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MI ジャーナル

―はたけと芸術を楽しみつつ、仮説を立てながらいろんな人と協働して問題解決を図り、子どもとともによりよい社会を目指していきたい、そんなことを考えている人のヒントになりたい―


キーワードは、農業(はたけ)・仮説実験授業・楽しさ・子ども劇場・芸術文化・冒険遊び場(プレイパーク)・チャイルドライン・協働などなど(ただし、私の中でつながっているだけで、それぞれに直接的な関係があるわけではありませんので、誤解のないようお願いします)


「MI ジャーナル」とは、Micro Intermideate Journal(マイクロ・インターミディエット・ジャーナル)。元のタイトル「農芸楽仮説変革子ども」は私の関心領域のキーワードをつないだだけだったので、2010年3月3日より、私の日々の情報発信という意味で、MI(村夏至)ジャーナルとしたのですが、2014年9月4日から、MIの意味を変えて、小さいながら何かのきっかけや何かと何かをつなぐ内容にしたいという意味の名称にしました(詳しくは、カテゴリー「21MIジャーナル」をご覧ください)。

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『人間はガジェットではない IT革命の変質とヒトの尊厳に関する提言』

[2012年01月08日(Sun)]
『人間はガジェットではない IT革命の変質とヒトの尊厳に関する提言』(ジャロン・ラニアー著、井口耕二訳、ハヤカワ新書juice、2010年)

 
あまり本を読んでいない昨年、もっとも刺激を受けた本。
インターネットやITについて気になることを、ちゃんと言葉にしてくれていたり、さらにもう一歩(も何歩も)進んで固定観念を揺るがしてくれる。

私の頭ではちょっとついていけない部分もあり、説明するのは難しいので、かいつまんで感想のような、抜き書きのようなものを書いてみます。

いまのデジタル革命が、おかしな方向に進んでいるのは、それを担っている多くの人が、その人が意識するしないにかかわらず、「インターネットというものが命を持ち、超人間的生物になりつつある」という価値観の方向でインターネットを利用し、本来一人ひとりが創造性の源として扱われるべき人間が、匿名の断片(集合知の一部)に貶められているからなのではないかと言っているようです(著者は、この価値観がまゆつば物であることをいろんな例をあげて説明してくれています)。

技術的にはもっと個人を重視する方向に設計できるのに、コンピューターや集団を重視する方向に設計している例としてわかりやすいなあと思ったのは、例えば、

 「シリコンバレー文化は、このあやふやな考えを聖なるものとして祭りあげ、技術者のみ可能な方法で普及させた。実は言葉よりも実装のほうが声が大きく、ソフトウェアの設計に組みこめばアイデアを広く浸透させられる。人とコンピューターで役割の違いがなくなりつつあると信じているなら、それをソフトウェアで表現することができる。マイクロソフトにいる友人たちのしたことがまさしくそれだった。どこでアウトラインをスタートするかなど、書き手が何を望んでいるかを理解する機能をワープロに組みこんだのだ。その結果が……おかしなタイミングでマイクロソフトワードが勝手にインデントを始めたりするようになった。ささいな作業はなるべく自動化したいと思うが、それとこれとは話が違う。
 このような機能はナンセンスだと私は思う。「使用者はこうしたいだろう」とソフトウェアが予想して動くので、自分が望むとおりにソフトウェアが予想してくれるようにしなければならい。これではかえって作業が増えてしまう。この機能の目的は、実は、人の生活を助けることはない。真の目的は、人よりも人を良く理解する生命体へとコンピューターが進化しつつあるという信念の布教なのだ」

こういうことって、パソコンを利用していてよく感じることではないでしょうか?

