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多摩丘陵にある日野市三井台、ここに住む高齢者のクラブ・三井台南窓会の会員が中心になって作っている団体ブログです。地元の季節毎の写真、南窓会の活動報告、会員の旅行記、俳句、地域の情報など、多様な記事が満載です。
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眠れぬ夜に読む本 [2015年08月10日(Mon)]
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眠れぬ夜に読む本

さて、いつまで生き続けるのだろう。今年の夏、私は百五十歳になった。
でも、誰もわたしの年齢を知らない。

いまから七十七年前のある黄昏時のことだった。わたしは書斎の本棚の
前で、本棚の真ん中にある一冊の本を見詰めていた。いままでそこにこ
んな本があったなんて信じられない。はじめてみる本だった。

本の題名は「眠れぬ夜に読む本」。遠藤周作の著書。
わたしは手を伸ばして、その本を取った。奥付を見ると千九百八十七年
八月三十一日初版1刷りと記されていた。その時でも、既に二十六年前
に出版された本だった。

わたしはページを開いて目次を見た。わたしの知っている遠藤周作の作
品とは、かなり異なる文章だった。だが、ひょっとするとこれこそ彼の
本質なのかもしれないと思い直した。これこそ、病に苦しんでいた遠藤
周作本来の文章かも知れないと思った。

冒頭から、遠藤周作は有名な精神科の女医であるキューブラー・ロスに
ついて語っていた。ちなみに、アメリカでは末期の癌患者には癌だと告
知し、必要な場合には余命も教えていた。

彼女は主に末期癌の患者にインタビューをしていて、その結果について、
当時、京都で行われた学会で講話をした。

遠藤周作は学会に出席してはいなかったが、講話の翻訳を読んだと書いて
いた。そうだったのかとわたしは納得した。この学会で彼女が行った講話
を、わたしは聞いていた。要約すると、実に興味深い内容だった。

「わたしはスイスで生まれ、チューリッヒ大学で学位を取った精神科医です。
わたしはあるときから、二千五百人余りの蘇生者にインタビューを始めました。
蘇生者とは、担当医が家族に『お亡くなりになりました』と宣言してその直後
3分から5分に息を吹き返した患者のことです。
わたしはそれらの患者に一人ひとりに『息を吹き返すまでの間に、あなたはど
のような体験をなさったのですか?』と、同じ質問しました。

患者は克明に答えてくださいました。この二千五百余りの回答をわたしは慎重に
そして事実を歪めず記録しています。驚いたことに蘇生者の答えには三つの共通
点がありました」

その三つの共通点について、キューブラー・ロスは京都で行われた学会で話した
のです。

「第一は、死の瞬間、意識と肉体が分離するということでした。具体的には死の
瞬間、自分の遺体や泣いている家族や医師が死を宣告している情景を蘇生者は鮮
やかに見ています。蘇生した後も覚えているのです。
死に立ち会った人々の服装の色まで覚えていました。しかも、蘇生者は死の瞬間、
会いたい人のところに瞬間移動できたと話しています。

第二は、蘇生者より先に亡くなった家族や愛した人たちが蘇生者のそばに集まって
きて助けようとしてくれたのだそうです。愛する相手との再会とも言えます。

第三は、愛と慈愛に満ち満ちた光に包まれて、その光の方向に行きたいと思った瞬
間、蘇生したという、この三点がすべての蘇生者に共通した証言でした。

わたしは宗教者でもなく、宗教を説く者でもありません。医師として蘇生者から聞
いた話をそのまま報告しているだけです。で、わたしもいろいろ考えましたが、ど
うも、もうひとつの世界が私たちの死後に存在するのではないかと思うに至りまし
た。私たちはサナギの殻を地上に残して、あの世で蝶になるのかも知れないと思う
に至りました」

七十七年前のある黄昏時、わたしはこの文章を読んだのだった。
でも、驚くべき出来事が起こったのは、それから数日が過ぎた夜のことだ。
その日、いつもよりはやくベッドに入ったわたしは、寝室の天井のあたりから
ベッドを見下ろしている自分を感じた。
視線の先には、自分がベッドに横たわっているのが見えた。
飼い猫がなにやら慌てた様子で、わたしの肩に前足をかけて話しかけている。
死んだのかな、わたしはそう思った。
もう七十歳をこえているし、ま、いいかと思った。
自分でも不思議なほど冷静だった。猫は誰かが飼ってくれるだろう。かわいい
猫だから。

そうおもった瞬間に蘇生した。

それから、毎日のように同じことが起こっている。一ヶ月も経つと、あちこち
に飛んで行ったりするようになった。でも、もう七十七年も続いているのだ。
しかも、わたしは今年で百五十歳だ。しかも、見た目も体力も七十歳のまま変
わってはいない。

さて、わたしはいつまで生き続けるのだろう。
毎日が走馬灯のようにくるくる回って振り出しに戻るのだ。
そして、不思議なことに、だれもこのことに気づいていない。

果たして、わたしは実存しているのだろうか?
Posted by 明平暢男 at 09:00
ふわふわした心 [2014年07月22日(Tue)]
おはようございます。小雨降る朝です。

1冊出版すると、そのまま次作を書けるといいのだが、、、
そうはいかない。

なぜだか、心がふわふわして不安なきもちになりはじめる。
創作の世界から、現実の世界に戻ってしまうのだろう。
そういうときが一番危険で、自分の現実をただしく把握できなくなる。

