俳句、短歌、自由詩、散文―表現するということ
自分を表現することは難しい。というか一般的には、年を経るにつれて、いらない知識や経験が積み重なって、自分を表現することを妨げているような気がする。
大げさに書けば、日本社会では、自分を表現することを歓迎しない雰囲気があって、そんな中で大人になっていくと、意識せずに、自分をあまり表現しなくなってしまうように思う(だから、いざ表現しようとしてもできない)。
前の記事で、「句会」のススメを書いたものの、実際には、「句会」を呼びかけても、たくさんの参加があるわけではない。
やっぱり、大人になって、自分の気持ちを表現するのは、一般には単純に恥ずかしいことだと思う(本人が意識するほど、他の人はその表現によってのみでその人を判断したりしていないし、だいたいそれほど気に留めたりしないんだけど)。
私自身で考えても、うまく表現できる時と、まったく表現できない時がある。
しかし、表現してみて、それについて他人から批判されたり、共感されたり、やりとりすると、自分がふと軽くなったり(逆に重くなることも)。
またまた、大げさに書くと、人はお互い補完し合うようにできているので、自分を表現する趣味のようなものは持っていたほうがいいように思う。それこそ表現の仕方は、人それぞれでいい。自分が関心があることを追い求めれば、自然と自分なりの表現方法というものが身に付くと思う。
表現というものがあって、私たちはお互いにコミュニケーションをとることができて、補完し合うことできるのだと思うので。
ここで、前回記事にした「句会」の時に話題になったことを、俳句を趣味としているメンバーに言わせると、俳句→短歌→自由詩→散文の順に自分の露出度が上がっていくので、自分は、俳句の煮詰まり具合がちょうどいい。着物で言うと、だんだん裸になっていくようで、散文などとても書けない。
で、それと関連するようだけど、あの震災ののち、俳人として有名だった人が短歌の句集を出して、話題になったそうです。「なぜ、俳人が短歌を書いたのか」と。
でも、その当時は、思いがあふれすぎて、俳句で収まりきらずに、短歌になったのではかいかと言われているらしいです。その後、その思いがだんだん凝縮して、俳句を書けるようになったとも。
ただ、表現には、「表現しない(できない)」という表現もあって、
私がいつも対照的なカメラマンとして引き合いに出す、時代の雰囲気を敏感に映し出す篠山紀信さんと、被写体との関係性をきっちり写し込むアラーキーこと荒木経惟さん。
今回の震災について、いち早く写真集を出した篠山さんに対して、被災地は訪れたものの写真は撮れないと言った荒木さん(撮ってはいけないという意味ではなくてその時、荒木さんには撮れなかったのだと思う)。
やはり、私は荒木さんが好きです。
大げさに書けば、日本社会では、自分を表現することを歓迎しない雰囲気があって、そんな中で大人になっていくと、意識せずに、自分をあまり表現しなくなってしまうように思う(だから、いざ表現しようとしてもできない)。
前の記事で、「句会」のススメを書いたものの、実際には、「句会」を呼びかけても、たくさんの参加があるわけではない。
やっぱり、大人になって、自分の気持ちを表現するのは、一般には単純に恥ずかしいことだと思う(本人が意識するほど、他の人はその表現によってのみでその人を判断したりしていないし、だいたいそれほど気に留めたりしないんだけど)。
私自身で考えても、うまく表現できる時と、まったく表現できない時がある。
しかし、表現してみて、それについて他人から批判されたり、共感されたり、やりとりすると、自分がふと軽くなったり(逆に重くなることも)。
またまた、大げさに書くと、人はお互い補完し合うようにできているので、自分を表現する趣味のようなものは持っていたほうがいいように思う。それこそ表現の仕方は、人それぞれでいい。自分が関心があることを追い求めれば、自然と自分なりの表現方法というものが身に付くと思う。
表現というものがあって、私たちはお互いにコミュニケーションをとることができて、補完し合うことできるのだと思うので。
ここで、前回記事にした「句会」の時に話題になったことを、俳句を趣味としているメンバーに言わせると、俳句→短歌→自由詩→散文の順に自分の露出度が上がっていくので、自分は、俳句の煮詰まり具合がちょうどいい。着物で言うと、だんだん裸になっていくようで、散文などとても書けない。
で、それと関連するようだけど、あの震災ののち、俳人として有名だった人が短歌の句集を出して、話題になったそうです。「なぜ、俳人が短歌を書いたのか」と。
でも、その当時は、思いがあふれすぎて、俳句で収まりきらずに、短歌になったのではかいかと言われているらしいです。その後、その思いがだんだん凝縮して、俳句を書けるようになったとも。
ただ、表現には、「表現しない(できない)」という表現もあって、
私がいつも対照的なカメラマンとして引き合いに出す、時代の雰囲気を敏感に映し出す篠山紀信さんと、被写体との関係性をきっちり写し込むアラーキーこと荒木経惟さん。
今回の震災について、いち早く写真集を出した篠山さんに対して、被災地は訪れたものの写真は撮れないと言った荒木さん(撮ってはいけないという意味ではなくてその時、荒木さんには撮れなかったのだと思う)。
やはり、私は荒木さんが好きです。