私も何かと利用してしまうインターネット上の百科事典であるウィキペディアの問題点についても、かなりのページを割いています。
曰く、
 「たとえばウィキペディアがうまくゆくのは、私が神託幻想と呼ぶものがあるからだ。ここでは、超人間的な効力をテキストに持たせるため、そのテキストを著した人という情報が抑圧されている。昔から宗教系の書籍はこのような形で機能してきており、まったく同じ問題を抱えてもいる」

「検索エンジンは自分が欲しいものをわかってくれているのか、それとも、こちらが基準を検索エンジンのレベルまで引き下げているから賢く見えるのか?」
という問いかけもわかりやすい。グーグルなどの検索エンジンに調べ物を入力するときに出てくる選択肢に合わせてしまう自分がいたりする。

結果、
「コンピューターに敬意を払い、従おうとする傾向はすでにかなり強くなっており、デジタルガジェットやオンラインサービスが使いにくいとき、自分が悪いと思うことが増えている」
なるほど。

とても興味深かったのは、著者が「ヴァーチャルリアリティの父」と呼ばれているだけあって、人間の感覚についてとても興味があるようで、次のような話を書いていることです。視覚や聴覚が認識する色や音はごくわずかな数字で再現できるのに対して、臭覚が対象とするにおいというものが、鼻の奥にある化学物質を感じ取る臭覚受容細胞(1000種類ほどあるらしい)に分子がぶつかって信号が脳に送られることによって認識されるため、基本となるにおいだけで数千もあることになり、バーチャルリアリティによって再現することが難しいという話からはじまって、臭覚というのは、物質から発せられる分子、という部分からその物質全体(や起こっていること)を(ほかの感覚も助けにしながら、文脈を理解するように)類推するという複雑なことをしており、そのためにこそ私たちの脳の大部分を占める大脳皮質が発達したのではないかと考えられ、だとすればその大脳皮質によって生み出された言語は、においから生まれたことになるわけで、においを認識するという物質の情報処理の方法が、言葉の基礎になっている可能性があり、そういう研究が行われているらしいのです。

やはり、とてもまとまったことが書けそうにないので、印象に残ったフレーズを抜き書きします。

 「「人とは何か」……この質問に答えられるなら、疑似的な人をプログラムしてコンピューター内に作ることができるかもしれない。しかしそれは不可能だ。人であることと人を完全に理解できることは異なる。人であるとは、探求であり、神秘であり、根拠のない信念なのだ」
 (ここでいう神秘というのは、安易に使われる神秘主義のそれではないと思う)

 「いずれにせよ、人が意味だす表現や成果という面において量がどこかで質に転じるという証拠はない。大事なのは別のものだと私は思う。大事なのは興味関心の焦点であり、効果的に集中し、研ぎすました精神であり、集団から離れ、冒険をいとわない個人の創造力だと私は信じる」
 (仮説実験授業研究会で言う、問題意識が大切ということに通じると思う)

 「若い人を中心に、フェイスブックで何千人と友達になったと誇らしげに言う人がかなり大勢いる。友人の意味をかなり引き下げなければ、この言葉は出てこない。本物の友人なら、互いのおかしな部分までわかっているはずだ。知人とは他人であり、人生経験が果てしなく違い、本物のやりとり以外の方法で知ったり想像したりすることなどできない」
 (マシンがスマートに見えるほど人間が知性の基準を引き下げてしまう例?)

 「技術が大きく前進したとき、基本的なものがそろった時点で一度立ち止まり、一歩引いて、しばらくは人に焦点をあてることが大事だと私は思う」

ちなみに、本書は、個人の創造的な労作に対して、広告にお金が流れるのではなく、それを作り出した人にお金が流れる仕組みについてや、オンライン文化を良くするために「一人ひとりができること」のリスト(これは、私が提唱しながら忘れそうになっている「インターネット補完計画」の具体的な提言とも言えまると思う)などにも多くの紙面が割かれており、批判ばかりではありません。

ところで、本筋とは関係ないのですが、この本の第3部のタイトルが「フラットの耐えられない軽さ」となっています。これって映画の『存在の耐えられない軽さ』のパクリでしょうか。この映画、私はとても好きなのですけど、ラニアーさんも好きなのかな? 


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