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多摩丘陵にある日野市三井台、ここに住む高齢者のクラブ・三井台南窓会の会員が中心になって作っている団体ブログです。地元の季節毎の写真、南窓会の活動報告、会員の旅行記、俳句、地域の情報など、多様な記事が満載です。
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産経新聞・朝晴れエッセー [2019年09月20日(Fri)]
産経新聞「朝晴れエッセー」


産経新聞に「朝晴れエッセー」という読者のエッセー投稿欄があります。毎朝第一面に載るこのエッセーには、いろいろな身近な話題が掲載され、上手な文章のものが多く、一般読者からとは言えレベルは高く、楽しく読んでいます。テーマとしては、亡くなった父母や配偶者の思い出、戦争時代や貧しかった時代の苦労話、親の介護の泣き笑い、子供の話など家族関連のものが多いようです。1か月前、私も投稿してみました。折角だから、少し毛色の変わった明るい話題がいいだろうと、最近私の身辺に起きたことを600字にまとめて書いてみました。幸運にもそれが、採用され、9月13日の新聞に掲載されました。

s-IMG_5068.jpg

写真では読みにくいので、下記に内容を写します。こちらをお読みください。
****************
表題  末はガーナ大統領?

私は、以前アフリカに農業援助をする団体で働いていた。仕事でアフリカへは度々訪問した。ウガンダの現地の責任者は、まだ30歳台のガーナ人の農学者。当時私は50歳台後半だった。真面目で、優秀で、良く働く彼とは、気が合って公私とも親しく付き合った。家内とアフリカ旅行をした時に、彼の家に招かれ歓待されたこともある。
その団体を退職して十五年、彼を含む昔の仲間とも疎遠になった。先日、偶然に彼のアドレスを知って、どうしているかとメールを出した。
彼からすぐ返事がきた。私が退職してからまもなく、故郷のガーナに戻って今までの経験を生かして、ガーナの北部で農場経営をしていて、事業は順調で家族も元気とのこと。そのメールに、2012年の大統領選挙に小さな党から出馬したが失敗したとあった。初めは冗談かと思ったが、ユーチューブの公開討論の録画を見て本当だとわかった。昔ながらの弁舌爽やかな彼の姿が懐かしかった。
私がアフリカの仕事を始めた時、ガーナではクーデターで大統領になったローリングス大尉が独裁的な政治を行っていた。今は一般人が立候補できるまでガーナの民主化が進んだのかと驚いた。彼は草の根から新党を立ち上げ、腐敗政治を倒すため再度大統領選挙に挑戦するとやる気満々だ。
彼にさっそくメールを送った。頑張ってくれ。君が大統領に当選したら、必ず御祝いにガーナに駆けつけると約束する。ただ急いでくれ。高齢の私の残り時間は少ないから。
皆川眞孝(80歳)東京都日野市
**********
スケールが大きくまるで作り話みたいですが、実話です。ただ、彼が再度立候補しても、本当に当選する可能性は非常に少ないでしょう。

この話のガーナの農学者の名前はMichael Fosterといい、現在62歳です。
彼が送ってきた最近の家族写真です。
s-foster family.jpg


また、私が2000年にアフリカを妻と友人と訪問した時、彼の家に招待された際の写真が見つかりました。後列左端がFoster です。
Foster Minagawa.jpg


エッセーの中に出てくるガーナのジェリー・ローリングス大統領と握手している貴重な写真がありました。(1995年ガーナ)
s-President  Rawllings.jpgローリングス大統領 1947年生まれ、在任1981年〜2001年


友人たちに新聞に載ったと知らせたところ、面白かったと好評でした。
皆川眞孝
Posted by 皆川眞孝 at 09:00
エチオピアの温泉 [2009年11月11日(Wed)]
エチオピアの温泉


荒川さんのブログ記事「世界ふれあい祭り」(ここをクリック)
にエチオピアのことが書いてありました。それを読んで、エチオピアで温泉に入ったのを思い出しました。

え?アフリカで温泉?と疑問をもたれるかも知れませんが、エチオピアは知る人ぞ知る温泉地です。

もう15年前になりますが、笹川アフリカ協会時代に、会長のボーログ博士(ノーベル平和賞受賞の農学者)とエチオピアの村を訪問したときに首都アディスアベバから150キロぐらい離れたウォンド・ゲネットという場所に泊まりました。ここはかってハイレ・セラシエ皇帝の別荘だったそうで、現在は保養地となっています。会長と一緒でないと、こんなよい場所には泊まれません。

広い庭や林に囲まれた場所で、川や滝があります。


温泉があるというので、どんなところかと行ってみると、日本の風呂とは全然違います。日本でいう「打たせ湯」でした。崖からお湯が流れおち、水泳パンツをつけた男たちが、シャワーを浴びる様にしています。お湯に触ってみると、40度ぐらいの適温です。

私は水泳パンツをもっていなかったのですが、折角のチャンスですので、日本スタイルの素っ裸で浴びてみました。周りの男性がびっくりして見ていました。自然の中の露天風呂でした。