これは、不思議な現象だが事実なのだ。一種の空白の一瞬なのだろう。
ここがある意味、人生の分岐点で、この瞬間を乗り切れると
あとはもうなんということもなく、日常に戻ってゆく。


シャーロック_表紙5.jpg
Posted by 明平暢男 at 08:00
魂はどこにいるのか? [2014年04月07日(Mon)]
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Spring in the Val d’Orcia (Siena, Italy)

目が冴えている。

急に思いだした。

 「魂はどこにいるのだ?」
 ぼくはずっと考えていた。最近分かったような気が
し始めている。こういう風に。

「魂は脳の中に潜んでいる」

これは養老氏やその他の著名な方々が唱えている脳心
論とはちょっと違う。

 脳にそのような働きがあることは間違いないと思って
いるが、同時に、「魂は、脳とは別のもので脳の中に潜
んでいる別のものだ」と思い始めている。

 例えてみると、魂はあたかも宇宙人のように脳の中に
潜んでいるのだ。宇宙人のようにといってもそれがどん
なものかはわからない。

でも潜んでいるのは事実だと思う。

 人間の死期が近づき、いよいよ脳死に至る直前身体は
(脳に潜んでいる魂)に向かって、救急車のサイレンの
ような信号を送る。
「もう脳死が近い。離脱する準備をしろ」と。

 そこで、うすうす察していた魂は、慌てずに肉体を離
れて別世界に飛び立つ。

別世界がどこなのかは分からない。

 交通事故のような場合は、あまりにも急な死が訪れる
のでサイレンは鳴らされない。魂は予期しなかった突然
の脳死に、慌てて肉体を離れてはみるが、死を予期して
いなかった魂は、なかなか何が起きたのかわからず、
しばしの間うろたえるのだ。

 だが、まだ大丈夫と分かれば肉体に戻ることがある。
 死んだとしても、死を受け入れる間、魂はうろたえつ
つこの世にい続ける。

 それが「臨死体験」なのだと、ぼくは思う。

 死を覚悟した場合は、魂は躊躇することなく、(多分)
宇宙に飛び去る。
そこまで考えて、なかなかユニークな気づきだと思った
が、いや、本当に、案外そうなのかも知れないと最近は
確信している。

 だから、一度は魂などいるものかと思ったが、
(魂は存在する)と、ぼくは再度思うことにしたのだった。
Posted by 明平暢男 at 00:00
身近な散歩道 [2012年05月20日(Sun)]
身近な散歩道

地区センター横の階段を上がると、ご存知の方が多いと思いますが、
動物園の裏山の静かな散歩道となります。

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5分ほど歩くと御岳大神の立派な石碑があります。御岳山信仰の名残でしょうか。

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さらに10分ほど歩くと南平2丁目団地の上、日野の町並みと、丹沢・多摩・秩父の山並みが眺められる高台に着きます。

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いったん舗道に出て、又山道に入ります。
動物園の金網に沿って道は続きます。土日祝日は子供達の元気の良い声が聞こえてきて元気をもらいます。今は、若葉から青葉の季節、姿を見ることは難しいのですが、ウグイスの鳴き声を楽しむことができます。


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15分ほど歩くと南平丘陵公園への分岐点に達します。

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公園への下りは急な坂道で慎重な注意が必要ですし、分岐点から先へ進んで動物園を一周することも出来ますが、少し道が分かりにくいこと、時間もかかりますので、山歩きになれていない方は、このあたりで戻るのが賢明でしょう。
多少のアップダウンがありますが、道は良く整備されており、運動靴で充分たのしめる身近な散策の道です。
Posted by 菊間敏夫 at 18:08
栄光の岩壁 [2012年02月12日(Sun)]
登山家・芳野満彦さんの思い出 『栄光の岩壁』

2月初め、高名な登山家芳野満彦さんの訃報が報じられた。芳野さんは、敗戦後間もない昭和23年12月末17歳の高校生で厳冬の八ヶ岳で遭難、奇跡的に生き残った人だ。当時、私は同じ学校の中学1年生で芳野さんの後輩だった。
芳野さんは、凍傷で両足先の指の大半を失いながら、山への執念を保ち、文字通り血みどろの鍛錬を続け冬季の初登攀記録を次々に打ち立て、さらに、日本人初のマッターホルン北壁登頂も果たし伝説の登山家となった。
芳野さんをモデルにした新田次郎の長編小説『栄光の岩壁』が昭和48年に出版され、広く世に知られた。
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小説の中でも八ヶ岳の遭難の場面が描写されているが、芳野さんの遭難日誌が「雪と岩の中で」という紀行記録として『山靴の音』という本に収録されている。
私と同年輩の登山の好きな方なら記憶されておられるかと思う。
遭難日誌を読むと、昭和23年という戦後のなにもない時代、わずかな食料で、寝袋も持たずに厳冬の硫黄岳から赤岳を越え、権現岳へのルートで吹雪の中、道を見失うという信じられないほどの無謀な登山ではあったが、私や多くの同級生は、芳野さんに畏敬の念をいだき、登山というと、まず八ヶ岳を目指した。青春の思い出である。

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『山靴の音』の続編『新・山靴の音』の表紙。

菊間
Posted by 菊間敏夫 at 18:00
良寛さんの蛙の俳句 [2011年11月26日(Sat)]
 
