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MI ジャーナル

―はたけと芸術を楽しみつつ、仮説を立てながらいろんな人と協働して問題解決を図り、子どもとともによりよい社会を目指していきたい、そんなことを考えている人のヒントになりたい―


キーワードは、農業(はたけ)・仮説実験授業・楽しさ・子ども劇場・芸術文化・冒険遊び場(プレイパーク)・チャイルドライン・協働などなど(ただし、私の中でつながっているだけで、それぞれに直接的な関係があるわけではありませんので、誤解のないようお願いします)


「MI ジャーナル」とは、Micro Intermideate Journal(マイクロ・インターミディエット・ジャーナル)。元のタイトル「農芸楽仮説変革子ども」は私の関心領域のキーワードをつないだだけだったので、2010年3月3日より、私の日々の情報発信という意味で、MI(村夏至)ジャーナルとしたのですが、2014年9月4日から、MIの意味を変えて、小さいながら何かのきっかけや何かと何かをつなぐ内容にしたいという意味の名称にしました(詳しくは、カテゴリー「21MIジャーナル」をご覧ください)。

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中島義道さんの本は面白い

[2012年01月31日(Tue)]
知り合いが読んでて、たまたま手にした中島義道さんの本。

『たまたま地上に ぼくは生まれた』(中島義道著、ちくま文庫、2007年、2002年に講談
社から出版されたものの文庫化)



1990年から2001年にかけての著者の講演と対談集で、哲学の入門書的なものとして面白かったです。

著者は、騒音、特に日本的な駅構内のアナウンスや善意で流されるBGMが嫌いで、そういったことに正面から闘っているので「闘う哲学者」とも形容されているらしいです。

きっと、優等生根性が抜けきらなくて、ついつい他人の顔色をうかがって愛想を振りまいてしまう私などは中島さんに嫌われている対象でしょう。

でも、彼が主張することは正直な感じで納得できます。

「その人がほんとうに考えて、ほんとうにのたうち回って得た知識か否かは、実感でわかってくる」と書いている感じ方や、ディベートのように、相手を打ち負かせるためのテクではなく、真理を求める“対話”の大切さを書いていたり、共感できる部分が多いです。

一方で、科学に対してちょっと勘違いしているようで気になります。
例えば、
「つまり科学的客観性は、両方間違っているかもしれないという議論はしないで、人間のすべてが、あるいはほとんどがおなじ見解を持っているのを客観性としようという立場なわけです」とか
「科学は、解けない問題を解ける問題に変えてしまうんですね」
と書いていますが、私は、科学は解けない問題はそのままにしておいて(ほったらかしにするという意味ではなくて)、うまい問いかけ(実験)を見つけて、解ける問題を誰でもが納得できる形で解いてきたのだと思うので、科学を哲学と対立するような形で提示しているように感じられて不思議な感じがしました。


215_芋づるマルチをしたタマネギの現況

[2012年01月29日(Sun)]
2011年12月23日の記事で紹介した、芋づるをマルチとして使ったタマネギの1ヶ月後の現況です。


寒い時期はほとんど変化がないのでわかりにくいのですが、けっこう元気に育っています。
畝の側面には草は生えてきているものの、マルチの効果でタマネギの苗を植えた部分には草はあまり生えていないので、今のところ草取りは行っていません。

2週間前くらいに芋づるの上から肥料として骨粉入り油粕を苗と苗の間にまき、今日、1月の焚き火遊びの時に持ち帰った草木灰を同じようにまきました(もう肥料はやらないかもしれません)。

順調に育ってくれそうな雰囲気です。


市民活動カフェ2012

[2012年01月29日(Sun)]
いわくに市民活動支援センターに登録する市民活動団体が一堂に会して、活動紹介やバザーウォークラリー、ステージイベント、ものづくりなど多彩な催しを行う市民活動カフェ。もう10年近くなる恒例のイベントで、今年は40団体近くが参加しており、私は数年ぶりに子ども劇場のスタッフとして午前中だけ参加しました。


