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多摩丘陵にある日野市三井台、ここに住む高齢者のクラブ・三井台南窓会の会員が中心になって作っている団体ブログです。地元の季節毎の写真、南窓会の活動報告、会員の旅行記、俳句、地域の情報など、多様な記事が満載です。
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近畿逍遥(52) [2011年04月15日(Fri)]
近畿逍遥(52)


(2月−6)


奥嵯峨・鳥居本〜愛宕念仏寺
景観を楽しみながらの散歩に絶好のコースと言えます。
嵐山渡月橋から北西方向に延びている嵯峨路は鳥居本経由愛宕念仏寺まで約3キロぐらいだと思います。京都駅からは路線バスで嵯峨野の一番奥の「愛宕寺前」で下車して嵐山に下りていく逆のコースがお勧めです。





嵯峨鳥居本(右京区)

愛宕神社一之鳥居の前に形成された町並み。江戸時代には火を司る神を祀る愛宕神社への参詣が盛んであった。嵯峨釈迦堂を経て愛宕神社へ向かう愛宕街道沿いにこの町並みはある。約5〜600mの区間に町家と草葺の民家があり徐々に移り変わる。一之鳥居付近の茶店は江戸時代の姿を伝えている。

「産寧坂(東山区)の円山公園〜三年坂の一帯」と「上賀茂(北区)の社家町一帯」とともに京都の「歴史的景観保全修景地区」に指定されています。









愛宕念仏寺おたぎねんぶつじ(右京区)

縁起には下記のように記されています。
稱徳天皇しょうとくてんのう(764〜770)の開基により山城国愛宕(おたぎ)郡(現在の東山区)に愛宕おたぎ寺として建立された。平安期の初め、鴨川の洪水により堂宇が焼失したため、天台宗の僧、阿闍梨伝燈大法師千観内供(せんかんないぐ)(918〜984)によって再興された。これより天台宗比叡山の末寺となり等覚山愛宕院(おたぎいん)と号した。また、千観は生涯仏名を唱えて絶えることがなかったので、世に念仏上人ともいわれ、当寺を愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)と称するようになった。
それから後、大正11年(1922)堂宇の保存とあたご山との信仰的な関係から、当地に移築された。昭和56年(1981)には寺門興隆を祈念して、境内を羅漢の石像で充満させたいと発願し、平成3年(1991)に「千二百羅漢落慶法要」が厳修されている。
これらの羅漢さんは、10年間にわたる、全国(沖縄から北海道まで、外国人も含む、小学生から90歳台のご老人まで)の千二百人の精魂込めた自信作である。
何度も訪れ、何度もゆっくり、じっくり見てますが、「祈りの造形」には飽きることがありません。今この時、特に痛く響く造形です。




写真・上左:「仁王門」
江戸中期。仁王像は鎌倉時代に造られ、市指定文化財。

写真・上右:「地蔵堂」
本堂正面にある。平安初期に造られた火除地蔵菩薩像が祀られています。

写真・下:「本堂」
方五間、単層入母屋造り。鎌倉時代で重要文化財。







































前住職である西村公朝(平成15年遷化、89歳)さんのお話。
『昭和30年(1955)、比叡山から住職を命じられて寺を訪れると、想像以上の惨状でした。
師と仰ぐ清水寺の大西良慶管長さんに相談したところ「それだけ荒れておったら、草一本むしっただけで、おまえは復興者やと言うてもらえる。あわてんでもよろしい。仏さんがおまえを待ってたんや。わしも手伝ってやるから引き受けろ」と。
とはいえ、なかなか寺の復興に取り掛かれなかったのですが、昭和55年頃からやっと本格的に堂宇の再建に着工し、寺門興隆を祈願して信者の方々による石の羅漢彫りを発願しました。それが、十年後には千二百体になり多くの方が参拝してくれるようになりました』
現役中は、公朝さんの法話を聞こうと全国から人が集まったそうです。ご住職は、仏師であり、仏像修理技師としても活躍されたということです(比叡山では「現代の円空」と呼ばれていたとのこと)。
境内には公朝さんの造った仏像や千二百体の羅漢さんが、いつも温かく迎えてくれます。
なお、現在のご住職はご子息が継がれています。





(2月 了)







皆様への御礼

昨年3月にスタートした「近畿逍遥」。手持ちの写真や資料の整理整頓ができ、略、ネタが尽きてしまいましたので(一部未整理のモノや、あらたに材料ができましたら追加させていただきますが)、ここでひとまず筆を置かせていただきたいと思います。
12ヶ月間にわたりまして、お付き合いいただきました皆様、並びに特に本ブログ開設から掲載の技術的指導等いろいろと労をおとりいただいた皆川様には深甚なる感謝を申し上げます。
お陰さまにて、狭い押し入れを陣取っていたダンボール4箱が全て、これを機に廃棄できる運びとなり大変喜んでいるところです。ありがとうございました。                       奥野拝
Posted by 奥野 祥司 at 08:30
近畿逍遥(51) [2011年04月09日(Sat)]
近畿逍遥(51)


(2月−5)



京都・嵯峨嵐山〜京福電車で蚕の社および北野天満宮そして京都御苑の一角を歩いてみます。






野宮神社ののみやじんじゃ(右京区)
祭神は天照大神。「源氏物語」の「賢木さかき」の巻の舞台となり、境内の黒木の鳥居と小柴垣に往時が偲ばれる。
現在は縁結び・子宝安産の神として信仰を集めている。苔と竹の美しさは、芭蕉や蕪村の俳句にも詠まれています。

写真・下 「黒木鳥居」
樹皮のついたままの鳥居のことで、鳥居の形式としては極めて原始的。当社では用材に「くぬぎ」を使用しているとのことですが、近時鳥居に適したくぬぎが入手困難とのこと。高松市の某会社から自然木の鳥居の寄進受け建立したと、説明書きにある。









三秀院(右京区)

嵐山の天龍寺の塔頭。貞治2年(1363)の創建。荒廃後、後水尾天皇によって寛文年間(1661〜72)に中興された。
「東向大黒天」と刻まれた石碑が立つ、静かな境内の奥に大黒天を安置する六角堂がある。大黒天は、仏教の発祥の地インドにおいては梵名で「摩訶迦羅」(まかから)という。「摩訶」は大きい、「迦羅」は暗黒の意で、「大黒天」と呼ばれ、暗黒の神、闘争の神とされ、忿怒の相をしていた。反面、象皮の袋を背負うことから、財宝の神とする面も有していた。
大黒天が日本に入ってくると財宝のご利益ばかりが強調され面相も福徳の柔和な相へ変えられていった。こうした変化の原因の一つに大国主命の存在がある。俗に「だいこくさん」と呼ばれ、大国と大黒天が同音であるため二神はいつしか混線していったという。
そして室町時代に福徳七福神が生まれ、大黒天は財(小槌)と食(米俵)を司る神として迎えられたことになる。
延暦寺の大黒天は、インドの摩訶迦羅像。寛永寺のそれは、七福神の純日本風の像。そして三秀院のそれは、その中間で、姿は日本流であるが顔はインドの忿怒相。摩訶迦羅から日本の大黒さんになる過渡期の珍しい立像とのことである。









蚕の社かいこのやしろ(右京区)

嵐山から嵐電に乗り、蚕の社駅下車、徒歩5〜6分。
正しくは、木島坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社。創祀時期は不詳。
かってこの地の勢力者であった秦氏が水の神・ムスビの神を祀ったのに始まるとされ、平安時代には祈雨の神として信仰された。本殿の右にある摂社の養蚕(こかい)神社は、養蚕・機織・染色の技術に優れた秦氏に縁が深く、蚕の社と呼ばれることから当社の通称となった。
境内にはいまでも清水が湧きでる元糺の池があり、池に建つ「三鳥居(みつとりい)」は明神鳥居を正三角形に組み合わせ、その中心に設けた組石の神座に御幣が立てられ、三方から遥拝できるようになっている。古くは木製鳥居だったという。現在のものは、石柱の刻銘から天保2年(1831)に再建されたものである。珍しくも日本唯一の「三柱鳥居」である。




北野天満宮の「伴氏社の鳥居」と京都御苑内の厳島神社の「唐破風鳥居」とともに京都三珍鳥居の一つである。








北野天満宮(上京区)

祭神は、菅原道真、中将殿(道真長男)、吉祥女(道真夫人)。
菅原道真の怨霊を鎮めるために建てられ、全国各地の天満宮・天神社の多くは当宮より勧請された。永延元年(987)に初めて北野祭を行い、「北野天神」の勅号を賜った。
古くから道真は学問・文芸の神とされ、社前に文人墨客が通い、室町時代には連歌の中心地となった。有名な北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)は天正15年(1587)に豊臣秀吉によって催され、慶長8年(1603)には出雲の阿国(おくに)が社前で初めて歌舞伎を興行し、歌舞伎発祥の地ともいう。




写真・左上:「中門」
太陽・月・星の彫刻から別名「三光門」とも称される重要文化財。

写真・右上:「拝殿」
社殿(本殿と石の間、拝殿と楽の間)は慶長12年(1607)豊臣秀頼の寄進になる権現造の最古のもので国宝。

写真・下左:「伴氏社」(ともうじしゃ
祭神は伴氏。菅原道真の母である伴氏を祀る。北野天満宮の境内末社。社前の鳥居は鎌倉時代に建てられ、京都三珍鳥居の一つ(額束が島木を貫通して笠木まで延びていることと、柱を支える台座に蓮弁が刻まれていることが珍しい。重要文化財。

写真・下右:「キリシタン灯籠」
社殿の回廊の外側東南角にある。足に刻まれた立像はお地蔵さんではない。聖母マリアである。多分、これはキリシタン・ブームだった桃山時代のものであろう、とのこと。
古代の政治家菅原道真は「天神さん」と庶民に親しまれてきた。その神殿の前に長い風雪に耐えてマリアさまがいらっしゃる。こういうのは日本ならではの光景でしょうね。
尚、そばの碑銘に、市中に売り物になっていたのを偶然発見して買い取り、ここに寄進されたのが明治14年のことであったと伝えている。











京都御苑九条邸跡近辺(上京区)

写真・上段左:「九条邸跡」
丸太町烏丸から東へ約二百mぐらい御苑入口「堺町御門」がある。入って直ぐ左に碑が見えてくる。

写真・上段右:「九条池」
この反り橋からは、西側の池畔に九条家の建物で唯一残る「拾翆亭」(しゅうすいてい)などが往時を偲ばせてくれる。

写真・中段左:「厳島神社」
社殿は反り橋からも見えているが、神社の参拝は池の周りを廻って北側の道から入る。

写真・中段右:「唐破風型鳥居」
室町時代の作で重要美術品に指定されており、その名の如く笠木と島木が共に唐破風型をした珍しい姿を見せる。




写真・下段:「京都観光神社」
厳島神社から西へ約百m程で楠の巨木がある。そこに「宗像神社」と刻む石碑が立つ。
社殿によると、神社の背後東北のあたりに藤原冬嗣の小一条院邸があり、神社は冬嗣が筑紫より勧請したものという。
現在、摂社も幾つかあり、その中には昭和43年(1968)に建立された「京都観光神社」がある。祭神猿田彦神は、天孫降臨の際に行程の安全を期して先導をつとめた神として知られ、それにちなんで旅行安全・交通安全の神となった。
京都市は平成20年(2008)に年間観光客数5千万人を突破している。




(2月−5 了)
Posted by 奥野 祥司 at 08:30
近畿逍遥(50) [2011年04月03日(Sun)]


近畿逍遥(50)


2月−4





前回、西本願寺門前の正面通りを東に向かって歩き、鴨川に架かる正面橋西詰まで来てましたが、正面橋を渡り東に歩を進めると正面に「豊国神社」が見えてきます。今は境内から左手(北側)に隣接して「方広寺」がひっそりとあります。ご存知、このエリアは「京の大仏殿、大仏さん」があったところですね。方広寺大仏殿は西に向いていた。楼門から真っ直ぐに西に走る通りは「正面通」と呼ばれるようになったとのこと。西本願寺門前から続く、この「正面通り」とは、大仏さんの正面に当たる通りという意味だったんですね。

次いで、東大路通りを北進し、清水道の先を左に折れて、昔の冥途への入口に当たる一帯即ち、六道珍皇寺、西福寺、六波羅密寺を廻ってみます。





豊国神社とよくにじんじゃ(東山区)

祭神は豊臣秀吉。通称は「ホウコクさん」。慶長3年(1598)に秀吉の遺体を東山の阿弥陀ヶ峰に葬り、翌年には広壮な社殿がその山腹に創建された。豊国大明神の神号を賜り、同9年の秀吉の七回忌には盛大な臨時祭礼が行われた。豊臣氏滅亡後は荒廃していたが、明治元年に新日吉(いまひえ)神宮の神楽殿を仮本殿として再興され、同13年(1608)に旧方広寺大仏殿境内に社殿を造営した。唐門は伏見城の遺構と伝え、豪壮雄大な国宝門である。