良寛さんの蛙の俳句

過日、新潟の所用のついでに出雲崎の良寛記念館、良寛の生家跡や修行したお寺などを訪ねました。
生家跡には母親の生地・佐渡島を眺める良寛像が立っています。


芭蕉の「荒海や佐渡によこたふ 天の河」は、この出雲崎での句。
 
良寛さんは、皆様ご存知の江戸時代後期の禅僧。独自の感性が滲み出る和歌や漢詩を好み愛する人は昔も今も多いようです。

「霞立つながき春日を子供らと 手毬突きつつこの日暮らしつ」

のびやかで、ふっくらと人を包む暖かい感触が感じられると
中野孝次さんが評しています。

良寛さんは、和歌、漢詩の他に俳句も作っています。
季節はずれですが、蛙の句を紹介します。芭蕉を崇敬し

「古池や蛙飛び込む水の音」 にたいして

「新池や蛙飛び込む音もなし」 と詠んでいます。
ユーモラスな句ですね。

蛙を詠んだ句をもう一つ「鍋みがく音にまぎるる雨蛙」

蛙が詠み込まれている和歌には、

「草の庵に足さしのべて小山田の 山田のかはず聞くがたのしさ」があります。
初夏、稲田に水が張られ蛙が一斉になく夕暮れ。

有名な漢詩の結びの句「夜雨 草庵の裡 双脚 等閑に伸ばす」と同じ心境を吐露した歌でしょう。
(中野孝次著『良寛に会う旅』を参考にしました。高幡図書館蔵)

帰りに立ち寄った越後一の宮・弥彦神社・菊祭りの一枚


Posted by 菊間敏夫 at 18:00
電車の中でのお話 [2010年03月07日(Sun)]
電車の中でのお話


 先日、新宿へ行くので、京王線に乗った時のことです。
私が優先席に座っていましたら、年のころ70歳代後半の男性が、ソフトアイスクリームを食べながら乗ってきて、私の前の座席に座りました。歯が一本もない、しわくちゃの口から、長い舌を出して、ソフトクリームを斜め上に持って、ぺろぺろと舐めています。

若者の悪い行動をまねしているのだなと内心苦々しく思いながら、ちらちらと眺めていました。その老人、ソフトクリームを食べ終わると、包んであった紙をぱっと座席の自分の足元に捨てたのです。その時、隣に座っていたご婦人が、呆れた顔をして老人を見つめていました。

そんなこと、どこ吹く風、やおら、ずぼんのポケットから何やら取り出して、ポンと口の中に入れ、もごもごと口を動かし、すっきりとした顔をして満足そうに姿勢を正しました。なんと、上下の入れ歯を、口にはめたのです。そしたら、年齢も70歳前半に化けました。

 なんとも、恥ずかしいお「はなし」(歯無し)です。
(皆川瀧子)
Posted by 皆川瀧子 at 09:06
碓氷峠今昔(6)(終) [2010年03月02日(Tue)]
碓氷峠今昔(6)(終)

(文:伊藤道子)

碓氷峠今昔(5)(ここをクリック)の続きです。


(三)
それからまた四半世紀の歳月が流れ、私も四十半ばになり、ごく普通の家庭を築いて安穏な生活を送っていた。夫は旅の好きな人で、都会より田園の暮らしが性に合っていたようだ。私たちの共通の友人が北軽井沢の浅間山麓に別荘を持っていて、招かれて何度か遊びに行った。林に囲まれた静かなところで、しっとりとした落ち着いた雰囲気がとても気に入った。夏の涼しさはもちろんだが、秋はまた秋の趣が深く、庭できのこが沢山採れたとのこと、奥様の手料理で御馳走になった「きのこ鍋」のその美味はいまだに忘れられない。夜の雨が屋根をかすかにたたく音を聞きながらいつまでも語らい続けたこともあった。山の雰囲気に魅入られるままに、その後衝動的ともいえる成り行きで、その近くに私たちも山荘を造ったのである。1979年(昭和五十四年)のことだった。

  晴れると林の向こうに浅間山が見え、時折、白煙を噴いている山容の美しさは富士山にも劣らない。群馬側から見た浅間連峰は観音様が仰向けに寝ている姿にも見えるところから「寝観音」とも呼ばれている。今穏やかなたたずまいを見せているこの山も天明三年(一七八三年)の大噴火の際には火砕流と溶岩流が発生して群馬県側に流出し、二千人の死者を出したことは忘れてはならないことである。

風のそよぎや鳥の声、空の色、満天の星、木々を渡り歩く小動物を愛で、都会の喧騒とは次元の違う世界に浸ることのできた至福の時間であった。この山荘に通うのに何度碓氷峠を越えたことか、もちろん現代のマイカーでの話である。この峠道をこよなく愛したのが夫だった。その夫も今はこの世にいない。最後の晩秋のある一日、もう自分の力で動くこともままならなかった時、どうしても山荘へ行きたいといい、娘に運転を頼み、碓氷峠を越えた。秋の終わりの峠に人影はなかった。物寂しい山の気に包まれながら名物、峠のかまめしを食べて休憩した。夫が旅立ったのは、それから間もなくであった。

  あれから十年の時が流れた。いつの時代でも自国と他国、此岸と彼岸を隔てる峠は別れの場所であるように思えてならない。 (了)

Posted by 皆川眞孝 at 06:48
碓氷峠今昔(5) [2010年02月23日(Tue)]
碓氷峠今昔(5)

(文:伊藤道子)





