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MI ジャーナル

―はたけと芸術を楽しみつつ、仮説を立てながらいろんな人と協働して問題解決を図り、子どもとともによりよい社会を目指していきたい、そんなことを考えている人のヒントになりたい―


キーワードは、農業(はたけ)・仮説実験授業・楽しさ・子ども劇場・芸術文化・冒険遊び場(プレイパーク)・チャイルドライン・協働などなど(ただし、私の中でつながっているだけで、それぞれに直接的な関係があるわけではありませんので、誤解のないようお願いします)


「MI ジャーナル」とは、Micro Intermideate Journal(マイクロ・インターミディエット・ジャーナル)。元のタイトル「農芸楽仮説変革子ども」は私の関心領域のキーワードをつないだだけだったので、2010年3月3日より、私の日々の情報発信という意味で、MI(村夏至)ジャーナルとしたのですが、2014年9月4日から、MIの意味を変えて、小さいながら何かのきっかけや何かと何かをつなぐ内容にしたいという意味の名称にしました(詳しくは、カテゴリー「21MIジャーナル」をご覧ください)。

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半角アンダーバーの謎

[2010年01月06日(Wed)]
前から気になっていたけど、よくパソコン内のフォルダ名やメールアドレスなどの途中に半角のアンダーバー(○_○←丸と丸の間にあるやつです)が時々入っていて、これって何なんだろうと。

今日、たまたま職場のパソコンのサーバ内(職場は、物理的には10キロ以上離れている)でそういう使い方をしていた人がいたので、聞いてみたら、明快な答えが返ってきました。

名称にちょっと区切りをつけたいとき、半角スペースでははっきりしないし、他の記号(ハイフンや中点)だとつながって見えるし、変な記号だとパソコンが受け付けてくれないことがあるのでよく利用するとのこと。

なるほど。

メールアドレスなんかに使うときは、いたずらメールが入らないようにするためとか考えていたんですけど、要は区切りの記号なのですね。私としては、なんであんなマイナーな記号を使うのだろうと思っていたわけですけど。

あらためて考えると、私は、文字には文字枠というものがあってその□(四画の枠)から外れているものは、ちょっと普通じゃないというか、枠から外れているものはその枠内にあるものと何らかのかかわりがあると思っていたのでしょう。

例えば、アンダーラインは上の文字を強調するため、ルビは下の文字の読み方や説明、○乗をあらわす右肩の数字は、そのものを何回か繰り返す記号、てな具合に。だから何も無いものの下にバーがあるというのが不思議(なんじゃこりゃ)だったわけです。

しかし、アンダーバーは、スペースの強調だったのですね。つまり、何も無いこと(ゼロ)の強調。納得。

私の中に、アンダーバーが記号として登録された瞬間です。

人に聞いてみるほど気になっていた疑問ではなかったのですが、ふとしたきっかけで聞いてみると、こういうことがあります。

大げさに言うと、だから、人と話すのって面白い。心のつっかえが取れる感じ。

ちなみに、「半角アンダーバー」でググってみると、「半角アンダーバー」をキーボードでどうやって出すのかという疑問ばかりが引っかかってきて、私の疑問には答えてくれませんでした(わざわざインターネットで調べてみようとも思っていなかったけど)。

本当に知りたいことは、インターネットではわからない、という実例でした。

でも、今度、インターネットで引くと、この記事が出てきます。きっと。

あっ、いかん、また、インターネットを一つ賢くしてしまった。

おっと、実は、このブログが「インターネット補完計画」の一環であることがばれてしまう。

すみません。完全に悪乗りが高じてきましたので、このあたりで。

※注 「インターネット補完計画」については、当ブログのイラストの下にあるバイオグラフィをクリックすると、後半に少しだけ触れられています(←さらに悪乗り)。

コタツ好きのクー(ネチケットねた)

[2010年01月10日(Sun)]
去年から新しく家族の仲間入りをしたクーちゃんは、猫らしくコタツが好きでよくはいるのですけど、なんだか人間みたいに、こんな入り方をすることも多くて、かわいいです。