写真は、唐門と、右下は「耳塚」(史蹟)。
豊国神社正面石段下約30mのところ、小丘陵上に五輪塔(高さ約5m)がある。
文禄慶長の役に総大将加藤清正公が首級の代わりに鼻を持ち帰ったものを、異人とはいえ国難に斃れたる兵士の霊を厚く弔うべしとして葬り御身塚といわれたものが訛り耳塚といわれるようになったと伝えるが、他にも異説があるとの由。









方広寺(東山区)

豊国神社の境内から仕切るものは何もなく、云われないと神社の一部と見紛うほどに小さくて、あっさりした感じのお寺です。歴史上は大事だが、いまではあまり関心を持たれていない、そんな雰囲気の寺です。
方広寺の沿革・・・・・木造盧舎那佛坐像を本尊とし、天正14年(1586)に秀吉により創建された。
前面82m、側面57m、高さ50mの大仏殿の中に、漆を塗り金箔を置いて彩色された19mの大仏でした。大阪城がすっぽり屋根の下に入ってしまうというスケール、そして鎮座する大仏は東大寺大仏の18mを凌ぐものでした。2000年8月の発掘調査で、大仏基壇と大仏の台座が発見され、奈良大仏より大きな大仏が京都に実在したことが実証されたというわけです。
しからば、この大仏さんはどんな運命をたどったのでしょうか?
慶長元年(1596)の大地震により破壊。同7年(1602)に炎上。
その後、同15年(1610)に徳川家の勧めで、秀頼が豊太閤の追善供養のため19mの金銅大仏を再興しましたが、この大仏も寛文2年(1662)地震により倒壊。そしてその代わりに同4年(1664)に木造の大仏が造られましたが、また寛政10年(1798)に雷火により焼失。天保14年(1843)に尾張を中心に伊勢・美濃・越前の人々の寄進により木造半身の大仏像がまつられる。しかし昭和48年(1973)に火災により焼失。現在は本堂・大黒天堂・大鐘楼を残すのみとなっている。大仏は消えたが梵鐘は残ったというわけです。
では、何故秀吉は京都に大仏をつくったのでしょうか?聖武天皇になりたかったんでしょうか?「太閤記」には「京都がますます賑わうように、とのおぼしめしから」方広寺大仏殿の建立を思い立った、とある。
尚、東山の三十三間堂隣にあった大仏殿は、阿弥陀ヶ峰を背にして西に向かって建てられた。敷地の広さは現在の豊国神社・方広寺・京都国立博物館をすべて含む広大なものであった。この一帯「豊臣コーナー」と言っていいわけですが、その栄枯盛衰にはもののあわれを禁じえませんね。




写真・上段左:鐘銘事件の起った大鐘
高さ4.2m、外径2.8m、厚さお。27m、重さ82.7トン(この鐘もすごい。大きさは知恩院の 大鐘にかなわないものの、重さでは世界一とのこと)。

写真・上段右:銘文中の白い箇所のクローズアップ。「國家安康」「君臣豊楽」
この事件が起ったのは慶長19年(1614)である。明らかに徳川家の策略であったのだが、既に秀吉はなく天下は徳川の世、以降冬の陣、夏の陣が起り、豊臣家は滅亡する。

立派な鐘楼のみ見て帰る人が多いとのことであったが、小さな本堂には、十分の一に縮小された大仏もあり、大仏ゆかりのものが幾つかあり、丁寧な説明つきで拝観料以上の収穫でした。
写真・下段左:「大仏の蓮華座」巨大な大仏であったことが想像できる。

写真・下段右:「眉間の仏様」
天保14年寄進により造られた大仏が焼失した際、焼け跡から大仏の眉間にあった仏様が残った。







六道珍皇寺ろくどうちんのうじ(東山区)

建仁寺の塔頭。本尊は薬師如来。六道さんともいいならわされている。平安・鎌倉時代には東寺を本寺として隆盛したが、その後衰退し、室町前期に建仁寺の聞渓良聰(もんけいりょうそう)によって再建され、臨済宗に改めた。この地が葬地である鳥辺野(とりべの)の端にあたるため、現世と冥界の」境界として小野篁が冥途通いをしたという伝説を生み、六道まいりの信仰を集めた。
由緒書には「六道とは、一切の衆生が、生前における善悪の業因によって必ずおもむかなければならない地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六種の冥界をいう」とある。
本尊の薬師如来座像は重文。盂蘭盆会(8月7日〜10日)の六道まいりは有名で、この日に撞く鐘を「迎え鐘」と呼び、精霊を冥界から呼び戻すという




写真・右上:格子窓から小野篁像を覗くことができる。
篁は昼間は朝廷の官吏として働き、夜はこの寺の井戸から冥界に下り閻魔大王に仕えたという奇怪な伝承をもつ。

写真・下段:鐘楼
外からは釣鐘は見えず、変わった鐘楼である。ちょうど鈴のように引っ張ると鳴る仕組みになっている。








西福寺さいふくじ(東山区)

珍皇寺から少し西に行くと「六道の辻」と刻まれた石標の立つ角に小さな寺院が西福寺である。寺伝によると嵯峨天皇の御代に弘法大師がここに辻堂建て、自作の地蔵菩薩像を安置したのが起源と伝え、大師に帰依された檀林皇后も深く信仰、当時度々参詣されたと記されており、弘仁5年(814)皇子の正良親王が発病の折、この地蔵尊に祈願し無事快癒したことにより、この霊験にちなみ、人々は当地蔵尊を「子育地蔵」と呼び崇拝したという。
全国何処へ行っても見かけるのは六地蔵である。お寺の境内、街道の辻だったり。地蔵尊は人の魂をこの世からあの世に送ったり、迎えに行ったりする役目をもっていたということから、庶民の中にごく自然に溶け込んでいったのがわかりますね。
さて、盆の間だけに公開される寺宝に「檀林皇后九相観の図」があります。人間の死後の変相を描いたものである。檀林皇后が「自分の死後は簡素な風葬に」との遺言に従って嵯峨の地で風葬にした伝承にちなみ、美人の誉れ高い皇后が腐乱・白骨化し、やがて土に戻るまでの姿が、九つに分けて描かれている。これは人間の無常と儚さを示す仏陀の教えを絵にしたものである。
写真は殺風景な辻風景にしか見えませんが、いつまでも立っていても飽きがこない不思議な辻である。











六波羅密寺(東山区)

真言宗智山派。本尊は十一面観音。
天歴5年(951)醍醐天皇第二皇子である空也上人により開創。
当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曳き廻り、青竹を八葉の薄片の如く割り茶をたて、中へ小梅干と結び昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。
平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数五千二百余に及んだ。
寿永2年(1183)平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。
源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当寺はその変遷も甚だしいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し、寺領七十石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられたとのこと。
正月の皇服茶(おうぶくちゃ)、8月の万灯会、12月の空也踊躍(ゆやく)念仏などが有名。
また、本尊の国宝十一面観音像は空也の自刻と伝えられる。宝物館に安置される地蔵菩薩坐像もよく知られている。同じく空也上人立象は重要文化財で鎌倉時代に仏師運慶の四男である康勝の手になるもの。平清盛像と運慶と湛慶の像はともに重文指定を受けている。その他の像も含めて重文の質、量において文字通り此処は平安鎌倉期の宝庫と謂われる所以である。




写真・上段:本堂(右側)本堂に上がり回り込んだ奥に宝物館がある。

写真・下段左:本尊の十一面観音の等身大のレプリカ(本堂前)

写真・下段右:宝物館の実物は撮影禁止。入口に掲示されていたポスター写真。
この立像は日本史の教科書で有名ですね。あらためて、姿形を見てみましょう。右手に撞木、左手に鹿の杖をつき、念仏を称える口から六体の阿弥陀が現れている独特の像である。


最後に宝物館の方から「空也最中」の話を聞きましたので蛇足を。
屋号「空也」をなのる和菓子屋さんがあります。明治17年上野池之端で開業、戦災焼失のため、戦後銀座6丁目並木通りに移り、現在店主は四代目だそうです。安くておいしい、その日のうちに売り切るがモットーの店だとか。屋号は、初代が関東空也衆のひとりであったことから、空也念仏にちなんだとのこと。



(2月−4 了)
Posted by 奥野 祥司 at 08:30
近畿逍遥(49) [2011年03月27日(Sun)]


近畿逍遥(49)


(2月−3)




京都駅近くの本願寺界隈(京都タワー「お東さんのろうそく」の灯下にあたるエリア)を歩いてみます。七条通りと並行して走る「正面通」を西本願寺から東に向かい鴨川にかかる正面橋までの本願寺門前町を寄り道しながらゆっくりと歩いてみましょう。








西本願寺(下京区)

浄土真宗本願寺派の本山。世界遺産(文化遺産)。本尊は阿弥陀如来。
前身は文永9年(1272)に宗祖親鸞の末娘覚信尼(かくしんに)が建立した東山の大谷廟堂。第三代の覚如の時に本願寺と称した。天正19年(1591)に豊臣秀吉が現在地の堀川六条に寺地を寄進、伽藍が整備された。慶長7年(1602)に教如が徳川家康から烏丸七条の地を寄進されて東本願寺を分立した。元和3年(1617)の焼失後に伽藍を再建して今日に至る。西本願寺と通称される。
御影堂(ごえいどう)は寛永13年(1636)の建築で重要文化財。寛政の大修復(1800)及び平成の大修復(1999〜2008)の2回の修復を経ている。宗祖親鸞の像を安置する壮大な建築である。2011.4月より親鸞聖人750回遠忌法要が修行予定である。

尚、御影堂門を入って左手突きあたりに「飛雲閣」がある。桃山様式の建築で国宝の建造物として、「金閣」(鹿苑寺)、「銀閣」(慈照寺)と並んで「京の三閣」と呼ばれている。ここは、原則非公開であるが、特別公開される場合があります。私もタイミングが合わず拝観できていませんが一見の価値ありです。




写真上左:御影堂門から見る御影堂
写真上右:御影堂門(門前の総門が見えている)

写真下:阿弥陀堂(本堂)宝暦10年(1760)の再建で重要文化財。
東西42m、南北45m、高さ25m、中央には本尊阿弥陀如来像を安置しています。





唐門」 国宝

桃山様式の建築。もと御影堂門で、元和4年(1618)現在地に移築して彫刻を飾るなど改造された。伏見城の遺構との伝承ををもつ。
豪華な装飾彫刻を全体に施した四脚門。建築細部に見られる彫刻は、これを丹念に眺めていると日の暮れるのを忘れるといわれ、「日暮門」と通称されている。










東本願寺(下京区)

真宗大谷派の本山。真宗本廟という。本尊は阿弥陀如来。
慶長7年(1602)に本願寺の十二代教如が徳川家康から寺地(現在地)を与えられて当寺を建立。この時に堀川の本願寺(西本願寺)から分派して、東本願寺となった。
御影堂は、二層建築に見えるが下部は裳階である。開口76m、奥行き58mあり建築面積において世界最大の木造建築であり、現在の建物は、平成16年(2004)〜平成21年(2008)大規模修復が行われたものである(写真左下)。

写真左上:御影堂門
明治44年(1911)の再建(高さ約28m)。「真宗本廟」の扁額を掲げる。

写真右:京都タワー(御影堂門下からのショット)。
まさしくお東さんの「ろうそく」ですね。









本願寺伝導院(下京区) 写真下・上段

西本願寺門前の総門をくぐると、正面通(地元の人は御前通りと呼ぶそうです)、両側は仏具店、法衣店、仏教書出版と仏教関係の店が並ぶ、その中で一風変わった建物があります。天文台風な外観です。建物前にガイドがあり、それによるとこの伝導院は明治44年(1911)に真宗信徒生命保険株式会社の社屋として創建されたとのこと。門前に似合わぬ建物なので、この前を行く人が一様に不思議そうな顔して通り過ぎてます。化粧煉瓦仕上げといい、塔屋の周囲のテラスと高蘭といい、円形の屋根といい意匠に優れた建物ですね。
京都市有形文化財に指定されています。




山内任天堂ビル(下京区) 写真上・下段2葉

ご存知いまや世界に冠たる「Nintendo」の創業の地(現本社は南区にあります)。
3階建の重厚な建物である。建物といい表札といい、さりげなく歴史を語らんとしてますね。
前身は明治22年(1989)に誕生した小さな会社、現相談役の山内 溥氏の曽祖父が「任天堂骨牌(かるた)」つまり、かるたや花札を製造する会社を興したのが始まりです。
形・大きさが同じぐらいなのに目をつけて、全国のたばこ店網を活用して拡販に努めた由。
また、日本ではじめてトランプを製造したんですね。「大統領印の花札」なんか懐かしいですね。
このビルは使われていないようで、保存されているんだと思います。
表札の最下段には「京都正面大橋西」と記されてます。









渉成園しょうせいえん(下京区)

真宗本廟(東本願寺)の飛地境内地(別邸)。
東本願寺成立後、寛永18年(1641)に十三代宣如(せんにょ)上人が徳川家光から東本願寺の土地を寄進され、自らの隠居所と定め、陶淵明「帰去来辞」の一節「園、日に渉って以って趣を成す」から採って「渉成園」と名付けた。そして周囲に枳穀(からたち)を生垣として植えたことから枳穀邸(きこくてい)とも称されるようになったとのこと。
庭園はいわゆる「池泉回遊式庭園」で、洛北「詩仙堂」を開いた石川丈山の作庭になると伝えます。和漢の香り豊かな「市中の隠」である渉成園は、昭和11年(1936)、文人趣味に溢れる仏寺庭園として国の名勝に指定されています。

