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MI ジャーナル

―はたけと芸術を楽しみつつ、仮説を立てながらいろんな人と協働して問題解決を図り、子どもとともによりよい社会を目指していきたい、そんなことを考えている人のヒントになりたい―


キーワードは、農業(はたけ)・仮説実験授業・楽しさ・子ども劇場・芸術文化・冒険遊び場(プレイパーク)・チャイルドライン・協働などなど(ただし、私の中でつながっているだけで、それぞれに直接的な関係があるわけではありませんので、誤解のないようお願いします)


「MI ジャーナル」とは、Micro Intermideate Journal(マイクロ・インターミディエット・ジャーナル)。元のタイトル「農芸楽仮説変革子ども」は私の関心領域のキーワードをつないだだけだったので、2010年3月3日より、私の日々の情報発信という意味で、MI(村夏至)ジャーナルとしたのですが、2014年9月4日から、MIの意味を変えて、小さいながら何かのきっかけや何かと何かをつなぐ内容にしたいという意味の名称にしました(詳しくは、カテゴリー「21MIジャーナル」をご覧ください)。

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神秘主義を廃す話1

[2010年02月05日(Fri)]
以前にも少しだけ書きましたが、私は神秘主義が嫌いです。

なぜかというと、端的に言うと、神秘主義がすぐに人の心を操作することに悪用されるからです。神秘的なことがない、といっているわけではありません。

例えば、今、私は比較的調子がよくて、いろんな人から相談を受けても、けっこう即座に対応できます。

おとついも、こんなことがありました。たまたま仕事で行っていたところで、ローカルな新聞社の記者さんに出会い、連載エッセイを書いてくれる人を紹介してほしいと頼まれました(私も3年前に520字×8本の週1回で2ヶ月分の原稿をその人に頼まれて書きましたので)。

ちょっと考えて、そういえば、新聞の投稿をしたりするサークルで頑張っておられる方と最近話をする機会があるのを思い出して、その人を紹介しました。そして、あとで連絡しますので、と別れ、さて、連絡先を知ってたっけ?職場に戻ったら名刺が確かあったよな、などと考えながら歩いていると、まさにその人が、目の前を歩いているのです。記者さんに会ってからものの数分後の話です。

それで、呼び止めてお話をすると、その人も興味を示してくれたので、すぐに記者さんに紹介して、それでは私はこれで、と(あまりに、うまくつながりすぎたためか、翌日、その人が急に都合が悪くなったために他の人を紹介されたそうですけど、後日自分も書きたいと言っておられました)。

これって、神秘的な話にしてしまうこともできるのですけど、私はそうは思いません。私たちの身の回りには、いろんな情報が飛び交っています。それは、新聞やインターネットなどにかぎらず、自然現象や人の動きなども含めてです。そしていま、たまたま私は頭の働きがいいので、その中から、うまく情報を捕まえることができるのです。多分、まわりには変わらずいろんな情報があふれていて、それを捕まえる私の状態がいいだけ。私は、そういう経験をよくするので、そういうことは普通にあることだと思っています。

神秘主義(を悪用する人)は、そういった現象を、人智を超えた神秘的なことだとして、こういうまじないをしたらそういうことが起こるだとか、極端に言うと、この壷(むちゃくちゃ高い)を買うと、そういうことが身近に起こる。だとか言うのです。困ったことです。

それはそうと、というわけで、今、私に相談すると、結構、的確にアドバイスできる可能性が高いです(ちょっと、話が長くなりすぎで辟易する場合もあるかもしれませんけど)。公私共に忙しいので、捕まえるのが大変かもしれませんけど。

でも、私も、そのうち不調になるはずです。そのときは、周りの人に迷惑をかけたり、ずいぶん助けてもらわなくてはなりません。よろしくおねがいします。

神秘主義を廃す話2

[2010年02月06日(Sat)]
神秘主義を私は嫌うことについて、私の好きな写真撮影についての具体例で話をしたいと思います。

今朝、きれいな日の出が見れそうな予感(天気予報が晴れだっただけ)がしたので、日の出の写真を撮りにいくことにしました。

自然を扱う写真は、偶然の要素が多いのではないかと思う人も多いかと思いますが、実際には慣れによって、コントロールできる部分がとても多いのです。

今日は、今海岸に来ているカモを前景にした日の出の写真を撮ろうと思っています。今日の日の出の時間を新聞で確認したら7時5分。確認したのが6時45分だったので、これは歩いていく余裕はないな、ということで自動車で出かけることに。