当時は、機関車のボイラーの蒸気圧不足とか、いろいろの故障などのトラブルで、ふいに列車が立ち往生してしまうことは珍しいことではなかった。乗客は「ああ、またエンコか」と言って諦めたものだ。真夜中の「熊ノ平」駅に放り出された乗客は哀れをきわめるが、人々は哀れとも思わず、怒りも覚えず、ただ耐えることしかなかった。ホームに屋根があったかなかったか思い出せないが、真っ暗だったことだけは覚えている。その暗闇の中を、黒い外套を着て大きな荷物を背負った父が、一晩中ホームをゆっくり行きつ戻りつ歩みを続けた。帽子の上から手拭いで頬かむりして、足にはゲートルを巻いた小柄な父の姿を忘れることは出来ない。思うに盗難の心配から荷物を背負い続け、寒さをこらえるために歩き続けたのだろう。そのうちに誰かがホームで焚き火を始めた。寒さに耐え切れなくなった人たちが、どこからか古材を見つけてきたのだろう。しかし大勢の人が暖をとるのはとても無理だ。赤く燃え上がった火の周囲を熊のように徘徊し続ける父の黒い姿を見失わないように私は従った。


碓氷峠の山あいの駅は、標高800メートル、3月の夜の寒さは身に沁みた。粗末な衣服しかない時代、手編みのセーターの上にかすり柄の木綿の上着だけであの夜をしのいだのだから、当時の日本人は、よほど体が丈夫だったとみえる。今の私なら死ぬかもしれない。

夜が明け始めたころ、やっと列車は動き出した。高田に着いたのは昼ごろだった。昭和20年はまれにみる豪雪で、3月だというのに町は雪の下にすっぽり埋もれていた。雁木の下の狭い道を歩いて、場末の粗末な旅館に入った。2階の部屋に入ってみると窓の前が雪の壁になっていて、外は全く見えない。その窓から出入りしたように思う。父は荷物を部屋に置くと休む暇もなく、すぐに町へ出かけて行った。今日中にいろいろな手続きをしておかなければならないからだ。夕方うす暗くなってもなかなか父は帰って来ない。知らない土地の知らない宿で、雪に閉じ込められて、なすこともなく夕闇が漂い始めた部屋の隅でうずくまっていると、このまま父は戻って来ないような気がして、不安と心細さで泣き出したい気分だった。


やっと戻って来た父は、開口一番「手袋を片一方落としてしまった」とすまなそうに言う。その手袋は私が編んで贈ったものだった。集団疎開中、学童たちは学校へ通うことも出来ず終日部屋に閉じこもって空腹に耐え、ただ生きることだけを考えて肩寄せ合って頑張った。勉強することは叶わなかったけれど、編み物を覚えたのだった。私は手先が器用だったこともあって編み物は楽しかった。落とした手袋は私からのプレゼントだったのだ。夕方の雪の町で手袋を失った父の当惑顔が今でも忘れられない。(続く)

Posted by 皆川眞孝 at 08:11
碓氷峠今昔(4) [2010年02月16日(Tue)]
碓氷峠今昔(4)

(文:伊藤道子)


碓氷峠今昔(3)(ここをクリック)の続きです>



後に当時の正確な詳細がわかるのだが、3月9日の夜中(正確には10日午前零時八分)から10日の未明にかけて、B29の334機からなる大編隊が東京の上空を旋回し、台東区、墨田区、江東区などの住民に対して大規模な焼夷弾攻撃を行い、その結果下町一帯が火の海となった。

(B29爆撃機)

その燃え上がった火を荻窪の防空壕の中から見た記憶は鮮明である。不思議と恐怖感はなかった。両親と共にある安堵に身を任せていたからだろう。しかしこの空襲に衝撃を受けた父は即刻私を疎開させようと考えた。半年間の学童疎開で辛く悲しい思いをしてきた直後だけに、今また親元を離れなければならないことを心底恐れた。しかし東京に居つづけることの危険がさし迫っていた時だけに、父の命令に従わなければならないことはわかっていた。慎重な父にしてみれば、一刻も早く家族を安全な場所に移したいという思いが強かったのだろう。

空襲の翌々日くらいだったと思う、追い立てられるようにして東京を離れた。当時はほとんど着の身着のままだったから、私の生活道具のすべては行李一つに収まってしまう。疎開先である母の実家まで父が私を送ることになった。母の実家は現在の上越市の近在である。信越線の始発駅上野からの夜行列車は、大きな疎開の荷物と大勢の人でぎゅうぎゅうであり、通路にも立っている人がびっしりだった。でも一晩辛抱すれば高田へ着くはすだったので我慢した。上野を出発し大宮、高崎、松井田と平野を過ぎて、いよいよ横川から峠にさしかかり、トンネルの多い急勾配を汽車は煙をはきながらごっとんごっとんと登って行った。ところが峠の中腹で汽車は動かなくなってしまった。そこが「熊ノ平」の駅だったのである。
(続く)

Posted by 皆川眞孝 at 17:12
赤ずきんちゃん [2010年02月01日(Mon)]
赤ずきんちゃん

先日、この ブ ログで「マンハッタンの赤ずきんちゃん」が紹介されましたが、この作品は、「赤ずきん」の童話、ケーキとワインを持っておばーちゃんを訪ねるお話を下敷きにしています。

「赤ずきん」は誰でも知っている民話・童話ですが、赤い頭巾をかぶったかわいい女の子が森で狼に食べられてしまう「ペロー童話」が、「グリム童話」では女の子が狼のお腹から生還するハッピーエンドに変わりました。
  













 