たくさんの親子連れなどでにぎわっていて、少しだけ全体を回ってみたら、久々の人と話ができたり、新しい情報を得ることができたり、私にとっても実りのあるものでした。

市民に団体の活動が紹介できるだけでなく、(私もそうでしたが)会場では、団体同士が交流したり、予想外の出会いがそこここで見られ、こういったイベントは市民活動にとって大切なんだなあとつくづく思います。


2月12日 チャイルドラインチャリティコンサート

[2012年01月28日(Sat)]
子どものための専用電話“チャイルドライン”(詳しくは、2010年5月24日の記事、「『チャイルドライン受けて・スタッフ養成講座』のおすすめ」をご覧ください)のためのチャリティコンサートが開催されます。
生のヴァイオリンとピアノ、そしておいしいケーキが楽しめるお得な企画です。

◆日時 2月12日(日) 14時開演
◆会場 岩国シティビューホテル 9階 ASIA
◆チケット 1800円(ケーキ&ドリンク付き)
◆主催 チャイルドライン岩国ステーション
◆共催 岩国ワイズメンズクラブ、岩国みなみワイズメンズクラブ、パン屋のら、自然菓子工房欧舌、NPO法人エルマーの会、NPO法人岩国子ども劇場



214_カタバミの根っこ

[2012年01月26日(Thu)]
はたけでしつこくて厄介な雑草の一つカタバミ。

この根っこがなかなか面白い。
ひげ根だけのものがある中に、ユリの球根のミニ版のようなものが付いているものや、


そのユリの球根のようなものの下に半透明の根が付いているものなどがあります。


この球根のようなものが分かれてどんどん増えていくのでしょう。

半透明の根っこはきれいでちょっとかじってみました。カタバミの葉っぱはとても酸っぱいので、もしかしたら根っこもそうかもと思って。


しかし、実際には、ほのかに甘い程度であまり味はしません。というか、食べれそう。

ちなみに球根のほうは筋っぽくておいしくありませんでした。



ブログの再開について

[2012年01月25日(Wed)]
12月末にブログを再開しました。
再開と、はっきり書いていいものか不安な面もあったものの、1ヶ月経ってまだ書いているので一応大丈夫かなといった状態です(何が大丈夫なのかわかりませんけど)。

振り返ってみると、
2008年の6月に始めて5ヶ月間書き込み、
2008年11月から13ヶ月(1年1ヶ月)休み、
2009年11月に再開して9ヶ月書き込み、
2010年8月から16ヶ月(1年4ヶ月)休んで、
2011年12月に再開しています。

書いてた期間を○で(1つが1ヶ月)、書いていない期間を×(1つが1ヶ月)表現して、簡単なグラフにすると、下記のようになります。

○○○○○
×××××××××××××
○○○○○○○○○
××××××××××××××××


この流れで行くと、これから13ヶ月間書いて、19ヶ月お休みに入るということになります(これはもちろん冗談)。

ブログを書く人にもいろいろだと思われますので一般的なことは書けないにしても、私の場合で書くと、
始めたこと自体、重大な決心を持ってのことではなかった(そもそもブログで発信すること自体自分の中で十分検討しているわけではありません)のですが、いざ書き始めると、ほとんど毎日のように書いてしまっていて、でも5ヶ月くらい経ったところで、ぱったりと書かなくなってしまいました(自分で書くのもおかしな表現ですが、まさにそんな感じで、それが2度繰り返して、今回が3回目ということになります)。

私は躁鬱の傾向があるので、そういったことも関係していると考えられますが、必ずしもそれだけではないようです。書いているときは、義務感とかではなくて、書くことが勝手に浮かんでくる(もちろん何かあったときに、これも書いておこうかという張り合いにはなります)のです。

書かないときも、時々は覗いて出会いサイトなどの書き込みがコメントにあると削除する程度のメインテナンスはしていました。でも書く気には全然ならないので、仕方ないかという気分でいたのです。