車で海岸に向かう途中に、ちらと見えた海から、今は潮が少し引き気味で、向かっているところは遠浅海岸なので海岸線が広めで動きやすいな、と考えています。

海岸線に到着したときはほぼ7時。もうすぐにでも日が出そうです。海にはカモの群れがいくつかいます。右に移動している群れが写真に使えそうです。

カモは結構早く泳いでいるので、太陽が昇る方向にカモがいてもらうためには、私がカモの移動にあわせて右に移動して行かなくてはなりません。海岸線は途中で切れているので、カモの群れがそこより向こうに移動し切ってしまうと、写真に納めることができません。他の群れを探すか、でも、なんとか間に合いそうです。少し息が切れます。

日が昇ってきました。移動しながら何度かシャッターを切ります。日が昇ってきて写真に納めることができる時間というのは、ほんの1分あるかないかです(日の出の太陽の明るさは刻々と変わるので、露出をカメラ任せにできないため、露出調整もしなくてはなりません)。

というふうにして、今朝撮った写真の一番いいのがこれです。


ある程度、予定通りの写真です。というか、計算できる範囲で撮れる写真が、こんな感じになるのですけど、実際に撮りたい写真は、その先にあるのです。こうやって、経験を積んで、自分でできる範囲のことをやりきった上で、さらに偶然、というのが訪れることがあって、そのときに、少しでも余裕があれば、さらに美しい光景を写真に納めることができるかもしれません。

それは、私にとっては、神秘的なことではなくて、神秘的なことはいつでもどこでも起こっていて(世の中に偶然というのはありふれています)、それを自分が捕まえることができるかどうか、感じることができるか、それだけなのです。

何の努力もせずに、何かのまじないで、自分に奇跡がおとずれたり、誰かの言うことを聞いていたら自分が幸せになったり、そんなことは、ないのです。

神秘主義を廃す話3(補足)

[2010年02月12日(Fri)]
2月5日と6日に、「神秘主義を廃す話」ということで、うまく話がつながる話や、ある程度までの写真は練習によって撮れる話を書きましたが、その補足です。

人によって、興味の持ち方や得意分野が違うので、立てる地平はそれぞれです。でも、それぞれの段階で、うまく新たな地平に立てればやはり、見晴らしが良くなるし、余裕が出てくるので、まわりにやさしくなれる。

そして、確実に言えるのは、そういう、自分では達することのできない地平に立った人の、(その過程も含めた)話は、自分のやろうとしていることのなんらかのヒントになったり、きっかけになったりする。それは、お互い様であったりする。

そのことによって、立てる地平の高さや深さ、つまり厚みが確実に増すように思えるのです。(自分とは違う)他人がいるから自分一人では行くことのできないところに、行くことができる。

そういうのって、実感もしてるんだけど、大切にしていきたい。

神秘主義を廃す話4

[2010年03月01日(Mon)]
小3の娘が好きなYUIという歌うたい。そのシングルCD『GLORIA』を頼まれて買ったのですけど、その3曲目「It’s all too much」がとても素敵です。

私はもともと、結構歌謡曲(歌謡曲って言葉は死語?)が好きなのですけど、この曲はまじめすぎて、ちょっと涙が出そうです。

「涙に隠れた真実を
解き明かそうとするより
根拠もない占いのほうがマシ」

という歌詞は、涙に隠れた真実を解き明かそうとしたことがない人には浮かばない言葉だし、

「サイコロ振るみたいに決めて
後悔なんてできないほど
次の場所へと進んでいたい」

という言葉は、いろんなことで悩んで、逡巡して立ち止まってしまわない限り出てこない。
そして、最後に、出てくる

「だから信じていたいよ
奇跡ってあるでしょ?
ねぇ そうでしょ?」

という問いかけは、真剣にこつこつと課題に取り組む人が、ふとした拍子に神秘主義に陥ってしまうこともあるかもしれない危険性を感じさせながらも、やはり、やるだけのことはやって問題にちゃんと立ち向かっていると、奇跡と呼べる瞬間にめぐり合うことはできる。それは本当は、奇跡なんかじゃないと私は言いたい。


神秘主義を廃す話5

[2010年03月10日(Wed)]
土曜日から兆候はあったのですが、今朝目がさめたら、寝たがい(寝ちがい?)で右の首筋から肩にかけて痛みがあり、起きることができません。

