• もっと見る

MI ジャーナル

―はたけと芸術を楽しみつつ、仮説を立てながらいろんな人と協働して問題解決を図り、子どもとともによりよい社会を目指していきたい、そんなことを考えている人のヒントになりたい―


キーワードは、農業(はたけ)・仮説実験授業・楽しさ・子ども劇場・芸術文化・冒険遊び場(プレイパーク)・チャイルドライン・協働などなど(ただし、私の中でつながっているだけで、それぞれに直接的な関係があるわけではありませんので、誤解のないようお願いします)


「MI ジャーナル」とは、Micro Intermideate Journal(マイクロ・インターミディエット・ジャーナル)。元のタイトル「農芸楽仮説変革子ども」は私の関心領域のキーワードをつないだだけだったので、2010年3月3日より、私の日々の情報発信という意味で、MI(村夏至)ジャーナルとしたのですが、2014年9月4日から、MIの意味を変えて、小さいながら何かのきっかけや何かと何かをつなぐ内容にしたいという意味の名称にしました(詳しくは、カテゴリー「21MIジャーナル」をご覧ください)。

<< 2010年01月 >>
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
Google

Web全体
このブログの中
カテゴリアーカイブ
最新記事
PVアクセスランキング にほんブログ村

ただ、「できるからやる」式の不幸

[2010年01月19日(Tue)]
職場でパソコンのサーバが新しくなったので、接続をやり変えてもらったら、画面(デスクトップ)も微妙に新しくなって、アイコン(プログラムなり、ファイルなり、文書なりを画面上に形であらわしていて、それを2回クリックすることによって、そのプログラムが実行されるものです)が微妙に(グラディエーションがかかって)立体的になってしまいました。

これって、いやなんですよね。

なぜかっていうと、疲れるんです。一見立体的に見えて、かっこよい。画面上も画面とアイコンがなじんでいて自然に見える。画面上やさしく見えるという利点があるのかもしれません。

が、しかし。パソコンの画面は、あくまで平面(二次元)です。
あの、今話題の映画『アバター』(この映画自体の感想は、別記事に書いてあります)を見たときも思ったのですけど、あれはあれで映像体験としては楽しかったのですけど、目が疲れるのです。3D映像というものは、錯覚を利用して、立体に見えるようにしていて、現実の立体を見るより目が疲れるように感じます。ただ、それは一時の楽しみだからいいのです。

仕事で長時間見てなきゃならないものが、そういう立体的になっていると、若いうちはいいかもしれません。でも、私のようにある程度の歳になって来ると、ボディブローのようにきいてくるんですよね。きっと。極端に悪く言えば「労働強化?」。

ユニバーサルデザイン(簡単に言うと、障がいなどのあるなしにかかわらず、使いよいデザイン)の観点からも、この擬似立体化はいただけません。だって、弱視の人には見にくいでしょう。ウインドウズの世界では、ウインドウズVistaあたりから顕著になってきている気がします(Vista以降のOSは使ったことはないのですけど)。

これなどは、「できるからやる」式の不幸の典型的な例だと思います。
多分、若くて有能なパソコンソフトの開発者は、パソコンとソフトの能力の向上に合わせて、アイコンなどに割り振れるデータ量が増えてきたのに合わせて、アイコンの形を改良してきたのだと思います。ちょっとした遊び心だったり、より画面をきれいに見せたい善意だったり、いずれにしても、できるようになったから、しただけなのでしょう。利用者が、実は困るかもしれない、などということは、頭の隅にもよぎらずに。

パソコンの画面は、二次元であるのだから、それに合わせて、ユニバーサルデザインの観点から、もっと見やすく疲れないデザインが考えられるはずです。

もしかしたら、パソコンソフトの開発者は、もっと、開発が進んで、パソコンの情報処理能力も増して、画面の精度もより高精細なものになれば、パソコンの画面を見ることによって、景色を眺めていると同じように視力にもいい(今は、ある程度、パソコンをやったら、外の景色を眺めるなど休養を取ることを勧めていますけど)ものができると思っているのかもしれません。