写真上段:入園口(西門)
東側は河原町通りに面してますが、入口はこの西の一か所です。

写真下段:印月池ほぼ中央に架かる「侵雪橋」(しんせつきょう)越しには京都タワーが映り込みます。ここは山とかを借景としたいところですが、景観論争にこの「ろうそく」は勝ったのです。
園内は、200m四方の広さで、印月池や侵雪橋を含めて十三景と諸建築が配されていて見応えがあります。







京都タワーの展望台からは、東西本願寺の広大な寺領や渉成園の緑、この界隈の地形が手に取るようにわかると思います。



(2月−3 了)
Posted by 奥野 祥司 at 08:30
近畿逍遥(48) [2011年03月07日(Mon)]



近畿逍遥(48)


(2月−2)


前回の「湖東の神社仏閣を訪ね歩く」の続きです。湖東を南下してみますが、こちらも雪にみまわれ殺風景な写真しかありませんが、季節の良い時はすばらしいですよ、ということを申し添えておきます。






多賀大社(犬上郡多賀町)

彦根市が琵琶湖畔、湖東の略中央に位置していますが、多賀町はその東に隣接している。
祭神 伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)・伊邪那美大神(いざなみのおおかみ

古くから「お多賀さん」の名で親しまれる滋賀県第一の大社です。日本最古の史書「古事記」によると、この両神は神代の昔に、初めて夫婦の道を始められ、我が国の国土、続いて天照大神をはじめとする八百万(やおよろず)の神々をお産みになられた。このように生の親神様であることから古くから延命長寿、縁結び、厄除けの霊神として信仰を集め、鎌倉から江戸時代にかけては、武家や民衆の信仰が一気に広まりました。
例として、甲斐の武田信玄は25歳の厄年に際し、黄金2枚を寄進して厄除祈願をしております。太閤秀吉も母大政所の病気に際して「命の儀、三カ年、ならずんば二年、げにげにならずんば三十日にても」と祈願文を寄せ、米一万石を寄進しております。幸いに大政所は治癒し、その一万石で太閤橋や奥書院庭園が築造されました。

俗謡「お伊勢参らばお多賀に参れお伊勢お多賀の子でござる
お伊勢七度熊野へ三度お多賀さまへは月参り
ここの「お多賀の子」とは、「伊勢神宮祭神である天照大神が伊邪那岐命・伊邪那美命両神の御子である神話体系を歌詞に映したものである。













長命寺(近江八幡市)

西国三十一番札所。
近江八幡市は、彦根市から20キロ強南下したところに位置する。長命寺は、その湖岸に位置し境内からは琵琶湖を一望できる。
縁起説明パンフによると、十二代傾景行天皇二十年、長寿の大臣竹内宿禰(たけのうちすくね)当山に登り「寿命長遠諸願成就(じゅみょうちょうおんしょがんじょうじゅ)の文字を柳の巨木に記し、長寿を祈り三百歳以上も長寿を保ち、六代の天皇に仕えたとのこと。
その後聖徳太子が諸国歴訪の折、この山に来臨され、柳の巨木に「寿命長遠諸願成就」の文字と観世音菩薩の御影を拝され感嘆されていると、たちまち厳の影より白髪の老翁が現れ「この霊木で千手十一面観音三尊一体の聖像を刻み、伽藍を建立すれば竹内大臣も大いに喜び、諸国万人等しく崇敬する寺となるであろう」と告げ失せられた。早速、太子は尊像を刻まれ伽藍を建立、竹内宿禰長寿霊験の因縁をもって「長命寺」と名付けたとのこと。




写真上左:三重塔(重文)

写真上・右上:三重塔前からの光景(右屋根が本堂)
写真上・右下:三仏堂と鐘楼(いずれも重文)













園城寺おんじょうじ[三井寺] (大津市)

天台寺門宗の総本山で、古くから日本四箇大寺の一つに数えられています。
歴史をひもとくと、天智・弘文・天武天皇の勅願により、弘文天皇の皇子・大友与多王が田園城邑を投じて建立され、天武天皇より「園城」おんじょうの勅願を賜り「園城寺」と称したのにはじまる。俗に「三井寺」と呼ばれるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり「御井の寺」と呼ばれていたものを、後に智証大師が当寺の厳儀・三部潅頂かんじょうの法水に用いられたことに由来する。
長い歴史の中で、当寺は再三の兵火にあい消失したが、豊臣氏や徳川氏の尽力で再興され、現在も国宝・重文・名園など貴重な寺宝を数多く伝えています。




写真上・上段:「仁王門(重文)」
慶長6年(1601)徳川家康により甲賀の常楽寺より移築、寄進された。

写真上・下段左:「金堂の平成大修理の案内立て看板」
(2006年当時は金堂は修理中で覆い屋がかかっている状態でした)
金堂は、慶長4年(1599)秀吉の北政所により再建。桃山時代を代表する名建築として知られている。尚、当時ご住職が屋根の檜皮葺替えの進捗がおもわしくないとこぼされていたことを思い出す。国産檜皮の入手が檜の大径木の減少と檜皮の採取職人の減少などで難しくなっているとおっしゃっていた。高価で人手もかかりますが、屋根の優美な曲線は檜皮葺ならではのものですから、これからも堅持していただきたいですね。
なお、2008年末には竣工式典が行われたようです。金堂は国宝です。

写真上・下段中央 「鐘楼」(重文)
慶長7年(1602)の再建。梵鐘は近江八景「三井の晩鐘」で知られる。宇治の平等院、高雄の神護寺とともに日本三銘鐘に数えられ、荘厳な音色は「日本の残したい音風景百選」にも選ばれている。

写真上・下段右 「三重塔」
慶長6年(1601)徳川家康による寄進。









石山寺(大津市)

琵琶湖から南に流れ出る瀬田川沿い西岸に建つ。
聖武天皇の勅願により天平勝宝元年(749)良弁僧正によって開基。歴朝の尊崇あつい寺院で西国巡礼十三番札所。
本堂は、縣下木造建築最古のもので、内陣は平安中期、外陣は淀君の修呆補になるもの。
本尊観音は勅封。本堂内「源氏の間」は紫式部が「源氏物語」を書いたところと伝わる。
本堂下の御堂は蓮如上人の母が石山観音だといわれるので、その形見と伝える蓮如鹿の子の小袖を安置している。また、当寺は「更級日記」、「枕草子」などの文学作品などにも登場しています。そして、「近江八景」のひとつ「石山の夕景」でも知られています。
また、境内では雄大な硅灰石(天然記念物)の大岩塊の光景が見られます。石山寺の「石山」の起りとなったものです。





写真上:「東大門」(重文)
「運慶・湛慶作」とされる仁王像がいらっしゃる。






写真上:「多宝塔」(国宝)
鎌倉期の建久5年(1194)建立。檜皮葺、17.2m。
多宝塔の中でも最も美しいといわれていて、現存最古のもの。
内部須弥壇には、大日如来座像(重文、快慶作)が安置されている。



(2月−1・2 「近江路湖東の旅」 了)
Posted by 奥野 祥司 at 08:30
近畿逍遥(47) [2011年03月05日(Sat)]






近畿逍遥(47)


(2月−1)


冬の湖東を北から南に訪ね歩きます。ほとんどが雪景色、建物・庭等が雪で覆われていて全体が良く分からないと思いますがご容赦ください。



長浜城(長浜市)

長浜市は琵琶湖の東側(湖東)の一番北側に位置している。現市内には、姉川古戦場(信長・家康連合軍と浅井・朝倉連合軍との激闘地)、小谷城跡(浅井三代の居城)そして賤ヶ岳の戦い(秀吉と柴田勝家との戦い)などの史跡がある。この辺りは、今放映のNHK大河ドラマ「江」の序盤のストーリーに登場してきていますね。
天正元年(1573)9月浅井長政滅亡後、湖北を支配したのは、羽柴(豊臣)秀吉であった。姉川合戦と小谷攻めで手柄を挙げた秀吉は、その功績によって浅井氏の領国の大部分を与えられ小谷城に入った。天正2年夏、今浜(今の長浜市公園町付近)に築城を開始している。秀吉が湖岸に城を移した理由は、琵琶湖の舟運を重視した領国経営にあったと考えられる。築城にあたり、材木は竹生島などから運んできたことや、石垣用の石材は領内から集められ、石仏や五輪塔などの墓石まで使用された記録が残っている。
天正3年秋頃に秀吉は小谷から今浜城に移り、地名を「長浜」と改めて天正10年まで在城した。
長浜城その後
天正10年(1582)清州会議で長浜城は柴田勝家に譲られ、勝家の甥勝豊が入城したが、その年の11月秀吉は勝豊を攻めて、翌年の柴田勝家との賤ヶ岳合戦の軍事拠点としている。天正13年から18年まで山内一豊が城主となり、その移封後は次第に荒廃し、元和元年(1615)長浜城は、湖北支配の役割を彦根城に譲って使命を終えた。

昭和の長浜城築城
現在の長浜城は、「秀吉の長浜城」を復興しようという市民の熱望により、天正期の城郭を想定し昭和58年(1983)に建築され、市立長浜城歴史博物館として開館している。











大通寺(長浜市)

浄土真宗大谷派の別格別院。本尊:阿弥陀如来。
戦国時代初め蓮如上人は他力念仏の教えを広げるため、全国各地を遊化ゆうげした。近江国はその布教活動の最大の拠点であった上、元来信仰心の篤い土地柄であったため、またたくまに近江全域に広がった。なかでも湖北は、真宗王国と呼ばれるほどまでに教線を広げていった。その湖北の真宗寺院の中核、それが「長浜の御坊さん」と呼ばれて親しまれている大通寺である。
天正時代のはじめころは、大阪の石山本願寺と信長は抗争中であり、天正8年(1580)時の本願寺法主顕如上人は信長との和睦を成立させたが、嫡男の教如上人は徹底抗戦を主張し諸国に檄を発した。湖北の門徒はこれに応じ教如上人と共に戦った。
慶長7年(1602)教如上人は徳川家康より本願寺分立の許可を得て大谷派本願寺(東本願寺)を興した。
これに伴い長浜城の旧地に移っていた当寺は大通寺と号する寺院として発足することになり、その後寺地を現在の地に移し伽藍を構えることになった。
発足当初は、本山より僧が派遣されていたが、寛永16年(1639)霊瑞院宣澄が住職として入寺を契機に、彦根藩主井伊直孝の援助を得て寺域の拡大をはかるとともに、本山から伏見桃山城の遺構と伝えられる本堂や広間を譲り受け、寺観の整備をはかった。
ここに、大通寺は名実ともに当地方における信仰と伝導としての重きをなし今日に至っている。




写真上左:山門(1841年落成・総欅造り)
写真上右:本堂(伏見桃山城の遺構と伝わる)
写真下左:含山軒庭園(伊吹山を借景)
写真下右:書院「新御座」の障壁画・狩野永岳筆








龍潭寺りょうたんじ(彦根市)

臨済宗妙心寺派。旧彦根藩主井伊家菩提寺。 本尊 楊柳観世音菩薩。
由緒によれば、天平5年(734)、行基菩薩により遠江国に開基。元中2年(1385)後醍醐天皇第三皇子宗良親王によって中興され、寺号を龍潭寺とした。
慶長5年(1600)井伊直政が佐和山城主となったのを機に、昊天こうてん禅師により佐和山城麓に移建開山した。
元和3年(1617)諸堂が完成した後は、近江随一の禅刹となり、近郊に十余りの末寺を有する巨刹になった。さらに全国有数の禅宗大学寮として発展し、特に「園頭科えんずか」は、日本の造園専門学校の発祥とされ、当寺で学んだ僧たちが全国の禅寺の庭園をてがけたことは広く知られている。




写真上:
「山門」享保2年(1735)建立。総檜造り格天井の四脚門で、棟瓦の双龍透かしは有名。
「境内にある七福神・大黒天像」

写真下:「書院東庭」
江戸中期に築かれた佐和山の峰を借景にし、浄土の世界を表す池泉鑑賞の名庭。この庭の趣を井伊大老直弼は、「世間にすむとにごるあともなく、この池水のいさぎよきかな」と詠んでいる。
「庭の寺」とも呼ばれるように、他にも有名な「方丈南庭」と「書院北庭」があります。











彦根城(彦根市)

築城は、将軍徳川家康の命により佐和山城を一掃するため、慶長9年(1604)より着工された。当初は湖畔の磯山を予定していたとのことですが、井伊直継の代になって現在の彦根山に決定し、20年の歳月をかけて築城された。
天守は大津城から、天秤櫓は長浜城から移築。天守は2年足らずで完成。城郭の完成は1622年とされている。この間、直孝は大阪冬の陣で兄直継に代わって出陣し、その功績によって家督を継ぎ、夏の陣では豊臣方の木村長門守重成と戦い大功をあげ、初代・井伊直政(常に先鋒を務め、徳川四天王のひとり)に劣らぬ武将と賞讃された。
二代直孝は、秀忠、家光、家綱の三代にわたって、将軍の執政となり、幕府政治確立にも貢献。これらの功により三回加増され、譜代大名としては例のない30万石となる。彦根35万石といわれるのは、このほかに幕府領5万石の預かりがあり、合わせて35万石となる。
尚、天守は18万石の頃の完成であった。
彦根城は、明治に解体の危機に見まわれた経緯あり。今も往時の面影が今日によく残っているのは、明治天皇が明治11年(1878)10月北陸巡幸を終え、彦根を通られたときに、保存するようにと大命を下されたからとのこと。