近くにこの温泉水を集めてプールがありました。人が大勢入っていたので、さすがに、ここは写真も入浴も遠慮しました。
尊敬するボーログ博士は今年9月12日に95歳で亡くなりました。懐かしい思い出です。
(文責:皆川)
Posted by 皆川眞孝 at 08:10
世界最大の大聖堂 [2009年11月06日(Fri)]
世界最大の大聖堂


世界最大の聖堂はどこにありますか?そう質問されれば、ほとんどの皆さんは、ローマのバチカンだと答えるでしょう。カトリックの大本山・サンピエトロ大聖堂だと。ところが、ギネスブックによれば、違うのです。世界最大の聖堂は、アフリカのコートジボアールにあるのです。

荒川さんのブログ記事「世界ふれあい祭り」の中に、コートジボアールの首都はヤムスクロというところを読んで、10年前にヤムスクロの大聖堂を訪問したのを思いだしました。
コートジボアールの内陸ブアケにあるWARDA(アフリカ・ライス研究機関)を訪問した時に、話のタネに、アビジャンから車で行く途中にあるヤムスクロに立ち寄ったのです。

平原のむこうに、突然大聖堂が見えました。

ヤムスクロは首都ということになっていますが、コートジボアールの最大の都市は、アビジャンです。アビジャンは、かってアフリカのパリと呼ばれた大都会で、1983年まで首都でした。3車線の高速道路もあり、高層ビルも立ち並んでいます。(ちなみに、アフリカのロンドンはどこでしょうか?答は、このブログの末尾に)アビジャンには、国民の20%近くの400万人が住んでいます。
ところがヤムスクロには大聖堂以外は何もありません。人口も20万人とずっと少ないようです。コートジボアールの初代大統領で33年在職したウフェ=ボワニ大統領の生まれ故郷なので、首都にしたそうです。そして、この大統領が世界最大の聖堂を建設したのです。



周りに建物がないので、大きさがわかりませんが、近づくと確かに大きな建物だとわかります。ところが、人はほとんどいません。アビジャンから遠い奥地のために、信者も観光客も来ないのです。

中央に立っているのが筆者


ローマのサンピエトロ大聖堂を模したというだけあり、円屋根はそっくりですが、少しだけ高いそうです。
窓は大きなステンドグラスで飾られていますが、内部はがらんとしていてあまり人の気配がありません。

この大聖堂は、正式には「平和の聖母聖堂」(la Basilique Notre Dame de la Paix)というのだそうです。
大理石はイタリアから、ステンドグラスはフランスから輸入したそうで、総工費3億ドル(300億円)、1980年に完成したばかりです。貧乏なこの国で、膨大な費用をかけて大統領はなにを目的としたのでしょう。

その大統領も1993年に死亡し、私が訪問した2か月後の1999年12月24日に、クーデターが起きて、暫定大統領は追放され、コートジボアールは内乱状態がつづきました。この近くでも戦闘が行われました。大聖堂を訪問できる状態ではありませんでした。現在はどうなっているのでしょうか?
これだけのお金をかけた壮麗な世界最大の聖堂もほとんど訪問する人がいなければ、世界最大の無駄遣いではないでしょうか?
(文責:皆川)
(答:ケニヤのナイロビが、アフリカのロンドンといわれています。)
Posted by 皆川眞孝 at 08:08
ビクトリアの滝(動画) [2009年08月18日(Tue)]
ビクトリアの滝(動画)


(写真:インターネットより)


先日、ビクトリアの滝の写真を紹介しましたが、
インターネットに動画がでていましたので紹介します。
ひとつは、ヘリコプターからの空中撮影です。
私が現地を訪問した頃には、YouTubeは存在しませんでした。
便利な時代になったものです。

次をクリック:

http://www.youtube.com/watch?v=6aaqyJMkEmU

http://www.youtube.com/watch?v=D6xK1lmHOQU

(皆川)
Posted by 皆川眞孝 at 20:16
アフリカ・ビクトリアの滝(2) [2009年08月13日(Thu)]
アフリカ・ビクトリアの滝(2)


普通の滝は、下から見上げるのが普通ですが、ビクトリアの滝は、ザンベジ川が深い峡谷に落ち込んでいる場所なので、下まで行かず、谷の対岸から見ます。そのため、滝は目に平行の位置から100メートル下に流れ落ちます。(ナイアガラの高さは50メートル)
これらの滝が幅1.7キロにわたって続いているので、対岸を横に平行に歩いて滝を見物します。


雨期なら川全体が滝となるのでしょうが、乾季のため水量が少なく、水が落ちていない場所もあります。このMain Fallsは、一番水量の多い滝で、こちら側にいてもびしょ濡れになります。

少し歩くと、滝が大きく馬蹄形に後退している場所があります。名前もHorseshoe Falls といいます。

断崖の上いる人と比べると、谷の深さがわかります。

その横がRainbow Cataractです。細い滝が沢山あるので虹を連想したのでしょう。日本なら「白糸の滝」でしょうか?