ただ、今回は、毎日書くという雰囲気でもないので(他人事のような書き方で申し訳ありません)、もしかしたら、ブログとの付き合いを自分なりに見出して、マイペースで書けるのかもしれません(これまでは、吐き出しすぎて息切れしてしまったのかも)。

ついでに書いておくと、書くときには、どういう読者を想定しているかというと、自分の身近な知り合いを基本にしながら、同時に不特定多数の人(ただし、どういうことを何のために書くのかということをある程度前文やカテゴリーアーカイブで書いているので、そのつもりで読んでもらえる人を想定しています)の両方を意識しています。個人に当てたメールや手紙ではないけれども、かといってまったく不特定多数に向けたものでもない(まったく不特定多数に向けた文章は私にはきっと書けない)。そういうちょっとだけ公的な気持ちが、微妙な刺激になるような気はします。

そう言えば、書き始めたころには想定があいまいで、「ブログってとらえどころがないなあ、誰に向けて書いているんだろう」という気がしたこともあったように思います。

手紙とかモールス信号(古!)とかアマチュア無線(これも古い?)、電話、メール、ツイッター、ブログ、ホームページなどなど、いろいろある中で、今は、私にとってブログが比較的しっくり来るのかな。

とは言っても個人的な書き流しであったり、自分の忘備録でもあるので、こんなことを書いてもとも思いながら、ブログを書く人の気持ちみたいなものを知りたい人もいるかもしれないので、あえて振り返って考えてみました。


電子手帳iPAQ212のその後

[2012年01月24日(Tue)]
2年前くらいに導入し、それなりに気に入っていた電子手帳iPAQ212。
6年以上使っていた私の初代携帯電話、ドコモのプレミニが3月31日にサービスが終了してしまうムーバなので、新年早々スマートフォンに変更することになり、一気にそちらに移行することになりました。

もうかなり前から、どうせ買い替えなくてはならないのだから、スマートフォンにして、スケジュール管理やデータもそちらに移行しようとは考えていました。

機種は、F−12C(本当はiphoneにはとても惹かれるものがあったのですが)。ドコモの現行スマートフォンの中で、最軽量で防水であるというのが条件。

もともと使っていたプレミニがとても小さくて胸のポケットに余裕で入るのが気に入っていたので(携帯自体あまり持つことに乗り気でなかったし、着信音を鳴らすのが好きでなかったので、胸に入れていないと着信に気づかないため)できるだけ小さいことと、はたけに持っていくことを考えると防水のほうが安全、というのが理由です。

移行は面倒くさいなあと思っていたら、電話番号もメールアドレスも変わらないし、電話帳や写真、ワードエクセルなどのデータもそのまま移せたし、予定表も移動させてしまい、あっさり2、3日で済んでしまいました。まあこの1年以上あまり活動的でなかったので、移行するべきデータもそれほど増えてなかったということでしょうか。

写真にすると、両脇の2つが真ん中の1つにまとまったという話。
実際には、カメラもついているので、この写真を撮っているカメラも含めると3つが一つになってしまった(カメラ好きとしては、カメラは別に持ち歩くでしょう)。


胸のポケットには、ちょっと大きめなので、ポケットの小さな夏場はいやかもしれませんが、仕方ないです。とりあえず、予定表と携帯が一本になって満足。


『ソーシャル・キャピタル入門』

[2012年01月23日(Mon)]
『ソーシャル・キャピタル入門』(稲葉陽二著、中公新書、2011年)


最近聞くようになった言葉で、何となくわかるのですが、少しは基礎知識を仕入れようと読んでみました。

結論から言うと、ソーシャル・キャピタルについての概要や研究についてはある程度理解できたですが、逆にわからなくなってしまったと言うべきでしょうか?