なんとか、自分の手で首を抱えて起き上がったものの、これでは運転もできません。
というわけで、今日はお休みすることにしました。
このところ、ずっと寝不足が続いていたし、休めってことかな。

外は季節はずれのみぞれ混じりの雪。


午前中に、近くの治療院に行って少しだけ楽になったところです。

その治療院での話。生まれて初めて、針治療というものを受けていて、何気に流れてくるラジオを聴いていたら、心地よいピアノの調べ。聞いているうちに、小原孝さんというピアニストがゲスト出演している模様。小原孝さんと言えば、このブログで紹介したことのある尾道の作家、光原百合さんがファンだったよなあ、と思いながら聴いていると、「広島の光原百合さんという方から、小原さんへの質問です」と、ファックスかメールかで光原さんからの質問が読まれていました。

おやおや、寝たがいになって、仕事を休んで治療院に来ていなかったら、聴くことは絶対なかったラジオ番組だったのに。

こういうことって、あるんですよね。不思議といえば不思議だけど、まあ、あることです。小原さんのスタジオでの弾き語りの静かな『マイ・ウエイ』が素敵でした。

積読になっている光原さんの『イオニアの風』を読めってことかな?

でも、パソコンするより、今は安静に寝とけって話でしょう。


神秘主義を排す話6「陰謀説」

[2010年03月11日(Thu)]
古くから「陰謀説」というのがあって、ときどき思い出したようにとりざたされます。一番メジャーなのが、フリーメーソンという組織が影で操っているというもの。

9.11テロの陰謀説が最近話題になっているようです。

私は、陰謀説も神秘主義の一つと分類しています。というのは、陰謀説はなかなか確かめることはできず、結局は、誰か悪いやつに操られているので、私たちにはどうしようもないという流れになって、思考停止になるからです。

9.11テロも、なぜあそこまできれいにツインビルが崩壊したのか?など、確かに怪しい部分がないではありません。しかし、そんなことを詮索しても、多くの人が死んだことは事実ですし、イスラム諸国にアメリカが嫌われていることも変わりません。

不確定なことを詮索するより、アメリカとイスラム諸国のあり方はどうなっていくのか。そのために日本がどういう役割を果たせるのか、そういったことと、私たちの関わりは?と、(いつもは無理にしても、機会を見つけて)私たちができることを考え続けるしかないし、そうすることのほうがずっと大切だと思います。


尾道で句会 報告その4「向島の謎の巨石」

[2012年05月05日(Sat)]
句会を終え、一夜明けると、あとは観光するのみ。2日間とても良い天気に恵まれました。

今回の宿(句会の会場)は、尾道駅からほど近い老舗の「都旅館」。古いものを残しながら、改装して工夫もみられるこじんまりとした宿。

1回の壁には、かわいい小物をディスプレイしてありました。モノトーンで。

12050405旅館の壁面モノトーン.JPG

午前中は、まず、渡船(約5分)で向かいの向島へ。

山頂に巨石がある、今注目の岩屋山へ徒歩で向かいました。のんびり歩いて取付口に付けば、あとは20分くらいで山頂。

そこには、驚きの巨石が。
その巨石が、割れていて、その隙間が、ちょうど夏至や冬至の朝日や夕日の角度と符合しているため、古代の人たちが、そのために巨石を割ったという説もあるらしい。

私たちのメンバーの中では、きっと古代の人たちは、太陽や月の動き(や自然現象一般)に対して、現代の私たちに比べてずっと敏感(農耕などと密接に関係しているため)だったので、そういったことについて考える職人さんのような人たちもいただろうから、太陽の運行などの自然現象と符合するもの(巨石の割れ目のがちょうど冬至の夕日の角度と一緒とか)を見つけやすかっただけなのではないか。そして、そこが信仰の対象となり、そこを中心に建物を建てたり(尾道の千光寺や西国寺や浄土寺は、岩屋山に向けて建てられている)、したのではないかと話したりしました。

それでも、そういったことを考えたり、現地に赴いてそういったことを考えていた昔の人たちのことを想像することは、楽しいことなので、それ自体の価値は失われないと思います。