どこにも柵がないので、落ちたら自己責任です。谷底を見るときは、腹ばいにならなければいけません。

滝の外れに、国境の橋があります。橋の向こう側はザンビアで、橋の上から、111メートルの谷底にむけてバンジージャンプをすることができるそうです。

滝の観光のあと、昼食を近くのホテルで食べました。滝はみえませんでしたが、テラスからは広々とした高原が見渡せます。

この滝の良いところは、滝の周囲に建物や施設がなく、手つかずの自然がそのまま残されていることです。その点、ナイアガラの滝は、滝を見下ろすホテルがすぐそばに建ち、夜はいろいろな色でライトアップして、あまりにも観光化が進んでいます。
ここは、たぶん、リビングストンの当時とあまり違わないでしょう。


滝の全景

2度と訪れるのは困難なビクトリアの滝にお別れしました。

(終わり)(文責:皆川)
Posted by 皆川眞孝 at 08:38
アフリカ・ビクトリアの滝(1) [2009年08月12日(Wed)]
アフリカ・ビクトリアの滝(1)


立秋(7日)が過ぎたら、大雨が降ったり、台風9号が接近したり、駿河湾地震が発生したりと、自然の厳しさを感じています。
荒川さんが、美しい「西沢渓谷の滝」の写真を掲載してくれました。(こちらをクリック)
それと比較のために、私が以前行ったビクトリアの滝の写真を掲載してみます。
スケールは大きいですが、やはり自然美としては日本の滝が良いと思われることでしょう。

ナイアガラの滝・イグアスの滝とならぶ世界三大瀑布のひとつであるビクトリアの滝は、南アフリカのジンバブエとザンビアの国境に位置します。南アフリカの大河ザンベジ川の中流にあり、 川幅が 1.7Kmと広がって、流れる水がそのまま深い峡谷に滝となって落ちていきます。

この滝は、1855年に探検家リビングストン(イギリス人)がヨーロッパ人としては初めて発見し、当時の女王の名前をとってVictoria Fallsと名付けました。もちろん現地の人には昔からあった滝で、現地名はモシ・オア・トゥニャ(Mosi-oa-Tunya)といい、「雷鳴の轟く水煙」という意味だそうです。滝に近づくと、確かに水煙が高く上り雷のような音が聞こえてきます。

滝の入口にはリビングストンの銅像があり、また巨大なバオバブの木がありました。

日本から行くとなると、大変遠い場所ですが、2001年にジンバブエの首都ハラレに出張したので、休暇をとってハラレから日帰りでひとりで行ってきました。
ハラレから1時間の飛行時間です。私が飛行場に到着すると現地ガイドが迎えにきていましたが、観光客が少なく、私一人にそのガイドが着くとのこと。親切でしたが煩わしい時もあります。


峡谷の奥に滝がみえてきました。この時は乾季でしたが、雨期の時は水量が多く水煙のために滝が見えなくなるそうです。乾季でも、滝に近づくとびしょびしょになり、写真がとれません。


最初に見えるのが「悪魔の滝」、落差100メートルの谷底に、とうとうと流れ落ちています。
この激しい水流をみていて、悪魔をつけたのでしょう。


悪魔の瀑布(Devil’s Cataract)全景

(一枚の写真に入りきらないので、2枚をつなげてみました)

木立ちの奥に、Main Fallsが見えてきました。

(続く)
(文責:皆川)
Posted by 皆川眞孝 at 08:00
ギニアとお米(7)(終) [2009年07月19日(Sun)]
ギニアとお米(7)(終)
(南窓会:皆川眞孝)

アフリカについてお伝えしたいことは、まだまだありますが、長くなりますので、今回で「ギニアとお米」を終わりとします。記事と直接関係ありませんが、アフリカでの写真も一緒に掲載します。


アフリカ農業の将来

ギニアはアフリカの中でも雨が多いため、農業の「水」について最も恵まれた国です。ですからギニアの例をそのままよその国に適用できるわけではありません。また、すべての国でギニアのネリカのようにうまくいっているわけではありません。アフリカの農業の道は大変厳しいものがあります。雨が不足し、土壌が劣化し、道路は悪いし、肥料も種子も十分にありません。農民は貧しく、肥料や種子を買えず、ますます生産が落ち込み、貧困の悪循環に陥っています。




しかし、アフリカの人口増加率は世界一です。このままでは、不足になるのは目に見えています。人口の80%を占める零細農民の生産性を向上させ食料生産を増やさない限り、アフリカには将来はないのです。アフリカの国々が主体となって、食料生産を増やすことを政策の最重点にしなければなりません。また、先進国もそのための援助をすべきだと思います。アフリカの食料問題が解決しない限り世界の食料問題は終わらないからです。

一方、アフリカには強みがあります。それは、広い土地と太陽です。必要な水分を補給する技術とアフリカに適した改良品種により、農業が再生できる可能性があります。ただ、ボーログ博士の口癖ですが、「可能性だけでは、食べられません」。可能性を現実なものに変換するための実行力が必要です。