ソーシャル・キャピタルは社会関係資本と訳され、「協調的行動を容易にすることにより社会の効率を改善しうる信頼・規範・ネットワークなどの社会的仕組みの特徴」と定義づけられており、社会関係資本が豊かな地域コミュニティほど、犯罪などが少なく、メンバーの健康が保たれ、地域社会が安定しているという点が特に注目されているようです。単純に言えば、社会関係資本を充実させれば、警察や医療などにお金を使わなくても済むというわけです。

アメリカ・ペンシルヴェニア州にある人口千数百人の田舎町ロゼトでは、社会関係資本が豊かであったために心臓疾患による死亡率が周辺の町や全国平均の値を大幅に下回っており、「ロゼトの奇跡」と呼ばれた例なども紹介され、日本でも社会関係資本を豊かにすることによって住民の健康を増進させようとする取り組みが行われているようです。

漠然とはわかるのです。しかし、そのためには従来から地縁組織を強化するべきなのか、それとも社会的使命を持ってテーマごとに活動している市民活動を支援していくことが大切なのか(きっと、その両方がある程度ずつ大切なのでしょう)?

高度成長期に社会の効率化とともに、人々が地縁から離れて都市に向かっていったのは、働き口を求めて行ったと同時に、地域社会のしがらみから逃れていったという面もあるはずで、そのあたりは本書にも「社会関係資本のダークサイド」などでも紹介はされているものの、そういったことは微妙なバランスの問題であり、あえて「ソーシャル・キャピタル」という両面を持ち合わせたなじみのない外来語(社会関係資本と訳してもわかりにくい)を切り口(キーワード)にする必要性というものが、私には理解できませんでした。

本書の中では、経済格差を社会関係資本を壊すものとして大きく取り上げています。私も経済格差は大きな問題だと思います。しかし、社会関係資本の重要性を強調するためのネタとして使われているような感じがして腑に落ちない。

大切なことが書いてある感じがするのに、どうも、読後感のすっきりしない印象です。


213_干しネギは冬にもできるのか?

[2012年01月22日(Sun)]
ネギは寒さに強い野菜で、逆に暑さは苦手なようで、夏の時期に“干しネギ”と言って、はたけから引きあげて1ヶ月以上陰干しをしておいて、また植えると旺盛に復活します。

普通この時期には、葉っぱの上の部分だけ収穫してもどんどん育ってくるので楽しめるのですが、はたけの一角で1年以上ほったらかしにしておいたネギが、増えすぎてか元気がなくなってしまいました。


そこで、試しに冬の干しネギに挑戦してみることにしました。干してカラカラになってしまっても元気になるのが不思議で、思いついてはインターネットで調べてみるものの、根を詰めて探すわけではないのでちゃんとした説明に出会ったことがなく、それでも、1月から3月にかけて干しネギをつくったことがあるという記事を見たことがあるので、私もやってみたかったのです。

ちなみに、書くほどもないと思いながら、干しネギの作り方を少し書いてみますと。

はたけからネギを引き上げて、土をよく払っておきます。
農業用の結索用の麻ひもを適当な長さに切り、両端にわっかをつくって下の写真のように結びます。




そして、適当にまとめたネギにわっかを通して、張って縛れば、重さがかかると絞まる結び方(タマネギを吊るして保存するときの結び方)なので、そのまま重ならなように少し段違いに吊るせばOKです。



上の写真は、吊るした雰囲気を写真に撮るために仮に吊るしたものです。実際には薄暗い倉庫に干します。

しかし、3月くらいに植えたとして、春になるとネギ坊主ができてまた休眠状態になると思われるので、うまくいくかどうか?
それでも、冬の時期に干すというのは、助かるかも。というのも、夏の時期だとネギのにおいが強烈で、さらにたくさん束ねすぎると腐ることもあるので。


212_ニンジンのロゼット

[2012年01月22日(Sun)]
葉っぱを地面の上か近くにおろして放射状に広げ、風を避けながら太陽の光を効率よく受けて寒い時期をしのぐ形をロゼットと言って、野菜ではホウレンソウが有名(2009年12月17日の「97_ホウレンソウのロゼット」参照)です。

