乃木神社(港区赤坂)(2) [2017年03月12日(Sun)]
乃木神社(港区赤坂)(2) 乃木邸(乃木公園) 乃木邸の場所は江戸初期、青山常陸介忠成の土地で、江戸末期には美濃部藩青山大善亮の所有する広大な邸地でした。乃木大将はこの土地が気に入り明治12年土地を購入し、明治35年(1902年)住居を新築したが、かつてドイツ留学中にみたフランス陸軍の兵舎の簡素合理性に着目し、連隊本部の建物を範として、建坪168u半地下構造の木造住居を建てた。 (明治45年の殉死まで10年間の住まいでした) 乃木邸は乃木大将の遺言により東京市に寄付されました。 水師営の會見 作詞:佐々木信綱 作曲:岡野 貞一 1. 旅順開城約成りて、敵の将軍ステッセル 乃木大将と會見の所はいづこ水師営 2. 庭に一本なつめの木弾丸あともいちじるく くづれ残れる民屋に、いまぞ相見る二将軍 3. 乃木大将はおごそかに、御めぐみ深き大君の 大みことのりつたふれば、彼かしこみて謝しまつる 4. 昨日の敵は今日の友、語る言葉もうちとけて 我はたゝへつ、彼の防備、彼はたゝへつ我が武勇 省略 9, 「さらば」と握手ねんごろに、別れて行くや右左 砲音絶えし砲臺に、ひらめき立てり日の御旗 乃木大将に纏わる逸話の一つ 「乃木大将と辻占売り少年像」 明治24年陸軍少将乃木希典は、金沢で当時8歳の今越清三郎に偶然出会い、辻占売りで一家の生計を支える少年に感銘を受け金二円を手渡した。 少年は乃木の恩義に応えようと努力を重ね、金箔業の世界で大きな実績を残した。 銅像は乃木の人となりを伝えるべく明治43年六本木旧ニッカ池の縁に造立され、後この地に移転 乃木大将の令息 乃木大将と静子夫人の子供は男子二人、長男は勝典(カツスケ)次男は保典といい、共に陸軍士官学校を卒業して日露戦争に従軍、勝典は旅順近くの金州南山の戦いで腹部を直撃され満24歳で戦死、弟保典は父希典配下の将校として203高地の激戦で兄戦死の6ヶ月後に満22歳の若さで戦死しました。(記録によると、勝典はロシヤ軍の直撃で腹部腸が飛ばされて 穴があき、腹側から背中の向こうの背景が見えるほどの重症だったと記されています) 勝典戦死の報を聞いた母静子さんは三日三晩泣き通したということです。 私事で恐縮ですが、私の母の兄の三男が戦死したとき(母の兄は長男で実家を継いでいた) 母の兄夫婦はショックで食事が摂れなくなり、衰弱の挙句知らせから間もなく相次いで亡くなりました。 二人の子供の同時戦死で受けた乃木夫妻の悲しみが如何ばかりであったかと思います。 以下Wikipediaなどから抜粋 勝典は父母の良い面、悪い面をそれぞれ受け継いだ典型的な人物で、元来、父方乃木家は学才に乏しく、一方母方湯池家は母静子およびその両親、兄姉等は学才に秀でていた。 勝典は士官学校の受験に二度失敗し、三度目に合格した。(士官学校の受験は三回が限度で四回の受験はできなかった) 父希典は合格を喜び、お祝いとして勝典に1000円を渡したという。(当時1000円は大将と言えども数か月分の給料に等しい大金) 勝典はさすがに驚き、半分は母静子にソッと渡したという。 保典は父母の良い面だけを引き継いだといわれ、秀才で士官学校の受験は一回でパスした。 兄弟は仲が良く、兄の負傷を聞いた保典は合間を見て勝典を見舞ったが、それから半年後兄と同じ運命を辿ることとなった。 続く 文責 荒川 |
Posted by
wild river
at 09:00
明平さま、私も乃木さんのことは知らなかったのです。明治時代の話ですから当時の記録をみて想像するしかありません。
宮崎さま、乃木さんという人は司馬さんから愚鈍な人のような酷評をうけていますが、とてつもなく誠実でとてつもなく不器用な人だったのではと想像しています。なにしろ師玉木文之進の教育は凄まじく、その洗礼を少年乃木は実直にうけてきたのですから。