(女性の写真は、盗撮ではなく、許可を得て撮影しました。念のため


笹川アフリカ協会(SAA)がブログラムを実施したのは15カ国です。わたくしが現役時代のピークは12カ国でした。私は5年前にリタイアしましたが、その後次々に事業を終了し、現在は4カ国(マリ、エチオピア、ナイジェリア、ウガンダ)に絞って事業を展開しています。朗報としては、世界最大の慈善団体であるビル・ゲーツ財団(マイクロ・ソフト社の創始者)との提携話が最近進んでいるそうです。いままでは、日本財団だけの資金でしたが、アメリカからの資金も加わって、農業の「可能性」を実現できる道が広がるでしょう。

SAAの事業国

Active=進行中4か国、Concluded=終了11か国)

ところで、今年の6月に法政大学で社会学部の学生に「笹川アフリカ協会の活動」について講演する機会がありました。わたくしは、「アフリカの食糧問題も大切だが、自給率がどんどん落ちている日本の農業の方が心配だ」と最後に話して、どうしたらよいか「私見」を述べました。
日本の食糧問題について、学生の皆さんができること
1) まず食料問題に関心を持つ(生きることは食べること)
2) 食べ物を捨てない(日本は年1900万トンを捨てている)
3) 値段が高くても、国産の農産物を買う(農業振興)
4) 農地をこれ以上減らさないようにする(乱開発を防ぐ)
5) 新技術の開発(新品種、水栽培、ダイオード栽培など)への協力
6) アフリカなどに農業技術援助を行い、将来に備える


 
なお、SAAの活動(現地で「笹川グローバル2000」という)について、次をクリックすると、動画がみられます。
<SAAの動画>

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。(完)
(皆川眞孝)
Posted by 皆川瀧子 at 14:00
アフリカ(番外編) [2009年07月14日(Tue)]
アフリカ(番外編)

 
エルミナ城(ガーナ)


昨夜(7月13日)たまたまTVを見ていたら、アメリカのオバマ大統領夫妻がアフリカのガーナを訪問し、奴隷貿易の拠点だったケープコースト城を見学する場面がありました。
私も、以前、ケープコーストにある「エルミナ城」を訪問したことがありますので、ご紹介します。

ここは世界遺産になっていますが、過去の悲惨な歴史の遺跡で、白人はまず訪問しない場所です。私が訪問したときもひっそりとしていて、その場所にいるだけでいろいろ考えさせられ暗い気持ちになります。

エルミナ漁港(今でも、エンジン付きの船は少ない)
エルミナ城は、ケープコーストの近くのエルミナ漁村に建てられています。

エルミナ城は1482年ポルトガル人によって木材・黄金の貿易拠点として建てられたアフリカ最古の要塞(城)です。ガーナは黄金海岸とよばれ、ここからも多くのゴールドが積み出されました。


それが、17世紀になると、ここが奴隷貿易の拠点となり、奥地で捕まえられた奴隷が、海外に売られる前に、ここに閉じ込められていました。この城は1627年オランダのものとなりました。


   
この狭い穴から、奴隷が船積みされた



  
 ドクロのついた「死の部屋」
 
反抗的な奴隷は死ぬまで、この窓のない部屋に幽閉された


ニュースによると、オバマ大統領は「沈痛な記憶が積み重なった場所であるが、同様に希望の源泉となるべき必要がある。歴史が残酷であり得るように、それを克服することも可能であることを我々に気づかせた」と、感想を述べたそうです。アメリカの大統領が奴隷貿易の拠点を訪問したことは、歴史的な事件でしょう。
(文責:皆川)
Posted by 皆川眞孝 at 18:19
ギニアとお米(6) [2009年07月13日(Mon)]
ギニアとお米(6)
(南窓会:皆川眞孝)

アフリカの新しい米・ネリカ

さて、話をギニアに戻します。ちょっと専門的な話になります。
SAA(笹川アフリカ協会)は、ほとんどの国では「トウモロコシ」を増産する技術を指導していますが、ギニアでは、主食がお米ですのでお米の増産が主な仕事です。そして、現在一番力をいれているのが、新しいお米の新種・ネリカ(New Rice for Africa- NERICA)(アフリカの新しい米)です。

ネリカは、コート・ジボアールにあるWARDA(西アフリカ稲作研究所)で開発されたもので、アフリカ原産種の「オリザ・グラベリマ」とアジア原産種の「オリザ・サティーヴァ」を交配してつくられた新しい品種(陸稲)です。日本政府もWARDAに対してこの研究を支援してきました。このネリカと呼ばれる品種の特色は、オリザ・ グラベリマ(アフリカ種)からは乾燥や雑草・病虫害に強いという性質を、オリザ・サティーヴァ(アジア種) からは,収量がよいという性質を受け継いでいます。WARDAは研究機関であり、日本政府の援助も研究に対してでしたので、これを農民に普及する必要があります。そこでSAAはギニアで、農民にこの新しい品種を普及する活動をしてきました。