ちなみに近世の城で天守が残っているのは、弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城。松本、犬山、彦根、姫路の4城の天守は国宝です。







最後に、彦根の有名人?にしめていただきましょう。
平成19年(2007)彦根城築城400年祭が行われました。そのときイメージ・キャラクターとして登場したのが、皆様よくごぞんじの下の写真(ネットから)です。
いわゆる「ゆるキャラ」ブームの火付け役となったことはご存知の通りです。今もゆるキャラの先頭に立って活躍中ですね。



(2月−1 了)
Posted by 奥野 祥司 at 08:30
近畿逍遥(46) [2011年02月19日(Sat)]
近畿逍遥(46)


1月−2



今回は奈良市の南に位置する桜井市・葛城市・明日香村・橿原市の仏閣神社を訪ね歩いてみます。




長谷寺(桜井市)近鉄大阪線長谷寺駅から徒歩15分。

真言宗豊山派の総本山。また西国三十三所第八番札所。本尊 十一面観世音菩薩。
七千株の牡丹と文人に愛された花の寺として有名、また伊勢への参詣路に位置しているため伊勢神宮詣での旅人も多いとのこと。
神々の住む霊山として信奉されていた三輪山、その裏にある初瀬山は死者の魂がとどまる場所として「隠(こも)り国」と呼ばれていた。その中腹に位置する長谷寺は霊験あらたかな土地に広大な寺域を占めている。




写真上左・上段 仁王門
平安時代、一条天皇の御代に建立。現在の門は明治18年(1885)の再建。

写真上左・中&下段 登廊のぼりろう 
中段:仁王門から本堂に至る登廊の外観。
下段:登廊内の景色(天井から吊り下げられた長谷型灯籠が印象的)
長谷寺といえば、この灯籠の景色が良く知られている。399段の階段式の回廊で、二度折れ曲がり、段差は低いので然程負担とはならずに、平坦地に建つ本堂にたどりつく。


写真右・上段 寒牡丹
登廊の左右に咲いている。花を眺めながらゆっくりと登れば本堂も近くなります。なお、普通の牡丹の花期は4月中旬〜5月上旬頃であでやかに咲き競います。

「花咲かば堂塔埋もれつくしべし」(高浜虚子)

写真右・上段 本堂
徳川三代将軍家光公の寄進により慶応3年(1650)建立。前面に懸崖造りの舞台が付く大建造物です。国宝指定となっています。この舞台からの景色は谷間に建つ伽藍や山並みと緑が見張らせてすばらしい。
本尊の十一面観世音菩薩立像(身の丈が三丈三尺約10m)という巨大な像は全国に広がる長谷観音の根本像で、天文7年(1537)の造立で重文指定されています。

写真右・下段 本堂
きれいに磨きこまれて、幾分前下がりになっていて滑りそうな本堂床面越しの風景。







當麻寺たいまでら(葛城市) 近鉄南大阪線で当麻寺駅下車徒歩約15分。

大和と河内の境に位置する二上山(にじょうざん)の東麓に建つ、大和の代表的な古寺。
中将姫伝説で有名な當麻曼荼羅や日本に現存する最古の塑像である国宝弥勒仏坐像、同じく現存する唯一の双塔など見所は多い。また、独特な伽藍配置も特徴のひとつ。さらに真言宗と浄土宗の二宗を奉じる珍しい寺でもある。
尚、当麻寺駅からの途中に、「當麻蹶速塚(たいまのけはやづか)」や「葛城市相撲館」がある。相撲の始祖とされる當麻蹶速の墓と伝わる史跡。「日本書紀」に垂仁天皇の前で當麻蹶速と野見宿禰(のみのすくね)が立ち会った日本最古の天覧相撲と記される。



写真下・上段 本堂(曼荼羅堂)国宝

写真下・中段 東西両塔(奥院からの眺め)

奈良時代の伽藍配置にならい金堂の南側に配された2基の三重塔。ともにいく度かの兵火をまぬかれてきたもので、創建当時の双塔がそろって残っているのは、全国でここだけ。
奥院からは古都塔二塔が現存するという貴重な景色を見ることができる。

写真下・下段左 東塔(白鳳時代) 国宝  22m

写真下・下段右 西塔(天平時代) 国宝  25m

どちらも本瓦葺で、八輪の相輪とその上の水煙がほかに類を見ない特徴がある。












飛鳥寺あすかでら(高市郡明日香村) 近鉄橿原線飛鳥駅よりバス、飛鳥大仏前下車直ぐ前。

飛鳥の地を見渡す甘樫の丘の東、のどかな田園風景の中に建っている。今は、飛鳥大仏を安置する本堂と礎石が静かに残っている。現在は正式には真言宗豊山派に属する「安居院(あんごいん)」で文政9年(1826)の再建になる。
596年、日本初の本格的寺院、飛鳥寺が完成する。蘇我馬子の発願によって建立。かっての飛鳥寺の伽藍配置は塔を三つの金堂が囲む「一塔三金堂」式で壮大な伽藍であったことがわかっている。この配置は後世には見られない独特な形式で、飛鳥式伽藍配置と呼ばれる。伽藍全体の規模は後に建つ法隆寺の3倍にも及んだ。往時の日本人にとり見たこともないものを作るので大事業であったろうと思われる。建立に際しては、百済から僧や寺工、瓦博士などの技術者が渡来したという。仏像は鞍作止利(くらつくりのとり)によって作られたといわれる。飛鳥大仏、その姿形に往時の人々は強烈な刺激を受けたであろう。
なお、飛鳥寺は、大化の改新(645)を行った中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの場としても有名。ここで、蹴鞠をしていたときのことであったと「日本書紀」に記されている。




写真上・上段 本堂
写真上・右中段 飛鳥大仏606年、止利仏師作。全長2m70cm金銅の合金製。法隆寺の釈迦三尊像より17年、奈良の大仏より150年早くわが国最古の尊像である。
アルカイックスマイルが特徴で、向かって左側の顔はやさしく、右側は厳しい表情といわれている(1196年落雷にて一部損傷の部分は補修してあるため「重文」指定。但し、価値は超国宝的のものであるとのこと)。

写真上・左下段 蘇我入鹿の首塚
寺近くの田んぼの中に建つ五輪塔。これは蘇我入鹿の首塚といわれ、鎌倉時代に造られたもの。大化の改新で討たれた入鹿は「日本書紀」では非道の人物とされている。首を斬られた後も首だけで鎌足を追いかけまわしたという伝説が残る。







大神神社おおみわじんじゃ(桜井市) JR三輪駅より徒歩5分。

端正な円錐形の姿が美しい三輪山は、標高467m、全山が古杉、老松の大木に覆われて、古代から神南備山(かむなびやま)として尊崇を受けてきた。山中の「磐座(いわくら)」と名付けられた巨石を神の憑代(よりしろ)として祀る。
これらの磐座を含む三輪祭祀遺跡からは、勾玉のどの石製品や、杵、臼、杓子などの土製品が出土しており、古墳時代から平安時代の須恵器の破片も発掘されている。山内の木一本伐ることも禁ぜられ、明治に至るまでは禁制の山であった。
大神神社は本殿はなく、拝殿から三輪山中の磐座を遥配する。

下写真・上段左 二の鳥居
下写真・上段右 拝殿
下写真・下段 社域北側にある「大美和の杜」からの南西方面の眺望
右に大鳥居が見えている。その左の小高い盛り上がりが「耳成山みみなしやま(約140m)」、中央あたりの盛り上がりが「畝傍山うねびやま(約199m)」、そして左の盛り上がりが「香久かぐやま(約152m)」、いわゆる古来から有名な「大和三山」である。
この位置からは一直線に並んでいるように見える。三山を一眸にするポイントは幾つかあるのでしょうが、ここはすばらしいですね。
大和三山はいずれも現在、橿原市にあって、北に耳成山、南東に香久山、南西に畝傍山とそれぞれの孤丘が藤原京を三角形に囲むように位置している。




万葉集に、中大兄皇子(天智天皇)が弟の大海人皇子(天武天皇)と額田王をめぐって詠った歌に、
「香久山は 畝傍を愛しと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし いにしへも しかにあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき」があるなど、三山の姿は親しまれている。






橿原神宮かしはらじんぐう橿原市) 

近鉄は奈良観光の重要な足で橿原神宮前駅も橿原線・吉野線・南大阪線の分岐駅である。西口駅前から社域まで徒歩で15分ぐらい。
橿原神宮御由緒によると、「神武天皇は、天壌無窮の神勅を受け、天業をおし広めんとして、九州の日向国の高千穂の宮から東遷の壮途につかれました。そして国内を統一せられ、畝傍山の東南・橿原の地に皇居を営んで、即位の礼を行わせられました。明治の時代になり、天皇の御聖徳を景仰して、この橿原宮跡に神宮創建の請願が民間有志から起り、明治天皇には、これを深く嘉みせられ、御聖慮により元京都御所の賢所と神嘉殿を本殿と拝殿として下賜され、明治23年4月2日官幣大社・橿原神宮として御鎮座になりました」とある。

下写真が当社の代表的風景であろう。広大な敷地に建物のスケールも大きく、内拝殿まで進むことができますが、その奥に建つ幣殿と本殿(実際には見えない)を拝するのみで全貌を知ることはできません。下段写真の右奥が畝傍山です。




最後に蛇足。平成23年正月の奈良県の初詣参拝者数のベスト3は下記の通りでした。

1.橿原神宮・・・・・約85万人
2.春日大社・・・・・約70万人
3.大神神社・・・・・約47万人



(1月 了)
Posted by 奥野 祥司 at 19:00
近畿逍遥(45) [2011年02月09日(Wed)]

近畿逍遥(45)


(1月−1)



今回は、新撰組の残景を訪ねて京都壬生・島原界隈(中京区・下京区)を歩いてみます。
光縁寺・旧前川邸・八木邸・壬生寺・大門・角屋・輪違屋などです。







光縁寺(下京区)
京福電車の四条大宮駅から徒歩、踏切を渡り狭い路地を入った直ぐのところにある。
浄土宗。本尊は阿弥陀如来。知恩院の末寺。創建は慶長18年(1613)頃で、本堂や山門は天明の大火で焼失し、文政2年(1819)に本堂、弘化3年(1846)に山門が再建されて現在に至っている。
新撰組との関係であるが、門前近くに新撰組の馬小屋があり、毎日門前を隊士達が往来し、その中には副長の山南敬介もいたとのこと。山門を見上げると、瓦に「丸に右離れ三つ葉立葵」の山南家と同じ家紋が目に入る。当時の住職良誉上人は、年齢も山南と同じであったことから二人に親交が生まれたとのこと。こんな経緯から屯所で切腹した隊士達、そして山南自身、その後も隊士達関係者が弔われ、埋葬されたとのこと。そして、過去帳には隊士のほか新撰組と縁のある人を含めて28人の記載があるとのことです。
なお、山南は仙台藩を脱藩して千葉周作の門下生(坂本竜馬と同じ北辰一刀流)となり、その後浪士隊に加わっている。山南は文武両道で隊士からの人望を集めたが、剣の流派が違うため今一つなじめなかったようで、組を脱走して大津で捕えられ、後述の前川邸内で切腹させられている。


写真下・左上下 山門、同瓦の「丸に右離れ三つ葉立葵」の紋

写真下・右    山南敬介の墓









旧前川邸」 (下写真:左上)

光縁寺から西に2〜300mぐらい。私有地通常非公開。今は、土日ぐらいが中に入れるようになっているのか?(平成16年当時はNHK大河ドラマ「新撰組」で平日でも賑わっていたと思いました)。壬生の地で誕生した新撰組は、隊士が増えるにつれ後述の八木邸が手狭になったことから、道を挟んだ東にある旧前川邸も屯所としたようです。
山南が切腹した部屋や古高俊太郎を拷問に掛けた地下室等があります。



壬生屯所遺蹟(八木家)」 (下写真:左下、右) (中京区)

幕末、新撰組は文久3年(1863)春、ここ洛西壬生村の八木家11代目宅にて誕生しました。創設期十三名は、芹沢 鴨・平山五郎・近藤 勇・土方歳三・新見 錦・平間重助・野口健司・沖田総司・山南敬介・永倉新八・原田左之助・籐堂平助・井上源三郎。以来壬生を拠点に自刃をもって奔走した彼らが慶応元年(1865)、隊士の増員に伴い手狭となった壬生を引き払って西本願寺に屯所を移転するまでの3年間、初代局長・芹沢 鴨らの暗殺をはじめ、池田屋の変、禁門の変など、新撰組の激動の歴史が繰り広げられましたが、それらを目撃してきたのがこの八木家です。
近隣の前川家・南部家なども屯所として使用されましたが、八木家はその中枢だったとのこと。一番奥の部屋、鴨居に残る刀傷は、文久3年9月18日夜、芹沢 鴨・平山五郎らが斬殺された時のものとのこと。
また幕末当時の壬生界隈は、あたり一面が閑静な農村地帯で、八木家の中庭から二条城や五山の送り火が望めたとのことです。