おっと、クーちゃんの個人情報を流出してしまった。

人のプライバシー保護のことは気にしながら、我が家のもっとも身近な家族のことについて考えていなかったなんて。

まだ、クーちゃんは戸外には出していないのですが、出すようになったとき、
近所の猫から
「おいおい、あの猫見てみなよ。このあいだ人気のブログ(←ウソです)で見た、クーっていうやつだよ。猫のくせして、人間みたいなコタツの入りかたしやがって、おまけに、まだ若いくせに、考えごとでもしてるような表情しやがって、生意気だから、しかとしてやろうぜ」
などと、被害にあった場合、私は責任を逃れることはできないでしょう。

ごめんね、クー。これからは、名前を出さずに、クーちゃんと特定できないような出し方をするから。


ネチケット1(←ネチケットとは、インターネット上のエチケットです)

本人の了承を得ずして、個人が特定できるような情報などを安易にインターネット上に載せないようにしましょう。たとえ、その人のためにと思ってもです。

インターネット補完計画_始動

[2010年01月10日(Sun)]
10件前の記事「半角アンダーバーの謎」の中で、戯れに生み出してしまった言葉、「インターネット補完計画」(アニメ_新世紀エバンゲリオンの「人類補完計画」のパクリです。詳しくは、エバンゲリオンファンに聞いてみてね。ということで、初出2010年1月6日なので、2010年はインターネット補完計画元年ということになります←とにかく悪乗り)。

たまたま生み出した言葉なのですが、これまで自分が思っていたことに、しっくり来る言葉ができてしまったことによって、私の「インターネット補完計画」にスイッチが入ってしまったようです。

私は、その神秘性ゆえに言霊(ことだま)という言葉をあまり好きではありません(神秘主義を私がいやな理由については、また別の機会に譲るとして)。

しかし、人間が言葉でものを考える生き物である以上、その言葉に縛られるというか、言葉で考えているんだけど、その言葉によって、いろいろ触発されたり、勇気付けられたりするのも事実で、特に、その人にとって、その人の琴線に触れる言葉は、その人に大きな影響を与えることは確かなことだと思います。

というわけで、これから、インターネットの不十分性(危険性なども含む)を、そのインターネットの中(には限らないけど)の言葉や活動で、補完することを「インターネット補完計画」と呼びたいのですが、長いので省略形を考えましょう。

ありがちな、英語にして、その頭文字をとるという方法でいくと、Complement Plan for InternetということでCPIということになります。

補完するという意味では、complemetと complementaryの二つがありますが、complementaryは、何かメインがあって、それを補完するという意味のようなので、この場合、補完することが主目的なのでcomplemetがいいのかな?よくわかりません。だれか英語に詳しい人、補完してください。

文例:「この文章って、CPIですよね」
    意味=この文章は、インターネットの不十分性を補完するための計画に沿っていますね。

ここまで、書いてしまうと、もうこの言葉は使わないかもしれませんが、一応今後CPIというと「インターネット補完計画」ということになりますので、あしからず。

「インターネット補完計画」(略称:CPI)に勝算はあるのか

[2010年01月10日(Sun)]
<インターネット補完計画>というと、グーグルなどもある意味では、やろうとしていることなのかもしれません。

グーグルのニュースのページは、完全に自動で作られているという話を聞いたことがあります。インターネットにたくさん流れている情報から、ジャンルに分けて、ニュースを集めて、それを元に自動でニュースページを作成しているのです。

世界の最高レベルの頭脳を持った人たちの集まったチームであるグーグルは、複雑なアルゴリズム(プログラムと言っても言いかと思います)を考え出し、インターネットを補完しようとしているのだと思います。

ニュースページの話で言うと、インターネットからニュースを集め、そのニュースがどういうジャンルに属するものかを仕分け、どの程度確からしいかを確認し、どの程度の重要度を持っているかをランク付けし、レイアウトする。

どのジャンルに属するかは、使われている言葉によって判断するのでしょうか?どの程度確からしいかについては、同じようなニュースとの比較によって?どの程度の重要度かについては、アクセス数から?いずれにしても、その作業を人間を介さずに、コンピュータのみで行うための手順(アルゴリズム)は、きっと想像を絶するものです。

情報の海であるインターネットからだけでなく、グーグルには、その提供するサービスによってタダで、さまざまな情報が集まってきます。その情報を、超絶アルゴリズムによって、解析し、人を介さずに、人が求める情報を、提供できると考えているのではないでしょうか?