岩波書店「グリム童話」出久根育さんの挿絵を借用しました。


この童話がことのほか有名になったのは、ペローが挿絵に女の子に赤い頭巾という印象的な衣装を着せたことによるそうです。




 
">  
英国で1819年に出版された本の表紙
 
 松岡希世子「赤ずきん絵本・十選」
   日本経済新聞2009年12月16日から転載


童話は、女の子の冒険を諌める教訓書として広く読まれましたが、「森」の中の「可愛いい女の子」と「狼」という対立するキャラクターのお話は、時代と国境を越え多くの作家の想像力を刺激し、その後いろいろな「赤ずきんちゃん」が生まれました。

「マンハッタンの赤ずきんちゃん」もその一つです。ニューヨーク・マンハッタンを舞台に「現実と空想世界を自由自在に操り、個性豊かな登場人物が生き生きとした物語」が展開します。

第1部はサラという10歳のかわいい女の子の家庭から始まりますが、母親の父親への口のききかたなど、我が家とも似て、思わず笑い出します。

第2部・冒険。第1部では、おばーちゃん訪問は母親と一緒ですが、今度は一人でイチゴ・ケーキをもって、夕方のマンハッタンに出ていき、そこでミス・ルナティックという童話にはない人物と出会い勇気をもらい、また大富豪とも知り合い、マンホールのふたを開け抜け道に向かって飛び込み、新しい世界へ行くことになります。

最終章は「幕の下りないハッピー・エンド」ですが、最後の場面は「不思議な国のアリス」を連想しました。詩情豊かな心温まるファンタジーです。

訳者によると、「一人娘のお嬢さんを亡くした後、絶望の淵に沈んでいた作者(女性)がその長い沈黙を破って書いたもので、そんな彼女の再生した息吹がこの作品に浸透している」ということです。

この訳者の話しを聞くと、作者は、サラが、そして自分の娘もそれぞれ、飛び込んだ世界で勇気を持って進むことを願って書いたのだろうと想像しました。

文責 菊間
Posted by 菊間敏夫 at 13:22
碓氷峠今昔(3) [2010年01月27日(Wed)]
碓氷峠今昔(3)

           
伊藤道子

(二)

万葉集に寄り道してしまったが、今回はこの碓氷峠にまつわる遠い日の追憶を書こうと思う。今から六十余年前の思い出である。

関東・中部地方を走る旧信越本線が開通したのは1893年(明治26年)のことである。中央高地を走る部分は急勾配が多く、ことに群馬・長野県境の横川―軽井沢間11.2キロは最急勾配が存在する碓氷峠である。その山中に26のトンネルを穿ち、アプト式機関車で運転する鉄道が出来た。アプト式とは急坂を上下する時、すべりを防ぐため軌道の中央に歯を刻んだレール(ラックレール)を設置し、動力車に取り付けた歯車とかみ合わせて進ませる方式をいう。

アプト式電車(インターネットより)

さて、横川―軽井沢間の26トンネルの中の第10〜第11トンネルの中間地点の平坦部に「熊ノ平」という駅があった。この小さな停車場のことを知る人は今ではほとんどいないのではないか。この駅の主な目的は給水・給炭・列車のすれ違いであった。1963年(昭和38年)普通方式の軌道が新設されて廃駅となった。


1945年(昭和20年)3月に話は遡る。当時私は小学校六年(当時は国民学校といった)であった。前年の夏、第2次大戦末期に学童集団疎開が実施され、東京在住の私たちは親元を離れて長野県別所温泉に疎開した。柏屋という温泉旅館が私たちに割り当てられた宿泊所だった。しかし六年生の私たちは翌年三月には卒業なので8カ月で東京に戻って来た。帰ってみると弟も妹もすでに新潟県の母の実家へ疎開したあとで、家にはいなかった。長女の私はそれまでは親に甘えるというようなこともなく育ったので、弟妹のいない両親との蜜月の生活が始まることをひそかに喜んだ。ところがその喜びも束の間、3月10日の東京大空襲のためそんな甘い考えはあっけなく潰えた。当時住んでいた荻窪の家の庭には防空壕が掘られていて、夜中の空襲警報のサイレンとともに、親に促されて眠い目をこすりながら防空壕の中に避難した。

防空壕の内部(インターネットから)
(続く)

Posted by 皆川眞孝 at 21:17
碓氷峠今昔(2) [2010年01月23日(Sat)]
碓氷峠今昔(2)
(一)の続き   伊藤道子


記紀に描かれている日本武尊の話は、神話ではあるが大和朝廷による国内統一が進んだ四世紀前半ごろと考えてよいだろう。万葉時代をはるかに遡る昔からこの地が碓日の名をもってよばれていたことがわかる。

次に「万葉集」を見ると、<碓氷>の語が詠みこまれた歌は二首ある。東歌と防人歌である。

日の暮れに 碓氷の山を 越ゆる日は
  背なのが袖も さやに振らしつ 
(巻十四・三四〇二)

(日暮れ時なのに、あの方が碓氷の山を越えていかれたあの日には、あの方がお振りになる袖までがはっきり見えた。)

この歌は東歌で、上野国(かみつけのくに)(群馬県)の相聞の部に載せられている。「日の暮れに」は夕方の薄日(うすひ)と同音の地名「碓氷」にかかる枕詞ととる説と、枕詞でなく単に、夕方ととる説があるが、ここでは後者と考えたい。夕暮れ時なのに碓氷峠を越える夫の振る袖がはっきり見えたと歌うことで、魂の交流ができたと喜んでいるわけだ。国境には峠の神がいて、その神に見守られながらの夫との別れである。