壬生寺 (中京区)

律宗の大本山。本尊は地蔵菩薩。
正暦2年(991)に建立。正嘉元年(1257)には火災で被害にあったが中興の祖とする円覚上人が再興。
春秋の壬生大念仏狂言(国の重要無形民俗文化財)は有名。
境内にある壬生塚には、近藤 勇の胸像と遺髪塔、屯所で暗殺された芹沢 鴨、池田屋騒動で亡くなった新撰組数名等が葬られている。かって、壬生寺境内は新撰組の兵法調練場に使われ、武芸や大砲の訓練が行われたとの記録が残っているとのこと。また、隊士にまつわる逸話も多く残っているとのことです。

写真下:左上下 山門・千体仏塔

写真下・右    近藤 勇 胸像








島原「大門」 (下京区)

島原は、江戸時代以来、公許の花街かがい(歌舞音曲を伴う遊宴の町)として発展してきた。寛永18年(1641)、官命によって、島原の前身である六条三筋町から現在の朱雀野の地に移された。その移転騒動が、九州で起きた島原の乱を思わせたところから、一般に「島原」と呼ばれてきたが、正式名称は「西新屋敷」という。
この島原は、単に遊宴を事とするにとどまらず、和歌俳諧等の文芸も盛んで、ことに江戸中期には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈した。
しかし明治以降の島原は次第にさびれてゆき、現在では揚屋あげや(今の料亭に当たる店)の「角屋」、置屋おきや(太夫や芸妓を派遣する店)の「輪違屋」、それに島原入口の「大門」、これら三箇所がわずかに往時の名残をとどめるものとなっている。
現在の「大門」は、慶応3年(1867)に神社仏閣なみの本格的な高麗門として建て替えられたものである。

嶋原のでぐちのやなぎをみてなつかしき
やなぎのまゆの 春風になびくほかげや 里の夕ぐれ 蓮月尼
(大田垣蓮月(歌人 1791〜1875)







角屋すみや (写真下:上段と二段目左右)

島原三百年の歴史を誇る家屋は、次第に姿を消した中に、角屋のみは、当時の揚屋建築の唯一の遺構を伝えるものとして、国の重文指定されています。木造二階建て、表全体を格子造りとしていますが、奥の大座敷には広い庭に茶席を配し、また大きな台所を設けることにより典型的な揚屋建築の特徴を残しています。
天明年間(1781〜1789)前後、角屋では、当時における一流画人に襖絵の制作を依頼し、丸山応挙、与謝蕪村などの画蹟が残されています。さらに幕末のころには、諸大名をはじめ、西郷隆盛、桂小五郎、坂本竜馬などの志士がこの角屋を利用し、志士たちが軍用金調達のために、鴻池、加島屋などの豪商を招き、しばしば饗宴を催したことが伝えられています。
そのほか、新撰組の近藤 勇や芹沢 鴨なども出入りし、その刀痕が今も柱に残っています。
現在、「角屋もてなしの文化美術館」として公開されています。


維新の石標」長州藩志士 久坂玄瑞の密儀の角屋;石碑 (写真下:中央)


輪違屋わちがいや (写真下:下段)

輪違屋は、太夫や芸妓を抱えていた由緒ある置屋で、元禄年間(1688〜1704)の創業と伝える。
建築的に質が高く、二階の座敷の襖や壁の斬新な意匠には目を見張るものがある。また、最古の置屋の遺構として貴重であり、京都市の有形文化財に指定されている。現在はお茶屋として営業中のため通常は非公開である。










おわりに、浅田次郎原作の新撰組物時代小説として「壬生義士伝」「輪違屋糸里」があるのはご存知の通りです。



(1月−1 了)
Posted by 奥野 祥司 at 08:00
近畿逍遥(44) [2010年12月24日(Fri)]

近畿逍遥(44)


(12月−3)


神戸三ノ宮の華麗なる光の散歩道を歩いてみましょう。「神戸ルミナリエ」は、平成7年(1995)に発生した阪神・淡路大震災で犠牲になった人々の鎮魂と、大きな被害を受けた都市の復興を願って、同年12月に初めて開催されました。以降、人びとの希望を象徴する冬の風物詩として定着、現在まで人々の熱意と期待によって開催が続けられています。今年も第16回目を迎え、2日〜13日(12日間)で開催されました。
会場は三ノ宮駅近く、旧外国人居留地、東遊園地に光のモニュメントが一面に飾られます。
光の玄関に始まり、光の回廊、光の壁掛けなどの輝きが神戸の街を優しく照らします。
尚、写真は、2003〜2006年版を組み合わせたものです。


今も状況が変わらないとすれば、平日18:00〜21:30ぐらい、土日17:00〜22:00ぐらい。光の玄関に辿りつくまで長蛇の列で一時間以上は要したと思いました。観光客も殺到する土日は避けて、平日の少し時間をずらして20時ぐらいからスタートすれば比較的スムーズに流れて、光の玄関、回廊、壁掛けと充分に堪能できると思います。










Kobe Luminarie (2003〜2006)



















毎年その年のテーマに基づいて造形されています。

2010年の作者からのメッセージは下記の通りとなっています。

今年も冬の神戸に 無数の光が灯される

冷たい夜空の下に 人と人を結びつける

眩い輝きは 過去と未来を結ぶ神戸の記憶

悲しみの時を経て 新たな記憶を留めるために

光のフォルムは 変わり続ける

すべては輝きの中にある

「輝きの記憶を留めるために」





















(12月 了)
Posted by 奥野 祥司 at 08:00
近畿逍遥(43) [2010年12月22日(Wed)]





近畿逍遥(43)


(12月−2)


小雨降る中でしたが、洛西の寺院を歩いてみました。鈴虫寺と苔寺に寄ってみました。近くには「竹の寺」とも称される地蔵院もあります。こちら方面の散歩には一緒に廻ると良いと思います。









華厳寺(西京区松尾)

臨済宗単立寺院。本尊は大日如来。
享保8年(1723)に鳳潭(ほうたん)が華厳宗の復興のために創建し、慶応4年(1868)には臨済宗に改宗。鈴虫寺とも呼ばれ、寺内には一年中、鈴虫が鳴いていることで知られている。
結構参拝者が多いお寺さんのようである。客殿に上がると座卓座布団の部屋には人が一杯である。着座すると茶菓のもてなし、やがてご住職の「鈴虫説法」が始まる。この間正面横一列に置かれた鈴虫箱から心地よい鳴き声が聞こえてくるという演出である。なかなか変わった趣向である。説法の内容は忘れてしまいましたが、鈴虫の清らかな音色は甦ってきますね。鈴虫寺といわれる所以ですが、ここは金閣寺や銀閣寺と同様に通称の方が有名のようである。

下写真・右 「幸福地蔵」
このお地蔵さん足元を見ると草履を履いていらっしゃる。これは願い事をした人の家へ杖をつきながら一軒ずつ願い事叶えと歩くためだそうです。


















西芳寺(西京区松尾) さいほうじ

臨済宗単立寺院。世界遺産(文化遺産)。本尊は阿弥陀如来。通称は「苔寺」。
前身の西芳寺は行基が聖武天皇の命で建立した四十九院のうちの一つ。建武の兵乱での荒廃後、藤原親秀(ちかひで)(松尾大社宮司)が夢窓疎石を住持に迎えて再興。夢窓が西芳寺として臨済宗に改め、修行の中心道場となった。
現存の諸堂は明治11年(1878)に再建された。
茶室湘南亭は、千利休の息男で、千家を再興した千少庵が慶長年間(1596〜1615)に構えた茶室。四畳半台目(だいめ)の茶室に、天井を土塗りにした開放的な公縁が付き、庭園と連続するような構成を持つ。




上写真・上段 「本堂」

上写真・下段&下写真 「庭園」
国の史跡および特別名勝に指定されており、向上関(こうじょうかん)を境に、洪隠山枯山水石組を中心とした上段の庭園と黄金池(おうごんち)を中心とした下段の庭園とに分かれる。地割や細部のデザインに疎石の作庭がしのばれる。
写真のように通路以外は苔がびっしりと生えており、ここに、これを見に来たわけであるが、梅雨時などのほうが苔にボリューム感が出て見応えがあるのかなとも思った。ただ、この季節でも緑の絨毯は美しく、この庭園の温度や湿度などが苔の生育によほど適しているのだろうと感じた。




夢窓は「夢中問答」のなかで、次のように説いている。
昔から、山水といって山を築き石を立て樹を植え、水を流して愛好する人は多い。かたちはどれも同じであるが、人によって山水を愛好する意味は違っている。ただ、家の飾りと思う者、宝物を集めるのと同じように考えている者など、いろいろだ。それはそれでいい。山水そのものと道行(どうぎょう 禅の修行)とを別々に考えているようでは真の道人(どうじん 一心に修行にはげむ者)とはいえない。山河大地草木瓦石をみな己の本分だと信じている人こそ、山水愛好の点では世情と似てはいるが、やがてその世情を道心として、泉石草木の四季に変わる気色(けしき)が工夫なのだと知っていく。
道人が山水を愛するとは、こういうことをいうのだ。山水を好むのは悪事でもないが、といって善事でもない。山水に得失はなく、得失は、これを愛する人の心にある」












「苔寺」は、阪急嵐山線の上桂駅と松尾駅の中間ぐらいの位置、それぞれ徒歩で約15分ぐらい。拝観するには事前に往復はがきで拝観日を予約する必要があります。苔の保護のため、むやみに人を入れたくないという政策なんだと思います。ゆっくりと落ち着いて観賞できることは確かだと思います。そして、もう一つの特記は冥加料が三千円ということです。これは、本堂で写経をし、願い事を書き添えて本尊の前に奉納するという宗教儀式付きということになります。


(12月−2 了)
Posted by 奥野 祥司 at 08:30
近畿逍遥(42) [2010年12月17日(Fri)]




近畿逍遥(42)


(12月−1)




京都市左京区下鴨の「京都府立植物園」に行ってみましょう。賀茂川沿いの左岸から近い下鴨神社と上賀茂神社のおおよそ中間点ぐらいに位置しています。季節が良いときの賀茂川沿い散歩の目的地にしてみてはいかがでしょうか。季節季節の花木が楽しめて、観光コースにはない発見があったりして満足が得られるものと思います。





京都府立植物園
下鴨神社から賀茂川沿いを北に向かって散歩していくと、この植物園の正門に行き着きます。地下鉄烏丸線だと北山駅下車歩いて直ぐに、もう一つの入口「北山門」があります。
実は賀茂川沿い散歩中に、偶然にも正門にぶつかったというわけです。しかも「今が見頃ですよ。是非見ていってください」と勧められたので入園した次第。京都は何処に行ってもお金を取られるのですが、ここは助かりました。入園料支払窓口に「60歳以上は無料」という貼紙表示(免許証を見せればOKでした)。ここもあまり観光客は来ないでしょうね。

「フウの木の紅葉」
12月初旬の目玉になっていたのが、「フウの木」でした。見たのはまったくの初めてでした。
台湾原産の落葉高木で、漢字では「楓」と書いて「フウ」と読ませていますが、カエデとは違いマンサク科とのこと。この植物園が開園するときに台湾から運んで植えたとのことで、日本のカエデより少し葉が大きく、形は掌状に三裂。樹齢は90年とのことでした。

























次にこの時期園内を彩る数少ない花で印象的だったのでスナップしてみました。

下写真・上段 「木立ダリア」 : 別名「皇帝ダリア」
         三井台近辺の庭先でも「おや、何だろう?」という意外感で見かけますね。




上写真・下段 「つわぶき」
心魅かれる人にあったような思いにさせられたのでしょうか。道端に鮮やかな黄色、目を奪われてしまいました。



(12月−1 了)
Posted by 奥野 祥司 at 08:30
近畿逍遥(41) [2010年12月15日(Wed)]

近畿逍遥(41)


(11月ー12)


京都市街中心部から東北に位置する幾つかの寺院を訪れてみます。近い順で言うと、赤山禅院、延暦寺、古知谷阿弥陀寺となります。特に今まで遠景や借景で何度も秀逸な名脇役として登場してきた比叡山を取り上げてみました。









赤山禅院(左京区修学院) せきざんぜんいん
本尊は赤山明神(泰山府君たいざんふくん)。円仁の遺命により弟子の安慧(あんね)が仁和4年(888)に創建し、延暦寺の別院とした。本尊は天台守護とされる。
当院は修学院離宮の近くで京都御所の正東北鬼門にあたり、方除けの神として信仰を集める。当院の御札を家に貼ると、鬼門除けになるという。
また、比叡山の行者が千日回峰行を修する際、7年に及ぶ壮絶な行の最後の2年間を、比叡山から雲母(きらら)坂を下ったこの禅院を拠点に行うとのことです。そういわれれば、険しい山を背負う境内は、荒行の舞台にふさわしい厳しい雰囲気を漂わせていました。