WARDAのNERICA農場


  普及のために大切なことは、農民の受け入れと、その種子の供給確保です。そこで、SAAは栽培方法が上手な農民を選んでネリカを植えてもらい、それを近隣の農家に見せて反応をみる方式をとりました。農民たちは、このネリカが従来のものより収穫が良く、しかも短い期間で収穫できる点が気に入りました。農民が一斉に種子を必要としたとき、優秀な農家の収穫したものを種子として与えられました。このような活動を5年以上続け、このネリカは国家プロジェクトとなり、ネリカを植えている農地はギニアで7万ヘクタールを超えました。
   

   
ギニアの農場の視察

新しい動き

日本政府もネリカの普及活動の援助を始め、ギニアにJICA専門家を2名送っています。アフリカ開発銀行は、ネリカの普及活動のために、ギニアを含む7カ国の政府に5年で3千万ドルのローンを決めました。ギニアは年約百万ドルの借款を得ます。UNDP(国連開発計画)も、ネリカのための支援を決定しました。
SAAはギニアで評判のよいネリカを他の国(マリ、ウガンダ、ナイジェリアなど)にも普及するようにしています。ひとつの品種だけを普及する危険性が時々指摘されますが、ネリカというのは一品種の名前ではなくて、新しい品種の総称です。場所によっては、期待された収穫がとれない品種もありますので、その土地にあるネリカの他品種を探すようにしています。現在のネリカは陸稲ですので、水稲と比較すれば収穫は落ちます。WARDAでは、アフリカに適合した水稲のネリカを開発し、現在は実際に農家に試してもらっています。
  ネリカについては、次の外務省のホームページ記事も参考になります。(残念ながら、SAAについての言及はありませんが)
     
こちらをクリック



  ギニアの村で(伝統的衣装をプレゼンントされる)

ギニアの木彫り(森林の多いギニアの人の特技です)(1枚の板をくり抜いています)  「考える人」と「村の働く人々
Posted by 皆川眞孝 at 21:09
ギニアとお米(5) [2009年07月10日(Fri)]
ギニアとお米(5)

(南窓会:皆川眞孝)

アフリカと私(続)
  もう少し、ギニアと直接関係のない昔話が続きますが、お付き合いください。

  前回書いたように、私が転職するとき、アフリカに関する知識も経験もなかったので迷いましたが、笹川アフリカ協会(SAA)で働くようになり、このような仕事を得た幸運に感謝しました。


その一番の理由は、SAAの事業が人道的なものであり、その方法がアフリカに適したものだったからです。飢餓をなくすために食糧を送るのではなく、増産技術を指導する方法ですが、SAAはその技術が現地に残るように工夫しています。種子・肥料・農法をパッケージにして、政府の農業指導員にたくさんの村々の農民を指導させる、これにより指導員がその方法を習得できます。また比較的少ない費用で大きな効果が望めます。
JICA(日本の国際協力機構)の場合は、SAAの10倍以上の資金を使っていますが、政府対政府援助のために、資金使途を直接管理できない問題があります。SAAの場合は、資金を相手政府に渡さず、それぞれの国のSAAのディレクターが直接管理して、必要な費用を農業指導員に払うので、不正がおきる余地が少ないといえます。

2番目の理由は、SAAは、銀行のような既成の大組織と違って、小さくて伝統もない団体でしたので、事務局長の裁量度が大きく、相当自由に仕事ができたのは幸いでした。会長のボーログ博士は、ダイナミックな人で、官僚的なことがきらいでした。まず現地に行って、現場のニーズをつかみ、必要なことはすぐ実行する、というスタイルで、「百の議論よりまず実行」が口癖でした。そのため、無用な議論をしたり膨大な書類を作らずに、どんどん仕事をすすめられました。

3番目の理由は、この仕事を通じて、いろいろなすばらしい人達と会えたことです。会長のボーログ博士とはたびたび一緒に旅をしました。カーター元アメリカ大統領に仕事の説明をしました。曽野綾子日本財団会長とアフリカに行ったときは、人生の悲しみや苦しみの現場を見ました。日本財団の笹川陽平理事長からは直接指示や指導をうけました。銀行にいたのでは、まず考えれらない貴重な経験でした。アフリカ現地のカントリーディレクターは、ほとんどがボーログ博士の弟子で、実地経験豊富な優秀な農業学者ばかりです。その人たちから農業や仕事について随分教えられました。

苦労したのは、これらディレクター達はアメリカ、メキシコ、ガーナ、エチオピア、セネガル、など外国人ばかりで、日本人と違って言いたいことをはっきり言うので、農業に無知な私の言い分をどのようにして通すかという点でした。しかし、腹を割って話し合い、約束は誠実に守るという方法をとれば、日本人でも外国人相手でも同じだとわかりました。

アフリカへの出張は、厳しい気候や環境なのでこれも大変でした。黄熱病予防注射やマラリアの薬が必要ですし、村を訪ねて悪路の中を何時間も車で行ったり、ぬかるみに車輪をとられた自動車を押したり、あまり清潔でないホテルに泊まったり、たくさんの蚊に夜通し悩まされたり、食事をほとんどしないで一日中車で走り回ったり、といろいろありましたが、これらも今は懐かしい思い出です。村の人たちの歓迎をうけ、収穫を共に喜びあい、嬉しそうな顔をみれば、そんな苦労は吹っ飛びます。