私が考える「インターネット補完計画」は、それとは、まったく逆です。

人のために使うインターネットを、人によって、補完していく。

単純に考えると、圧倒的な財力と頭脳とインフラによって進めている<インターネット補完計画>に対して、人がちまちま行う「インターネット補完計画」に勝ち目はありません。

しかし、です。機械は、あくまで機械であるということを忘れてないでしょうか?

機械は、いくらたくさんつなげても、「百匹目のさる」になることはできません。

一方、社会的生物である人間には、「百匹目のさる」になる可能性があるのです。

注:「百匹目のさる」現象は、擬似科学としてすでに否定されているようですが、私の言う「百匹目のさる」は、神秘主義的なものではなく、パラダイムシフトに近い考え方です。詳しくはまた、説明する機会があるかもしれません(←このじらし方も、CPIの一環だったりして)。


『ネットとリアルのあいだ 生きるための情報学』

[2010年01月11日(Mon)]
『ネットとリアルのあいだ 生きるための情報学』(西垣通著、ちくまプリマー新書、2009年12月)


<インターネット補完計画>ではなくて、「インターネット補完計画」に大きな示唆を与えてくれる本。「インターネット補完計画」に多くの人が賛同してもらえるなら、その基本文献に入れたいと思えるほど。ちょっと、かなり荒くなってしまっていますが、私なりのまとめを以下に書いてみます。

著者は、
(前略)自分の「リアル」を内側から少しずつ壊していく非常な無形の圧力が、社会全体を分厚くおおっているのだ。ウツ病は、それが何かのきっかけで表面化したにすぎない。
 だから無形の圧力の正体をあばき出さなくてはいけないのである。(後略)

と、ITによって、私たちの人格が壊されていっているのではないかという現状について分析することからはじめているのですが、単なる批判を展開しているのではなくて、人間の心と身体の問題を、歴史上の西洋での把握の仕方から紐解いて解説してくれているところがユニークです。

「私(自己)」という存在は、大きく、意識的な存在としての「言語的自己」と、半ば無意識的な存在としての「身体的自己」にわけられ、それらが統合されてはじめて、私だけの「リアル」が生まれる。しかし、近代以降「言語的自己」が重要視されるようになり、ITの出現が、それを加速してしまっているのではないか?

言い換えると、「言語的自己」は、人間の一面であるにもかかわらず、そこを強調して人間を単なる「思考機械」としてとられる考え方が、ITの発達と平行して発展してしまい、社会全体を巨大な機械としてとらえ、個々の人間の身体的なリアルを単なる情報処理機械として扱うようになったことが、この無形の圧力になっているのではないか?

そして、話は、(人間だけでなく)生物が生きるということをコンピュータと対比して進められていきます。そこで、生物を最も端的に表現する言葉として、「オートポイエーシス」(自分で自分をつくりあげること)が、そして、そのそれぞれ自立的な特徴を持つ生物が、社会的組織において、活力あるコミュニケーションを行うことによって、周囲状況の激変に柔軟に対応できるようになっている、というのが実態なのではないか、と述べているように感じました。

最後の章は、ヒトの元々の群れのサイズが「約百五十名」という説からはじめ、その直接対面可能なヒトの群れが大きくならざるを得なくなったときに、それでもコミュニケーションを取るために生まれてきたのが、言語の始まり(つまり、挨拶、が言語の原型?)で、そこから、「身体的自己」と「言語的自己」の分化がはじまって、「言語的自己」のみをITが発達させてしまったので、これからのITは、人間の身体性とコミュニティの回復をもたらす方向で発達しなければならないと結論付けているように思いました。