上写真 「京都の東北表鬼門を護る本堂屋根の御幣を持つ猿」
     災いが去るにちなむ鬼門封じ。







阿弥陀寺(左京区大原)

浄土宗。本尊は弾誓(たんぜい)自作自像の「植髪の尊像」。
通称「古知谷阿弥陀寺」として呼ばれている(上京区にも別個の阿弥陀寺があります)。
慶長14年(1609)に木食上人弾誓が念仏道場として開創した。現在も弾誓の即身仏(ミイラ)が本堂背後の開山窟に安置されている。
大原の三千院あたりから鯖街道沿いに約2キロぐらい北に古知谷がある。山門からは坂が続き、鬱蒼とした林森を上っていくことになる。大木が彼方此方に見られ、陽射しが時折漏れてくるぐらいで、ひんやりとした空気が漂っている。やがて石垣の上にお寺の建物の一部が見えてくる。まるで山城のようである。こんな山深いなかに当寺はひっそりとあります。




上写真・上段 「山門」

上写真・下段 「本堂」









延暦寺(滋賀県大津市)

世界遺産(文化遺産)。根本中堂の本尊は薬師如来。南都(奈良の諸大寺)に対して北嶺と呼ばれる。
延暦4年(785)に最澄(伝教大師)が比叡山で修業して薬師堂(のちの一乗止観院)を建立、最澄自らが彫った薬師如来像を祀ったことに始まる。その後、最澄は同24年に入唐求法から帰国して、天台法華宗の確立に奔走したが、弘仁13年(822)に没した。その直後に当寺は大乗戒壇設立の勅許を得て翌年に延暦寺となった。
最澄のあとを継いだ三代天台座主の円仁(慈覚大師)・五代円珍(智証大師)によって次第に密教化していった。康保3年(966)に十八代天台座主となった良源は、急速に寺基を拡大、「東塔」「西塔」「横川」の三塔十六谷に三千といわれる寺坊を持つ一大寺院群を形成するに至った。
良源没後、比叡の山法師と称されて俗界との関わりを深め、元亀2年(1571)に織田信長の焼討ちを受けて全山が焼失、その復興は徳川家光の時代までかかった。
天台教学は八宗兼学といわれ、鎌倉新仏教と称される禅宗や日蓮宗、浄土宗などはすべて延暦寺に端を発する。また、比叡山には延暦寺という堂塔はありません。比叡山そのものが延暦寺を表わし、この山の自然、諸堂、そこに修行する人、訪れるすべてが僧伽を形つくっています。





[東塔] (とうどう
比叡山三塔の中心で、延暦寺発祥の地。比叡山の総本堂である根本中堂をはじめ重要な堂塔が集まっている。

上写真 「根本中堂」
寛永19年(1642)の落慶で国宝。ご本尊薬師如来を祀る宝前に1200年間守り継がれた「不滅の法灯」が光り輝いています。正面をコの字に取り囲む回廊も同時期の建築で重要文化財。












[西塔] (さいとう) 東塔から北へ約1キロぐらいのところにある。
山上では最も古い建物の釈迦堂を中心に諸堂が点在。美しい中にも荘厳な雰囲気が漂う。
「常行堂」と(法華堂」は文禄4年(1595)の再建になる。重要文化財。
両者は並立しており、背面が廊下で連絡していることから「にない堂」ともいわれる。力持ちの弁慶が渡り廊下を天秤棒に担いだという伝説から「弁慶のにない堂」とも呼ばれている。




上写真・上段 「常行堂」
右に連絡の廊下と法華堂の屋根が見えている。

上写真・中段 「法華堂」
上段の写真を左に、中段の写真を右に置いて合成していただくとにない堂の全景が描けると思います。

上写真・下段左 「釈迦堂(転法輪堂)」
延暦寺に現存する最古のお堂。本尊は伝教大師自作の釈迦如来立像で堂の名前もこれに由来する。重要文化財。

上写真・下段右 「浄土院」
伝教大師のご廟所で比叡山で最も清浄な聖域。











[横川] (よかわ) 西塔よりさらに北へ約4キロほどのところにある。
昔日の面影を今に残す聖地。比叡山の一番北に位置し、ひとしお霊峰の感のする横川は平安の昔から現代に至るまで多くの文学作品の舞台となっています。
中心堂宇の「横川中堂」は慈覚大師円仁により開創された。




上写真・上段 「横川中堂」
嘉祥元年(848)の開創。昭和17年(1942)夏雷火で焼失。
昭和46年(1971)最澄入滅1500年遠忌の記念として復元された。

上写真・下段 「元三大師堂」
天台宗中興の祖といわれる慈恵大師良源(元三大師)の住坊の趾といわれる。








比叡山は「東山三十六峰」の一番北に位置し、しかも一番高い峰(848.3m)である。
都が奈良から京都へ移されたと同時期に延暦寺は開かれ、以降この山は日本歴史の中枢に絡み合ってきたことはご承知の通りです。
今も京都市街を囲む山々から市中心地を俯瞰すると、京都市街(かっての都)は、まるで延暦寺の門前町のように見えます。そのスケール(物理的な及び無形の)大きさは捉えどころがなく並はずれて大きいということが実感できます。


尚、千日回峯行については、NHK-TVで実際の模様を放映していたのでご覧になった方がいらっしゃると思います。この荒行は、約7年間かけて比叡山の山中を千日間、全行程約4万キロを回峯巡拝するというものです。記録に残る信長の焼討ち以降約400年間で、千日回峯行を満行した人は50人、二千日回峯行者は3人しかいないそうです。


(11月 了)
Posted by 奥野 祥司 at 08:00
近畿逍遥(40) [2010年12月09日(Thu)]






近畿逍遥(40)


(11月−11)


滋賀県・湖東三山(百済寺・西明寺・金剛輪寺)と永源寺を訪ねます。おおよそ、近江八幡と彦根の間の山側即ち、鈴鹿の山懐に抱かれた古刹を廻り歩きました。彦根、近江八幡と絡めていくと、自然と歴史を満喫できる旅になるものと思います。
これまで、名神や新幹線等の湖東沿いから鈴鹿の西裾を何げなく見ていましたが、眠るがごとく山に隠れていたのは、近江路の古き面影であったということが始めてわかりました。
ただ、ここではそれぞれの巨刹のほんの一部しか取り上げていないことを先ずお断りしておきます。
















百済寺(東近江市) ひゃくさいじ
推古天皇の御代に、聖徳太子の御願により百済(くだら)人のために創建された古刹で開創当時の御本尊は、太子御自作の「植木の観音」であったと伝えられる。また、御堂は百済国の梵閣「龍雲寺」を摸して建てられ、開闢に当たっては、高句麗の僧、恵慈を咒願(じゅがん)とし、その後の供養には百済の僧を任ぜられた。
その後、時代は移り、平安京に都が奠(さだ)められ、比叡山に天台宗が開創されると、やがて当寺も天台の寺院となり、その規模は拡大され、「湖東の小比叡」と称されたほど壮大な寺院となった。
平安末期から鎌倉室町に至る間は荘厳な大寺院であったとのことである。その後、戦乱や災厄そして信長の兵火により悉く焼亡等紆余曲折があり、慶長3年(1650)本堂、仁王門、山門等が竣工し、これが現在の建築物である。


下写真・上段 「石垣参道」
同   ・中段 「境内の紅葉」




上写真・下段 「本坊および琵琶湖遠望」
本坊の「天下遠望の名園」を廻って歩を運び、高台からは湖東平野・琵琶湖・比叡比良山系等湖西の山並みが一望できます。













西明寺(犬上郡甲良町) さいみょうじ
天台宗。平安時代の承和元年(834)に三修上人が仁明天皇の勅願により開創された寺院である。平安、鎌倉、室町時代を通じては祈願道場、修業道場として栄えていて山内には十七の諸堂、三百の僧坊があったといわれている。
源頼朝がら来寺して戦勝祈願をしたと伝えられている。戦国時代に織田信長は比叡山を焼討ち直後に、当寺も焼討を受けたが、幸いに国宝第一号指定の本堂、三重塔、二天門が火難を免れ現存している。




上写真・上段 「二天門」(重文)
室町時代初期の建立。杮葺きの八脚門。

上写真・中段 「三重塔」(国宝)塔高23.7m
鎌倉時代後期飛騨の匠が建立した純和様建築で釘を使用していないもので屋根は檜皮葺であり総ヒノキの建物である。
初層内部の壁画は極彩色の一大曼荼羅を見る思いである。これらの絵画は岩絵の具で描かれたもので、他例を凌ぐ残存状態の良好さを誇っている。

上写真・下段 
国指定の名勝庭園「蓬莱庭」から本堂にかけての紅葉はすばらしい。11月に満開になる「不断桜」とのコントラストが楽しめます。










金剛輪寺(愛知郡愛荘町) こんごうりんじ
聖武天皇の祈祷寺として、行基菩薩が天平13年(741)に開山。本尊は聖観世音菩薩。
以来、天下泰平の祈祷寺として栄え、天台の大寺となった。創建時は東西南北四谷に分かれ、それぞれの坊舎が甍を並べていた。現在でも参道沿いに坊跡を見ることができます。
応仁の乱を経て、天正元年(1573)には、百済寺が鯰江城(なまずえじょう 信長の近江平定に最後まで抵抗した)を後援したことで、信長は同寺を焼き払いましたが、金剛輪寺も同罪ということで火を放たれましたが、当山僧侶の奇智により、本堂、三重塔、二天門等は火を免れたとのこと。
国宝の本堂のほか、木造阿弥陀如来座像・木造十一面観音立象・三重塔など14の重文があるとのこと。また、桃山から江戸時代中期にかけて築庭された名勝庭園は近江路一といわれています。












永源寺(東近江市) えいげんじ
湖東三山の一番南の「百済寺」のさらに南に位置している。
臨済宗。
康安元年(1361)に近江の守護職佐々木六角氏頼がこの勝地に伽藍を建て寂室元光禅師を請じて開山となし永源寺と号した。当時この山中に五十六坊の末庵を有し二千余りの修行僧がいたと記されています。
応仁の頃、京都五山の名僧知識が難をこの地に避け、修業したと。「文教の近江に移る」といわれたほど隆盛を極めたが明応(1492)永禄(1563)と度重なる兵火に消失し往時の面影もなく衰微した。
寛永年間一糸文守禅師(仏頂国師)が住山し、後水尾天皇の帰依を受け再興。以来、座禅研鑽、天下泰平、万民和楽を祈る道場となった。




上写真・上段 「山門」
楼上には釈迦・文殊・普賢の三尊像と十六羅漢像を安置している。

上写真・下段 「紅葉名所として名高い古刹」
境内3000本のもみじ、参道ももみじのアーチが迎えてくれます。









上写真・上段 「j本堂」
全国屈指の葭葺(よしぶき)大屋根建物で本尊世継観音を安置してます。この観音を一心に祈念すれば優れた世継が授かり、子々孫々繁栄という霊験あらたかな秘仏とのこと。

上写真・下段 「法堂」
この周辺の紅葉はすばらしい。



(11月−11 了)
Posted by 奥野 祥司 at 08:00
近畿逍遥(39) [2010年12月07日(Tue)]
近畿逍遥(39)


(11月−10)




奈良県桜井市の「談山神社」および「平城宮跡」「東大寺」等を廻ってみます。








談山たんざん神社(奈良県桜井市多武峰 とうのみね )

近鉄・JR桜井駅からバス約25分ぐらい。
祭神 藤原鎌足。
法興寺の蹴鞠会において出会った中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)が藤花の盛りの頃、当社裏山にて極秘の談合を行った。「多武峰縁起」によれば、「中大兄皇子、中臣鎌足に言って曰く。鞍作(蘇我入鹿)の暴逆をいかにせん。願わくは奇策を陳べよと。中臣連、皇子を将いて城東の倉橋山の峰に登り、藤花の下に發乱反正の謀を談ず。」と記されている。
この談合により、皇極天皇4年(645)飛鳥板蓋宮に蘇我入鹿を討ち、中央統一国家及び文治政治の完成という歴史的偉業が成し遂げられたという。多武峰は談峯、談い山、談所ヶ森とも呼ばれ「大化の改新談合の地」の伝統が残り、談山神社の社号の起りとなった。

天智天皇8年(669)10月鎌足公の病重しと知った天皇は、自ら病床を見舞い、後日、大織冠内大臣という人臣最高位を授け、藤原の姓を賜った。藤原氏はここに始まるのである。
その没後、御墓は摂津国阿威山に造られたが、白鳳7年(678)唐より帰国した長男定慧和尚が鎌足公の遺骨の一部を多武峯に改葬し、十三重塔、講堂を建立し妙楽寺と称した。
さらに大宝元年(701)方三丈の神殿を建て、鎌足公の御神像を安置した。これが談山神社の創祀である。




上写真・上段 「神廟拝所と十三重塔」(ともに重文)

上写真・下段 「拝殿」(重文)からの吊り灯籠と紅葉






明治時代の廃仏毀釈の際に寺を廃し神社のみになったが、建物は寺院建築をそのまま使用しているため独特な雰囲気のある神社となっている。



十三重塔
室町時代、亨録5年(1532)再建。檜皮葺、高さ16.17m。
初層のみが特に大きく、縁がないのが特徴。また、相輪は通常九輪だが、ここは7輪になっている。現存する唯一の木造十三重塔。



一つ蛇足ですが、昭和20年(1945)に日本銀行券(二百円)が発行。ただ、新円切り替えのため一年も、持たなかったということですが、その図柄に使われたのが「藤原鎌足と拝殿」「十三重塔」とのこと。どなたか、ご記憶にありますでしょうか?或いはコレクションでお持ちの方がいらっしゃるのでは?