ホウレンソウの専売特許なわけではないので、他の植物でも見られます。ニンジンも暖か時期には葉っぱを上に向けて育つのですが、今日などはたけに行ってみると、こんな感じになっています。


まわりに草が生えているのでわかりにくいかもしれません。この苗は、10月に入って種を植えたものなのでまだ小さい。なんとか、冬の寒さをやり過ごして欲しいものです。

隣には9月最初に種を植えたニンジンが、やはり少しロゼット気味に姿勢を低くしています。


こちらは、1ヶ月前に植えたので、寒さにやられる前に育っており、収穫できる大きさになっています。
試しに抜いてみましょう。




葉っぱは、紫色に変色(紅葉?)していますが、大丈夫。


ニンジンは、寒さに比較的強いので、瀬戸内海気候のこの地では、こうやって少しずつ収穫して長く楽しめます。

211_長期保存してしまったカボチャ

[2012年01月18日(Wed)]
カボチャはたくさん収穫できたときは、ふつうは倉庫のようなところに保存しておくのですが、残っていても寒くなりすぎるとダメになってしまったりします。

11月ごろに採れたものを、今回たまたま台所兼居間の隅にに転がして(保存して)おいたら一つ残ってしまっていて、先日から少しずつ食べています。表面の色はきれいな緑から、ちょっと茶色っぽく変色してしまっているものの、寒さのためかとても甘くておいしくなっています。ゆでると、そのままで食べられるほど。


なんだかとても得した気分。

丸のままだと運がいいと、かなり長期保存できるのですね。

210_サラダタマネギ

[2012年01月17日(Tue)]
12月中旬に園芸屋さんで初めて買ってみたサラダタマネギ。2月から太り始めて卵大になるんだそうです。

名前の通り、辛みが少なく、水にさらさなくても生で食べれるらしい。小さいので効率は悪そうですが、初めての野菜を試してみるのは楽しみです。
現在は、こんな感じで、まだ太る気配はありません(まわりに草木灰をまいています)。


初めてといえば、去年の夏の終りには、シカクマメというのを育ててみました。味がなく、コリコリとした食感を楽しむ感じで、私は結構好きでしたけれども、周りではあまり評判ではありませんでした。花がとてもきれいだったのが印象的。

焚き火で遊ぼう!

[2012年01月15日(Sun)]
毎年、知り合いの小高い丘を借りて、地元の小学生(とその親)を対象に行っている焚き火遊び。12月から3月にかけて、月1回ペースで楽しみます。今日は、今季2回目。20人以上の参加でにぎわいました。


焚き火では、竹で作る炊き込みご飯や借りている畑でつくったサツマイモでの焼き芋(さらには、ミカンをアルミホイルで包んで焼いたり、竹の枝にマシュマロやウインナーを刺して焼いたり)。

あとは、ブランコやシーソー、ハンモック、綱渡り、落とし穴づくりをしたり、枯れた木をスコップで掘り返したりいろいろ。10時くらいから始めて、最初はそれぞれのグループで遊んでいたのですが、終わる予定の3時ごろになって色鬼(鬼が指定した色のものを触るとあてられない)をみんなでやりだして楽しそうでした。

『細胞が自分を食べる オートファジーの謎』

[2012年01月14日(Sat)]
『細胞が自分を食べる オートファジーの謎』(水島昇著、PHPサイエンス・ワールド新書、2011年)


オートファジーの語源は、「自分」(オート auto)と「食べる」(ファジー phagy)で、オートファジーとは、私たちの細胞の中で起こっている大規模な分解作用のこと。

細胞内にあるリソソームといわれる細胞小器官が、細胞内の劣化したタンパク質や細胞小器官、侵入してきた細菌、さらには脂肪や炭水化物をまでも分解するのですが、とりわけ、タンパク質を分解する機能が注目されているようです。