結局65歳の定年までSAAで働くことができ、サラリーマンの最後の12年間を、このような充実した楽しい仕事ができて、本当にラッキーだったと感謝しています。日本人旅行者がまず行かないような農村や奥地も経験しました。
アフリカは遠いので、一度旅にでると、2週間―4週間と長旅となります。最後の5年間は、認知症で入院中の母が心配でしたが、妻が留守を守り、母を介護してくれたおかげで、なんとか仕事ができました。
(続く)
(文責:皆川)
Posted by 皆川眞孝 at 09:36
ギニアとお米(4) [2009年07月04日(Sat)]
ギニアとお米(4)
(南窓会:皆川眞孝)

アフリカと私

ここで、ギニアから少し離れますが、私がどのようにしてアフリカの農業技術支援の仕事に関係するようになったか、お話したいと思います。
アフリカで援助の仕事をしていると言うと、「人類愛」の高い志をもった、献身的な気持ちの人間と思われがちですが、私の場合は、お恥ずかしいですが、現実的な低次元の理由でたまたま見つけた仕事でした。


エチオピアで麦を収穫している農民


 私は大学卒業後、ずっとT銀行で働いていて、50歳をすぎてある会社に、転籍含みで、出向を命ぜられました。その会社は、銀行間の資金の貸し借りの仲介という「堅い」業務でしたが、面白味も成長性もなく、また私に与えられた仕事は、誰でもできる簡単なものでした。60歳までこのような仕事をずっと続けるのかと思っただけで、気持ちが暗くなり、体まで調子が悪くなりました。それで、人材バンクを通じて、仕事を探し始めました。

偶然に日本経済新聞(1991年2月)に「笹川平和財団」が「国際的に活躍するプログラムオフィサー」を募集しているという広告を見つけました。

その時の募集広告


「笹川平和財団」は、日本船舶振興会の笹川良一氏が作った日本で一番大きな財団でした。運よく1次、2次の試験をパスして、最後の面接で、「アフリカ農業支援をしている笹川アフリカ協会の事務局長のポジションなら」と言われ、「一晩考えさせてくれ」と答えました。アフリカにも行ったことはないし、農業の知識もなかったのですが、今の会社を辞めたいという気持ちが強く、妻も快諾してくれたので、転職しました。友人の中には、笹川良一さんは「日本のドン」と言われる人で、その下で働くのはやめたほうがよい、という人もいました。働き始めてわかりましたが、財団は非常にしっかりした仕事をしていて、外野の評判はいい加減だとわかりました。

ブルキナファソ大統領夫人(右から3人目)が笹川良一氏(中央)を訪問した時(1992年)左端筆者

1986年に設立された「笹川アフリカ協会」は、いままで事務局が海外にあったので、5年たってそれを東京に移すにあたって、事務局長を探していたのです。ちょうどその時に転職先を探していた私は大変ラッキーでした。
事務局長といっても、アシスタント男性一人、女性一人の少人数の事務局です。しかし、アフリカの現地には、実際の仕事をするために、経験豊富な農業博士たち7名(全員外人)とその助手たちが仕事をしています。私の仕事は、日本財団から受け取った資金(最初は5億円ぐらい)を、アフリカ諸国で仕事をしている責任者(農業博士たち)に事業計画に基づいて分配し、資金がきちんと使われているかをチェックし、その結果を決算報告と共に日本財団に報告するということでした。農業知識は不要で、むしろ銀行員の知識が役立ちました。事業をチェックするためには、現地アフリカに行って、現場を見る必要があります。そのため、毎年アフリカには何度も出張しました。訪問国は、サハラ砂漠以南の国で16カ国ほどです。
小さな組織でしたが、新人の私に仕事を全面的に任せてくれたので、やりがいがあり、また楽しく働けました。
会長のボーログ博士や、ドナー(資金提供)の日本財団笹川陽平理事長(当時)とも、よく出張して政府高官と話し合ったり、現地視察を行いました。
     
ナイジェリアのバスの中(ボーログ博士、笹川陽平氏とともに)
(続く)

Posted by 皆川眞孝 at 23:00
ギニアとお米(3) [2009年06月25日(Thu)]
ギニアとお米(3)
(南窓会:皆川眞孝)

収穫を増やす方法があるのに、なぜ政府は農民をそのように指導しないのでしょうか?