その新しいタイプのコンピュータを、著者は「有機機械」と表現し、そろそろ試作機ができてもいいころだとしています。

私はというと、任天堂のWiiが、人間の身体性を復活させる面を持っているなあと、眺めているわけですが、機械相手に身体を動かすというのがどうもなじめません。何人かでするにしても、みんなは機械に向かっているわけですし。

ある意味、「インターネット補完計画」は、ソフト面の計画で、インターネットが、「人間の身体性とコミュニティの回復」に寄与できるために何をすればいいのか、いい意味で、インターネットが集合知を生み出せるために、できることは何か。といったことがテーマになっていると思います。

インターネットのすごさ

[2010年01月12日(Tue)]
『ネットとリアルのあいだ』という本を何記事か前に紹介しました。

けっこう感銘を受けた本なので、著者に直接挨拶をしたいなあと思って、インターネットで検索(大学の先生であれば、たいがい大学のホームページに研究室のサイトがあって、メールアドレスがあります)して、本に感銘を受けたこと、ブログで紹介させていただいたので、もし、誤解を受けるような表現があれば修正させていただきたいことなどを書いて送りました。

そうすると、祝日であったにもかかわらず、丁寧な返事がきました。それで、どうというわけではないのですけど、私の経験からすると、よほどマスコミなどに出ていていろんなところから連絡がありそうな人以外であれば、返事をいただけます。

直接連絡が取れると感動するし、より本の印象も強まるし、新しい考えが生まれることもあります。

そういう意味では、インターネットによって、世界中の人とすぐにでもつながれる可能性があるというのはすごいことだと思います。

そういうことを、プラスの方向にいかに生かせるかというのもCPI(インターネット補完計画)の課題です。

インターネット上でコミュニケーションをとるときのマイルール

[2010年01月12日(Tue)]
前の記事で、結果として、本の著者などにメールで挨拶することを勧めてしまっている(CPIの狙いではあります)ので、インターネットでコミュニケーションをとるときの私なりの基本ルールを説明しておきます。

1 ホームページやブログなどでは、匿名が基本
 有名人やそれなりの覚悟をしている人は別にして、想定できない危険を回避するために、身近な人などわかる人にはわかるけど、不特定多数の人にはわからない程度の匿名性は確保する(私のブログも、その線でいっています)

2 本の著者などに直接メールをする場合は、本名などをちゃんと明記するのが基本
 本の著者などの場合は、こちらは著作やプロフィールなどでその人のことを知っているわけだから、こちらも氏名、住所、職業など個人情報をある程度お知らせして、伝えたい用件(どういうところに感銘を受けたかなど)を簡潔に伝える(突然メールをすることをお断りしながら)。

ただし、本当に、本人のメールであるかわからない場合は気をつけたほうがいいかもしれません。大学のホームページから行き着く場合などは、ある程度安心できると思います。

これは、ある意味通常の社会的通年どおりだとは思いますけど、あえて書かせてもらいました。

相手が、失礼だと感じたときは、返事が帰ってこないとしても仕方ないことだと思いますから。
(「名乗りもせずに、いきなりよくわからないメールを送ってきて、誰なんだろう、ちょっと不安だから無視しよう」と相手が選択する可能性もあるわけですし、その他の事情でメールを返信できない場合だってあります)
自分のメールの内容を無視して、「あの人有名だけど、メールしてもぜんぜん返してくれないひどい人だよ」などとインターネット上で流すなどはもってのほかです。

SHAPE OF MY HEART

[2010年01月12日(Tue)]
イギリスの歌手、スティングが好きです。

いい曲が多い中、CPIがらみで、思い出した曲「SHAPE OF MY HEART」を紹介します。

トランプを扱う男(自分)が主人公の歌です。ラブソングの体裁をとっていますけど、私には、人の生き方として響いてくるものがあります(いろんな選択肢を知った上で、あえてこちらを選択するんだという感じ)。