なにしろ、体重70キロくらいの人の場合、1日のタンパク質摂取量は70グラムなのですが、その3倍くらいにあたる200グラムのタンパク質が体内で分解され、新たに同量の200グラムのタンパク質が合成されているのだそうですから(分解しているのはオートファジーだけの作用ではないようですが)。

この本では、細胞の基礎知識から、そこで起こっているオートファジーの概略、そして、オートファジーの研究史から、研究の最前線まで、そのただ中にいる研究者がわかりやすく解説してくれています。

オートファジーは、単細胞生物でも起こっており、もともとは飢餓時に必要なタンパク質の材料(アミノ酸)を自らの細胞の中から調達するために発達したもののようです。そして、生物が進化して多細胞生物になって寿命が延びてくると、長く使う細胞の浄化システムとして活用されるようになったのではないかと考えられているようです。脳など一生使う神経細胞が正常に機能するためには、構成物質を更新したり、悪さをする老廃物を除去したりすることが重要になってくるというわけです。

それにしてもこういう本を読んでいると、生物の進化の妙というものを感じないわけにはいきません。様々なせめぎあいの中で、いろいろな対応がなされていくうちに絶妙なバランスが形成されている。それは、例えば本文の中のこういった文章にも表れています。

「オートファジーは腫瘍の発生を抑制する一方で、発生してしまった腫瘍細胞にとってはむしろサポート役として機能していると考えられる」

自然界の現象はどんな機能も諸刃の刃で、ここのスイッチを押したらこういう結果が出るという単純なものではないのですよね。さまざまな要因が絡みあって、同じ機能が別の結果を出してしまうことなど普通にあるのでしょう。

また、専門になり過ぎない範囲で、結構細かいことも書いてあります。生命にとって大切な複雑な機能を持ったタンパク質というのは、複雑な分子構造を持っているために、日々その役目を果たしていくうちにだんだん劣化してくる。だから、その構成単位であるアミノ酸に分解(その仕組みの一つがオートファジー)して再構成してやる必要があるわけでしょうが、その劣化したタンパク質がどうして分解する器官に運ばれていくかというと、劣化したタンパク質を監視する遺伝子があって、劣化したタンパク質や細胞小器官に、あるタンパク質がだんだんくっつくようになっており、その構造によって分解する器官に吸い寄せられるようになるようなのです。うまくできたものです。今こうしているうちにも、自分たちを構成している細胞の中では、こういった無数の仕組みが着々と機能していて、全体として生きているのですよね。

私にとって科学の進歩というものは、自然の仕組みを解き明かしてコントロールしていくというより、自然の妙(みょう)の素晴らしさを学んで、より謙虚な気持ちになれるもののように思えます。

『エンディングノート』

[2012年01月10日(Tue)]
『エンディングノート』(2011年、日本映画、監督:砂田麻美)


年末に、シルヴァーノ・アゴスティ監督の『カーネーションの卵』の前に観ました。

「段取り命」の熱血サラリーマンだった自分の父親が、退職して間もなくガンに侵され、自らの最期を段取りするさまを、ドキュメンタリーを学んだ実の娘が映像で綴る作品。

しめっぽくならないのは、何と言っても主人公の前向きさと、カメラで追う娘のぶれない視線。それにしても、お父さんは最後までなぜあんなにしっかりしているのか不思議なくらいで、ちょっとすごい。

1月20日まで、広島の横川シネマで上映中。

芽キャベツとブロッコリーのペペロンチーノ

[2012年01月09日(Mon)]
お昼に、畑で採れた芽キャベツとブロッコリーをメインに、しめじと舞茸とベーコンの端切れを加えたペペロンチーノを作ってみました。
たっぷりのきざみニンニクと、味付けは昆布だし粉末だけ。
このあいだ収穫したトウガラシを刻んで、その辛みを熱したオリーブオイルで抽出したものをかけて。
芽キャベツをスパゲッティの具にするのは初めてでしたが、なかなかです。


ちなみにスパゲッティをするときは、大概、刻んだニンニクをオリーブオイルで炒め、トマト缶とバジル入れて煮詰める単純なトマトソース(調味料は塩のみ)を一緒に作って、最初はメインの具だけ、次にはこのトマトソースも混ぜて、そのあとトマトソースだけで、などと、楽しみます。

209_タマネギの苗は、どれくらい小さくても大丈夫なのか?

