ただ、「できるからやる」式の不幸
職場でパソコンのサーバが新しくなったので、接続をやり変えてもらったら、画面(デスクトップ)も微妙に新しくなって、アイコン(プログラムなり、ファイルなり、文書なりを画面上に形であらわしていて、それを2回クリックすることによって、そのプログラムが実行されるものです)が微妙に(グラディエーションがかかって)立体的になってしまいました。
これって、いやなんですよね。
なぜかっていうと、疲れるんです。一見立体的に見えて、かっこよい。画面上も画面とアイコンがなじんでいて自然に見える。画面上やさしく見えるという利点があるのかもしれません。
が、しかし。パソコンの画面は、あくまで平面(二次元)です。
あの、今話題の映画『アバター』(この映画自体の感想は、別記事に書いてあります)を見たときも思ったのですけど、あれはあれで映像体験としては楽しかったのですけど、目が疲れるのです。3D映像というものは、錯覚を利用して、立体に見えるようにしていて、現実の立体を見るより目が疲れるように感じます。ただ、それは一時の楽しみだからいいのです。
仕事で長時間見てなきゃならないものが、そういう立体的になっていると、若いうちはいいかもしれません。でも、私のようにある程度の歳になって来ると、ボディブローのようにきいてくるんですよね。きっと。極端に悪く言えば「労働強化?」。
ユニバーサルデザイン(簡単に言うと、障がいなどのあるなしにかかわらず、使いよいデザイン)の観点からも、この擬似立体化はいただけません。だって、弱視の人には見にくいでしょう。ウインドウズの世界では、ウインドウズVistaあたりから顕著になってきている気がします(Vista以降のOSは使ったことはないのですけど)。
これなどは、「できるからやる」式の不幸の典型的な例だと思います。
多分、若くて有能なパソコンソフトの開発者は、パソコンとソフトの能力の向上に合わせて、アイコンなどに割り振れるデータ量が増えてきたのに合わせて、アイコンの形を改良してきたのだと思います。ちょっとした遊び心だったり、より画面をきれいに見せたい善意だったり、いずれにしても、できるようになったから、しただけなのでしょう。利用者が、実は困るかもしれない、などということは、頭の隅にもよぎらずに。
パソコンの画面は、二次元であるのだから、それに合わせて、ユニバーサルデザインの観点から、もっと見やすく疲れないデザインが考えられるはずです。
もしかしたら、パソコンソフトの開発者は、もっと、開発が進んで、パソコンの情報処理能力も増して、画面の精度もより高精細なものになれば、パソコンの画面を見ることによって、景色を眺めていると同じように視力にもいい(今は、ある程度、パソコンをやったら、外の景色を眺めるなど休養を取ることを勧めていますけど)ものができると思っているのかもしれません。
しかし、それは、大きな勘違いです。パソコンの画面をそのようなものにある程度近づけることはできるかもしれません(私に言わせると、差がありすぎますけど)が、根本的に、本物(リアル)と擬似(バーチャル)なものは別物ですから。かといって、誤解のないように書いておくと、パソコンを否定しているわけではなくて、リアルとは別物としてのパソコンの利点(特性)を最大限生かしていけばいいだけです。
まとめ
私は、情報化など社会の進展(?)によって、個人の選択肢が増えてきている中、「できるからやる」ではなくて、「できることをやる」人が少しでも増えることが大切だと思っています。
「できるからやる」=自分が、できる環境にあることを、ただする(してみる)。
「できることをやる」=自分がいる社会の中の環境で、社会と協働して、よりよい社会になっていくために、できうることをやる。
「できるからやる」ことは、間違いではないかもしれません。でも、結果としてそれが人を不幸にするなら・・・。
「できるからやる」式の不幸から、少しでも多くの人が、少しずつでもいいから「できることをやる」。その輪がひろがることによってもたらされる新しい社会へ。
ちょっと、かっこよすぎ?
これって、いやなんですよね。
なぜかっていうと、疲れるんです。一見立体的に見えて、かっこよい。画面上も画面とアイコンがなじんでいて自然に見える。画面上やさしく見えるという利点があるのかもしれません。
が、しかし。パソコンの画面は、あくまで平面(二次元)です。
あの、今話題の映画『アバター』(この映画自体の感想は、別記事に書いてあります)を見たときも思ったのですけど、あれはあれで映像体験としては楽しかったのですけど、目が疲れるのです。3D映像というものは、錯覚を利用して、立体に見えるようにしていて、現実の立体を見るより目が疲れるように感じます。ただ、それは一時の楽しみだからいいのです。
仕事で長時間見てなきゃならないものが、そういう立体的になっていると、若いうちはいいかもしれません。でも、私のようにある程度の歳になって来ると、ボディブローのようにきいてくるんですよね。きっと。極端に悪く言えば「労働強化?」。
ユニバーサルデザイン(簡単に言うと、障がいなどのあるなしにかかわらず、使いよいデザイン)の観点からも、この擬似立体化はいただけません。だって、弱視の人には見にくいでしょう。ウインドウズの世界では、ウインドウズVistaあたりから顕著になってきている気がします(Vista以降のOSは使ったことはないのですけど)。
これなどは、「できるからやる」式の不幸の典型的な例だと思います。
多分、若くて有能なパソコンソフトの開発者は、パソコンとソフトの能力の向上に合わせて、アイコンなどに割り振れるデータ量が増えてきたのに合わせて、アイコンの形を改良してきたのだと思います。ちょっとした遊び心だったり、より画面をきれいに見せたい善意だったり、いずれにしても、できるようになったから、しただけなのでしょう。利用者が、実は困るかもしれない、などということは、頭の隅にもよぎらずに。
パソコンの画面は、二次元であるのだから、それに合わせて、ユニバーサルデザインの観点から、もっと見やすく疲れないデザインが考えられるはずです。
もしかしたら、パソコンソフトの開発者は、もっと、開発が進んで、パソコンの情報処理能力も増して、画面の精度もより高精細なものになれば、パソコンの画面を見ることによって、景色を眺めていると同じように視力にもいい(今は、ある程度、パソコンをやったら、外の景色を眺めるなど休養を取ることを勧めていますけど)ものができると思っているのかもしれません。
しかし、それは、大きな勘違いです。パソコンの画面をそのようなものにある程度近づけることはできるかもしれません(私に言わせると、差がありすぎますけど)が、根本的に、本物(リアル)と擬似(バーチャル)なものは別物ですから。かといって、誤解のないように書いておくと、パソコンを否定しているわけではなくて、リアルとは別物としてのパソコンの利点(特性)を最大限生かしていけばいいだけです。
まとめ
私は、情報化など社会の進展(?)によって、個人の選択肢が増えてきている中、「できるからやる」ではなくて、「できることをやる」人が少しでも増えることが大切だと思っています。
「できるからやる」=自分が、できる環境にあることを、ただする(してみる)。
「できることをやる」=自分がいる社会の中の環境で、社会と協働して、よりよい社会になっていくために、できうることをやる。
「できるからやる」ことは、間違いではないかもしれません。でも、結果としてそれが人を不幸にするなら・・・。
「できるからやる」式の不幸から、少しでも多くの人が、少しずつでもいいから「できることをやる」。その輪がひろがることによってもたらされる新しい社会へ。
ちょっと、かっこよすぎ?