特にさびの部分がかっこいい。

I know that the spades are swords of a soldier
I know that the clubs are weapons of war
I know that diamonds mean money for this art
But that’s not the shape of my heat


往年(失礼!)のフォークシンガー中川五郎さんの訳では、

わかっているよ
スペードは兵士の剣で
クラブは戦争の兵器だということを
この世界ではダイヤがお金だということもね
でもぼくのハートのかたちとは違うんだ


となっていますが、ちょっと私の感じているものと違うので村夏至訳に挑戦してみますと、

トランプの世界では
スペードが兵隊の剣をあらわし
クラブが戦争の兵器だってことも
ダイアがお金を意味することも知ってるよ
だけど、それってぼくのハートにはひびかないんだ


あんまり変わらないか。

「ハート」がトランプの「ハート」と心と、を意味する「ハート」とかぶっているのが、日本語訳にすると説明しにくいような気がします。それと、これはさびの部分だけなので、さらにわかりにくいので、興味のある人は、スティングのアルバム『テン・サマナーズ・テイルズ』(1993年)を聴いてみてください(全部出すと、著作権上問題になると思われますし)。

この歌が、私の物事に対するスタンスに共鳴するのは、具体的にどういうことかというと、

例えば、CPI において、グーグル的な、補完方法と、私がやろうとしているアナログな方法があって(たぶん他にもアプローチの方法があるのでしょう)、グーグル的な方法に乗っかるとすれば、これから、猛烈にパソコンのプログラムやハードのことを勉強して、グーグルという天才チームが生み出すアルゴリズムを超えるアルゴリズムによって、インターネットを補完するという方法も考えられるでしょう。単純に言うと、グーグルがインターネットから集めてくる情報の中に、プログラムを潜めておいて、情報処理を狂わすとか(これは、営業妨害ということになってちょっと問題になると思われます)になりますけど、そうでなくても、インターネットを利用する人が、自分の身体性に気づきやすいような操作方法(ユーザーインターフェイス)を考える(今のマックやiPhoneのユーザーインターフェイスは、まだまだ、脳だけを楽しませてくれるにとどまっていると思います)とか、アナログ感を損なわずに、インターネットを介してコミュニティができたりコミュニケーションが取れるようなプログラムを考えるとかいったことです。「目には目を」的な方法があるのは知ってるけど、それっていたちごっこでお互いに消耗するだけではないの?もっと、他に方法があるのじゃないの?ということ。

私はそういう方法で補完したいのじゃない(もちろん、私は天才コンピュータプログラマーじゃないし、いくら努力してもできないんですけどね)。あくまで、アナログな方法で、補完できないのか。

インターネットと人間が、いかに共存できるのかを考えたいのです(答えは、このブログの中で明らかになるかもしれません。もちろん、まだ答えは私にもわかりません)。

グーグルのアルゴリズムを知る方法(思考実験)

[2010年01月13日(Wed)]
グーグルの超絶アルゴリズムについて、そのプログラム内容について知ることはすぐには無理です(有能なハッカーなら可能?)が、実際にどういう操作をしているかについては、ある程度知ることはできます(たまたま、ちょっと知る機会があっただけですけどね)。

1月6日に「インターネット補完計画」という造語をブログに掲載しました。そこでためしに、グーグルで「インターネット補完計画」で検索してみると、1月6日の記事が出てくるかと思ったら、最初のうちは出てこずに、しばらくしてから、1番目に登場するようになりました。ということは、掲載しただけでは検索結果に反映されないということです。多分、アクセスがある程度の件数にならないと、ダメだということになります(詳しく見ていけば、何件のアクセスで検索結果に反映されるかわかるかもしれません)。もちろん、記事内にその言葉が何回使われているかということも関係してくるでしょう。