しかし、それは、大きな勘違いです。パソコンの画面をそのようなものにある程度近づけることはできるかもしれません(私に言わせると、差がありすぎますけど)が、根本的に、本物(リアル)と擬似(バーチャル)なものは別物ですから。かといって、誤解のないように書いておくと、パソコンを否定しているわけではなくて、リアルとは別物としてのパソコンの利点(特性)を最大限生かしていけばいいだけです。


まとめ

私は、情報化など社会の進展(?)によって、個人の選択肢が増えてきている中、「できるからやる」ではなくて、「できることをやる」人が少しでも増えることが大切だと思っています。

「できるからやる」=自分が、できる環境にあることを、ただする(してみる)。

「できることをやる」=自分がいる社会の中の環境で、社会と協働して、よりよい社会になっていくために、できうることをやる。

「できるからやる」ことは、間違いではないかもしれません。でも、結果としてそれが人を不幸にするなら・・・。

「できるからやる」式の不幸から、少しでも多くの人が、少しずつでもいいから「できることをやる」。その輪がひろがることによってもたらされる新しい社会へ。 

ちょっと、かっこよすぎ?

二日酔いじゃないですってば

[2010年01月19日(Tue)]
1月16日に鳥をみにいったとき、川原にいたセグロセキレイが、何やら長細い虫をつかまえて、ちょっとだけ苦労して飲み込んでいました。

その途中なのですけど、ちょっと背中が丸くなっていて、二日酔いのオヤジがもどしているようにも見えません?


104タマネギの植え方

[2010年01月19日(Tue)]
前の記事でタマネギのことが出たのでついでに。

タマネギの苗の植え方にでてくる、
「あまり深く植えすぎないようにしましょう」
という説明。タマネギを植えたことのない人には、難解な言葉のように思います。

意味としては、こういうことだと思います。タマネギは、暖かくなってくると、いったん休眠するために葉っぱの一番下の部分に栄養をどんどん貯めていって太くなります。その太くなった部分を私たちはいただくわけですけど、どんどん太くなるためには、その部分が地中深くに入っていて、周りに土があるとどうしても太りにくくなってしまう。だから、例えば10cmも深く埋めてしまうとあまり大きなタマネギが収穫できないかもしれませんよ。

で、私はどういう植え方をしているかというと、人差し指で二節分くらいの穴をうがち、そこにタマネギ苗の根っこが入るようにして、根っこの生えている一番下の部分が土から1cmくらいになるように支えながら、土をかぶせていきます。根っこは、少しでも土の中のほうに入ったほうが言いかと思うからです。この方法でも、慣れれば、手で植えてもそんなに時間がかかるわけではありません。

この方法で、失敗したことはないのですけど、少し丁寧すぎるとも思っています。ネギ類はけっこう乾燥などに強いので、はたけを通りすがるお年寄りなどが、
「わしが子どものころに手伝わされたときにゃあ、タマネギっちゅうたら、クワとかで浅い溝の跡をつけていって、そこにタマネギの苗をてきとーに置いていって、あとはまたクワで一かきしていって、土をかぶせよったくらいじゃが、えらい丁寧に植えるんじゃのー」
と、言われることもあって、その程度でもいいのではないかとも思っています。

私としては、やはり、1本1本、ちゃんと育ってくれよと思いながら植えるのが好きなのでやってるだけです。

1月17日に、草取りに行ったときに、根っこがむき出しになっていたのが数本ありました。これは、浅く植えすぎたというのもあるかと思いますが、その状態になっているところは、少し土が盛り上がっていて、モグラがミミズを求めてその下を通ったために、なってしまったのではと思われます。このままでも育つ可能性はありますが、ちょっとかわいそうなので少し埋めてやりました。

| 次へ
プロフィール

村夏至さんの画像
にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 岩国情報へ
にほんブログ村 にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 広島(市)情報へ
にほんブログ村
最新コメント
https://blog.canpan.info/nougeiraku/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/nougeiraku/index2_0.xml
月別アーカイブ