[2012年01月09日(Mon)]
タマネギの苗は、作ってみたいと思いながら、面倒なのでちゃんと作ったことはなく、買うか、知り合いからもらったりします。

知り合いからもらうと、中には、本当に小さいものがあり、鉛筆くらい(私自身はそんな立派な苗をあまり見たことはない)が理想的などと書いてある本などからすると無理なのでしょうが、ついついもったいなくて、植える場所があれば植えてしまいます。

今年も植えてて、今日(1月9日)現在でこんな小ささ。指の大きさからみても背丈数センチ。葉の直径は3、4ミリでしょうか?
毎年、あまり意識して追跡していないので、今年はどうなるか追ってみましょうか?


『人間はガジェットではない IT革命の変質とヒトの尊厳に関する提言』

[2012年01月08日(Sun)]
『人間はガジェットではない IT革命の変質とヒトの尊厳に関する提言』(ジャロン・ラニアー著、井口耕二訳、ハヤカワ新書juice、2010年)

 
あまり本を読んでいない昨年、もっとも刺激を受けた本。
インターネットやITについて気になることを、ちゃんと言葉にしてくれていたり、さらにもう一歩(も何歩も)進んで固定観念を揺るがしてくれる。

私の頭ではちょっとついていけない部分もあり、説明するのは難しいので、かいつまんで感想のような、抜き書きのようなものを書いてみます。

いまのデジタル革命が、おかしな方向に進んでいるのは、それを担っている多くの人が、その人が意識するしないにかかわらず、「インターネットというものが命を持ち、超人間的生物になりつつある」という価値観の方向でインターネットを利用し、本来一人ひとりが創造性の源として扱われるべき人間が、匿名の断片(集合知の一部)に貶められているからなのではないかと言っているようです(著者は、この価値観がまゆつば物であることをいろんな例をあげて説明してくれています)。

技術的にはもっと個人を重視する方向に設計できるのに、コンピューターや集団を重視する方向に設計している例としてわかりやすいなあと思ったのは、例えば、

 「シリコンバレー文化は、このあやふやな考えを聖なるものとして祭りあげ、技術者のみ可能な方法で普及させた。実は言葉よりも実装のほうが声が大きく、ソフトウェアの設計に組みこめばアイデアを広く浸透させられる。人とコンピューターで役割の違いがなくなりつつあると信じているなら、それをソフトウェアで表現することができる。マイクロソフトにいる友人たちのしたことがまさしくそれだった。どこでアウトラインをスタートするかなど、書き手が何を望んでいるかを理解する機能をワープロに組みこんだのだ。その結果が……おかしなタイミングでマイクロソフトワードが勝手にインデントを始めたりするようになった。ささいな作業はなるべく自動化したいと思うが、それとこれとは話が違う。
 このような機能はナンセンスだと私は思う。「使用者はこうしたいだろう」とソフトウェアが予想して動くので、自分が望むとおりにソフトウェアが予想してくれるようにしなければならい。これではかえって作業が増えてしまう。この機能の目的は、実は、人の生活を助けることはない。真の目的は、人よりも人を良く理解する生命体へとコンピューターが進化しつつあるという信念の布教なのだ」

こういうことって、パソコンを利用していてよく感じることではないでしょうか?