ということは、新しい言葉を作って、検索にどのように反映されるかを実験してみれば、どのように検索をしているかがわかるはずです。記事の件数や言葉の使用回数をいろいろ変えて、インターネット上に掲載したり、削除したりしてみると単純な検索についてはある程度の仕組みはわかるでしょう。どこまで、検索の仕組みを知ることができるかを競うゲームを友達同士でやっても面白いかもしれません。グーグルは、基本的に自動的にやっているはずなので、そういう実験をしても、だれかの負担になるということはないはずですから。

ただ、本当は、個人が検索している結果をどう生かして、どう広告を打つかというのがというのが知りたいところですよね。それに関しても、例えば、カメラ関係の検索をして、ホームページを見て、どれをどれくらい見るとiGoogleにカメラの広告が出てくるかを調べる実験をしてみると、面白いかも。インターネット経由で、関係の品物を買うと広告が出やすいかどうか試してみると面白いのですが、それにはお金がかかるので大変です(注文して、すぐキャンセルするというような姑息な手は使わないほうがいいでしょう)。この場合、自分がまったく興味の無い分野のほうが実験としては取り組みやすいでしょう。もともと自分が興味のある分野だと、すでに検索をしているでしょうから、純粋に実験をすることができません。どの程度までの物品や文章を検索したら、その人がカメラ関係に興味あり、と機械に判断させるかは、なかなか興味深いテーマです。検索物品によって、重要度の係数をかけたりしているかもしれません。カメラで考えると、カメラ本体を1としたら、三脚を0.5とするとか。思考ゲームとしては、楽しいですけど、それを本当にやってしまっているグーグルさんって、いけずなんだから(←つい、大阪弁がでてしまう)。

「インターネット補完計画」実践講座

[2010年01月13日(Wed)]
ハイパーリンクをあまり多用しない

ときどき、やたら、ハイパーリンクというものを多用した文書というものをインターネット上で見ます。これはやめたほうがいいと思います。使うこと自体は悪くないのですけど、スポット的に肝心なところだけ使うとかにしたほうがいい。

というのも、何か調べものをしたりしているときに(それはインターネットに限らない)、その調べている単純作業の時間というものが大切だと思うから。たどり着けない間の単純作業の時間に、考え事をしていて考えが進んだり、たどり着けないもどかしさが、思いを強くしたりするわけで、実は、そういう時間は脳に必要な大切な時間だと思うからです。

一方ハイパーリンクを多用すると、何が起こるかというと、どんどん次に行ってしまうので、自分が何を調べているのかわからなくなったり、次に行くことが目的になってしまったりして、後に何も残らない、というか、これまで、調べものをしていたときに、意味を持っていた、たどり着くまでの時間というものが、自分の脳を使う暇がなくなって何かを考える時間でなくなってしまうので、無駄な時間に成り下がってしまうのです。

でもハイパーリンクのその浮遊感自体は、それはそれで面白いもので、別の体験として遊ぶことはできます。例えば、ハイパーリンクが多用されている文章の典型例としてウィキペディアというインターネット上のフリー百科事典があります。それを利用して、ある単語からスタートして、ハイパーリンクを活用していかに早く、エレガントにもとの単語に帰ってこれるかというゲームをしてみるのも楽しいかもしれません(今、思いついたゲームなので、やったことはありません)。

気分転換には、いいかもしれません(断っておきますけど、ウィキペディアというプロジェクト自体は、インターネットらしい興味深い取り組みであると思います)。

ということで、ハイパーリンクをあまり使わずに、答えを小出しにした、文章というのは「インターネット補完計画」には重要な要素かもしれません。

しかし、今の私のブログのように、やたらと記事を書いていて、最新記事から順に読める順番になっていると、答えを先に知ってしまって、問題を読むという感じになってうまくありません。

かと言って、古い順から並べると、新しい記事にたどりつくのは大変です。

というわけで、ブログは、「インターネット補完計画」に適さない媒体ということになるか、記事の並びを最適化する方法を考えるかという問題に行き着きます。

もともと、ブログというのは、日記をホームページにできる簡易ホームページ的なものなのでおのずと限界があるのですから仕方はありません。しかし、今思いついたことを書き連ねることができるという魅力は捨てがたい。

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