平城宮跡
写真は、平成17年(2006)のもの。
当時目立つ建物の唯一が「朱雀門」(下写真2葉)でした。
また写真でいうと朱雀門の左手(北側)約100m強のところには近鉄奈良線が走っています(即ち、平城宮跡地の南側を電車が突っ切っている光景が見えます。東が奈良駅方面、西が大阪方面)。広大な敷地のほとんどは草地です。
これから何年かけて整備を進めていくのか承知していませんが、今年が平城遷都1300年祭ということで、第一次大極殿が完成お披露目の年となっています。下の写真では朱雀門の左手奥(真北約800メートル)に平城宮最大の宮殿である「大極殿」が今はそびえています。
この建物は、正面約44m、側面約20m、地面より高さ27m、直径70センチの柱44本、屋根瓦約9万7000枚が使われているそうです。




上写真は「朱雀門」。来年には完成した「大極殿」を見てみたいと思っています。







大極殿建造中の一般公開時(平成17年11月)の内部写真の一部
このとき外観は、大ビニールシートで覆われていて見ることはできませんでした。内部は幾層かに足場が組んであり、そこを廻って見学できたというわけです。下写真は屋根の下の作業途中のものです。建物完成時には、こんな位置では見れないと思いますし、彩色も施され美しい軒下を見上げることになると思います。




軒下の「隅木」や「垂木」等の組と細工








東大寺二月堂




下写真・上段
修二会の熱き炎や興奮はいまはなく、残像かすかにほのめくのみ。

下写真・下段 「二月堂からの夕景」
暮れなずむ奈良市街(興福寺の五重塔が見えています)





(11月−10 了)
Posted by 奥野 祥司 at 08:00
近畿逍遥(38) [2010年12月04日(Sat)]
近畿逍遥(38)


(11月−9)


京都市東山区および左京区の寺院を廻ってみましょう。












泉涌寺(東山区) せんにゅうじ
真言宗。本尊は釈迦如来・阿弥陀如来・弥勒菩薩の三尊。皇室と関わりが深く、御寺(みてら)とも呼ばれる。斉衡3年(856)に藤原緒継が帰依した神修上人(じんしゅうしょうにん)が法臨寺(のちに仙遊寺と改称)として創建したのに由来するという。
健保6年(1218)には当寺の開山である俊芿(しゅんじょう)律師に仙遊寺が寄進され、この時境内に新しい泉が湧きだしたことにちなみ、泉涌寺に改めたという。
仁治3年(1242)に四条天皇が没し、寺内に御陵が造られて以来、後水尾・後光明天皇など二十五万の御陵が営まれ、皇室の香華院(こうげいん)(菩提所)となる。
現在の伽藍は寛文年間(1661〜73)の復興による。楊貴妃観音堂に安置されている聖観音像(重文)は玄宗皇帝が楊貴妃を偲んで香木をもって造らせたものと伝える宋伝来の像で、楊貴妃観音と通称されている。この観音は長らく秘仏であったため彩色が剥落せずに見事に残っている。





上写真・上段 「大門」
門構えからこの寺の格調高さが容易に感じとれます。
大門からは参道が下がっていて正面に仏殿、そしてご本尊様が参拝客を仰いで迎えるという形になっている。

同写真・中段左 「仏殿」(重文)寛文8年(1668)造営。
同写真・中段右 「舎利殿」 御所にあった御殿を重層に改装したもの。

同写真・下段 「御座所庭園
御座所は霊明殿再建時に明治天皇により御所内の御里御殿が移築されたものである。
昭和天皇はかって御陵参拝の際、この庭をめでられ、「春ふけて 雨のそぼふる いけ水に かじかなくなり ここ泉涌寺」の御製をおよみになられたとのこと。









今熊野観音寺(東山区)

泉涌寺の塔頭。本尊は十一面観音。
空海が熊野権現の化身の老翁から十一面観音像を授けられて建立し、藤原緒継(ふじわらのおつぐ)が伽藍を造立。後白河法皇の病気平癒の伝承から中風・頭痛平癒の観音として知られる。 西国三十三所観音霊場の第十五番札所。
後白河法皇が熊野権現を勧請して、ここに今熊野観音と名付けたといわれているとのことですが、紀州の熊野まで出かけられない人にとっては、ここに詣でることで慰められていたということでしょうね。
このお寺は、東山三十六峰の今熊野山の麓にあり、近くには本山の泉涌寺および東福寺もあります。とても落ち着いたお寺で、いわゆる観光寺院ではありませんので、特別開扉のような時以外は拝観料は不要です。
境内は読経の声も静寂に吸い込まれるような静けさがたちこめています。ここはいつ行ってもひっそりと俗塵を離れた世界が広がっています。










実光院(左京区大原)

天台宗。本尊は地蔵菩薩像。
勝林院の僧院である。勝林院は、長和2年(1013)に慈覚大師円仁(天台宗の入唐求法僧・中国から仏教儀式音楽である声明を伝えた)の九代目の弟子寂源が、天台声明を伝承するために建立した寺である。後に聖応大師良忍が来迎院を建立し、この地が天台声明の中心地となった。
客殿の南側に広がるのが池泉観賞式の庭園で、江戸時代後期の作庭。また、客殿の西側一帯にある池泉回遊式庭園は、荒廃していた土地を近年作庭しなおしたものである。西の金毘羅山等を借景に取り入れるために庭木を低く仕立てているので、開放的な明るい印象を与えている。
庭木には、茶花を多く植え込み、観賞者の楽しみに供している。そして庭の中央にある「不断桜」は、例年初秋より翌年の春まで花を咲かせる珍しい品種で、秋の紅葉の季節には観桜と紅葉狩りが一度に楽しめる。











実相院(左京区岩倉) 参照☞ 「このシリーズ No.25」

現在では単立寺院ですが、室町時代から江戸時代にかけては皇子や皇族の入室が続き、天台宗寺門派では数少ない門跡寺院の随一とされていました。門跡とは、皇族・貴族が出家し住んだ特別な寺格のことを意味します。そんな歴史的背景から、今も院内のそこここに、格式の高い歴史を伝える文化遺産が数多く残っています。
また、江戸時代、寺院としては門跡寺院のみに飾ることを許されたとも言われる狩野派の襖絵も、実相院には京・江戸両狩野派がその技を結実させた124面がその華麗さを伝えています。




上写真・左 「山門近くの紅葉」    同右 「池泉回遊式の庭園」




上写真・上段 
枯山水の石庭の紅葉「真っ白な海に燃えるような紅葉が覆う」
広縁に座して温かな陽射しを浴びながら、ゆっくりとほっこりと愛でる至福感に浸る。

上写真・下段 「山門近くの紅葉」
日当たりによって真っ赤に、ピンクに、オレンジにと錦秋変化が眩い。



(11月−9 了)
Posted by 奥野 祥司 at 08:00
近畿逍遥(37) [2010年11月30日(Tue)]



近畿逍遥(37)


(11月−8)


京都市北区の「観光客の行かないお寺さん」に行ってみましょう。








吟松寺(北区鷹峯)

鷹峯近辺では、「源光庵」「光悦寺」「常照寺」などが紅葉が美しいことで広く知られて、時期には多くの参拝客が訪れています。いわゆる京都紅葉ガイドに必ず登場し、観光バスが行くお寺さんなのです。
ここでご紹介する当寺は、「光悦寺」から西に徒歩で15分ぐらいしか離れていませんが、観光客はほとんど行かないお寺さんです。そういう意味で隠れた紅葉名所といえます。
ただ、ここは拝観寺院ではありません(たぶんそうだと思います)。塀越しにもきれいな紅葉を見ることができますが、小さな門はいつもオープンで境内に入れるようになっています(勝手にそう解釈しています)。いままでも、ご住職等いらっしゃればお断りするのですが、幾度か見学してますが会えずじまい、門を出る際、拝礼して辞している状況です。また、境内では数人を見かける程度が常でした。
尚、浄土宗寺院のみわかりましたが、ご本尊とか、由緒などは把握できていません。
寺観といい、古さびた境内といい、そしてまわりの自然といい、静かなたたずまいのいいお寺さんです。紅葉時だけでなく新緑のときも雰囲気のある光景を見ることができるものと思っています。























(11月−8 了)
Posted by 奥野 祥司 at 08:20
近畿逍遥(36) [2010年11月30日(Tue)]




近畿逍遥(36)


(11月−7)


京都市内北区、左京区の寺院を廻ってみます。











正伝寺(北区西賀茂)

臨済宗。正しくは正伝護国禅寺。本尊は釈迦牟尼仏。
文永10年(1273)に東巌慧安(とうがんえあん)が師の兀庵普寧(ごつたんふねい)を開山として今出川に創建。寺名は兀庵の正伝の額を掲げたことによる。後醍醐天皇の勅願所となった後、暦応3年(1340)には十刹に加えられ、足利義満の祈願所ともされた。




上写真・上段左 「入口の小門」  同右 「庫裡に至る参道」
上写真・下段左 「庫裡」      同右 「庫裡入口の表示板」






上写真 「獅子の児渡し庭園」
江戸初期の作(小堀遠州)とされ、江戸初期までに刈込の使用例は少なくないが、上段写真のように白砂敷平庭でつつじの刈込によって七五三調を築山風に表現した例は少ないとのこと。はるかに霊峰比叡山を借景した庭園として、その枯淡な風格は禅苑の心のしずけさを味わしめるものがあります。





上写真・「本堂」
桃山時代の建立(重要文化財)
広縁の天井は血天井と呼ばれ、伏見城落城のときに鳥居元忠らが自刃した血痕が残る廊下板とされる。今なお板上に残るおびただしい血痕は当時の悲惨な武士道を物語っています











蓮華寺(左京区上高野)  参照☞「このシリーズNo.25」







上写真・上段 「山門からの眺め」
上写真・下段 「書院からの庭の眺め」








圓通寺(左京区岩倉)   参照 ☞ 「このシリーズ No.25」



上写真 「比叡山を借景とした枯山水庭園の紅葉」


(11月−7 了)
Posted by 奥野 祥司 at 08:10
近畿逍遥(35) [2010年11月30日(Tue)]



近畿逍遥(35)


(11月−6)



京都北区紫野の大徳寺およびその塔頭と直ぐ北にある今宮神社を歩いてみましょう。そして上京区の今出川に戻り、同志社大学の北隣に位置する相国寺に寄ってみましょう。









大徳寺(北区紫野)

臨済宗大徳寺派の大本山。境内に別院2カ寺、塔頭20以上を擁する大寺院。
鎌倉時代末期に宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が紫野の地に小庵を建てたのが始まりです。後醍醐天皇から「本朝無双の禅苑」と直筆の書を授かったことから、南禅寺と並んで京都五山の上に置かれますが、足利市の時代になると冷遇され、五山より下の「十刹」に格下げされました。後に大徳寺は自ら十刹を脱し、五山に属さない林下(在野)の禅寺として独自の宗風を築いていきました。
応仁の乱後は一休宗純が住持となり、堺の豪商の尾和宗臨や連歌師の宗長の支援を得て再興されます。
一方でわび茶の祖といわれる村田珠光が一休に参禅し、千利休の帰依も受けるなど茶道とのかかわりも深くなり、京の庶民は「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と呼ぶようになります。
参考☞禅寺の特徴を表現したものに下記もあります。「南禅寺の武家面」 「建仁寺の学問面」 「東福寺の伽藍面」 「妙心寺の算盤面」。
尚、常時拝観できる塔頭は、「高桐院」 「大仙院」 「龍源院」 「瑞峯院」の四つです。




上写真・上段 山門(重文)
上層は天正17年(1589)に千利休により増築がなされ「金毛閣」の額が掲げられた。ここに自身の木像を安置したことが秀吉の逆鱗に触れ切腹を命じられる理由の一つになったこと有名な話ですね。

上写真・下段 法堂(重文)
法堂内天井には狩野探幽が35歳で描いたといわれる「雲龍図」(鳴龍」があります。









総見院(北区紫野)

大徳寺の二十二塔頭寺院のうちの一つ。
本能寺の変で明智光秀の謀反により、四十九歳の生涯を閉じた織田信長公の菩提寺である。創建は天正11年(1583)信長公の一周忌を迎え、その追善のために豊臣秀吉が建立したものである。「御寺いかめしうつくりけりみがき御封あまたよせらる、そうけんゐんというめり」と古文書に記されるように、創建当初は寺勢大いに隆盛し、広大な境内に豪壮な堂塔が建ち並んでいたという。
その後、明治初年の廃仏毀釈により堂塔伽藍や多くの宝物が灰燼と化すが、大正年間に再興。昭和36年(1961)には、本山に安置されていた信長公の木像(衣冠帯刀の姿を映した坐像。らんらんと輝き、人を射るような眼光は信長公の面影をよく伝えている)を再び迎え、380年忌が盛大に営まれたとのこと。
開祖は古渓宗陳(こけいそうちん)和尚。安土・桃山期の名僧で、千利休参禅の師として知られる。創建以来、6月2日の信長公の年忌には、一山総出で盛大な法要が営まれ、そこで用いられた美術工芸品(国宝・重文を含む)が寺宝として数多く伝えられたいる。




