれて、ぼくを立たせてくれた。ぼくは必死で滑らぬように女の子にしがみついていた。そのときの風景はいまだに忘れられない。女の子もぼくも真っ裸だったのだ。
そのあと、ぼくは両親の転勤で神戸に移り住んだ。
でも、何年かに一度、九州に行き同窓会に参加していた。担任の先生は女性の先生で、美人ではなかったが頭の良い優しい方だった。ぼくが大学生になったとき、その女の子は長崎の大学に入学したと先生から聞いた。「恵子さんとは頻繁に連絡しあっています」と、先生は手紙に書いていた。
それからは次第に音沙汰もなくなり、ぼくは子供の頃の記憶を思い出すこともなかった。ぼくが大学を出て、就職し、ふたたび何年かが経った時、先生からぼくに手紙が届いた。封筒を開けると便箋が3枚入っていて3枚目は白紙だった。
「恵子さんが亡くなりました。若いのに癌でしたので進行が早かったのです」と書かれていた。ぼくは驚いて、何度も1枚目を読み、2枚目を読んだ。2枚目の便箋にはこういう文章が書いていた。「わたしは恵子さんの病状が進んだと耳にして、すぐに長崎の大学病院に行きました。もう助からないとご両親から伺っていたので、わたしは覚悟して彼女に会いに行ったのです。病院のベッドで恵子さんは私に小さな声でいいました。小学生の時からずっと君のことが好きだったとわたしの耳元でつぶやいたのです。
つぶやかなくてもはっきり言えばいいのにとわたしは思いました。でも、20年近くもそのことをひとりで胸にしまっていたなんて想像することもできませんでした。そのことを、どうしても君に伝えたくて手紙を書きました」
ぼくは先生にすぐさま返信しました。「全く知りませんでした。ぼくはいつもなにかを空想しているだけで、自分が女性から好かれているか嫌われているかなんて考えたこともありませんでした。ぼくはすぐには彼女のお墓には行けませんが、先生から花を手向けていただければありがたいと思います。このことはずっと忘れずに覚えておきます」
あれから数十年が経ったいまでもときどき思い出す。心に秘めるなんてことは止めたほうがいいのだ。言いたいことは率直に言い、伝えることが大切なのだ。特に愛情については。だが、人生には自分ではどうにもならない壁のようなものがある。長い年月の中で喜び、苦しみ、後悔し、そしてやがて、自分で自分の人生を受け入れることができれば、「生まれてきてよかった」という言葉で終わるだろう。それを、ぼくは理想としている。ところで、妙なことを思い出した。サンバ・ギータとはフィリピン語でジャスミンのこと、永遠の愛の誓いだそうだ。
Posted by 明平暢男 at 09:00
マンゴーの森の小次郎 5 [2016年05月30日(Mon)]


「マンゴーの森の小次郎」5


mago5.jpg


 小次郎は塀を飛び下りると、ひろい原っぱを歩いてゆきました。そこは自然のままの草原でした。小次郎は長い時間、歩きつづけました。でも、小次郎の心を落ち着かせる場所はありませんでした。
 気をつけないと、沼もありました。夜になるとふくろうがいるかも知れません。ふくろうは猫の大敵です。一面に背の高い草が生えている場所を通りぬけると、突然明るい場所にでました。
大きな木が目のまえに見えました。木のまわりは清潔で、安全そうに思えました。小次郎は木の根元に行きました。見上げると、木にはマンゴーの実がいっぱいなっていました。
それは、この原っぱにある、たった一本のマンゴーの大木だったのです。
 小次郎はマンゴーの大木の根元で寝てしまいました。 もう歩き疲れてくたくただったのです。お腹もすいていましたが、いまは寝ることが一番でした。
「坊や きみの名前は なんて言うんだい」
 小次郎は、夢の中で自分を呼ぶ声を聞きました。
マンゴーの木が呼びかけているのでした。
「ぼくには なまえは ありません」 
 そう答えようとしたときに、人間のお母さんが、自分を呼んでいた名前のことを思い出しました。
「ぼく こじろう です」
 小次郎はマンゴーの大木にむかって答えました。
「おじさんの あしもとで ねてしまって ごめんなさ い すぐおきますから」
「おきなくていいよ」 
 マンゴーの大木はやさしく言いました。
「ぼうやは ひとりぼっちなのかい」
Posted by 明平暢男 at 09:00
写真と被写体 [2014年07月10日(Thu)]
mituin.jpg


写真は撮る人の感性をいやというほど際立たせる。
実物と写真は、撮る人の感性によって近づいたり遠ざかったりする。

では、どちらが本当のものなのだろうか?
多分、どちらも本物であり、どちらも違うのだろう。

実物も写真も、結局は見る人によって千差万別の存在と化し
その実態など神様でもわからないのだ。

もはや、自分の感性を研ぎ澄ますしかない。
Posted by 明平暢男 at 09:00
わかることなど、なにもない [2014年06月12日(Thu)]
目が覚めるとシャーロックがいた。午前2時だ。 こんなに早くどうしたんだとぼくは訊いた。心配だからさとシャーロックは答えた。 この時間は魔が現れるからね。 ぼくが目を覚ますって知ってたのか?シャーロックは頷いた。 こんな時間に起きるとろくなことはない。一人にしておけなくてねとシャーロックは真面目な顔で言った。 ありがとうとぼくは言った。 たった一人で老いていくのをこんな時間に考えるのはいいことじゃない。 ももが言った。 早死にしないかぎり誰もが老いた時間を迎えるんだ。 どうやって人生の最後を過ごすかなんて神様にだってわからないよ。
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Posted by 明平暢男 at 06:00
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