ひな曇り 碓氷の坂を 越えしだに
    妹が恋しく 忘れえぬかも 
(巻二十・四四〇七)

(日がかげって薄日がさすというその碓氷峠の坂、この坂を越えるにつけて、後に残して来た妻が恋しくて、忘れようにも忘れられぬ)


この歌は上野国の防人が国境を越えて、異国の信濃に入る時の思いを詠んでいる。前に挙げた東歌とこの防人歌は直接の関係は全くないのだが、この二首を並べて読んでみると、碓氷峠を舞台にして、見送る妻と旅立つ夫との別れの場面が心に痛いほど響いてくる。峠は万葉の昔から別れを演出する格好の場所なのだろう。この二首の初句に置かれている「日の暮れに」(夕方の薄日)と「日な曇り」(日の曇る薄日)は同音の、「碓氷」という地名にかかっていく。この語感からは、その峠が満目蕭条たる風景であることが感じとれる。
(続く)
Posted by 皆川眞孝 at 14:27
碓氷峠今昔(1) [2010年01月15日(Fri)]
碓氷峠今昔(1)


南窓会会員の伊藤道子さんは、同人誌「花筐」(はながたみ)を編集・発行しています。その雑誌第3号に発表した「額田王の歌の表記について」をブログに連載しました。
昨年11月発行の第10号に「碓氷峠今昔」という文章を書かれたので、これを何回かにわけて、ブログに転載いたします。

碓氷峠今昔   伊藤道子

(一)
群馬県南西部安中市(旧松井田町)と長野県軽井沢町との境界にある旧碓氷峠は海抜1200メートルの険しい峠で、中仙道第一の天険であったが、今では観光地として春の新緑、秋の紅葉を求めて多くの人が訪れている。

旧軽井沢の町から登ると2キロあまりで頂上に着き、そこには熊野皇大神社が祀られている。この神社は両県にまたがっていて、太平洋と日本海の分水嶺にもなっている。この神社の前から道は上州路に入り、旧中仙道を10キロ下ると坂本宿に着く。この上り下りが碓氷峠である。険しい峠道であるにもかかわらず、碓氷とはなんと柔らかな響きをもつ地名ではないかと、私は心惹かれていた。


<碓氷>の地が『万葉集』に詠まれていることは知っていたが、先行の『日本書紀』にも碓氷の語があることがわかった。『日本書紀』巻七の景行天皇記に次のように記述されている。

日本武尊(やまとたけるのみこと)は、「蝦夷(えみし)の凶悪な首領どもは、みなその罪に服した。ただし信濃国と越国だけは、少しも王化に従わないでいる」と言われて、甲斐から北方の武蔵・上野(かみつけの)を廻って、西方の碓日坂(うすひのさか)に至られた。その時、日本武尊は、事あるごとに、弟橘媛(おとたちばなひめ)を偲ばれる心がおありであった。そこで碓日嶺(うすひのみね)に登って、東南の方を望み、三度嘆息されて「吾嬬(あづま)はや(我が妻は、ああ)と言われた。(小学館・日本古典文学全集による)

日本武尊

日本武尊の東征物語の部分である。日本武尊は景行天皇(第十二代)の第二皇子である。時に熊襲の反乱が起こり、皇子は十六歳の若さで父の命により九州に派遣された。そして見事に熊襲を討ち平定して帰って来た。帰京後間もなく今度は東国の蝦夷を討つように命ぜられる。父天皇は「私を早く死ねばよいと思っているのか」と嘆いたとあるが、皇子は兄を惨殺するなどの凶暴な一面があり、それを恐れた父に疎まれたふしもある。東征には幾多の困難があったが、東国の乱れを鎮め、大和へ帰る途中、碓氷の坂で弟橘媛を偲んで「吾嬬はや」と嘆いた。走水海(はしりみずのうみ)(浦賀水道)を渡ろうとして波が荒れて船が進めなくなった時、自分の身代りとなって海に飛び込み、波をしずめた妃・弟橘媛に対する深い嘆きである。

弟橘媛

この皇子の描かれ方は『古事記』と『日本書紀』では大きな相違があり、私たちが馴染んでいるのは『古事記』に登場する悲劇的皇子の物語であるが、今は碓氷という地名が記載されている『日本書紀』を見た。(続く)
Posted by 皆川眞孝 at 18:11
なぜ、門松の竹の先は切ってあるのか? [2010年01月11日(Mon)]
なぜ、門松の竹の先は切ってあるのか?


商店や銀行に大きな松竹梅の門松が飾ってあります。その中央の竹の先は、斜めに切ってあるのが普通です。なぜ,竹の先を切るのでしょうか?