笹川アフリカ協会の活動
  アフリカ諸国の政府には農民を指導するために農業普及員がいます。ただ残念ながら、活動する予算が不足していて、普及員があまり役に立っていないのです。農民のところへ行く交通手段やその費用もなく、また何をどのように指導するかがわからないのです。

農民と普及員のギャップを埋めるために活動しているのが、かって私が働いていた「笹川アフリカ協会」という民間団体です。英語ではSasakawa Africa Association といい、 SAA と略します。
これはスイスに1986年に設立された民間の非営利法人(NPO)です。

SAAの設立には3人の偉大な人達がかかわっています。笹川陽平、ノーマン・ボーログ、ジミー・カーターの三氏です。

1980年代にアフリカで大飢饉がおこり、笹川陽平氏が理事長であった「日本財団」は食糧援助を行いましたが、食糧をおくるだけでは飢餓問題の根本的解決にはならないとわかりました。食糧をあげても、食べてしまえばそれで終わりですし、依存心を増長するだけです。「魚をあげるより、魚の釣り方を指導しよう」という精神です。

そこで、アフリカで食糧増産ができないかをボーログ博士に相談し、指導者になることをお願いしました。ボーログ博士は、「緑の革命」でノーベル平和賞を受けた国際的に有名な農学者です。その当時72歳の博士は、引退していて、はじめは固辞しましたが、熱心なお願いにとうとう承諾しました。
そして、元アメリカ大統領のジミー・カーター氏が「カーターセンター」を通じて、政治的な面で協力の申し出があり、ここに「笹川アフリカ協会」がスタートしました。
運営資金は、全額「日本財団」が出しています。「日本財団」は競艇の収益で運営されています。


最初は、西アフリカのガーナで試験的に事業を開始し、その成功をみて、事業国をサハラ砂漠以南の国々に拡大していきました。
最大時は、12カ国で事業を行っていましたが、食料自立が目的で、あまり長く1国にとどまるべきでないという方針から、順次、卒業して、現在は5カ国で事業を続けています。
ギニアについては、私が在籍中に事業を始めましたが、現在は「卒業」したそうです。

SAAの特色のひとつは、それぞれの政府と一体化して活動することです。SAAは各国にカントリー・ディレクターという責任者を置いていますが、その責任者は政府の普及員と一緒に活動します。すなわち農民を指導する農業普及員を助けます。普及員に自転車やオートバイを貸し与え、肥料や種子をパッケージで用意し、指導する内容を一緒に検討します。
もうひとつの特色は、農民に自分の畑で種子や肥料を使ってもらい、自分で実地に試す方法をとっています。試験農場に来てもらい、収穫があがることを見せて、説明しても、半信半疑です。農民が自分で実際に体験したことなら、信じることができます。

また農民には種子や肥料を無料で与えず、来年の収穫後に返済してもらいます。これにより農民がコスト意識にめざめ、自立できるようにするためです。自分でお金をだしたものは、大切に使い、また使い方も真剣です。なんでも、「ただ」はだめです。(続く)

ギニアの農民の米の畑を訪問したとき、農家の人と。
左は肥料を使い、右は肥料なし


(注)ボーログ博士について
   1914年、アメリカのアイオワ州生まれ。育種家。メキシコのCIMMYT(国際トウモロコシ・小麦改良センター)で、収量の多い小麦の品種を開発し、飢餓で苦しむインド・パキスタンで普及させ「緑の革命」といわれる増産を成功させた。1970年ノーベル平和賞を受賞。アフリカでの増産のために笹川アフリカ協会会長として1986年から2008年まで尽力。現在ダラスで療養中。

    
3年前に東京を訪問したボーログ博士(92歳)と筆者

なお、ボーログ博士が昨年引退したニュースは次のYouTubeでご覧になれます。
YouTube(ボーログ博士勇退)

Posted by 皆川眞孝 at 08:26
ギニアとお米 (2) [2009年06月23日(Tue)]
ギニアとお米 (2)
(南窓会:皆川眞孝)

森が消えていく!

  ギニアの山々は、緑に覆われていいます。ところが、緑豊かな森林も近づいてみると、ずいぶん斑(まだら)になっています。無残に黒焦げになった木々が立ち並んでいる場所が多くみられます。今、ギニアの森林はどんどん消滅しているのです。森林が減ると降雨量にも影響してきます。セネガル川、ニジェール川の水に依存している近隣の国々にも大きな問題です。一体ギニアに何が起こっているのでしょうか?
  アフリカの伝統的農業は、焼畑農業です。空き地に火をつけて燃やし、その焼け跡に種をまく、この方法がアフリカに一番適しているという学者もいます。人口が少なく、未開の土地がいくらでもあった時代は、それでもよかったでしょうが、アフリカの人口が爆発的に伸びていて農地の重要が増えている現在では、もはやこの方法は不適当です。

 ほとんどのアフリカの国では、農民は定住して、きまった農地を耕すようになりました。しかし、ギニアではまだ焼畑農業が続いているのです。平地の少ないギニアでは森林を燃やし、その跡を畑にし、数年経って収穫ができなくなると、また森を焼くということを、一部の農民が続けています。政府は原則的に禁止しているのですが、作物ができなくなると農民は勝手に森林を焼いて新しい田畑にします。国際的に環境を守ろうという運動が広がっているのに、残念ながら、これがアフリカの一部の現実です。
 どうしたら、この森林破壊を止められるでしょうか?