実際、割れ目の壁面に彫刻が彫られた巨石は、なかなか見ごたえがありました。

巨石とその割れ目から見える向島の街並みをドラマティックトーンで。

12050406謎の巨石ドラマティックトーン.JPG

その後、渡船で尾道に帰り、おいしい昼食をおしゃべりしながらたっぷり時間をかけて食べ、おいしいお茶などのお土産を買って、夕方にお開きとなりました。

どっぷり尾道に浸った2日間でした(ちょっと、楽しすぎ)。

撮影機材:オリンパスOM-D E-M5、LUMIX G 14o/F2.5 ASPH



2月の読むロバの会『ガダラの豚』で考えたこと−呪いについて−

[2017年02月23日(Thu)]
江戸行きの報告はまだ少し続くのですが、昨日ヒマールであった読書会で考えたことについて少し。

課題図書は中島らもさんの『ガダラの豚』。中島さんの本は初めて読んだのですが、とても面白く、3冊もあったのに、前日になんとか読み切りました。

読書会でもいろいろな感想が出てなかなか面白かったです。その中身についてというより、参加者と話しているうちに、思わず、考えがまとまったというか、進んでしまったことについて書いてみたいと思うのです。

私がこの本に感じたのは、すごくリアリティがあるということ。もちろんフィクションであり得ない部分もあるのですが、私たちは日常的にも、お互いに操ったり操られたりします。それは意図してだったり、意図しなかったり(意図しないほが多いかも)。それを少し強調して見せてくれているというという印象なのです。

だから、人を操ることとか、騙すこと、騙されること、恨むこと、呪うこと、祟ることとかについて、あらためて考えさせられました。

この本に出てくる新興宗教やアフリカの呪術師の中にはいい人もいるだろうし、悪い人もいるだろう。それは、もしかしたら、普通の人の場合と割合的には変わらないかもしれない。すごく感受性が豊かで感のいい人というのはいて、そういう能力にたけている人が一般には教祖や呪術師などになるのでしょう。そして、その人自身やそれを補佐する人が知恵者で、ちょっとしたトリックを加えることによってますます信憑性が高くなる。そのあたりから、怪しくなってくるというか、他人を操って誰かが得をするということになってきて困ったことになっていくわけです。

しかし、本来の呪いとかの役割は、もっと素朴なものなんですきっと。日常生活の中で、どうしようもないことというのは起こってしまいます。すぐにいい例が思いつかないので、つまらない例を出しますが、とても急いでいる用事があるときに、その途中でその用事ができなくなるようなケガをしてしまう。いろいろ原因は考えられるでしょう。単純に急いでいたからとか、前の日に吞みすぎてしまったとか、一昨日誰それとけんかしてしまったとか・・・。そういう説明がつく場合もあるだろうし、つかない場合もあるでしょう。しかし、どんな理論的な説明がついたとしても、ケガをしてしまったことや、本来できるはずのことができなかった、という恨みは気持ち(心)の中に残ります。それは気持ちの問題なので、理論的な説明は効きません。そこで、呪術の登場となります。この例の場合にはうまく当てはまらない気もしますが、それが、日ごろから仲の悪い誰それがねたんでいたのでその呪いがケガという形で現れたのだと。だから、それを解決するためには、その誰それの髪の毛をどこかに埋めてしまうことによって呪いが解けるのだと。そして、そういう具体的な行動を提案することによって、心のモヤモヤが少し軽くなるというか、心の持って行き場というか、落としどころが出来ることによって、少しは安心できる。ただ、行動に移すことによって、それをたまたま相手が知ってしまって、今度は相手の心が動揺したりして、そのやりとりが延々続いてしまったりすることもあるかもしれませんが、結局は、関係者の心が落ち着く落としどころを見つけていくことになるのでしょう。

そのやり方が、やはり、その国や地方によって違って、それが文化というものかもしれません(ある程度の共通認識があることによって、その共同体の中でこそ効力がある)。

ちょっと、話が変わってしまいます。

私はかねてから、何度か鑑賞しているものの、能というものがどうも面白そうで気にかかっているのに、理解できない。やたら幽霊とか、怨念とか出てくるし。いつかはわかるようになるのかしらんと、ときどき思い起こしているのですが、ちょっと理解できるようになったかも。

どうしようもない心残りなこととか、心のやり場のない不安とか、そいうったことを、ある程度の知識がある人なら知っている歴史上の事柄をとらえて、それがどうやって解決し(落とし込まれ)ていくかを、音と歌と所作によって最小限に表現し、追体験することによって、昇華していくものなのかも、と。

まったく的外れなのかもしれませんが。

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