知り合いの先生から聞いた話です。
その先生は、子どもへの接し方が素晴しく、かねがねすごいなと思っていたのですが、今回の話もすごいというか、こうやって子どもたちに接する人が増えてくれれば、今度チャイルドライン岩国ステーションで開催する講演会(7月1日に開催します。詳しくは、2012年5月17日の記事「チャイルドライン岩国ステーション・・・」をご覧ください)なども必要ないのですけど・・・。
ちゃんと実践している人はしているけど、できていない人に気付いてもらうのはなかなか難しいですね。
前置きが長くなってしまいました。
その先生は、もともとは特別学級担当ではなくて、普通の小学校の先生で、現在は、たまたま発達障がいの子どもの担任をしています。
いわゆる間違ったことや、規則に従わないことをやってしまって、先生におこられて、パニックになって大変な状況になってしまう子なのだそうですが、最近、「先生、僕はね、家ではちゃんと歯磨きができないんよ。家には砂時計がないから、どれくらいすればいいのかわかないので、ちゃちゃっとすませてしまうから、歯が汚いんよ」などと、自分のことを説明してくれるようになったそうです。
学校には、歯磨きをするところに砂時計が置いてあって、それで3分計るので、その時間歯を磨けばいいというのがわかるけど、家にはないので、どれくらいの時間磨けばいいのかわからないのだそうです。
普通の先生は、例えば、学校に砂時計がないとして、その子が少しの時間しか磨かなかったら、理由も聞かずに、「3分間くらい磨いてっていつも言っているのに、どうして少ししか磨けないの!」などと怒って、その子をパニックに陥れるだけで、関係を悪化させるだけなのでしょう。さらに強烈な先生の場合は、その子にとっては、恐ろしい存在なので、その先生の前でだけは、おとなしくうつむいて、何もしないだけでいたりするような場合があるようです。
ところが、知り合いの先生は、自分が気付かない理由でその子がパニックになっても、とりあえずそのパニック状態を、いい合いにもなったりしながらじっくり過ごして、最終的にはお互いに「ごめんなさい」などといってやり過ごしたあと、やはり理由がわからないときもあるけど、あとで理由らしいものに気付いたときに、「○○だったのかなあ」などとその子に言うようにしているそうです。その子は、とりあえずそういわれても、少し前の過去のことなので、聞き流すだけで、そうだとも違うとも言わなかったりするらしいのですが、きっと、言われたことが心に残っているのではないかと思うのです。そして、自分の気持ちを少しずつ、表現できるようになってきているのではないかという気がします。その先生の話しを時々聞くと、全然しゃべらなかったその子が、だんだん自分のことを話すようになっていく様子がうかがえて、すごいなあ、と思います。自分のことをなかなか表現できない子どものことを、本当の意味で聴けているのだと思うのです。
同時に、もしかしたら、それはいわゆる普通の子に対しても、そうではないのか、と思ったりします。規則に従わないとか、言うことを聞かないとか、表面的には、ただのわがままだと思っても、それぞれの子にはそれなりの理由があったりして、それが、私たちに伝わっていない、聴く努力をしていないだけなのではないか、と。
障がい者の話にもどすと、障がいはそれぞれで一般的に言ってしまわないように気をつけないといけないのですが、例えば、あいまいな言葉では、まったく理解できない人がいたりします。「そのあたりに並んで」といわれても、そこを実際に指し示さないとわからないとか。
そして、ちゃんと指示したのにその指示に従わないということで、ひどく怒られたりして、パニックに陥ったりする、ということがよくあるそうです。普通の先生にとっては、ちゃんと言ったのに、理解もできているはずなのに、なぜ言うことが聞けないのか、ということで、他の生徒の手前、ひどく怒ってしまったりして、ますます関係を悪化させたり、ますます閉じこもらせたりしてしまう。
ただ、そういうのって程度の差で、私も、自分の苦手な分野では、よく聞き返して「そんなわかりきったことを聞かないで」と怒られることがあったりします。私としては本当にわからないので聞いているのですが、聞かれた人にとっては、それくらいあたりをつけて考えればすぐわかることで、あえて聞くということは、自分に何か悪意があるのでは、と思ってしまうそうなのです。
こういうのって、多様な価値観が増えている中で、共通理解や共通の基盤というものが崩れてきている昨今、お互いに理解するにはどうしたいいのか、できるだけあいまいな表現は避けて、明確に話すようにする、とか、一般的にも役に立つ(「役に立つ」という言い方には少し違和感がありますが)ことだとは思います。
阿吽(あうん)の呼吸というのも一方ではあって、そういうのができる世界は、それはそれで大切にしたいものではあるので、何でもかんでもというわけではありません。