上写真・上段 「庭越しの鐘楼」
創建当時のもので重文。

上写真・下段 「信長公一族の墓」
信長公はじめ徳姫(息女)、濃姫(正室)、おなべの方(側室)など、一族七基の五輪石塔や墓が並ぶ。
















高桐院(北区紫野)

大徳寺の塔頭。細川忠興(三斎)が父の幽斎の菩提寺として建立。開山の玉甫紹j(ぎょくほじょうそう)は忠興の叔父にあたる。
この寺の書院「意北軒」は、千利休の屋敷の広間を移築したものといわれます。茶室の「松向軒」は二畳台目の小さなものですが、秀吉が北野天満宮で催した大茶会ものの移築です。庭園は楓の林からなる南庭と袈裟型の手水鉢が置かれた西庭があり、秋の敷き紅葉は見事です。
墓所には、忠興と妻ガラシャ(明智光秀の娘)の墓塔のほか、忠興の三回忌に殉死した興津弥五右衛門や歌舞伎の原型を作ったといわれる出雲の阿国の墓があります。




上写真・下段 「忠興とガラシャの墓塔」
この春日灯籠は豊臣秀吉から所望された千利休がわざとその笠の一部を欠いて断り、忠興に贈ったといわれています。












今宮神社(北区紫野)

祭神は大巳貴命(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)。
摂社の疫社に素盞鳴尊(すさのおのみこと)を祀る。紫野社ともいう。
平安初期に疫病を祓うために京中の人々が当地に疫神を祀ったのに由来するとされ、長保3年(1001)の疫病流行のときには神殿を造営し、今宮社と呼ばれた。
創祀以来、一貫して疫病退散の神とされ、「やすらい祭」は疫神を鎮める鎮花祭(ちんかさい)として始まった。
今も門前で売られている「あぶり餅」古くから祭の名物として知られ、これを食べれば疫病が祓えると伝える。やすらい祭は、広隆寺の牛祭(現在は中止)・鞍馬の火祭とともに京都三大奇祭の一つである。
また、手のひらで軽く三度叩いて持ち上げると大変重くなり、次に願いを込めて三度撫でて持ち上げ、軽くなれば願いがかなうという「阿呆賢(あほかし)さん」という不思議な石も人気を集めている。




「やすらい祭」
4月第2日曜日
平安時代、花の散るころに疫病がはやり、これは疫神が花とともに飛散するためと信じて花の精を鎮め、無病息災を祈願したことに始まる。













相国寺(上京区)

本尊は釈迦如来。
永徳2年(1382)に足利義満が発願し、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)・義堂周信(ぎどうしゅうしん)を招いて創建を計画。寺名は両僧によって相国寺となった。翌3年には夢窓疎石を開山として、春屋妙葩が第二世となって入寺。明徳3年(1392)には寺観が整えられた。
その後の火災で全焼したが、応永3年(1396)にはほとんどの伽藍を再建。以降もたびたび焼亡したが、豊臣秀吉や徳川家康らの援助を得て、そのたびに復興した。
慶長10年(1605)に豊臣秀頼が寄進した法堂は仏殿を兼ね、法堂の遺構として最古かつ最大の規模を誇る。内部の鏡天井に描かれた龍は、狩野光信筆で音に共鳴する鳴き龍として知られている。重要文化財。


下写真・上段   「北門」        「承天閣美術館と庫裡」

下写真・下段   「法堂」        「鐘楼」




尚、寺名は、当時義満の官位が左大臣で、この左大臣を中国で「相国(しょうこく)」と呼ぶというのが名前の由来だそうです。
また、相国寺は市内中心地に位置し、京都御苑(御所)そして北へ今出川通りを隔てて、同志社大学さらにその北が相国寺の並びになっている、この辺りを散策するときは、引力に従って、これらのうちどこかの門をくぐることになる。



(11月−6 了)
Posted by 奥野 祥司 at 08:00
近畿逍遥(34) [2010年11月25日(Thu)]




近畿逍遥(34)


(11月−5)


京都西山方面、西京区大原野にでかけてみましょう。JR向日町(むこうまち)または阪急京都線の東向日駅からバスで、十輪寺、善峯寺そして勝持寺へ行ってみましょう。この近在には、他にも大原野神社、三鈷寺、金蔵寺、乙訓寺、光明寺、洛西竹林公園等があります。
西山の豊かな自然と古い歴史に触れることができます。








十輪寺(西京区大原野) じゅうりんじ

天台宗。本尊は地蔵菩薩。
嘉祥3年(850)に文徳天皇の后(染殿皇后)の懐妊、安産を願って創建された。本尊は腹帯地蔵尊として信仰を集めている。
また当寺は、在原業平の閑居跡とされ、「なりひら寺」とも呼ばれる。業平の墓と伝える宝篋印塔、また業平がかっての恋人、二条后(藤原高子)の大原野詣での際、塩を焼いてその思いを託したという塩竃(しおがま)の跡など、ゆかりの旧跡がある。
鳳輦(ほうれん)形をした本堂は江戸中期の建立で、本尊のほかに禅衣(おいずる)観音を安置している。





上写真・上段 「本堂」
上写真・下段 「なりひらもみじ」と大楠











勝持寺(西京区大原野) しょうじじ

天台宗。本尊は薬師如来。通称は「花の寺」
寺伝によると白鳳8年(680)役行者(えんのぎょうじゃ)が創建し、延暦10年(791)に桓武天皇の勅を奉じて再建したと伝える。
歌僧の西行がこの寺で出家したと伝え、ゆかりの「西行桜」(現在は二代目)がある。通称はこれにちなむ。
所蔵の細川幽斎筆の懐紙は、元亀2年(1571)に催された連歌会で記されたもの。













善峯寺(西京区大原野) よしみねでら
天台宗。本尊は十一面千手観音。
源算(恵心僧都源信の弟子)が当地に小堂を建てたことが起りという。
天喜元年(1053)頃に源算がのちの後三条天皇の皇后の安産を祈願したところ男子(白河天皇)が生まれ、その功績により伽藍を造営。鎌倉時代には慈円僧正や証空上人が住持を務め、青蓮院の各法親王が代々住職を務めたため、西山宮門跡と称された。
その後も源頼朝らの援助を受けて繁栄したが、応仁の乱で衰退。
元禄年間(1688〜1704)に桂昌院(徳川綱吉の生母)の寄進によって再興した。

寺に至る途中の急な山道の先に建っている山寺です。入口の駐車場近辺がコンクリート造りで、少し興ざめですが、威風堂々の山門を見上げひとめぐりして、抜けていくと古刹の姿が見えてきます。




上写真 入口手前の道沿い斜面の紅葉






上写真・上段 「遊龍松」
大きな龍のように地に這っている。高さ2m、左右に伸びた枝は約40mという五葉の松で、樹齢600年とされる天然記念物。全体をカメラに収めることができませんでした。











境内はアップダウンもあり、奥行きもあり、かなり広大で、境内全体が回遊式庭園です。
山の斜面に建っているので、ほとんどフラットなところがないといってもいいぐらいです。何か所も急な石段がついていたりします。
そして、境内の一番高いところからは市街が一望できます。





(11月−5 了)
Posted by 奥野 祥司 at 08:00
近畿逍遥(33) [2010年11月21日(Sun)]







近畿逍遥(33)


(11月−4)





嵐山から「嵐電」に乗って沿線の幾つかの寺院を廻ってみましょう。







仁和寺(右京区御室)

真言宗。本尊は阿弥陀三尊。世界遺産(文化遺産)。
創建は平安時代、第58代光孝天皇が西山御願寺として着工されたのに始まります。
仁和4年(888)宇多天皇が先帝のご意志を継がれ、仁和寺を完成されました。宇多天皇は、退位後出家して当寺を住坊にされ、三十余年もの間、真言密教の修行に励まれました。以来明治維新まで皇子皇孫が当寺の門跡となられ仁和寺は御室御所と呼ばれ親しまれてきました。
重厚な二王門(重文)を抜け、参道をまっすぐ行くと、朱も鮮やかな中門が目に入ります。中門を越えると、右に五重塔(重文)、左に名勝の御室桜があります。さらに進むと目の前に国宝の金堂が気品ある姿を見せています。境内は自然に恵まれ、春は御室桜が、秋には紅葉など、四季折々の風情が楽しめます。
また、徒然草には、坊主ものの滑稽譚が幾つか載っていて、聖職者なのに、奇妙なことや思慮浅きことをしでかしてしまう落差を描いています。これらは愚かなお坊さんという着眼ではなく、人間を味わう深さについて説いているのだと思いますが、これに仁和寺の法師が登場します。吉田兼好は48歳(1331)のとき、双ヶ岡(ならびがおか)に定住したとあるが仁和寺は近い、取材先の一つだったんでしょうね。




上写真・上段 宸殿南面(右近の橘が見えている)

上写真・下段 宸殿と書院を結ぶ渡り廊下のある、上質な清々しい空間










等持院(北区等持院)

臨済宗。本尊は釈迦牟尼仏。
暦応4年(1341)に足利尊氏が夢窓疎石を開山として衣笠山南麓に創建した。歴代の足利将軍の廟所にふさわしく、十刹の第一位となり隆盛したが、幾度かの災禍にあい、現在の伽藍は文政元年(1818)に三度目の復興がなされた際に建立されたものが中心となっている。霊光殿には尊氏の念持仏とされた地蔵尊を中心に、達磨大師と夢窓疎石の像が両脇に祀られ、歴代足利将軍の木像(十三体)が安置されている。




上写真・下段 方丈前の池泉回遊式庭園

以下についでの憶えとしての記
福井県若狭地方の貧しい樵(きこり)の家に生まれ、口減らしのため、京都の禅寺(当院)に送られ幼少期修業したのが、作家の水上勉ですね。「金閣炎上」「雁の寺」などの筆勢の源はここにあったんでしょうね






退蔵院(右京区花園) 妙心寺境内の南(JR花園駅側)総門の方に近い

妙心寺の塔頭。現存山内寺院40余寺中、屈指の古刹。
応永11年(1404)に波多野出雲守重通が下京区千本松原に建立したもの。開山は無因宗因。寺地は転々として、応仁の乱で焼失した後に、妙心寺三十四世の亀年禅愉(きねんぜんゆ)が現在地に復興した。
庭園は西側を主庭とする枯山水庭園で国の名勝および史跡。狩野「元信の庭」と呼ばれている。国宝の「瓢鮎図(ひょうねんず)」はわが国水墨画の創始者のひとり如拙(じょせつ)の代表作としてよく知られています。













大法院(右京区花園) 妙心寺境内の北(嵐電妙心寺駅側)総門に近い

寛永2年(1625)に開祖を淡道宗廉(たんどうそうれん)、開基を長姫によって創建された妙心寺塔頭寺院である。長姫は信州松代藩主、真田信之(真田幸村の兄)の孫であり千種大納言有能(ありのり)の室であった。
信之は、法名を「大法院殿徹岩一明大居士」と称し、ここから大法院の名がつけられた。
また、松代藩、真田家から毎年五十石が施入され藩寺として外護された塔頭でもある。
時代は下るがこの松代藩、真田幸貫の儒臣であったのが佐久間象山(1811〜1864)であり、攘夷派に暗殺された象山の墓地は当院に設けられている。
尚、普段は非公開、春と秋の特別公開が行われているようである。




上写真・上段 路地庭園
拝観料には茶菓代も含まれていた。「且座喫茶(しゃざきっさ)」御茶でも飲んで、ゆっくりとしていってください、という禅の言葉と紹介されている。

上写真・下段 つわぶき
茶室の庭に好んで植えられたとのこと。花の少ない季節に貴重な鮮やかな黄色の花。紅葉見たのちの「お目直し」にいかがでしょうか。






法金剛院(右京区花園)

律宗寺院。本尊は阿弥陀如来。
当地にあった右大臣清原夏野の山荘を寺に改めたのが起り。
大治5年(1130)には現称となり、弘安2年(1279)円覚再興して律宗に改宗。
国の特別名勝「青女(せいじょ)の滝」の名で知られる滝のある庭園は、平安時代の姿を残し、現存する同時代の滝石組としては最大の規模を誇る。本尊の阿弥陀如来像は院覚の作で重要文化財。他に院派の仏師たちによって鎌倉時代に造立された十一面観世音菩薩像も同じく重文指定を受けている。
蓮の寺として知られ、夏には多数の花が咲く。




上写真・下段 嵯峨菊
嵯峨野ではないところで偶然にも出逢いました、嵯峨地方の野菊を長い時間かけて仕上げたものだそうですが、いまや、ここまで洗練された菊となっています。この季節、他処にはない雰囲気が漂っています。


(11月−4 了)
Posted by 奥野 祥司 at 08:00
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