私は考えたこともなく、見栄えが良いからだと思っていたのですが、これに深い訳があることを、先日産経新聞のコラム(fromEditor)を読んで知りました。ちょっと面白いので、ご紹介します

時は戦国時代の元亀3年(1572)12月末、所は遠州・浜松城
武田軍団に三方ケ原の戦いで大敗して逃げ帰った、浜松城城主・徳川家康と家臣団は、意気消沈していました。

浜松城

そこにさらに追い打ちをかけて、武田方から矢文が射込まれました。それには誇らしげに
 「まつかれて たけたくひなき あしたかな
とありました。「松枯れて 竹類なき 朝かな」と読み、「徳川(松平)が滅びて、武田(竹)が栄える」ことを意味します。

一同が、一層がっくりしているとき、酒井忠次が進み出て別の読み方を披露しました。それは「松枯れ 武田首なき 朝かな」というものです。これは、「松平は枯れないで、武田の首がなくなる」という意味で、当時はかなに濁点を付けなかったのでこの読み方も可能です。

これを聞いて家康や家臣団は喜んで、数日後の正月に門松の竹の先を斜めに切って「武田首なき」のシンボルとしました。その2年後に、徳川勢は長篠の戦いで武田勢を撃破しました。
下って江戸時代、徳川家の天下を祝って、正月の門松の竹先を斜めに切るのが風習となり、この伝統が今も生きているそうです。

浜松で生まれそだった私ですので、この話を特に興味深く感じました。
(甲斐出身の方、ごめんなさい)

産経新聞は、文章での解釈で歴史が動く珍しい例だと説明し、さらに踏み込んで、民主党もマニフェストを字句通りに解釈しないで、柔軟に解釈することが前進するために大切だと主張していました。
(文責:皆川)

Posted by 皆川眞孝 at 12:33
額田王の歌の表記について(10−終) [2009年12月22日(Tue)]
額田王の歌の表記について(10−終)
―万葉仮名をめぐる妄想―


さて次は、九番歌を問題にしたい。この歌は、鎌倉時代の仙覚以来、さまざまな訓み方が試みられているが、未だ定訓がない難訓歌である。上二句が問題なのだ。

莫囂圓隣之 大相七兄爪湯氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本 (巻一の九)
 ?  ?  我が背子が い立たせりけむ 厳橿(いつかし)が本(もと)
長い間多くの学者によって研究し尽くされたにもかかわらず結論の出ない難しい歌に、私如きが歯の立つはずもないが、またまた怖いもの知らずの素人の気楽さから、私なりの訓み方と解釈にどうにか辿り着いた。次のように訓んでみた。

莫囂圓隣之(ユフツキシ) 大相七兄爪湯氣(アフギテゾユケ)

夕月し 仰ぎてぞ行け 我が背子が い立たせりけむ 厳橿が本



何故こう訓んだかの説明は当然しなければならない。それにはかなりの紙数が必要となる。「花筐」の編集を優先しているうちに時間切れになってしまった。今回一番書きたかったことは、上のように訓んでみて見えてきた額田王の人間性である。それは、有間皇子事件に寄せる深い悲しみと異議申し立てであり、その思いを人には分からない、呪(まじな)いみえた言葉の奥底に封じ込めて詠んだ鎮魂歌ではないかと私は受け止めたのである。その辺りのことを、次の機会に書いてみたいと思う。


今校正の段階で読み返してみると、舌足らず、説明不足の点の多いのに気づき、困惑している。補足もまた、次の機会にゆずることにしよう。(了)
(伊藤道子)


(お礼)
伊藤様:文集「花筐」からの転載を許可いただきありがとうございました。額田王の歌についての独自の読み方、考え方を紹介したいただき、万葉集の深さの一端にふれることができました。このようなブログには適さない内容ではないかと心配されましたが、日常生活から離れたアカデミックな題材も、たまにはよかったのではないかと思っています。これからもよろしくお願いします。(皆川)
Posted by 皆川眞孝 at 09:43
額田王の歌の表記について(9) [2009年12月13日(Sun)]
額田王の歌の表記について(9)
―万葉仮名をめぐる妄想―

次に七番歌を見よう。
 
秋の野の み草刈り葺き 宿れりし
     宇治の都の 仮廬(かりいほ)し思ほゆ
金野乃 美草刈葺 屋杼礼里之
       兎道乃宮子能 借五百磯所念


一首の意は、秋の野のかやを刈り、屋根に葺いて旅宿りした宇治の宮どころの仮の廬のことが思われる(新潮古典集成による)となる。この歌は、皇極天皇時代に作られた最も古い作とされ、天皇の行幸に従って近江に旅した時、途中宇治に一夜を過ごした日を懐かしく思い出して詠んだものである。なお左注によれば、皇極天皇もしくは孝徳天皇の作となるが、天皇の意を体して額田王が詠んだ代作と見ることにする。


  私がいま問題にしたいのは、初句の「金野」の表記である。「秋の野」を「金野」としたのは、万葉集中この歌だけである。「秋」の語は万葉集の中に三〇〇ほど使われているが、「金」と表記したのは、人麻呂歌に「金風」(あきかぜ)が三つ、「金待難」(あきまちがてに)が一つ、家持歌に「金山」(あきやまの)が一つ見えるだけである。二人とも額田王より後の歌人である。
殆どの歌が「秋」と表記しているのに、額田王が「金」を用いたのはなぜか、そこには額田王の漢学に対する深い教養があったからである。当時の中国の人々の宇宙観であった陰陽五行説を熟知していて、その哲学に共感していた彼女が自分の歌を文字化する時に、ごく自然に使ったのではないかと私は思う。陰陽説と五行説は発生を異にするが戦国末期に融合して陰陽五行説となり、古代中国の世界観となった。天地間に運行して万物を構成する五つの元素、木・火・土・金・水と陰陽二元素を合わせて、天地万象を説明するのに用いられた。因みに五行説の配当例の一部を表にすると、下のごとくである。

この表でわかる通り、「秋」は「金」となる。普通は「秋野」とするところを「金野」と表記したところに額田王の並々ではない教養と見識が窺える。


(秋 = 金)
(伊藤道子) (続く)