収穫を増やすために
  森林を焼かないように農民に命令するだけでは効果はありません。農民は生きていくために必死なのです。現在の農地で収穫が増える方法を農民に指導することが必要です。
 焼畑農業では肥料を全然使っていないために、数年で土地がやせて収穫がほとんどなくなります。まず、肥料を使うように指導しなければなりません。もちろん有機肥料があれば、それがベストですが、ギニアでは畜産があまり盛んでなく、肥料材料の牛糞や馬糞がありません。また、山の斜面の畑が多く、かさばる有機肥料を運ぶ手段として人力しかないので実際は困難です。

そのため、まず化学肥料を使って、栄養分がなくなった土地で生産ができるようにしなければなりません。
一方、種子も伝統的なものを使い続けているので、品質が悪くなっています。もっと収穫のあがる改良されたものを使ったほうがよいのです。

農業の方法も、種をばらまくだけで、除草もほとんどしていません。それで、一列に種をまいて除草をやり易くなるように農法を改善したほうがよいのです。このように工夫すれば、今までの土地を継続的に使っても、2倍・3倍の収穫ができるようになります。森林も守ることができます。

  では、なぜ政府は農民をそのように指導しないのでしょうか?
(続く)

アフリカの村にて(写真:皆川)

Posted by 皆川眞孝 at 08:40
ギニアとお米 (1) [2009年06月21日(Sun)]
ギニアとお米 (1)

(南窓会:皆川眞孝)

はじめに
  最近の日本には暗いニュースが多いようです。北朝鮮の核兵器が日本を狙っています。自民党も民主党も国民のことを忘れて、政争に明け暮れています。世界的大不況が日本の経済に大きな打撃を与えています。そして、悲惨な殺人事件が毎日のように報道されています。日本はどんどん悪くなり、日本はこのまま衰退していくのでしょうか?このようなニュースを毎日見せられたり、聞かされたりして、日本人は、このところ自信を喪失しているようです。

しかし、世の中は、暗いニュースばかりではありません。よいニュースは報道されず、悪いセンセイショナルなニュースばかりが報道される傾向にあります。
私は、第2の職場として「笹川アフリカ協会」という民間団体(NGO)で12年間働きました。この団体は、アフリカ飢餓問題を解決するために、1986年に設立され、現在も事業を継続しています。着実な成果をあげ、アフリカ人に感謝されていますが、この団体の活動について報道されることは、あまりありません。

榎本さんからは、アフリカの現地の様子を書いてくれといわれましたが、私が書けるのは、笹川アフリカ協会についてだけです。三井台とは直接関係はありませんが、日本の
民間団体が遠いアフリカでも活動しているのだとお知らせしたく、記事を書きました。
笹川アフリカ協会は、アフリカのいろいろな国で活動していますが、おもに「ギニア」の活動について、数回にわたって連載したいと思います。


ギニアとお米(1)


ギニアはアフリカ?
 アフリカというと皆さんは何を想像されますか?見渡す限りの大平原に、ぎらぎらと太陽が照りつけ、アカシアの木陰を象の親子がゆうゆうと歩いているところでしょうか?勿論、アフリカの一部にはそういう場所もあります。

ただ、皆さんがギニアに足を一歩踏み入れると、まったく違うアフリカを見て、驚くかもしれません。緑の濃い木々に覆われた山々が連なり、動物の姿が見当たらず、雨期には毎日激しく雨が降り続く場所、それがギニアです。ギニアの位置はアフリカ大陸の一番西で、アフリカ大陸を頭の形と見ると、ちょうど後頭部に当たります。

ギニアはアフリカの貯水池といわれるくらい雨が降ります。このギニアの森林地帯を源として、セネガル川とニジェール川の二つの大河が、北と東の方向に流れています。森と雨に最も恵まれているのがギニアです。水が豊富にあるので低地には水田があり、日本の昔の農村に似た風景が見られます。

(ギニアの水田:皆川・撮影)

アフリカでの主食はトウモロコシやキャッサバ(いも)、ソルガム(モロコシ)などですが、ギニアではお米が主食です。
また、鉱物資源も豊富で、アルミニウムの原料のボーキサイトの生産は、世界第2位です。
このように、自然資源や鉱物資源に恵まれているギニアですが、世界で最も貧しい国々のひとつです。何故でしょうか?

ギニアの悲しい歴史
 ギニアの人口は約1,000万人、広さは日本の3分の2ほどです。1890年よりフランスの植民地でしたが、1958年にアフリカの他国に先駆けて独立しました。そのため、フランスは、すべての援助を打ち切り、フランス人が引き上げるときに公共施設や道路などのインフラをすべて破壊しました。そのため、ギニアは最貧国に転落し、セク・トゥーレ大統領は社会主義路線をとりましたが、うまくいかず、トゥーレ大統領の死後、1984年に自由主義経済路線をとりました。しかし独裁政治が続き、官僚の汚職と腐敗がはびこり、クーデターが頻発し政治は安定せず、国民の生活がないがしろにされたままです。


ギニアの大滝(ギニアのナイアガラといわれる:皆川・撮影)

(続く)
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Posted by 皆川眞孝 at 08:44
プロフィール

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