私も何かと利用してしまうインターネット上の百科事典であるウィキペディアの問題点についても、かなりのページを割いています。
曰く、
 「たとえばウィキペディアがうまくゆくのは、私が神託幻想と呼ぶものがあるからだ。ここでは、超人間的な効力をテキストに持たせるため、そのテキストを著した人という情報が抑圧されている。昔から宗教系の書籍はこのような形で機能してきており、まったく同じ問題を抱えてもいる」

「検索エンジンは自分が欲しいものをわかってくれているのか、それとも、こちらが基準を検索エンジンのレベルまで引き下げているから賢く見えるのか?」
という問いかけもわかりやすい。グーグルなどの検索エンジンに調べ物を入力するときに出てくる選択肢に合わせてしまう自分がいたりする。

結果、
「コンピューターに敬意を払い、従おうとする傾向はすでにかなり強くなっており、デジタルガジェットやオンラインサービスが使いにくいとき、自分が悪いと思うことが増えている」
なるほど。

とても興味深かったのは、著者が「ヴァーチャルリアリティの父」と呼ばれているだけあって、人間の感覚についてとても興味があるようで、次のような話を書いていることです。視覚や聴覚が認識する色や音はごくわずかな数字で再現できるのに対して、臭覚が対象とするにおいというものが、鼻の奥にある化学物質を感じ取る臭覚受容細胞(1000種類ほどあるらしい)に分子がぶつかって信号が脳に送られることによって認識されるため、基本となるにおいだけで数千もあることになり、バーチャルリアリティによって再現することが難しいという話からはじまって、臭覚というのは、物質から発せられる分子、という部分からその物質全体(や起こっていること)を(ほかの感覚も助けにしながら、文脈を理解するように)類推するという複雑なことをしており、そのためにこそ私たちの脳の大部分を占める大脳皮質が発達したのではないかと考えられ、だとすればその大脳皮質によって生み出された言語は、においから生まれたことになるわけで、においを認識するという物質の情報処理の方法が、言葉の基礎になっている可能性があり、そういう研究が行われているらしいのです。

やはり、とてもまとまったことが書けそうにないので、印象に残ったフレーズを抜き書きします。

 「「人とは何か」……この質問に答えられるなら、疑似的な人をプログラムしてコンピューター内に作ることができるかもしれない。しかしそれは不可能だ。人であることと人を完全に理解できることは異なる。人であるとは、探求であり、神秘であり、根拠のない信念なのだ」
 (ここでいう神秘というのは、安易に使われる神秘主義のそれではないと思う)

 「いずれにせよ、人が意味だす表現や成果という面において量がどこかで質に転じるという証拠はない。大事なのは別のものだと私は思う。大事なのは興味関心の焦点であり、効果的に集中し、研ぎすました精神であり、集団から離れ、冒険をいとわない個人の創造力だと私は信じる」
 (仮説実験授業研究会で言う、問題意識が大切ということに通じると思う)

 「若い人を中心に、フェイスブックで何千人と友達になったと誇らしげに言う人がかなり大勢いる。友人の意味をかなり引き下げなければ、この言葉は出てこない。本物の友人なら、互いのおかしな部分までわかっているはずだ。知人とは他人であり、人生経験が果てしなく違い、本物のやりとり以外の方法で知ったり想像したりすることなどできない」
 (マシンがスマートに見えるほど人間が知性の基準を引き下げてしまう例?)

 「技術が大きく前進したとき、基本的なものがそろった時点で一度立ち止まり、一歩引いて、しばらくは人に焦点をあてることが大事だと私は思う」

ちなみに、本書は、個人の創造的な労作に対して、広告にお金が流れるのではなく、それを作り出した人にお金が流れる仕組みについてや、オンライン文化を良くするために「一人ひとりができること」のリスト(これは、私が提唱しながら忘れそうになっている「インターネット補完計画」の具体的な提言とも言えまると思う)などにも多くの紙面が割かれており、批判ばかりではありません。

ところで、本筋とは関係ないのですが、この本の第3部のタイトルが「フラットの耐えられない軽さ」となっています。これって映画の『存在の耐えられない軽さ』のパクリでしょうか。この映画、私はとても好きなのですけど、ラニアーさんも好きなのかな? 


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