Posted by 皆川眞孝 at 10:14
額田王の歌の表記について(8) [2009年12月06日(Sun)]
額田王の歌の表記について(8)
―万葉仮名をめぐる妄想―

(万葉集写本)

この贈答歌(注:額田王の「あかねさす 紫野行き・・・」と大海人皇子の「紫草の にほえる妹を・・・」)は言うまでもなく現場でやりとりされた歌とは考えられない。もしそうであるなら、このように万葉集に公開されることなど無かったであろう。この額田王と大海人皇子の贈答歌は、公の宴席で衆人の前に披露され、参会者に強い印象を残し、記憶されたと思われる。
 そもそもこの遊猟というのは、『日本書紀』天地天皇七年五月五日の記事に

天皇(すめらみこと)、蒲生野(かまふの)に縦猟(かり)したまふ。時に、大皇弟(ひつぎのみこ)・諸王(おほきみたち)・内臣(うちつまへきみ)及び群臣(まへつきみたち)、皆悉(ことごとく)に従(おほみとも)なり。

とある行事を指し、時に額田王の推定年齢は三十八歳前後、中年女性の分別を十分にみにつけていたはずである。言葉に思いを封じ込めて、さりげなく詠みきったところが実に見事である。
 額田王が生きた時代は、政治的には天皇を中心とする中央集権国家が形作られていく過渡期であったが、歴史の舞台裏では血腥い事件がいくつもあった。
645年 大化の改新・蘇我入鹿を暗殺

(蘇我入鹿暗殺の図・江戸時代)

649年 蘇我倉山田石川麻呂反逆の罪に問われて自害
658年 有間皇子謀反の嫌疑をかけられて絞殺
663年 日本の百済救援軍が白村江の戦いで唐・新羅に大敗
667年 近江遷都
672年 壬申の乱・大友皇子自殺
686年 大津皇子謀反の嫌疑で処刑
などなど、すべて中大兄皇子(天智天皇)に絡んだ出来事である。俗な言い方をすれば、古代律令国家を作るという大義名分のもとに、男は権力闘争に走り、そのためにどれほど多くの血が流れたかしれない。額田王は、そのような政治状況の間近に身を置きながら、権力から一歩引いたところで、人間らしい心を失わず自己の抒情の世界をひたむきに追い求めたと思われる。女であったがための恩恵かもしれない。
(伊藤道子)(文集・花筐より)

(額田王)
Posted by 皆川眞孝 at 19:28
額田王の歌の表記について(7) [2009年11月30日(Mon)]
額田王の歌の表記について(7)
―万葉仮名をめぐる妄想―


むらさきぐさ」の名は、その草の茎の先端に白い花がむらがって咲くところから、叢咲・群咲と呼んだことに由来する。その草の根の液汁から紫色の染色をしたので、その色名「紫」にこの群咲草の名を当てるようになり、やがて色名「紫」の語が一般化したのであって、草そのものの視覚的印象とは無関係の語と言わねばならない。

紫草

それが「赤根草」や「群咲草」の連想から離れて、音声言語の多義性を活かして受けとめると、染色原料植物としてよりも、色名として親しまれた語感からは、前にも記したように「茜色に輝くように美しい赤味を帯びた葉の紫草が一面に生い茂る野」もしくは「西空を茜色に染めて輝く夕日の光を受けて紫色に染まった紫草が生い茂る野」というイメージが強く浮上するように現代人には思われる。「」の音符「西」は、夕焼け空の色を連想させる意符としても機能する語である、と私は思う。

ところが額田王の歌の表記は、そのような連想を抑制するかのように、「茜草指 武良前野」として色に直接関係づける余地は全くない表記を採用している。『延喜式』には「深緋色に発色させるには、茜草の根にほぼ同量の紫草の根を合わせる」とあるそうだ(古語大辞典の語誌による)。そうだとすると「茜さす」の語は、濃紫に発色させるために、茜草を紫草にさす(合わせる)という意味になり、専ら染色法の表現ということになる。額田王は大海人皇子とお関係をつとめて散文的に表現したことになるが、それは当然、天智天皇を意識しての強い理性の働きがにじみ出ているように思えてならない。

天智天皇
(続く)(伊藤道子)
Posted by 皆川眞孝 at 09:16
クモの詩 [2009年11月26日(Thu)]
クモの詩


我が家の軒下にクモの巣がかかっていた。巣の中央に、大きな女郎蜘蛛がじっと待ち構えている。私は、蜘蛛が虫のなかでは一番きらいだ。昆虫は足が6本なのに、8本も足があるのが気に入らない。見た目も気味が悪い。ただ、蜘蛛は蚊などを捕える益虫と聞いて、蜘蛛の巣をそのままにしていた。

毎日みていると、餌の虫はかかっているかなと何となく気になる。じっと待っている姿に親しみも湧いてくる。
そんな時に、産経新聞の「朝の詩(うた)」に「蜘蛛」という詩がのっていた。
わたくしと同じように感じる人もいるのがわかった。
先日の強い雨風のあと、クモの巣は消えていた。いまごろ、あの蜘蛛はどうしているのだろう。



(産経新聞)

朝の詩(うた)

蜘蛛
  
 
新潟県長岡市
     五十嵐 容子 50


考えてみれば
つつましい
自分の糸で編み上げて
ただ
待つ
という
生き方は

網の
最初の
だいじな ひとすじ
それさえ
蜘蛛は
風まかせ

(選者 新川和江)

Posted by 皆川眞孝 at 07:40
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